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      第一章   鎌倉仏教界の全般的特徴

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記念講演 東国鎌倉の密教(平)

     第六十三回智山教学大会記念講演                    序章   問題の所在

  東国鎌倉の密教というテーマについて、最初にその課題と研究の意義を述べておきます。このテーマには二つの課題があります。第一は鎌倉における、東密・台密を含めた密教の展開史を明らかにすることです。残念ながら現状では、その歴史展開の基本線が見えていません。もちろん、個別には貴重な先行研究があります。東密では櫛田良洪先生をはじめ重厚なお仕事がありますし、鶴岡八幡宮や走湯山密厳院などにも一定の研究蓄積があります。このようにすぐれた個別研究はいくつもありますが、東密と山門派・寺門派を含めた東国密教の全体像と、その歴史的変遷ということになると十全とは言えません。私はここ三〇年近くこの研究に取り組んできて、次第にそのアウトラインが見えてきたように思います。まだ、十分なものではありませんが、東国鎌倉において密教の諸潮流がどのような盛衰をたどっていったのか、その全体的な流れをお話ししたいと思います。

  第二は、東国密教の展開史を中世仏教全体のなかに位置づけ、捉え直すことです。その際、重要なのは、京都と東国の仏教界の有機的なつながりです。少なくとも鎌倉時代においては、東国仏教の世界は、京都の仏教界と密接に関わっています。しかもその有機的な連関は、朝廷や幕府の政策とも連動している。朝廷と鎌倉幕府、そして京都と鎌倉の仏教界、この四要素が複雑に絡みあいながら、歴史が展開してゆきます。それだけに、この四要素がどのように構造的に絡みあっているのか、それを解きほぐしながら、東国密教の展開史を、中世仏教の全体的な流れの中に位置づけてゆく

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必要があります。

  この二つが課題と考えますが、このテーマには大きな研究史的意義があります。地味でマニアックな研究のようにみえますが、決してそうではありません。ここでは四つの視角から、これを研究する意義に触れておきます。

  第一にこれは、中世仏教史研究の最先端の課題と関わっています。国家の規定性と地域の自立性という二つのベクトルを、どう総括しながら仏教史叙述を行うか、という課題です。これには少し説明が必要です。かつて中世仏教史は、鎌倉新仏教史観で覆われていました。新仏教史観にはいろんな要素がありますが、ポイントは中世の旧仏教を古代仏教と捉える点です。これは中世の朝廷や貴族・寺社を、古代の残滓と位置づけていたことと連動しています。ところが日本中世史の世界で、「中世=武士の時代」とする歴史像が破綻し、その影響が仏教史研究にも及びました。

  日本の歴史は一〇世紀に重大な画期を迎えます。律令体制の崩壊です。古代仏教の在り方は律令体制と密接な関係にありましたので、律令体制が崩壊すれば古代仏教は否応なく変質を迫られます。つまり一〇世紀における律令体制の崩壊が、中世仏教化の歴史的起点となったのです。鎌倉新仏教史観は、律令体制が崩壊した歴史的意義を軽視している、と言わざるを得ません。朝廷や貴族・寺社が中世でも古代的だというのは、律令体制の崩壊とその影響を無視した議論です。現実には古代仏教は多大な犠牲を払いながら、中世化への自己変革を積み重ねたのです。

  こうして一九七五年、黒田俊雄氏が顕密体制論を提起しました。中世仏教の基軸は民衆仏教ではなく、顕密仏教であり、国家仏教ということになりました。となれば、それを支えた朝廷や幕府の宗教政策が明らかにされないといけない。ということで、宗教政策研究が一気に開花します。

  これまでは中世仏教=民衆仏教と考えられており、中世宗教史における国家的モーメントは無視されてきました。そのため、顕密体制論が率先してその解明に向かったのは当然のことです。こうして中世仏教の制度的枠組みや、一〇世紀から一五世紀前半までの宗教政策の展開史がほぼ明らかになってきた。とはいえ、仏教史は国家的モーメントだけで描ける訳ではありません。

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記念講演 東国鎌倉の密教(平)

  一般に日本中世の政治権力は脆弱です。中央権力の力が弱くて法の実効性が低く、地域社会の自立性が大です。つまり、国家の規定性の弱いところが中世という時代の特質なのです。ただし規定性が弱いといっても、それはあくまで他の時代との比較の問題ですし、地域や時期による偏差もあります。絶対的なものでないにしても、国家の規定性は確実に働いている。無視することはできません。とすれば、国家的モーメントと、地域社会の自立性をどう勘案しながら、仏教史を描いてゆくのかがポイントとなってきます。

  いまや中世仏教史研究は新たな段階に入ろうとしている。中世国家の制度的・政治的規定性を解明すれば済んだ段階から、地域の自立性を踏まえた総合的な叙述を模索する段階に入りつつあります。そして、東国鎌倉の密教という研究テーマは、この問題と深く関わっているのです。

  第二は、佐々木馨氏の黒田批判です。黒田俊雄氏は公家・武家・寺家が協力しながら、中世の支配体制を構成していたと考えました。いわゆる権門体制論です。そのため、鎌倉幕府も基本的に顕密体制に立脚しそれを擁護した、と黒田さんは捉えました。それに対し佐々木さんは、顕密体制は西国の宗教秩序であって、東国では幕府を中心に別の宗教秩序が構築された、と主張します。この考えは東国国家独立論と通じるところがあり、かなり注目を集めました。では、東と西で何が違うのか。佐々木さんによれば、ポイントは幕府の反延暦寺政策です。東国と西国の宗教秩序の相違点として、佐々木さんは山門派の排除をあげています。「幕府と延暦寺との決定的反目」「一触即発の危機状況」というように、鎌倉幕府と延暦寺との対立を過剰に強調するところに佐々木説の特徴があります。

  私は佐々木さんの見解に賛成できませんが、顕密体制論の弱点を剔抉したことは率直に評価すべきです。一般に本末関係や僧位僧官制・国家的受戒制などが顕密体制を全国的なものにさせたと思いますが、鎌倉幕府が成立した以上、東国仏教についてはそうした一般論では不十分です。そもそも、顕密体制論は畿内近国をもとに構想されていて、東国仏教界を十分視野に入れていません。その欠陥を佐々木さんが突いた。これはたいへん意義深い批判です。となれば、佐々木説に反駁するだけでは話は収まりません。京都を中心とする顕密体制と、東国仏教界との構造的連関を新たな実証水

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準で明らかにすることが必要です。これができなければ顕密体制論に未来はありません。しかもこれは中世国家論にもかかわる重要問題です。鎌倉時代は朝廷を中心とする一つの国家の時代であったのか、それとも鎌倉幕府は朝廷とは独立した別個の国家であったのか、東国仏教の問題は中世国家論とも関わっています。

  鎌倉幕府は東国に対する大幅な自治権をもちながら、全体としては京都を中心とする王朝国家の政治秩序に包摂されていた、私はそのように考えています(もちろん、幕府は朝廷の意思決定に構造的に関わっており、承久の乱後、朝廷における幕府の発言力が巨大化していったのは、言うまでもありません)。とすれば、東国仏教についても同じことが言えるはずです。東国仏教界には一定の自立性がありますが、全体としては顕密体制に包摂されているのです。東国仏教界の自立性と、京都との有機的関係、この二つの側面を具体化することは、佐々木馨氏の批判に応える意味においても重要となってきます。

  第三は武士=禅宗観の是正です。鎌倉幕府や武士の宗教というと禅宗と考えがちですが、これは完全な間違いです。鎌倉幕府が依拠した仏教の中核は顕密仏教です。源頼朝が建てた寺が三つあります。鶴岡八幡宮寺と勝長寿院と永福寺です。これらはいずれも顕密寺院であり、鎌倉の顕密仏教界はこの三ケ寺を中心に運営されました。また、将軍実朝は大慈寺を創建し、将軍九条頼経は明王院を建てました。これら五つの将軍御願寺はすべて顕密寺院です。ところが、いま鎌倉を訪れると、鶴岡八幡宮は神仏分離によって仏教的要素が消し去られ、勝長寿院・永福寺・大慈寺は存在していません。明王院がひっそり残っているだけです。建長寺・円覚寺など禅宗寺院の偉容に比べると、鎌倉仏教界を支えた顕密寺院は今や見る影もありません。そのため、どうしても禅宗のイメージになりがちです。

  そこで私は、北条氏でプロの僧侶になった人物を調査してみました。それが【表1】です。北条氏出身の僧侶を六〇名検出しましたが、そのうち五二名は顕密系の僧侶です。禅僧は四名だけで、ほぼ九割が顕密僧です。また、足利氏や宇都宮氏、また近江の佐々木氏といった有力御家人も、子弟から多くの顕密僧を出しています。鎌倉幕府は一時期、禅宗保護に傾きましたが、鎌倉時代全体を通じていうと、幕府を支えた仏教の中心は顕密仏教であり、密教でした。

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記念講演 東国鎌倉の密教(平)

  厄介なことに、鎌倉新仏教史観がこの問題にも関わっています。新仏教史観は旧仏教を古代の残滓と捉えていました。そのため、中世的権力である鎌倉幕府が鎌倉に、古代仏教(旧仏教)を積極的に移入・保護したことが、うまく説明できません。だから、無視した。山川出版社の高校日本史の教科書『詳説日本史B』の鎌倉の地図(九七頁)をみますと、鎌倉五山というマニアックなものが特筆される一方、勝長寿院・永福寺・大慈寺・明王院の記載がありません。新仏教史観では、鎌倉における顕密寺院の隆盛は説明がむずかしい。だから、カットしたのでしょう。

  東国鎌倉の密教の研究が遅れているのは、鎌倉新仏教史観がその解明を妨げてきたことに一因があります。話をややこしくする余計な研究、というわけです。逆にいえば、この研究は鎌倉新仏教史観の破綻を顕在化させ、その息の根を止めるものでもあります。東国密教の世界には、無視することのできない程の厚みと深みと広がりがあった。その事実を突きつけないといけません。そして、それをスルーして鎌倉の仏教を語ることが、どんなに恥ずかしいことなのかを周知させる必要があります。

  第四は、鎌倉幕府の宗教政策の時期的変化の問題です。私の見るところ、鎌倉幕府の宗教政策は二度大きく転換しています。このことを無視した雑ぱくな議論をいくら繰り返しても、研究は前に進みません。鎌倉幕府が禅宗に力を注いだ時代はもちろんあったし、延暦寺敵視を鮮明にした時期もあります。でも、そうでない時代も非常に多い。時期的変化を踏まえた丁

宗派と人数 北条氏出身の僧侶の名

東密 16 名 山門 8 名 寺門 24 名

顕密僧 4 名 禅僧 4 名 律僧 1 名 不明 3 名

頼助、政助、時厳、禅秀、長助、時宝、厳斉、時助、親雅、顕宝、顕助、

貞助、有助、宣瑜、宣覚、親海

頼覚、貞源、忠源、玄盛、忠源、忠禅、房快、忠源

隆政、覚久、公義、泰瑜、公朝、公恵、実助、春助、定助、朝宗、円朝、

弁基、長弁、顕弁、道顕、顕恵、顕瑜、頼任、時朝、盛朝、房朝、乗清、

実位、貞昭

煕助、公有、房忠、朝源

かう首座、密林志稠、無象静照、祖光  隆禅勝観、僧、僧

(注)「僧」は名前が不明。個々の僧の詳細は拙稿「鎌倉山門派の成立と展開」(『大阪大学大学 院文学研究科紀要』40、2000 年)を参照。ただし本表にはそれ以後の補訂も反映されている。

【表1】 北条氏出身の僧侶と宗派

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寧な議論が不可欠です。そのためには鎌倉幕府の宗教政策がいつ、どのように変化したのかを、実証的に解明しないといけません。

  でも、その研究は非常にむずかしい。史料的制約が大きいからです。幕府研究の根本史料は『吾妻鏡』です。一一八〇年から一二六六年までの出来事が記載されています。鎌倉幕府は一三三三年まで続きますので、『吾妻鏡』がカバーしているのは鎌倉時代の六割ぐらいです。残りの四割ほどは史料が欠けている。これでは宗教政策の通時的変化を明らかにすることはできません。鎌倉時代すべてを通観できる指標がなければ、変化を測定することは不可能です。とはいえ、そもそもこの研究は鎌倉新仏教史観を克服するものであり、顕密体制論を深化させるものであり、且つまた東国国家独立論の有効性をも占う重要テーマです。泣き言をいわず、史料的制約を突破する手立てを考えないといけない。

  そこで私は幕府僧に着目しました。鎌倉幕府と主従関係を結んだ武士を御家人と呼んでいますが、同じように、鎌倉幕府と主従関係を結んだ僧侶もたくさんいます。私は彼らを「幕府僧」と概念化しました。ところで鎌倉幕府論では、御家人の研究が幕府論を深化させています。そこで、幕府僧の研究によって東国仏教の実態を解明し、それを通じて鎌倉幕府論を深化させようと考えました。幕府僧一人ひとりの事績を丹念に追いかけることによって史料的制約を突破し、鎌倉幕府の宗教政策の変化を明らかにすることができないか、と考えたわけです。

  正直いって、この作業は大変です。鎌倉時代に鎌倉で活躍した主な顕密僧だけで四〇〇名ほどいます。ほとんどが密教僧です。つまり東国鎌倉の密教僧の動向は、幕府の宗教政策の時期的変化の解明と直結しています。現在のところ三二〇名ぐらいまで研究を終えましたが、東密の世界は史料が多くて、なかなか前に進めません。私の研究者生命がいつまでもつのか、心細くも思いますが、ともかく前に進むしかありません。今日の話は中間報告でしかありませんが、ここ三〇年近く続けてきた研究成果の一端をお聞きいただければと思います。

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記念講演 東国鎌倉の密教(平)

      第一章   鎌倉仏教界の全般的特徴

第一節  山門派は排除されたか?

  最初にまず、鎌倉仏教界の全般的特徴を確認しておきましょう。本稿でいう「鎌倉仏教界」は、鎌倉を中心とする東国仏教界の意味で使用します。鎌倉時代の仏教界の意ではありません。この点、ご留意ください。ここでは三つのことを取り上げます。第一は鎌倉幕府が山門派を排除したのか、第二は鎌倉仏教界が自立していたのか、第三は幕府の宗教政策の変化の概要です。

  まず第一の問題から。佐々木馨氏は、東国鎌倉で反延暦寺政策が一貫して採られたと主張されます。それを示す象徴的事例として、鶴岡八幡宮別当に着目しました。鶴岡別当は鎌倉時代に一七名います。内訳は寺門が一〇人、東密が七人、山門がゼロです。鶴岡八幡宮別当は鎌倉仏教界の長です。それが寺門と東密で占められていて、山門派がいない。「なるほど」と、佐々木さんに賛成してしまいそうになります。でも、視野をもう少し広げてみましょう。

  ①頼朝の御願寺である鶴岡八幡宮寺・勝長寿院・永福寺の三ケ寺が、鎌倉における顕密仏教の中核でした。そこで、勝長寿院別当を諸史料をもとに復元してみました。不確定な部分もありますが、文覚(東密)ー性我(東密)ー定豪(東密)ー親慶(寺門)ー良信(山門)ー最信(山門)ー尊家(山門)ー最源(山門)ー源恵(山門)ー仁澄(山門)ー道潤(山門)ー聖恵(山門)と継承されたようです。つまり、良信の補任(一二二四年)から聖恵の死没(一三四六年)まで、一〇〇年以上にわたって山門派が別当職を独占しています。何のことはない。鎌倉の中核三寺院は、東密・寺門・山門で分掌されていたのです。鎌倉仏教界から山門派が排除されていた、という佐々木さんの議論は成り立ちません。

  次に、②将軍護持僧を取り上げましょう。【表2】のように、鎌倉幕府の将軍護持僧として確認できた人物は、今のところ二四名います。宗派別の内訳は、東密が七名、山門が七名、寺門七名、宗派不明が三名です。一般に天皇護持僧

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は東密と山門・寺門の三流から登用されていますが、将軍護持僧もそれと同様に三流で構成されている。山門派の排除は確認できません。

  次は、③北条氏出身の僧侶です。先に【表1】を示して、北条氏でプロの僧侶になった人物が六〇名いると述べました。そのうちの顕密僧を宗派別でみると、東密が一六名、山門が八名、寺門が二四名です。山門派が若干少ないですが、ここでも山門派の排除は確認できません。

  さらに、④鎌倉で宗教活動を行った高僧をリストアップしてみました。それが【表3】です。ここでいう「高僧」とは僧正(権僧正・正僧正・大僧正)と法 ほっしんのう親王です。鎌倉時代の僧正は世俗の公卿に匹敵し、上級貴族に相当します。法親王は親王宣下をうけた天皇家の僧侶です。何でもない表ですが、これをつくるのに三〇年近くかかっています。それはともかくとして、鎌倉で宗教活動をした高僧を七五名確認できますが、内訳は東密が三二名、山門が二三名、寺門が一九名、禅が一名です。ここでも、山門派の

宗派と人数 将軍護持僧の名

東密 7 名 山門 7 名 寺門 7 名 不明 3 名

性我、定豪、厳海、厳恵、定清、頼助、親玄 頼暁、観基、良信、成源、成恵、尊家、源恵

勝円、道禅、円親(円意)、重誉、円誉、盛弁(成弁)、公朝 常陸律師、蓮月房律師、権少僧都実暹

(注)複数の時期にわたる者は、 2度目に傍線を記した。法親王も入れたが、 短期滞在の僧侶は 除いた。詳細は拙稿「鎌倉幕府の将軍祈禱に関する一史料」(『大阪大学大学院文学研究科紀要』

47、2007 年)を参照。ただし本表にはそれ以後の補訂も反映されている。

【表2】鎌倉幕府の将軍護持僧と宗派

◆第Ⅰ期 源氏将軍の時代 (1180 ~ 1219) 1 名   禅1〔栄西〕

◆第Ⅱ期 将軍頼経の時代 (1219 ~ 1246) 13 名

  東密 5〔定豪、 厳海、 良瑜、 実賢、 良恵〕、山門 5〔成源、 快雅、 良信、 印円、 良禅〕、

  寺門 3〔道慶、 猷尊、 道禅〕

◆第Ⅲ期 時頼 ・ 時宗の時代 (1246 ~ 1284) 9 名

  東密 3〔良瑜、 良基、 定清〕、山門 3〔良信、 承澄、 最源〕、寺門 3〔道禅、 隆弁、 頼兼〕

◆第Ⅳ期 貞時 ・ 高時の時代 (1284 ~ 1333) 56 名

  東密 26〔良基、 頼助、 親玄、 道朝、 能厳、 益助、 定融、 成恵、 益性、 元瑜、 宣覚、

       隆勝、 頼乗、 聖済、 経助、 信忠、 有助、 道承        道乗、 頼演、 頼源、 顕助、 栄海、 豪親、 覚雄、 禅秀〕

  山門 16〔源恵、 忠源、 道潤、 安忠、 尊深、 実誉、 定祐、 承教、 経恵、 憲雅、 仁澄、

       良斅、 雲聖、 澄助、 聖恵、 源瑜〕

  寺門 14〔公朝、 覚乗、 道瑜、 親性、 行讃、 道珍、 房海、 房暁、 上智、 顕弁、 契覚、

       房朝、 増基、 覚伊〕

【表3】 鎌倉で宗教活動をした高僧(僧正+法親王)

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記念講演 東国鎌倉の密教(平)

排除を確認することはできません。

  もう一つ、⑤鎌倉幕府が行った代表的な祈禱をリストアップしてみました。承久の乱(一二二一年)、正応六年(一二九三)の鶴岡二十壇護摩、正和四年(一三一五)の天変祈禱、元応三年(一三二一)の鶴岡月次御修法、嘉暦二年(一三二七)の鶴岡変異祈禱、これらはいずれも東密・山門・寺門の三流で行われています。また鎌倉で実施された五壇法は、建保四年(一二一六)から寛元四年(一二四六)四月まで一九回行われています(五壇護摩・供は除外)。このうち三流が一一回、山門一流が一度、東密一流が一度、東密と寺門が二度、宗派不明が四回となっていて、ここでも山門派の排除は確認できない。

  佐々木馨氏は、東国では西国の顕密体制と異なる独自の宗教秩序が構築されたと主張し、独自性の根拠として山門派の排除をあげました。でも、実際には鎌倉仏教界から山門派が排除されていた歴史的事実は存在しません。佐々木説の実証的根拠は崩壊しています。

      第二節  東国仏教は自立していたか?

  第二の問題に移りましょう。東国仏教界は自立していたのでしょうか。四つの観点から検討してみます。

  まず、①国家的受戒制の問題です。東国仏教が自立するには、東国だけで僧侶を再生産できるシステムの構築が不可欠です。ところがそれができていない。僧侶になるには、出家得度と受戒という二つの階梯を経る必要があります。古代ではこのうち出家得度が重視されました。中世では出家得度は師弟間だけの個人的なものに変質し、受戒だけが公的性格を残しています。顕密僧となるには、延暦寺戒壇か東大寺戒壇で受戒しないといけません。南北朝時代までは、両寺での国家的受戒制が機能していましたので、東国だけで僧侶を再生産することができません。

  打開策としては、東国戒壇の新設か、地域寺院での受戒を公的に認めることが必要となります。実際、幕府の力からすれば、東国に新たな戒壇を設立することはさほど困難ではなかったはずです。しかし、そうしなかった。また、東大寺・

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延暦寺戒壇での受戒を不要とする政策も採っていない。そのため、鶴岡八幡宮別当公暁はもとより、円爾・良暁・約翁徳倹・不聞契聞・頼印・弘賢などの東国の僧侶は、いずれも上洛して東大寺・延暦寺戒壇で受戒しています。この事実は、鎌倉幕府が鎌倉仏教界を自立させる意思をもっていなかったことを示しています。

  次は、②伝法灌頂です。密教僧となるには伝法灌頂をうける必要がありますが、寺門派は鎌倉時代を通じて、東国で伝法灌頂を実施していません。園城寺は中央集権的な体制をとっていて、地方での伝法灌頂を認めなかった。師匠と弟子の双方が鎌倉にいる場合でも、伝法灌頂を行うときには二人とも上洛しています。つまり、鎌倉時代を通じて、寺門系の密教僧を東国で再生産することは不可能でした。鎌倉真言派も当初は寺門派と同様でしたが、一二三〇年代末より鎌倉で伝法灌頂を行うようになります。しかしそれでも、京都の方が権威があるとみられていて、上洛する者も少なくありません(史料の欠のため山門派については不明)。中世の顕密仏教において密教は非常に重要な位置を占めていますが、その密教僧を東国で再生産することが実現できていない。

  次は、③僧官位です。顕密僧は僧官位をもっています。僧正・僧都・律師が僧官(僧綱)で、法印・法眼・法橋・大法師・法師が僧位に当たります。ただし、中世では僧綱の実質的職能がなくなったので、どちらも位階としての機能だけです。そして俗人の官位も、また僧官位も、朝廷が叙任権をもっていました。鎌倉幕府は東国独自の官位体系を創出していない。そのため、官位の授与によって朝廷と御家人、朝廷と幕府僧との間で主従関係が成り立つ危険性がある。それを防ぐため、官位を授けられるときは幕府の許可が必要だと定めました。『御成敗式目』三九条と四〇条がそれです。御家人と幕府僧については、幕府の推挙を不可欠とすることで、朝廷の叙任権を骨抜きにしようとしたのです。でも、実際には守られないことも多く、あまり有効に機能していません。いずれにせよ、御家人や幕府僧が、朝廷の官位体系に包摂されていた事実は重いものがあります。

  最後は、④人材の依存です。鎌倉の顕密仏教界は一貫して、京都からの人材補給に依存していました。たとえば鎌倉時代の鶴岡別当一七名のうち、一二名(円暁・尊暁・定暁・慶幸・定豪・定雅・定親・隆弁・道瑜・道珍・房海・信忠)

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記念講演 東国鎌倉の密教(平)

は京都からの下向組です。東国出身は将軍源頼家の子公暁と、北条氏出身の頼助・政助・顕弁・有助の計五名だけです。鎌倉後期になると、北条氏出身の鶴岡八幡宮別当が登場するようになりますが、しかし彼らの場合も、その教育は基本的に京都で行われました。

  以上からすれば、鎌倉時代の東国仏教界が自立していたとは、とうてい言えないでしょう。鎌倉幕府による管理・統制によって東国仏教界は一定の求心性をもっていましたが、全体的には京都の顕密仏教界に包摂されていました。佐々木馨氏の問題提起は貴重なものでしたが、山門派の排除も、東国仏教の自立論も、実証的根拠が崩壊しています。

  最後に、第三の宗教政策の変化に移りましょう。詳しい話は次章以下で行いますので、ここではざっとした概観だけです。【表3】をもう一度ご覧ください。鎌倉時代を便宜的に四期に分けましたが、それをみると、高僧の数は「1→

13→9→

ことになります。 と将軍権力との抗争が鎌倉の顕密仏教界を縮小させ、その後のモンゴル襲来で一転して、顕密仏教が爆発的に発展する くそれは、寛元・宝治・建長の政変(一二四六~五二年)とモンゴル襲来(一二七四年・八一年)でしょう。北条得宗 し、第Ⅳ期に爆発的に増えています。これは、鎌倉幕府の宗教政策に二度の転換があったことを示唆しています。恐ら 56」と変化しています。数が直線的に増えていない。ここが重要です。第Ⅲ期の時頼・時宗時代に一度減少   以上を踏まえて、それぞれの時代の特徴と動向を確認してゆきましょう。

      第二章   源氏将軍時代の宗教政策

  最初は、第Ⅰ期の源氏将軍の時代(一一八〇~一二一九年)です。源頼朝・頼家・実朝の時代ですが、この時期の特徴は二つです。第一が人的整備の遅れ、第二が園城寺親和政策です。

  まずは第一の問題から。この時期は、歴代将軍が鎌倉で顕密寺院を創建して、顕密仏教を整備しようとしました。頼朝が鶴岡八幡宮寺(一一八〇年)・勝長寿院(一一八五年)・永福寺(一一九二年)を造立し、実朝が大慈寺(一二一四

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年)を開創しています。ただし、ハード面の整備が進んだが、ソフト(人材)の充実がままならないというのが、この時期の特徴です。

  幕府祈禱は公 くじよう請と認定されていません。公請は朝廷の依頼をうけて法会に出仕したり、院や天皇の護持祈禱を行うものです。公請は公的な要請という意味ですので、依頼なしに護持祈禱を行っても公請ではありません。摂関家や将軍のための祈禱はあくまで私 請であって、布施はもらえますが、公的な功績、国家的奉仕とは認定されません。東国国家独立論者は、将軍祈禱が公請と認定されなかった事実を、きちんと受け止める必要があるはずです。僧官位の昇進や、権門寺院の長官就任には、公請の実績を積み重ねる必要があります。幕府祈禱はキャリアアップにつながらない。そのため、なかなか質の高い僧侶を迎えることができませんでした。やってくるのは、師匠と喧嘩したとか、失態をしでかしたとか、不遇で芽が出ないといった、何らかの事情を抱えた僧侶が多い。この時期の高僧は栄西一人だけです。彼も禅宗弾圧で京都を追放され、鎌倉に逃れてきました。

  人的整備の遅れは、三点から確認できます。まず、①堂塔供養の導師です。鎌倉の僧侶に問題があることは源頼朝も自覚していました。経供養や仏像供養といった簡単なものは幕府僧に任せますが、堂塔供養となると、【表4】のように京都から導師を招聘しています。幕府僧に堂塔供養を任せるようになるのは栄西が最初で(一二〇二年)、二度目が大慈寺供養(一二一四年)です。大慈寺は将軍実朝の御願寺ですので、京都から高僧を呼びたいと希望したのですが、「費用がかかりすぎる」と重臣に反対され、仕方なく栄西に導師を任せました。このように堂塔供養を最初に任された幕府僧は栄西です。顕密僧としての栄西の重要性がうかがえますが、いずれにせよ、堂塔供養を任せられる幕府僧がなかなかいませんでした。

【表4】鎌倉での堂塔供養に招聘した京都の高僧

年 月 日 供養の堂塔 導師(所属) 備考

文治元年(1185) 10月24日 勝長寿院 公顕(寺門)

文治5年(1189) 6 月 9 日 鶴岡五重塔 観性(山門) 天台座主全玄の代官 建久3年(1192) 11月25日 永福寺 公顕(寺門)

建久4年(1193) 11月27日 永福寺阿弥陀堂 真円(寺門)『吾妻鏡』は薬師堂供養と記す 建久5年(1194) 12月 6 日 永福寺薬師堂 勝賢(東密)

(注)出典はいずれも『吾妻鏡』。

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記念講演 東国鎌倉の密教(平)

  ②は密教僧の整備です。伝法灌頂をうけた密教僧を揃えるのに苦労しています。伝法灌頂をうけた最初の幕府僧は性我です。文覚の弟子で、頼朝の流罪中から交流がありました。こうした経緯もあって、頼朝の護持僧になります。そこで頼朝が仁和寺御室の守覚に、性我への伝法灌頂を依頼しました。建久二年(一一九一)のことです。本来、伝法灌頂は師匠と弟子との個人的なものですが、今回は幕府が前面に出ています。灌頂の費用は幕府政所から支出されたし、後白河院もこの伝法灌頂に協力しました。この翌年に守覚は、仁和寺領の保全や東寺修造等について性我を介して頼朝に要望を出し、頼朝がほぼ聞き入れています。これが伝法灌頂の見返りであったことは明らかです。鎌倉に密教僧を一人養成するには、ここまで無理をしなければなりませんでした。

  同年に定豪がやって来ます。仁和寺兼豪から伝法灌頂をうけた人物で、鎌倉の状況を察知して下向してきました。性我と定豪の二人が鎌倉の密教の草分けです。このあと、寺門の行慈(一一九四年)、円暁(一一九五年)、長暁(一一九六年)が伝法灌頂をうけ、山門派では忠快が頼朝の要請で鎌倉に来ます(一一九五年)。忠快は平教盛の子で、知法の台密僧です。壇ノ浦で捕虜となり伊豆に配流されていたのを頼朝が見初め、赦免後に鎌倉に迎えます。このように密教僧の育成は、牛の歩みのように遅々としていました。

  ③は京都の高僧への祈禱依頼です。鎌倉の密教が未整備なため、頼朝は重要な祈禱を京都の高僧に依頼しました。東密の俊証・覚成や、寺門の房覚・公顕がそうです。初期の鎌倉での仏事は、ほとんどが顕教法会です。鶴岡別当円暁が文治元年(一一八五)に源頼家の病悩平癒の加持を行った記録がありますが、彼が伝法灌頂をうけるのはそれから一〇年後ですので、妖しげな修法だったのでしょう。速水侑先生によれば、鎌倉で密教修法が本格的に導入されたのは一二一〇年代の忠快から、とのことです。その通りなのですが、「正嫡相承秘書」(東京大学史料編纂所謄写本)という醍醐寺系の史料に「勝賢僧正建久五年右大将家御時、参向于関東、修三箇之秘法、勤一会之唱導、成賢又建暦・嘉禄勤仕御祈畢」との記事があります。醍醐の勝賢が建久五年(一一九四)鎌倉に招聘されて永福寺薬師堂供養の導師をつとめたのですが、その時に「三箇之秘法」を修しています。これが鎌倉で行われた最初の密教修法ということ

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になります。また、醍醐寺の勝賢門流は鎌倉時代末まで幕府の護持祈禱を続けるのですが、その先蹤がここにあったことも分かります。いずれにせよ、鎌倉では密教僧の整備に難渋しました。

  以上のように、第Ⅰ期の源氏将軍時代は堂塔整備が進みましたが、人材整備で苦労したのです。

  第二の特徴は、園城寺親和政策です。園城寺は平氏の焼討ちにあい、所領も没収されます。内乱期に平氏によって大変な目にあわされました。そのこともあって頼朝は園城寺を大切にしています。園城寺長老の房覚・公顕には内乱期から頻繁に祈禱を依頼していました。そして鶴岡八幡宮を創建すると、従兄の円暁(寺門)を京都から招いて別当に据えています。重要ポストを身内で固めたいと考えたのでしょう。この時期(一一八二年)の頼朝は朝廷から謀反人とされていたので、円暁にはリスクの高い選択でした。でも、危険を冒して鎌倉にやって来た。それに応えて頼朝は、円暁を中心にして鎌倉仏教界を整備し、鶴岡別当も円暁ー尊暁ー定暁ー公暁と、円暁の弟子筋で相承されました。

  では、園城寺親和政策はどの程度のものだったのでしょうか。参考になるのが、堂塔供養に呼び寄せた高僧の宗派別割合です。頼朝は京都の高僧を五度招きましたが、【表4】のように寺門が三回、山門が一回、東密が一回です。また、鶴岡八幡宮の供僧二五口は頼朝時代に整備されますが、その内訳は寺門が一五口、山門が五口、東密が五口です。どちらも3対1対1の割合です。これが園城寺親和政策の実態です。園城寺を重視するが、東寺や延暦寺にもそれなりに配慮をする、これが第Ⅰ期の政策基調でした。

  ただし、寺門派との蜜月は公暁による将軍暗殺で終わりを迎えます。公暁は二代将軍頼家の子です。頼家の妻方である比 企氏の台頭に危機感をもった北条時政は、陰謀をめぐらせて比企氏と頼家の妻子を殺害し、さらに頼家まで毒殺しました。比企氏の乱です。そこで北条政子は幼い公暁を鶴岡別当のもとに入室させ、ついで園城寺公胤に預けて修学させます。やがて鶴岡別当定暁が死没したため、一八歳の若さでしたが、政子が呼び戻して鶴岡別当に補任しました。将軍実朝と鶴岡八幡宮別当公暁という源氏の血筋で、幕府の根幹を固めようとしたのです。ところが鎌倉に戻って間もなく、公暁の様子が一変します。父の死の顛末を知ったのでしょう。髪は剃らない。ひげも伸び放題で祈りつづけ、最終

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的に実朝暗殺を決行しました(一二一九年)。

  寺門派は公暁の教育係をしていました。その責任を問われて寺門優遇策は終焉を迎え、幕府と寺門派は特別な保護も抑圧もない、普通の関係になります。そして、鎌倉仏教界は東密主導に変わります。

      第三章   九条頼経時代の宗教政策

  実朝暗殺後、藤原摂関家から九条頼経が迎えられます。こうして、第Ⅱ期の九条頼経時代(一二一九~四六年)が始まりました。この時代には三つの特徴があります。第一は人的整備の充実、第二は幕府僧の京都進出、第三は将軍権力の敗北です。

  まずは第一の人的整備です。第Ⅰ期は堂塔を建てたが、質の高い僧侶を揃えることができなかった。それに対し頼経時代は、将軍主導で人的整備を進めました。先述のように、幕府祈禱は公請と認定されなかったため、鎌倉は人材の招聘にハンデがあります。しかも密教は秘密の教えです。家柄がよくて器量がないと受法できません。でも、九条家から将軍が出たのですから、頼経の父である九条道家は、将軍護持のため九条家出身の僧侶や、九条家に仕える僧侶を鎌倉に送り込みました。九条家出身では山門の良禅、寺門の道慶、東密の良恵・良瑜・道宝らが東下しています。【表3】のように、鎌倉で活動した高僧は前代の一人から一三名へと大幅に増えており、鎌倉の顕密仏教は急速に発展しました。そして一二三〇年代末になると、光宝・厳瑜・実賢らの東密僧が鎌倉で伝法灌頂を行うようになります。鎌倉真言派は東国で密教僧を自力で育成することが可能となりました。

  第二は幕府僧の京都進出です。鎌倉の顕密仏教が隆盛・発展すると、京都に逆流しました。これが幕府僧の京都進出です。幕府僧は鎌倉だけで活動したのではなく、京都に戻って権門寺院の長官に就任しています。ここが幕府僧の面白いところです。東寺長者や一長者、東大寺別当、大伝法院座主、熊野三山検校、園城寺別当などに就いています。特に東寺長者は定豪・厳海・定親・良恵・実賢と、嘉禄元年(一二二五)から建長三年(一二五一)まで必ず一人、幕府僧

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が就任しています。鎌倉時代の東寺長者は三人から四人ですが、そのうち一人を幕府僧から選ぶことが恒例化しました。

  定豪が鶴岡八幡宮別当に就任して間もなく、承久の乱(一二二一年)が起きます。これが幕府僧の京都進出のきっかけになりました。定豪はもともと仁和寺系の密教僧ですが、不遇だったため鎌倉にやってきました。ところが承久の乱で境遇が一変します。定豪は幕府の権威をバックに京都に乗り込み、仁和寺御室と角逐を繰り広げました。仁和寺御室は院権力の分身です。顕密仏教界における最高の貴種であり、大きな政治力をもっていました。ところが定豪は幕府権力をバックにして、御室に対抗して京都の仏教界を引っかき回します。

  ただし、幕府僧の本業は鎌倉での祈禱です。そのため頻繁に京都と鎌倉を往還した。定豪などは七五、六歳といった高齢でも、年に複数回、京と鎌倉を行き来しています。とはいえ、上洛には幕府の許可が必要です。勝手に上洛すると、関東御恩の所 しょしき職が没収されました。鎌倉幕府にとっては、幕府僧が鎌倉を長期不在にするのは、望ましいことではありません。でも、定豪のように、東寺一長者や東大寺別当に就任すると、それは鎌倉仏教界の名誉です。そこを勘案しながら、上洛の許可を与えました。

  幕府僧の分析で難しいのは、彼らが所持しているポストの性格が単純でないことです。自力で手に入れたポストと、幕府の力で手に入れたポストが混在しています。たとえば東密の定親は、宝治合戦(一二四七年)に連座して追放されますが、そのとき彼は四つのポストを持っていました。鶴岡八幡宮別当、大伝法院座主、東寺長者、東大寺別当です。鎌倉からの追放で鶴岡八幡宮別当と大伝法院座主を解任されますが、東寺長者と東大寺別当はその後も維持しています。幕府の恩顧で手に入れたポストは失ったが、自力で手に入れたポストは維持したということです。つまり幕府僧の動きには、鎌倉幕府の意向を反映したものと、個人的なものとが混在しています。この点の見極めが研究の難しいところです。

  第三が将軍権力の敗北です。宮騒動、宝治合戦や建長の政変といわれる事件です。これによって北条得宗の政治基盤が固まり、宗教政策や対外政策が劇的に変化してゆきます。この政変は、鎌倉仏教界に激震を走らせました。

  発端は仁治三年(一二四二)北条泰時の死です。泰時の子は早世していたため、孫の経時が執権に就任します。経時

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は一九歳、将軍頼経は二五歳です。北条経時は摂家将軍を飾り物にしようとしますが、頼経は本物の将軍を目指します。ということで、主導権争いが始まります。これが北条氏を分裂させて、北条氏名門の名越氏が将軍方につきます。有力御家人も分裂して三浦氏が将軍方に、安達氏が得宗方につきます。さらにこの対立は朝廷内の争いとも絡みました。九条道家は雅成親王(後鳥羽院息)を天皇に擁立しようとして、後深草の即位を目指す後嵯峨天皇や西園寺公経・実氏と対立します。さらに九条家が分裂し、道家の息・二条良実が得宗方となって道家から義絶されました。九条道家ー将軍頼経の親子を軸に京・鎌倉を二分する争いとなり、最終的に北条得宗ー後嵯峨のラインが勝利を収めます。宮騒動(一二四六年)での九条頼経の追放と名越氏の失脚、宝治合戦(一二四七年)での三浦氏滅亡、さらに建長三年(一二五一)から四年に九条家一門の勅勘、道家暗殺、将軍九条頼嗣の追放、そして親王将軍宗尊の東下があり、一連の抗争にようやく決着がつきました。九条家は朝廷からも、幕府からも、顕密仏教界からも排除されます(建長の政変)。

  この政変は幕府の宗教政策に甚大な影響を及ぼしました。これまで将軍主導で鎌倉の顕密仏教が発展してきたからです。この抗争のさなかの寛元四年(一二四六)、北条経時が二三歳の若さで病没し、弟の時頼が執権を継ぎました。この死について近衛兼経は日記に、九条頼経が「呪 詛」の「調伏法」を行わせたためだ、と記しています(『岡屋関白記』寛元四年六月十六日条)。『吾妻鏡』宝治元年五月二十八日条も、九条頼経が関東の鬼門に明王院を造立し、「有験知法の高僧」や「陰陽道の類」に命じて呪わせた、と述べています。事実かどうかはともかくとして、京都・鎌倉でそのように認識されていたことが重要です。当時、たまたま鎌倉で疫病が流行していました。みんなが体調を崩すのですが、敵の呪詛のせいと疑心暗鬼になって、呪詛合戦が激化しました。そして実際、鎌倉の高僧の多くは頼経側について北条得宗を呪詛した。その結果、鎌倉仏教界の中枢が頼経と同心帰洛したり、追放されたのです。鎌倉の仏教は大きな曲がり角を迎えます。

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      第四章   北条時頼・時宗時代の宗教政策

第一節  鎌倉の顕密仏教   第Ⅲ期の北条時頼・時宗時代(一二四六~八四年)に移りましょう。ここで重要なのは、北条時頼による政策転換です。鎌倉仏教界の中枢が北条得宗の前に立ちはだかったという苦い体験から、北条時頼は政策を劇的に転換します。それには顕密仏教策と、禅律政策の二つがあります。本節では顕密仏教政策を取り上げましょう。

  第一に時頼は、隆弁(寺門)に顕密仏教を委ねます。隆弁は宝治合戦の折りに、北条時頼のために祈禱した唯一の僧侶です。時頼は隆弁に絶大な信頼を寄せ、終身の鶴岡別当としました。隆弁が鶴岡八幡宮別当であったのは宝治元年(一二四七)から弘安六年(一二八三)ですので、時頼・時宗時代のほとんどをカバーしています。この時期は「隆弁の時代」といってよいほど、彼の影響力が大きかった。以前の第Ⅱ期は東密が中心で、寺門・山門が競い合う構造でしたが、この第Ⅲ期は寺門派が圧倒的優位にたちます。

  第二に幕府は、露骨に園城寺を贔 屓しました。隆弁は園城寺興隆を悲願とした人物でもあります。そこで幕府に働きかけ、鎌倉幕府の権門寺社政策がゆがんでゆきます。

  ①延暦寺と園城寺は四天王寺別当職をめぐって長らく争ってきました。これまで幕府は露骨な介入を控えていましたが、建長元年(一二四九)幕府の要求で別当が園城寺の僧侶に変わります。第Ⅲ期の四天王寺別当はすべて寺門派です。

  次は、②園城寺戒壇の独立です。平安中期に円仁派・円珍派の対立が激しくなり、円珍派が離山して園城寺に移ります。天台宗が分裂し両派は激しい抗争を繰り広げました。その際、園城寺の足枷となったのが延暦寺戒壇です。顕密僧となるには受戒が必要ですが、これが受けられるのは延暦寺と東大寺の戒壇だけです。延暦寺と抗争している中で、弟子を延暦寺で受戒させるのは園城寺には屈辱でした。しかし、最澄が東大寺戒壇を否定したので、東大寺で受戒させる訳に

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もゆかない。そこで独自の戒壇が悲願となります。戒壇独立は平安時代に五度(一〇三九年、五三年、七〇年、八一年、一一六三年)持ちあがりますが、いずれも失敗しました。それが一〇〇年ぶりに再燃した。隆弁が鎌倉幕府を動かしたのです。

  後嵯峨院は戒壇問題に手をつけるのは反対でしたが、隆弁と幕府に押し切られました。正元二年(一二六〇)、園城寺での三 さん耶戒の受戒を法﨟と認める宣旨が出されます。実質的に戒壇独立を認めたものです。宣旨が出される前に、幕府は数百人の武士を京都に送って強訴に備えましたが、延暦寺の激しい抵抗で警護に失敗。宣旨の撤回に追い込まれます。戒壇独立はまたも成りませんでした。この時の落 らくしょ書に「園城寺ニ戒壇アリ、山訴訟ニ道理アリ、寺法師ニ方 かとうど人アリ」(『鎌倉遺文』八四六二号)とあります。戒壇独立に反対する延暦寺には「道理」があるが、園城寺には「方人」、つまり味方がいる、と。「方人」は鎌倉幕府のことです。鎌倉幕府は隆弁の言いなりになって、露骨な園城寺贔屓政策を採るようになります。そしてこのことが、園城寺内の強硬派が台頭するのを誘発しました。

  その結果、③鎌倉幕府の延暦寺政策が峻厳をきわめます。天台座主の解任、門跡の解任、門跡没収が頻繁に行われました。特に厳しいのが門跡没収です。寺内紛争が起きると、門主が引責辞任したり、解任されたりしますが、どの門跡も跡継ぎが決まっています。ところが幕府は後継者による交代を認めず、幕府が指名した外部の僧侶を門主に送り込んだ。これが門跡没収です。非常に厳しい措置がこの時から始まりました。何とか詫びを入れて短期で終わることが多いのですが、延暦寺には屈辱そのものです。この門跡没収が頻繁に行われました(一二六四年、六八年、七七年、九八年)。もちろん、延暦寺政策の決定権は朝廷がもっています。でも、幕府の要求が強硬なため、朝廷も従わざるを得ません。つまり、隆弁の意向が幕府を動かし、さらに朝廷まで動かしています。この第Ⅲ期を「隆弁の時代」と呼んだのは、そのためです。

  鎌倉幕府は露骨に園城寺を贔屓する政策をとり、延暦寺は園城寺を襲撃してそれに応えます。それに対し幕府は天台座主の解任や門跡没収で延暦寺に圧力をかけました。こうして幕府ー延暦寺関係や、延暦寺ー園城寺関係が非常に不安

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定になってゆく……、これがこの時代の特徴です。

  第三に、北条時頼は鎌倉の顕密仏教を縮小させました。まず、①高僧の数が減っています。【表3】のように、鎌倉の僧正は前代の一三名から九名に減少していて、顕密仏教の発展にブレーキがかかっています。しかもそのうち二名(良信・承澄)はこの時期、祈禱実績がありません。高僧の数は実質七名です。

  一方、②幕府の推挙権は格段と強化されました。仁治元年(一二四〇)将軍頼経は叔父道慶を大僧正に推挙したのですが、それが認められるか、どきどきして陰陽師に占わせています。除 目では、いろんな権門から要望が出されます。でも、最終決定権は朝廷にあって、将軍からの要望は少し重視されるでしょうが、あくまで諸権門からの希望の一つです。ところが、建長四年(一二五二)に鎌倉幕府の評定で、隆弁を権僧正に補任することを決定しています。これは幕府の発言力が強くなって、僧正ぐらいであれば朝廷が丸呑みするようになったことを意味しています。権門寺院の長官はポストが一つですので、こちらは丸呑みというわけにはゆきませんが、僧正はある程度、数があるので、幕府の要望がそのまま通るようになった。それにも関わらず、鎌倉の僧正の数が減少している。思い通りに僧正を補任できたのに、その力を行使していません。優秀な密教僧を招聘するには、僧官位の昇進に配慮することが不可欠ですが、この時期の幕府はそうしたことに関心を失っています。だから、高僧の数が減少したのです。

  さらに時頼は、③顕密僧の東西交流を抑制した。この第Ⅲ期に権門寺院への進出が認められたのは寺門派だけです。新規の高僧もほとんど来ていません。【表3】の九名のうち、八名は以前から鎌倉で活動していました。寛元・宝治・建長の政変で多くの高僧が帰洛、または追放されましたが、その補充が行われていない。特に注意すべきは東寺長者です。承久の乱後、二六年間にわたって東寺長者のうち一人は幕府僧に割り当てられてきました。ところが、建長三年(一二五一)から弘安十年(一二八七)まで幕府僧の東寺長者が消えています。朝廷から推挙枠が提供されていたにもかかわらず、幕府は使っていない。九条頼経の時代は顕密僧の東西交流が活発だったのですが、時頼の時代になると幕府はそれを制限し、鎌倉の顕密仏教を必要最小限のものに縮小させようとしています。

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記念講演 東国鎌倉の密教(平)

  ただし、文永六年(一二六九)に新しい動きが見えます。北条時宗が仁和寺の法助に、頼助への伝法灌頂を依頼しました。頼助は早世した執権北条経時の子です。経時が亡くなったあと、時頼は彼を養子にして仏門に入れました。幕府が仁和寺御室に伝法灌頂を依頼するのは、源頼朝の前例がありますが、異例のことです。北条時宗は、頼助に鎌倉真言派を再建させようと考えたのでしょう。一方、法助は九条道家の息です。道家の権勢によって、天皇家以外で初めて仁和寺御室に就任しました。しかし建長の政変によって、北条時頼と後嵯峨院が協力して、京都・鎌倉から九条家一門を徹底的に排除した。法助もそれに巻き込まれて長い間、苦労しています。政変から一〇年余りたった弘長三年(一二六三)、ようやく九条家一門の謹慎がとけ、法助も復権して御室性助の後見として活動を始めます。そこに時宗からの依頼がきた。法助は喜んでそれを受諾しました。

第二節  幕府の禅律保護   次は禅律政策です。北条時頼は顕密仏教を縮小する一方、それに代わる仏法を探し求めました。こうして選ばれたのが禅宗です。のちに律が加えられ、北条得宗は禅律を積極的に保護します。特に禅宗は、北条得宗権力を象徴する仏教となりました。時頼は建長寺(一二五二年)を建てて蘭渓道隆を迎え、時宗は無学祖元に円覚寺(一二八二年)を開創させました。この二つは、禅宗の歴史で画期的な寺院です。初めての「一向禅院」、つまり禅だけの純粋な寺です。これには少し説明が必要です。

  鎌倉時代に新仏教が登場しますが、顕密八宗以外の新たな立宗を認めない、というのが朝廷の方針でした。禅も、念仏も、顕密仏教のなかに既に存在している。そのため、禅宗・念仏宗を別立させることは認めない、ということです。そして、建久五年(一一九四)に禅宗が弾圧され、建永二年(一二〇七)には専修念仏が禁じられます。

  京都を追放された栄西は鎌倉に向かいました。頼朝の急死直後のことです。北条政子は禅には関心がありませんでしたが、鎌倉には栄西ほど学識の高い僧侶はいません。ということで、栄西を厚遇します。そして、建仁二年(一二〇二)

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鎌倉幕府は京都に建仁寺の創建を申請します。それに対し朝廷は、天台・真言宗の併置を条件に建立を認めました。それらを併置すれば禅を重視する顕密寺院という体裁となり、禅宗を認めない方針と矛盾しません。こうして鎌倉前期に建立された禅院は、鎌倉の寿福寺、博多の聖福寺、京都の東福寺、世良田長楽寺など、いずれも顕密併置となりました。

  ところが時頼は、こうした経緯を無視して禅だけの寺院=「一向禅院」を建立した。これは幕府が、勅許なしに禅宗の立宗を認めたことを意味します。時頼は実質的に禅の立宗を強行したのです。でも、朝廷も、延暦寺も抗議していません。絶大な権力を誇った九条道家ですら、失脚・憤死に追い込まれました。誰も抗議の声をあげることができなかった。

  こうして純粋な禅寺が初めて鎌倉にできました。これが御家人に影響を与えます。北条得宗が禅宗保護を鮮明にしたことで、御家人の氏寺が禅寺に変わってゆきます。同時代史料によれば、建長寺の建立から半世紀ほどで禅宗が全国に広がった、とのことです。有力な禅僧の弟子を氏寺に迎えると、地方の御家人はその師弟関係を介して得宗とつながりをもてます。しかも顕密寺院は貴族的な門閥主義が横行していたので、御家人のように身分出自が低いと、その子弟は権門寺院の長官になることはまず不可能です。ところが、禅寺は実家の家格をうるさく言わなかった。御家人の子弟でも実力次第で有力禅院の住持になることができます。ということで、建長寺の創建から全国に禅寺が爆発的に増えました。これだけ禅寺が増えて禅宗の存在が既成事実化すると、朝廷もそれを追認せざるを得なくなります。

  禅宗は南宋で盛んでした。そのため、禅宗の受容は得宗権力の開明性や国際性を示すものと受け止められた。これまで幕府は鎌倉に顕密仏教を扶植・育成しようと努力してきましたが、どんなに頑張っても、京都を超えることはできません。ところが禅は違います。南宋文化の摂取によって鎌倉は、京都に対し文化的優位にたつことができた。得宗権力は国際性があり、先進的で進歩的で開明的だということになります。これまで鎌倉幕府は、栄西やその門流の禅や入宋に関心を示さなかったのですが、時頼時代から、幕府が日宋交流に熱心に取り組むようになります。そして、中国輸入の唐物が鎌倉で出回ります。禅や唐物の流行を、京都が真似るという文化的な逆転現象が起きました。

  以上のように、九条道家・頼経との暗闘が幕府を禅宗に走らせ、日宋交流に向かわせました。

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第五章  北条貞時・高時時代の宗教政策   次に、第Ⅳ期の北条貞時・高時時代(一二八四~一三三三年)に話を移しましょう。鎌倉幕府の政策は、もう一度大きく変化します。原因はモンゴル襲来です。異国降伏となれば、やはり顕密仏教です。実際のところ、顕密の祈りによって神を動かし、神風が吹いてモンゴルを撃退しました。ところが禅の盛んな南宋は、モンゴルに滅ぼされた(一二七九年)。禅ではモンゴルに対抗できない。むしろ禅宗は亡国の教えだ。モンゴル再襲に備えるには顕密仏教の充実・発展が必要、とされました。

  こうしたなかで、第一に鎌倉の顕密仏教が飛躍的に発展します。①鎌倉で活動した高僧は【表3】のように、前代の九人から五六人に激増しています。この数字は私も驚きました。この時期は『吾妻鏡』がなく、史料的な制約が非常に大きい。それにもかかわらず、五六名もの高僧を検出することができました。冒頭で私は、史料的制約を突破するために、幕府僧一人ひとりの伝記から、幕府の宗教政策の変化を実証したい、と述べました。この研究の最大の成果は、鎌倉時代末期に、鎌倉の顕密仏教界が爆発的な発展をとげていたことを実証できたことです。

  こうした発展を中核で担ったのが、北条氏や将軍の子弟です。北条氏の子弟が鶴岡八幡宮や永福寺の別当になり、将軍の子たちは勝長寿院別当となります。鎌倉幕府は東国仏教界の中核を、身内で固めることができるようになったのです。

  ②質的にも充実しています。それを示すのが大 たいほう法の勤修です。密教修法には、壇の威儀や伴僧の数などによって、大法・准大法・小法・護摩・供の五ランクに分かれます。このうち大法は勅許なしに行うことができず、室町幕府ですら大法を容易に実施することができていません。ところが弘安九年(一二八六)に源恵が山門四箇大法の一つである熾 しじようこう盛光法を修し、東密では正応三年(一二九〇)に頼助が大北斗法を修し、寺門では増基が嘉暦二年(一三二七)に法華法を勤修しました。いずれも伴僧が二〇口であり、大法の威儀を備えています。このように、密教三流が鎌倉で大法を実施す

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るようになりました。鎌倉末期に鎌倉の顕密仏教は質的にも、量的にも、飛躍的な発展をとげたのです。

  第二に、多くの幕府僧が京都に逆流しました。山門では四名(源恵、道潤、仁澄、澄助)が天台座主になっています。天台座主は基本的に青蓮院・梶井・妙法院の三門跡から選任されましたが、鎌倉末には鎌倉山門派(本覚院)が四番目の門跡としての地位を確立し、天台座主への就任が恒例化しました。東密では八名(頼助、親玄、宣覚、隆勝、有助、顕助、栄海、禅秀)が東寺長者となり、そのうち親玄と有助は東寺一長者です。寺門派では五名(道瑜、道珍、増基、顕弁、房朝)が園城寺長吏に任じられました。

  振り返ってみると、第Ⅰ期に京都に進出できたのは栄西だけです。第Ⅱ期の九条頼経時代に東密と寺門が京都進出を果たしました。第Ⅲ期の時頼・時宗時代は寺門派だけが進出を認められましたが、この第Ⅳ期にはすべての宗派が権門寺院への進出を果たしています。鎌倉末に北条氏は、全国の守護職をほぼ独占するようになりますが、仏教の世界においても、畿内権門寺院は幕府僧であふれました。

  第三は園城寺優遇策の修正です。寺門だけでなく、すべての宗派が京都に進出していて、園城寺への露骨な贔屓は修正を余儀なくされます。たとえば弘安五年(一二八二)に四天王寺別当が亡くなって、その後任を延暦寺と園城寺が競 望しました。ところが、この時の園城寺長吏は鶴岡八幡宮別当の隆弁であり、天台座主は勝長寿院別当の最源です。つまり、園城寺と延暦寺の長官を幕府僧のトップ二人が占めています。こういう状況下では、もはや園城寺への一方的な肩入れはありえません。前代のような、単純な園城寺優遇策を維持することができなくなりました。

  第四は、権門寺院長官の不在化です。大量の幕府僧が権門寺院の長官に任じられましたが、彼らの本業は幕府祈禱です。許可が出なければ京都に行けません。さすがに天台座主は権威が高いので、任命されて半年ばかり京都に滞在し、天台座主・天皇護持僧の箔をつけて鎌倉に戻りました。しかし、他派では住持に任じられても、赴任しない幕府僧が続出します。

  一般に寺院長官に任じられると拝堂を行います。寺内堂塔の仏さまに挨拶してまわるのです。ところが頼助の場合、

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記念講演 東国鎌倉の密教(平)

東大寺別当に任じられましたが、任期中(一二九四~九六年)に一度も東大寺に行っていない。親玄も嘉元四年(一三〇六)に東寺一長者に任じられましたが、入寺・拝堂することなく一年後に辞任しています。寺門派では「居拝堂」が続出します。一般に拝堂では寺僧に祝儀を渡すのですが、お金だけ送って、本人は鎌倉に居るままで拝堂したことにする、これが居拝堂です。園城寺長吏では道瑜(一二九七年)、道珍(一三〇八年)が居拝堂ですし、園城寺別当では覚乗(一二八九年)、公朝(一二九二年)、親性(一二九五年)、房海(一三〇九年)が居拝堂です。寺院の方からすれば、コケにされたも同然です。とはいえ、幕府僧が長官になっていると、鎌倉幕府との交渉で何かと有利なことが多い。そのため、文句を言えません。これは、幕府僧の京都進出がもたらしたヒズミです。

  第五に鎌倉末には、後醍醐天皇との争いに幕府僧が関わってきます。後醍醐は嘉暦元年(一三二六)冬から、側近の僧侶に幕府調伏祈禱を行わせました。中宮御産に事寄せて、数年にわたって調伏を実施しています。それに対し幕府は、後醍醐天皇のまわりを幕府僧で固めた。まず、正中二年(一三二五)に有助が北条氏で初めて東寺一長者に就任し、後醍醐天皇の護持僧になります。北条氏は家格が低いため、これまで一長者を出すことができなかったのですが、この前年に後醍醐の倒幕計画が露見しました(正中の変)。その影響で、一長者・護持僧の就任が認められたのです。さらに嘉暦二年(一三二七)正月には後七日御修法の大阿闍梨を顕助がつとめます。彼も北条氏です。御修法の最後に後醍醐天皇に後 加持を行うのですが、顕助は内裏まで「六波羅の武士百余騎」を引き連れて行きます(「観智院本東寺長者補任」)。公然と軍事的圧力をかけながら後加持を行ったのです。このように幕府は、後醍醐の周辺を幕府僧で固めることで、その動きを封じ込めようとしました。

  そこで後醍醐天皇は京都を脱出します。元弘の変(一三三一年)です。東大寺別当聖尋を頼って奈良に向かいました。でも、聖尋は東大寺に入ることを制止します。東大寺には尊勝院時宝と西 にしむろ室顕宝がいて、二人とも北条氏です。彼らの勢力が強いため、東大寺入寺は捕まりにゆくようなものです。そこで後醍醐は笠置に籠城します。それに対し顕宝は鎌倉幕府による笠置攻撃の中心となり、笠置を陥落させました。後醍醐は捕縛され、隠岐に流罪になりますが、やがて隠

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岐を脱出して鎌倉幕府を倒します。すると顕宝は幕府滅亡の翌年、鎌倉幕府再興のため紀伊国飯盛山で挙兵しています。これで事蹟が途絶えますので、敗死したのでしょう。一方、時宝は、幕府最後の執権である赤橋守時の弟です。姉妹に登子がおり、彼女は足利尊氏の正妻で、義詮の母です。赤橋登子は、北条氏で室町時代まで生き延びた数少ない人物ですが、時宝も建武政権崩壊後の暦応元年(一三三八)に東大寺寺務代として復活しています。

  顕宝と時宝の事例は、鎌倉末期に北条氏をはじめとする幕府僧が、諸処の権門寺院で跋扈していたことを物語っています。鎌倉末期は鎌倉で顕密仏教が爆発的に発展しただけでなく、幕府僧が京都に逆流して、顕密仏教界を席巻しました。しかし、こうした幕府僧の大量進出が鎌倉幕府の強化につながったかというと、話はむしろ逆でしょう。

  西国は地域の自立性が高く、利害調整がたいへんむずかしい。しかも寺院内部の紛争や、寺院同士の抗争、寺院と武士・貴族との争いも頻繁に起きていました。幕府僧が権門寺院に大量に進出すると、紛争処理が一層むずかしくなります。あらゆるところに幕府関係者がいるからです。しかもこれまでは、こうした紛争は朝廷が処理すべきことで、幕府はその手ぬるさを批判していれば済みました。ところが、今やすべての責任を幕府が背負うことになります。利害調整はどんどん難しくなる一方、あらゆる不満が幕府に向けられるようになる。鎌倉幕府が勢力を拡大し、幕府僧が京都の権門寺院に進出すればするほど、幕府への不満が高まり、とうとう鎌倉幕府は滅んでしまいます。幕府僧の爆発的な発展は、むしろ鎌倉幕府の瓦解を誘発したと言えます。

      結章   まとめと展望

  最後に、まとめと展望を述べておきます。まずは、まとめから。第一に、東国と西国の二つの仏教界は密接に絡みあっていました。幕府の東国での仏教政策と、畿内権門寺院に対する政策は連動していましたし、幕府僧は鎌倉で活動するだけでなく、京都に逆流して顕密仏教界を席巻しました。もちろん、鎌倉を中心とする東国の仏教界は一定の自立性をもっています。でも、大きく見ると、それは京都を中心とする顕密体制に包摂されていました。ただし一方的な包摂で

参照

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