長谷部亜子
論 文 題 目
日本語空間名詞の研究
(論文内容の要旨)
本論文は、序章と、第Ⅰ章~第Ⅵ章、終章の全8章から成る。序章では、上下に関わ る和語空間名詞としてモト、スエ、シタ、ウエを取りあげる理由について述べたあと、
ウエの関連表現として接続詞コノウエとソノウエを、モトの類義表現としてナカを、考 察対象にする理由を述べる。モト、スエといった上下の空間名詞を取りあげる理由につ いては、それぞれの語が上代からすでに使用されている古い語であるということがまず 挙げられる。各語は歴史の長さゆえ、様々な比喩的思考を経て現代語においては多義を 発達させており、その仕組みを明らかにすることは意味論的に有意義であると考えるか らである。また、序論では本論文を通じてどのような観点から意味分析を行うかという 点についても触れる。各章における意味分析は、すべて実例に基づく。用例の収集方法 は各章によって異なるが、分析は、意味的、統語的観点から行い、必要に応じて認知言 語学的な観点も取り入れることにする。
第Ⅰ章では、モトの多義を扱う。モトは、以前より空間的意味と時間的意味があることが 知られている。しかし、モトの多義全体を見渡すと、空間的意味なのか時間的意味なのか説 明できないものがある。本論文では、モトのすべての意味を統一的に説明するため、「プロ セス性の有無」という観点を取り入れる。モトの意味に関与する「プロセス性」とは、実際 のプロセスとは逆方向の、つまり時間的にプロセスを遡るという意味で用いる。時間的に遡 るプロセスを含意するかしないかで、前者をプロセス用法、後者を非プロセス用法ととらえ なおすことで、多義を分類、整理する。これにより、空間的、時間的といった表現では統一 的に説明できない意味用法も説明できる。
第Ⅱ章では、現代語スエの多義構造を、上代の意味をベースに据え、明らかにする。第Ⅰ
章において、スエの対義語モトの意味分析の際に「プロセス性」を含意するかどうかを問 題にしたことから、スエの分析においてもこの観点を取り入れる。スエは、どの意味にお いても対象となるある事物や事象の<最後>の部分を指すが、上代においては空間的最後
(物理的最後)であるか、時間的最後であるのか、といった観点からのみで分類できる。
しかし、現代語では、合計11の意味が確認され、空間、時間といった用語のみでは説明で きない。<物理的最後>の下位類として 3種、<時間的最後>の下位類に3種、そして上 代にはなかった<概念的最後>に分類される意味もあり、これは 5 種ある。このうちのほ とんどが時間の経過に沿った「プロセス性」を有している点で共通している。モトが上下 の概念を生かし意味を発達させたのに対し、スエは意味の成立に際し上下の概念があまり 関与しなかったようである。一方で、プロセス性(モトのプロセス性は時間を遡るプロセ スであり、スエのプロセス性は時間に則したプロセスである)という点からは、スエもモ トもプロセス性という特性を生かした多義が認められ、それぞれに独自の意味用法を展開 している。
第Ⅲ章では、モトと類義関係にあるシタの多義の分析を行う。シタとモトは、ともに「下」
と表記し得る点で共通する。シタは、4語のなかでも多義的区別の少ない語であることから、
本論では、シタの意味分析も行うが、その分析の成果が「X の下」という場合の「下」の 読み分けにどのように現れるかという点に議論をしぼって分析を進める。そのため、第Ⅲ 章はシタとモトの類義語分析に近い。「Xの下」という場合、前接名詞Xの種類によって読 みが決定される。一般的には具体的事物についてはシタと読み、抽象的な事象に対しては モトと読む。この前接句の特徴は、第Ⅰ章のモトの分析結果と第Ⅲ章の意味分析の結果に 準ずる。ただし、「X の下」の「X」が「人」や「木」、「天体」といった具体物の場合に、
どちらの読みもあり得、その場合も後続文脈との関係性によって解釈が異なり、読みが決 まる。この両語の読みわけに関しては、文体的な違いも考慮する必要がある。
シタは、第Ⅳ章でとりあげるウエの対義語でもある。ウエが形式名詞や複合辞といった抽 象的な(機能のみを表す)用法を複数持っているのに対し、シタという語には、そうした抽 象的な用法がない。基準より物理的に低い位置を指したり、表面に対し裏側の部分を指した り、ヒエラルキーの中における低い位置を指すなど、基本的に位置関係を表すのみである。
第Ⅳ章では、ウエの多義を、意味的側面と統語的側面の両面から考察することにより、よ り統合的に説明する。ウエの意味としては、上下の概念が意味に反映されると一般的に考え られている。しかし、ウエは、意味が多義語化する際、上下の概念が関与するだけでなく、
表面性といった特徴も関与することがある。ウエは、物理的・空間的な意味でも日常的に用 いられるが、一方で、表面性や、対象物との概念的位置関係といった特徴が、形式名詞や複 合辞といった意味に展開したと考えられる。この抽象的な意味も、特殊な用法ではなく、実 際よく使用される用法である。そして、本論文ではこの抽象的な用法においても、すべて物 理的空間におけるウエのイメージを、抽象的な概念空間にもあてはめることで説明できると 主張する。本論文では、意味的区別を、形式の面からも補強し、整理するが、その結果、意 味的な抽象度の違いが、統語的な制約の強弱と関わっていることも示す。今回、空間名詞と してのイメージを形式名詞や複合辞の意味にまで応用し、そこに統語的な整理を加えたこと で、より統合的な意味分析ができたように思う。
第Ⅴ章では、第Ⅳ章ウエの多義のひとつ<累加用法>に含まれる接続詞形式コノウエとソ ノウエの使い分けの議論を行う。第Ⅳ章までは名詞を対象にしていたが、ここでは接続詞が 考察対象になる。そのため、接続詞の前後に表わされる事態(前件事態と後件事態)に注目 する。名詞単独の<累加用法>ウエの分析では前件、後件の事態のとらえかたにおいて、話 者の視点というものに注目しなかった。しかし、接続詞コノウエとソノウエの使い分けには 話者の視点から見た現在がどこに置かれるかという問題が関わる。また、その置かれ方によ って各事態が既に成立した事態なのか、まだ成立していない事態なのかが決定することを示 す。コノウエの場合は、話者の現在は、前件と後件に挟まれる形で出現する。このことを、
第Ⅴ章のなかで前件が既然事態、後件が未然事態と把握されるという根拠をもって説明す る。さらに、ソノウエの場合は、前後件が未然事態同士か、あるいは前後件が既然事態同士 の場合に選択されることを指摘する。ところで、コ系指示詞やソ系指示詞といった指示語に 関する先行研究のなかでこれまでにさまざまな見解が示されてきた(コ系指示詞が文脈照応 用法であっても現場指示的であることや、コ系指示詞が既知現実を指し、ソ系指示詞が未知
現実も既知現実も指し得るといった指摘がある)。本論文の分析はその見解を実証するもの である。指示語のこれまでの議論のいくつかは、コやソの特徴をある種感覚的にとらえてい たむきもあったが、本論文のアプローチでは、前後件の事態の把握のしかたの差異という形 ではっきりとコとソの使い分けとその仕組みを示すことができる。
第Ⅵ章では、モトが副詞的用法となる際に、ナカと類義語になる(「厳しい状況のモトデ みんながんばった」と「厳しい状況のナカデみんながんばった」のように類義関係になる)
ことに着目し、両語の意味的な違いや表現効果の違いに関する分析を行う。両語は、このよ うに同じような文脈で用いられる場合もあるが、統語的にみて、顕著な好みの差が見られる。
モトは、前接句に動詞句や形容詞句をとることを極端に嫌う傾向がある。また、この用法の 際に、後接形式も、無助詞か格助詞ニ、デしか許容しないことから、モトは名詞性よりも副 詞性を帯びていると考えられる。一方、ナカは、前接形式、後接形式ともに比較的自由に語 を選択することができるため、名詞性が強いのである。
最後に、終章では第Ⅰ章から第Ⅳ章で考察した、モト、スエ、シタ、ウエの多義について、
どのような特徴が各語の意味(多義)同士のあいだで関連し、新たな意味へと展開している のか、包括的に考える。また、第Ⅴ章で考察した接続詞コノウエとソノウエについてはその 分析結果の応用例として、直近の研究成果についても触れる。
第Ⅰ章から第Ⅳ章でとりあげた4語について、各語は、ある意味においては類義語であり、
ある意味においては、対義語になるという関係性がある。終章における考察の際の観点のひ とつめは、上下の概念(空間的な意味における上下という概念が、さまざまな認知領域に写 像されることはそれまでの議論で述べている)が意味の背景に認められるかどうかである。
ふたつめは、プロセス性の関与である。プロセス性についても、それまでの考察で主張した ものであるが、これはモトやスエの多義の展開に大きく関わる。さらに、このプロセス性が、
ウエの複合辞としての用法にも適用されることをあらたに指摘するなど、4語の意味特性を 表の形で示す。みっつめの観点には表現性を挙げ、よっつめの観点に、時間そのものを指す 用法かどうかという点を挙げる。このような観点を設けることで、どういった意味特性で各
意味同士が関連し類似した意味になるのか、または対義的な位置に置かれるのかを示す。
終章では、末尾に、本論文を構成する本論文申請者の既刊参考論文の一覧を載せる。
各章で参照した参考文献は、それぞれの章の末尾に掲載しているが、終章のあとに、「参 考文献一覧」の項目を設け、本論文全体を通じて参照した参考文献すべてを一括して掲載す る。