九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
少年期在京時代の賀茂季鷹 : 初期詠草とその周辺
盛田, 帝子
http://hdl.handle.net/2324/4741958
出版情報:雅俗. 8, pp.153-172, 2001-01-27. 雅俗の会 バージョン:
権利関係:
季鷹の生涯は大きく分けて三期に分れる︒少年期在京時代︵宝暦四年生ー明和八年︶︑在江時代︵明和九年ー寛政三年︶︑
帰京後在京時代︵天保十二没年迄︶である︒筆者は拙稿﹁賀茂季鷹の生いたちと諸大夫時代﹂︵﹁語文研究﹂第八十六・八十
七号︑平成十一年六月︶において︑少年期在京時代の季鷹の事蹟に焦点をしぼり︑季厩の生いたちや有栖川宮家諸大夫とし
ての活動を報告した︒季巖は有栖川宮家に出仕していたこともあり︑堂上歌壇との関りが深い地下歌人であり︑季鷹とその
周辺を調査することによって︑明和期堂上歌学の在り方が明らかになってくることも少なくない︒
そこで本稿は前掲拙稿の続編として︑少年期在京時代の季鷹の歌人としての活動に焦点をあて︑次の三点について述べて
みたい︒第一に季鷹の和歌の師の確定︑第二に季鷹の初期詠草および有栖川宮歌学の一側面についての報告︑第三に︑二か
ら派生する問題として宝暦明和期における二条派歌学についての報告である︒ はじめに
少年期在京時代の賀茂季鷹
ー—初期詠草とその周辺
I盛
田
帝
子
季鷹の和歌の師
狩野正栄近信 季 福 宗 恭 迄 相 願
賀茂季鷹が歌学の土台を策いた在京時代の和歌の師とは一体誰であったのだろうか︒近来の諸論文・辞典等によれば︑そ
よりひとのほとんどが何の疑いもなく有栖川宮職仁親王としている︒これは︑おそらく嘉永七年刊﹃古今墨跡鑑定便覧﹄の﹁初有栖
川職仁親王ノ御門二入テ詠班ヲ修学ス︒後江戸二住テ千蔭翁二交リテ事ヲ問フ﹂によるものであろう︒ところが同じく幕末
に出版された文久二年春増補﹃本朝古今新増書画便覧﹄には﹁初和班ヲ有栖川龍淵王二学ブ﹂とあって︑師を﹁龍淵﹂とし
おりひとている︒﹁龍淵﹂とは有栖川宮織仁親王の法諒︒職仁親王の子である︒このように既に幕末において季贋の師については職
仁親王と織仁親王の二説があった︒
近代になってそのほとんどが職仁親王説をとる中で︑これに疑念を呈したのは福井久蔵﹃近世和歌史﹄︵成美堂書店︑昭
和五年刊︶であった︒同書で福井氏は﹁賀茂季鷹は鑑定便覧によれば有栖川宮職仁親王の門人とあるが︑宮家に存する御門
人契約記には載つてゐない︒親王御斃去の明和六年には季鷹は十八歳なれば教を請う年配ではあるが或は織仁親王の御門人
などではあるまいか﹂と述べている︒
福井氏がいうところの﹁御門人契約記﹂とは︑宮内庁書陵部所蔵﹃入木門人帖寛延二年
1
明和六有栖川宮家﹄︵同所
蔵マイクロフィルムによる︶である︒﹁入木門人帖﹂とあるが︑内容は明らかに歌道門人帖である︒寛延二年九月二十七日
から職仁親王没年の明和六年十月十日までの入門者を︑日付順に︑日付.入門者名・仲介者名の順に記しており︑桃園天皇・
後桜町天皇をはじめとする当時の堂上歌人から江戸住の商家等迄が名を連ねる︒職仁親王が当時の歌壇の中心的位置にあっ
たことがよく知られる資料である︒しかし︑福井氏の言のごとく確かにここには季鷹の入門時の記録はない︒ところが明和
六年三月の條に
同︵
明和
六︶
年同
︵三
︶月
廿八
日
︶内盛田注︒以下同じ︶
折しもあれこよひはみてる月かげにつばさまがはでわたる雁がね一季
︵第
二節
に図
示︶
この一季短冊の右に季鷹晩年の筆跡で﹁有栖川宮十五夜御当座季鷹︹十五才︺より求﹂︵︹︺内は割注︒以下同じ︶と記
された付箋が貼られている︒季脳晩年の筆跡で記されたことの内容を信じれば︑季鷹十五歳の明和五年八月十五日︑有栖川
宮職仁親王主催の当座歌会に詠進し︑同じく出座していた日野資枝・富士谷成章等の短冊をも含めて職仁親王に求め︑手に
入れたということになる︒そこでそれぞれの短冊を確認すると︑短冊はすべて色違打曇短冊で︑一枚一枚に記された題は全
て同筆︒題も﹁月前雁﹂﹁月前鹿﹂﹁月前萩﹂﹁月前虫﹂⁝と組題からの出題で︑時節を踏まえられていることから︑八月十五 月前膳 と記されている︒狩野近信が職仁親王に入門するのに︑﹁季福・宗恭﹂を仲介にしたという記事である︒ここにいう﹁季福﹂
注3は季鷹の改名前の名︒﹃入木門人帖﹄にひとわたり目を通してみると︑新たな門人を職仁親王に紹介する場合︑当然のこと
ながらその仲介者は既に入門しているという場合がほとんどである︒さすれば︑この時近信の仲介をした季福︵季漑︶の立
場も︑入門という形式を取っていなかったにしろ︑歌道に於いて新たな入門者を仲介できるほどの位個には在ったと言い得
るであろう︒
他方︑織仁親王の門人録に季厩の名はあるのであろうか︒現在のところ織仁親王の門人帖の存在は確認されていないが︑
入門者を同親王の日記等から収録した﹁歌道入門者一覧表﹂︵﹃織仁親王行実﹄昭和十三年︑高松宮蔵版︶によれば︑ここに
は季朦の名はない︒よって︑このかぎりでは季鷹が門人であったということは言えない︒職仁親王︑織仁親王の門人録から
は季鷹の入門記録を確認することはできないのである︒それでは職仁親王もしくは織仁親王より歌の教えを受けた具体的記
録は残っていないだろうか︒
す け き な り あ き ら
この問題に有力な示唆をあたえる一連の短冊群が季鷹旧蔵短冊帖の中に存在する︒この短冊群は日野資枝︑富士谷成章等︑
職仁親王門であった堂上・地下の歌人達の自筆短冊から成り︑中に一季︵かずすえ︒季福の改名前の名︒注3参照︶の短冊
も含まれる︒
夜に有栖川宮家で行われた探題形式の当座歌会と考えて問違いない︒題を探った一季︑資枝︑成章がそれぞれに歌を清書し
て提出した短冊群を一季が職仁親王に求めて手に入れたものということになろう︒
ところが︑問題になるのは季鷹が晩年に記した付箋の記述のうちの﹁十五オ﹂という年齢である︒注
3で記したごとく
かずすえ﹃有栖川宮諸大夫伝﹄によれば︑季鷹が一季と名乗っていたのは明和五年正月四日迄であり︑同年正月五日に﹁一季﹂から
﹁季福﹂に改名している︒さすれば﹁一季﹂と署名しているこの短冊は︑少なくとも明和四年八月十五日以前の十五夜のも
のでなくてはならず︑季鷹晩年の付箋と矛盾をきたすことになる︒この付箋の内容をどのように考えればよいのであろうか︒
季鷹は︑晩年になればなるほど自分の歳を偽って︑少しでも多く記す癖があった︒このことは既に森繁夫﹁山本季厩年齢
考﹂︵﹃人物百談﹄三宅書店︑昭和十八年刊︶をはじめ季鷹の没年齢を扱った諸論文で繰り返し説かれてきたことであるし︑
実際に季鷹晩年の筆跡で記された短冊・和歌懐紙等にはこのような例が多く見られる︒ここも晩年の華跡では﹁十五オ﹂と
記されているが︑歌会当日に清書した短冊の﹁一季﹂という署名から︑実際には﹁十四オ﹂以前の短冊である可能性が高い︒
この当座歌会と一致する宮家側からの資料の存在を確認できないが︑恐らくは一季が職仁親王の御側にあがった明和二年
︵十二歳︶から明和四年︵十四歳︶の間の短冊とみて間違いないだろう︒職仁親王主催の当座歌会に出座し︑歌の教えを受
けていた一季像が浮かび上がってくる︒
また︑同じく季鷹旧蔵本に︑以下のような奥書を持つ逸題歌集︵写本一冊︶がある︒
此一巻は侍座によって見きく所をしるしはべるなり︒努/\不可有他見者也︒
明 和 八 年 仲 冬 季 福
注4﹁明和八年仲冬﹂とあることから︑季福︵季鷹︶が有栖川宮家の諸大夫を辞した翌年に書写した歌集ということになる︒表
紙︑初丁は既に失われており︑外題︑内題ともに知られないが︑四季︑恋︑雑の部より成り︑職仁親王の﹃其葉集﹄︑また
﹃新続題林和歌集﹄に入集している職仁親王歌と一致する︒したがって奥書に記されるように季福が仕えていたときに見聞
した職仁親王の和歌を︑諸大夫を辞した後に繍めた歌集といえる︒﹁此一巻は侍座によって見きく所をしるしはべるなり﹂
御嘗座
早梅
\ 香
しら雪もふる枝ながらに咲出て春をやいそぐその4梅がえ
春は又たぐひありとや梅のはなその4なからに咲にほふらむ
︵第
二節
に図
示︶
注5﹁兵部卿宮様﹂というのは織仁親王のこと︒﹁明和六脹月仲八﹂﹁御常座﹂とあることから︑明和六年十二月十八日︑季鷹は
織仁親王主催の当座歌会に出座し︑﹁早梅﹂の題で二首詠進した︒織仁親王は二首に目を通し︑内一首に添削を施した上で
点を加えたという資料であることが知られる︒
この時点での織仁親王と季鷹を取り巻く状況について簡単に説明しておけば︑織仁親王は明和二年七月二日︑十三歳で禁 季福上 という記述より︑この逸題歌集を︑季鷹が職仁親王に学んだ傍証的資料と位置付けることができよう︒季鷹と職仁親王との関係に大きな示唆を与える一資料であることは間違いない︒
こうして見てくると︑季鷹が職仁親王に対して正式に入門手続きをとっていたことを示す資料は未だ確認できないが︑職
仁親王に新たな門人を仲介していること︑親王主催の当座歌会への出座︑親王の和歌を収集した逸題歌集の存在等から︑季
鷹が職仁親王の歌の教えを受けていたことはまず間違いないであろう︒﹃古今墨跡鑑定便覧﹄の記事をもう一度信用してお
いて
よい
︒
では︑織仁親王より歌の教えを受けた具体的記録は残っていないだろうか︒季贋旧蔵の和歌懐紙中︑以下のような添削資
料がみられる︒
兵部卿宮様御黙
明和六服月仲八︵端裏書き︶
中和歌当座の人数に加入し︑翌三年正月二十四日︑十四歳で初めて禁中和歌御会始に詠進︑和歌の習練を積んでいた︒
とこ
ろが明和六年十月二十一日︑父職仁親王の危篤につき︑後桜町天皇より急逮天仁遠波伝受を受けるという特別の叡慮を受け
ることとなる︒職仁親王は桃園天皇・後桜町天皇に古今伝受を伝え︑ながらく宮廷歌壇の中心的存在であり続けた︒後桜町
天皇は歌道師範として長年勤めた職仁親王に報いる特別の叡慮として︑有栖川宮家を継ぐべき織仁親王に天仁遠波伝受を授
けたという︒この時織仁親王はわずか十七歳であり︑御所伝受の第一階梯を受ける年齢としては異例の若さといえる︒
それ
を見届けるように翌二十二日に職仁親王は没した︒この当座歌会が催されるニヶ月ほど前ということになる︒
さて︑宮家を継いだ織仁親王は十七歳という若さにして父職仁親王の歌道門人を次々と引き継いでゆくこととなる︒﹃織
仁親王行実﹄によれば︑
︵明和六年十二月︶十五日︑︵織仁親王ガ︶参内のところ︑︵後桜町天皇ヨリ︶地下人の和歌添削を許容せられ︑堂上方
は︵職仁親王ノ︶忌明の後に為すべき旨の聖慮を拝せらる︒
とあり︑明和六年十二月十五日に参内した折りに︑織仁は︑後桜町天皇より︑地下歌人の和歌添削を許され︑また︑堂上歌
人への添削は︑職仁親王の忌明に行うことを許されたことがわかる︒前掲の季鷹詠に対する添削資料は︑明和六年十二月十
八日の当座歌会の和歌懐紙であったので︑職仁親王没後︑織仁親王がはじめて地下門人を集めて行った当座歌会の記念すべ
き添削資料であったことが知られる︒織仁親王が地下門弟の師範として初めて行った当座歌会に季脱は出座し︑添削を受け
たのであった︒
このようにみてくると︑季屈は有栖川宮家の諸大夫として仕えながら︑初め職仁親王より歌道の手解きを受け︑明和六年
十月二十二日の親王没後は︑織仁親王に就いて和歌を学んでいたことが知られる︒職仁親王と季鷹は四十一歳の年の開きが
あり︑その歌道に於ける技量も知識も随分な開きがあったであろうが︑織仁親王と季隈の年の差は僅か一歳︒親王の方が季
鷹より年長ではあるが︑年若い織仁親王の指導には︑何らかの物足りなさを感じたかもしれない︒当座歌会の約三ヶ月後に
季鷹は有栖川宮家の諸大夫並びに官位を辞し︑約二年後に江戸に下向する︒
宮十五夜
` ヽ
御 営 座
:
有栖川r│
︑
忍f%折しもあれこよひは入てる月かけに
a 双/
つはさまかはてわたる
r
か ね 一 季 月 前 腸
ふ ︐
吟 A有栖川宮十五夜御当座︵短冊
季鷹十五才 よ り 求
季鷹の少年期在京時代の詠草として現在確認されるのは︑前節で引用した三首︑すなわち︑明和二年から四年にかけての
作と思われる︑﹁有栖川宮十五夜御当座﹂における﹁月前雁﹂題で詠んだ一首︵短冊︶と︑明和六年作の織仁親王主催当座
歌会における﹁早梅﹂題で詠んだ二首︵懐紙︑織仁親王加点︶である︒両資料は︑当時の当座歌会の在り方を伺うのに都合
のよい資料であるので︑あらためて図示して掲げておく︒ 有栖川宮十五夜御当座詠進歌をめぐって 以上︑職仁親王の門人録にも︑織仁親王の門人録にも季鷹の名は見出せないが︑当時の添削資料等によって考える限り︑
季鷹は職仁・織仁両親王から歌の教えを受けていたことが理解されるであろう︒次節以下では︑季鷹の初期詠草について検
討し︑さらに季鷹周辺の歌学についても言及する︒
B
(表)
咲 梅 春 そ 咲 且
儡 喜
座に の は の 出
ほ は 又
梅 入 春 て を
雪も ふ な た
ら そ く か ふ
む の ひ
ラえ香やる
な
入 あ り い 嬰
か と そ く か
ら や ら
'
に に
織仁親王主催当座歌会︵懐紙︶
さ ね え さ ね お か
姉小路実紀記﹃竹亭和歌読方条目﹄︑武者小路実岳述﹃実岳卿御口授之記﹄︵いずれも明治書院﹃近世歌学集成﹄所収︶等
により︑近世中期の当座歌会のありようをうかがうことができるが︑ここでは﹃竹亭和歌読方条目﹄のなかの﹁内会当座之
式﹂を書き下して掲げる︒
内会当座之式
催之人︵公宴和歌御会における﹁奉行﹂に相当する︶︑題者︑講師︑給仕之人
(裏)
兵部卿宮様御勲
明和六服月仲八
(端裏書き)
月前應 催之人︑短冊を題者に進じ︑題を書かしめ︑題を組み重ね︑蓋に入れ影前に置く︒次に座を催す︒次に各々着座畢る︒次に出座之人︑辞譲の後︑次第に立て︑題を取に帰座す︒次に給仕之人︑硯紙を取て一々進ず︹紙︑上座の前
ばかりに置き︑硯計次第に之を置く︺︒次に上座従り紙を取り︑回す︒次に各々墨を磨り題を書す︒平座して吟ず︒次に
吟成りて︑点を請ひ︑短冊を清書し︑催之人に進ず︒催之人︑清書の短冊を蓋に入れ︑影前に置く︹此間︑出座之
人退座︺︒次に各々着座︒次に講師着座し︹蓋の前︺︑一々講畢て退く︒次に各々退下す︹下座従り︺︒次に催之人︑
蓋を取て︑影前に進て退く︒次に饗を催す︵引用にあたり一部表記を改めた︶︒
ここで挙げた当座歌会のありかたと︑掲出した季鷹短冊
(A
)︑季鷹懐紙
(B ) の形式は合致しており︑Bが織仁親王に点
を受けるための下書きの懐紙であること︑Aが職仁親王に添削を受けたあとに清書した短冊であることは明らかである︒A
Bは時期を異にする資料であるが︑期せずして当座歌会の資料として残りうる二つの形式を示している︒
当座歌会が終了したあと︑下書きの懐紙は出座した歌人個人のものとなるが︑清書短冊は本来主催者の側に残されるべき
ものである︒
(A )
の場合︑その清書短冊一式が季鷹の手許にあったということは︑職仁親王に求めて季鷹が自分の手に入
れたということが推定され︑その推定はさきほどの付箋の記述によって裏付けられるのである︒
では少年期の季鷹の詠草として現在確認される最も早い歌である︑Aの歌について検討してみよう︒
折しもあれこよひはみてる月かげにつばさまがはでわたる雁がね
さねかげ季鷹の探った題は﹁月前雁﹂︒職仁親王と同じく宮廷歌会の中心的位置にあった武者小路実陰は﹃初学考鑑﹄の中で︑﹁何の
題をとりたりとも︑その題の一部をよみ吟じて︑その内にてよみ出すべき事也﹂と︑出題された歌題に関連する類題和歌集
の箇所を通読し︑よく味わってから︑新しい和歌を詠むべきなのだという︵新日本古典文学大系﹃近世歌文集上﹄の上野洋
三氏の脚注参照︶︒実際︑当時の題詠に対する修練は実陰の説いているような方法で行われていたであろうが︑季鷹が参考
にしたと思われる類題集を現段階では特定することができない︒しかし︑この時季鷹が題の本意を汲み取る際の参考にした
一季
⑥ 八
⑤ 四
④ 七
と思われる先行歌に︑例えば以下のような作品があったと想定されよう︒
雁 を 伏 見 院 御 歌
① 五 四 六 つ れ て と ぶ あ ま た の つ ば さ よ こ ぎ り て 月 の し た 行 よ は の か り が ね
︵﹃風雅和歌集﹄︒国歌大観による︒なお番号は出典の歌番号︒以下同じ︶
月 前 雁 資 慶
② 三 九 六 ニ
︱ つ ら の 数 さ へ 見 え て 月 の ぼ る 同 じ 嶺 こ す 秋 の か り が ね
︵﹃新題林和歌集﹄︒上野洋三編﹃近世和歌撰集集成﹄による︶
月 前 雁 雅 香
③ 五 八 三 五 秋 の 月 ひ か り も き よ く す め る 夜 は わ た る か り が ね 数 も ま が は ず
︵﹃新続題林和歌集﹄︒同右による︶
いずれも︑澄んだ月光の中を渡って来る雁の情景を視覚的に詠んだものである︒また︑使用する歌語の点で参考にしたと思
われる先行歌に
弁の乳母
をりしもあれいかに契りてかりがねの花の盛りに帰りそめけん
︵﹃後拾遺和歌集﹄︒新日本古典文学大系による︶
八月十五夜
雲わけて秋のなかばをてらせどもこよひの空にみてる月かな
︵﹃
匡衡
集﹄
︒国
歌大
観に
よる
︶ 四 番 右 秋 雲 女 房
︵ 伏 見 上 皇
︶
あしびきのやまのさくらもむら雲につばさもまがふあまつかりがね
︵﹃歌合永仁五年当座﹄︒国歌大観による︶
等がある︒ここで注目したいのは季鷹が参考にしたと思われる歌の﹁題﹂である︒
C D
の伏見院の歌の題は﹃風雅和歌集﹄
では﹁雁を﹂となっているが︑同歌を収録した﹃伏見院御集﹄︵国歌大観番号一
0
四八︶では﹁月前雁﹂となっている︒また︑④の弁の乳母の歌の題は古今集にはないが︑﹃弁乳母集﹄︵国歌大観番号二二︶では﹁かへるかり﹂となっている︒こ
のように見てくると︑季隊が参考にしたと思われる歌の﹁題﹂は⑥の﹁秋雲﹂以外は﹁有栖川宮十五夜御常座﹂の歌題
﹁月前雁﹂に関連する﹁雁﹂︑﹁八月十五夜﹂︑また歌題そのものである﹁月前雁﹂である︒季服は︑同題もしくは﹁月﹂﹁雁﹂
﹁十五夜﹂という﹁有栖川宮十五夜御嘗座﹂の場や歌題に関連する先行歌の中から発想を得︑詞を得て︑先のような歌を生
み出したのであろう︒
それでは︑季鷹がこの歌を詠出した際の師であり︑かつこの歌に添削を加えて合格歌とした職仁親王は﹁月前雁﹂の題意
をどのように捉えていたのであろうか︒﹃職仁親王行実﹄︵昭和十三年︑高松宮蔵版︶第九章﹁御性行の一斑﹂を披くと﹁歌
学に関する著述︑有栖川宮家作歌之事﹂︵頭欄見出し︶として以下のような記述がある︒
親王︑歌学に関して御著述頗る多く︑就中︑有栖川宮家作歌之事一巻は︑桃園天皇に奉られしものにして︑御家の歌風
は冷泉家の歌風とは︑其の間︑趣を異にせることを述べ︑且つ︑立春より四季各題詠出の心得を説きたるものなり︵下略︶
︵傍点盛田︒以下同じ︶
ここにいう﹁有栖川宮家作歌之事一巻﹂は﹃国書総目録﹄に﹁有栖川宮家作歌之書︹ありすがわみやけさっかのしょ︺一巻
︿類﹀和歌︿著﹀有栖川宮職仁親王︿写﹀高松宮﹂と掲出されているものと思われるが︑現段階では未見︒しかし︑この一
巻と同内容ではないかと思われる写本一冊が国立歴史民俗博物館に高松宮家本として所蔵されている︒表紙の無枠箔に﹁作
歌之書﹂と墨書された横本︒冒頭に系図があり︑俊成以後︑二条家は為世まで︑冷泉家は為秀までを載せ︑二条家と冷泉家
が分流した経緯を記す︒そのあとの注記をそのままの形で再録する︒
右︑雲冗院︑
桜町院︑仰光栄公被申之趣二而候︒
如 此 職 仁 親 王 筆 跡 二 而
桃園院江被献候也︒依写此゜
中務卿織仁親王
これに続いて︑﹁立春より四季各題詠出の心得を説﹂︵前掲﹃職仁親王行実﹄︶いたとするにまったく一致する内容が続く︒
﹃行実﹄にいう﹃作歌之事﹄の本文内容が本書と同じ可能性は高い︒ではこの国立歴史民俗博物館所蔵﹃作歌之書﹄から
﹁雁﹂﹁月﹂に関する事項を引用してみよう︒
應
r
は待こ4ろを
読り
︒ 玉 薬 我 為 に く る と も き か ぬ 初 か り の 空 に ま た る
4秋にも有かな
r
のこゑはかんふかく酒もす4むよし読り︒新 千 明 が た の 雲 井 の か り の な み だ に や い と ゞ ね ざ め の 床 の 露 け き
r
のくる頃は秋も夜さむになり行よしよめり︒新後拾いつしかと鳴てきにけり秋風のよさむしらる
4衣かりがね
其外
r
の研は景気を専に読り︒︵中略︶其外︑月によせてよめり︒月によせては︑花につれなきかりも月には 心やよする︒月によこぎる︒月にうかれてくるr °
をのがはかぜにすむ月︒すむ月にかずさへみゆる︒月にな
</\くる
r
︒︵下略︶︵句読点︑濁点は盛田︒以下同じ︶﹁雁﹂の題に関しては︑雁にこと寄せて﹁待こ4ろ﹂︑雁の声に﹁泊もす4むよし﹂︑雁の来る頃に﹁秋も夜さむになり行よ
し﹂を詠み︑またそれ以外では﹁景気﹂を専らに詠むという︒また︑雁を月にこと寄せて詠む場合︑﹁すむ月にかずさへみ ゆる﹂という表現が抽出されている︒これは前出の②資慶の﹁︱つらの数さへ見えて月のぼる同じ嶺こす秋のかりがね﹂
︵﹃新題林和歌集﹄︶や同じく前出R﹁秋の月ひかりもきよくすめる夜はわたるかりがね数もまがはず﹂︵﹃新続題林和歌集﹄︶
の趣向と同じであることが知られる︒
つぎに﹃作歌之書﹄の﹁月﹂に関する記述をみてみよう︒
月︵前略︶もち月は︑入日にむかふ︹十五日の月は入日にさし向ものなり︺︒みつる月影︒みつるよの月︒望月の影︒
︵中略︶八月十五夜は︑秋のなかば︒あきのもなか︒月のこよひ︒こよひの月︹すべてこよひといへば十五夜に相
叶なり︺︒名にしおふ月︒いけるをはなつ︹石清水に放生会なり︺︒すべて八月十五夜・九月十三夜の月は︑くまも
なくさしいでたる影のめづらしく︑いつも見る月ながら︑今夜はめなれぬやうにおぼゆる心をいひ︑雲・きりもこ
よひの空には心ありとやはれぬらんといひ︑こまもろこしの空も同じ光をめづらんといひ︑たかき・いやしき︑をしなべてひとつ心にめづる、とも。其外思ひよせたる心あらば、山・川・野•海・池いづこにてもよむべし。たゞ
それも︑今みる所︑山ならば山にて詠じ︑海ならば海︑さしあたりたる眼前の景気然るべし︒眼前の景気ならぬは
月にさしむかひたる即典にはいかが︹是は十五夜の月にさしむかひての心持也︒但し思ひやる心はくるしからずや︒たとへば月にむかひて、すま•あかしを思ひやるこ4ろなり〕。このように季鷹はまさしく『作歌之書』の説くところの本意•本情に違うことなく、「雁」と「月」との組み合わせの趣向
をよく理解して歌語を選択し︑和歌を詠み出していたのであった︒﹁有栖川宮十五夜御嘗座﹂であることから﹁みてる﹂﹁こ
よひ﹂という詞を使用したことも︑﹁十五夜の月にさしむかひての心持﹂で﹁眼前の景気﹂を詠んだのもすべて︑有栖川宮
家の﹃作歌之書﹄に叶った詠みぶりと言えよう︒職仁親王の添削を経た一季歌は︑時節を踏まえて使用すべき歌語を使用し︑
題の本意を璽視した︑有栖川宮家の歌学に叶った歌である︒紙幅の都合で詳細は省略するが︑﹁早梅﹂の二首についても同
様に検討すると︑﹃作歌之書﹄に述べる﹁梅﹂の本意・作例に適う詠みぶりをしている︒少年期の季鷹詠草は習作期らしい
作法書通りの詠風であったといえよう︒
﹃作歌之書﹄と﹃浜のまさご﹄
ところで︑前記﹃作歌之書﹄のところどころに﹁初学和班式二出﹂という言辞がみられる︒﹃初学和歌式﹄は元禄九年︑
初学者に向けて刊行された有賀長伯の歌学書︵七巻七冊︶︒長伯は望月長孝︑平間長雅に学び︑その後時代を代表する指導
者として京阪を中心に多くの門人をもった︒二条派とはいえ地下歌人であった長伯の歌書﹃初学和歌式﹄がなぜ有栖川宮家
の歌学書﹃作歌之書﹄に引用されたのであろうか︒長伯は﹃初学和歌式﹄に不十分であった解説を補って翌元禄十年﹃浜
のまさご﹄を出版した︒したがって︑春︑夏︑秋︑冬︑恋上︑恋下︑雑という七巻七冊に分類配列された﹃浜のまさご﹄の
解説のなかには﹁初学和歌式に出﹂という注が頻出する︒そこで﹃作歌之書﹄と﹃浜のまさご﹄の本文を比較してみるとそ
の内容がほぽ一致することがわかった︒試みにそれぞれの巻頭部分︵﹁立春﹂ー﹁初春﹂︶を比較してみよう︒
作歌之書
立春立春ハ年ノ内二も有︒年明而五三日又ハ七日八日比にも
有てさたまらす︒されと古班にも元日二春たつやうに
よみたるも多し︒
続 拾 あ ら 玉 の 年 の 一 よ の 隔 に て 今 日 よ り 春 と た つ か す み か な 初春初春早春ハ春たつ日より三五日まてを読也︒立
春ハはる立日一日にかきる︒立春には初春早春ノ如ク
よミてハ不叶︒初春早春にハ立春の心をよみても叶也︒
されは立春二よめるされは立春二よめる心詞はいつれも初春
早春にかよハしてよむ也︒初春二立春の心をよめる班
初春
•初春早春ハ春たつ日より三五日まてを読也。立春ハ春たつ日
一日にかきる︒よって立春にハ初春早春のことく読てはかなふ
べからず︒初春早春にハ立春の心をよみても相かなふ也︒されハ
︵中
略
続拾
浜のまさご︵網カケ部分は﹃作歌之書﹄になし
続後拾
久かたのあまの岩戸のむかしよりあくれはかすむ春ハきにけり
︵句読点のみ盛田︒改行は本文のまま︶
立春
.凡立春ハ年の内にもあり︒年明て五︱
︱ ︱ 日又ハ七日八日比にもありて
さたまらず︒されど古班にも元日に春たつやう読たるも多し
︒
あら玉の年ハ一夜のへたてにてけふより春とたつ霞かな
︵同
右︶
比較すると︑﹃浜のまさご﹄の内題︑冒頭の﹁相應不相應の事ハ初学和班式二出﹂の部分︑作例歌の何首かなどが﹃作歌之
書﹄では省略されていることが知られる︒また﹃作歌之書﹄に書写する段階で生じたと思われる重複する箇所︵傍線部分︶
があること︑省略されている箇所以外の言辞がほぼ一致することも知られる︒ここには巻頭部分のみを比較したが︑﹃作歌
之書﹄が﹃浜のまさご﹄の抄出本であることが知られよう︒全体を比較してゆくと︑﹃作歌之書﹄で初めは省略されていた
本文や﹁初学和班式二出﹂という注が途中から省略されることなくすべて書写されるようになる︒﹃作歌之書﹄は︑多少の
出入りはあるものの︑全体にわたって︑﹃浜のまさご﹄の抄出本といえるのである︒
ここで思い出すのは︑清水浜臣の随筆﹃泊活筆話﹄︵新日本古典文学大系﹃当代江戸百化物・在津紀事・仮名世説﹄所収︶
の一節である︒
か げ お
三島景雄︑有栖川家の御門人にて有し頃︑都へのぼりしに︑某大納言殿とかの御許へしたしうめされて︑御膝もと近う
︵下
略
立春によめる心詞ハいつれも初春早春にかよハしてよむ也︒
•初春に立春の心を読るうた、たとへは
続後拾久かたの天の岩とのむかしよりあくれハかすむ春はきにけり
物語しつ4行かひしに︑常のおましのかたへに︑文庫を置せ給ひて︑いろ/\の歌書ども多くつみおき給へるを︑ゆか
しう思ひをりしに︑殿しばし立て︑おくつかたに入給へる程︑やをらゐざりよりて見れば︑大かたは見馴し書どもなる
中に︑﹃八百日集﹄とうは書せる書あり︒いかなる公卿の御集にか有ん︒誰人の打聴にかと︑いとゆかしうて披き見れ
ことばよせば︑はやく﹃浜のまさご﹄といへる詞寄の書なりけり︒景雄あきれて︑こは有賀長伯がうひ学のあげまき等が為にとて
わ き ま
ものせし書にて︑いさ4かも歌の事弁へたる人たちは︑また見る物ともなさぬ︑誠あげまきの為の書也︒此殿いかでか
たへはなさぬ書とはかしづき給ふらん︒それだにあるを︑﹃八百日集﹄とうはぶみの名をかへおき給ふは︑長伯らが物
せし詞寄の書を︑かたへ放たずおき給はんは︑人目はづかしうおぽし給ふなるべし︒︵三十一話︒下略︶
この話が︑浜臣の︑堂上歌人に対する批判的な視点によって描かれているとしても︑当時﹃浜のまさご﹄を﹃八百日集﹄と
書名を改め︑肌身はなさずもっていた堂上歌人が存在したという逸話は興味深い︒
先の﹃作歌之書﹄には﹁八百日集﹂という外題︑内題ともになかったが︑内容は﹃浜のまさご﹄そのものであった︒両書
の本文比較により︑﹃泊酒筆話﹄に書かれていることが︑有栖川宮家においてさえ実際にあったことが知られ︑驚きを禁ず
ることはできないが︑さらに興味深いことに︑以下のような職仁親王自筆奥書をもつ有栖川宮家旧蔵歌書﹃和歌一歩集﹄
︵宮内庁書陵部蔵マイクロフィルム︶の存在を知った︒
右之条f為子孫病中之徒然書之畢
宝 暦 十 年 十 一 月 吉 辰 一 品 中 書 王
病中の職仁親王が子孫のために書き記したというこの歌書の表紙見返しには
二條家系図︹更に不有下書︺
八百日抄抜書
古今集抄抜書
という目録めいた職仁親王の記述がある︒本文には見返しのごとくに二條家系図は無く︑まず﹃浜のまさご﹄の抜書︵内題
ところで︑季贋は︑明和六年︑十六歳の秋に︑とある歌集を書写させている︒それは﹁賀茂県主勅撰集類題和歌﹂と表紙
に打ち付け書きされた書写本︵季隊旧蔵︶で︑勅撰集から賀茂縣主の和歌を抜き出し︑四季︑恋︑雑︑神祇の順に並べた歌
すえひさ集である︒彼の養父季栄が書写した全く同内容の写本︵季鷹旧蔵︶もあるので︑おそらく︑季鷹が父の書写本を写させたも のと思われる︵ちなみに最晩年になって季鷹はこの書写本を読み返している︶︒賀茂県主は︑賀茂神社に仕えると同時に︑
多くの名歌を生み出してきた一族である︒このような一族に連なるという意識が︑彼等父子に﹁賀茂県主勅撰集類題和歌﹂
を書写し︑書写させるという行為を取らせたのではなかろうか︒季贋はまだ十六歳ではあるが︑ゆくゆくは山本家を継がね
ばならない︒彼等父子にとっての︑和歌創作の営為は︑あるいは︑賀茂県主一族として︑神に仕える者としての中核的な営
為と成り得ていたのであろう︒
後年季鷹が江戸に下向して用いていた号に﹁義慣﹂がある︒これは﹁古今集真字序﹂の﹁雖
下貴 兼
二相将ー︒富余中金銭
上 ︒ 而 骨 未 羹 於 士 中 一︒名先滅二世上一︒
適 為 稜 世 畑
5レ知者︒唯和歌之人而已︒何者語近二人耳一
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二神明一也︒﹂からの採
用であろう︒若き季鷹には︑山本家を継承し神に仕える身として︑和歌創作は﹁神明に慣ふ﹂営為であるという認識が生れ
ていたのである︒ おわりに 無し︶よりはじまって︑ついで﹁古今抄抜書﹂と題された内容へと続く︒したがって︑本文の﹃浜のまさご﹄の抜書部分を
指して﹁八百日抄抜書﹂と職仁親王が呼称していたことが十分に考えられるのである︒有栖川宮家﹃作歌之書﹄︑職仁親王
箪﹁八百日抄抜書﹂︵﹃和歌一歩集﹄所収︶の存在から︑元禄十年に出版された有賀長伯の﹃浜のまさご﹄が︑宝暦・明和期
の二条派堂上歌人の間で﹃八百日集﹄もしくは﹃八百日抄﹄などと改題されて流通し︑読み込まれていた事実が判明するの
である︒
8 7 6 5 4 3 2 ー実際には十六歳︵﹁賀茂氏惣系図﹂︶︒
﹁御門人契約記﹂は﹃国書
総目録﹄所載﹃有栖川宮門人契約年月日﹄︵一冊︵類︶和歌︵写︶高松宮︶であると思われ
る︒﹃国書総目録﹄の引用書である福井久蔵﹃大日本歌書綜覧﹄︵大正十五年︶には﹁有栖川宮門人契約年月日一巻/寛
延四年より明和六年までの入門の人々の身分紹介者を熾仁親王の自ら誌させ給ひし一本高松宮家にあり︒宝暦二年五月廿
一日の條勢州谷川士清とあり︒振仮名コトキョと見ゆ︒この類参考となるべきことあり﹂とある︒宮内庁書陵部所蔵﹃入
木門人帖寛延二年ー明和六有栖川宮家﹄︵マイクロフィルム︶は﹁入木門人帖﹂とあるが︑内容は明らかに宮家の歌
道門人帖であり︑内容も谷川士清の記事等から﹃大日本歌書綜覧﹄に掲載されているものと同書であると思われる︒旧高
松宮家本の﹃大日本歌書綜覧﹄掲載書
名︵
﹃国
書総目録﹄掲載書名も同様︶と原本の外題に異なるものがあることは︑同家所蔵御会資料を例にした島村芳宏「『大日本歌書綜覧』所載「高松宮家本」御会資料の名称についてー~原資料名との
異同ー﹂︵﹁季刊ぐんしょ﹂平成十年秋四十二号︒続群書類従完成会︶に報告がある︒
かずすえ明和五年正月五日︑一季から季福と改名した︵国立国会図書館所蔵﹃有栖川宮諸大夫
伝 ﹄ ︶
拙稿﹁賀茂季鷹の生いたちと諸大夫時代﹂︵﹁語文研究﹂第八十六・八十七号︑平成十一年六月︶参照︒
織仁親王は明和元年三月十八日︑十二歳で兵部卿宮になっている︵﹃織仁親王行実﹄︶
うちさきすけひと
例えば︑明和期に天仁遠波伝受を許された者の年齢は︑近衛内前三十八歳︑閑院宮典仁親王 四十七歳︑日野資枝三十一歳であった︒
季鷹が諸大夫を辞した理由は現在のところ不明︒詳細は4の拙稿を参照のこと︒
上野洋三﹁有賀長伯の出版活動﹂︵﹁近世文芸﹂二七・ニ八︑昭和五十二年五月︶︒
注
まさしげ十三歳︑飛鳥井雅重
︹付記︺本稿を成すにあたり御教示を賜りました上野洋三先生︑櫛笥節男先生に深謝申し上げます︒また季鷹旧蔵書の閲
覧に際しては︑御子孫にあたる山本家御当主の特別の御配慮を賜りました︒深謝申し上げます︒その他論中で言及
した文献の調査及び複写に関しては︑関係諸機関の方々のご高配を賜りました︒深謝申し上げます︒
本稿は︑日本学術振興会の研究助成および平成十二年度文部省科学研究費補助金︵特別研究員奨励費︶
成果の一部である︒ による研究