九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
厳島附近の海上史(上)
長沼, 賢海
https://doi.org/10.15017/2340928
出版情報:史淵. 22, pp.103-133, 1939-12-10. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University
バージョン:
権利関係:
、 『
瀬戸内海は多鳥海である︒内海の内でも︑安郵及び備後ざ伊諜さの三剛交脅の海上に烏が雌も多く︑
自ら三國の海上に於ける境界は複雑である︒それは此の海上の人文的地理が複雑であったこさを説明す
〃ろものである︒我が岡に於ても南船北馬ざいふ︒その両南日本の海路の發逹は一に内海が存したに因る
のである︒此の内海巾厩の多鳥海は内海を東西に分ける要衝であり︑そこに多くの烏たが散在してゐる
のであるから︑船路も此の海面では頗る複雑であり︑この海上に於ける政治經濟史の相容も亦鍵化に富
み︑その海上に荊擴する豪族である所謂海賊の興亡も多彩である︒併しこの舞臺は大機に於て四つに唾
分して槻ちれろやうである︒即ち伊諜の上烏︵能烏︑弓削砧︑來陽等︶及び下烏の二地方の海域︒安藝の
東部ざ術後の海上ざを一つにした海域︒安藝の両部︑即ち犬髄に於て今の庚蝿湾の内外の地方の海域︒
この川原域に別けられる︒今問題にしようさする妓後の海上厩に於ける蘂族の興亡の沿革が妓も史料に
乏しくして眞相を諒解するこ︑迫が困難である︒
雁鳥漣内外の海上に散在する防左さ︑庇烏瀧の沿岸一帯海含む複雑なる地域に於て起った人文上の愛
娠腸附近の海上史.一○三 嚴島附近の海上史山 長沼賢海
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且
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筑前宗像郡宗像艸祗は天脈大紳さ素菱鴫算ざが︑うけひを遊ぱし沈際︑川現した三女肺を祀ってある︒
宗像祁祗の古縁記には此の刺だの本桴は︑海北道に銀座して海の北の中の道を守るざある︵太宰管内志︶
素斐鳴奪を先祗埴する川雲中心の部族ざ︑天照大祁を匝接の御先組芭仰ぐ九州中心の部族ざの結合され
る歴史を博へたものが雨紳のうけひの故事であり︑三祁鎭座の本葬は雨部族の海上聯絡を保證するにあ
り︑川雲︑ご宗像ざは上古から犬化改新後に於ても︑行政上特別の關係があった︒宗像氏が三艸に齋・さ申
したのは︑氏祁ざしてこれを祀つ仁ものか︒或は海上保誰の信仰利ざしてこれを祀つ仁ものか不明であ
る︒或は産士祁ざして齋琶巾したものかも知れない︒
・股烏附近の海上史一○四
遜芭關聯して︑中枇に於ける蕊族釧擁の形勢は︑容易に明瞭にし難い︒今弧ひて概説すれば︑こ典に嚴
励祁肺を中心ごする力があり︑これに對し小早川一蹴の勢力が酉より佼入し︑河野一蹴の威力が南から
北上し︑大内氏の樅勢が束より両進し︑共の上毛利氏が雌後に一﹂出に南下しで来た︒この五粁の岡黍が
海上に於て淡肌される︒弘流元年の厳烏戦恭は軍なる大内毛利の衝突を意味するのではない︒今中祉に
於ける厳肪祁主家を中心さして吹肪識内外の海上厩に於て浮沈する海上豪族の形勢を考へ仁い︒それに
はまづ共の中心ごなる厳舟祁祗の起原沿革︑巌砧柳就き切っても切られない安藝の奮族佐伯氏の事等か
ら始めたい︒
︵一︶嚴島耐祓
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雌腸附近の海上史一○六
歩カク託宣すごあり︑恩喪烏さ雌貼母﹂を別巽にする仲のありしこ・己が明白である︒然れば恩焚貼︑厳貼︑地方
ざ三所に︑三川が錘唯せる形式も︑筑前宗像肺・と同じかつ仁ものかも知れない︒猫ほ本官戎殿は仁安の
解欣には︑九皿而さあり︑︵外迩一霧殴は六冊一面︑三冊一而︑三冊一而︑零人賛殿は五肌一而︶祭川
一桃の肺殿ざしてば如何にも不自然の形であって︑一殿に三女洲三柱を祀りし形式を柑時猫ほ体へてゐ
たものでばなからぅか︒それは三川銀座の三地の巾で︑厳鮎が政論上︑經濟上蚊も重要な地位をなった
ので︑三川を三地に別盈に祀るご側時に︑三林を峨脇に併祀する時代もあったであらう︒
筑前宗像肺は海抑であるこさは︑此の刺の海北逝を守るごいふその紳秤に依て知られる︒然らば安藝
嚴蝿三刺は藤島瀞内外の烏交及び地方海岸に割推してゐに海人族の信仰洲ざして祀られたものか︑或は
安蕊佐伯郡の祷族佐伯氏の氏祁ざして祀られに杏の・か明かでない︒既に筑前に於ても宗像氏が三川を組
刺さして祀ったものか︑或は循仰肺ざして祀ったものかご明かでないのざ阿断である︒其の曲來は不明
であるが佐伯氏が厳脇祇に古い關係あきこさはこの榊の御鐡座縁起に佐伯鞍職があり︑其の川主は代凌
佐伯氏であるこざも餘程古い時代からのこごであり︑それが鞍職の子孫芭糀せられる︒進んで安藝佐伯
氏に就いて老へたい・
ケ
︵二︶安藝佐伯氏の起り
安藝の佐伯部の事は景行天皇紀にも見えてゐる︒則ち景行天皇の御代︑n本武尊が捕へて師られ辛卜蝦
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●
夷を伊勢犬祁宮に献ぜられ淀が︑彼れ等が設夜蜻嘩をなし︑柊には飢暴をする薪が肌にので︑之れを諸 閏に分った︒播癖︑諮岐︑伊勢︵地名僻牡一︵に伊豫の談なりざ断す︶安諏一︑阿波竿︑佐伯部は北への子孫であ
るご見えてゐる︒之れ等五つの図変には︑それ人︑佐伯の地名通り︑叉その地力の佐伯氏の名が常に剛
タ
グ
史に兇ばれてゐろ︒古く俘囚を稗理した氏族は徒杣氏を稲した︒從って佐伯氏には種糞の系統があり︑
必ずしも一元ではないやうである︒姓氏録に従伯糒禰は大作桁禰さ同組芭あり︑仁安のかの僻状には
﹁一間一而小耐一宇︑號二太作一﹂ざある︒依て安誕の佐伯氏ば姓氏鋒左京祁別大作宿禰の一蹴の如くに
も恩はれる︒仁徳天皇紀に天皇が撫笙問殴に居まし︑毎夜兎餓野に泣く鹿を聞召され仁が︑淵名の縣の
佐伯部がこれを捕へて献ぜるこさを知り給ひ︑この佐伯部鱈安藝の淳川に移された.それが今の淳川佐 ︑
価部の祁である雷ごn本紀に見えてゐる︒安藝の停川は淵川那の沼川︑悴川莊の淳川であって︑安蕊の東
部及び術後に近さ海岸逢に術る︒而して此の地方には佐仙部に開する地名も歴史もない︒或はH本紀は
ヂカタ惇川を誤って佐伯郡ざしたものか︒或は梓川の門は樅脇さ地方︑この間の水Fなりざいふ説もあって明か
でない︒中枇佐伯郡の北部に沼川那あり︑沼川の郡猪或は此の地方の古地名より超つにのであらうか︒の
●
きう老へれば嚴肪↓と對形さの冊の水逝をきし極様にも老へられる︒それはEにかく仁徳天県紀に柑昨播 嚥に佐伯直阿俄能古なるものあり︑猯猪縣の怖仙部琴や樵せる粁であらう︒然らば安郷一の佐仙部に就いて
ば仁徳天皇の時揺朧から移されたといふ古傅挑もあり︑從って安蕊の佐伯氏に就いては播朧の佐伯哩阿
俄能古の同族であるが如くにも恩はれる︒安挑一の佐伯氏は平安時代になり︑問造又は樅幽逵に袖任せら
確腸近附の海上史一○七
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可レ箆一榊圭寺不し可レ徒二祁事一以一佐伯鞍職子糞孫莫箆一洲︑主職一令し遂避螢考︑彼鞍職薪景弘之雄測
也景弘粁件鞍職之末孫也︑鳳依レ霞耐代之榊王凡以レ霞許鋪之氏人一件榊殿並舍屋等侃卿一私力一
悉逢迩畢︑是則献家之力不し幾︑土木之功難し成之故也﹂ごあを
肢腸附近の海上史一○八
れる薪もあるので︑佐仙氏は安蕊叫迭⑳子孫であるものL如くにも︑心は心︒︒安藝叫造の川は飽速玉
命であって︑天湯沸壱五紙の孫であり瀞湯沸毒は饒速︑命に從って降臨した供奉防術の三十二岬の一
つである︒︵癖事紀︶然らば安荻佐仙氏は物部系統の氏族にして︑佐杣部を符して佐伯氏ご稲し︑厳肪祉
を杵するに至りしものL加くにも湾へられる︒併しかく老へるよりも︑之れ︑こば反對に︑安蕊の佐仙氏 は恥へ作氏阿族の作杣氏にして︑古くから厳混献袴杵し・後段に述べる如く後仙辿谷祁祇︵祭川飽辿韮命︶
を杵するに至って剛造の補任を得たるものご婚すを穂柑さする︒何れにしても厳励利は佐仙氏士蒲以
前の鐡庄なるべく︑佐伯氏に取つ︑ては床韮の川であらう︒然ら︑ずぱ大作祇産別に設ける必要もなく諭叉
佐伯部即ち蝦夷の祁琶憩老する戎祁を叉古くから末祇ざして服品祁献に祀る訓はれもない様に思ふ︒
平満盛が安蕊守さなって同肺を崇敬し︑並︿の後清朧の昇進さざもに共の崇敬牡である同献の昇進は口
兇しきものあり︑岡家的の大祓ごなり︑流丞二年一千二祗に列せらるべき廷議ありしこさ而練抄に見え
てゐる︒此の時佐伯景弘が平氏に呼唯して祁祗の興降に飛し︑体杣氏を岡祁肚さの關係は益凌弧間さな
2Lが︑そ・れ以前同肺は佐仙氏の氏椰の如き観を呈してゐたo仁安の佐仙致弘の解壯に﹁最弘情案二那怖︷
御垂跡之時︑御託一M莊云︑末代及二破壊一命匙改一之Ⅱ論先經二上奏一諏愛遜止一兼叉以二異姓他人一不し
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︑かくの如く︑佐伯氏ご嚴烏祁肺さの關係は︑︑何れから老へても特接なろものあり︑後批長く共の一族
は岡祇溌符して今に至って繊りが︽惨いのである︒武家時代には源氏の榊主家が起って崇町時代の経りの
頃まで勢力を維持しに︒その問・乙雌も作杣氏はその誰下にあり︑依然豪族ざして・樋勢力を把握してゐに
のである︒斯の如く述綿さして上代より近枇に至った佐仙氏は︑︲源氏の耐︑王家雷こさもに︑嚴鮎祁杜今笹中
心直して興亡する附近の海上桑族さ・は密接なる關係かあるのである︒以下まづ佐仙氏の歴喋ど老へ︑次
雁源氏の祁主家硴舟氏に及んで後︑これ鞭中心ざする所謂海賊の形勢に進みたい︒
佐伯氏の安燕一画造に補任せられし沼莱は明かでないこざは前輌︿で述べ聾辿りである︒それにしても佐
伯部以來の褥族であり︑平安時代になっても依然厳沁耽を中心に其の勢力は肺の内外に持ちつごけられ
婿剛迭さ號しに厳貼祗の肺司佐伯氏の名は野坂丈神品厳肪祁肺交替に所見が多い・
治丞一犀川川九︑︑厳烏紳肺の有幣の講北唖の将名に﹁小行覗椛間通散位佐仙某︑行覗椛幽迭散位佐仙
朝阪某︑物巾椛閏迭散位佐伯州臓︑業主椛剛逃散怖怖仙朝恢某︑大行事椛剛遥小難物佐仙朝匝某︑︑祁
主脹閏迭粂修蝿惣犬楡使散依佐杣州砿某﹂ごあり︵野坂丈批Ⅷ︶又建長七年十一川十八Hの同肺の紳笠物
の誰咄郷の將塙にも﹁小竹飛散怖怖杣︑椛叫逃散位作仙紫点︑修理行事椛閏迭散位光屍︑犬行事椛剛逝散
位佐伯礁景︑呪師椛凹輩散位佐伯忠久︑案主椛閏逝散位佐柏肛頼︑刺主從五位よ剛安蕊守佐伯棚挑光﹂
巌腸附近の海上史言○九
︵三︶中世の佐伯氏︲lljh︲!
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訓
雁腸附近の海上史二○
ざある︒︵野坂文書︶
建長三年十川日︑佐仙逝浦の言上壯に擁れぱ︑雌脇祁壯の樂顛も亦佐伯氏加俸の職である︒延唯二年
五川十一Ⅲ︑御棚守椛叫迭散位佐仙某の御劒の奉納状に擦れば︑岡枇の棚守職も佐伯氏の祁体の職であ
った︒︵野坂文饗︶而して後仙此の職を襲へる佐伯氏は棚守氏を稲へ︑時に叉野坂氏を稲しに.今岡紅
の肺司か職ざする野坂氏は其の子孫である︒
阿衙時代に至るや佐仙氏は叫衙の両人つとして又榮えにろが如くである︒厳脇抑肺文諜にある﹁代凌嫡
男談與日記事﹂は憂元二年三川五日︑守仲が男守光に譲って以來内交流五年十川八日︑景弘が叫欽偏に
これを譲る・までの祁主職和承系譜である・その代凌は多く橡︑介︑樅介さなってゐる︒景弘は而紳抄に
は前安藝守景弘さあり︑吾妻鏡には安蕊介紫弘琶ある︒安元元年十一月日︑安藝園の留守所の下女に擦
れば︑在聴官人の署名に﹁大判育代佐伯州匝某︑呵某︑刑某︑惣大判官代源朝随某︑介源朝臣某︑日代
散位藤原朝原某﹂さあり︑治承川年十一川十一Rの岡下女の鶚名さ略ぽM様である︒︵野坂文排︶かく
の如く佐伯氏の安藝の在臓官人の多かつにのは︑景弘が仁安の岡斌造管の時の解壯に擁て共那情を察す
るこぎが川來る︒其の丈には﹁自今以後限未来際︑強就破壊顛倒之時︑随二杜家巾請一令三常剛宰吏募二亜
遜任功一途二其修造一然川閏家泰平﹂ごある︒﹁獣剛の宰吏をして亜進任の功を募る﹂ざいふのは︑青葉
の上からも杵通の閏司︵守︶飛任の功を募る︑こいふのざは︑何だか事怖が逢ってゐるやうに恩はれる︒
古くから佐伯氏が安謹の在臓官人さして剛衙の下役を祉襲して來てゐる既成の事蜜の再認確保を奏請し
凸・〆
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龍︒安閑天皇の御代安藝剛に臓城部屯倉あり︑︵日本非爪紀︶所在の那名は不明なるも倭名抄佐伯郡錘耐
部郷あり︑艶帆部さ職城部さは同所にして今の佐伯郡三宅の地これに獅脚ろか︒大日本史叫那志の論もこ
れに同じ︒三宅村に川所屋敷電ご稲する所がある︒さて厳陥祁献文背野坂丈苫三宅丈撫等二毫氏の家
名の見えにるもの雀だ多から十︑唯だ嚴脇椰肺女秤に左の如きもりか見えてゐる︒
︵花押︶
嬢証証三方祗人等令二上洛一可し被し教訴訟事︑諾剛祁祇訴訟祇人蝶令二参洛一訴巾候冊諏悉得し理
之曲有二其聞一然芳念可レ被一韮發一候︵下略︶・ 税兼
暦唯三年九川什九日三宅三位御房
厳蝿祁祗の帥宅系諮に親粂の名は見えないが親粂は呼川時の祁主であらう︒そして被れば三室一雁御畢笹
して三芳祉人を率〃て上洛せしめ祁杜の鰯め訴訟せしめんこするこ︒己右丈諜に推て察し得る︒二芳肺人
の組織不明なるも︑以後共の宿砿凌上記交稗中に兄えてゐる.篭し厳肪祁献就人の總稲であらう︒二毛
三位は恐らく並︿の統領家なる一べく︑源親祇一以来の源氏祁王の下に在って佐仙氏ば賑然にる勢力を有せし
こざを察すべきである︒猫ほ佐仙氏が三宅氏を孵しに所以を老へにい︒或はM氏が北︿の非u︑血城部の屯
肢烏附近の海上史二一
てゐるやうに恩はれる︒佐伯氏には古より田所氏又は三毛氏を稲し泥考かあり︑平安時代の頭から藤原唾笹稲へ.る薪もあつ
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巌腸附近の海上史二二
倉に州係する所あって一一毛氏を稲せしものか︑或僻唯砧祁就の祁領の一部なる一二宅村に關係する所あっ
て三宅氏を孵したるものであらう︒佐仙氏に又川所氏を稲する群があった︒共の起因如何︒噛城部屯倉
の﹁屯倉﹂を川莊さ何じく﹁タドコロ﹂︑乙訓み︑作杣氏がこれに關係する所あって川所氏を孵したるも
のか︑或は後段に述べる如く︑安蕊剛所在の莊剛の川所職篭領して川所氏を稲するに至りしものか︒恐
らく二薪の内を川でないであらう︒
上述の如く佐伯氏は川所氏又睦一毛氏を孵して剛衙時代に至っても猫ほ在臘官人さして古來の勢力を
維持するござも︑に︑︐府巾川所氏の如く在臆して依然舷烏肺の詞官を和仰するものもあった︒厳貼祁肺肺
司を和博せる府中川所氏は後祉上卿さ稲して棚守職に次し︑同祁献の御供の事を管して書ゐ吏藝癖通志︶
祁主佐伯氏は景弘以後漸く変へ婿これ歎弘さ平清朧↓との親鞘なる關係が鎌倉幕府の忌避する町乙な
2卜が故である︒幕府は宇佐八幡に對して宇都宮吸笹配せし如く︑源親盃を厳烏祗の神●王職ごし︑佐仙
姓祗人形抑えたものk如くである︒爺し表面は景弘の子孫景磁に至り︑子なくして祁主職を源税・渡に謎
るさ体へて一?○︒︵巌蝿祁祗交響︶併し前に一言せるが如く︑峨貼祁肺に於ける源氏の祁主職時代に於
ても爺佐伯氏の隙然たる勢力は中断せらるべくもなかりしが如くである︒
武家時代さなh/︑佐伯氏は源氏の抑主の被営雷﹂ならざるを得な︲かつたが︑猫ほ祁蝋の潜勢力を維持し ︵四︶武人豪族としての佐伯氏
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てゐに論ごして東寺領であった安藝剛衙職及び後三條院新勅旨川に於ける佐狛氏の動静を畢げるこ・己が
川來る︒安獅言閾衙職︑叉は安趣両夏務職の名ば吉野時代には東寺文士回に種だの名を以て稲へらる︒則ち
安藝國剛務職︑安藝國岡衛安藝剛吏務職︑安藝剛務職︑安藝幽叫衙等一定せざるも︑時に安藝國衙領
さあるは︑蜜礎に即しにる名にして︑同悶悶務職の名は既に空名さなり︑これに附随する川地若干の所
領名にるに過ぎない︒こ上に文暦二年六円十Ⅱ附け︑周防前司宛て幕府の奉誠Hあり︒内・容は﹁安饗幽務
事﹂は伊都岐励造袴料所さして批家に附するざいふのである︒かつては厳艦祁壮の迭特恢所であつに安
藝の閏務が今東寺に寄せられ婿それは正安三年三月二︑院宣を下して安婆剛を東寺の迭掛料所ざして
賜はる︵東寺百合丈普︶に起るのであらう︒その後漸く安誕両務ざいふ名目のもさに芳干の川園己なつ
だものであらう︒而して愉時に於ても佐伯氏は剛衙に在任してゐたこさは次の東寺百︿咽交替の一に依て
知られるのである︒
東寺雑掌祁安藝岡衙職内杣村淵科村等事︑諸文披見畢︑杣村者武川逵趾守申二子細一云凌︑止二彼妨一
可二沙汰付二雑掌一芳猫不承引新企二参洛一可二明巾一之山可陛組剛之一次柵科村新無一閥衙職一之﹄Ⅷ地頭大
赦少岫金子大炊助巾レ之云糞︑閥領分明之山川所在俊擁二持諦文一池獅華之上着︑厳密可三沙汰付二雑掌一將
0○○○
又︵下略︶
嘉慶元年十月十一日左衞門佐︵花押︶ 小早河美作前司殿
而して川所氏は淵科村が剛衙職の一部たるこぎの否定を否認すべき誰人さなってゐるのは川所氏も閥衙
巌賜附近の海上史一二一
II
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安藝閥河戸村閲衙分一一玲任二先例一可レ令二全知行一若 常陸親王令胃如此︑悉し之︑以欣︐
箙平七年二川一日
太兵衞佐書判
田所新左衞門殿
叉佐伯氏は藤原氏ざ糀し︑東寺供僧領なりし安藝國新勅旨田の公文職を領有せし︸﹂ざ︑叉東寺而合文
書にその證がある︒
賎腸附近の海上史二四
職の事に關係してゐにからであらう︒そして悶衙職の一部である河戸村の公癖岡其の他雑免の所常米を
その得分ざして所有してゐたらしい︒所がそれが承元二年には抑研であり論横領である芭裁かれ仁事も
あったが︑吉野時代になり︑正平七年常陸親王の令旨に依て河戸村の所領を安堵せしめられ化︒これ等
の事は街次の藤円精一所赦文書︵衝三宅文書︶及び野坂文書に擁て察し得られる︒
口東寺安郵闘門所養賢抑研公癖川井雑菟所徴米肌事︑煎訴欣醐醒如﹄此︑此先度加下知之虚︑被承引
旨太無謂︑早任二先下知状﹃可し被し致二沙汰一也︑価執逹如件
乾元二年七月廿六日左馬助︵花押︶・
中務太輔︵花押︶
河戸村一分地頭殿↑
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新勅旨田︑水仁Ⅲ年内稔注帳準彗
預所在術尉守友
公文佐伯浦基
︵以上は新勅旨Ⅲ永仁川年の批川帳の裏端諜︶
猫ほ同文書に雁應五年二川日の安蕊剛臓藤陳泰澄一両上状あり︒・その内容は次の如し︒即ち此の公文職は
泰清の祁父蛮清の後家︵泰清の父なる光淌の繼母︶の策動に依て光清の弟清韮これを和仰し︑浦韮之れ
を光清に護りしが︑光浦間もなく死し︑その子泰清猫ほ幼少なりしを以て満韮再びこれを祁傅す︒既に
厳烏附近の海上史二五
右件職者依レ爲二飛代之職一所し被二補任一之蛮也︵中略︶永仁六年二月廿九日
法印椛大備都在判
安藝風在臓佐伯清基亜言上
欲早被レ垂二御哀憐一任二巾諦量蒙二御成敗一安藝國新勅旨田公文職事
︵本文略ス︶
徳治三年八月
下東寺供僧領安藝國新勅旨田定補公文職事
藤原光清 ○○OO
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公文大法師轆隆
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七川十七日目代法橘耐蛮齊判
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Ⅲ所殿︵野坂文辨︶
Q前記泰清の言上状に一族忠清が宮方に味方せりさあるは注意すべきこ︑とに鵬する︒野坂交番に︑次い
如き石井末忠い軍忠状あり︒石井は府中の地名にして祇井城祉今に存してゐる︒蓋し福井氏は佐伯氏の
一族にして︑武事に關すろを以て郷名布井を孵し︑源氏を稲し仁ものであらう︒前記藤原︵叉は佐伯︶
忠清と岡族にして共に勒王の兵を起し︑たものであらう︒
︵端衷書︶︑︑
﹁末忠巾︒頭中將家御一見外題﹂雌陽附近の海上史一・一六
し五清韮の妃後その子忠済宮方さなって守謎武川氏により斫職を奪はれしかぱ︑泰流岱然これを棚傅す
べし琶云ふにあり︒故に光浦ご浦韮ざは兄弟なるも一は藤原氏を稲し︑一は佐仙氏を咄ふ︒
ゞ以上の事蛮に依て在臓佐伯氏の中には時に川所氏︑時に藤朧氏を孵して東寺の莊閲に關係して菰叉は
公文ざ稲し︑芳干の得分をそれ等の亦園の内に所有してゐにこさが知られる︒叉野坂女神に左の如き一
通あり︑年號を峡いてゐるけれざ屯︑︑鎌倉峠代の交番であらう︒安藝の目代︵研守所か︶が剛立を奉じ
て厳砧の祁領佐伯郡の公文職の各川畠の恢有を安堵せしめられ仁ものであゑかくして川所氏は一価の
豪族色して自ら兵力を養ってゐだであらう︒
安藝叫佐西郡公文職各川畠等事︑閏宣如此︑任二被し仰之﹄映可令二知行一給︑御年貢御公事以下︑任二
下上
先例一可し被し致二共沙汰︸候也︑価執逹如件
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や
佐伯氏は源氏祁主時代に於ても嚴砧祁献の肺司ざして應然たる勢力あり︑叉依然在聴官人さして剛術
關係叉はその附近の莊悶に唯入ってゐたのみならず︑餅剛諸大祇の支配椎を有し一璽卜やうである︒述谷
祁祗は安藝餌造の帆飽速玉命琴笹祀ったものであるごいふについては異論なからう︒吉川東伍博士の説
︵地招僻番︶には安藝佐伯氏がその川飽速玉命を祀っ仁もの即ち速谷祁祗なるくしざある︒︵館二章参
病︶それはざにかく︑佐仙氏が早くから連谷川壮の祁主にりしこざは否定し難く︑股鮎川肺い源氏祁主
時代に︑祁主が冊凡市櫻尼にゐて︑連谷川肺を瀞してゐに︒而してこのこざは源氏祁主時代に至て初め
て起りしこざにはあらざるべく︑素町時代には雌貼祁祗の施術犬噸寺が速谷祁牡の修理を槽するこ︑こ大
願寺女将に見え︑叉﹁速川大叩抑修蠅苑﹂の内に雌肪抑杜の肺恢の一部があり︑又速谷川肺への寄進壯が
野坂丈諜に存する等︵大願寺文書︑野坂文智︶殆んざ二誠.一肺の如くであった︒現在安誕の府中八幡宮
巌賜附近の海上史二七 書判
安藝剛在唯布井七源末忠巾合戦事︑馳二参仙州船上一依レ下二預川月十川日恭論旨一付一一顕中將家御手一致一
︵恥力︶
度凌合戦一□︑此上粁筋し蒙二恩蹴一可レ下二預御一見狄一候哉︑恐悦誰言
元弘三年五川十日
源末忠
進上御奉行所
︵五︶佐伯氏の諸祗兼併
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二 J
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肢烏附近の海上史一一八
の献詞も三宅氏又は川所氏を孵してゐる︒これも古い時代から始ったこさであらう︒同八幡は松崎八幡
ざも稲し︑布清水八幡宮の別嵩さなったこさもある︒︵布満水交替の元暦三年の源頼朝の同八幡宮寺領
安端の下丈︶又同剛の府中の惣肺も川所氏の支配せる所であったこ︑己は野坂文普に其の誇がある︒これ
を次に示す︒︑
雑訴決断所牒安藝閏衞
柑叫川所信兼叩惣肺御祁樂免川所常米間事
牒任二先例一可p有二共沙汰一之山︑宜し令し下二知常知行之仁一者︑牒逢如件︑以牒
建武二年正川十七脚.右大夫安信書判
︵以下暑名略ス︶
今府中の惣祗の祁職家は大巳氏を孵してゐる︒もき犬呑ご稲しに︒近枇になって大呑氏は總祗の祭紳の
一であるごいふ大巳量愈の巳にかけて大巳氏さ改めたものである︒大呑も宛字であって多家の意であっ
たらう︒延喜弍祁名帳安藝悶安藝那に多家紳肺がある︒大巳氏は古來惣祇の祁主職を祁傳せりさいへば︑
巾枇に於てはⅧ所氏を稲し↑卜るこさもありしここ前描の交将に依て明瞭である︒然れば佐伯氏にして多
家紳壮を司配するものあり︑因て佐伯大呑氏︵叉は多家︶?笹稲するものありしさも解樺される.
︵六︶殿島氏の興造
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源親資が佐伯氏に代って嚴烏祁祗祁主職に柿せられし事情に開しては既に述べ鳴嚴島祁就文書に源
氏紳主系固あり︑原文のまLを紹介する︒
︵端喪害︶﹁常祇堂歳數並櫻尾祁主系刷之事﹂
︵マ︑︶巾至四百三拾九年︑
︵祗殿造管記事略す︶
︵弘力︶祁主職根本之次第︑佐伯景庚絶テ後
齋院次常
親能左馬頭義朝之養壬建久五獅初入武家鴬轆至四百七十五年ゞ
親貧周防前司承久二群祁主職御給也︑鴬帷至プ胴百四十八年
親光安藝守八條院減人
親定下野守一級内昇殿
親範睡岬掘金剛寺殿
親頴聴跡謎夫小幡合戦討死︑建武三乖正凡十六側︑樹肱至三百川三年 親直爾州麺詑翔寺殿︲
親詮罐癌跡將監繩祁謎︵別系州に親成寺ざあり︶殿︑豊前小倉逝去
親景安誕守 親藤稀癖麺賓蒔寺殿 ・巌腸附近の海上史二九
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灰親榊部頭天文・十五年袖大内義隆押寄切腹︑苗帷汀廿三年
鎌倉右大臣蛮朝卿︑永久三年柑剛佐伯那一海六千笈ヲ御寄進有テ︑高倉院別柑齋院次官親能子息刷防
前司親蛮二祁主職ヲ給ハリ︑下向ソ︑什刷市櫻尾一一代産在城ス
前にも述べた通り︑平氏が嚴鵬を崇敬し始めた頃佐佃最弘祁主が在職してゐて巧みに機愈を柿へて一
脈の興降を刷り︑凡そ本宮分三十七字︑外宮分十九字の修維或は新建等を成就したらしい︒源氏の時代
になり︑親愛が祁主職を襲うて後︑承元元年に肺殿が炎けに︒間もなくこれが再建が企てられ︑岡年八
川に安鑿剛を造管領所ぜし︑団司に附して其の任に竹らしめに︒所が工菜が進まなかつ仁か︑元仁元
年再び安蕊団を迭掛領所さした︒しかも工事進捗せず詞こ上に於て嘉祓元年に︑八年間を期して剛務を
祁主職に附した︒文暦二年五N九日には更に川主親愛を安藝風守謹に柿しに︒これは同献再建の工那を
促進する便宜上行はれたものであらう︒仁治二年即ち測主職の安蕊の団務執行の期限の霊さる年の前年
上表して進宮を行ひ︑かつ更らに剛務執行の年限を延睡し︑未完成の部分を成就しにいざいふやうな意
味の事を述べてゐる︒これ等の事怖は嚴蝿祁肺文書︑藝藩通志所收岡祇文書に詳かである︒かくて源氏
粂興宗教
−F0令
膝 親親 税 朧烏附近の海上史
掃部頭下野守掃部頭藥師院殿
上野介天仁三年三月十日︑謎赦手鑑二有 口少軸︵マ︑︶
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一
二二
○
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、
祁主の勢力は完全に奈献を支配するに至ったやうである︒新祁主職は源氏であり︑守誰職に柿せられ︑
且つ悶衙を支配して︑一時安藝に於ける公武の蛮力を兼併し塩そして什日市櫻尾に擬城して室町時代
になり︑割様せる岡内奈族の間に互して一勢力家︑ご芯つれ︒
吉野時代の頃からは源氏の抑主家は︑宮氏又は雌鳥氏を稲へた.厳酷をまだ宮嶋ざ稲しにので宮氏を
稲へたものであらう︒東寺而合丈誰Hの中に擁れぱ雁安中東寺恢安獅両衙仙を妨げた郡に淵し︑数通の丈
○︑
韮刷あり︑脈安元年十乃七n附け︑I犬内氏に宛て・に幕府の御教北叫の中に﹁或は守謹人︑或は剛人蝶雅意に 任せて押領云産さあり︑﹁閏人﹂は厳肪氏︑阿称感淵氏等なるこご他の同寺の交弛皿に擴て知られる︒川
ぴ
ち應安三年十一月十四H附け︑股鵬下野川郡宛ての幕府の奉土︑に︑安藝剛事務職の遜飢を止め︑所務を
東寺雑掌に沙汰すべき事を令してゐる︒此の後唯安六年︑至徳二年叉同様の事に開して幕府は令を厳勘
氏︵或は宮氏︶に下してゐる︒叉室徳川年五川二手︑附け︑小早川美作守宛幕府の奉土帆に擁れぱ︑雌砧
掃部頭が銅衙領の内︑佐西那門斐村半分を祇領したさある︒將軍義瀬の嚴階参議は大内︑細川等の川剛
九州の大名に對する示威の垂Ⅱ嫌もあつにであらうが︑叉雌鵬の祁威︑厳肪氏仰武威を懐柔する意味もぁ
つにであちう︒唯仁の犬飢の噸から大内氏の威勢厳鵬に及び︑股貼氏は漸く北︿の下風に立たなければな
らぬやうになつ婿大内韮︿は水正五年韮杣を奉じて上洛するや︑祁主卿硯は之れに從つ婿典税の名
Iは韮典の一宇を附與せられたものであらう.偶且親f方に於て卒しや一族友川藤櫻尾城にあって刷
主.ごなり︑大内氏さの肌に戦飢絶えなかった︒後大内氏ご利しにが天文十年藤北︿の子庇親父子又大内
厳腸附近の海上史三二
I
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勢は十分に發揮し得られるものではない︒嚴烏が脹鮎漣一帯の水陸の政治的︑經濟的中心であって始め
もて共の海賊的賓力を振ひ得るのである.艤胎漣内外の陥交に於ける川閲の利益は大し化ものではあるま
い.其の漁噸の利︑海運の利︑共の外塒諏工業ざもいふべき造船業の利等が双要であったのである.厳
砧が之れ等の利を減してゐ化砧凌の自然地理的中心たる外︑その政經の中心ざなり得たのは︑安嘩莊が
股貼祁祇の祇領ごなった事に起因する所が多い・
安摩荘は平清盛の異母弟平頼盛の領所であつに.蓋し清盛の剛司在任時代に經管創設されたものであ
らう︒其の後一.本年貢﹂を鳥羽上皇に献ぜられ︑上皇はこれを高野山費塔院に御寄附になつ踊そして
頼礎はその餘の﹁雑事﹄を八條院に寄附し︑八條院を本家こなし︑自ら領家琶號し︑﹁私得分﹂ざして 嚴烏祁肺の祁主脹陥氏は祁献の所在地嚴砧亡いふ西閏海路の要術を占め︑海賊的威力は自ら共掌中にあったであらう︒併し巌・砧がいかに要術に位してゐたさしても︑この小さな脇軍猫では其の地理的の優
巌島附近の海上史三三
氏に反いて滅ぼされた︒鎌倉時代初めから榮えた源氏祁主家は亡んだやうになって経つ淀︒此の頃頻り
に大内氏に接近し︑同時に毛利氏に對しても如際なく立廻っに棚守房顯はつひに全杜を率ゐる魔力を握
るに至り︑久しく祁祓の第岸線・から離れてゐに佐伯氏は︑再び昔の名震を復興した︒
上記唯仁犬飢以後の形勢は棚守房頴の記録︵絞堂郡普熱從︶に篠つに︒
1
︵七︶安摩荘の沿革
I
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、
米七十石を領してゐたが︑後その半分を御供料ざして嚴蹄帥祇に寄附し淀︒叉治承凹年八條院は北︿の御
所有の安嘩荘の雑和を巌砧祁祇に寄附せられ︑﹁所倣の地利﹂は毎日の御供に︑﹁自餘の土産﹂は﹁内侍
︵祁壮の︶の依惟﹂に寄附せられた︒︵藝藩通志所收嚴烏祁就丈韮以︶かくして安摩莊の領家の得分の内そ
の半分E︑本垂且以外の雑役ざが嚴蹄祁斌の所有さなつだ別けである︒野坂文書に安歴硴内矢野油︵延
應元︑十︑什八︶︑波多見鮎︵延唯兀︑土一︑十七︶の年貢の迭炊︒各一通あり︑叉同莊内衣刊鮎の送状唯元︑十︑什八︶︑波多見鮎︵征
が數辿ある︒其の内一二を示す︒
安嘩御莊衣多烏嚴島刷御供米事
合参石琴斗宣旨升定
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︵力﹄︶○O右件日御供米水手貞・杢末友︑眞清三入れもてれくりたてまつる狄如件
延雁元年十一月十六日 惣
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たくりたてまつるいつくしまのひどくまいのよれざ
合
○Oよれ一滴川斗内しれ一布︑しろよれ二斗六升
巌賜附近の海上史
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公文代︵北抑︶
使︵花押︶
一 一 一 一 一 一
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朧島附近の海上史一二四 ︵三つ︶︵通上︶〃
みぎくだんのよれみつざもうむじやうえんれう二年二月五日惣公丈︵花押︶
平氏滅亡の際︑安徳天皇の御入水ご同時に祁器も亦海中に沈んだ︒時に祁璽は無事なるこてを得たが
祁劔は行くゑが分らない︒魂洲は早鞆湘戸に近く海流が念であるから︑海底に沈んだ川劔は抑流れたも
のであらう︒頼朝は紫弘に命じ︑海人を以て之れを索しめた︒吾妻鏡にばその矯め文治三年六月糀米を
西剛の地頭に命じで宛催さしめたごある︒海人は餘稚多く率ゐられたものであらう︒而してそれ等海人
/は云ふ迄もなく景弘は安嘩莊の内から微發したものであらう︒門練抄には景弘が合戦の時彼の剛︵長Ⅶ︶
に在って︑祁劔沈没の所を知ってゐたのであるご徳へてゐる︒景弘は平氏の恩顧に報いんが鰯め︑配下
巳
の兵船を催して平氏ごさもに西下したさも老へ得られる︒併し若し果してさうであつにざすれば︑戦朝
は共の後︑祁樂料を雌鳥祁献に奉納するやうな事は勿論なく︑画に景弘は改易せられにであらう︒然る
にさうしに事も芯かつにのであるから︑而練抄は何故此の命令が景弘に下されたかを諒解し僻なかつ仁
︑のであらう︒即ち巌貼祁肺が同肺の所領さして安朧莊を有し︑自然多くの海人を支配してゐにごいふ事
を知らなかったのであらう︒尤も餓弘が此の命令を受け仁のは厳砧川枇即ち西海の名にる海艸宗像洲に
奉祠する群であったごいふ事も帆朝の老雌の内にあったかも知れない︒
妾嘩飛の所在は倭名抄佐仙郡及安藝郡の凧アマ郷に亘ってゐにやうである︒その内の重な肋は佐仙郡
能美蝿︑安藝郡江川砧︑倉橘岾︑瀬戸貼等であって安藝郡鎌苅の諸酷にも及んでゐたかざうか誰推が塚
I
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〆
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い︒こiに注意すべきこ︑とは之れ等腸盈の外に脹肪繩津の諸方に迄で安嘩疵が振ってゐ︽L事である︒野
坂丈聿剛に矢野浦から川し︑に延應元年十月一千六日附け日御供米の迭肱に︑﹁安摩御椛内矢野浦H御供米﹂
ざある︒仁塗一扉三月士一日附け︑安摩荘門衣川砧の椛官而姓等の衣川砧の小公文紀爲宗が殺審せられ
しこさに開する僻状︵蕊流通志所收厳貼交替︶に﹁如二巾壯一衣川鮎小公文鯛宗︑伊雅岐貼御川恢之住
人被二殺害一條︑震岡中一風聞之珊︑及レ承條箆瓢然一之問︑加蒋判︸﹂皇肌北剛きして矢野浦惣公文中原惟
迩が加判してゐる︒これ矢野洲が同じく脆貼祁領喪嘩脈内に恥してゐにからであらう︒而して矢野浦は
海川市の南にあり︑府中さざもに脹烏湾の東北隅の極にある・
厳蠅祁祗交書應水川年六月日の同就の祗領口鋒の中に.︑肺家進止領家分﹂に次の如くある.
川縣郡内
安摩莊五衙浦井原禰光 同同同 志路原市折壬生 同︲同 大川郷木次︑久知
大願寺交番︑・水職三年九月九日附け毛利元就の大願寺に寿附しに土地は﹁五ヶ村の内﹂三没三汀丈であ
っ化︒野坂丈北川六月一川附棚守房瓢に宛てに毛利隆沁の状に﹁於五ヶ寄進之在所引渡可叩催二付而︑御
両人存分之迩︑尋巾候腱﹂云盈さある︒元躯三年二月二十六n附け大願寺側海の同寺恢性交︵毛利輝元
袖判︶にも.所窟坐洲御祭川佐東五簡之内﹂︵大師寺丈批眺︶ざある︒懸稲﹁安獅門徒琶祁山及厳防の
戦争﹂︒︵n本宗教史の研究所收︶に於て︑庇砧市東林坊交韮Ⅱ及び車稚頃に肌來rかさ︑心はれる駈脇市吠
脹腸附近の海上史一一・一五
I
己11
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籏働謹内の島凌及び其の漣の沿岸を含む一面の水域及び地帯の自然的地理及び人文的地理の中心は此
の水陸一帯を莊域ぐ﹂する安嘩瓶の支配新のゐに厳肪てあつに︒而して莊中散在せる公文︑惣公丈なぎい
へる莊家の考共は喧接水手︑梶取︑船頭︑漁民を支配し︑厳砧祁杜の祁威をかりて沖世末期に至って活
動する海上の小豪族さなつにのであらう︒能美砧の能美氏︑矢野から起った芭思はれる矢野氏︑倉橘酷
の多擬屋氏︑倉橋氏︑波多児島の波多兇氏等それである︒中批並末期になってこれ等莊内の汀姓の海
賊力を糾合して起る一向宗の坊主衆の勢力に至ては蚊も興味の多いものがある︒今それ等に就いて老へ
るに先だち︑順序さして嚴鮎氏及び佐仙氏の所謂海賊的勢力や︑巌鈷の海騨ざしての存在について考察
巌烏附近の海上史一二六
寂寺系譜に擦り︑五簡村は段原︑尾長︑白熾︑脹瀬︑打越を指したものであるざ説明した︒上記厳酷祁
肺紳領の五術村も岡じ所であらう︒もさ磁烏城及び共の城下は太川川の川口に散在してゐに腸凌及び川
の緬岸の地を蕊理して建設されたのであるから︑五簡村は凡そ今日の砿砧市の地に倣ってゐる.そして
︑これが叉安摩莊内であったのである︒矢野及び今の庇貼市の雨地方が安摩莊内であり︑且つ佐西は一肌
祁領であり︑︵嚴烏榊肺丈.醤︶佐東にも時代に依り鍵化はあったが︑已斐を始め抑領が多かった︒︵厳鮎
川就文課︑野坂文書︶かく厳肪祁肺が吹砧漣一帯の水陸を支配してゐにこさが其の鎭座地厳烏の自然地
理上の性能を粘分に發沌せしめ得たのであらう︒
︵八︶嚴島禰主及祓人の海上に払ける勢力
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したいのであるが︑これ等に開する史料は甚だ乏しい・殊に二氏の環境から察して相常なものがあった
芭思はれるその海賊的活動を詳かにし得ないのは雀だ裁憾である︒その僅かな史料中こLに徴すべきも
のざして︑祁主教景が能烏に在城するざいふ左の如き文書がある︒
就二抑主教景能舟在城之儀導川嶋地下惣中且︑毎月被し懸二水夫銭一候︑祗家三方茂共同前二被二相催一候︑
可レ爲二如何一之候哉︑爲二祗用一外宮渡海︑彼是水夫所用繁多候虚︑至一能&号し勉二加夫︷祗家相拘候屋敷
二令二居住﹈地下人︑不し随二共催一候迩︑献訴之趣︑逢二披露一候︑於二愛許一對二新里若狭守↓被し成二御葬︸
候︑彼言上之時︑彼是引合︑可レ被二仰川↓候條︑先此度蒋以二内欣一申候︑宍戸言上到來之時︑軍致二巾
沙汰−自レ是可レ巾候︑恐盈談言
壬七矧什五日正長︵花押︶ 隆柳︵花押︶
嚴烏証家三方
こLに出て來ろ祁主教景は如何なる家系のものか明かてない.抑主税興が義興に随って上洛し︑京都
に於て卒し︑一族友川典藤︵前禍系譜に兼藤さあり︶庶就父子︒刺主職をついだ︒友川は佐伯郡山里友
門竺写︿所あり厳品氏の族にして︑こ上に居たものであらう︒房顯記にも﹁前祁主興親辰ノ歳︵永正五︶
死去以後︑祁主断絶︑辰ノ年ヨリ未ノ年︵太杢己迄十六年︑上野介︵興藤︶嚴島家建立ノ事︑未J年
ヨリ丑ノ年マデ十九年・一さあり︑興藤︑隣就さもに天文十年大内氏に亡ぼされ︑共の年大内義隆は棚守
巌腸附近の海上史一二七
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朧烏附近の海上史一二八
早房瓢を嚴貼抑主職さしたるが如くにも恩はれる︒房淑記に﹁然ル所一一棚守房頴ヲ十一川︵天文十年︶廿
側被召し︑然若厳貼ノ祁主職ヲ被仰付筆へ︑ン︑小方加挽守息女ヲ和典シタル柵︑杉刑部少邨ヲ被仰付Ⅲ馳
走ス︒へ︑ン卜在ル間︑長テ候卜巾歸脆ござある︒小方は友川母﹂共に義典に從って在京したる雌貼家の砿
価にして︑大内氏に親しかったらしく︑共の女を屍顯が妻ざしてゐに關係をにぎって或はこの時義隆は
〃房頴に艸主職を約して大内氏の鰯めに房顯の乖忠を催しにものかも知れない︒此の時義隆が川脇を同肺
に奉納せんこさを小川でたるに對し︑房頴は從來の奉納馬は拷祁主の所領ざなったが︑興藤抑主の時か
ら︑棚守が所領する例ごなった︒併し元来が祁主の所領する所なれば︑義隆奉納の馬も紳主の所領ごし
たいご巾川でた︒義降は房瓢の正也に感じ︑祁賜を﹁洲主教紫へ被し遥﹂ざ房顯記にある︒又屍瓢記には
0O●祝典が京都で死去し︑ついで義興下閏するや︑祁主職U補充を義興に促す催に﹁祁主職叩家愁訴候ト云
︑b℃b︑℃︑︑︑︑︑︑へ共︑論ズル物を寺︿巾ヨリ取ルト︑︵以上一句文意通ぜず︶紳領ヲ大内義興篤存知﹂己ある︒然らば俄
昨厳陥氏は二家あ︑り︑興膝大内氏に背くに及んで親典の家琶は別の巌脆氏から教景が立って川主職︑こな
り︑教景の後房顯が祁主職の淡椛を握るに至ったものか明かでない︒執典川主上方に於で死去し↑﹄時︑
祁領が東西に分れて雫岡せる畔︑新里箔狹守は西方の大將ざして藤懸の城に擦り︑・宍戸満部少輔は収方
の大將さして櫻尾に振ってゐる︒︵房顯記︶此の丈祥に見える新里︑宍戸は之れE同人なるべく︑何れも
洲領内の武士であらう︒薪名君は大内氏の奉行人で正長は弘中正長である︒閏七月は天文十六年にある
から此の文書は同年のものに鴎する︒内容は川主が野侃に洲張するにつき︑縦・局内の壮家司配の町屋に
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封し︑水夫銭を課しだが︑町屋の人糞がこれに應じないので︑これを大内氏に訴へ仁︒大内氏は一睡共
の訴への詔はれなきこ己を注意し︑新里︑宍戸に事惰調在を命じにから諺共の結果により更に指示しよ
うさいふのである︒この支諜の事ざ開聯する﹃ご恩はれるものが︑大願寺丈番の中にもあり︑左の如く見
今
えてゐろ︒
幟杜祁主事︑霊一一他所一發疋之時新︑從二先さ術嶋希匠之内一雨兼召典︑・所用等巾付候Ⅲ︑今度至二能
︑嶋一發足之時︑可召具之山雌し被し巾︑不し被二巾付︶之山候︑柑時犬鳥居御造立之刷候冊︑在城中可二召
仕一事着︑如何候條︑所朋時可二召寄一之山︑景教被し巾候︑随し被二左右二人被し巾二付之一可レ被一髪
遥一之曲︑被二仰出一候︑可レ被二巾談一候︑恐凌謹言
四月廿五日︾柿︵花押︶
隆正長︵花押︶ 大願寺.
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大願寺の偶奪海が大内義隆に諭うて峨賜紳祗の大鳥居を建立するのは天文十六年であるから︑上記二
通の女将は同年のものであるこさ益堂明向である︒自然抑主教鍬が能防在城のため州張したさいふこさ
は天文十六年の事である︒能冊は伊豫の野品︵犬賜︶であるこざは次の文書に依て・も判断される︒而し
て教景が如何なる關係に依て能貼に布城するのであらうか︒それは不明である︒而して雌砧氏亡び︑つ
いで大内氏亡んで毛利氏の天下ざなり︑棚守房顯が厳砧祁就司伽の変力芳にる時代になっても︑依然能
溌烏附近の海上史一二九
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雌腸附近の海上史二一○
砧に城を守ってゐ仁やうである︒野坂女将に次の如き丈杏がある︒
熊砕上候禿柑品之儀︑砿川以来雑趣共巾︑各至一陸路一罷肺峡︑然能胎御噛家無二別儀︸付而︑衆端巾候
共上御吉例之古城を被二仰付一候條︑他へ罷退候衆締岻候︑尤目川度候︑來貼一分にては珍敷不し可レ有
候↓と存斗候︑爲二御奉行一吉脈洲内左術門尉兒市渡海候︑御城番之巳斐蠅二郎被仰付候川候︑何茂飛挫
此蒋可巾上候諺此等之趣︑可レ弧二抑披露一峡J1︑恐変謎言
卯川什日︑棚守左近大夫元行
同左近將監房頴︵花押︶
蠅飼新右衞門尉殿
此の交替の宛名鵬伽は毛利氏旗下の蒜か︑毛利氏の奉行人さしても他のものに除り其の名を見ない︒
能防御俄家勺こは誰れの事か︒古城を賜はっ泥蒋は棚守氏であらう︒奉術さして吉原︑城代ざして己斐氏
を定め↑にざいふのはゞ古城の奉行︑城代ざいふこEであらうか︒開聯して老ふく・害史料なく︑不明の事
のみ多いが︑棚守氏が雌貼氏の先例を追うて野陽に於て所領關係のあったこざはこの文書に擁て謙明さ
れやう︒毛利氏が天正六年伊豫使入の時の事であらう苣思ふか︑小早川降最は伊豫新居郡に於て所恢一
所を大願寺に寄附してゐる︵大願寺文書︶のはこ上に参考ごならう︒
厳防氏が能捲に嘘を有ずるに至りし沿革は右の如く不・分明であるが︑般貼の燗幽の蝿だの外︑速く伊
豫の所訓海賊の本場の砧産に迄所領關係が及んでゐ坐︲一こざを注意しなけれ・ばならぬ︒天文十年典膝が大
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左に示さう︒ を以て對抗し龍もの琶思はれる︒
祁主が陽為に兵力を有してゐにご恩はれるが如く︑祇人の主なるものも亦安嘩飛内に根擴地を有して
ゐにやうである︒江戸降代府中の川所氏が厳鵬杜の上卿であったが︑これは古き時代からのこEであら
う︒房顯記に上卿事は閥方︵前掲永正の東丙飢の際︶に親麺關係があったので︑上卿家政の子親正の次
卵椎校役新太郎が東方から攻められ︑家政︑親疋親家の父子孫の三人は能美肋に他宿し仁︵屍顯記︶
さある如き之れを識するものである︒川所氏が東寺領安蕊幽新勅旨川の公文をしてゐに唖︑年宜の蓮迭
も厳防附近にゐに配下の梶取船頭をして行はしめたものであらう︒東寺百合文書に見える送欣の一例を 内氏に反くや︑大内氏の海賊大將黒河降尚は三百般を率ゐて厳腸に攻め寄せた︒するざ野蝿の海賊は果脇の海賊ざ合して三十餘艘抑寄せ來り︑有浦大鳥居の前面海上に於て黒河勢ご合戦してゐる︒︵房顯記︶寅年︵永砿三年︶三川十五H倉橘の船が厳励艸壮の祭職参りの鮪め厳叱に集り︑喧嘩が原閃さなって祇前の海上で海戦が起った︒その時祁領︵佐閥︶内の船が倉橘舳十六艘︑人数十人を討取り︑ついで倉橋の援軍両六七十朏抑寄せだのをも確退しに︒︵房顯記︶恐らく祁領及び鮎内︑其の附近に散在する海軍
東寺御伽安藝刷新勅旨川御年宜迭文事
〃雌腸附近の海上史
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上 ︵端評略す︶
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次の栴材も棚守氏の材木さして送ったるものであらう︒船の所有軒三宅は川所︑棚守の諸氏雪乙吋族の譜
にして︑佐伯氏一蝋なるこさ勿術であらう︒
さし下巾栴木糀之事
次の文警に兄ゆる海賊丸は棚守氏旗下の池賊船であらう︒
?改年之御度︑珍砿ただ︑術以不し可レ有際限候︑価而両疋令二進随一峡︑
正剛一日
猫ほ此の女害の端褒将に﹁三階沙海賊丸﹂︑こあり︑海賊丸は伊豫大三勘からこれを送ったものであら
う︒祁主祗人の海上勢力ご海騨こしての巌貼の性能及び共の活動の併藤Eは不可分のものである︒次號
はこの事から老へ仁い︒・
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巌腸附近の海上史言三
右新三宅太郎左術門尉船一一枝下し叩所如件慶長叫年Ⅲ月六Ⅱ
︵柵守︶先なもり殿御内
和川左術門尉殿参 合戴輪本定岬睡椌式細獅銅州椎却︸
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