九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
On Qi jia (起家) of Jia zu (甲族) in Liang and Chen Eras (梁陳時代)
越智, 重明
https://doi.org/10.15017/2244161
出版情報:史淵. 97, pp.35-67, 1966-12-25. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
梁陳時代の甲族層起家の官をめぐっ
て
越
重
明
智
は し が き
南朝における士人は︑家絡を中心とする仲間意識に基くものと︑純粋に制度的存在として九品官︑九回開官より下の官に
就いているものすなわち官僚たるもの︵退官者を含む︶とに大別できる︒前者の淵源は遠いと乙ろに遡ることができるよ
うであるが︑後漢以後でいえば︑まず人物評論を重んずる風潮のなかに︵政治に連なる︶学問︑識見を同じくする人々が
互に士人としての仲間立識在もち︑ついで九品官人法の運営の聞にその士人としての仲間意識が家格中心のものに変化し
たということがいえよう︿以下︑士人といえば前者の士人を指すこととする︶︒九品官人法の運営の聞に士人としての仲
間意識が家格中心となり︑かつ国政の運営も亦家格を京視するようになってきたζろ︑族門制というべきものが生じた
と考えられる︒それは全日出民の身分を上下回等に分けたものである︒以下そのそれぞれを︑︵それぞれに該当すると忌われ
る称呼のうちの一つずつをとって︶甲族︑次門︑後円︑三五門とよぷ乙ととする︒梁の天監七年に行われたいわゆる天監
の改
革︵
以下
︑
﹁改革﹂という︶以後でいえば上級の士人は甲旋回を構成し︑下級の士人は次門隠を構成していたという
ととになる︒後者は礼記などに見える命士に出たもので内部的には公卿大夫土というヒエラルキーをもっている︒
︵前
者
梁僚
時代
の甲
族居
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
五
契陳
持代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
ムノ\
の︶士人︵全体︶と後者の士人︵全体︶とは本来一致すべきであった︒時期によっては両者が一致しない乙ともあったが
﹁改革﹂時には両者の一致が図られている︒﹁改革﹂時甲族層︑次門層だけが官僚となるように定められたが︑
乙れ
はそ
のこ
とを
物語
るも
ので
ある
︒
族問制はもともと士人を中心とした政治︵・社会︶の実態のうえに設けられたものである︒しかしそれにしてもそのも
のは制度としての一面をもっ︒それだけに制度としての規制を受けるのはやむをえない︒宋になると天子が各人の属する
族門を決定する権限を最終的にもつ乙とを表面におしだしてくる︒その結果若干ではあるが士人層の理解︑意識とずれる
族︑門が生じてきている︒これはその一例をなすものである︒と乙ろで︑﹁改革﹂時︑時の天子武帝は流内第十二斑以上
第十八斑以下に就官したものの子に対して任子制を適用している︒とれにあっては流内第十二班以上第十八班以下就官者
の子は甲族︵の子︶として著作佐郎以上に起家をする︒乙れは流内第十二班以上の就官が本来甲族層だけを対象とするも
のであったのを物語っている︒しかし︑武帝は上層の次門厨出身者を盛んに流内第十二班以上に就けその際もおの任子
制を適用している︒このことは上層の次門層出身者も亦流内第十ニ班以上に就官した際制度的に甲族となったのを察せし
めるものである︒かくて武帝が族門制のもつ制度的な商を通じて旧来の甲族居にかなり大きい影響を及ぼしたというとと
が考
えら
れる
︒
南朝の天子はもちろん族門制を否定するような動きを示しておらず︑その寄定のうえに国政を運営している︒武帝にあ
つで
もそ
れに
変り
はな
かっ
た︒
そう
する
と︑
ハ門
武帝
が族
門制
を肯
定し
なが
ら︑
しか
も何
故上
層の
次門
層出
身者
なり
︑
その
子
孫なりが︵制度にそう限りにおいて自動的に︶甲族周に入るような新制度をうちだしたのか︑また︑付任子制をめぐる武
帝の政策の窮極目的は果して達成されたのかどうか︑というととが問題となってくる︒これについてはつぎのように考え
られる
oH
当時甲族層は家格の固定化のうえに安坐して官僚として無能化していた︒一方次門腐は少なくともそれに比べた際政治担当力︑事務処理能力をもっていた︒武帝はこうした点を重視し上層の次門層出身者で有能な人物を盛んに重挙
して官界で活躍させ︑そのなかで流内第十二班以上に就官した者をとくに制度的な甲族とした︒武帝のこうした政策の窮
極目的が︑新甲族膚が旧来の甲族庖と一体化することを通じて甲族層そのものの体質を改善しそれを若返らせるにあっ
たのは明かである︒その際当然のこととして新甲族層が甲族としての政治身分を子孫に伝えるべき方策をうちださなけれ
ばならない︒その要求をみたすものとして武帝が流内第十二班以上就官者すべての子に対し任子制を適用した︒ただし︑
旧来の申族閣で若死︑その他によって流内第十二班以上に就きえなかったものの子も︑申族として著作佐郎以上に起家す
る︒これは一見任子制と矛盾するようであるが︑任子制をめぐる政策の窮極目的からいえばむしろ当然のこととすべきで
ある
︒な
お︑
﹁改革﹂時武帝が上層の次門屑出身者重視策任子制をうちだした際︑その歴史的背景をなすものとして︑
右にあげたもののほかに︑﹁改革﹂時︵かつて士人であったが当時士人でなくなっていた・往々郷村社会に勢力をもって
いた︶後門層を制度としての庶民に切りさげ官僚層から外してしまったが︑その際殆んどの甲族層が郷村社会との連紫を
もっていなかったため︑彼らにその政策遂行をささえること︵後門層の反撃をおさえるとと︶が期待できなかったとと︑
一方︑上層の次門層が郷村社会を掌握していたため︑彼らにその政策遂行に与って力あるべきが期待できたこと︑武帝が
受禅するまでの過程において務州その他の州の上層の次門層が大いに活躍したこと︑などがあげられる︒つぎに︑同二百
年にもわたって固められた家系に基く甲族と次門との壁が︑意識の面で両者の融和を妨げたこと︑︵つまり︑閉じ士人で
あってもそれが家系に基くだけに︑旧来の上級士人層と下級士人層との聞には︑とり除きがたい社会意識面での隔壁があ
った
こと
︶︑
旧来の甲族層が︑自らが官僚として無能であっただけに有能な上層の次門層出身者の拾頭に内心脅威を感じ
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
七
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︿
越智
︶
}\
てい
た乙
と︑
などがからんで旧来の甲族属が彼らをその仲間に入れるといったととはごく少なく︑それだけに武帝の任子
制をめぐる政策の窮極目的すなわち甲旗層そのものの体質改善︑若返りを図る意図は制度的なものに止まった感が強
し
、。
︵なお︑上膳の次門層出身者が制度的にのみ甲族となった際︑そのものが自らをそのζとによって社会意識面でも自
動的に甲族となったとすることは殆んどなかったようである︒︶
武帝の末年侠長の乱が起ったが︑乙の乱によって旧来の川市族層はその大部分が亡んでしまった︒と乙ろで︑武帝の定め
た任子制は一応陳末まで続いたが︑陳王朝にあっては︑上周の次門層出身者以外に下層の次門層出身者や後円層以下の出身
者と思われる人々が流内第十二班以上に就いて甲族となり︑その子が著作佐郎以上に起家するといった乙とが相当数見ら
れる︒生き残った旧来の甲族層はそうしたものに対しやはり異質感をもっていたようである︒しかし政治の実権は彼ら以
外の新拾頭者層︵恩倖を八日む︶に移ってしまっている︒そこには梁の武帝が怠図したような甲族同の体質改善︑若返りに
よる国政振興といったことも図られていない︒そうした点からいえば最初の任子制が設けられたときの窮板目的自体がぼ
やけてきたというζとになる︒こうしたことは古い時代が終り新らしい時代が開けてきつつあるのを示略しているのであ
るが︑新時代にあっては族門制の存在を前提とする任子制も亦自ら根本的に改変されるべきである︒
本稿は右のような観点から﹁改革﹂以後の梁・陳時代における甲族層の起家の官を制度的にとりあげる︒なお︑本稿は
独立した一篇といったものではなく︑筆者の南朝士人層研究の一部分をなすものである︒
流内十八班制における蔭としての著作佐郎以上一の起家
﹁改革﹂とともに流内十八班制が生じたが︑本節はそうした流内十八斑制における蔭としての著作佐郎以上の起家をと
りあ
げる
︒
陪書巻二十六百官志上に︑
陳承梁︑皆循其制官︒而又置相国︒位列丞相上︒井丞相太宰太侍太保大司馬大将軍︑並以為贈官︒定令︑尚書置五員郎
二十一員︒其余並遵梁制︒為十八班︒而官有泊溺︒自十二班以上︑銀詔授︑表幹不称姓︒従十一班充九班︑礼数復為一
等︒又流外有七班︒此是寒微士人為之︒従此班者︑方得進畳第一班︒
とあ
り︑
続い
て︑
其親王起家︑則為侍中G若加将軍︑方得有佐史︒無将軍︑則無府︒止有国官︒皇太子家嫡者起家︑封王依諸王起家︒余
子並封公︑起中番郎︒諸王子升諸侯世子起家給一挙︵中︶︒=一公子起家員外散騎侍郎︒令僕子起家秘書郎︒若員溝︑亦為板
法曹︒雄高半階︑望終秘書郎下︒次令僕子起家著作佐郎︒亦為板行参軍︒此外有湯州主鱒太学博士王国侍郎奉朝請嗣王
行参箪︒並起家官︒未合発詔︒諸王公参佐等官︑伯為清溺︒或有選司補用︒
亦有
府牒
即授
者︒
不拘年限︒去留随意︒
在府之日︑唯賓遊宴賞︒時復修参︑更無余事︒若随府王在州︑其僚佐等︑或亦得預催督︒若其駆使︑便有職務︒
とある︒乙の記事は陳時代三公子︑令僕子︑次令僕子がそれぞれ員外散騎侍郎︑秘書郎︑著作佐郎に起家した乙と︑そう
した起家の官以外に揖州主簿などに起家したものもあった乙とを示している︒なお︑唐六品川︵巻十秘書郎に︑
隙著令︑令僕子起家為之︒
とあり︑唐六典巻十著作佐郎に︑
陳令︑僕射子起家為之︒
梁陳
時代
の甲
族居
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
九
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︿
越智
︶
四0
とある︒後記事は﹁令﹂と﹁僕射﹂との聞に﹁次令﹂の文字を補うべきであろう︒
また
︑
通典巻二十六職官八秘書監に︑
著作
佐郎
につ
いて
︑
陳氏為令僕子起家之選︒
とある︒乙の場合も﹁為﹂と﹁令僕﹂との聞に﹁次﹂の文字を補うべきであろう︒つまり︑こうした三記事も亦陳時代令
僕子︑次令僕子がそれぞれ秘書郎︑著作佐郎に起家する乙とを示していると考えられるのである︒
きて︑右の惰書百官志では︑初めに﹁棟承梁︑皆循其制官︒云云︒﹂とある︒この点とそこに見える十八斑︵リ流内十
八班︶︑七班︵H流外七斑︶制が﹁改革﹂時生じた点とかち︑右の起家の制が﹁改革﹂以後の梁時代・陳時代に存在した
こと
が予
想さ
れる
が︑
いま
それ
を確
かめ
る意
味で
︑﹁
其親
王・
:給
事︵
中︶
﹂内
に見
える
起家
制に
該当
する
例を
とり
あげ
てみ
よ
ぅ︒まず梁時代のζととして︑皇太子晋安主制の嫡長子が郡王に封ぜられ侍中︵など︶に起家した事例︿梁書巻八哀太
子大器伝︶︑皇太子耳目安王綱の嫡長子以外が公に封ぜられるとともに︑中書︵侍︶郎に起家した三事例︿梁書巻四十四の
南海玉大臨伝︑南郡王大連伝︑安陸王大春伝︶がある︒つぎに陳時代のこととして︑天子の子が親王となり侍中に起家し
た五事例︵陳書巻二十八の永陽王伯智伝︑晋照王叔文伝︑准南王叔彪伝︑尋陽王叔鍛伝︑岳腸王叔慣伝︶がある︒
こ乙で情書百官志に︑著作佐郎以上の起家の官以外の起家の宮が︑
場州主簿︑太学博士︑王国侍郎︑奉朝請︑嗣王行参箪
という順序でならべられているととをとりあげてみよう︒この順序は流内十八班制における官としての順序を示すに相違
ない︒と乙ろで︑通典架官品には︑流内第二班に︑
︵秘
書郎
︑著
作佐
郎よ
りあ
とに
︑︶
揚州主簿︑太学博士︑家朝請︑嗣王府行参軍
とあり︑流内第一斑に︵皇弟︶皇子園侍郎︑流外第七斑に嗣王国侍郎︑流外第六班に蕃王国侍郎がある︒ここでの百官志
の順序との相違は王国侍郎︑だけである︒かくて両者は巨視的には一致するといえよう︒
このように見てくると︑百官志の起家の項の記述は﹁改革﹂以後の梁と陳とを通じたものということができよう︒以下
右の三公︑令僕︑次令僕の子の起家の規定を﹁改革﹂以後の架時代の史実を例にとってより細かく見てみよう︒まず︑山
書巻十七哀敬伝に︑
哀敬︑字子恭︒陳郡陽夏人也︒:・父昂梁侍中司空︒:・︵敬︶搾褐秘書郎︒
とあり︑陳書巻十七哀泌伝に︑
哀泌︑字文洋︒左光藤大夫敬之弟也︒・:樟褐員外散騎侍郎︒
とあって︑兄弟でありながら一方は令僕子にあたる起家をし︑他方は三公子にあたる起家をしている︒乙こで梁書巻一二十一
蓑日叩伝を見ると︑哀日河は梁の司空侍中となるまえに尚書僕射︑尚書令などに就いている︒そうすると裳敬はその父の令僕
子として秘書郎に起家し︑表泌はその父の三公子として員外散附侍郎に起家したことが想定される︒
ところで︑梁時代でいえば︑三公は流内第十八班︑尚書令は流内第十六班︑尚孝一回僕射は流内第十五班である︒流内第十
八班︑流内第十六班︑流内第十五班には︑それぞれ三公︑尚書令︑尚骨一日僕射以外の官がある︒右の三公︑令僕は当然のこ
ととしてそうしたもの︵すべて︶を含んでいる︒それだけでなく︑右の令僕は流内第十七班︑流内第十四斑の諸官︵のす
ベて︶を含むと考えられる︒一方次令僕は坑内第十三班︑流内第十二班の諸官からなるが︑流内第十三班︑流内第十二班
の一部には令僕が入ったことが推定される︒いまそうしたことをとりあげる︒
まず流内第十七班についてであるが︑渠世一回巻三十四張結伝を見ると張弘策の第四子結が
﹁改
革﹂
以後長兼秘書郎に起
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の宮
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
四
梁陳
時代
の甲
族間
眉起
家の
宮を
めぐ
って
︵越
智︶
四
出家している︒梁書巻十張弘策伝によると︑張弘策は﹁改革﹂以前衛尉卿として職に殉じ︑車騎将軍を贈られている︒﹁
改革﹂以後の新官制でいえば衛尉卿は流内第十二攻︑車騎将軍は将軍の体系で︵流内︶第二十四斑である︒こ乙で唐六典
巻
︵吏部﹀郎中を見ると︑車騎将軍について︑
栗斑
第十
七︒
とある︒通典課官品に︑車騎将軍について﹁内外通用﹂とあるが︑右の班第十七とあるのは蓋し内職としての流内十八班
制におけるものであろう︒そうすると令僕の上限は流内第十七斑ということになろう︒なお︑起家に関する極官に悶宮が
含ま
れる
乙と
は︑
つぎの流内第十四班についての考祭によって一段と明かになろう︒
つぎに流内第十四班についてであるが︑架道巻三十四張績伝に︑
績︑字伯緒︒緬第三弟也︒出後従伯弘籍︒弘籍高祖努也︒梁初贈廷尉脚︒・;︵績﹀起家秘書郎︒秘書郎有四員︒宋斉以
来︑為附族起家之選︒云云︒
とある︒績の起家は﹁改革﹂以後のことである︒淀川世巻七太机献皇后張氏伝を見ると︑
弘籍
は斉
初鎮
西参
甲山
十と
なり
官に
卒しているが︑武帝は即位後弘籍に金紫光線大夫と延尉卿とを贈っている︒﹁改革﹂以後でいえば参軍はその最高の皇弟
皇子府諮議参軍が流内第九班である︒また︑金紫光般大夫は流内第十四班︑廷尉卿は流内第十一班である︒後述のように
流内第十一斑は次令僕にもあたらない︒そうすると綴の秘書郎起家は令僕た名流内第十四班就官者の子の起家例と考えざ
るを
えな
くな
る︒
︵こうしたことは起家に関する極官に贈官が含まれるべきを物語るものである︒︶
つぎに流内第十三班についてであるが︑隙苦巻三十四江徳操伝に︑
江徳操︑字徳藻︒済腸考城人也︒・:父草深度支尚書光球大夫︒・:︵徳操︶起家梨市中郎武陵王行参布︒
とある︒ここに見える梁の南中郎武陵王であるが︑これは武陵王紀を指している︒叩災害巻五十五武陵王紀伝には武陵王
が南中郎崎町に任ぜられたことの記載がないが︑梁書巻三十六江草伝を見ると︑江革が江州刺史南中郎武陵王長史に除さ
れ
ついで入って度支尚書となったとある︒武陵王が江州刺史であったのは中大通元年から中大通四年までの聞である︒
恐らくこの間の全部︵あるいは一時期︶に南中郎将でもあったのであろう︒江草ほ南中郎長史になるまでにすでに左光藤
大夫︵流内第十三斑︶︑都官尚書︵流内第十三斑︶に就いている︒また︑あとで述べるように情書百官志に見える待参軍
は皇弟皇子府行参軍のことである︒そうすると革の子徳川似は次令僕子として皇子府行参軍に起家したことになる︒
つま
り
乙の際流内第十三班は次令僕に該当するという乙とになるのである︒なお︑革は武陵王長史に除されるまでに尋陽太守な
どの地方長官に任ぜられている︒流内第十四斑は令僕に該当するからそれらは流内第十三斑以下という乙とになる︒
︵ 右
それによって流内第十四班に次令僕が含まれるとされても︑
稿の論旨自体を妨げるものではない︒ただし以下それを流内第十三班以下として論を進める︒︶ の尋陽太守などが流内第十四班に含まれており︑それは本
つぎに流内第十一斑についてであるが︑陳書巻二十六徐孝克伝に︑
孝克︑陵之第三弟也︒:・酬が太清初︑起家為太学博士︒
とあ
る︒
梁世
一日
巻三
十徐
摘伝
に︑
孝克らの父摘の伝が記されているが︑摘は太学博士に起家している︒いま太清の初め前
後の捕の宮について考えると︑彼は皇子府長史︵流内第十班︶︑新安太守につぎつぎに就き︑さらに太清元年よりまえに
太子中庶子︵流内第十一斑︶となっている︒のち太清三年までの聞に太子左衛率となり以て太清三年五月︵すなわち太清
の末︶に及んでいるが︑通典巻三十職官十二︵太子︶左右衛率府に︑
梁ニ率視御史中丞︒
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
四
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
﹀
四四
とある︒梁の御史中丞は流内第十一班である︒新安太守は蓋し流内第十班あるいは第十一斑に擬すべきものであろう︒川
れにしても孝克が太学博士に起家したとき摘が流内第十一斑になっていたのは確かであるから︑著作佐郎起家すなわち次
令僕起家は流内第十一班以下の就宮者を対象としないという乙とになろう︒︵もし新安太守が流内第十一斑より上である
としても︑さきに見たと乙ろからそれは次令僕たる流内第十三班には及ばない︑つまり流内第十二班に止まる︑とされよ
ぅ︒しかしつぎに述べると乙ろをあわせ考えると︑それは事実上せいぜい流内第十一班どまりであったとすべきである︒︶
最後に流内第十二班についてであるが︑管見の及ぶ限りではこれを極官としたものの子が著作佐郎に起家したことを明
自に物語る史料は見当らない︒従ってそれを極官としたものが次令僕にあたるのかそれともそれより下にあたるのかにつ
いては推測するよりほかないのであるが︑その手がかりとなるのは陪寄百官志に流内第十二班以上第十八班までを詔授対
象の︑グループとして一括し︑流内第九班以上第十一斑までを別の︑グループとして一括していることである︒乙れは礼数上
の差として示されているが︑それだけに︑前者が詔授対象グループであることは︑自ら三公︑令僕︑次令僕の子が発詔を
まって起家するグループである乙とと相応ずる︒乙うした点から流内第十二班就官者が次令僕としてその子を著作佐郎に
起家させるべきが察せられよう︒
とこ
ろで
︑
椿朔が父向の死後秘書郎に起家している︒向は秘書郎に起家した甲族であ
その極官は長兼侍中︵流内第十二班︶と考えてまず間違いあるまい︒そうすると流内第十二班が令僕であった場 梁書巻四十一緒矧伝を見ると︑
るが
︑
合もあるということになる︒また︑陳書巻十七王通伝に︑
王通︑字公達︒浪邪臨好人也︒・:父琳司徒左長史︒琳
B X 円代袋梁武帝妹義興長公主︒有子九人︒蛇知名︒梁世起家国子生︒
挙明極︑為秘書郎太子舎人︒以帝甥︑封武陽自J
侠 ︒
とあり︑陳書巻十七王駒伝
κ
︑助︑字公済︒通之弟也︒・:梁叩為国子周易生︒射策挙高第︑除秘書郎太子会人宣恵武陵王主簿軽率河東王功哲史︒
とあり︑陳書巻十八王質伝に︑
王質︑字子貞︒右光線大夫通之弟也︒・:梁世以武帝甥︑封甲口亭侯︒補国子周易生︒射策一員第︑起家秘書郎太子洗馬尚
書殿
中郎
︒
とあり︑陳書巻二十一王国伝花︑
王国︑字子堅︒左光線大夫通之弟也︒・:梁武帝甥︑封莫口亭侯︒挙秀才︑起家梁秘書郎︒
とあり︑梁書巻二十一王錫伝に︑
錫︑字公損︒琳之第二子也︒・:十四挙清茂︑除秘書郎︒
とある︒王揚の秘書郎就宮は起家としてのそれであったと考えられ
Z o
す︶
また
︑梁
書巻
二十
一
食︑
字公
会︒
錆第
五弟
也︒
八歳
丁父
憂︑
表一
聖地
礼︒
:−
b禁
止婦
︑除
長兼
秘書
郎中
︒
王愈
伝に
︑
とある︒右にあげた王琳の諸子の起家はすべて﹁改革﹂以後と推定される︒王琳の極官は︑今日知りえる限りでは司徒左
長良︵流内第十二班︶である︒蓋しこれも亦流内第十二班が令僕であった事例となるものであろう︒
さて︑陳書巻二十一
議允
伝花
︑
蘇允︑字升佐︒関陵人也︒:・父介梁侍中都宮向書︒
︵允
︶起
家郁
陵王
法曹
参軍
︒
とあり︑陳書巻二十一結引伝に︑爾允の弟引について︑
料褐︵梁︶著作佐郎︒
梁陳
時代
の申
族層
起家
の︷
自を
めぐ
って
︿越
智︶
円五
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
四六
とある︒右の部陵王は梁の武帝の皇子で天監十三年部陵王に封ぜられた倫を指す︒ここで情書百官士山に見える板法曹︑板
行参軍︑嗣主行参軍をとりあげてみよう︒まず板法曹と板行参軍とであるが︑南斉書巻十九百官志花︑
凡公督府置佐︒長史司馬各一人︒諮議参軍二人︒諸曹有録事記室戸首倉曹中直兵外兵騎兵長流賊曹城局法曹団曹水曹鐙
曹集
曹右
一戸
十八
曹︒
︵城︶局曹以上署正参軍︒法曹以下署行参軍︒各一人︒云云︒
とあ
る︒
ζ乙に法曹参軍が参軍を正参軍と行参軍とに分けた際の行参軍に入ることが示されている︒この際の行参市はそ
れぞれ特定の職掌をもちその一つに法曹があったとすべきである︒梁書巻二十一
王泰
伝に
︑
斉時
代の
こと
とし
て︑
王泰
につ
いて
︑
遷前将軍法曹行参軍司徒東潤祭画事前主簿︒
とあり︑梁書巻二十一柳峰伝に︑柳僚について︑
斉寛陵王間而引之︑以為法曹行参軍︒
とあ
るが
︑
こうした際の法曹行参軍は右のような性格をもつものとして理解すべきである︒ところが︑のちになると行参
軍は必らずしも特定の職掌をもたなくなってきているのである︒梁喜巻四十劉顕伝に︑劉顕について︑
解褐中軍臨川王行参市︒俄署法曹︒
とあり︑梁書巻四十二怠祭伝に︑議祭について︑
初為
雲麿
普安
王行
参索
︒俄
署法
前日
︒
とあり︑陳書巻三十四陸淡伝に︑陸淡について︑
解褐宣葱始興王行参軍︒遷法問外兵参京︒
とあ
るが
︑
とれらはいわば広義の行参軍のなかに法荷など特定の職掌をもつものとそうしたものをもたないもの︵いわば
狭義の行参軍︶とがいたのを察せしめるものである︒と乙ろで梁陳時代正参甲車︑行参軍にはともに除︑板の別があった︒
つまり同時代参軍には除正参示︑除行参前︑板正参市︑板行参軍という凹つの﹁資格﹂があったのである︒蓋し附議百
官志の板法曹は︑板行参引のなかで特定の職掌をもつものとしての法前参軍のことであり︑板行参軍ぱ板行参軍のなかで
特定の職掌をもたないもののことであろう︒つぎに嗣王行参引の嗣王であるが︑架の官品では皇親の府を皇弟皇子府︑嗣
王府︑皇弟皇子之庶子山川︑蕃王山川に区別している︒嗣王行参恨の刷王はこの嗣王に相違ない︒そうするとさきの絞法曹︑
︵B︶ 板行参軍は自ら皇弟皇子府のそれとなろう︒
かくて︑さきの都政王法曹参軍は︑部陵王倫府板法曹︵行︶参軍の意味で︑その起家は令僕子としての起家となる︒し
かし︑允の弟引は著作佐郎に起家している︒これは次令僕子としての起家である︒ところで︑前引の繍允伝で粛介が就い
たと記されている梁の侍中は流内十二班であり︑都宮尚書は流内第十三班であるが︑彼は致仕の時は流内第十三班たる光
線大夫であったようである︒何れにしても彼の極官は流内第十三班と考えられる︒また︑允︑引兄弟起家時の介の級官が
流内第十二班もしくは流内第十三班であったことに間違いはなかろう︒通常起家は兄の方が治よりさきである︒この際も
そうであると考えると︑ある特定の班︵具体的には流内第十二班あるいは第十一三肌︶に就いていた際その子はあるいは令
僕子として起家をし︑あるいは次令悦子として起家をするという乙とになる︒
いままでとりあげた起家は︑行参軍起家に関するものの一郎を除くとすべて﹁改革﹂以後の染のものであるが︑かくて
﹁改革﹂以後流内第十八班就官者の子が三公子として起J試し︑流内第十七班︑第十六班︑第十五班︑第十四班就官者の子
が令僕子として起家し︑流内第十三班︑第十二班就官者の子が令僕子あるいは次令僕子として起家したことになる︒
流
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
四七
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︿
越智
﹀
四J¥
内第十三班︑第十二砥の諸官で︑令僕たるものか次令僕たるものかに定められているものがあったかも知れないが︑詳かで
ぃ︒﹀数多い起家のなかには必らずしも規定通りでないものもあったであろうが︑こ乙で重視したのは﹁改革﹂以後の梁
時代において流内第十二班以上の就官者︵流内第十二斑以上の贈官を受けたものを含む︶が具体的に次令僕以上であった
と考
えら
れる
乙と
と︑
そうしたものに関しその父の就いている官︵あるいはそれまでの極官︶がその起家の官を自動的に
定めるという制度が見られるζと自体とである︒この大勢は陳にあっても別に変りはなかったであろう︒
ただし︑梁書巻三十五菊子雲伝に︑
子雲性出静︑不楽仕進︒年三十︑方起家為秘書郎︒
とある︒緒子宝は斉の大司馬予軍文献王疑の子である︒この起家は父死後でかつ﹁攻草﹂以後のものである︒その父の官
に基く起家であれば子雲の起家は員外股騎侍郎となるべきである︒それにもかかわらず彼は秘畜郎に超家しているのであ
る︒ところで︑梁普巻目十一粛幾伝に︑
粛幾
︑︷
子徳
玄︒
斉曲
江公
遥欣
子也
︒・
:早
孤
0・:樽褐著作佐郎広陵玉文学尚書殿中郎太子舎人︒掌管記︒
とある︒粛遥欣は斉の宗室で死後司空を始られている︒この慮陵王は梁の天監八年躍陵郡王に封ぜられた武帝の皇子続のと
ととされよう︒乙の記事をあわせ考えると﹁改革﹂以後の梁時代︑斉の宗室の起家には特例があった乙とが推測される︒
しかしこのことはいままでの考察結果を否定するものではない︒
ちなみに︑宋書巻八十八枕文秀伝に︑
日出文秀︑字仲遠︒呉興武康人︒司空直之弟子也︒父劫之︑南中郎行参軍︒文秀初為郡主簿功曹史︒慶之店員後︑文秀起・家
東海
王禅
撫軍
行参
軍︒
云云
︒
とある︒これは起家の官が伯父の官僚としての地位の上昇の結果改変された事例である︒しかし南朝を通じてとうした起
家の宮の改変は全く例外的である︒
流内第十ニ班以上に就宮した非甲族層出身者の子の起家
本節は念のため︑流内第十二班以上に就官した非甲族居出身者の子であっても︑第一節で述べた規定が適用されたとと
をとくにとりあげるものである︒
第一に︑﹁改革﹂以後の梁時代︑流内第十二班以上に就官した次門届出身者の子が︑規定に従って著作佐郎以上に起家し
た事例についてであるが︑まず著作佐郎の場合︑梁書巻二十四徐勉伝に︑徐勉の子俳が著作佐郎に起家し︑太子会人に
転じたとある︒勉は斉時代西陽王国侍郎に起家しついで太学博士に就いている︒かくて彼は上層の次門層出身者とすべ
きである︒彼はのち﹁改革﹂後右光線大夫︵流内第十六班︶などとなっている︒俳の起家は必らずや彼が次令僕であ
ったときの乙とであろう︒つぎに︑陳書巻二十到仲挙伝に︑到治の死侯治の子仲挙が著作佐郎に起家したとある︒
梁書巻四十到溜伝に︑斉の中書︵侍︶郎到坦の子概が王国左常侍に起家したとあり︑梁書巻二十七到治伝に甑の弟治
が起家の宮として晋安国左常侍に除されたが就かなかったとある︒ζれから見て治起家時その政治身分は上層の次門であ
ったと考えられる︒のち彼は尋陽太守として官に卒している︒蓋しとれが彼の極官であろうが︑尋陽太守が流内第十三班
以下であったのは第一節で見た通りである︒また彼は死後侍中︵流内第十二斑︶を贈られている︒袷死亡時仲挙はいまだ
十一才であった︒従って仲挙の起家は沿の死後とすべきであるが︑この起家が治が次令僕であったとと︵あるいは次令僕
契陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
九四
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
。
五を贈られたζと︶のに基くのはいうまでもなかろう︒
つぎに秘書郎起家の場合︑第一節で述べた・ように︑死後金紫光旅大夫を贈られた張弘籍のあとをついだ張績が秘書郎に
起家している︒南史巻五十六張績伝に︑
る︒また︑同じく第一節で述べたように︑贈車騎将軍張弘策の第四子結が長兼秘書郎に起家している︒梁書巻十一張弘策 ﹁績本寒門﹂とあるのから考えて︑弘籍の家系は次円であったとすべきであ
伝を見ると弘策は斉の王国常侍に起家しさらに泰朝詰︵など︶に選っている︒これから見て弘策はもと/\上層の次門で
︵弘籍と弘策とは従父兄弟の関係にある︒恐らく弘籍も上層の次円腐出身であったのであろう︒あったとすべきである︒
︶ち
なみ
に︑
架量
一回
巻三
十四
張緬
伝を
見る
と︑
弘策
の子
で緩
や結
の兄
の縦
が契
初︑
﹁改革﹂以前︵ただし父死亡後︶秘書
郎に
起家
して
いる
︒
その子が員外散騎侍郎に起・試した事例は見当らないようである︒
︵g v
︵﹁改革﹂以後の梁時代︑後門局以下の出身者が流内第十二班以上は就いたことは殆んどない︒︶ な
お︑
上層
の次
門層
出身
者が
一ニ
公と
なり
︑
第二に︑陳時代︑流内第十二班以上に就官
L
た次門層以下の出身者の子が︑規定に従って著作佐郎以上に起家した引けについてであるが︑まず著作佐郎起家の場合︑南史巻六十七徐敬成伝に︑徐敬成について︑
起家
著作
郎︒
とある︒陳書巻十二徐度伝には︑徐敬成の父度について︑
徐度︑字孝節︒安陸人也︒世居京師︒少伺僚︑不拘小節︒及長︑姿拍倒壊偉︒曙酒︑好博︑恒使億僕屠酷為事︒梁始輿内
史粛介之郡︒度従之︒将領士卒︑征諸山洞︒以駿勇問︒云云︒
とある︒これから徐度が甲族でなかったのがわかる︒蓋し後門層以下の出身であろう︒のち彼は侍中︑司空などとなって
いるが︑敬成の起家が彼の官序に応じたものであったことは︑乙れを察するにかたくない︒なお︑陳書巻十ニ徐敬成伝に lま
﹁著作郎﹂が﹁著作佐郎﹂となっている︒これは南史のように著作佐郎とすべきであろう︒
つぎに︑秘害郎起家の場合︑陳金百九﹈二十六徐倹伝に︑徐倹について︑
梁太治初︑起家予章王府行参慨︒
とある︒乙の予昨王は昭明太子の長子で︑その死後予立郡王に封ぜられた歓を桁すと考えられる︒従ってその起家は嗣王
府行参原︵に準ずるもの︶とすべきである︒倹の父陵は太清二年︵以前︶に遇直散騎常侍︵山町内第十一斑︶となり︑以て
太清末に至っている︒恐らく倹の起山本は陵の通直敬騎常侍就官よりまえであろうが︑何れにしても倹の起家は次門の子と
しての起家となる︒また︑第一節で引用したように︑陳書徐孝克伝に︑陵の弟孝克について︑
梁太清初︑起家為太学博士︒
とある︒また︑陵・孝克の父︵すなわち倹の祖父︶捕は太学博上に起家している
Q ζ
れらはあいま勺て陵︑孝克兄弟が本
来次円層出身者であったのを察せしめよう︒と乙ろで︑徐倹伝には︑倹の弟粉と儀︵儀は紛の弟︶とについて︑
扮少有父風0・:解褐為秘書郎︒・:太建二年卒︒時年二十二︒儀少聴警︒以周易生挙高第︑為秘書郎︒
んど の
いまかりに紛が陳の天嘉四年︵十五才のとき︶起家したとすれば︑hvその年に陵は五兵尚書︵流内第十三班︶に任
︒
ぜられており︑太建元年︵ニイ一才のとき︶起返したとすればその年に陵は尚書右僕射に任ぜられている︒粉︑儀がその
兄倹と迷う起家をしている際その父陵の官述が決定的なものであったのは自ら明かであろう︒ただし︑梁書巻三十徐摘伝
に︑陵・孝克の父摘について︑
除太子左衛率︒・:太宗嗣枚︑進技左衛将軍︒同譲不昇︒太宗後被酬︒摘不獲朝詔︒因感気︑疾而卒︒年七十八︒長子陵
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
豆
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
五
最知
名︒
とある︒左衛粥軍は流内第十二班である︒太宗が即位したのは太清よりあとである︒死後捕は侍中︵流内第十二班︶︑太
子磐事︵流内第十四斑︶を贈られている︒
︵次
節で
述べ
るよ
うに
︑
﹁改革﹂以後流内第十二班以上に就官したものは︑制
度面ですべて甲族とされたと考えられる︒︶そうすると紛と儀との起家時︑陵がその父︵すなわち︑紛・儀の祖父︶摘に
よって甲族とされていた乙とが考えられる︒しかしそれにしてもとの起家は父の就官によって生じたと考えてよかろう︒
つまり︑右は上層の次門層の家系に︑流内第十二班以上就官による制度面での甲族化と︑令僕就官によるその子の秘書郎
起家とが相重なる形で生じたものとすべきなのであろう︒
つぎに︑員外散騎侍郎起家の場合︑陳書巻八侯安都伝に︑
安都長子教︑年十ニ︑為員外散騎侍郎︒天嘉二年︵西紀五六一年︶堕馬卒︒
とある︒侯安都は永定三年︵西紀五五九年﹀に司空となっている︒︵時に安都四十才︒︶との員外散防侍郎起家は必らず
や三公子としての起家であろう︒侠安都の家については︑同伝に﹁世為郡著姓︒﹂とあるが︑本来ほぼ次円程度であった
として大過あるまい︒ちなみに︑陳書巻九侯瑛伝に︑侯墳の子浄裁について︑
浄購尚世祖第二女富揚公主︒以公主︑除員外散騎侍郎︒
とある︒侯嘆は﹁世為酉萄禽豪﹂とされる人物であるだけに甲族であったとは考えられない︒せい介\次円程度のもので
あろう︒永定二年彼は司空となっている︒右に﹁以公主﹂とあるのは﹁以公子﹂の誤り︑あるいは﹁以尚公主﹂の誤りで
あろ
う︒
流内第十ニ班以よ就官者が制度面ですべて甲族であること
本僚は﹁改革﹂以後流内第十二斑以上に就官したものが制度面ですべて甲族であること︑つまり︑次門層以下の出身者
もその就官によって自動的に制度面で甲族となったことを考察する︒
梁書巻三十四張績伝に︑
秘書郎有四員︒宋斉以来為甲族起家之選︒待次入補︒其居職︑例数十百日便選任︒績閏求不徒︒欲一極観閣内図籍︒嘗執
四部書目日︑若読比畢︑乃可言優仕突︒如此数載︑方選太子会人︒転洗馬中舎人︒並掌管記︒
とある︒第一節︑第二節で張績がその従伯弘籍のあとをついだものである乙と︑弘籍がもともと次円届出身者であると考
えられる乙と︑にふれた︒績は天監十五年に十七才で起家しているからその起家は﹁改革﹂以後になる︒右において績が
甲族であるととは全く既定の事実とされている︒また︑績が太子洗馬に就いているが︑それに関し︑梁書巻四十九庚於
陵伝
に︑
旧事︑東宮官属︑通為清選︒洗馬掌文選︒尤其清者︒近世用人︑皆取甲族有才望︒時於俊輿周捨︑認擢充職︒高祖目︑
官以
人清
︒山
日限
甲族
︒時
論以
為美
︒
︵ 叩︶
とある︒これは太子洗馬が旧来の甲族層のなかでもとくに優れたものの就くべき官であったのを示している︒こうした
点を
あわ
せ考
える
と︑
﹁改革﹂以後︑令僕の子は︑その令僕たる父がもともと次門隠出身者であったにしても︑自動的に
少なくとも制度上甲族として起家したとすべきである︒乙のζとは︑さらに令僕に就官した際そのものがもともと次門層
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
玉
梁際
時代
の甲
族層
起家
の宮
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
五回
以下の出身者であっても︑改めて制度面で甲族とされた乙とを察せしめるに足るであろう︒
このように見てきた際︑改めて問題となるのは︑﹁改革﹂以後次門層以下の出身者が就官によって制度面で甲族となる
際︑その就︷目の下限がどこかということである︒いまそれを考えてみよう︒
﹁改革﹂以前岡市族届の起家すべき諸富として︑著作佐郎︑員外散騎侍郎︵など︶があげられる︒いまそれを瞥見してみよ
ぅ︒南史二十三巻王灸伝に︑
﹁改
革﹂
以前
の乙
とと
して
︑
失︑
︷子
道明
︒該
凡子
也︒
父粋
︑︐
一千
日凪
深︒
位黄
門侍
郎︒
失継
従祖
球︒
・:
年数
歳︑
常侍
球許
︑甚
凡愛
︒低
︵諸
兄出
身諸
王国
常
侍︒而共起家著作佐郎︒破邪顔延之︑与球情歎梢異常︒常撫失背日︑阿奴︑始免寒士︒
とある︒別稿で論ずるように︑寒士というのは次門岡山の起家すべき諸官に起家したもののととである
02
そうすると著作 v
佐郎起家というのは甲族層としての起家という乙とになる︒﹁改革﹂以前甲族周超家の宮としては他に秘書郎があった︒
とれ
はさ
きに
見た
通り
であ
る︒
また
︑口
氏外
散騎
侍郎
H員外郎がある︒これについては第五節でふれるが︑いま直接必要な点
だけ
を述
べる
と︑
宋斉時代︑員外散騎侍郎起家者としては︑まず宋の宰相の子︑斉の素姓三公の長子の類があげられる︒
すなわち︑宋警巻四十二王弘伝花︑その父王弘の爵華容県公を嗣いだ錫に閲し︑
子錫闘︒少以宰相子︑起家為員外散騎︵侍郎︶︒
とあり︑南斉室田巻二十二予本文献王伝に︑斉時代の乙ととして︑
由一
糸姓
三公
︑長
子一
人︑
為員
外郎
︒
とあ
る︒
王弘は当時の代表的甲族であるが︑米斉時代こうした起家が行われる除︑
戸 ︼
4守114︑
パ ン
村
出来姓三公がすべて叩族であ
るという前提のあったととは︑とれを察するにかたくないであろう︒ところで︑宋斉時代員外散騎侍郎が一般的な甲族隠
起家の官となったことがある︒例えば︑宋書巻七十一徐滋之伝に︑贈中審侍郎徐達之の子泌之について︑
元嘉二年︑除著作佐郎員外散騎侍郎︒並不就︒六季︑東宮始建︒起家補太子洗馬︒
とある︒右の記事の前半は恐らく甲族層起家の官としての著作佐郎に起家すべきであったのにそれに就かず︑ついで員外
散騎侍郎に起家すべきであったのにそれにも就かなかったのを示しているというよりも︑同時に著作佐郎と員外散騎侍郎
とに起門家すべきであったが︑それらに就かなかったのを示しているのであろう︒何れにしても最後には甲族層の就くべき太
子洗馬に起家しているわけであるが︑その員外散騎侍郎は一般的な甲族層起家の官であるとしてよかろう︒また︑南斉書
巻二十三椿淵伝を見ると︑格淵の長子貨が宋の昇明以前に秘書郎に起家し︑貨の弟秦が斉の永明中に員外郎に起家してい
る︒淵は著作佐郎に起家した旧来の甲族である︒前者は蓋し一般的な甲族としての起家であろう︒後者はあるいは︑長子
賞が淵が三公となるまえにすでに起家してしまっていたので︑その﹁特権﹂をその弟に譲ったところに生じたものかと予
想される︒もしそうでなければこれ亦一般的な甲族としての起家となろう︒また︑梁書巻七太宗簡皇后王氏伝に︑太宗の
皇后の父王鶏について︑
以公子︑起家員外郎︒
とある︒この起家時王鶏の父倹は斉の南昌県公であったがいまだ三公に昇っていなかった︒そうするとこの公子は諸侯の
子︵具体的には県公の子︶を指していると一応予想される︒︵王倹は秘書郎太子舎人に起家した当時の代表的な甲族であ
る︒︶ところが︑同じ斉時代︑建昌公の子でのちその爵をついだ到掲が太学博士に起家している︒乙れは次門起家である︒
これから︑右の公子がいわゆる貴公子といった意味であることがほぼ想定されよう︒貴公子と称される際その家格は申族と
考えられる︒これはあとで述べる通りである︒何れにしてもこれは員外散防侍郎起家が一般的な甲族としての起家であった
梁陳
時代
の甲
族問
周起
家の
官を
めぐ
って
︵越
智︶
五五
架線
時代
の甲
族扇
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
五六
一例
をな
すと
され
よう
︒ま
た︑
渠骨
一回
巻二
十一
王瞭
伝に
︑
王鶏の弟で斉時代起家した陳について︑
弱冠︑選尚准南長公主︒拝尉馬都尉︒除員外散騎侍郎︒不拝︒改授晋安王文学︒
とある︒乙の員外散騎侍郎起家については右の椅秦と同様なことがいえるJ︵王文学は甲族の就くべき官である︒とれに
起家するということは甲族として起家するととを意味する︒﹀また︑南斉堂一回巻三十五間川献王峡伝に︑
九子皆封侯0
・:
第二
子子
瀞州
陵侯
︒解
褐員
外郎
太子
抗馬
︒
とある︒この員外郎H員外散騎侍郎起家も亦一般的な甲族︵なり照・族に準じたものなり︶としての起家といえよう︒
だし︑﹁改革﹂以前員外散騎侍郎起家には次門層起家の場合もある︒乙れについては第五節でふれる︒しかしそれは一般的事
象として起家の官と家格とに対応が無かった乙とそ物語るものではない︒︶つぎに︑当時次円屈の起家すべき諸官として
王国常侍︑王国侍郎︑奉翰請︑太学博士︑州の主簿・従事などがあげられる︒
右に瞥見した甲族居起家の官と次門層起家の官とが︑︵第五節でふれるようなどく僅かの例外の場合を除いて︶甲族層
と次門層との差別の一環をなすものとして裁然と区別されていたことは︑
︵た
だし
︑
﹁改革﹂以後のように流内のある班以上|ある宮品以上の宮に就いたものの子がすべて甲族として起
つまりある班|官品以上の官に就いたものが自動的に制度面で甲族となるといったととはない︒︶
これ
を察
する
にか
たく
ない
︒
﹁改
革
﹂以
前に
あっ
ては
︑
家す
ると
いっ
たこ
と︑
︵巨
視的
にと
りあ
げた
際︑
﹁改革﹂以前の甲族居起家の官︑次門層起家の官は︑﹁改革﹂以後甲族層起家の官︑次門層起
家の官として存続する︒ζれは以後の考察の聞に自ら明かとなろう︒︶
さて︑第一節でふれたように︑﹁改革﹂以後︑流内第十二斑以上就官者の子が員外散騎侍郎︑秘書郎︑著作佐郎に起家
するにあたっては詔が発せられ︑他方流内第十一斑以下就官者の子が揚州主簿︑太学博士︑王国侍郎︑奉朝請︑嗣王行参
軍︵など︶に起家するにあたっては詔を発せられない︒前者は流内第十二斑以上の就官が詔授によるのと相応ずるとすべ
きである︒かくて両者には裁然たる区別があり︑かつ後者に対した際前者の員外散騎侍郎︑秘書郎︑著作佐郎グループの
ご体﹂性ともいうべきものは強力であったとすべきである︒ところで︑発詔グループのうち秘書郎はもとから甲族層起家
の官
であ
る︒
また
︑
そとに員外散騎侍郎があるが︑これも旧来甲族問起家の官であった点がとり入れられたのであろう︒
なお
︑
﹁改革﹂以後それが甲脹たる三公就官者の子の起山本の官となっていることは︑そのとり入れにあたって︑旧来それ
が事実上甲族たる宰相︑素姓三公の長子起家の官であった点がとくに重視されたのを察せしめよう︒何れにしても秘書郎
の上位にあるものだけに﹁改革﹂以後その就官者が制度面で甲放となり︑その子が巾肢として員外散騎侍郎に起家したこ
とに間違いはなかろう︒つぎに未発詔グループであるが︑このうち王国侍郎起家のものは明かに寒士である︒すなわち︑
南具巻六十徐勉伝に︑王国侍郎に起家した徐勉に対し︑架の武帝が﹁改革﹂以後の乙ととして︑
卿寒
士︒
﹁改革﹂以後も主国侍郎に起家したものが次円周であったのを示している︒太学博士が旧来同様
寒士の就くべき官であったこと︵ひいては寒士起家の官であったこと︶も史料的に確かめられる︒ と
いっ
てい
る︒
乙れ
は︑
この
よう
に見
てく
ると
︑
﹁改革﹂以後も著作佐郎起家が甲族回起家の官であるとと︑ひいては次令僕以上日流内第十二
班以上に就官した際その就宮者がすべて甲族となるべきことが理解されよう︒
附言すると︑陳書巻八周宝安伝に︑
宝安︑字安民︒年十余歳︑便習騎射︒以貴公子︑騎鶏遊逸︒好狗馬︑楽馳瞬︑騨衣総食0
・:
及文
育西
征敗
績︑
繁於
王琳
︑
宝安便折節読書︒与士君子遊︒御文育士卒︑甚有威恵︒
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の宮
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
五七
梁陳
時代
の甲
旋層
起家
の宮
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
五;¥
とある︒周宝安の父丈育は王琳にとらえられるまでに開府儀同三司︵流内第十七班︶となっている︒陳書巻八周文育伝
l乙
周文育︑字景徳︒義興陽羨人也︒少孤貧︒本居新安寿畠県︒姓項氏︑名猛奴0
・:
義興
人周
音為
寿国
田浦
口成
主︒
見而
奇之
︑
因召与語︒文育対日︑母老家貧︒兄姉並長大︑困於賦役︒奮哀之︒乃随文育至家︑就其母︑請文育︑養為己子︒母遂与
之︒
云一
京︒
とあるが︑賦役に苦しんだその﹁生家﹂も養なわれた周家も決して甲族ではない︒周家にあってもせいぜい次門程度であ
ろ−
っ︒
とこ
ろで
︑
ここに周宝安が貴公子であったとある︒ζの貴公子という語について考えてみよう︒旧来貴公子という
表現は家格を重視したものであった︒南史巻二十一
王僧
達伝
に︑
路現之太后兄慶之孫也︒宅与僧遥門段︒嘗盛車服︑詣僧達︒僧達将猟︑己改服︒現之就坐︒僧達了不与語0
・:
太后
怒︑
泣前叩於帝日︑我尚在而人陵之︒我死後乞食尖︒帝日︑現之年少︑無事詣僧達門︑見辱︒乃其宜耳︒僧達貴公子︒時一可以
此加
罪乎
︒云
云︒
とあ
り︑
梁室
田巻
三十
一嚢
君正
伝に
︑
︵愛
国却
︶子
君正
︑美
風儀
︑普
自居
処︒
以賞
公子
︑得
当世
名誉
︒
とあり︑陳書巻二十六実憲伝に︑実君正の子憲について︑
尋挙高第︒以賞公子︑選尚南沙公主︒即梁簡文之女也︒大同元年︑釈褐泌書郎︒
とあるのはその若干の例である︒こうした貴公子という表現と周宝安に関して使用された貴公子という表現とが無関係で
あるとはいえぬであろうが︑その際両者の共通点としては︑ともに印放であるという乙とだけしか考えられない︒こうし
た理解が成立するとすれば︑梁極末から陳にかけて︑制度町を重視した社会評価において︑流内第十二班就官者以上の子
が︑たとえその父が次門層出身者であっても甲族として理解された場合も生じたといえる乙とになろう︒さらにいうと︑
梁書巻二十一柳略伝に︑
嘩立行貞索︒以貴公子︑早有令名︒
とある︒柳悼の父世隆はもともと上層の次門庖出身者であったと考えられるが︑のち尚書令となったものである︒この柳
氏は
椛州
の大
姓で
︑
昨一隆も峰もその教養が旧米の甲族に劣るといったことはなかったといえる︒こうしたものであるだけ
に憶が貴公子と表現されたにしてもそれほさして不思議とはいえぬであろう︒しかし周文育︑
︵説
書を
始め
る以
前の
︶
周宝安は旧来の甲肢とは全く異なった生活態度であったとすべきである︒乙うした宝安が貴公子とされたというととは︑
︵梁末侠景の乱によって旧来の叩校叫が急敢にじ比えた乙ととからんで︑︶心身ら官職に基いて家格を上昇させても︑
それ
が
以前に此べると人々の抵抗を受けることが少なくなった局面のあるのを示唆していると推測されるのである︒
四旧来の甲族層の家格のみに基く起家と祖父の蔭としての起家
﹁改革﹂以後も︑若死その他によって流内第十二班以上に芥らぬ旧来の巾族というものがもちろん存在する︒第一節で
検討したと乙ろに基くとそのものの子は著作佐郎以上に起家できぬことになる︒しかし︑その規定を設けた武帝の真意が
甲族屈の体質改善︑若返りにある以上︑そうした甲族の子も亦当然の乙ととして家絡に基いて著作佐郎以上に起家すべき
である︒本節はまずそうした点を考察し︑杭いてそうした線に沿うものとして祖父の極官に基く起家があったと思われる
梁保
持代
の申
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
九五
梁陳
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
。
こと
を推
測す
る︒
まず旧来の甲族層の家格のみに基く著作佐郎以上の起家についてであるが︑陳書巻二十一
孔集
伝に
︑孔
灸に
つい
て︑
曽祖靖之斉左民尚書呉興太守︒祖務太子舎人尚喜三公郎︒
ヘ成
?﹀
才︒射策高第︑起家揚州主簿宣恵湘東壬行参軍︒並不就︒又除鎮西湘東外兵参軍︒ 父稚孫梁寧遠枝江公主簿無錫令︒
英
数歳
而孤
︒
:州挙秀
とある︒免の曽祖父誘之の父は霊主であり︑その兄は有名な会稽太守笠符である︒霊符・霊雲の父は特進靖である︒右の
寧遺枝江公は昭明太子の第二子で枝江県公に封ぜられ︑のち改めて河東王に封ぜられた誉のことと考えられる︒なお︑梁書
巻五
十五
河東
王誉
伝で
は︑
叫ん
dが寧遠将軍に除されたのは彼が河東王に封ぜられてからのちのζととなっている︒県令は最
︵ 日 山
︸
︽ 域
?
Jとれは第三節で述べた通りである︒宣志河京王は武高で流内第六班である︒揚州主簿起家は次門としての起山本である︒
管の皇子で刈東王に封ぜられた制を指す︒従って乙の王の行参寧に起家する乙とは︑次令僕としての起家となる︒
つぎ
に
この王の外民参軍に起家するということについてであるが︑第一節で引用した南斉豊田百官志の記事によると外兵参軍は正
参軍
であ
る︒
しか
し
﹁改革﹂以後でいえば皇弟皇子府正参軍は流内第四班で流内第三班たる員外散騎侍郎より上位にあ
る︒とうした正参軍に外兵参軍が含まれ︑
それ
が
︵令僕子以下の︶起家の官となるといったととはとうてい考えられな
ぃ︒かくて外兵参軍は行参軍となったと想定される︒なお︑さきに第一節で陳童日陸淡伝に︑陸淡について︑
解褐宣恵姶興王行参事︒遷法曹外共参軍︒
とあ
るの
を引
用し
︑
この法曹が広義の行参軍のなかにあって法曹という特定の職掌をもつものである乙とを推定した︒乙
の外兵についてもそれと同じことがいえると考えて大過なかろう︒乙うした考察によると︑湘東王の外兵参軍に起家す
ることは令僕としての起家となる︒蓋し右の孔終伝の記事は︑甲族たる家格をもっ孔灸が︑その父︵︑組︶が流内第十二
斑以上に就官していなかったため上層の次門としての起家をさせられようとしたがそれに就かず︑さらに次令僕子として
の起家をさせられようとしたがそれにも就かず︑ついに令僕子としての起家をするに至ったのを物語るものであろう︒甲
族が次門として起家させられようとしたと推測されるのは︑乙の一例だけである︒さて︑陳書巻三十四陸淡伝に︑
陸淡︑字温玉︒吏部尚書現之従父弟也︒父令公梁中軍宣城王記室参軍︒淡幼孤0
・:
解褐
宣恵
始興
王行
参軍
︒
とあり︑陳書巻三十四陸稔伝に︑陸淡の弟稔について︑
解褐標騎安成王行参軍︒
とある︒宣城王は簡文帝の嫡長子で中大通三年︵恐らく簡文帝が皇太子と定まってのち︶宣城王に封ぜられた大器を指
す︒当時皇弟皇子府記室参軍は流内第六班︑嗣王府記室参軍は流内第六班以
τ
流内第四班以上であるが︑との宣城王参軍は両者のうちの後者に準ずるものであろう︒始興王は陳の文帝の子で始興王道談︵祖父︶のあとをついだ伯茂を指す︒安
成王は陳の始興王道談の第二子でその兄文帝の即位後安成王に封ぜられた項︵のちの宣帝︶を指す︒乙の安成王は当然皇
弟皇子に含めるべきである︒ところで父の死後兄弟の起家の資格が甲族と次門とに分れるといったことは想定しがたいか
ら︑さきの始輿王伯茂は嗣王ではなくて皇弟皇子に含めるべき乙とになる︒陳書巻二十八始興王伯茂伝に︑
︵前略︶於是︑尚書八坐奏日︑・:第二皇子新除始輿王伯茂︑体自尊極︑神姿明頴︒云云︒
とあるのはそうした理解をささえるところがあろう︒このように見てくると︑右の淡︑球兄弟も亦叩族たる家格による起
家をしたとされるであろう︒また︑陳書巻三十陸理伝に︑
陸頭︑字伯玉︒呉郡呉人也︒祖完梁浪邪彰城二郡丞︒父雲公梁給事黄門侍郎︒掌著作︒・:︵現︶十一丁父憂︑段癖︑有
至性0・:︵陳︶天嘉元年︑為寧遠始輿王府法曹行参軍︒
梁僚
時代
の甲
族層
起家
の官
をめ
ぐっ
て︵
越智
︶
ム /'¥