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キルケゴールにおける想像力と信仰

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Academic year: 2022

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(1)

はじめに   セーレン・キルケゴール︵︶の父︑ミカエル・キルケゴール︵︶は︑息子を理想的なキリスト教徒に育てようと考えていたため︑少年キルケゴールが外に遊びに出ることを快く思わなかった︒

その代わりにミカエルはキルケゴールとしばしば家の中で想像の散歩をした︒その模様について︑キルケゴールは

草稿に以下のように記している︒ 論文要旨 キルケゴールは人間に自己を変化させるのは想像力の働きだと解している本論文が試みるのは想像力概念に注目してキルケゴールの人間理解を再構成することである︒  前半部ではアーネグロンの研究を参照しながらキルケゴールの想像力理解について概観し後半部では想像の内に立ち現れるキリストの像と人間の関わりについてまたキルケゴールが理想的なキリスト教徒のを描くことを自らの著作活動の主要な課題としていたことについて見る︒  最後にキルケゴールが人間を神の像を参照しながら理解していたこととにもかかわらず神学的人間本性論の限界を認識していたことを確認した後キルケゴール思想における想像力と信仰の関係について若干の考察を行うキーワード 想像力現実弁証法詩人真理の証人

キルケゴールにおける想像力と信仰

須   藤   孝   也

(2)

彼ら︹ヨハネスと彼の父︒ヨハネスはキルケゴールを指す︺が室内を行ったり来たりするとき︑父は彼らが見

るものすべてを語った︒彼らは通りすがりの人々に挨拶をした︒車がガラガラと音をたててそばを通り過ぎ︑父の声を打ち消した︒ケーキにのった果物はいつもよりもおいしそうだった︒父はヨハネスが知っているすべ

てのことを︑とても正確に︑とても生き生きと︑いつもは気にもとめない細部に至るまでありありと語り︑ま

たヨハネスが知らないことは︑目に浮かぶほどに非常に詳しく語ったので︑父と一緒に三〇分も散歩をすると︑まるで一日中外出していたかのように圧倒され疲れてしまうのだった︒︵15, 1 19︶

想像力豊かな父親のもと︑キルケゴールもまた想像する人となった︒実際に彼自身︑しばしば自分の特徴として

﹁想像力と弁証法﹂を挙げた 2︒   以下に見るように︑キルケゴールは︑人間に自己を変化させるのは想像力の働きだと解している︒本論文が試みるのは︑想像力概念に注目して︑キルケゴールの人間理解を再構成することである 3︒

  前半部では︑A・グロンの研究を参照しながら︑キルケゴールの想像力理解について概観し︑後半部では︑想像

の内に立ち現れるキリストの像と人間の関わりについて︑またキルケゴールがキリスト教徒の﹁像﹂を描くことを自らの著作活動の主要な課題としていたことについて見る︒最後に︑人間が神に似るということについて︑すなわ

ち神の像と人間本性の関係についてキルケゴールが考えていたところについて若干の考察を行う︒

一  想像の媒体   グロンは︑知覚︵︶と思惟︵︶を媒介するものとして想像力を理解したアリストテレスの議論や︑

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感性︵Sinnlichkeit︶と悟性︵Verstand︶を結ぶ中間項として想像力を理解したカントの議論の延長線上にキルケゴールの議論を据えている 4︒だがグロンが指摘するように︑キルケゴールの想像力は︑感性と悟性の総合という有限性

の認識の次元で働くカントのそれとは異なり︑有限性と無限性の総合という枠組みの中で働く︒

  キルケゴールの想像力に関する言及は︑初期から晩年にかけて随所に見出されるが︑細かく規定されて用いられることはほとんどない︒それが最も厳密に規定されるのは一八四九年に発表された﹃死に至る病﹄においてであ る 5︒周知のように︑同書においては無限性の絶望と有限性の絶望︑可能性の絶望と必然性の絶望がそれぞれペアを

なすものとして考察され︑そこで想像力は無限性や可能性と結びつけられる︒本書で示された自己論は︑これまで

幾度となく検討されたものではあるが︑以下の議論の土台となるため︑まずここで再度確認しておく︒自己は無限性と有限性との意識された︑それ自身に関わる総合である︒自己の課題は︑自己自身になるという

ことであるが︑これは神に関わることによってのみ果たされる︒ところで︑自己自身になるということは具体

的になるということである︒だが︑具体的になるということは︑有限的になることでもなければ無限的になることでもない︒なぜなら︑具体的になるべきものは総合にほかならないからである︒したがってその発展は︑

自己の無限化において自己自身から無限に離れていき︑有限化において自己自身へ無限に帰ってくることにあ

るのでなければならない︒︵11, 146︶自己が有限性と無限性の総合であること︑ただしこの自己は直接的に存在するものではなく︑それ自身に意識的に

関わるときに存在するものであること︑自己は成るべきものであること︑しかも神との関わりの中でしか自己に成

ることができないこと︑自己に成るということは具体的に成ることだということ︑そのためには︑グロンが言うよ

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うに︑有限化と無限化の﹁二重運動﹂が必要であることが言われている 6︒ここで想像︵力︶の語は登場しないが︑

すぐ後に︑想像は︑その中で自己が再現されるところの反省の可能性であると言われる︒﹁自己とは反省である︒そして想像は反省であり︑自己の再現であり︑これは自己の可能性である︒想像はあらゆる反省の可能性であり︑

そしてこの媒体の強さが自己の強さの可能性なのである﹂︵11, 147︶︒ここで言われているように︑想像の媒体が人 間に反省することを可能にする︒そして反省することで︑すなわち意識を再帰的に外から内へと折り返すことで︑自己は再現される 7︒この媒体の内で自己を自己として捉えることができるのは︑それをその他のものから区別する

ことによってであり︑自己反省はその他の反省と同時に生起する︒自己が再現されることで︑自己と関わること

が︑そして自己を発展的に形成することが可能となる︒ここで自己の可能性と言われるのはそうした事態である︒

  なお︑﹁想像力は可能性を発見する︒可能性が入ってくると︑直接性と決裂することになる﹂︵11, 170︶と言われるように︑人は想像力によって直接性を脱却し可能性を発見するが︑想像の媒体の内で人が可能性を見出すのは自

己に関してだけではない︒人間は想像の媒体の内で︑あらゆる事柄について︑時と場所に縛られた直接的にある状

態を超えて︑目の前に現前する状態とは別の状態もありうることを見出す︒

  グロンはここで︑可能性を見る力である想像力について︑それが他者を想像する力としても働くことを指摘して いる︒すなわち﹁視点の逆転﹂である 8︒私たちは想像することによって視点を逆にし︑他者の立場に立って物事を

見ることができる︒他者は︑人間的他者かもしれないし︑神かもしれない︒いずれにせよ︑想像力をもった人間は︑自他の区別をするだけでなく︑倫理的に︑他者から物事がどう見えているのかを想像することができる︒また︑宗

教的に︑神の前に立つ自分を想像するだけでなく︑神の目に自分がどう見えているのかと想像することもできる︒

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とはいえ︑人間的他者について想像することと︑神について想像することとでは︑事情は同じではない︒神の無限性は︑人間の想像力を超えるものであり︑究極においてはこちらの想像力そのものを挫折させる 9︒以上のように︑

グロンの読解は︑深い考察に基づいているものの︑足りない点もある︒それはキリストに関する考察である︒この

点について次章以下で詳しく見ていく︒

二  無限性の絶望としての

想像的なもの

  想像とキリストとの関係について見る前に︑ここで﹁無限性の絶望﹂について見ておきたい︒というのもキリス トをめぐる議論の枠組みとなるのは︑想像と現実性との弁証法的関係であり︑その歪みが生み出すのが無限性の絶望だからである A︒

  想像という媒体は﹁無限化する媒体である﹂︵11, 147︶とも言われる︒想像力それ自体は自らを限定することがで

きない︒このために人間は想像力によって現実性を離れ︑現実に返ってくることができず︑無限性の絶望に陥ることがある︒先述したように︑想像力が無限化と有限化の二重運動をなす場合に︑人は絶望を免れることができる

が︑有限性へと回帰し損ねるならば︑無限性の絶望を生み出す︒

  本章で注目する鍵語である﹁想像的なもの︵det Phantasiske︶﹂は︑形容詞に定冠詞をつけた単なる抽象名詞ではない︒﹁無限性の絶望は︑想像的なもの︑限界のないものである﹂︵11, 146︶と言うように︑それは明確に無限性の

絶望を含意しながら特殊な意味で用いられている︒﹁想像的なものとは︑一般に︑人間を無限なものの中へ連れ出

して︑自分自身から遠ざけるばかりで︑そうして︑人間が自分自身に戻っていくことを妨げるものである﹂︵11, 

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147︶︒キルケゴールは︑想像力が生み出すもののうち︑現実性との間に弁証法的関係を築き損ね︑現実から切り離

されてしまったものを﹁想像的なもの﹂と呼んでいるのである︒無限性の絶望に陥った人間は︑ありうる自分を想像的に思い描くばかりで︑現実に一個の人間として存在する自分を直視し︑これを受け入れることも︑想像の内で

肥大化した自己を具体化させることもできない︒

  ここでもう一つ重要なのは︑想像力は﹁他のすべてのための能力﹂だという点である︒想像力は他の諸能力と同様のある能力なのではなく︑言うなれば︑他のすべてのための︵instar omnium︶能力

なのである︒一人の人間がどのような感情を︑認識を︑意志を持っているかということは︑つまりは彼がどの

ような想像をもっているかということに︑すなわち︑感情や認識や意志がどのように反省されているかという

ことに︑つまり想像力にかかっている︒︵11, 147︶私たちは意志するときだけでなく︑何かしらの感情を懐くときも︑何かを認識するときも︑想像の媒体の内でそう

している︒想像力は感情や認識︑意志といったすべての精神活動を︑その根底にあって支える力なのである︒換言

すれば︑想像力は︑感情や感覚といった美的活動や世界を認識する哲学的活動︑さらには意志をともなう宗教的活動といった人間の精神活動の一切に先行するということである︒哲学や宗教に想像力が先行するという理解は︑キ

ルケゴール思想を理解するうえで極めて重要である︒想像力は︑このように︑現実を捉えることを可能にする能力

でありながら︑そのうちに現実を忘却する危うさも秘めているという両義的性格を有している︒

  想像力が有限化を忘れ︑無限化するばかりになると︑人は﹁想像的な感情︑認識および意志﹂︵11, 147︶をもつこ

とになる︒こうした﹁想像的な﹂精神ないし反省の在り方の一つが体系的な思惟︑いわゆる思弁である︒一八四六

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年の﹃後書き﹄では思弁について分析された︒﹁想像的な意味で︑あらゆる体系的な思惟は︑永遠の相の下に︵sub  specie æterni︶ある﹂︵7, 158︶︒体系的に思惟する時︑人は︑時間の中で変化する有限性の世界を飛び越えて︑永遠

性の内で思惟する︒抽象的に思惟することそれ自体が責められるのではない︒しかし︑それをなすのが人間である

以上︑彼は再帰的に自己に関わり︑二重運動によって自己を具体化させなければならないのであり︑このことは思弁する者に対しても免除されないとキルケゴールは言うのである︒﹁人びとは︑人間の理性について浅薄で自惚れ

た理解をしている︑特に私たちの時代には︒人は︑思想家や︑推論する人間のことは考えず︑純粋理性やそれに類

したもののことを考えている︒そういったものは存在しないのに︒というのも︑彼が教授であろうと何を意志しよ

うと︑純粋理性であるような人間は存在しないのだから︒純粋理性は想像的なものである﹂︵23, 24︶︒もちろん抽

象的な概念は具体的なものから切り離されて存在しているわけではない︒それはしっかりと具体的なものや有限な

ものを指示し︑現実に対応していると言える︒だがキルケゴールは︑そうした有限性との関わりでは不十分だと言

う︒そうした関わりそれ自体が︑﹁現実性の媒体﹂に対置されるところの﹁想像の媒体﹂の内でなされるにすぎないからである B︒

  ここからはキルケゴールのキリスト教理解を考慮に入れなければならなくなる︒以下に見るように︑神がキリス

トとしてこの世に現れたという受肉についての信仰が︑しかるべき想像のあり方に関する議論に範型を与えているからである︒

  ﹁信仰の対象は︑実存の意味における神の現実性である︒言い換えれば︑神が単独の人間として存在したという ことである﹂︵7, 298︶︒キルケゴールのキリスト教理解によれば︑神は思惟や観念の内にあるだけではない︒神は

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キリストという一人の人間として実際にこの世に現れたのである︒信仰は︑この実存した者の神性︑あるいは神性

をもって実存した一個の人間に関わる︒だが普遍的なものだけを思考する﹁思惟は実存を度外視せざるをえない﹂

︵7, 298︶︒実存を捉えることも正当に評価することもできない思弁は︑たとえ神を語るのであっても︑それはキリ

スト教の神について語るものではありえないとキルケゴールは言う︒

  ﹁可能性の想像の媒体においては︑神は想像にとって充分よく人間と融合することができる︒だが︑単独の人間を伴う現実性においてはまさに逆説がある﹂︵7, 528︶︒永遠の存在である神が時間のこの世に出現するというのは

理性にとっては内在的に理解しえないこと︑すなわち逆説である︒逆説である限り︑思弁する者は︑たとえ神を信

じ︑その思弁のうちで神について語るのであったとしても︑神が一人の人間のうちでこの世に来たったという﹁真

理﹂を論証することはできない︒思弁によって神を捉える者は︑﹁思惟の目眩の内に非‑人格性の無規定性をもって︑いわば神を無規定的なものの内に予感するこの高貴さを誇りつつ︑ほとんど人魚のような存在しかもたない神 と想像的に会う﹂︵7, 495︶にすぎない︒こうした思弁批判が意味するのは︑キリスト教の神は︑人間が自由に思い

描くだけの架空の存在ではないということである︒キリスト教は﹁現実的な宗教﹂であるとキルケゴールは主張しているのである︒

  神は現実化し︑現実の中で働いた︒理性を越えてこの﹁歴史的事実﹂を信じようとすることには躓きの可能性が

付帯するが︑しかし理性に反する事柄ではないがゆえに︑なお信じることが可能である︒そしてまたこの歴史的事実を信仰する者には︑その信仰を︑同様の現実化の運動によって行動によって表現することが求められる︒

  より詳しく言えば︑信仰者がなす運動は以下の通りである︒人は︑想像することで永遠なる神の観念を得る︒そ

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してまた︑聖書が伝えるところにより︑永遠の神が時間のこの世に来たり︑愛の業を行ったことを知らされる︒無限化の運動を行うとともに︑有限化の運動を行うという想像力の二重運動を正しくなすときに︑人は実存すること

を意志することができるようになる︒﹁人間は誰も︑程度の差はあっても︑想像力と呼ばれる能力を備えている︒

この能力は︑一個の人間となるために必要な第一の条件である︒というのも︑意志が第二の︑究極的な意味で決定的なものだからである﹂︵12, 186︶︒神や理念を想像力の働きによって十分に捉えた後に︑それ自身想像力に支えさ

れた意志の働きによって︑信仰者は具体的に成ろうとする段階へ︑すなわち信仰を実際の行動によって表現しよう

とする段階へと進んでいく︒

三  キリストの像   前章では︑想像力が現実性を志向する意志へと転じることについて︑構造のレベルで説明したが︑本章では︑想

像の中でキリストの像に関わる主体に関する記述を辿ることで︑さらにその具体的な中身について詳論してみたい︒ここで注目するのは︑一八五〇年に出版された﹃キリスト教への修練﹄の第三部のⅢとⅣで展開された議論で

ある︒ここでキルケゴールはキリストの﹁像︵Billede︶﹂に向き合う人間について書いている C︒   この箇所では︑ある少年が︑﹁十字架につけられた人間が描かれている﹂︵12, 177︶絵︵Billede︶を見せられ︑同時に疑問に答えてもらう形でその絵に描かれた人間についての説明を与えられる D︒﹁愛からこの世に来たり︑卑賤の

下僕の姿をとって︑ただ一つのことのために︑すなわち人間たちを︑病んでいる人︑悲しみに打ちひしがれている

人︑苦しんでいる人︑不幸な人をすべて愛し︑助けるために生きた﹂彼を︑多くの人間が﹁侮辱し︑嘲けり︑つい

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には十字架に釘で打ちつけた﹂︵12, 178︶というキリストの物語とともに︑絵は彼の内に像として立ち上がる︒像

は︑現前する絵の視覚的認識を離れ︑絵が目の前になくても想像の媒体の内に再現される︒その後も彼は想像の内にこの像を懐き続け︑何度も何度も思い起こす︒

  Ⅳでは少年から成長した青年がこの像に向き合う様について詳しく論じられる︒﹁彼は自分の想像力によってあ る完全性の像︵理想︶を捉える﹂︵12, 186︶︒無限化する想像力は︑直接性ではなく観念のうちで理想に関わる︒﹁完全化の︵理想化の︶能力である想像力は︑本質的に︑至高性や完全性に関わるものである﹂︵12, 191︶と言われるよ

うに︑想像力はキリストを完全な形で再現する︒C・ウェルツが言うように︑キリストは神のロゴスを人格化した

ものであり︑キリストとその像は︑この完全なるロゴスを﹁見える﹂ようにしていると言うこともできるだろう E︒   キリストを完全な形で想像するとはどのようなことか︒キルケゴールは︑ここで苦しみに注目する︒というのも︑先述のように︑絵は十字架に磔にされたキリストを描いたものだからである︒そして苦しむキリストを完全な

形で想像するうち︑青年のなかで次第に﹁現実の苦しみ﹂が問題になりはじめる︒

想像力がこの像を再現すると︑非常に簡単そうに見える︒︹︺それ︹想像力︺は完全性を見事に再現することができる︒それは完全性を描写するための︑豊かな色彩をすべて持っている︒しかしその一方で想像力は苦

しみを確かに再現するのだが︑それは完全化された︵理想化された︶再現︑つまり和らげられ︑薄められ︑切

り詰められた再現とならざるをえない︒というのも︑想像の像︑あるいは想像力が再現したり保持したりする像は︑やはりある意味で非現実性だからである︒そこには︑時間と時間性の現実性が︑困難や苦しみといった

この世での生活の現実性が欠けている︒︵12, 186︶

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キリストの像が再現する苦しみは完全なる苦しみであり︑当然それは現実の苦しみを表している︒だが言うまでもなく︑その苦しみは青年の想像の内にあるのであって︑現実の内にあるものではない︒J・ガーフが言うように︑

想像力は︑可能性を見出すことによって︑時間と場所を止揚するようにして働くが︑その裏面には︑実際の現実の

苦しみを止揚してしまうという短所がある F︒だが︑﹁想像力が作り出す像は︑また︑真の完全性の像ではない︒そこにはあるものが欠けている︒すなわち現実の苦しみ︑あるいは苦しみの現実性が欠けているのである︒苦しみが

現実的であり︑したがって来る日も来る日も︑来る年も来る年も︑現実の苦しみの中に生きるというのが真の完全

性である﹂︵12, 188︶と言うように︑キルケゴールは飽くことなく︑苦しみの現実性を捨象することを問題化する︒

現実に苦しんでこそ︑それは完全なる苦しみである︒このことが青年の関心を惹き続ける︒

  持続的に想像の内で像と向き合うことで︑像は青年をそれに似せるように働き始める︒

美しいことに︑愛する者同士がお互いに似てくるということがあるが︑それと同じように︑青年もこの像と似

た姿に変えられる︒その像は彼のすべての思考の中に︑そして彼のあらゆる発言の中に刻印され︑鋳造されている︒その一方で彼は︑すでに述べたように︑目をこの像にまっすぐ向けて自分の足下を見ず︑自分がどこに

いるかに注意を払わなかった︒彼はこの像に似たいと思い︑彼はすでにそれに似はじめている︒││そして

今︑彼は突然︑自分が立っている現実の環境と︑この環境の自分に対する関係を発見する︒︵12, 188︶青年は完全なる像に似たいと思い続けるうち︑実際の振る舞いにおいてもこの像に似はじめる︒

  このように青年は変化していくのだが︑この変化を引き起こすのは誰であろうか︒﹁主体性﹂を強調するキルケ

ゴールのイメージからすると︑想像し︑意志するのは想像する主体であるように思われるかもしれない︒だが事は

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そう単純ではない︒ここでキルケゴールは﹁欺き入れる︵bedrage ind︶﹂という言葉を使っている︒﹁ある意味で︑ 青年の想像力は彼を欺いたのである︵偽の完全性を見せることで︶︒︹︺それ︹想像力︺は彼を真なるものへと欺き入れたのだから﹂︵12, 189︶︒﹁欺き入れる﹂という言葉が含意するのは︑像が示す﹁完全性﹂が実は想像の媒

体のうちにしかない不完全なものでしかなかったということと︑青年の受動性である︒想像するとき︑人は﹁想像

力によって引き寄せられ﹂︵12, 186︶自ずと想像してしまうのである︒確かに青年が想像するのだが︑青年はいわば想像させられ︑新たな実存の在り方へと導かれるのである G︒

キリストは彼を信じる者に︑付き従う弟子になることを︑つまりキリストに倣うことを求める︒キリストに倣

うとは実践のレベルで︑人間を愛したキリストに似ることである︒もっとも︑彼がこうして現実に見えざる者

を愛しているということは︑まさしく彼が現に見ている兄弟を愛しているということによって知られるべきである︒見えざる者を愛すれば愛するほど︑彼は現に見ている人々を愛するであろう︒その逆に︑彼の見ている

人々を拒絶するほど︑見えざる者を愛しているということにはならない︒というのもその場合︑神は非現実的

なもの︑一つの想像に転換されてしまっているからである︒︵9, 161︶想像の内で神やキリスト︑隣人を愛するだけではなく︑キリストがしたように︑実際の生活の中で苦しむことも引

き受けながら︑共生するすべての隣人を愛するのでなければならない︒青年はこの要求をもった完全なる像に持続

的に向き合い︑自分にできることを少しずつ広げるようにして徐々に自己を変化させていく︒

  想像力は直接的現実から離れるようにして働き始めるものではあるが︑最終的には人間を促して想像の内で捉え

た理想を現実化させるよう働く︒冒頭でキルケゴールが自らを﹁想像力と弁証法﹂によって特徴づけていることに

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言及したが︑これが意味するところはここで明らかになる︒﹁もしも弁証法的なものが跳び越されてしまうとしたら︑キリスト教全体が軽薄な想像になり︑それは迷信︑否最も危険な迷信そのものになってしまう﹂︵7, 391︶︒想

像力と現実の間にある弁証法的関係についてはすでに先述したが︑ここで言われる﹁弁証法的なもの﹂は︑想像力

が可能にする思惟と信仰の間にある弁証法的関係を指している︒思惟と信仰は併存するだけではない︒キリスト教信仰は思惟とは無関係に構成されるものではなく︑それとの弁証法的関係のうちで構成される︒これを根拠にして

キルケゴールは︑キリスト教は現実からかけ離れた根も葉もない﹁軽薄な想像﹂や﹁迷信﹂ではないと言うのであ

る︒信仰と現実との関わりは︑信仰が構成された後も続く︒キリスト教は︑神が実際にこの世に現れ︑この世で我

が身を犠牲にしてでも人間たちを愛したという現実との関係を信じ︑さらに隣人愛という現実的行為によってこうした神の愛の業を反復する︒そのようにしてキリスト教は現実を形づくるのである︒

四  キリスト教徒の像   キルケゴール思想については︑倫理を廃棄して宗教への超脱を促すものと解される場合があるが︑実際それは正 しくない︒﹁実存するということに無限の関心を持て﹂︵7, 288︶と要求する倫理は︑信仰の運動の一側面をなすもの であって︑決して宗教によって破棄されるものではない︒このためにキルケゴールは︑キリスト教的実存について語る後期において﹁倫理‑ 宗教的﹂という形容詞を頻繁に用い︑キリスト教徒は神に対して関わるばかりではなく︑

自己や他者に対しても関わるべきものであることに再三注意を促すのである H︒   だがこうした思想は︑必然的に︑キルケゴール自身の著作活動をも問題化することになる︒そしてこれに関する

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反省が﹁詩人︵Digter︶﹂概念をめぐって展開される︒詩人は︑﹁自身の人格的な生︑自身の現実を詩的な産出とは 全く異なるカテゴリーの内にもち︑理想に対して想像の内でのみ関わる﹂︵21, 204︶者であると言われる︒詩人の想像力は想像の媒体のうちに理想を作り上げるが︑﹁異なるカテゴリー﹂︑すなわち﹁現実性の媒体﹂︵22, 154︶のうち

にある彼の実存は︑必ずしも詩作された理想とは一致しない︒ともあれ︑想像の媒体の内で理想を謳いあげる詩人

の言葉は耳に心地よい︒詩人は想像力にだけ関係している︒彼は善︑美︑高貴︑真︑崇高︑無私︑高潔などを情感豊かに表現するが︑

それらは想像によって現実とは隔たっている︒だがその距離のゆえに︑美や高貴や無私や高潔などが︑どれほ

ど輝いて見えることだろう!  これに反して︑それを表現する人が詩人ではなく︑それを自ら現実化した人格 者であり︑真理の証人であったために︑私にそれを現実化せよと迫るほどに近くで考察されるなら︑耐えられないほどに恐ろしいことである︒︵13, 281︶

ここでは詩人と﹁真理の証人︵Sandhedsvidne︶﹂が対置されている︒後者は自らの実存によって真理を証す者であ

る︒実存によって真理を表す者を見た者は︑自身の実存を顧みるきっかけを与えられる︒これは詩人には決してなしえないことである︒キリスト教徒にはすべて︑究極的には真理の証人を模範として生きることが求められるとキ

ルケゴールは考えた︒

  だが当時のデンマーク社会は︑ルター派の国家教会が国民を一元的に信徒として統治する﹁キリスト教界︵Chri- stendom︶﹂であったのにもかかわらず︑キリストに倣うという要求について明確に語られることはなかった︒その

ため︑キルケゴールの時代診断は︑﹁想像の内でキリスト教をもつエスタブリッシュメントのキリスト教︒彼らは

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キリスト教を持っていない﹂︵24, 474︶というほどに厳しいものになった︒そこでは︑﹁牧師たちも詩人﹂︵21, 204︶であった︒﹁要求﹂を取り外したキリスト教は︑キルケゴールの目には︑あまりに﹁マイルド﹂︵16, 186︶であるよ

うに思われた︒そのあまりに人間主義化したキリスト教は︑キリスト教ならぬものをキリスト教としているように

思われた︒

  ﹁キリスト教界の大部分の者に課せられるべき課題は︑︿詩人﹀から︑あるいは詩人が語り示すことに関係したり

その中に自分の生を持ったりすることから脱し︑思弁から脱し︑︵実存する代わりに︶思弁の内で自分の生を想像

的に︵それはまた不可能なことだ︶持つことから脱して︑キリスト教徒になるということである﹂︵16, 57︶︒キリ

スト教徒として生まれた者が︑﹁詩人﹂を脱して︑キリスト教徒に﹁成る﹂こと︒この課題は︑言うまでもなく︑キルケゴール自身にとってだけのものではなく︑キリスト教界に生きるすべての者にとってのものでもある︒しば

しば誤解されるが︑キルケゴールの問題意識はきわめて社会的なものであったのである︒

  このためにキルケゴールは自らの使命︑すなわち著作活動の目的をこの課題の達成に寄与することに見出した︒私が自分の仕事によって成し遂げたいと願ってきたし今も願っていること︑私が第一に最も重要なことと考え

ていることは︑キリスト教徒であるということはどういうことなのかということをはっきりとさせること︑つ

まり︑キリスト教徒の像︵Billede︶を︑それの理想の︑つまり真実の姿においてあますところなく提示すること︑すべてが真に究極まで徹底化された姿において示すことである︒︵16, 111︶

ここでキルケゴールは︑明確に︑自らの著作活動によってなすべきことを理想的なキリスト教徒の﹁像﹂を描くこ

ととしている︒キリストの像を描くばかりでは︑読者は必ずしも自らの実存に意識を向けるようになるとは限らな

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いため︑キリスト教徒の像そのものを描いて見せることに課題を設定したのである︒キルケゴールは︑キリスト教

の真理性を証明するという神学的な課題に取り組んでいるのではなく︑その多くが平信徒であるところの読者たちの実存変革を主たる目的として著作活動を行っていた︒

  だが︑著作活動という行為それ自体が言葉を用いてなされるものである以上︑それは想像の媒体の内で遂行され

るものである︒そしてすでに見たように︑キルケゴールは︑像との関わりは想像の内に終始すべきではないと考えていた︒したがって要点は︑想像の内で読者に対してキリスト教徒の像を示し︑想像の内でその像と関わってもら

うだけでなく︑いかにして想像における像との関わりを脱し︑現実性を志向する運動を読者に促すかという点にあ

った︒そうした目的を達成するために﹁間接伝達﹂の方法を採用したのである I︒   だが実際には︑こうした問題解決の全体が著作活動を開始する時点で明確だったわけではない︒著作活動を続ける中で︑あるいは反省する中で徐々に明確になっていったことである︒一八四八年の日記には次のように記されて

いる︒﹁信仰は︑反省の後の直接性である︒詩人として︑また思想家として︑私は︑自身は諦念の内に生きながら︑

一切のものを想像の媒体の内で表現してきた︒今や生が私にだんだん近づいてきている︑あるいは︑私は自分自身にだんだん近づいてきている﹂︵20, 3 J63︶︒キリスト教徒の像を描くキルケゴール自身が︑キリストやキリスト教徒

の像と向き合うことによって︑想像の媒体から実存ないし現実化の方へと連れ出されていったと言えよう︒

  そのように︑神に導かれるようにして自身が変化していったことを言うために︑晩年のキルケゴールは神の﹁摂理︵Styrelse︶﹂について語った︒﹁想像は︑摂理が︑人間を充分に遠くに連れ出すために︑あるいは︑現実性の内

部に︑あるいは現実性の中へと下ろすために︑人間を現実性の中に︑生存の中に捕らえるのに用いるものである︒

(17)

そして想像が彼らを必要なだけ遠くへと連れ出すとき︑そのとき現実性が本当に始まる﹂︵25, 470︶という記述が晩年の一八五四年の日記にある︒神の摂理を語るキルケゴールに見出されるのは︑人間と神のいずれかが﹁主体﹂で

あり︑いずれかが﹁客体﹂であるような事態ではなく︑キリストの像が人間の想像の内に立ち現れる中で︑人間が

神に導かれるように感じ︑知り︑考え︑意志し︑実践し︑その結果を神から安んじて受け取るような事態として解することができる︒

終わりに

  キルケゴールは︑神は﹁人間が自分に似るようにと︑自身の像をもとに人間を創造した﹂︵9, 263︶と書いている︒ 言うまでもなく︑このいわゆる似姿論は創世記を受けてのものである K︒ユダヤ=キリスト教の伝統の内では︑人間

本性は神に由来するものと考えられ︑ウェルツが述べているように︑そうした人間本性論は︑隣人を愛すべしとい

う規範論と弁証法的に支え合っている L︒人間が有する尊厳を基礎づけるのは神の尊厳にほかならない︒   キルケゴールは単独性を強調しながら人間を語るが︑人間を語っていることに変わりはない︒しばしば誤解され

るが︑﹁単独者﹂は﹁例外者﹂のことでも﹁特異者﹂のことでもない︒単独者は﹁あらゆる人間がそうであるか︑

そうでありうるもの﹂︵16, 95︶を指す︒人間は誰しも神の像に与ることで人間本性を共有するのである︒﹁人は客観性が主観性よりも高いと思っているが︑全く逆である︒つまり対応する主観性の中にある客観性︑これが大詰めで ある﹂︵21, 293︶︒人間とは何か︒キルケゴールは︑自己を見つめ︑単独者として神に関わる中で人間本性を見出し

た︒それが自身だけの本性ではなく︑人間の本性であるのは︑万人が自分と同様に神の像に与っている存在である

(18)

からにほかならない︒神と人間の断絶や単独者の個人性ばかりが強調されてきた中で︑ウェルツが似姿論に注目し

て︑神から派生した人間たちが共有する本性に光を当てた功績は大きい︒

  とはいえ︑キルケゴールによれば︑人間は神に直接的に似ているのではない︒人間はやはり神でもキリストでも

なく︑そこには質的な差異がある︒これについてキルケゴールは︑﹁神と人間はそのままの形で似ているのではな

く︑逆の形で似ているのです﹂︵8, 290︶と述べている︒ここにはキルケゴール思想特有の逆説の思想が反映されている︒ウェルツは︑﹁神の像﹂概念によって神と人間の類似性を摘出しようとするあまり︑この点を十分正しく捉

え損なったと言わなければならない︒﹁あなたの浄福は︑あなたが要求を満たすことにかかっている︒だがいかな

る人間もこれに耐えることができない︒実際︑彼が真剣であればあるほど︑同じ瞬間に彼の絶望も確実なのだ︒ そして︑彼が律法を満たそうとすることさえ︑彼にはまったく不可能になる︒ここに︿恩寵﹀がやってくる﹂︵22, 

383︶︒原罪により︑人間の神との直接的類似は壊れているというのがキルケゴールの理解である︒私たちはなお苦

しみを引き受けながら隣人愛を全うすることができていない者たちであり︑そうした者たちから成る現実の世界は

楽園からはほど遠い︒私たちが自己自身になりうる存在であるというのは︑私たちは生まれながらに神に似ているのではなく︑人間に可能な範囲で神に似うる可能性を備えた存在として創造されているということである︒この類

似は︑人間が自身の本性を内在的に価値づけるのに挫折し︑すべてを再度神から受け取り直すことで可能になるも

のである︒

  とはいえ︑非信仰者にしてみれば︑神によって根拠づけられる人間本性論は容易に支持しうるものではないだろ

う︒しかし私たちはここで︑キルケゴールの言う﹁逆説﹂や﹁超越﹂が意味するのは︑そうした推論による神学的

(19)

人間本性論の失効であったことを思い出さなければならない︒先述のように︑思弁によるものであれ︑人間がその想像力によって神を解明しようとする試みは挫折するというのがキルケゴールの考えであった︒人間は︑神の全体

を把握するのではなく︑ただ神を必要とするのである︒

  神学の不可能性を理解しながらも︑キルケゴールは︑﹁父や父祖たちから私が委ねられたものに対する私の義務﹂

︵16, 119︶としてのキリスト教信仰を投げ棄てることをしなかった︒こうした保守主義の裏面には︑古い因習を批判

し︑一八四九年の新憲法の制定に大きな役割を果たした当時のデンマーク・リベラリズムでさえ︑キリスト教の廃

棄を目指すものではなかったという当時のキリスト教をめぐる状況もある︒こうした観点からすれば︑キルケゴー

ルの想像は︑神を基礎づけることができないことが明らかになったところで︑当時の社会が有していたキリスト教の伝統を逆説として理解し継承する媒体であったと言うこともできよう︒

  だが︑議論の構成に目を向けるならば︑キルケゴール思想においては︑その想像力論がそのキリスト教信仰から

必然的に演繹されるものではなかったことがわかる︒これは︑キルケゴールが信仰する神が自然的人間性の彼岸で信仰される神だということによるのではない︒それは︑キルケゴールが信仰することのうちで想像し︑想像論を構

築したのではなく︑先述したように︑想像することのうちで思惟し︑信仰したことによる︵思惟や信仰に対する想

像力の先行性︶︒キルケゴールは想像の媒体のうちで︑一方で神に関わりつつ︑他方で人間的現実を見つめながら想像力についての分析をしたのである︵思惟と信仰の併存︶︒もちろん︑彼の想像力論は信仰と連結されており︑

キルケゴールがもしキリスト教を信仰する者でなかったとしたら︑あのような想像力論を作り上げることはなかっ

たであろう︵思惟と信仰の弁証法的関係︶︒キリスト教についての理解がなければ︑その想像力論を正確に理解す

(20)

ることができないことも確かである︒しかしそれにもかかわらず︑キルケゴールが︑信仰と人間や現実に関する

様々な思索とを有機的に結び合わせて想像論を構成した点は決して看過されてはならない︒というのもここに︑キルケゴールの議論が現代の私たちにとって示唆的でありうる理由があるからである︒ここに︑世俗化以前のキリス

ト教の時代でも︑キリスト教からの脱却を図る世俗化の時代でもなく︑﹁ポスト世俗﹂の時代と言われる現代にお

いてキルケゴール思想を新たな仕方で役立てうる可能性が存するからである︒

  他方︑実際の状況においては︑形而上学的真理を不問に付す自然主義的真理観が独占的・支配的になることによ

って︑想像は妄想と判別されづらくなり︑もっぱら私的に娯楽を楽しむ力として解されるに至ったように思われ

る︒あるいはそれは︑人を不安に苛むネガティブな力かもしれない︒いずれにしても想像は︑形而上学的真理から

切り離されることにより︑各々の他者関係や社会関係において共有される可能性を少なからず失い︑倫理的機能を積極的に果たすことが難しくなっているのではないか︒宗教の動態に関しては︑場によって様々であろうが︑﹁真

理﹂と想像力をどのような形で結びつけるのかという点については︑いずれの宗教もやはり大きな困難に直面して

いるように思われる︒しかし想像力をもって自己にも他者にも超越的存在にも関わることのない人間は︑なお﹁人間らしく﹂存在していると言いうるであろうか︒当該研究はこうした問いと向き合っている︒豊かな倫理性と宗教

性を含みもつキルケゴールの想像力の運動は︑現代において人間らしく生きるために想像力を活用する新たな方法

の探求へも通じているのである︒

(21)

巻数と頁数を示した︒   , Bd. 1‑28 (København, G.E.C. Gads Forlag, 1997‑2013)1︶キルケゴールからの引用はを用い

︵    16, 62; 20, 396; 21, 218.2︶

︵  24, 474.ともある︒ Gyldendal, 1927)︶︒使使 Phantasi (København,  ︵ Indbindning   IndbildningIndbildningskraftPhantasi3︶︑︑

︵   Arne Grøn, Imagination and Subjectivity, in , 2(1), 2002, pp. 28‑29.4“”︶

︵ 7, 317感情よりも高いということはまったくなくそれらと並ぶものである﹂︵︶と言われる︒   5︶﹄︵︑﹃︑﹁

︵   Arne Grøn, op. cit., p. 30.6︶

︵ 7, 397身に関わるということであり個人が自己自身へ反省することである﹂︵︶︒   Inderlighed7︶︵︶﹂︒﹁

︵   Arne Grøn, op. cit., p. 33.8︶

とが可能になるということである体性すなわち内面性は真理であるとも言われているこれが意味するのは自己反省の内でのみ真理としての神に関わるこ   Ibid., p. 36.7, 1899︶ちなみに主体性は非真理である﹂︵︶といった記述が指すのはこうした事態であるなお同じ箇所で 2014), pp. 165‑169. , Tome II, ed. by Steven M. Emmanuel, William McDonald and Jon Stewart (London, Routledge,  Cf. Alejandro Cavallazzi Sánchez, Dialectic, in “”反省によって捉えるものであり人間が関係づけると言うこともできるまた人間は弁証法的関係について反省することによ   10  ︶キルケゴールは二者の間の関係を指して弁証法的関係と言う多くの場合それらの二者は実存のうちでは統一しえない

(22)

して意味をなすのではなくむしろその対照を基軸としながら意味を与えられている︒ 21, 17621, 176148︶︑﹁﹂︵︶︑﹁﹂︵︶ 11  2, 792, 1147, 27521, ︶︑﹁﹂︵︶︑﹁﹂︵︶︑﹁﹂︵︶︑﹁﹂︵

︵ 11, 61うになった︒︹中略説明不可能な力によって男は人間に可能な限りで彼磔にされた者に似るよう促された﹂︵︶︒ ︒︹ ︒︹ 12  ︶︒﹁

積極的に論じることがなかったという事実を重視すべきであろうるようなキリスト教芸術はありうるであろうだがキルケゴール研究としてはそうした芸術の可能性についてキルケゴールが Art, Imagination, and Imitation,” in , 50(3), 2008, p. 456︶︒確かに︑﹁キリスト教の要求を観る側に迫 Brian Gregor, Thinking Through Kierkegaards Anti-Climacus: “’︵ 13  ︶B・グレゴーアはキルケゴールが批判しているのはキリスト教絵画を観察し称賛することに甘んじる態度でありキリスト

︵ 14  Claudia Welz,  (Oxford, Oxford University Press, 2016), p. 153.

︵ , ed. by David Bugge (København, Anis, 2006), s. 20. 15  Joakim Garff, “Kierkegaards billeddannelsesromanom at mime det sublime,” in ︶︱

︵ Ibid., s. 22. 16  indbilde︶︒J・

︵ 17   27, 422; 24, 23; 13, 15.︶ について公言する者によってではなく事情によく精通した自分はキリスト教徒ではないとさえ宣言する者によってなされな 何かがなされるとすればそれは間接的になされなければならないすなわち私こそ優れたキリスト教徒であると大声で自分 ︒﹁││性質読者各々がなさなければならない自己形成および読者と著者との関係に配慮したこの方法について次のように述べて キルケゴールはそうした方法には大きな限界があると考えた信仰者にある種の要求を課すキリスト教という真理の独特の 法を用いて著作活動を行ったこれはただ対象としてのキリスト教や理想的キリスト教徒について記述するだけのものではな 18  ︶各々の読者が自身の実存を直視しそれを変容させるべく努めるという状況を作り出すためにキルケゴールは間接伝達の方

(23)

ければならない自分は希有なキリスト教徒であると言って優位な立場を得ようとするのではなくその錯覚のうちにある者に対し彼がキリスト教徒であるという優位な立場を譲り自分の方は彼のはるか後ろにいる者であるということに甘んじるので││﹂︵16, 25︶︒︑﹁己を省みることができなくなってしまうこれは社会の構成員がすべて自身をキリスト教徒と認識するキリスト教界特有の現象であろうまたこれには自身が教会人でも大学人でもない権威なき一個の平信徒であるというキルケゴールの自己理解も影響しているさらにキリスト教の真理を直接に伝えることができるのは神やキリストのみであり人間がそれを他の人間に伝えるのは間接的にしかなされえないという意味もある︒︵

︵ 6, 363の内に可能性がその養分である﹂︵︶︒ 19  ︶︒﹁

︵ 20  ︶﹁創世記第一章第二六二七節︒ 21  Claudia Welz, op. cit., p. 228.︶

(24)

Imagination and Faith in Kierkegaard S

UTŌ

 Takaya

According  to  Kierkegaard,  it  is  the  work  of  imagination  that  makes  us  transform  ourselves.  This  paper  attempts  to  reconstruct  Kierkegaard’s  understanding of the human being by looking at his concept of imagination.

 The former part provides an overview of Kierkegaard’s understanding  of  imagination  with  reference  to  Arne  Grøn’s  research.  The  latter  part   examines the relationship between the human being and the image of Christ,  which appears in the imagination, and the fact that it was Kierkegaard’s  main task in his literary works to draw the “image” of the ideal Christian.

 Finally, after confirming that while Kierkegaard understood the human  being  with  reference  to  the  image  of  God,  he  nevertheless  realized  the  limitations of the theological human nature theory, I will make a few obser- vations on the relationship between imagination and faith in Kierkegaard’s  thought.

参照

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