出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 61
ページ 122‑145
発行年 2004‑03‑24
URL http://hdl.handle.net/10114/10814
伊藤玄三先生は、昭和四十九年四月一日、法政大学文学部史学科の助教授に着任され、以後、本年一一一月まで三十年にわたって史学科における考古学の教育・研究を担当なされてきました。昭和五十五年四月には教授に就任なされ、平成三年八月から翌年九月にかけては、第一次・二次のタクラマカン砂漠調査に隊員を率いて日本隊の隊長として参加、また、平成五年四月から法政大学重量拳部部長、平成九年四月からの一年間は文学部長の要職も務められました。出講された大学は一二大学、考古学協会をはじめとする学会でも活躍なされ、平成八年六月から十五年六月までの七年間は法政大学史学会の会長も務めていただきました。また、現在は郷里の岩手県一関市博物館の館長も兼任され、なお、お元気で活躍なされております。先生には今後も名誉教授として大学院に引き続きご出講いただく予定となっております。ここに先生のご経歴。ご業績を掲載し、また、お人柄の一端を紹介し、これまでの学恩に感謝の意を表したいと思います。 法政史学第六十一号
伊藤玄三先生を送る
伊藤玄三教授の履歴と業績
【略年譜]一九一二三(昭和八)年十一月五日岩手県東磐井郡舞川村相川に誕生。伊藤義祐・セキヲ三男。一九囚○(昭和十五)年四月岩手県東磐井郡舞川村立机川尋常小学校入学。一九N六(昭和二十二年岩手県東磐井郡舞川村立相川小学校高等科進Ⅱjuj
学。一九四七(昭和二十二)年
四月岩手県東磐井郡舞川村立舞川中学校二年生に編入学(学制改革)。一九四九(昭和二十四)年
四月岩手県立一関高等学校入学。
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一九五二(昭和二十七)年三月岩手県立一関第一高等学校卒業(名称変更)。
四月東北大学教育学部学校教育学科(社会科専攻)入学。一九五五(昭和三十)年四月東北大学文学部国史学科三年生編入学(考古学志望)。一九五七(昭和三十二)年伊東信雄教授の指導のもとに卒業論文「東北地方における土師期竪穴住居跡の研究」提出。三月東北大学文学部国史学科卒業。四月東北大学大学院文学研究科国史学専攻修士課程入学。一九五九(昭和三十川)年三月東北大学大学院修士課程修了(文学修士)。修士論文「東北日本における初期弥生文化」。四月東北大学文学部助手(考古学講座)任用。|九六二(昭和一一一十七)年四月東北大学大学院文学研究科国史学専攻博士課程編入学。一九六四(昭和三十九)年八月昭和三十九年度朝日学術奨励金授与(伊東信雄教授と連名)。’九六五(昭和四十)年
伊藤玄三先生を送る 九月日本学術振興会奨励研究員採用。’九六七(昭和四十二)年十月〔財〕古代学協会研究員(平安博物館勤務)。一九六八(昭和四十三)年八月米沢永久・登代の三女弘子と結婚。一九六九(昭和囚十四)年五月長女山美子誕生。一九七囚(昭和四十九)年四月法政大学文学部助教授。一九八○(昭和五十五)年四月法政大学文学部教授。一九八五(昭和六十)年四~九月英国・韓国留学。一九九○(平成二)年三~五月中国山東省新石器時代遺跡調査隊(桜井清彦団長)参加。一九九一(平成三)年五月第二M束アジア史学会参加(中国長春市)。集安高句麗遺跡等見学。八~九月タクラマカン沙漠第一次調査参加(日本隊隊長)。ケリヤ河・ホータン河流域踏査。一九九二(平成囚)年八~九月タクラマカン沙漠第二次調査参加(日本隊隊長)。ケリヤ河下流のカラドン・マジリク両遺跡
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踏査。’九九三(平成五)年四月~法政大学重量拳部部長(九年間)。七~九月北京大学留学(交換研究員)。一九九七(平成九)年四月~翌年三月法政大学文学部長・同評議員。二○○○(平成十二)年三月第十回東アジア史学会(北京・中国社会科学院考古研究所)。「八世紀東アジアの鍔帯金具について」発表。二○○’(平成十一一一)年四月~岩手県一関市博物館館長兼任。一一○○三(平成十五)年四月~早稲田大学大学院客員教授兼任。
【学会活動]日本考古学協会委員地方史研究協議会常任委員 [出講大学]平安女学院女子短期大学・明治大学・駒澤大学・帝京大学・立教大学・国学院大学・立正大学・福島大学・東北大学・山形大学・東京都立大学・早稲田大学・朝日カルチャーセンター(新宿・藤沢) 法政史学第六十一号
【主要著作目録一一九五四年「登米郡新田村字対馬竪穴住居趾調査報告」『地域社会研究」6’九五六年「宮城県登米郡新田村字対馬竪穴住居趾調査報告」「宮城県登米郡新田村史」別編(共筆)「仙台市西台畑出土の弥生式土器」「考古学雑誌」坐
11
一九五七年「宮城県登米郡新田村字対馬竪穴住居阯群」『地域社会研究会資料」7 [社会的活動]東京都環境影響評価審議会委員東京都板橋区文化財審議会委員・会長東京都北区文化財審議会委員東京都町田市文化財審議会委員福島県南会津郡田島町史編纂委員茨城県猿島郡総和町史編纂委員・副委員長茨城県結城郡千代川村史編纂委員 史学研究会評議委員法政考古学会会長法政大学史学会委員・会長東洋陶磁学会・考古学研究会・北海道考古学会・東北史学会・日本考古学会・岩手考古学会・山形考古学会各会員
四
一九五九年
一九六一年 九六○年
九六三年九六四年九六五年
九六六年伊藤玄三先生を送る
「古代東北の開拓l討論の経過と問題点l」「歴史」
81
「宮城県小山田の火葬墓」「考古学雑誌」妬14 「宮城県青木の弥生式遺跡と出土々器」「東北考古学」
1
「所謂「山村宮」についての疑義」「仙台郷士研究」
別14「東北日本における弥生時代の墓制」「文化」妬13
「東北の古代文化」「古代文化」714「多賀城高崎廃寺趾の発掘」「仙台郷士研究」Ⅲ13
「弥生時代」「日本考古学年報」肥「会津大塚山古墳」(共著)「腰浜廃寺」(共著)「宮城県山王遺跡の発掘」「H本考古学協会昭和Ⅲ年
度大会研究発表要旨」(共筆)「崎山囲洞窟遺跡調査概報」「宮城県文化財調査報告
書」8「糠塚古墳調査概報」「宮城県文化財調査報告書」8 「敷味遺跡調査概報」「宮城県文化財調査報告書」8 「弥生文化の発展と地域性l東北I」「日本の考古学」
Ⅲ
「東北の古代窯業遺跡」「古代文化」刑13
「装飾古墳の直弧文」「文化」別12~4「東北日本における弥生時代の墓制」(要旨)「日本考
古学年報」u「先史・原史時代Ⅱ(弥生と「史学雑誌」門15 九六七年「直弧文の分類についてl所謂「直弧文C型」不在論
l」「考古学雑誌」弱11コ直弧文の分類について」補論IAB連接型につい
てl」「考古学雑誌」詔13「鷹の巣古墳群調査概報」「宮城県文化財調査報告書」
2
1「一一一十一一一間堂遺跡緊急調査(測量調査)概報」「宮城県文化財調査報告書」⑬
「宮城県気仙沼市磯草貝塚」「日本考古学年報」嘔 「宮城県塩竃市崎山囲洞窟」「日本考古学年報」応 「昭和皿年度多賀城廃寺跡発掘調査概報」(共著) 「東北地方における弥生文化の問題点」「東日本弥生
時代遺跡地名表」「一日一理郡一日一理町一一一十三間堂遺跡」「郷土わたり」配「蛍光X線分析の考古学的応用」「考古学ジャーナと
01
九六八年「福島市月崎出土の土偶」「考古学雑誌」羽14(共
筆)「末期古墳の年代についてl東北地方末期古墳出土
遺物を通してl」「古代学」u13.4「志摩半島御座の鹿角装刀」「古代学研究」印 「西根縦街道古墳調査報告」「岩手県金ヶ崎町西根古
五
墳と住居吐』’九六九年「福島県腰浜廃寺出土瓦の一例」『古代文化」虹11「縄文晩期文化l東北l」『新版考古学講座」3「弥生文化各説(東北上「新版考古学講座』4 法政史学第六十一号
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講義中の伊藤先生「福島市月崎遺跡」『福島市埋蔵文化財調査報告書』「昭和蛆年の日本考古学界」「歴史教育』だ18一九七○年「所謂『北海道式古墳」の実年代」『古代文化」理I
2「古墳文化の伝播」「古代の日本』8「五世紀の古墳」『古代の日本』8「宮城県白石市胴の巣第1号墳・第四号墳」『日本考古学年報」肥『多賀城跡調査報告」1(多賀城廃寺跡)(共著)「古墳文化名説(東北こ『新版考古学講座』5一九七一年「平安宮内裏内廓回廊推定地の調査‐上県都市下立売通土屋川西入l」「平安博物館研究紀要」3(主筆)「平安宮豐楽院推定地(聚楽皿中川)の調査」『平安博物館研究紀要』3(主筆)「平安京三条西殿跡発掘調査報告」「平安博物館研究紀要』3(主筆)「播麿国分寺跡の保護l岩永蓮代さんの保護活動l」「古代文化」翠18「縄文時代僅胎漆器の文様」「日本考古学協会第諏回総会研究発表要旨』「大曲り遺跡」『福岡南バイパス関係埋蔵文化財調査』1(共筆)’九七二年「直弧文の分類についてl所謂『直弧文C型」不在論l」(要旨)『日本考古学年報」別 ’一一一ハ
一九七三年「平安宮跡出土の奈良型式瓦」「古代文化」妬12.
3「福島県上の原4号墳の鹿角製刀装具」『福島考古」
41「重圏文系軒瓦の製作年代の下限」「史想」咄「宮城県西台畑遺跡」「土師式士器集成(本編)」3一九七四年「図版解説平安宮内裏内廓回廊の基壇」「古代文化」別11「縄文晩期藍胎漆器の文様」「法政大学文学部紀要」
02「仙台市富沢裏町古墳発掘調査報告書」「仙台市文化財調査報告書」刊(共筆)「会津における原始社会と古墳文化」「歴史春秋」7「平安宮内裏内廓回廊跡第二次調査」「平安博物館研究紀要」6(共筆)「朝鮮出土の直弧文資料について」「法政史学」邪「北の古墳」「どるめん」Ⅱ「京都府平安宮跡遺跡出士の土器」「土師式土器集成(本編)」4「京都府西寺跡遺跡出土の士器」「土師式土器集成(本編巨4’九七五年「弥生時代の東日本」「日本歴史地理総説総論・先原史編」一九七六年『西台遺跡」(編著)
伊藤玄三先生を送る ’九七七年「古代東北の住民」「古代の地方史」6「福島県田島町石橋遺跡の押型文土器」「法政考古学」
1「日本子どもの歴史」1(夜明けの子ども)(分担執筆)’九七八年「会津大塚山第2号墳の調査」「福島考古」山「宮城県一日一理郡の古代郡倉’’一一十三間堂遺跡の再検討l」「法政考古学」2
一九七九年「東北における古墳の年代」「考古学ジャーナル」w 「太安萬侶墓誌の発見と考古学」「法政」Ⅲ
一九八○年「顧問豊田武先生を偲んで」「法政考古学」4一九八一年「田島町史」第5巻史料編1(共著)「鹿角製刀剣装具の直弧文」「法政大学文学部紀要」62一九八一一年「福島県双葉郡浪江町本屋敷古墳群発掘調査概報」1(編著)
「「豊田武文庫」について」「法政」〃
一九八一一一年「福島県双葉郡浪江町本屋敷古墳群発掘調査概報」2(編著)「太安万侶の勲五等」「角田文衛博士古希記念古代学論叢」「福島県浪江町清水の縄文晩期土器」「法政考古学」8(共著)七
「中谷治字二郎論」「縄文文化の研究」皿
「本屋敷古墳群の発掘調査を終えて」「法政」〃
「遺物にみられる移動と年代」「考古学ジャーナと222一九八四年「直弧文の展開」「法政大学文学部紀要」釦『直弧文」(考古学ライブラリー)ニュー・サイエンス社「福島県双葉郡浪江町本屋敷古墳群発掘調査概報」3(編著)「福島以本屋敷古墳群の洲査」「Ⅱ本考古学協会第別回総会研究発表要旨」「韓国出土の青銅製鍔帯金具資料」「法政考古学」9「八枇紀の跨帯に示される授位l東北末期古墳例を通してl」「法政史学」洲「えぞ族長の墓」「季刊考古学」9一九八五年「田島町史」第1巻通史1(共著)「本屋敷古墳群の研究」(編著)「地域古墳文化の変遷l禍島県浪江町(Ⅲ標葉郡)を例としてl」「法政考古学」皿「多摩丘陵の考占学的資料」「帝京史学」’
一九八六年「世界の大学釜山大学校」「法政」棚
「東北日本古墳文化の伝播の性格」「帝京史学」2「法政大学多摩校地遺跡群11A地区l」(繍著) 法政史学第六十一号「法政大学多摩校地遺跡群ⅡlG地区l」(編著)「東北南部に関する古墳の実態とその変遷」「東アジアの古代文化」⑬「平安時代丘陵地集落の村落l多摩丘陵奥部の例l」「法政大学文学部紀要」釦「随想英国紀行」「法政史学」胡
「韓国の史跡を訪ねて」「法政」Ⅲ
「道嶋宿禰一族についての一考察」「東北古代史の研究」九八七年「現代史を掘るl多摩送信所(法政大学構内)の発掘よりl」「考古学ジャーナル」川
九八八年「法政大学多摩校地遺跡群ⅢIC.R地区l豈編箸)「新羅・渤海時代の鍔帯金具」「法政史学」㈹「宮城県木戸瓦窯跡出土の文字瓦l郷里制資料の一例l」「法政大学文学部紀要」羽「古墳時代総説」「論争学説日本の考古学・古墳時代」「特集二九八七年の考古学界の動向占墳時代(東日本)」「考古学ジャーナル」麺 九八九年「東北古代史研究への回顧」「地方史研究」川
「東日本の末期古墳」「シンポジウム「東日本の末期古墳」」八
一九九○年「法政大学所蔵伊藤鉄夫・陽夫考古学資料目録」I(編著)『東京都八王子市中郷遺跡」(監修)落越遺跡調査団「八世紀前後の北海道と東北の交流」『法政大学文学部紀要」妬「統一新羅の鍔帯金具l日本出土鍔帯金具との関連でl」『伊東信雄先生追悼考古学古代史論集」「大川遺跡における鍔帯金具出土の意義」三九八九年度大川遺跡発掘調査概報」『赤羽上ノ台遺跡」(監修)赤羽上ノ台遺跡調査団『東京都板橋区赤塚氷川神社北方遺跡」(1)(監修)赤塚水川神社北方遺跡調査団一九九一年「法政大学多摩校地遺跡群ⅣlE。D・B地区l罠編著)『五段田遺跡」Ⅱ〈監修)五段田遺跡調査会「日中合同・法政大学タクラマカン沙漠第一次調査」
「法政通信」川
「多摩校地発掘調査報告書完了旨法政大学校友会報」復刊皿 「第一一回アジア史学会に参加して」「韓国文化」皿
一九九二年「越野遺跡発掘調査報告書」(監修)帝京大学「会津田島寺前遺跡」(田島町文化財調査報告書三編箸)伊藤玄三先生を送る 『東京都八王子市落越遺跡」I(監修)落越遺跡調査団「東京都八王子市落越遺跡」Ⅱ(監修)落越遺跡調査団「中里遺跡」(監修)中里遺跡調査団「統一新羅の鍔帯金具について」『周亨孫大俊教授華甲記念日本学論叢」「ケリヤ川の自然と生活」「タクラマカン通信」3
「外濠ネストウォッチング」「法政」柵 「世界の大学梨花女子大学校」「法政」州
九九一一一年「北九州市高津尾遺跡Ⅳ区発掘調査報告書」(監修)法政大学考古学研究室「新彊ウイグル自治区ケリヤ河流域の考古学的遺跡」『法政大学文学部紀要」胡「本屋敷古墳群の再検討」『磐越地方における古墳文化形成過程の研究」(共筆)「日中合同・法政大学タクラマカン沙漠第2次調査を終えて」『法政通信」独
『法政大学タクラマカン沙漠調査概要報告書」(共筆)「高屋築山古墳(伝安閑陵)調査見学報告」「地方史研究」伽(共筆)
「仙台市西台畑弥生時代墳墓の再検討」「法政考古学」九
02一九九四年「タクラマカン沙漠西南部の遺跡と環境」「地理」洲
14一九九五年「克里雅河流域の考古学的連週跡」『沙漠・水・人間」法政大学タクラマカン委員会一九九六年「法政大学所蔵伊藤鉄夫・陽夫考古学資料目録』Ⅱ(編著)’九九七年「渤海時代の鍔帯金具」『法政大学文学部紀要』蛆一九九八年『律令期鍔帯金具の調査研究』科学研究費研究成果報生ロ二○○一年「与八世紀金属帯飾相関的東亜古代史課題」『皿州史学会第n回(北京)研究大会講演稿集(中文)』二○○二年「岩手県花泉町杉山古墳群」「岩手県南史談会研究紀要』皿二○○三年「カラドン遺跡の仏教寺院」『法政大学文学部紀要』
84「考古学上からの近・現代遺産」『地理』蝿1m
伊藤玄三教授の最終講義
本学文学部史学科教授伊藤玄三先生は、平成一六年三月三一日をもって定年退職されることとなった。ついては、これまでの先生の学恩に報いるため、平成一五年一二月一四日(土)、法政大学文学部史学科と同史学会の共催で、最終講義となる記念講演とパーティーが行われた。 法政史学第六十一号
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最終講義風景
講演は、午後一一一時三○分より、ポァソナードタワー二六階スカイホールで開始され、学科主任の加納格教授の司会で進められた。文学部長の星野勉教授による開会の辞に続き、澤登寛聡教授から伊藤先生のプロフィールが紹介された。その後、先生の「八世紀東北の文化と住民」と題する講演が行われた。講演の中身は巻頭の論文に示されているが、考古学資料と文献史料とによる多角的に深く切り込んだ内容には、先生が長年の研究で培われた学殖と知見が随所に見られ、元学生をはじめとする各地から訪れた多くの聴衆は、熱心に耳を傾け、感銘と懐かしさに時の経つのも忘れ 次いで、午後六時三○分より、M会場で記念パーティーが催された。「伊藤玄一一一先生御退職記念懇親会」と題するパーティーは、加納格教授の司会で進められた。まず、本学史学会会長の山名弘史教授と星野勉教授から先生の再出発を祝う詞が述べられ、安孫子信教授の乾杯の音頭をもって開始された。御祝いの詞や当時の思い出は、本学を七年前に定年退任された村上直名誉教授、その翌年に定年退任された安岡昭男名誉教授、及び、タクラマカン沙漠の調査にご一緒された小寺浩二さん(本学専任講師)をはじめ、先生の講筵に連なった高橋和・栗原伸好・丹野祥枝の各氏からも述べられ、先生のお人柄が随所に窺われるものであった。 講義を終えて、考古学ゼミナールを代表して、博士課程二年の岩田真理子さん、学部三年の井手惟子さんから花束贈呈が行われ、熱気覚めやらぬ中、中野榮夫教授の閉会の辞をもって締め括られ の聴衆は、熱心に可るひと時であった。講義を終えて、老手田真理子さん、学部
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伊藤玄三先生を送る パーティーは、参加者への久方ぶりの出会いの場ともなり、和やかな雰囲気の中で進められた。閉会近くになると、後藤篤子教授から記念品(旅行券)が贈呈され、先生から謝辞を頂戴した。続いて、栃木利夫教授から閉会の辞が述べられ、最後に、先生を囲んでの参加者全員の記念撮影をもって散会となった。出席者は約九○名であった。
一
三
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私が、史学科に助教授として着任したのは一九八○年四月のことであるが、当時おられたのは、河原正博(東洋史)、村上直(日本近世史)、安岡昭男(日本近代史)、倉持俊一(西洋史)の先生方で、そこに私が加わったので、日本史四人、東洋史一人、西洋史一人という陣容であった。その後、西洋史の先生が一人補強されたが、昨年三月までそのままで、史学科といいながら日本史中心の学科であった。私が着任したときの史学科研究室は、今はもうない第Ⅱ五五年館(診療所のあった建物)にあり、私が与えられた研究室は、その隣りのこれも今はない大学院棟の三階であった。同室の先生は先日お亡くなりになった倉持俊一先生で、西陽で暑い研究室というイメージだけが残っている。私が着任した年に八○年館が完成し、村上・安岡両先生の研究 法政史学第六十一号伊藤玄三先生を送る言葉
伊藤玄三先生を送る言葉
中野栄夫 室は八○年館に、その他の教員の研究室は、史学科研究室と共に第一校舎四階に移転した。私が着任した時、私を除くと伊藤先生が最も若い先生であった。また、第一校舎に入った日本史の教員は伊藤先生と私のみであったので、伊藤先生とは、それ以来長いお付き合いをすることとなった。その後、先任の先生が次々と定年でお辞めになり、最後に残ったのが伊藤先生であった。史学科も私より先任の先生はすべていなくなり、四月からは私が史学科最古参となってしまう。昨年四月からは第一教養部から三人の先生をお迎えし、陣容もすっかり変わってしまった。そんなことを含めて、伊藤先生がお辞めになるのは、私にとっても感慨深い。ただ、伊藤先生にはしばらく大学院の講義を手伝っていただかねばならず、お付き合いは続けられるので、寂しさも少しは薄らいでいる。伊藤先生には、昨夏私が主宰した陸前高田市でのシンポジウム「海の蝦夷l小泉遺跡が語りかけるものl」にもご参加いただいたが、これからも教えをいただくことも多いかと思う。伊藤先生、これからもお元気でご活躍され、ご指導下さい。
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東京都北区文化財保護条例の議会での可決・成立に向けた仕事を手伝った私は、’九八六年四月から一九九六年三月までの一○年、北区教育委員会に学芸員として勤務していた。このころの北区の審議会委員には川崎房五郎(元東京都公文書館)・小林三郎(明治大学)・段木一行(東京都教育庁文化課)・紺野敏文(慶應大学)・宮本端夫(立教女学院短大)・平野榮次(日本民俗学会会員)・宮次男(東京国立文化財研究所)の先生方がいた。伊藤玄三先生も、これらの先生とともに審議会の委員をしてくださっていた。したがって先生におつきあい戴いた期間は、大学院に入学してから北区の時代を経て今日まで約二三年となる。当時における私の仕事は、北区内に遺された文化財の悉皆調査をおこない、この中から北区が保護すべき文化財を審議にかけて登録・指定の是非を決めることであった。国や県の審議会と異なって基礎的自治体である東京特別区の審議会は専門部会制をとっている場合が少ない。このため例えば、絵画についての指定の審議を、有形・無形の民俗文化財や歴史資料・古文書、彫刻、考古学といった畑違いの先生方にお願いしなければならなかった。学芸員の立場からいえば、これらの先生方に専門の分野をこえて共通の認識に立って戴き、これを審議して貰わねばならない。しかし、それだからといって審議の質を落としては元も子もない。
伊藤玄三先生を送る 東京都北区文化財保護審議会での思い出澤登寛聡 このようなわけで審議では先生方の質問も熱が入り、これに対する私の答えにもつい熱が入り過ぎてしまう。そうすると話し方もぞんざいになって丁寧さに欠けてしまう。力量不足も手伝って説明をしている時の私の対応も粗雑になりがちとなる。今から思えば年齢がひとまわり半以上も離れている先生方に対して随分と失礼な物言いも少なくなかったような気がする。こんなときは審議会が終わると先生に呼び止められ、「法政大学の卒業生が今日のような対応しか出来ないと思われては困るよ」、「もっと礼儀正しく、丁寧に審議を進められるようにしなければ…」というような趣旨のお叱りを受けたものであった。研究や仕事の内容をしっかりと充実させねばならないのは当然である。しかし、それさえ充実していれば、人への対応が多少、粗雑でもよいかのような私の姿勢に対して警鐘を鳴らしてくれたわけである。このような姿勢はよろしくない。それは甘えである。このような姿勢は結局、仕事や研究をしっかりと進めているという自負心をみずから傷つけるものである。こんな風に理解したらよかったのかもしれない。しかし、当時の私は先生のお叱りの意図するところを理解するにはまだ血気盛んすぎた。先生のお叱りも上の空であった。とにかく、先生には時々きっぱりと怒られることがあった。怖い存在であった。私も今年は五一歳になってしまった。この年齢になると段々と叱って貰える先生が少なくなってくる。それゆえ、ここで先生に退職されてしまうのは少々、寂しい気がする。しかし、それも仕方のない事かもしれない。
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歴史学とは、無限の可能性を有した未来が確定した過程、すなわち過去を考察する学問である。それは、時期を区分し、当該期を象徴する概念を設定し、説得力に富む因果の論理をもってある状況の推移とその意味を叙述する作業をともなう。その作業場、すなわち法政大学という固有名詞を有する作業場で、伊藤先生は三○年以上もの間歴史を紡ぎ続けてこられた。そのうち、私が同僚として共有させていただいた時間は最後の六年間である。この六年間を叙述し意味付けようとするとき、一九八六年春、修士課程に入学したばかりの私が第一校舎四階のほの暗い考古学研究室で先生と雑談を交わした時点から叙述するのが適切なのか。あるいは一九九七年秋、割愛願いという慣行により、教授会での採用決定を持って、安岡昭男先生と共に、私の前の職場を訪ねてくださった伊藤文学部長としてのご挨拶の時点から叙述するのが適切なのか。今なお出発点が定まらない。ともあれ、共有させていただいた時間の中で最も印象深いこと、それは、確定した未来の説明の延長線上に可能性の余地のない未来を確定できるとする歴史観を否定することにおける共鳴と同調である。今後も、歴史学研究という場で可能性を有する未来を共有し続けたいと願っている。近代考古学という共鳴板もすでにいただいている。今はとりあえず、感謝と慰労のみ。 法政史学第六十一号伊藤玄三先生の思い出長井純市
私が伊藤先生と初めてお会いしたのは、東北地方で開催されたある学会の折であった。そのⅡの満演者が伊藤先生であり、テーマは東北の末期古墳と和同開称であったと記憶している。当時、私は弘前大学に在任しており、主要都市の市制施行一○○周年にちなんで開始された自治体史ブームのなかで、弘前市史や五所川原市史、のちには青森県史等々、青森県の数多くの自治体史編纂に関わっていたが、青森県から北海道にかけても存在する末期古墳については、当地方の古代史の数少ないテーマの一つであり、その勉強を通じて伊藤先生のお名前をよく存じ上げていた。御講演後にさっそくにご挨拶申し上げたところ、初対面の私に、あのにこやかな笑顔で非常にご丁寧に対応していただき、講演のために持参されていた「古代学」掲戟の御自身の論文をその場で私に手渡された。それを今でも私は大切に持っている。最後まで律令国家の地域編制に組み込まれなかった北方の地域が、一方で南方ともさまざまな交流をもっていたことは、末期古墳の存在やそこから出土する和同開弥あるいは鍔帯金具がよく物語っている。伊藤先生が先鞭を付けられた本州北辺を拠点とした北と南の「交流」の実態の解明は今でも私の主要な研究テーマの一つである。 伊藤玄三先生と東北古代史
四
小口雅史
伊藤先生を存じ上げるようになったのは私が一九八三年に法政に着任してからである。当時年配としては史学科六人の専任教員のうち四番Uでおられたが、もう長いこと勤めていて、考古学研究室の充実発展に一意専心努められている最中という印象であった。それから十数年間は、第一校舎四階の史学研究室と演習室とが集まっているフロアでご一緒させていただいた。東洋史研究室と考古学研究室とは共用スペースを挟んで斜め向かいの位置にあり、部屋の構造が開放的に出来ていたせいもあって、お互いのゼミの学生が気軽に行き来していた。考古学研究室はなかなか物持ちで、時々定規などの文房具から、果てはコンパ用の鍋に至るまで、拝借することがあった。一度だけに終わったが、清里で合同のゼミ合宿をさせていただいたことがあり、今でも懐かしい思い出になっている。また、考古学と東洋史の有志による中国旅行でもお世話になった。私の研究分野は情代で、日本考古学と古代史がご専門の先生とは本来かなり研究分野が隔たっているのだが、先生が広く東アジアの古代史と考古学の全般を視野に入れて研究をなさっておられるので、先生の寛容なお人柄に甘えたことと相俟って、いろいろと教えを受けることが多かった。先生は体躯に似合わず壮健で、ねばり強いところがおありで、タクラマカン砂漠の踏査でも副隊長として活躍なさった。今では
伊藤玄三先生を送る 伊藤玄三先生を送る山名弘史
十年程前のある日の黄昏、上州前橋駅前で伊藤先生に偶然お会いした。考古学会の大会にご出席とか。笠懸・岩宿周辺の見学もと言われる。「岩宿」と聞けば、戦後の歴史学と考古学の興味を誘った相沢忠洋氏の発掘・研究を想起する。関東ローム層の旧石器文化を発掘した郷土の相沢氏とその成果を学び、私は小学生時代から考古学での「民衆の視座」を刷り込まれた。確かに個々の事例で葛雌・対抗する状況はあっても、戦後各地の考古学の成果は、当時の研究者とその集川による執念と情熱で得られたものが多いo伊藤先生の業績からも一九五○年代後半から各地の発掘調査に携わられた積極的な歩みが明らかだ。その中で培われた「学問への自由」「民主主義」的生き方の「こだわり」に、私は同感する。先生は教職員組合の諸行事、蔵王・草津白根のスキー学校、夏 トレードマークのようになっているお髭もそのころから蓄えられるようになったと記憶している。近年は学部長も務められたが、あいにく体調を崩された後であったので、なかなかご苦労がおありだったことと思う。このたびのご退職で大所高所に立ってのご意見を伺えなくなるのは心許無いが、今後も史学科と法政大学史学会の発展を見守って下さるものと思う。本当に長らくご指導頂いたと御礼申し上げたい。
新たな門出を祝して
五
栃木利夫
長らく教養部におりました私が、伊藤先生とお仕事を共にしましたのは、記憶を辿ってみましても恐らくただ一度、一九九七年度の学部長会議だけではないかと思います。当時のメンバーでは最長老であられたのが伊藤先生で、一番の若造が私でした。にもかかわらず、囚月早々から、文学部と私の所属していた第一教養部とは学生部長選出問題で争う破川となり、私は文学部のある先生から、うちの学部長がおまえに怒鳴られたと言っているぞ、と箸められたことがありました。もちろん私の方にはそんなつもりはなく、ただ若気の至りで緊迫した場面になるとつい語調がきつくなってしまったようですが、その時の伊藤先生はすでに六十歳を超えておられて、どのような場面でも、今と同じように泰然として穏やかな笑みを浮かべておられました。私が素直に謝りもせ の尾瀬ハイキングその他に、奥様とご一緒で参加された。私が教養部の講義で疲れ果てたときにも、教授室や廊下で気軽に「癒される」対話をさせていただいた。私の史学科としてのご一緒は二○○三年移籍のわずか一年ではあるが、先生ご就任後、四年遅れての法政大学就職の身としては、四半世紀二五年間のお付き合いであった。その間、「饒舌」の失礼の段、お許しを乞いたい。岩手県相川ご川身の先生、日本〃など日本文化の発祥地、岩手の一関博物館館長としても、更なるご活躍を願ってやまない。 法政史学第六十一号伊藤玄三先生のこと中村純
私が伊藤先生に初めておuにかかったのは一九八三年の春、当時ただ一人の西洋史担当教員でいらした倉持俊一先生の国内研究期間中、西洋史ゼミを担当する兼任講師として、法政に初めて出講した折だった。以後、兼任として六年間、専任になってから一五年間、いつも変わらぬ温厚な笑顔で接していただいた。私が専攻する古代ローマ史においても文献史学と考古学の協働が不可欠であり、考古学がご専門の伊藤先生には初めてお会いした時から近しい思いを抱いたのだが、その思いは、考古学研究室にお邪魔したり、先生が図書館に入れて下さっていた英語雑誌を利用させていただく都度、深まるばかりだった。私の勝手な片思いで、先生にはご迷惑だったかもしれないが。英国オックスフォードの歴史・考古学専門書店に勤務する友人から、東京に行くので ず、そんなことはしてませんよね、などと往生際の悪い言い訳を述べても、やさしく微笑むだけでした。それから数年を経て、実際に文学部に籍を置いてみますと、あらためて、四月早々からあんなことがあっては教授会運営もさぞ大変であったろうと思います。そしてそれだけにあの時の悠揚迫らぬ佇まいが、よりいっそう印象深く思い出されます。その節は失礼いたしました。私もでき得れば、先生のように穏やかに齢を重ねたいと思います。長い間おつかれざまでした。
伊藤玄三先生のご退職に際して 一一一一ハ
後藤篤子
私が先生とはじめてお会いしたのは、九七年の秋でございました。当時先生は文学部長を務められ、割愛依頼で私の前任校にみえられました。そのときは公的な場ですので、先生の人となりをそれほど身近に感じることはございませんでした。ただその大学の学長が先生と同じ大学出身で経済理論から歴史を勉強なさっている方でしたので、ちょっとお会いしていこうかといわれたことが思い出されます。また近くの市立博物館館長が教え子ですので会っていきます、ともいわれました。こうした出来事から人との出会いを大切になさるのが伊藤先生だと、私は思っております。私が赴任後、身近に接していただいて新たな発見は、先生が大学での教育の原則、研究の原則に忠実だということでした。 日本の考古学研究の現場を見たいとせがまれた折も、伊藤先生に泣きついたところ、先生は当時まだ第一校舎四階にあった考古学研究室・実習スペースを隈なく案内して下さったのみならず、昼食までおつきあい下さった。そのお蔭で、彼は大満足して帰国の途についた。伊藤先生は、タクラマカン砂漠の調査からもわかるように、国際派でいらっしゃるのだ。先生は相変わらず若々しくていらっしゃるので、先生がご退職の年を迎えられたとは信じ難い気持ちが強い。伊藤先生、どうかいつまでもお元気で、ますます多方向でご活躍下さいますよう。
伊藤玄三先生を送る 伊藤玄三先生に贈る加納格
伊藤玄三先生が定年退職をお迎えになるという。いささか以上の感慨をもって、その報に接したのはいつであったか。最終講義には、最前列でふたたびご警咳にと思っていながらも、本務の都合とはいえ、出席できなかった不肖の教え子は、本誌に論文を献呈申上げることもまたかなわなかったのである。先生のご鴻恩を思うときほんとうに申し訳ない思いでいっぱいで 紙幅もありませんので、先生の原則実践の例をあげるのはやめることにいたします。ただ私は、いやもおうもなく、大学が外からも、また中からも変化を押し付けられている現在、先生の持たれている原則は、大事なことだと思っております。大学はまずもって教育機関であり、研究機関であるという社会的原則は、けっしていかなる状況であれ、何に対しても譲ってはならないことだと思います。大学はこの故に、官庁でも、営利企業でもない存在なのですから。伊藤先生、私などは迷い多い人間ですので、ご退職後も先生になにやらご相談に伺うことがあるやもしれません。そのときは私の足りない考えにも耳を傾けていただき、是非先生のお考えをお聞かせいただきたく存じます。このお願いと、今後のお付き合いを願って先生に贈る言葉といたします。
伊藤玄一一一先生ありがとうございました
七
佐々水利和
ある。わたくしが本学大学院の門を叩いたのは、’九七五年だったろうか。先生は助教授であられた。旧文学部の階段下の小さな研究室であったような気がする。そこで、考古学古代史のゼミを担当なさる伊藤先生にはじめてお目にかかった。そもそもわたくしが本学を受験する気になったのは、あるきっかけがあった。当時、わたくしは東京国立博物館に最も若い職員として勤務していた。ある日、わたくしの上司のもとに豊田武先生がおとなわれた。上司は会議のため不在で、しばらくわたくしが先生のお相手を申上げた。しばし談がはずみ、さまざまなお話をうけたまわることができた。そして、最後に「キミは大学院はどこ?」と聞かれたのである。「いいえ、出ていません。」「そう、夜はどうしてるの?」「飲んだくれています」「それはいけないネ、法政の大学院は夜間開講だョ」とおっしゃる。上而がかえって来たのをしおに席に戻ったのであるが、その話を上司にされたらしく、お帰りになられたあと、上司から大学院を受けるようにとの厳命がなされたのである。入学して間もなく、ゼミを選ぶようにとのことである。日本近世史としてアイヌの歴史を学びなおしてみようと考えていたわたくしは、当然、近世史のゼミには入れると思っていた。ところが、キミを指導することはできないという、きついおことばである。途方にくれたわたくしは、豊田先生の研究室をお尋ねし、その間の事情を申上げたのである。先生はやっぱりネとおっしゃられたあと、「ボクのところでもいいんだが…、いや、やはりゲンゾーく 法政史学第六十一号
んに頼んでおきましょう」とのことである。そして、伊藤先生にご指導を受けることとなったのである。先生にとっては、ご迷惑なことであったろうと拝察する。しかし、「いっしょにやりましょう」と笑顔で迎え入れて下すったあの時の感激は忘れられない。夜間開講といっても、当時の法政には本当の意味での社会人院生は少なかった。法政プロパーよりも他大学からの入学生が多かったような気がする。そんな中での、考古古代史ゼミは法政出身者ばかりで、わたくしだけが他大学出身で社会人であった。年若の先輩や同期生はなにかとわたくしに気を使ってくれた。こうした心地よさが伊藤ゼミの特徴でもあった。しかし、近世史のゼミ生のなかには、指導教師に気を使ってのつもりか、わざわざわたくしのところに来て「アイヌに歴史なぞはないんだ」といいきった輩もいたのである。往時莊々、現在の法政大学にはアイヌをテーマに学ぶ学生も存在している。「アイヌに歴史なぞはないんだ」といってたその院生に現代の中世史.近世史における北方の問題をどう受け止めているのか聞いてみたい気もする。ともあれ、わたくしは伊藤玄三ゼミで学ぶことができたのである。修論は…、いやそんなことはもうどうでもいい。修論が通った週の日曜日、伊藤ゼミ最初の修士?・だったためか、Mクンとお宅に招かれて奥様のお手料理をいただいた。大学院を終えてからも、先生には東京国立博物館でよくお目にかかった。どうしてますかと、わざわざお声をかけてくださるのである。わたくしもつい甘えていろいろとご相談にのっていただいたものである。伊藤先生とは、別の接点もあった。先生は一関市のご出身であ
八
民俗学の授業からの帰り道、益田勝実先生に「考古学の講義もして下さい」とお願いしたことがあった。当時法政に考古学専任の教官はおらず、一方益田先生には祭祀遺跡の論考などもあったから、新入生の私には先生が考古学にも精通していると思われたのである。先生のご返事は意外なものであった。「来年には専任の先生が来るらしいよ」。その後この噂は、程なく洩れてきた「伊藤玄三」の名と共に、 るが、そこはわが父祖の地でもある。大学へ入ってまもなくのこと、民俗学の調査を兼ねて一関を訪れた。そこで、佐藤節郎さんにお目にかかり、さまざまなお話をいただいたのであるが、その折に、よく「伊藤玄三クン」の話が出てきたし、たびたび下すったお手紙にもそのお名があり、わたくしにとっては親しい存在でもあった。二○○四年が明けて、東京国立博物館の「南禅寺」展でおめにかかることができた。その折、あらためて最終講議の非礼をおわびを申し上げた。そして先生は僕の後任が決まったとおっしゃられ、法政の考古学の火が継続されることを本当に喜んでおられた。先生、本当によろしゅうございました。これからもお元気でいろいろお教えくださいますように。長い間、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。
伊藤玄三先生を送る 伊藤先生ご着任の頃福田敏一
大学院に入学して間もなくのこと、伊藤先生から韓国の史蹟見学に誘われた。私にとってこれが人生最初の海外旅行であり、それまで書物の中に求めていた歴史の史料に実際に接することのできた最初の機会であった。当時同行者の中で最年少であったこともあり、鞄持ちのつもりで加わったが、振り返ってみると、これ 私達考古学に飢えていた学生の話題をさらった。戦後考古学界最高の名著とされる河出書房「日本の考古学」全七巻の名だたる執筆陣の中にあって、唯一院生として「東北地方の弥生文化」を執筆したあの新進気鋭の考古学者伊藤玄三が法政にやって来る。はたして翌昭和囚十九年四月、先生はご着任された。学部二年の私は、早速専門課程の授業に潜り込み、最後列で先生の一言一言に耳を傾けた。授業は「邪馬台国」に関するもので、一人の学生がレポーターとなり、自分の意見を自信ありげに述べていた。しかし、それはある小説家の説をそのまま述べたものであったから、たちまち先生の指摘するところとなった。「人の説を鵜呑みにしてはいけない。n分で確かめるように」。後年、ゼミで土器型式に関して発表した際、「一般書ばかりでなく専門の論文も読みなさい」と、私自身手痛く指摘されることになるのだが、伊藤先生の登場はその後、それまで素人の域を幾らも出なかった法政の考古学の水準を飛躍的に向上させることになるのである。
伊藤玄三先生との一一十年を振り返って
九
塩沢裕仁
を契機に私自身の中に東アジアをビジュアルにみる視点が生まれたといっても過言ではない。この時の行程はソウル・公州・扶余・慶州・釜山であったが、遺蹟ばかりでなく、大学附属の博物館をはじめとする様々な博物館を巡るといった経験もはじめてのものであり、伊藤先生の知識の豊富さと顔の広さに改めて驚かされたものである。このとき仏国寺から慶州の盆地をみた光景は脳裏に焼きついており、その時伊藤先生が盆地を指差しながら説明してくださったことから、このように地形を見ればいいのかと感じたことが、広大な中国の地域史を考える上に今まさに生かされていると思う。なお道中のことであるが、儒城のホテルのカフェバーに私独り残された。そのとききれいなウエイトレスが一生懸命話し掛けてくれたが、その女性は韓国語以外話せなかった。意志の疎通を図ろうにも何も言葉が通じないという不自由さをこの時はじめて痛感した。このことも私の人生にとって大きな収穫であった。遡爽、帰国後ダプルスクールになったが専門学校に通い韓国語と中国語を学ぶことになった。現在、中川・韓剛をはじめ海外に多くの友人がいるのは語学のおかげであることには違いないが、二十年前に伊藤先生に誘われたことに端を発している。これ以降も伊藤先生とは韓国に二度、中国に一度出かける機会があったが、その都度、遺蹟に立ったときの伊藤先生の姿勢とエネルギーには感服し、また教えられることが多かった。誰よりも真っ先に古墳の頂上まで駆け上がり、ついていくのがやっとであった。また、常に周囲に目をくばり、遺物の表採をおこなって 法政史学第六十一号
いた。伊藤先生と行動をともにしているなかで自然と身についたものであるが、現在遺蹟に入る時、つねにこの伊藤先生の貧欲な姿勢を心掛けようとしている。ところで、九○年代半ばから伊藤先生の関心は砂漠に向いていった。タクラマカン砂漠に入境すること数度、楼蘭には奥様も阿伴なされた。廊下ですれ違うたびに話題はいつも砂漠に関することである。伊藤先生が顎讃を蓄えるようになったのはタクラマカンの第一次調査を終えて帰国して以降のことである。伊藤先生はお忘れのことと思うが、帰国後間もなく廊下で立ち話をした折、顎鬚を蓄えていると威風が感じられると申し上げたところ、帰宅してその話を奥様になされたそうである。普段ならば髭を剃るようにおっしゃられる奥様が、顔の小さい伊藤先生にはその風貌のほうが好いとおっしゃられたのが顎讃を蓄える切っ掛けである。その顎鬚は今でもきれいに手入れされており、その風貌は現在も変わっていないが、それとともにタクラマカンに展開する遺蹟と文物に対する先生の情熱も衰えることなく、現役引退後も砂漠に踏み入るつもりでおられる。これからの活動の方がむしろ伊藤先生にとっては有意義な時間が過ごせるかもしれない。
伊藤先生に初めてお会いしたのは、確か一九八八年春の大学院入試面接の席上ではなかったかと思う。専門が異なっていたこと 伊藤玄三先生のこと 一四○
佐藤宏之
もあり、先生のことは不覚にもこの時まで存じ上げなかった。こんな私を受け入れていただけるかはなはだ心配であったが、先生の持ち前の広量さの前では杷憂にすぎなかった。後に知ったことであるが、先生は文化人類学や民俗学にも大変造詣が深く、民族考古学をやろうとしていた私のような者に、興味を持たれたのだろう。修士・博士の六年間、先生には公私にわたり大変お世話になった。当時私は昼間働いていたので、研究室には週二回、それも夕方からしか顔を出せなかった。研究室の活動にちっとも協力しない不良学生である私のために(と信じている)、博士課程でも夜間にゼミを開講していただいた。せめてこのご配慮に少しでも答えようと、ゼミでは必ず議論をふっかけるようにしていた。いっしょにいた学生達はさぞかし迷惑であったと思うが、畑違いのとんちんかんな質問や愚問にも、終始やさしく微笑んでおられた先生のお顔は忘れられない。敬愛する伊藤先生が退職なさるという。先生のおかげで、私も学生を指導する立場となった。何もできなかった学生ではあるが、せめて一人でも多くの研究者を育てることが先生から受けた学恩に答える道であると信じている。
伊藤玄三先生を送る 九八二年四月に入学し、法大生となった。機会に恵まれ、直 恨み、辛み、そして感謝澤田秀実 ぐに夏の発掘調査に参加させて頂くことなったが、それが伊藤先生にお目にかかった最初である。怖くて近寄れず、先輩や助手の陰に隠れていたように記憶している。翌年もう一度発掘に参加させて頂いたが、この時は鍬を手にして勇ましく掘る先生の姿が印象に残った。かくして、晴れて八四年四月にゼミ生となった。しかし三年次は整理作業中心の演習であったし、四年次は先生の在外研究にあたり、学生時代に直接教えを受けた記憶に乏しい思えば日本史概説Iも中野栄夫先生で、先輩のノートは役に立たなかった。もっともゼミ生となった私も研究室の仕事はせず、自治体の発掘調査に入り浸っていたし、聴講生、院生時分は他大学の調査に参加してばかりていた。恥ずかしい話だが、法大にいた学生、聴講生、院生の9年の間に、ついに先生の講義を一年間通じて受講する機会はなかった。先生の講義を拝聴することができたのは、後年、都立大に出講されていた時である。もちろん大学院の演習では随分お世話になった。ただし怒られた記憶しかない。院生となった最初の演習での研究発表は途中で打ち切られたし、その後、半年ほど口をきいて貰えなかった。最後の発表は「ちょっとはまともになったね」という一言であった。また最初の論文にいたっては「僕は認めないよ」と漏らされた。しかし何故か演習での報告者がいないとなると発表するよう指示をだされ、毎回集中砲火の如く批判を浴び、自己嫌悪に陥った。また、就職した直後に先生のご論考の図版作成をお手伝いしたことがある。その時は「君にもそんなことが出来たのだね」が、頂戴した労いのお言葉であった。
一四一
’九九二年の夏、法政大学タクラマカン沙漠調査隊がカラドン遺跡を訪ねた際、他の隊員がタープの下にぐったり横たわっていたにもかかわらず、伊藤先生と私は炎天下の遺跡をかけ回り、六 めげることばかりで、未だに褒められたことはないが、何時であったか慰めのお言葉を頂戴した。「石にかじりついても、研究し続ける元気を持ちなさい」という叱屹激励であった。「継続は力なり」と置き換えて座右の銘にしている。無能な私はこの一言がなければ遠い昔に落ちこぼれていただろう。と何時に反骨精神も沸いた。その後は先生とは違ったやり方で、私なりの研究スタイルを創ることを心掛けた。|方で当時理解し得なかった先生の言葉の意味が徐々にわかるようになってきた。ここに至って先生の真筆で寛大なご指導に素直に感謝している。粋がってみても所詮は先生の掌中なのかも知れないが、これまでの悪行に是が非でも頸を縦に振って頂くことが他人には採るに足らない、しかし私にとっては未だ解決の緒を見ない懸案であり目標となっている。定年をお迎えになり、職制上の一区切りなのかも知れません。けれども学究には際限がないものと心得ます。先生にとっての学問上の区切りはまだ先にあるものと信じています。ご学恩を享受することのできた一学徒として伊藤先生の益々のご活躍を心よりお祈りする次第です。 法政史学第六十一号タクラマカン沙漠調査と伊藤玄三先生小倉淳一 時間にわたって記録をとり続けた。その後、予定外に沙漠を五時間も歩かされたことがたたり、先生は二日後に体調を崩されてテントの中で寝込んでしまわれた。おそるおそる先生の熱を測ると、なんと囚十二度の水銀柱は瞬く間に振り切れた。脂汗を流す先生はさすがに苦しそうであったが、意識ははっきりしておられた。そのうち先生はご自身でお立ちになり、しきりに「そんなに熱があるはずはない」とおっしゃる。そうなっては体温計を疑うしかなかった。ふと思い立って自分の体温を測ってみると、やはり水銀柱は振り切れてしまった。なるほど、沙漠の暑さに体温計はとっくの昔に壊れてしまっていたのだ。結局先生の熱は三十八度台だったのだが、後日『人民日報」に「伊藤教授は四十二度の熱を押して決死の調査を続けた」と書かれてしまい、苦笑いするしかなかった。沙漠でのあのハラハラした事件を思い出すにつけ、あの時の暑さ、厳しさ、そして過酷な状況下で冷静に体調を判断されていた先生のお姿もまた甦ってくる。これからの先生のますますのご健勝をお祈りする次第である。
長い間大学院に在籍し、同時に考古学研究室に勤務していた私にとって、伊藤先生とご一緒させていただく機会も、かなりのものとなった。それとともに「思い出」といえる出来事も多い。な 伊藤玄一一一先生のこと
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四 二
川部秀男
かでも特に印象的なのは、すばやい行動の数々である。十年以上前、先生がまだ五十代中半頃であろうか、韓国史跡の旅に同行した時のことである。おそらく慶州の復元された古墳群であったと思うが、美しい芝生が貼られた墳丘には「立入禁止」の札があった。先生はそれを横目で見ながらも「古墳は登ってみなければだめだ」と、いきなり急斜面をダッシュされ始めた。たまたますぐ傍にいた私も遅れながらもなんとか駆け登ったが、墳頂の先生はほとんど息も切らさずに眼下を眺めておられた。係員に見つからないかとひやひやしていた私に「早く走れば良い」と言われると、再びダッシュで駆け下りられ、まもなくして全ての墳丘を制覇されてしまった。真似しようとして係員にたちまち見つかってしまった他の学生達に比べて、なんとすばやい動きであったことか。また、中国新躯タクラマカン沙漠調査においても健脚を披露された。ホータン河岸のメリカワチ遺跡を訪れた時の事である。広大な河岸段丘上に建物跡が点在し遺物が散乱する状態であるこの遺跡に車から降りられると同時に歩き出され、砂塵舞う中に一人ですばやく消えてしまわれた。ほぼ入れ違いに管理人と称するウイグル人が取り残された我々にどこからか近づいてきて、遺跡地からの退去を求め始めた。外国ではよくあることだが、連絡がうまく通じていなかったためで、同行した中国科学院の方々がウイグル語通訳を交えて我々の身分と許可済であることの説明に苦心されていた。了解が取れた頃には予定時間も半ばを過ぎてしまい、当日は特に時間厳守であったため、仕方なく車からあまり離れず
伊藤玄三先生を送る に伊藤先生を待つこととなった。時間になっても姿が見えなかったのであたりを探そうかとなった頃、こちらの苦笑いに対して、いつもの笑顔でのご帰還となった。お話では随分と距離を歩かれ、ご希望の場所をいくつか見られたとのこと。下らないことで足止めされた私とは、当初のすばやい行動が明暗を分けた。その後は当然遅刻してしまい、叱られたのは私であったように記憶している。また、還暦を迎えられた後にも、茨城県内で炎天下分布調査にご一緒する機会があった。Rによっては、二十歳前後の学部生がすっかりばててしまう程ハードな調査でもあったが、日頃奥様とテニスなどを楽しまれている先生は基礎体力も落ちるどころか、年齢以上に十分であった。いずれの場合も、雑事にかまわずⅡ的に対してすばやく行動するという基本と、考古学は体力勝負でもあるということを、身をもって示されたわけである。私が東京を離れたこともあり、年に一~二度しか先生におⅡにかかれなくなってしまった。しかし、つい昨年も奥様と沙漠行を試みられるなどお元気なご様子はそのままである。この度、占稀を迎えられ法政大学を退職されることは、少々寂しいことではあるが、これからも相変わらずのお姿に、おⅡにかかれることを願う次第である。
|ノリ
伊藤先生の教えには、古き良き時代の学問の薫りがする。学問の本来あるべき姿を、先生は我々に懇々と説かれる。「Ⅱ本中を発掘するわけにはいかない。残された限りある資料から、その時代の全体像を復元しなくてはならない」。先生はいつもそのようにおっしゃられる。実際にはなかなか難しいことだが、こう書くことn体が既に言い訳である。古式ゆかしき、本来の学問から逸脱していることになる。ゼミ生が拙い発表をしたとする。先生はどんな場合であっても、とどめを刺すようなことはおっしゃらない。必ず笑みを浮かべて、できる限りの助言をされる。だがよくその言葉を一つ一つ考え直してみると、実は報告者そのものの本質的な欠陥を指摘されていることに気づかされる。「普遍性」「基礎作業」「訓練」。この三つの一言葉は、先生の話に、必ずといってよいほど出てくる言葉である。近年の日本における科学研究や教育は、とかく見せかけだけの「独創性」や「応用力」「効率化」を重視し、学問の細分化をさらに促しているという指摘を聞くことがよくある。先生はおそらく、こうした現状を早くから憂えて、基礎から応用への道標を示して下さったのだろう。伊藤先生の教えには、古き良き時代の学問の薫りがする。その教えに湛遁できたことに、心から感謝申し上げたい。 法政史学第六十一号伊藤玄三先生の教え内藤亮
私は伊藤先生と初めて二度お会いしている。不思議な言い方だが私自身はそのように感じている。それは想像の先生と本物の先生という二つの意味である。一九七六年、私は初めて遺跡の発掘調査に参加したが、当時の発掘調査は各大学の学生が集って合宿状態で行なうという、今では想像もできない文学的な世界であった。はじめて参加した現場は法大生が中心のところで、私は早大生だったのであまりよく理解できなかったのであるが、学生の皆さんはよく「ゲンゾーサン」という言葉を連発していた。何となく敬愛・尊敬されている人のことを言っているらしいことは理解していたので、当時、私なりにイメージした「ゲンゾーサン」は、体が大きく赤ら顔、もしやもしや頭で、大声で学生を罵倒する法大OBで就職していない人というものであった。これが私の想像の中での一度目の先生との出会いである。しかし、本物の「ゲンゾーサン」にお会いしたとき、私の想像は反省に変わった。それは伊藤先生にはじめて法政考古学会で発表の機会をいただいた一九八四年の事である。私は私の勝手な想像でとても恐怖感を抱いていたのであるが、本物の伊藤玄三先生は思わず「玄三法師」と口がすべりそうになるほど、想像していた先生とはまったく正反対の気品あふれる方で 伊藤先生と初めてお会いした頃 一四四
比田井克仁
あった。私はこの時、想像とはいえあまりのご無礼に内心、緊張し言葉もままならなかったように記憶している。人は人に失礼をしたと感じるとその人に会うのが祷踏され、会えば緊張するものである。それから久しく先生とはご縁がなかったが、一九九○年に八王子市民会館で行われた地方史協議会多摩大会で発表の機会を得た折、そこで先生に「大変面白い内容を聞かせていただきました。」と評価下さったことが大変嬉しかったことを記憶している。その時の先生はあご髭を大切にされていた印象が深い。その他にも、日本考古学協会の福岡大会に行く時の羽田空港でも偶然にお会いしたりと、今はおやりにならないがパイプがとてもお似合いであったりと、法政の大学院に入る以前にも断続的ではあるが、ずいぶん先生にお世話になっていたのだなあと思い出される。まだまだ、お話しは尽きないが、指定の紙幅数をはるかに越えてしまったので、このあたりで欄筆したい。最後に薫陶を受けた者の一人として、先生が法政をお去りになり、実証を旨とした学燈が消えないことだけを切に願っている。伊藤先生ご苦労様でした、益々お元気でいらしてください。また、お立場は変わられますが、私たち不肖の教え子にも指導の目を絶やすことなくお願い申し上げます。
伊藤玄三先生を送る一四五