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アフリカの地域的経済協力と統合

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(1)

論 説

ア フ リ カ の 地 域 的 経 済 協 力 と 統 合

島 崎 久 彌

1 目次

ω

ωUMA

EU

西

ω

ECOWAS

UDAOCEAOUMOA

UMEOA

(2)

2 商 経 論 叢 第33巻 第3号

ノ\

UDEACCAEMC

CEPGLECCAS

EAC

SACUMMASADC

CBICOMESA

は じ め に

戦後のアフリカにおける地域的経済協力と統合の歴史は︑ラテン・アメリカに次いで古い(ただし︑その起源は植民地

時代に遡るものもある)だけでなく︑その数の彩しさにおいて︑他の地域を圧倒している︒その実数は正確に把握するこ

とすら困難であるが︑一説によると既に崩壊したものも含めて︑アフリカには二〇〇以上の地域的な協力機構が存在

()し︑そのうちの一五〇余りは政府ベース︑残りも政府の支援をうけたものであるという︒しかもその中には関税同盟

は愚か︑超国家的な中央銀行の創設と︑統一通貨の発行を要件とする通貨同盟の域にまで到達したものさえもある︒

フラン圏がこれであり︑南アフリカ共和国と︑スワジランドを除くBLSN諸国(ボツワナ︑レソト︑スワジランドおよ

びナミビア)によって構成される共通通貨地域(Ooヨヨ8竃80感曼﹀器鋤)も︑これに近いものといえる︒上述のフラン

圏によって代表されるように︑アフリカにおける地域的な経済協力と統合の中には︑旧植民地時代の統治機構に淵源

するものも少なくなく︑今日においても植民地時代の痕跡が︑様々な形で残存している︒

アフリカにおける戦後の経済協力と統合は︑よい意味においても︑悪い意味においても︑植民地主義との対決の中

(3)

ア フ リカ の地域 的経 済 協 力 と統 合  

3 から生れてきたものであり︑それのアンチテーゼとして登場したのが︑パン・アフリカニズム(℃山ロー︾暁﹁一〇鋤コ一ωヨ)運動

であったとするならば︑上述のフラン圏は︑植民地時代の遺制を継承し︑植民地主義との融和をはかることによって︑

今日まで持続されてきたのである︒

たしかに戦後のアフリカにおける地域的経済協力と統合の展開に︑EECの実験が大きな影響を与えたことは︑否

定しえないが︑そこには同時に漸くにして政治的な独立を獲得した新興アフリカ諸国の経済的自立へのアスピレー

ションがひめられていた︒しかしながらそれらの構想は︑机上のプランとしては壮大であったとしても︑フラン圏な

ど一部の例を除くと︑そのパフォーマンスは貧弱であり︑さながらシシュボスの神話を彷彿とさせるものがあったの

である︒その原因は必ずしも一義的ではないが︑植民地主義からの解放と自立を希求するアフリカの地域的経済協力

と統合の展開が︑旧宗主国本位の産業︑貿易構造や︑水平的な交通・通信︑金融ネットワークの欠如によって象徴さ

れる植民時代の負の遺産によって︑逆に拘束されてきたことは︑見逃すことができないのである︒たしかに地域的経

済協力と統合の阻害要因としては︑内戦や国境紛争の頻発などをあげることが可能である︒域内の政治不安は︑加盟

諸国の政治的意思の欠如を端的に示すものであるが︑その根因は一面において︑植民地時代の人為的︑恣意的な国境

の設定に由因するともみられている︒

そのような植民地主義を超克するために当初とられた戦略は︑市場統合方式の推進であったが︑貿易の自由化政策

は万能でなく︑域内の補完性を欠いたモノカルチャi型経済構造の下では︑域内貿易の比率も微々たるものに過ぎな

かった︒加えて加盟国の間における経済発展段階の較差は︑域内経済の分極化を激化させるとともに︑貿易の自由化

に伴う関税収入の低下とも相侯って︑コスト・便益の配分を困難に陥れることになったのである︒貿易の自由化とと

もに展開された工業開発政策も︑初期の輸入代替政策の推進と︑ナショナリズムの高揚に伴う政策協調の失敗から︑

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商 経 論 叢 第33巻 第3号

逆に域内加盟国相互の競合を激化させ︑域内貿易比率の向上に︑逆行する結果となったのである︒

そのような状況の中では︑市場統合方式の推進よりも︑特定分野の経済協力が重視されるに至ったが︑アフリカ特

有の部族対立や︑植民地時代の恣意的な枠組みに拘束され︑徒に同質的な小地域的経済協力と統合機構の乱立をみる

に至ったのである︒そこでは同一の国が︑複数の協力︑統合機構に加盟することによって︑ある場合には機能的に重

複し︑ある場合には機構相互の矛盾に挟撃される例さえもみられたのである︒

その結果アフリカの地域的経済協力と統合の試みは︑それのライト・モチーフとする貧困と低開発の克服に失敗

し︑経済危機の深化した一九八〇年代には︑ラテン・アメリカの場合と同じく︑それらの多くが停滞ないしは瓦解を

余儀なくされるに至ったのである︒しかしながら一九九〇年代を迎えると︑ECの域内市場統一とそれの要塞化への

危惧︑ソ連・東欧の崩壊を転機とするアフリカの局地化に対する懸念︑あるいはASEANの躍進と︑NAFTA︑

ウルグアイ・ラウンドの展開︑さらには南アにおけるアパルトヘイト政策の終焉をバックとして︑アフリカにおいて

も地域的経済協力と統合を活生化しようとする動きが台頭しつつある︒それらの試みは︑ASEANの教訓や︑IM

F・世銀の主導する構造調整政策の導入とも相侯って︑民間部門のダイナミズムを活用し︑輸出主導型の開かれた地

域主義を指向する反面︑一部には最終の目的として壮大な通貨統合の創設計画と︑そのための日程を条約に掲げるな

ど︑依然としてアスピレーションだけが肥大し︑それの実施可能性について遅疑せざるをえないような例さえもみう

けられるのである︒

(注)Qり山ヨ↓巳旨‑ζ=ゴ穿p..ρΦ卑ヨσqき>h二$コOoヨヨoコζ銭区Φ戸.︑ヨ↓帥言αΦg>げα¢〒閃魯①Φヨぎ越︾誉母自嵩賊︒qミ・ピo臣匹o戸

お㊤ρ,一偽8バ!リャは︑途上地域の経済協力と統合の数を三〇とみているが︑その半ばは︑アフリカによって占められている

ものとみている(﹀.06・しdゴ巴冨僅コα勺.ゆ7帥=辞沁轟画§ミ切ごら鈎bd曽︒︒ヨσq珍o犀Φ曽お㊤刈も.蒔O.ソ

(5)

二 大 陸 ベ ー ス の 統 合 路 線

ア フ リカ の地 域 的経 済 協 力 と統 合  

5 ωパン・ア7リカニズム達動の軌跡

アフリカにおける﹁地域的協力と統合は︑実際問題として︑帝国主義と植民地主義の支配に対して︑アフリカの力

を結集しよ・つとするパン・アフリカニズム運動の環として発現した射﹂であり・アフリカの農的経済協力と統

合の軌跡を考察するためには︑パン・アフリカニズム運動の展開を無視する▼﹂とができないのである・パン.アフリ

カニズム運動は︑アフリカの植民地からの政治的な解放と︑経済的な発展を悲願とする︒それを達成するための方法

論として︑①コンチネンタリズム.一フデイカリズムと②小地域主義・機能主義が真向から対立してい(混が・充八〇

(αqoω9︒=oh8)

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(西)(西)()

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(6)

商 経 論 叢 第33巻 第3号

(ゆk〜h噌一〇7歳O<Φ)

解放運動に発展することになったので乞・妻ア冒力におけるナショ吉ズム︑およびそれと結びついたパン.

アフリカニズム運動の最初の拠点となったのは︑新世界に対する奴隷の供給基地となった西アフリカのゴールドコー

スト(ガ!ナ)であり︑それに続いてこの運動の中心地となったのは︑一九世紀における奴隷貿易の最大の拠点とも

なったナイジュリアの南部であった︒それらとともにパン・アフリカニズム運動の重要な拠点となったのは︑南北両

アメリカに対する奴隷の集散地であった西インド諸島であり︑とりわけ積極的な活動を展開したのは︑一八三四‑八

年の奴隷解放後︑アフリカにおいてキリスト教の伝道に従事した西インド諸島出身のアフリカ系アメリカ人であっ

た︒新大陸においてパン・アフリカニズム運動が漸くにして開花したのは︑一九〇〇年頃のことであったが︑その運

動がかつての奴隷貿易の三角ルートに沿って︑大西洋を横断することになったのは︑出版の自由や議会制民主主義の

;

(]℃>h﹃一〇いOh①Φ0Φ)

ぞれパン.アフリカ会議(雷琴冨コ︒8σq塁が開か魅︒第二次大戦4・は西インド諸島やアフリカから︑熟練労

働者や農業労働者が︑イギリスに移住しただけでなく︑それら地域の文化的︑政治的指導者は︑コモンウエルスの市

民として︑イギリス人と対等に処遇された︒一九四四年には︑いくつかのグループが大同団結して︑パン.アフリカ

連盟(℃餌コ}h﹃一〇鋤口閃ΦαΦ目鋤叶帥O口)を結成し︑その指導の下に一九四五年の一〇月には︑マンチェスターにおいて︑第五回

パン・アフリカ会議(ζき魯o卑霞Ooロゆq話ωωと俗称される)が開催された︒

﹁その当時マンチェスター会議は︑余り注目されていなかったが︑今日から顧みると︑この会議は植民地の解放とパ

(7)

ア フ リカの 地域 的経 済 協 力 と統 合  

7 (8)ン・アフリカニズム運動の歴史にとって︑重要な出来事であった﹂︒そこで採択された﹁植民地宗主国に対する挑戦﹂

(↓90冨一δ口︒q箕︒葺ΦO︒一︒巳伽昭薯9と題する文書は︑西欧の国々が暴力によって人間性を支配しようとするならば︑

アフリカ人は自由を達成するために︑最後の手段として︑力に訴えざるをえないであろうと宣言した︒それは﹁パン.

(9)アフリカニズム運動が︑急進的な方法で︑それまでの穏かな陳情に︑快別を告げたことを示すものであった﹂︒マン

チェスター会議のいま一つの特色は︑地域的な協力と統合が︑政治的な独立に先立って︑経済的な独立を確保するた

めの戦略として︑不可欠であることを確認するに至ったことである︒やがて一九五〇年代の後半における一連のパ

ン・アフリカン会議においては︑大陸ベースの統合を達成するための第一歩として︑アフリカ共同市場︑あるいはア

フリカ経済共同体の創設が︑決議されることになったのである︒

パン・アフリカニズム運動の高揚を促す最大の転機となったのは︑一九五七年におけるガ1ナの独立であった︒そ

の翌年の一九五八年には︑ヌクルマーの指導の下に︑第一回独立アフリカ諸国会議(霊範O︒三Φ器コ8︒=ロαΦ℃Φ巳①三

≧三︒砦鵯卑Φω)が開催されたが︑それはアフリカで開かれた最初のパン・アフリカ会議であった︒一九六〇年の第二

回独立アフリカ諸国会議においては︑アフリカ経済協力理事会(>hユo砦08考自8﹃国8類o豆oOo8Φ冨鉱8)︑アフリカ

開発銀行(︾{ユ爵口UΦ︿①一8ヨΦ艮¢d山疑)︑アフリカ商業銀行(﹀ヨ8コO︒ヨヨ霞︒一巴bづ山口屏)の創設︑アフリカ諸国の間にお

ける特恵関税制度の導入︑アフリカ共同市場(﹀{ユ$コO︒ヨ∋8竃鋤鱒象)およびアフリカ決済同盟(︾鼠$口勺錯ヨ①艮

(10)d)

調(()山ω一〇O07仲①)

創設を勧包ω・その翠には国連アフリカ経済委員会(ECA・国§︒讐︒︒ヨ自.・.・帥8§琴量に︑アフリカ共同市

場の創設に関する報告書が提出された︒それらの動きからも明らかなように︑一九六〇年代初頭のパン・アフリカニ

(8)

ズム運動は︑雰割されたアフリカは︑自らの経済的な運命をコント甲ルする}﹂とができ施﹂とのヌクル了の言

葉によって象徴されるように︑小地域的な統合の路線を放棄し︑人陸ベースの包括的な統合路線を指向するに至った

のである︒

一九六〇年代におけるパン.アフリカニズム運動のハイライトは︑一九六三年の五月︑三一のアフリカ独立国が︑

アディス.アベバにおいて決議したアフリカ統一機構(OAU︑○﹁αqき一N餌二︒ロ︒楠﹀鼠8コq三8)の創設であり︑それは

アフリカの統}と連帯の達成︑および非同盟主義の推進を目的とするものであった︒たしかにOAUは︑野心的な試

みであったが︑その実は大陸ベースの政治同盟の創設を指向する急進的なカサブランカ・グループ(o山︒︒印巨き8

0﹃︒唇)と︑漸進主義を主張するモンロビア・グループ(ζ︒罎︒<置oδ暮)との妥協の産物にほかならなかつ(耀︒その

後の展開をみると︑アフリカの新興独立国は︑壮大な統合計画を提唱する反面︑主権の移譲を忌避し︑加盟国相互の

利害対立や︑政治的イデオロギー的確執︑あるいは植民地時代から継承された伝統や︑民族︑言語の相違とも相侯っ

て︑一九六〇年代初頭のパン・アフリカ運動は︑停滞を余儀なくされた︒そのような状況の中で︑トリフィン(卑

↓葺ぎ)の提出した﹁アフリカ決済同盟の創設に関する報告書﹂(カΦ℃︒詳§葺①℃︒ωω一玄一三Φω︒;︒︒鼠甑︒︒臣コσq鋤Ω$9αq

︒コα鵠賓日⑦三¢三︒巳口︾蹄一B)に基づいて︑近い将来︑決済同盟を創設する旨の一九六四年のECAの決定も︑反古と

化するに至った︒僅かに陽の目をみたのは︑アフリカ開発銀行の創設だけであり︑マキシマリスト的なアプローチは︑

(14)一九六五年に挫折を余儀なくされた︒一九六〇年代後半のアフリカ諸国は︑OAUの求める政治的な解放よりも︑国

内の経済開発を重視し︑ヨーロッパの旧宗主国との連携を強化し始めた︒加えて独立期のパン・アフリカニズム運動

の指導者であったヌクルマーが失脚したため︑パン・アフリカニズム運動の指向してきた大陸ベースの統合路線は︑

一九六〇年代の後半に︑小地域的あるいは政府間ベースの経済協力と統合の路線に︑道を譲ることになったので臥馳︒

(9)

ア フ リカの 地域 的経 済 協 力 と統 合  

9 もともとパン・アフリカニズム運動の指向する大陸ベースの統合路線に批判的であったのは︑ECAであり︑アフ

リカにおける市場規模の狭隣性と︑インフラストラクチュアーの不備︑あるいは諸々の経済的︑地理的諸条件からみ

て︑人陸ベースの統合は困難と判断していた︒そこでECAは︑一九六〇年代の初あに︑アフリカ大陸を四つの地域

(北︑中部︑西︑東アフリカ)に分割して︑それぞれに小地域的な経済協力機構を創設するプランを提唱した︒そのため

にECAは︑それぞれの地域に︑多国間の開発委員会を設置して︑公平なコストと便益の配分をはかりながら︑小地

域的な経済協力を推進するための具体的な計画を策定し︑それを実施すべきであると提言した︒一九六〇葎代にEC

Aは︑小地域的な経済協力機構の創設に︑経済協力の重点をおくとともに︑一九六〇年代の後半には︑既存の地域的

(16)経済グループを支援する方針を掲げるに至ったが︑そのようなECAの政策は後述のように︑一九八〇年のラゴス行

動計画によって追認されることになったのである︒

統合路線の大陸ベースから︑小地域ベースへの転換を物語るものは︑一九七七年までにアフリカで創設された二〇

の経済協力機構と︑一〇〇をこえる部門別の多角的経済協力機構の大部分が︑一九六〇年代に創設された事実である︒

一九六〇年代は︑アフリカにおける統合の﹁大平な時代﹂と呼ばれ識・後述のようにそれらの多くは・やがて停滞・

あるいは挫折を余儀なくされるに至ったのである︒その原因は既に関説したような加盟国の間における経済発展段階

の較差や︑政治的︑イデオロギー的な対立︑あるいは諸々の歴史的︑外部的な諸要因のほかに︑各国が自国優先の政

策を採用したためである︒加えてアフリカの分裂に拍車をかけることになった撫・Ecがサハラ以南のアフリカ諸

国と締結したヤウンデ協定(くき口9.﹀ゆq吋oΦヨΦ三)やアルーシャ協定(﹀弓霧鍔﹀ゆq﹁Φ①ヨΦ葺)などの垂直的な経済協力の

枠組であった︒経済協力活動の挫折により︑第一次国連開発の一〇年間(一九六〇⁝七〇年)におけるアフリカの経済成

長率は︑南アジアの四・一%︑東南アジアの五・六%︑ラ米の四・五%︑中東の七・こ%に対して︑僅かの.一・○%

(10)

に止った︒さらに一九七〇年代の初頭には︑ブレトン・ウッズ体制の崩壊や︑第一次石油ショックの発生によって︑

世界の経済環境が急激に変化する中で︑国連の定義するζo︒︒一ωΦ﹁δ⊆ωぼ謀hΦ9Φα︒o§三Φ︒︒噂三二か国中の二〇か国

(19)

(臼Φ♂<一]P一Φ﹁コけ一UOO﹃一︻⇒凶OO﹁ユΦ)

OAU>hOoohOo8ΦOo<一8Φ

αoooO<Φ一〇Φ(匹︒⁝,

(20)聾δゆ)︑一九七九年にはζo霞o<冨ω#黒Φαq︽ho附国ooコo邑︒UΦ<︒一〇℃ヨΦ算が︑それぞれ発表された︒

中でも注目されるのは︑上述のモンロビア宣言を旦ハ体化するたあ︑一九八〇年の四月に︑OAU参加国の首脳が︑

ラゴスの特別会議で採択したラゴス行動計画︑およびラゴス最終決定書(コロ巴>90hピ鋤αqoω)である︒そこにおいて

は︑①二〇〇〇年までに︑アフリカ経済共同体を創設すること︑②そのたあの第一歩として︑アフリカ共和国市場を

創設すること︑③さらにその前段階として︑小地域的な協力機構を創設︑あるいは強化すること︑④アフリカ経済共

同体条約の起草委員を任命することが決定された︒一九八八年には予備的草案が委員会に提出され︑一九八九年にか

けて︑それの検討が続けられた︒一九九一年の六月には︑ナイジェリアのアブージャにおけるOAU総会において︑

アフリカ経済共同体(AEC)の創設条約(↓冨︒曙国ω鼠げ一一︒︒三畠けげΦ﹀鼠8ロ国︒8︒ヨ一︒O︒日ヨロコ一ぞ匂俗にアブージャ条約︑

﹀げ三餌ギ留蔓とも呼ばれる)が調印された︒本条約は一九九四年の半ばまでに︑三五か国の批准をえて︑同年五月に発

(21)効した︒

アプージャ条約は︑三四年間を六段階に分け︑パン・アフリカ経済共同体の漸進的な創設を目的としている︒その

(11)

ア フ リカ の地 域 的 経 済 協 力 と統 合  

11 (22)概要は次のごとくである︒

第一段階・.・現存する小地域的経済協力・統合機構を強化する︒それが創設されていない場合には︑条約の発効後五

年以内に︑これを創設する︒

第二段階⁝八年以内に︑加盟国の関税・非関税障壁を一定の水準に安定させる︒小地域ベース︑大陸ベースの部門

別経済統合を強化するとともに︑各経済共同体相互の協調と協力を促進する︒

第三段階⁝一〇年以内に︑自巾貿易地域と関税同盟を創設する︒

第四段階⁝二年以内に︑大陸ベースの関税同盟を創設する︒

第五段階⁝四年以内に︑パン・アフリカ共同市場を創設する︒

第六段階:.五年以内に︑人.財・サービスの自由移動と︑居住︑営業所設立の権利をみとめ︑単一域内市場︑パン・

アフリカ経済通貨同盟を創設する(単一アフリカ中央銀行を創設し︑統一通貨を発行する)︒またパン・アフリカ議会を創設

し︑直接選挙を実施するほか︑アフリカ多国籍企業や共同体の執行機関を創設する︒上述のスケジュールの枠内で︑

調和のとれた経済開発︑とりわけ多角的なプロジェクトと計画の促進をはかる︒

アブージャ条約は︑漸進主義と︑小地域的な経済協力︑あるいは統合の積上げ方式をとっている点において︑従来

のパン.アフリカニズム運動の戦略に比べて︑より現実的であり︑より即物的である︒しかしながらその構想は依然

として壮大であり︑反面アフリカの直面する現実は︑余りにも冷厳である︒AECの加盟国は︑人口こそ五億七千万

人(一九九〇年)を算するが︑そのGDPは世界全体の.一%弱を占めるに過ぎない︒世界の極貧国四七か国のうちの三

二か国は︑AECのメンバーであり︑世界貿易に占めるアフリカのシェアは︑二%にも充たない(一九九二年の域内輸出

の紫は︑アジアの・︑冗・五騒ラ米の三内%に対して・アフリカは七・麺)・AECの事務局も弱体であり・固有の財

(12)

源にも乏しい︒加えてしばしば言及してきたことではあるが︑アフリカの政治的︑経済的︑社会的な脆弱性を勘案す

る場合に︑AECの前途を楽観視することは︑依然として困難である︒

なんとなればアフリカ各地の小地域的な経済統合は︑その現状をみても︑統合の初次的な段階である自由貿易地域

の形成すら︑容易に達成し難い状況にあるのが通例であり︑しかもそれぞれの統合のスピードも︑千差万別である︒

現状ではむしろ余りにも多くの小地域的な経済協力︑あるいは統合の機構が乱立し︑その目的と機能も相互に重複し︑

競合し合っているのが難点とされる︒AECが政治統合から︑経済統合に力点を変え︑大陸ベースの統合から︑小地

域的な統合の漸進的な積上げ方式を︑選択するに至ったことは︑高く評価されるが︑アブージャ条約の第二段階に予

定されている各種の経済協力︑統合機構相互の調整を︑いかにして実現するかは︑OAUの当面する最大の課題とも

考えられるのである︒

ロ垂直的経済協力方式の拡散

パン・アフリカニズム運動の推進する経済協力と統合が︑南と南の協力関係を示すものであるとするならば︑EU

とサワラ以南のアフリカ諸国との間において展開されている経済協力は︑南北間の協力関係として位置づけられる︒

開発途上地域における水平的な統合の動きと︑垂直的な経済協力関係の交錯は︑ラテン・アメリカや︑程度の差こそ

あれ︑アジア・太平洋地域にもみられる現象であるが︑EUとアフリカとの垂直的な経済協力関係は︑他地域のそれ

に先行し︑その滲透力と影響力の強さにおいて︑他の地域を凌駕している︒もともとアフリカは︑他の途上地域と比

較しても︑より強固にヨーロッパの帝国主義的︑植民地主義的枠組みの中に組み込まれてきたが︑そこからの解放と

自立を求めて︑雨後の筍のように籏生した独立後の水平的経済協力と統合といえども︑旧植民地時代の遺制や行動様

(13)

ア フ リカ の地域 的経 済 協 力 と統 合 13

式から︑離脱することさえ︑ままならないのが実情である︒皮肉なことは︑アフリカが経済的に自立するために︑ヨー

ロッパの支援を仰がざるをえなかったことであり︑とりわけフラン圏に典型的にみられるように︑メトロポリタン志

向型の植民地主義的政治︑経済構造は︑多かれ少かれ︑今日に至るまで温存され続けている︒上述のパン・アフリカ

ニズム運動が︑そのような帝国主義的︑植民地主義的支配・被支配関係に対する挑戦であるとするならば︑EUとア

フリカとの経済協力関係は︑基本的に旧植民地における特殊権益の保持を狙いとする帝国セ義的な動因によって始動

されたものであった︒

ωヤウンデ協定(団oロ昌象Oo口く雪鉱o昌)

EUとアフリカとの経済協力関係を︑条約によって最初に規定したのは︑ローマ条約であり︑その第四部において

は︑ベルギi︑フランス︑イタリア︑オランダと特殊関係にある地域との連合協定が規定された︒そこで掲げられた

第一の目的は︑EECと連合が相互に関税︑非関税障壁を撤廃し︑自由貿易地域を形成することであり︑第二は︑欧

州開発基金(国霞︒oΦきUΦ<Φ一8ヨΦ三句§O)を創設して︑EECが連合に対して︑資金援助を行うことであった︒

周知のようにそのような規定が設けられた理由は︑第一にフランスがフラン圏に対する他のEEC加盟国のアクセ

スを認める代償として︑アフリカの植民地に対する僚国の金融支援を求めたためであった︒それはフランスの援助負

担を他に転嫁することによって︑フランスの国際競争力の回復を企図したものであったが︑いま一つの理由は︑二つ

の大陸の関係を強化することによって︑フランスの国際的な地位を高めようとする政治的な動機に基因するもので

あった︒連合関係に関する規定は︑ローマ条約の素案となったスパーク委員会(Q︒冨罫Ooヨヨ葺ΦΦ)の報告書にはみら

れなかったが︑一九五六年の五月︑フランスはベニスにおける六か国外相会議の席上︑突如としてこれを提案した︒

もともとフラン圏との経済的交流の少いドイツとオランダは︑フランスの植民地政策にまき込まれることを嫌って︑

(14)

この提案に反対したが︑最終的に両国がフランスに同調せざるをえなかったのは︑一九五四年に挫折したEDC(欧州

(24)防衛共同体︑国ξ︒冨き∪①h880︒∋ヨ巷一な)計画の二の舞いになることを恐れたためであった︒

そのようにしてローマ条約は︑発効こそしたものの︑その後間もなく独立したアフリカの新興国は︑五年後に予定

されていた新協定の交渉に当って︑EECと平等の立場を要求した︒ドイツとオランダは︑連合協定がそれら諸国の

独立に至るまでの過渡的な措置であり︑新しい協定はEECと非加盟国との連合関係を規定したローマ条約の第二三

八条に拠るべきであると主張した︒それに対してフランスは︑ローマ条約の=二一条に基いて︑これまでの連合関係

を継続すべきであり︑アフリカの連合諸国は︑引続きEECの援助をうける権利があると主張した︒ドイッとオラン

ダは︑最終的にフランスの主張を容れ︑EECはアフリカ.マダガスカル一七か国(のちのAASM︑﹀︒︒︑︒︒一四叶︒α>h.一︒⇔ロ

ω婁︒の自︒巳ζ巴鋤伊q印︒︒$同)との交渉を開始することになった︒その結果一九六三年の七月には︑第一次ヤウンデ協定が調

印されたが︑イギリスのEEC加盟交渉が挫折した後︑オランダとフランスの関係が冷却し︑条約の批准が遅れたた

あ︑それが発効したのは︑一九六四年六月一日のことであった(第]次ヤウンデ協定の有効期間は︑一九六九年五月末日ま

での五年間と定あられた)︒第一次ヤウンデ協定は︑工業製品と一部の熱帯産品に対して︑特恵関税の適用をみとあたも

のの︑自由貿易を原則とした︒またドイツとオランダの主張を容れ︑EECにおける共通農業政策の導入等の新しい

事態に対応して︑コーヒー︑ココア︑茶︑および熱帯産の毛皮に対する特恵関税の引下げと︑共通関税の片務的な撤

廃が実施された︒同時にEECの産品と競合する農産物に対しては︑特別協定によって規制を行う反面︑EDFの援

(25)助を増加した︒そのほか第一次ヤウンデ協定は︑連合理事会︑連合議員協議会︑仲裁裁判所の設置について規定した︒

第二次ヤウンデ協定は︑一九六九年の七月に調印され︑一九七一年の一月に発効したが︑第二次協定は技術的な規

則の改訂と︑特恵関税の引下げに対する補償として︑EDFの資金を拡充した点を除くと︑第一次協定と基本的に同

(15)

ア フ リカ の地 域 的 経 済協 力 と統 合  

15 一であった︒ただし第一次協定が︑農業などの第一次産業部門を重視したのに対して︑第二次協定は農業のほかに・

工業化と輸出の促進︑観光の開発︑技術援助︑利子補給等についても︑新しい規定を設けるに至っ(煙︒

㈹ラゴス︑アルーシャ協定(ピO瞬o望︾﹁島7㊤﹀ひq奉㊥ヨo胃齢)

第一次ヤウンデ協定の交渉は︑イギリスのEEC加盟交渉と並行的に実施されたが︑時のイギリス首相ピースは・

アフリカ︑東南アジア︑カリブ︑太平洋地域のコモンウエルスとEECとの連合関係を提唱した︒イギリスのEEC

加盟は︑第一次ヤウンデ協定が調印される直前の一九六三年 月に挫折したが︑コモンウエルスとの連合交渉は・そ

のまま持続された︒その結果ナイジェリアと︑一九六七年の六月に独立した東アフリカのウガンダとタンザニアとケ

ニアは︑ローマ条約第二一二八条に基く特別連合協定の適用を選択した︒ナイジェリアは一九六六年の七月・第一次連

合協定(冨αqoω︾α萸婦ΦΦヨ①導)に調印し︑他の三か国も︑一九六八年の七月︑アルーシャ協定に調印した︒ラゴス・アルー

シャ協定とヤウンデ協定の相違点は︑第一が技術︑金融援助に関する規定が含まれなかったことにあるとするならば・

第二は連合諸国の重要輸出品に対して︑量的制限が設けられたことであり︑第三は連合議員協議会が設置されなかっ

(27)たことである︒

㈹ロメ協定(ピO旨ひOO口く魯識O目)

イギリスのEC加盟に伴って︑それまで経済的に人きくイギリスに依存してきたコモンウエルスの処遇が問題とな

り︑とりわけ英連邦特恵の取扱いが論議を呼んだが︑ECは連合関係を︑アフリカの旧英領植民地だけでなく︑カリ

ブ︑太平洋のコモンウエルスに拡大することによって︑この問題の解決をはかることにした︒当初はそれによって・

貿易面における競合が激化し︑金融.技術援助の減少することを懸念するだけでなく︑地盤の沈下(一例としてナイ

ジェリアの人口は︑AASMの総人口に匹敵した)を危惧していたAASMも︑一九七二年の四月︑コモンウエルスととも

(16)

に・新しい協定の交渉に参加することを決定した︒一九七三年の五月に開かれたアフリカ諸国の貿易相会議は︑EC

とブロック対ブロックの交渉を行う方針を決定するとともに︑八つの基本原則(①関税譲許の片務性︑②営業所設立権の

無差別原則に基く第三国への拡大︑③原産地ルールの改正︑④決済・資本移動関係規定の改正︑⑤EECの金融.技術援助と︑EE

Cとの特殊関係の分離︑⑥EECの市場に対するアフリカ産品の自由なアクセス︑⑦EEC市場における安定的で︑公正かつ利潤を

伴う価格の保証・⑧アフリカ域内の協力が害われないこと)を打ち出した︒この決定は︑OAUの首脳会議において承認さ

れ・カリブ・太平洋諸国も︑これを受入れることになった︒この交渉に参加する国は数も多く︑長期に渉る複雑な交

渉に当って︑共通の並場を確立することは︑容易なことではなかったが︑アフリカ︑カリブ︑太平洋の三つのグルー

ACP(と一8oσ$P5)

ロメ協定は︑長い交渉の末︑一九七五年の二月に調印されたが︑そこにおいて︑ACP四四か国の交渉力が強化され

た背景としては︑ナイジェリアの指導力︑ACP諸国の結束︑OPECをはじめとする原料生産国の政治的覚醒︑英

仏関係の塾・国際砂幣場の混乱︑ウィルソン内閣によるEc加盟条件再交渉の開始︑逆特恵に反対するアメリカ

政府の圧力︑UNCTADの推す一般特恵関税制度の導入などがあげられる︒

ロメ協定は︑援助と特恵と新しい商品安定化措置を︑パッケ;ジとして︑ACP諸国に提供しようとするものであ(卿・貿易面においてはACP産品のEEC市場へのアクセス︑原産地ルール︑非関税障壁などの問題がとり上げられ

た︒とくに問題となったのは︑第一が逆特恵の廃止であり︑多くのAASMは︑これを温存しようとしたが︑コモン

ウエルスは貿易転換効果が齋されるとして︑これに反対した︒アメリカも貿易改正法(一門H印αΦカΦhO﹁ヨ>O梓)第六〇四b

条により︑EECに対する報復を灰かした︒第二の問題は︑砂糖条項であり︑ACPは︑EECが生産者価格にリン

クされた最低価格によって︑年間一・四百万トンの買入れを保証しない限り︑ロメ協定の調印を拒否すると主張した︒

(17)

ア フ リカ の地域 的経 済協 力 と統 合  

17 その他ロメ協定においては︑商品価格の安定をはかるために︑ωβσΦ×(ω欝σ三N鋤酔δ富︒h①×o︒葺窪﹃三口σqρIMFの補償融資制度"o︒ヨ".コ.鎚梓︒触k霊訂麟コ︒一訂σq認9ξにならったもの)制度が導入され︑工業開発についてもEECは・原料加工業

の振興などを通じて︑ACPの工業化を支援することを約束した︒しかしながらEECが︑ビジネスマンの受入と・

労働条件の保証を求めたのに対して︑ACPは主権を侵害するものとして︑これに反対し・協定はEEC企業との協

定を謳.つに止.た︒金融.技術援助について︑ACPは援助の量的な拡充を要求するとともに・援助分野の選定とそ

れの管理への参加を求めたが︑EECの提示したEDFの資金規模は︑要求額の半分程度に過ぎなかつ(炮︒

第 次ロメ協定は︑﹁南北関係における新しい時代のモデル﹂として賞賛されたが︑それはヨーロッパの宗主国と旧

植民地との特殊関係を︑貿易と援助の両面から組織的に維持し︑再構築するための大がかりな戦略の展開にほかなら

なかった︒ロメ協定は一九八一年一月︑一九八六年一月︑一九九一年の一月に︑それぞれ更新されたが・基本的な目的と方法論は︑そのまま題さ薙.その間における国際政治・経嬉勢の転換は・きわめて劇的でありご九八六

年にはウルグァイ.ラウンドが始動され(一九九四年に終結)︑一九八九年にはソ連が崩壊した︒さらに一九九二年には

ECの域内市場が形成され︑それの要塞化が一部で危惧されることになるが︑第四次ロメ協定の交渉が開始されたの

は︑一九八八年の十月のことであった︒しかしながら第四次ロメ協定は︑新生面を切り拓くよりも︑既往の経験を集

大成したものにしか過ぎなかつ(姻.援助面においてEcは・輸出毒型の馨調叢策を採用する連合薗に対して・

一五億ECUの援助を約束したが︑構造調整援助の効率性は未知数と目されている︒ECのプロジェクト援助は・そ

れの四分の一が非効率といわれており︑︒︒§・×も慢性的な資金不足から︑支出の遅延が目立っている・鉱産物(金・

ウ・フニウムを除く)の価格支持を目的とするω器ヨ一口も︑その効率性はQ︒3σ露を下廻るといわれている︒その他 九

九四年には︑ルワンダに対して︑ECHO(国O団¢ヨき剛§冨口≧oO{h幕)の緊急援助が実施さな絶︒

(18)

貿易面においては︑一部ACP産農産物のアクセスに改善がみられたものの︑砂糖︑バナナのクォータは拡大され

なかった・EC向の工業製品輸出は︑もともと無税であるが︑ACP産の繊維については︑自主規制が適用される︒

第四次ロメ協定の交渉に当って︑一大争点となったのは︑原産地ルールであり︑ECはACPの付加価値を四五%に

引下げることに同意したが︑それはECが一九九〇年の二月に合意したウルグァイ.ラウンドにおける原産地ルール

の例外をなすものとされて恥・その他第四次・メ協定は︑小地域的な経済統合の促進︑決筒盟︑貿易金融をはじ

PTA(東貿Φ一巨αΦΦh︒.ωけ①αΦhN一︒

︒︒§Φ︒︒)のような地域的協力機構にとって︑意味の深い規定といえる︒

しかしながらロメ協定は︑やがてその存在意義を問われることになったのであり︑それの契機となったのは︑ベル

リンの壁の崩壊に伴って︑アフリカの地政学的なウエイトが低下し︑アフリカの局地化(ζ鋤.αq一コ餌=︑餌鉱︒口)が不可避的

とみられるに至ったためである︒アフリカに対する資金の流入についても︑東独とルーマニアからの援助が停止され

ただけでなく︑EUの援助も︑財政改革の必要性や︑東欧重視政策との関連で︑大幅な伸びを期待することが困難と

みられている︒加えてアフリカは︑石油︑石油製品︑木材︑ニッケル︑銅︑石炭︑繊維などの貿易面だけでなく︑移

民や労働力の輸出面においても︑東欧と競合することが懸念されるに至っている︒一方EU側の姿勢にも変化がみら

れ︑アフリカに対する援助については︑フランスまでが積極性を欠きつつあるとも伝えられる(一九八〇年代には︑フ一フ

ンス企業のアフリカからの撤退が続出した)︒欧州委員会の一部には︑今世紀巾にロメ協定が終焉すると予言する向きさえ

もみられるとのことでみ肥が︑そのようないみで︑一九九八年に交渉の開始される第五次ロメ協定の帰趨は︑注目に

値する︒

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著者 研究支援部研究情報システム課.

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