唐代の史官柳芳について : 史書『唐暦』と関連し て
その他のタイトル The Tang Dynasty Historiographer Liu Fang : His Relationship to the History Book Tang Li
著者 姚 晶晶
雑誌名 史泉
巻 123
ページ 1‑16
発行年 2016‑01‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00023619
一︑ は じ め に 中国 の王 朝文 明の 一つ の大 きな 特徴 とし て︑ 歴史 書の 高度 な発 達が あ る︒ 中国 にお ける 史書 の伝 統に は数 千年 の流 れが あっ た︒ 史書 は中 国 にお ける 先進 的な 文化 発展 の標 識で ある ばか りで なく
︑各 王朝 にお け る史 官の 公的
・私 的な 作品 をふ くめ
︑あ る時 代の 全体 像を 記述 した 歴 史の 記 憶で も あ る︒ 池 田温 氏 は 中国 に お ける 史 書 の 伝統 を 述 べて
︑
︵!
︶
唐 代は 中国 史学 上に おけ る栄 光の 時代 であ った と論 じて いる
︒ いず れに して も︑ 時代 によ って 古代 中国 の修 史機 構に は多 少の 変遷 が あっ た︒ 特に
︑唐 の太 宗の 貞観 年間
︵六 二七
〜六 四九
︶に 史館 が整 備 され るに した がっ て︑ 唐代 の修 史は 前代 以来 進展 して きた 史書 編纂 の 流れ を集 大成 した
︒同 時に 史官 の個 人的 な著 作も 非常 に輝 かし い色 彩 を放 って きた
︒こ こで は︑ 唐代 前半 期の 修史 事業 や史 館・ 史官 につ い て概 観し
︑史 官で ある 柳芳 の生 涯を 追跡 した い︒ か つ て 谷 口 明 夫 氏 は﹁ 柳 芳 と 唐 暦
﹂と い う 論 文 に︑ 柳 芳 の 伝 記 や
︵"
︶
﹃ 唐 暦﹄ の内 容 な ど を詳 論 し た︒ 谷口 氏 は 柳芳 の 先 祖 や交 遊 関 係な ど
を 調べ
︑多 くの 新知 見を 見出 した
︒た だし
︑実 証的 な根 拠と なる 史料 は 多 くな か っ た た め
︑谷 口 説 に は 一 部 分 補 充 す べ き 点 が あ る と 考 え る
︒本 稿で は︑ 史官 柳芳 の家 門と 経歴 を考 証し た上 で︑ 文献 史料 と金 石 文に よっ て柳 芳と
﹃唐 暦﹄ にか かわ る事 項を 探り
︑さ らに 新史 料を 加 えて 先学 の所 見を 補い たい
︒ 二︑ 柳芳 の家 柄と 登第 出世 柳芳 とい えば
︑一 般的 に正 史の 伝記 にお いて はあ まり 目立 つ人 物で は なく
︑極 めて 普通 の存 在で ある
︒し かし
︑唐 史を 専門 とす る研 究者 に とっ て︑ 柳芳 は中 唐史 官と して 常に 念頭 に置 くべ き重 要な 人物 と言 っ ても 過言 では ない
︒実 際に 柳芳 は唐 代中 期の 史学 家で あり
︑譜 牒家 で もあ った
︒諸 種の 史籍
︑例 えば 制度 典章 や伝 記・ 目録
・小 説や 墓誌 銘 など によ って
︑柳 芳の 前半 生を 大き く分 けて みる と三 つの 論点 があ る と考 える
︒こ こで は︑ 谷口 氏の 見解 を参 考に しな がら
︑柳 芳の 祖先
・ 家柄
︑交 友関 係︑ 及第
・出 世の 三点 につ いて 述べ てい こう
︒
唐 代 の 史 官 柳 芳 に つ い て
│
│ 史 書﹃ 唐 暦
﹄と 関 連 して
│
│
姚
晶 晶
― 1 ―
︵ 一︶ 柳芳 の家 門 周知 のと おり
︑隋 代は 貴族 制の 伝統 が相 当残 存し てい た時 代で ある か ら︑ 一般 平民 が官 人に 登用 され るこ とは 寧ろ 稀有 であ り︑ 歴史 に登 場 す る人 物 は 多 かれ 少 な か れ 門 閥 的 背 景 に つ ら な る 方 が 普 通 で あ っ た
︒そ うす ると
︑柳 芳は 確か に科 挙制 度を 通し て政 治舞 台に 登場 した が
︑彼 もし かる べき 家門 であ った 可能 性が ある と思 って いる
︒と りあ え ず︑ 柳 姓の 誕 生 か ら一 族 の 流れ を 紹 介す る
︒﹃ 新 唐 書﹄ 巻七 三 上 の 表 第十 三上 の宰 相世 系三 上に よっ て︑ 柳芳 の先 祖か ら続 く系 譜が 明ら か とな った
︒そ の関 連史 料は 以下 のよ うに なる
︒ 柳 氏 出レ
自二
姫姓
一
︒魯 孝 公 子夷 伯 展 孫無 駭 生レ
禽
︑字 季
︑為
二
魯 士 師一
︑ 諡 曰レ
恵︑ 食 采レ
於二
柳 下一
︑遂 姓二
柳 氏一
︒ 楚 滅レ
魯︑ 仕レ
楚
︒ 秦 并二
天 下一
︑柳 氏 遷二
於 河 東一
︒︵ 中 略︶ 五 子: 鷟
︑慶
︑虬
︑檜
︑ 姨
︒
︵!
︶
右 の 状況 を 念 頭 にお き な がら
︑﹃ 史 記﹄ 巻 三三
﹁魯 周 公 世 家
﹂の 記 事 に よ り︑
﹁ 柳﹂ と い う 姓 の 氏 族 の 誕 生 と そ れ 以 降 の 流 れ が 分 か っ た
︵ 図1
︶︒ 柳 氏の 源流 は周
︵西 周︶ 王族 の姫 氏で あっ た︒ その 後︑ 春秋 戦 国時 代を 経て 柳姓 が誕 生し た︒ 柳姓 一族 は秦 の頃 に河 東︵ 中国 山西 省 西部
︑ま たは 中国 山西 省永 済市 の古 称と も言 う︶ に移 住し た︒ 換言 すれ ば︑ 柳姓 は古 代の 周の 王族 国姓 であ る﹁ 姫姓
﹂に 属し
︑春 秋 戦国 時代 に生 み出 され た︒ 前掲 宰相 世系 の記 事に よっ て︑ 柳姓 が誕 生 した とき の代 表的 人物 であ る柳 下恵
︵図 1︶ の後 裔即 ち柳 安の 一族 は 秦 代の 頃 に 河 東に 移 住 した
︒一 方
︑﹃ 新 唐書
﹄の 宰 相 世 系三 上 の 表 か ら見 ると
︑柳 芳の 遠い 先祖 は北 周︵ 五五 六年
〜五 八一 年︶ の柳 虬で あ る
︒そ れ は 前 掲 記 事﹁ 五 子: 鷟
︑慶
︑虬
︑檜
︑姨
﹂中 の 一 人 で あ
★ 特 に 説 明 が な い 場 合 は 上 下 の 関 係 が 兄 弟 で あ り
︑ 左 右 の 関 係 が 父 子 で あ る
︒
★ こ こ の
①
︑
②
︑
③ な ど の 数 字 は 即 位 の 順 序 を 示 す
︒
★ 孫 :
﹁ 魯 孝 公 子 夷 伯 展 孫 無 駭 生
レ禽
﹂ と い え ば
︑ ﹃ 元 和 姓 纂
﹄ 巻 七 の 柳 や
﹃ 詁 訓 柳 先 生 文 集
﹄ 巻 一 二 や
﹃ 河 東 先 生 集
﹄ 巻 一 二 の 表 注 と
﹃ 通 志
﹄ 巻 二 七
・ 氏 族 略 の 第 三 な ど に も み ら れ た
︒ 第 一 種 は 魯 孝 公 の 子 が 夷 伯 展 で あ り
︑ 魯 孝 公 の 孫 が 無 駭 で あ る
︒ 第 二 種 は 魯 孝 公 の 子 が 夷 伯 展 で あ り
︑ ︵ 夷 伯
︶ 展 の 孫 が 無 駭 で あ る
︒ こ の 二 種 の 説 明 に よ っ て は
︑ 無 駭 の 子 が
︵ 展
︶ 禽 で あ る
︒ ま た
︑ 千 唐 誌 齊 蔵 唐 李 師 稷 撰
﹃ 考 城 令 柳 均 誌
﹄ に よ る と
︑ ﹁ 展 孫 無 駭
︑ 駭 孫 禽
﹂ と あ り
︑ 即 ち 展 の 孫 が 無 駭
︑ ︵ 無
︶ 駭 の 孫 が 禽 で あ る
︒ こ こ で は
︑ 三 種 の 言 い 方 を 述 べ た が
︑ 資 料 で よ く 考 証 で き な か っ た
︒
図 1
系 図 一 柳 姓 の 誕 生 図
― 2 ―
る
︒柳 虬の 子孫 で太 子文 学の 柳彦 昭は 柳芳 の父 であ る︒ 柳芳 には 二人 の 息子 柳登 と柳 冕が いて
︑柳 芳の 孫に 柳璟 がい る︒
︵!
︶
とこ ろ が︑
﹃ 新唐 書
﹄巻 一 九 九の 柳 冲 伝の 所 引 部分 に よ る と
︑柳 芳 が 前代 門閥 を通 論し たと きに 関中 大姓 の代 表と して 韋・ 裴・ 柳・ 薛・ 楊
・杜 六姓 をあ げ︑ これ らは 唐代 にお いて こと ごと く天 下に 聞こ える 名 門で あっ たと いう
︒い わゆ る隋 唐時 代に おい て柳 氏一 族は 関中 地方 の 豪族 であ った
︒こ の部 分に つい て︑ 谷口 氏は 柳芳 の祖 先が 北周 柳虬 で あ ると い い︑
﹃ 旧 唐書
﹄巻 九 三 の張 仁 愿 伝に よ っ て 柳芳 の 父 であ る 柳 彦昭 のこ とを 考証 し︑ 清代 に勅 撰さ れた
﹃全 唐文
﹄巻 五八 八の 柳宗 元
﹁先 侍御 史府 君神 碑 先君 石表 陰先 友記
﹂に より
︑柳 芳と 柳宗 元が 同 族 であ っ た こ とを 証 明 した が
︑﹁ 柳﹂ と いう 姓 の 流 れに つ い ては 詳 論 しな かっ た︒ また
︑﹃ 旧 唐 書﹄ には 柳 芳 に 関す る 単 独の 伝 記 がな く
︑息 子 で あ る 柳 登伝 に柳 芳の 記事 が付 され て﹁ 父︵ 柳︶ 芳︑ 粛宗 朝史 官﹂ とい うこ と を 強調 し た︒ 逆 に︑
﹃ 新唐 書
﹄巻 一 三二 に は 柳芳 伝 が あ り
︑本 人 の 出 世 や 官 歴 な ど の 記 録 が 散 見 す る︒ 趙 超 氏 編﹃ 新 唐 書 宰 相 世 系 表 集
︵"
校︶
﹄の 関連 する 考証 を参 照し つつ
︑史 官柳 芳の 家柄 は次 第に 明確 にな っ た︵ 図2
︶︒ 系図 二を 参照 する と︑ 柳芳 の先 祖で ある 北周 柳虬 のよ うな 柳氏 は有 力 氏 族 で あ っ た こ と が 分 か る︒ と こ ろ が 父 柳 彦 昭 の 官 職 は
﹁太 子 文 学
﹂︵ 正 六位 下
︶で あ っ た︒ それ は 皇 太子 の 侍 従に 相 当 す る官 員 で あ
︵#
︶
っ たが
︑実 際は 東宮 に文 章や 経籍 を教 える 下級 職員 であ った が︑ 系図 一
・二 によ ると
︑柳 芳は たし かに 有力 氏族 の後 裔で はあ った が︑ 残念 な がら
︑彼 の 父柳 彦 昭 の 代に お い ては 一 族 の力 が す で に衰 え て いた
︒
柳 芳 は当 時 に ご く あ り ふ れ た 下 級 官 員 家 庭 の 出 身 で あ る
︒こ う な る と
︑唐 代の 政治 制度 によ って
︑柳 芳は 親の 七光 を借 りて
︑門 蔭で 出世 を する わけ には いか ない
︒こ の場 合︑ 柳芳 が出 世で きる 唯一 の道 は科 挙 制で あっ たが
︑彼 の科 挙経 歴は 挫折 の連 続で あっ た︒ ただ し︑ それ ゆ えに 柳芳 は科 挙試 験を 通し てさ まざ まな 友人 と出 会っ たも のと 思わ れ る︒ 続け て柳 芳の 交友 関係 につ いて 考察 して みた い︒
︵ 二︶ 柳芳 の交 友関 係 正史 両唐 書に
︑柳 芳の 生没 年代 は記 され てい ない が︑ 両書 中に は柳 芳 の 交友 関 係 に かか わ る 記録 が 散 見す る
︒﹃ 旧 唐 書
﹄と
﹃新 唐 書
﹄の 中 から 柳芳 本人 に言 及し た記 事や 同時 代に 柳芳 と交 友し た人 物の 記事 を 抜き 出し
︑簡 単に 検討 して みた い︒
★ 仲 盤 :
﹃ 周 書
﹄ 本 伝 に は 字 仲 蟠 で あ る
︒
★ 孫 : 柳 璟 は
︑ ﹃ 旧 唐 書
﹄ 柳 登 伝 に 柳 冕 の 息 子 と あ る が
︑ ﹃ 新 唐 書
﹄ 柳 芳 伝 で は 柳 登 の 息 子 で あ る
︒
図 2
系 図 二 柳 芳 の 家 譜 図
― 3 ―
①
﹃ 旧 唐書
﹄巻 一 八 七 の趙 曄 伝 には
﹁少 時 與二
殷 寅
︑顔 真 卿
︑柳 芳
︑ 陸 據︑ 蕭穎 士︑ 李華
︑邵 軫一
︑同 志友 善︑ 故天 宝中 語曰
﹃殷
︑顔
︑ 柳
︑陸
・蕭
︑李
︑邵
︑趙
﹄︑ 以三
其 重二
行義
一
︑敦 交レ
道也
︒﹂ と いう 記 録が ある
︒ また
︑﹃ 新 唐 書﹄ 巻一 五 一 の 趙宗 儒
︵趙 曄︶ 伝 に ほ ぼ 同 じ 記 事 が あ り
︑﹁ 少 與二
殷 寅︑ 顏 真 卿︑ 柳 芳
︑陸 據︑ 蕭 穎 士
︑李 華
︑邵 軫一
善
︑時 為レ
語 曰
﹃殷
︑顔
︑柳
︑陸
・蕭
︑李
︑邵
︑趙
﹄︑ 謂三
能 全二
其交
一
也︒
﹂ とあ る
︒こ れ ら によ っ て︑ 柳 芳が 親 し く し て い た 名 士は 殷寅
︑顔 真卿
︑陸 據︑ 蕭穎 士︑ 李華
︑邵 軫︑ 趙曄 らで あっ た こ と が 分 か る
︒天 宝 年 中 に﹃ 殷・ 顔・ 柳・ 陸︑ 蕭・ 李・ 邵・ 趙
﹄ら の交 友関 係は 世に 有名 であ った
︒
②
﹃ 新唐 書﹄ 巻一 四九 の王 紹伝 に﹁ 王紹
︑本 名純
︑避
二
憲宗 諱一
改焉
︒ 自二
太 原一
徙二
京 兆 之 萬 年一
︒ 父 端︑ 第二
進 士一
︑有
二
名 天 寶 間一
︑柳 芳
︑陸 據︑ 殷寅 友善
︑据
レ
嘗 言﹃ 端之 莊︑ 芳之 辨︑ 寅之 介︑ 可二
以 名一 レ
世︒
﹄﹂ と ある
︒簡 単 にい え ば︑ 王 紹の 父 で あ る王 端 は 進士 及 第 にな り︑ 天宝 年間 に名 が高 く︑ 柳芳
︑陸 據︑ 殷寅 と善 い友 だち に な っ た︒ 時 評 に よ る と︑
﹁︵ 王
︶端 の 荘 厳・
︵柳
︶芳 の 弁 才・
︵ 殷︶ 寅の 率直 は有 名で ある
﹂と 言わ れて いた
︒
③
﹃ 新 唐 書﹄ 巻 二
〇 二 の 蕭 穎 士 伝 に は
︑﹁
︵ 蕭 穎 士︶ 嘗 兄二
事 元 徳 秀一
︑ 而 友二
殷 寅︑ 顔 真 卿︑ 柳 芳
︑陸 拠
︑李 華︑ 邵 軫
︑趙 驊一
︑時 人 語 曰
﹃殷
・顔
・柳
・陸
︑李
・蕭
・邵
・趙
﹄︑ 以 能 全二
其 交一
﹂と あ る︒ ここ から も︑ 蕭穎 士と 顔真 卿や 柳芳 との 交友 関係 は親 密で あ った こと が確 認で きる
︒ これ 以 外 に︑
﹃全 唐 文
﹄巻 三 一 七・ 李 華 の﹁ 三 賢 論
﹂に は
﹁尚 書 顔
公
︵真 卿︶ 重二
名節
一
︑敦
二
故 旧一
︑ 与二
茂挺
一
︵蕭 穎士 の字
︶少 相知
︒顔 与二
陸 拠・ 柳 芳一
最 善
︒茂 挺 与二
趙 驊
・邵 軫・ 洎︵ 李︶ 華一
最 善︒ 天 下 謂二
之 顔蕭 之交
一
︑殷 寅源 衍睦
レ
於二
二交 之間
一
︒﹂ とあ る︒ これ に① と③ を 考え 合わ せる と︑ 唐の 天宝 年間
︵七 四二 年〜 七五 六年
︶に
﹁殷
・顔
・ 柳・ 陸︑ 李・ 蕭・ 邵・ 趙﹂ の八 人を 連称 する こと が流 行っ たの は確 か であ る︒ すな わち
︑顔 真卿 が殷 寅︑ 柳芳
︑陸 拠と 特に 親し く︑ 当時 の 人々 もそ の仲 の親 密な こと を認 めて いた とい われ る︒
︵!
︶
︵"
︶
さ ら に︑ 顔 真 卿 撰
﹃顔 勤 禮 碑
﹄と
﹃銭 唐 県 丞 殷 府 君 夫 人 顔 君 碑
﹄
︵﹃ 殷君 夫人 顔氏 碑﹄ とも 言い
︑以 下も そう 略称 する
︶と いう 二つ の墓 碑 銘 を加 え て 検 討す る
︒﹃ 顔 勤 禮 碑﹄ に﹁
︵ 前 略︶ 自二
黄 門一
︑御 正 至二
君 父叔 兄弟 臮 子 䫎揚 庭︑ 益期
︑昭 甫︑ 强學 十三 人一
︑四 世為
二
學士
︑侍 讀一
︑ 事 見二
柳 芳 続 卓絶
︑殷 寅 著 姓 略一
︒︵ 後 略
︶﹂ と あ る
︒こ の 碑 文 中 に 柳芳 の名 前が みえ るが
︑柳 芳が 顔真 卿の 一族 とど のよ うに 親し い関 係 にあ った のか はこ れだ けで はよ くわ から ない
︒谷 口明 夫氏 は﹁ 柳芳 が 特に 親し くし てい たの は顔 真卿 であ るが
︑二 人の 間の 交情 を示 す資
︵#
︶
料 は 残っ て い な い﹂ と述 べ た︒ し かし
︑﹃ 殷 君 夫人 顔 氏 碑
﹄か ら は 柳 芳 と 顔真 卿 の 親 しい 関 係 が浮 び 上 がっ て く る︒
﹃ 殷君 夫 人 顔氏 碑
﹄の 本 文に は次 のよ うな 記事 が示 され てい る︒ 君 号二
真 定一
︑琅 琊 臨 沂 人
︒︵ 中 略
︶君 有二
三 子一
︒ 長 曰二
武 康 丞
︵ 殷︶ 嘉 紹一
尤 工二
小 篆一
︑ 為二
寸 字 飛 白一
︑勁 利 絶 倫
︒︵ 殷 嘉
︶紹 子 婿 郎 中 柳 芳︑ 今 之 良 史︒
︵柳
︶芳 子 太 楽 令
︵柳
︶冕
︑幼 立二
盛 名一
︒︵ 後略
︶
﹃殷 君 夫 人 顔氏 碑
﹄は 顔 真卿 の 晩 年の 書 と し てよ く 知 られ る
︒碑 銘 の 標題 から みる と殷 氏と 顔氏 との 姻戚 関係 がわ かる
︒顔 真卿 が姑 のた
― 4 ―
め に 書 い た 碑 文 で あ る︒ ち な み に︑ 隋 唐 時 代 に は 顔 氏 と 殷 氏 が
﹁聯 姻
﹂︵ 婚 姻関 係 を 結 ぶ︶ とい う 深 い関 係 で 世に 知 ら れ た
︒他 方
︑こ の 碑 文は 柳芳 と顔 氏・ 殷氏 の関 係に も言 及し た︒ 前述 した 墓碑 銘の 内容 か らす ると
︑殷 夫人
︵顔 真卿 の姑 母︶ の長 男﹁ 殷嘉 紹﹂ の娘 婿は 史官 の 柳 芳で あ る︒ 柳 芳 の息 子 は 太楽 令 で ある
︵柳
︶冕 で あ る
︒そ こ で
︑ こ の墓 誌に 記載 され た柳 芳と 柳冕 は﹃ 新唐 書﹄ の﹁ 柳芳 伝﹂ 中の 柳氏 父 子で ある と知 られ る︒ この よう に︑ 金石 文と 文献 学の 史料 記載 が一 致 し︑ 顔真 卿と 柳芳 は本 当に 親戚 の関 係が あっ たこ とが 判明 した
︒顔 真 卿は 殷嘉 紹の 従兄 弟で あり
︑柳 芳は 殷嘉 紹の 娘婿 であ った
︒顔 真卿 と 柳芳 とは 姻戚 関係 にあ った ので ある
︵図 3︶
︒
図3 柳芳 と顔 真卿 の関 係図 に基 づい て︑ 天宝 年間 にお ける 柳芳 と顔 真 卿と の交 遊関 係は 明瞭 にな った
︒し かし
︑こ れは だい たい 彼の 出世 以 後 のこ と で あ っ た た め
︑柳 芳 の 出 世 以 前 の 状 況 を 調 べ る 必 要 が あ る
︒柳 芳が 右の 分析 のよ うに 有名 な交 遊グ ルー プの 一員 とな った こと は
︑彼 の出 世と 一定 の関 係が ある もの と思 う︒
︵ 三︶ 柳芳 の出 世
﹃新 唐 書﹄ 卷 一 三二 の 柳 芳伝 に は﹁ 柳 芳字 仲 敷︑ 蒲 州 河 東 人
︒開 元 末
︑擢
二
進士 第一
︑ 由二
永寧 尉 直 史館
一
︒﹂ と 記さ れ て い る
︒柳 芳 の 経 歴 は こ こに 要 約 さ れて い る が︑ さら に 踏 み込 ん で 考 える と
︑︵ 1
︶柳 芳 の 出身 は﹁ 蒲州 河東
﹂と ある が︑ 前述 した 関中 大姓 の柳 氏と は異 なる の か︒
︵ 2︶ 進士 及 第 の 年代 が
﹁開 元 末﹂ と記 さ れ て い る が
︑具 体 的 に は 開元 何 年 頃 のこ と な のか
︒︵ 3
︶柳 芳 は出 世 後 に 天宝 年 間 の著 名 人 と 交遊 し た が︑
﹁ 由二
永 寧 尉直 史 館一
﹂ とい う 記 載 から み る と
︑そ の 時 に彼 の官 歴は どの よう なも ので あっ たか
︒以 上の 問題 のう ち︑ 特に 前 二者 は両 唐書 に明 確に は記 載さ れな かっ た︒ 唐史 及び 柳芳 に関 わる
︵!
︶
研 究者 の著 述は これ らの 問題 につ いて 検討 して いる が︑ 以下
︑論 拠を 再 検討 しな がら 私見 を述 べて みる
︒ まず
︑柳 芳の 出身 地が
﹁蒲 州﹂ であ って
︑そ れは 現在 中国 山西 省の
︵"
︶
西 南に 位置 する 永済 県治 内で ある
︒ま た︑ 本伝 に柳 芳は
﹁河 東人
﹂と
︵#
︶
あ る︒
﹁ 河東
﹂は 地 名 と して 戦 国 時代 に す でに 存 在 し︑ 秦 漢の 時 代 に
﹁ 河 東郡
﹂と な り
︑隋 の 時に 廃 さ れ︑ 唐代 の 貞 観 初 期 に
﹁河 東 道
﹂が 置 かれ た︒ 河東 は本 々中 国の 歴史 地名 であ り︑ 一般 的に 黄河 の東 側に あ ると 認め られ
︑現 在の 山西 省西 部に 相当 する
︒ま た︑ 唐代 に河 東郡
図 3
柳 芳 と 顔 真 卿 の 関 係 図
― 5 ―
を 蒲州 と改 めた こと があ る︒ それ ゆえ に︑ 蒲州 も中 国山 西省 永済 市の 古 称で ある とい われ る︒ た だ し︑ 前 掲﹃ 新 唐 書﹄ 柳 沖 伝 の 関 連 記 録 に よ っ て︑ 柳 芳 本 人 の
﹁ 氏 族論
﹂を 加 え る と︑ 柳姓 は 関 中六 姓 に 属し た こ と にな る
︒こ の 関 中 は古 代中 国に おけ る函 谷関 の西 側の 地域 を指 した とい われ る︒ 関中 地 域は 現在 の中 国陝 西省 中部 の西 安市 を中 心と する 渭河 平原 一帯 に該 当 した と思 われ る︒ すな わち
︑関 中は 函谷 関な どの 四つ の関 の中 にあ っ たと ころ から 名付 けさ れた
︒そ の中 に唐 の都 の長 安︵ 中国 陝西 省西 安 市︶ が 建設 さ れ た ので
︑﹁ 蒲 州 河東
﹂は 都 と 近い た め 当 然に 関 中 地 域 の範 囲内 に入 る︒ そう する と︑ 柳芳 が属 した 河東 柳姓 は韋
・裴
・柳
・ 薛・ 楊・ 杜六 姓の 関中 郡姓 の一 つと みて もよ いだ ろう
︒ 次の 二問 につ いて
︑柳 芳の 及第 年代 と出 世後 の官 歴を 究明 する ため に
︑柳 芳と かか わる 小説 や伝 記な どの 書籍 を調 べて みる
︒北 宋の 類書
﹃ 太 平広 記
﹄巻 二 二 二所 引 の﹃ 定 命録
﹄逸 文 に は︑ 柳芳 の 出 世 前 後 に 関 する 出来 事が 詳細 に記 され てい る︒ 類書
﹃太 平広 記﹄ は宋 の太 宗の 勅 命に よっ て編 纂さ れ︑ 前漢 から 北宋 初期 まで の様 々な 小説 など を引 用 した
︒こ の類 書に は引 用書 の書 名が 明記 され たの で︑ 特に 散逸 した 書 物を 調べ る際 には 有用 であ る︒
﹃定 命録
﹄自 体は 散逸 した が︑
﹃ 太平 広 記﹄ に収 録さ れる 逸文 には 左の よう な記 事が 残っ てい た︒ 柳 芳嘗 応二
進士 挙一
︑ 累歳 不二
及第
一
︒詣
二
朝 士宴
一
︑坐 客八 九人 皆朱 䊐
︑亦 有二
畿 赤 官一
︒ 芳最 居二
坐 末一
︑又 衣 服 麤
︒故 客 咸 軽 焉
︒有
二
善 相者
一
︑ 衆情 属レ
之
︒独 謂レ
芳曰
﹁柳 子合 無二
兄 弟姉 妹一
︑無
二
荘田 資 産一
孑 然 一 身︑ 覊 旅辛 苦 甚 多︑ 後二 年 当二
及 第一
︑後 禄 位 不レ
歇
︒ 一 座之 客︑ 寿命 官禄
︑皆 不レ
如レ
君
︒﹂ 諸客 都不
レ
信レ
之︒ 後二 年果
二
及 第一
︑歴
二
校 書 郎︑ 畿 尉 丞一
︑遊 索二
於 梁・ 宋 間一
︒遇
二
太 常 博 士 有一 レ
闕
︑工 部 侍 郎 韋 述 知下
其 才 通 明二
譜 第一
︑又 識中
古 今 儀 注上
︑遂 舉二
之 宰輔
一
︒恩 敕除
二
太 常博 士一
︑ 時同 座客 亡者 已六 七人 矣︒ 柳芳 はか つて 唐代 科挙 の進 士科 の試 験に 参加 した が︑ 連続 して 不合 格 にな って しま った
︒士 族の 宴会 に参 加し たと きに
︑賓 客の 多く が朝 廷 の官 員や 畿内 の高 官で あっ たた め︑ 衣装 が粗 末で 末席 に座 った 柳芳 は
︑皆 に軽 んじ られ た︒ しか し︑ 相士 が柳 芳だ けに 話し かけ た︒ 柳氏
︵ 芳︶ は 独子 で
︑兄 弟 姉 妹が な く︑ 田 地や 家 産 もな か っ た
︒彼 は た だ 一 人 で科 挙 の 試 験 に 応 ず る た め に︑ 長 年 窮 屈 な 遊 学 生 活 を 送 っ て い た
︒後 二 年た て ば
︑柳 芳 は及 第 で き︑ 官禄 が 豊 かに な る と いわ れ た
︒ 一 座 の客 ら は ほ と ん ど 信 じ な か っ た が︑ 後 二 年 に 柳 芳 は 及 第 を 果 た し
︑そ の後
︑校 書郎 を歴 任し
︑畿 内の 尉・ 丞と いう 職を 得て
︑梁
︵長 安 一帯
︶と 宋︵ 洛陽 附近
︶の 辺の 地方 官に 就任 した
︒た また ま太 常博 士
︵従 七品 上︶ の闕 があ り︑ 工部 侍郎 の韋 述は 柳芳 の優 れた 才能 を知 っ て︑ 宰輔 に推 薦し た︒ 柳芳 は譜 学や 氏族 と古 今の 儀注 に精 通し てい た
︒彼 は太 常博 士に 勅任 され た︒ 当時 の知 識人 にと って
︑唐 代の 科挙 制度 は貴 族が 門蔭 以外 で出 世で き る唯 一の 道で あっ た︒ 科挙 試験 の難 しさ と及 第競 争の 厳し さが 想像 で きる
︒柳 芳 が連 続 し て 不合 格 に なっ た と して も お か しく な か った
︒ 柳 芳は 科挙 試験 に何 回か 参加 した もの と思 われ る︒ 前述 した
﹃太 平広 記
﹄所 引﹃ 定命 録﹄ にみ える 柳芳 の官 歴や 友人 など の記 事は 一定 程度 信 頼で きる と考 えら れる ので
︑柳 芳が
﹁後 二年
︵当
︶果
二
及 第一
﹂ とあ る こと に注 目す ると
︑私 見で は柳 芳が 最初 に受 験し た年 代は
﹁開 元二 十 一 年︵ 七三 三
︶﹂ 以 前 であ る 蓋 然性 が 大 きい と 推 定 する
︒な ぜ な ら
― 6 ―
︵!
︶
ば
︑清 代 の徐 松
﹃登 科 記 考﹄ 巻八 に よ ると
︑開 元 二 十 一 年
︵七 三 三
︶
︵"
︶
か ら同 二十 三年
︵七 三五
︶ま での 進士 及第 者は
︑次 の通 りで ある
︒ 開 元 二十 一 年 徐 徴
︑劉 長 卿
︑房 安 禹
︑元 徳 秀
︑王 端
︑閻 仲 璵
︑ 李史 魚な ど︒ 開 元二 十二 年 李琚
︑閻 防︑ 張茂 之︑ 顔真 卿︑ 杜鴻 漸︑ 郤昂
︑魏 䟁︑ 王澄
︑王 昌齢
︑楊 諫︑ 韓液 など 開 元 二 十 三 年 賈 至
︑李 頎
︑蕭 穎 士
︑李 華
︑趙 驊
︑柳 芳
︑李 萼
︑ 張階
︑張 南容
︑楊 拯︑ 張暈 など この よう に︑ この 三年 間の 進士 及第 者の 中に は︑ 王端
︑顔 真卿
︑蕭 穎 士︑ 李華
︑趙 驊︵ 曄︶ らの 名前 を見 つけ るこ とが でき る︒ 彼ら の多 く は柳 芳と とも に﹁ 殷︑ 顔︑ 柳︑ 陸︑ 李︑ 蕭︑ 邵︑ 趙﹂ と連 称さ れた 人 物で あっ た︒ した がっ て︑ 柳芳 は少 なく とも 開元 二十 一年 から 科挙 に 参加 した 可能 性が 高く
︑王 端︑ 顔真 卿︑ 蕭穎 士ら と一 緒に 受験 した こ と で
︑彼 ら と 親 密 な 関 係 に な っ た と 考 え る こ と が で き よ う
︒そ し て
︑柳 芳は 連年 不合 格の のち
︑開 元二 十三
︵七 三五
︶年 頃に 合格 した の では なか ろう か︒ 右の 説明 で大 過な いと する と︑ 柳芳 は科 挙制 度を 通じ て進 士及 第に な り︑ 唐 玄宗 の 後 半 期か ら 政 治の 舞 台 に登 場 し た こと に な る︒ また
︑
﹃ 千 唐 誌 斎 蔵 誌
﹄に
﹁唐 故 通 議 大 夫 守 太 子 詹 事 上 柱 国 源 府 君
︵光 乗
︶ 墓 誌 銘並 序
﹂︵
﹃源 光 乗墓 誌
﹄と 略 称 する
︶は
﹁前 右 武 衛胄 曹 参 軍 柳 芳
︵#
撰︶
﹂と あ るこ と が 見 える
︒そ れ に︑
﹃ 源光 乗 墓 誌﹄ は 天 宝 六 載
︵七 四 七
︶二 月癸 酉︵ 二十 七日
︶に 柳芳 が撰 作し たも ので ある
︒こ れに よる と
︑柳 芳は 天宝 六年 以前 に﹁ 右武 衛胄 曹参 軍﹂ とい う官 職を 務め たこ と が明 らか にな る︒
他方
︑﹃ 旧唐 書﹄ 巻一 一の 代宗 本紀 の永 泰元 年︵ 七六 五︶
﹁ 冬十 月癸 未 朔︒ 己丑
︑宗 正卿 呉王 祗奏
二
上
﹃皇 室永 泰新 論﹄ 二十 巻一
︑ 太常 博士 柳 芳 撰︒
﹂に よ っ て︑ 永 泰元 年
︵七 六 五︶ に 柳 芳 が
﹁太 常 博 士
﹂の 地 位 にあ った こと が確 認で きる
︒前 掲﹃ 太平 広記
﹄所 引﹃ 定命 録﹄ の逸 文 に よ る と
︑時 に
﹁工 部 侍 郎
﹂で あ る 韋 述 が 柳 芳 を 推 薦 し た︒ さ ら に
︑﹃ 旧唐 書﹄ 巻一
〇二 の韋 述伝
﹁︵ 天 宝︶ 九載
︑兼
二
充 礼儀 使一
︒ 其載 遷 尚 書工 部 侍 郎︵ 後 略︶
﹂を 加 え ると
︑柳 芳 は 天 宝 九 載
︵七 五
〇
︶か ら 安史 の乱
︵七 五五
〜七 六三
︶以 前ま での 闕に
﹁太 常博 士﹂ に任 じら れ た可 能性 が高 いと 思う
︒ なお
︑﹃ 旧唐 書﹄ 巻一 四九 の柳 登伝 には
﹁︵ 柳
︶芳 自二
永寧 尉直 史館
一
轉二
拾 遺・ 補闕
一
﹂と ある
︒以 上を 総合 すれ ば︑ 唐の 玄宗 朝に 出世 した 表
一
玄 宗 朝 に お け る 柳 芳 の 官 歴 表 玄 宗 朝 の 年 代
官 職
︵ 出 世
︶ 開 元 二 十 一 年
︵ 七 三 三
︶ 頃
科 挙 に 参 加 開 元 二 十 三 年
︵ 七 三 五
︶ 頃
柳 芳
︑ 蒲 州 河 東 人
︑ 進 士 及 第 開 元 末
︵ 七 三 五
︶ か ら 天 宝 年 間
︵ 七 四 二
〜 七 五 六
︶ ま で
永 寧 尉
︵ 正 九 品 下
︶ 直 史 館
︵ 品 位 不 明
︶ 拾 遺
︵ 従 八 品 上
︶ 補 闕
︵ 従 七 品 上
︶ 天 宝 六 載
︵ 七 四 七
︶ 以 前
右 武 衛 胄 曹 参 軍
︵ 七 品 に 相 当 す る
︶ 天 宝 九 載
︵ 七 五
〇
︶ 以 後 か ら 天 宝 十 四 載
︵ 七 五 五
︶ ま で
太 常 博 士
︵ 従 七 品 上
︶
★ 天 宝 十 四 年
︵ 七 五 五
︶ に 安 史 の 乱 が 発 生 し た
︒
― 7 ―
柳 芳の 官歴 は表 一の よう に復 原で きる
︒両 唐書 の柳 芳に 関す る伝 記の 内 容と
﹃太 平広 記﹄ 所引
﹃定 命録
﹄の 記載 とで 大き な矛 盾は ない
︒ 以上 を通 覧す れば
︑柳 芳は 開元 二十 三年 に進 士科 に及 第し たこ とを き っ かげ と し て 出世 し
︑開 元 末頃 か ら 天宝 年 間 に かけ て 右 表︵ 表一
︶ の よ うな 官 歴 を 歩ん だ
︒彼 は 最初
﹁永 寧 尉﹂
︵﹁ 畿 尉 丞
﹂︶ と い う 地 方 官 に任 じ︑ 直史 館を 命じ られ て拾 遺に 転じ
︑つ づい て補 闕に なり
︑当 時 の工 部侍 郎で ある 韋述 の推 挙で
﹁太 常博 士﹂ に勅 任さ れた
︒前 記の と おり
︑柳 芳は 出世 後に 社会 の有 名人 とな り︑ 蕭穎 士や 顔真 卿や 韋述 な ど の朝 廷 の 名 士と よ く 交遊 し た︵ 図3
︶︒ 以 上 の論 述 に よ って 谷 口 説 を補 強し たい と思 う︒ 三︑ 柳芳 の経 歴と
﹃唐 暦﹄ 谷口 氏は
︑﹁
﹃ 唐暦
﹄撰 述の 動機 は︑ 高力 士か ら得 た情 報を 加え て開 元
・天 宝年 間の 歴史 を書 きか える こと であ った
﹂と 述べ
︑し かも
﹁柳 芳 は﹃ 唐 暦﹄ を著 す 際︑
﹃ 唐 書﹄ 一三
〇 巻 をベ ー ス と し た が﹂
︑﹁ た だ 単 に
﹃唐 書
﹄一 三
〇 巻 を 編 年 体 し た だ け の も の で は な か っ た の で あ
︵!
︶
る
﹂と 論 じた
︒こ こ の﹁
﹃ 唐 書﹄ 一三
〇 巻﹂ は︑ 柳 芳 が 編 修 し た 唐 の
︵"
︶
﹃ 国史
﹄一 三〇 巻と 思わ れる
︒こ れに つい ての 谷口 説は 妥当 であ るが
︑
﹃ 国 史﹄ と﹃ 唐暦
﹄の 成 立 を 再検 討 し︑ 補 説を 提 示 し て み た い
︒そ の た め︑ 柳芳 の出 世後 の経 歴を 詳し く述 べ︑ その 後に
﹃国 史﹄ の編 修経 過 を分 析し たい
︒
︵ 一︶ 最初 の追 放と
﹃国 史﹄ 柳芳 は唐 の玄 宗朝 に進 士及 第で 出世 し︑ 畿内 の地 方官 にな った
︒ま た
︑彼 は 系譜 学 と 古 今の 儀 注 にも 通 じ てい る こ と を認 め ら れ︑
﹃太 平 広 記﹄ に よる と 韋 述 の知 遇 を 得て 推 薦 され た
︒﹃ 旧 唐 書﹄ 巻一 四 九 の 柳 登伝 につ いた 柳芳 の関 連記 事と
﹃新 唐書
﹄卷 一三 二の 柳芳 伝の 一部 は 次の 通り であ る︒
!父 芳︑ 粛 宗 朝 史 官
︑與
二
同 職 韋 述一
受レ
詔
︑添
二
修 呉 兢 所レ
撰
﹃国 史
﹄
一
︑ 殺青 未レ
竟而 述先 亡︑ 芳緒
二
述凡 例一
︑勒
二
成﹃ 国史
﹄一 百三 十 卷一
︒上 自二
高 祖一
︑下 止二
乾 元一
︑而 叙二
天 宝後 事一
︑絶 無二
倫 類一
︑ 取 捨 非レ
工︑ 不レ
為二
史 氏 所一 レ
称
︒然 芳 勤二
於 記 注一
︑含
二
毫 罔 倦一
︒ 属二
安 史乱 離一
︑ 国史 散落
︑編 綴所
レ
聞
︑率 多二
闕 漏一
︒︵
﹃ 旧唐 書﹄
︶
"
粛 宗 詔下 三
芳 輿二
韋 述一
綴中
輯 呉 兢 所レ
次 国 史上
︑會
二
述 死一
︑芳 緒二
成 之一
︑ 興二
高 祖一
︑訖
二
乾元
一
︑ 凡百 三十 篇︒ 叙二
天 寶後 事一
︑棄 取不
レ
倫
︑史 官病
レ
之
︒︵
﹃ 新唐 書﹄
︶ 史料
!︑
"
か ら︑ 柳芳 は唐 の粛 宗の 時に 史官 とし て勤 めた こと が分 か る︒ 同職 の韋 述と 一緒 に唐 の粛 宗の 詔を 受け
︑呉 兢の
﹃国 史﹄ を補 修 し た が
︑完 成 す る 前 に 韋 述 が 亡 く な っ た
︒そ の 関 連 史 料 と し て
︑
︵#
︶
﹃ 旧唐 書﹄ 巻一
〇二 の韋 述伝 に関 する 記事 を揚 げる
︒
#︵ 韋︶ 述在
二
書 府一
四 十 年
︑居
二
史 職一
二 十 年︑ 嗜レ
学 著レ
書
︑手 不レ
釋レ
巻
︒国 史自
二
令狐 徳䖕
一
至二
於呉 競一
︑雖
三
累有
二
修 撰一
︑ 竟未
レ
成二
一 家之 言一
︒至
レ
︵韋
︶述 始定
二
類 例一
︑ 補レ
遺續
レ
闕︑ 勒二
成﹃ 国史
﹄ 一 百一 十三 巻︑ 並﹃ 史例
﹄一 巻一
︑事 簡而 記詳
︑雅 有二
良 史之 才一
︒
︵ 中 略︶ 及二
︵ 安︶ 禄 山 之 乱一
︑ 両 京 陥レ
賊
︑玄 宗 幸レ
蜀
︑︵ 韋
︶述 抱二
﹃ 国 史﹄
一
蔵二
於 南 山一
︑経 籍 資 産
︑焚 剽 殆 盡︒
︵韋
︶述 亦 陥二
於
― 8 ―
賊 庭一
︑ 授二
偽 官一
︒ 至 徳 二 年
︑収
二
両 京一
︑三 司 議レ
罪
︑流
二
於 渝 州一
︑ 為二
刺 史薛 舒辱
一
︑ 不レ
食 而卒
︒ その 時代 背景 を考 える と︑ 安史 の乱
︵七 五五
〜七 六三
︶に よっ て柳 芳 と韋 述の 運命 は大 きく 変わ るこ とに なっ た︒ 安史 の乱 で長 安が 陥落 し た ので
︑柳 芳 と 韋 述は 安 禄 山が 立 て た政 権 に つ とめ た
︒そ の ため
︑ 唐 王朝 は安 禄山 と史 思明 の反 乱を 平定 した 後︑ それ らの
﹁偽 官﹂ に対
︵!
︶
し て懲 罰を 加え た︒ 唐の 姚汝 能﹃ 安禄 山事 迹﹄ 巻下 に引 くの は以 下の 通 りで ある
︒
$初
︑汾 陽 収二
東 都一
後︑ 差レ
人 送二
偽 朝 士 陳 希 烈 三 百 五 十 餘 人一
赴レ
京
︑兼 奏レ
表 請下
従寛 恕中
以二
招 來 者一
三 表上
︒︵ 中 略︶ 後 三 司 讞 刑 奏 曰
﹁︵ 中略
︶柳 芳︑ 李彦 光︑ 何昌 裔︑ 郝處 俊︑ 崔粛 等流
二
於徼 外一
︑ 勿レ
齒
︒﹂ 上記 の四 史料 から 見る と︑ 国史 の編 纂は 唐初 の令 狐徳 䖕か ら呉 競ま で 続 け ら れ て い き
︑韋 述 に よ っ て﹁ 類 例﹂ が 定 め ら れ︑ 一 一 三 巻 の
﹃ 国 史﹄ と一 巻 の﹃ 史 例﹄ が 完成 し た︒ し かし な が ら︑ 安 禄 山 の 反 乱 中
︑国 史の 編纂 は一 時停 止さ れた
︒天 宝十 五載
︵七 五六
︶六 月に 安禄 山 が長 安を 攻め 落と し︑ 韋述 と柳 芳は 共に
﹁偽 官﹂ を受 けて 安禄 山の 政 権に 参与 した
︒至 徳二 年︵ 七五 七︶ 十月 に汾 陽王
︵郭 子儀
︶が 東都
︵ 洛 陽︶ を克 復 す る と︑ 偽官 を 受 けた
﹁三 百 五 十餘 人
﹂は 反 乱 の 安 禄 山 側に 協 力し た と い う罪 で 獄 に入 り
︑同 年 末に 僻 遠 の 地に 流 さ れた
︒ 史 料$ によ って
︑柳 芳は その 上奏 文の 罪人 リス トの 一名 であ り︑ 辺境 の 地に 追放 され たこ とが わか る︒ しか し︑ まも なく 柳芳 は許 され たよ う であ る︒ その 契機 は粛 宗の 詔勅 であ り︑ 柳芳 が韋 述と 一緒 に国 史を 編 修し たこ とで ある
︒史 料# には
︑三 司論 議に よっ て韋 述は 渝州 に追
放 され
︑刺 史薛 舒の 辱に たえ ず︑ つい に絶 食で 亡く なっ たと ある
︒ 逆に
︑史 料!
︑"
と$ を見 ると
︑柳 芳は 韋述 より 幸運 であ った
︒韋 述 は粛 宗の 詔が 届く 直前 に死 んだ
︒柳 芳は まず 汾陽 王郭 子儀 など の請 求 や上 表が あり
︑そ れに 粛宗 の勅 命で 早く 赦さ れて
﹃国 史﹄ を撰 修し た
︒史 料!
︑"
と# を総 合す ると
︑唐 の﹃ 国史
﹄編 纂は 以下 のよ うな 経 過を たど った
︒唐 の﹃ 国史
﹄は 令狐 徳䖕 から 呉競 や韋 述・ 柳芳 など の 手に よっ て編 纂さ れた
︒安 史の 乱で 一旦 中絶 の後
︑粛 宗の 詔で 再開 さ れ︑ 乾元 年間
︵七 五八
〜七 六〇
︶ま でに 執筆 され た︒ 柳芳 は凡 例を 作 り︑
﹃国 史﹄ 総計 一百 三十 巻を 完成 させ た︒ ここ に明 らか なよ うに
︑そ の﹃ 国史
﹄は 唐の 高祖 の治 世期 から 唐の 粛 宗の 乾元 年間 まで の歴 史事 象を 記述 した
︒た だし
︑玄 宗の 天宝 年間
︵ 七 四二
〜七 五 六
︶以 降 の事 に つ いて は 記 述に 曖 昧 な 点が 多 か った た め
︑当 時の 修史 者達 は﹃ 国史
﹄に 良く ない 評価 を与 えた
︒柳 芳は 勤勉 に 記録 し︑ 真剣 に注 釈し たが
︑安 史の 乱で 国史 が散 逸し たた め︑ 史料 が 極め て少 なく なり
︑記 述に も不 備が 多か った
︒以 上が 韋述 と柳 芳の
﹃ 国 史﹄ 編纂 の 経 緯 とそ の 評 価で あ る︒ ま た︑ 唐代 の 国 史 編修 者 や 史 官 に任 じた 者は 名族
・門 閥出 身者 が多 く︑ 劉知 幾・ 䵳・ 秩・ 䨑ら 父子 を 生ん だ彭 城劉 氏︑ 柳芳
・柳 公権 らの 河東 柳氏
︑蒋 乂・ 蒋偕 らの 義興
︵"
︶
蒋 氏の 如き 史学 で名 高い 家門 が現 れて いる こと も注 目さ れた
︒
︵ 二︶ 二度 目の 左遷 と﹃ 唐暦
﹄ 唐代 の史 官に よっ て編 纂さ れる 史書 は︑ 起居 注・ 実録
・国 史の 三種 が 代表 的存 在で あり
︑後 に時 政記
・日 暦な どが 加わ った
︒唐 の史 官で あ る柳 芳は 粛宗 の詔 で﹃ 国史
﹄を 編纂 した が︑ その とき には 大部 分の
― 9 ―
編 纂史 料が すで に戦 火で 散逸 して しま って いた
︒具 体的 には 唐の 玄宗 の 開元
・天 宝年 間に 皇帝 の私 生活 を記 録す る宗 室の 手に なる 内起 居注
︵!
︶
も 作ら れた が︑ 安史 の乱 で失 われ た︒ この よう な状 況下 に柳 芳は 国史 を 編纂 した ので あり
︑そ の困 難が 想像 でき る︒ それ だけ では なく
︑安 禄山 の反 乱の 影響 で柳 芳は 政治 的に も非 常に 厳 しい 位置 に立 たさ れる こと にな った
︒柳 芳は
﹁偽 官﹂ の経 歴で 最初 に 追放 され たが
︑好 運に もす ぐ赦 され た後 に詔 命で 国史 の編 修を 行っ た
︒デ ニス
・C
・ト ゥウ ィチ ェッ トの 研究 によ ると
︑柳 芳は 一三
〇巻 の
﹃国 史﹄ を完 成し 奏上 した 後は
︑粛 宗の 認定 を得 るこ とが でき なか
︵"
︶
っ た︒ 上述 のよ うに
︑柳 芳本 人の 客観 的な 政治 的位 置と 粛宗 の主 観的 不 認定 によ るも ので あり
︑柳 芳は 上元 年間
︵七 六〇
〜七 六一
︶に 再び 左 遷さ れた
︒
⑴ 上 元 中 坐レ
事 徙二
黔 中一
︑ 遇 内 官 高 力 士 亦 贬
二
巫 州一
︑ 遇レ
諸 途
︒
︵柳
︶芳 以レ
所レ
疑二
禁中 事一
︑諮
二
於力 士一
︒力 士説
二
開元
・天 寶中 時 政 事一
︑ 芳 隨レ
口 志レ
之︒ 又 以三
﹃国 史﹄ 已 成︑ 經二
於 奏 御一
︑ 不レ
可二
復 改一
︑乃 䫲撰
二
﹃唐 曆﹄ 四十 卷一
︑以
二
力士 所傳
一
︑ 載二
於 年 曆 之 下一
︒ 芳 自二
永 寧 尉︑ 直 史 館一
︑ 転二
拾 遺︑ 補 闕
︑員 外 郎一
︑皆 居二
史 任一
︑位 終二
右 司郎 中一
︑集 賢學 士︒
︵﹃ 旧 唐書
﹄︶
⑵ 上元 中︑ 坐レ
事徙
二
黔中
一
︒ 後歴
二
左金 吾衛 騎曹 参軍
︑史 館修 撰一
︒ 然芳 篤レ
志論 著不
レ
少︑ 選忘
レ
厭
︒承
二
寇乱
一
︑ 史籍 淪レ
缺
︒芳 始謫 時︑ 高力 士 亦 貶二
巫 州一
︑ 因 從二
力 士一
質二
開 元
・天 寶 及 禁 中 事一
︑ 具 識二
本 末一
︒ 時 国 史 已 送レ
官︑ 不レ
可二
追 刊一
︑乃 推 衍二
義 類一
︑ 倣二
編 年 法一
︑為
二
唐 暦 四 十 篇一
︑頗 有二
異 聞一
︒ 然 不レ
立二
褒 貶 義 例一
︑為
二
諸 儒一
譏 訕
︒改
二
右 司 郎 中
︑集 賢 殿 学 士一
卒︒
︵﹃ 新 唐
書﹄
︶ 両唐 書 は︑ 柳芳 の 二 度 目の 左 遷 に関 す る 原因 を 明 示 しな か っ たが
︑
﹁ 上 元 中 坐レ
事︑ 徙二
黔 中一
﹂と 書 く こ と で︑ そ の 時 期 と 場 所 を 明 記 し た
︒す なわ ち︑ 今回 の左 遷は 上元 年中
︵七 六〇
〜七 六一
︶の こと であ り
︑流 され た地 方は
﹁黔 中﹂ であ ると いう
︒そ の結 果︑ 柳芳 は左 遷の 途 中 に︑ 偶然 配 流 さ れた 大 宦 官の 高 力 士と 会 っ た︒ こ の機 会 に より
︑ 柳 芳は 開元
・天 宝年 間に おけ る政 治状 況の 詳し い情 報を 得て
︑﹃ 国史
﹄ の 不 足を 補 う こ とが で き︑ 単 独で
﹃唐 暦
﹄四 十 巻を 撰 修 し た
︒一 方
︑
﹃ 唐 暦﹄ を編 纂 す る 前に
︑柳 芳 は﹃ 問 高力 士
﹄と い う口 述 の 筆 記 史 料 集 を撰 集し たこ とが ある
︒
︵#
︶
さて
︑唐 代の 李徳 裕は
﹃次 柳氏 旧聞
﹄の 序に 以下 のよ うに 述べ た︒
⑶ 太和 八年 秋︑ 八月 乙酉
︑上 于二
紫宸 殿一
听レ
政
︑宰 臣涯 已下 奉レ
旨 奏レ
事︒ 上顧
二
宰臣
一
曰
﹁故 内臣 力士 終始 事迹
︑試
レ
為レ
我言
レ
之︒
﹂ 宰 臣 即 奏 云﹁ 上 元 中
︑史 臣 柳 芳 得二
罪 黔 中一
︑ 時 力 士 亦 徙二
巫 州一
︑因 相 与 周 旋
︒力 士 以三
芳 嘗 為二
司 史一
︑ 為レ
芳 言二
先 時 禁 中 事一
︑皆 芳 所レ
不レ
能レ
知
︒而 芳 亦 有二
質 疑 者一
︑ 芳 默 識レ
之
︒及
レ
還︑ 編二
次 其 事一
︑号 曰二
問 高 力 士一
︒﹂ 上 曰﹁ 令下
訪二
史 氏一
︑取
中
其 書上
︒﹂ 臣 涯 等 既 奉レ
詔︑ 乃 召二
芳 孫 度 支 員 外 郎
︵柳
︶璟
一
詢レ
事︒ 璟曰
﹁某 祖芳
︑前 從二
力士
一
問二
䵗縷
一
︑未
レ
竟
︒復 著二
唐 曆一
︑ 采二
摭 義 類一
︑ 尤 相 近 者 以 傳レ
之
︑其 余 或 秘 不二
敢 宣一
︑ 或 奇 怪
︑ 非二
編録 所一 レ
宜レ
及者
︑不
二
以 傳一
︒ 今按
二
求 其書
一
︑亡 失不
レ
獲
︒﹂ 太和 八年
︵八 三四
︶の 八月 に唐 の文 宗と 宰相 王涯 は宦 官高 力士 と史 官 柳芳 の二 人の こと につ いて 語り 合っ た︒ 史官 柳芳 が上 元中 に罪 を得 て
︑黔 中に 流さ れた 時︑ 同時 に高 力士 も巫 州へ 流さ れた ため
︑途 中で
― 10 ―
柳 芳と 遭っ た︒ 柳芳 が史 官を つと めた こと を知 り︑ 高力 士は 玄宗 朝の 宮 廷の 事を 柳芳 に話 した
︒柳 芳は 高力 士の 話を やや 疑っ たが
︑そ れら を 黙っ て覚 えた
︒柳 芳は
﹃問 高力 士﹄ とい う口 述筆 記の 資料 集を 編ん だ
︒そ して
︑唐 の文 宗は 史氏
︵柳 氏︶ を訪 ねて その 本を 取る よう 勅命 を 出 した
︒宰 相 王 涯 は詔 を 奉 り︑ 柳芳 の 孫 で員 外 郎 の 柳璟 を 召 した
︒ 彼 の話 に よる と
︑祖 父 柳 芳が 高 力 士に 宮 内 の秘 密 を 尋 ねた け れ ども
︑ 一 部 分 の 内 容 に 疑 い が 存 し た︒ 柳 芳 は﹃ 問 高 力 士﹄ の 内 容 を 精 選 し て
︑信 頼出 来る 事だ けを
﹃唐 暦﹄ に盛 り込 み︑ 奇怪 で疑 わし い内 容は 伝 えな かっ た︒ いま は︑
﹃問 高力 士﹄ の本 も亡 失し た︒
︵!
︶
なお
︑北 宋真 宗の 時の 銭易
﹃南 部新 書﹄ には
︑
⑷ 柳 芳︑ 上 元 中 為二
史 臣一
︒ 得レ
罪 竄 逐二
黔 中一
︑ 時 高 力 士 亦 徙二
巫 州一
︑因 相遇
︒為
レ
芳言
二
禁 中事
一
︑芳 因レ
論二
次 其事
一
︑ 号曰
二
問高 力士
一
︒ 後著
二
唐曆
一
︑ 此書 不二
復 出一
︒ と ある
︒記 述の 内容 は前 記の
﹃次 柳氏 旧聞
﹄序 の要 約と 似て
︑﹁
︵ 柳芳 は
︶後 に﹃ 唐曆
︵暦
︶﹄ を著 し︑ 此の 書︵
﹃ 問高 力士
﹄︶ はま た出 さず
﹂ と 強 調し た
︒上 述 の 内容 か ら する と
︑柳 芳 は﹃ 唐暦
﹄を 編 纂 す る 前
︑ 上 元中 に高 力士 とあ った こと をき っか けに
﹃問 高力 士﹄ を著 した
︒し か し な が ら
︑こ の 本 の 内 容 は 多 く が 秘 さ れ て 伝 わ な か っ た
︒柳 芳 は
﹃ 唐暦
﹄を 編纂 した が︑
﹃ 問高 力士
﹄は 早く に佚 書と なっ た︒ 私見 によ れ ば︑
﹃国 史﹄ と﹃ 唐暦
﹄に は深 いか かわ りが あっ たと 言え る︒ また
︑ 柳 芳 の出 世 後 の 経歴 か ら 見る と
︑﹃ 問 高力 士
﹄は 彼 の 二回 目 の 左遷 と 直 接的 なか かわ りが あり
︑決 して 軽視 でき ない 存在 であ ると 思う
︒柳 芳
﹃唐 暦﹄ の 編纂 に と っ て︑
﹃問 高 力 士﹄ は主 た る 基礎 的 な 資 料 の 一 つ と考 える
︒
した がっ て︑ 柳芳 が﹃ 唐暦
﹄を 書き 出す 年代 はお よそ 唐の 粛宗 上元 年 間
︵七 六
〇
〜七 六 一
︶以 後 も し く は 唐 の 代 宗 初 年
︵七 六 二〜 七 六 三
︶で あ ろ う
︒私 見 で は
︑つ と に 散 佚 し た﹃ 国 史
﹄︑
﹃ 問 高 力 士
﹄と
﹃ 唐 暦﹄ は柳 芳 の 手 で編 纂 さ れ︑ これ ら 三 書の 編 集 に 連続 性 が ある べ き こと を認 めた い︒ しか し︑ 柳芳 の著 書は いず れも 完本 がす でに 存在 せ ず︑ 詳し い内 容と 本来 の面 貌を 実際 に調 べる こと がで きな い︒ 周知 の とお り︑ 柳芳
﹃唐 暦﹄ は完 成す る前 に流 出し
︑そ れも 本書 が散 逸し た 一つ の原 因と 思っ てい る︒
︵"
︶
い ず れ に せ よ︑
﹃ 資 治 通 鑑 考 異﹄ に 残 る
﹃唐 暦﹄ 逸 文 か ら 見 る と
︑ 柳 芳は 唐の 代宗 の治 世期 にも
﹃唐 暦﹄ を私 撰し たこ とが ある
︒し かも 資 料不 足の ため
︑代 宗朝 にお ける 柳芳 の具 体的 な任 官状 況は 分か らな い
︒こ こで は︑ 柳芳 の﹁ 安史 の乱
﹂以 後の 官職 およ び経 歴を 左表 のよ う にま とめ る︵ 表二
︶︒
︵ 三︶ 柳芳 と﹃ 唐暦
﹄に 関連 する 唐詩 文学 と史 学の 間に は密 接な 関連 が常 に意 識さ れて いた
︒各 時代 を代
表 二