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1  遺構変遷 とその年代

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Academic year: 2021

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第Ⅵ章

 

第Ⅵ章  

東 院庭 園地 区の12次にわた る発掘調査 の成果 については以上 に述べ て きた。 ここで は遺構 と 遺物 について、今後 の課題 を含 め なが ら簡単 にまとめてみたい。

1  遺構変遷 とその年代

東院庭園地区の遺構 については、園池 に最下層園池SG5800X、 下層園池SG5800A、 上層園 池

SG5800Bと

い う重複が認め られることか ら、園池の重複 を基本 とし、他の遺構 も

3時

期 に区 分 した。 この うち、上層園池

SG5800Bの

時期 については建物や給 ・排水溝の重複関係か らさ

らに3刈ヽ期 に糸田分 した。

第I期は最下層園池

SG5800Xの

時期である。最下層園池 については下層園池や上層園池 を 保存する為 に、充分 な発掘調査 は行 われなかった。

 

トレンチ調査 などで得 られた断片的な資料 か ら、その平面形 は単純 な逆

L字

形 をな し、岬などの出入 りもな く汀線 は直線的になるもの と 推定 した。給水溝 など園池の付属施設 も未確認なものが多 く、 さらに、東院庭園地区を区画す る明確 な施設 も認め られず、南面や東面の宮大垣 も未完成であったと考 えられる。 これ らの点 か ら、最下層園池の評価 については意見のわかれるところであった。

第 Ⅱ期 は下層園池

SG5800Aの

時期である。下層園池

SG5800Aは

最下層園池

SG5800Xの

位 置や規模 を踏襲 している。護岸 には人頭大の玉石 を用い、新 たに岬などを設け、汀線 はやや曲 線的 となる。 この段階で、南面大垣や東面大垣 にとりつ くように、南北塀、東西塀、斜行溝が 設けられ、東院庭 園地区はは じめて明確 に区画 されるようになる。 さらに、園池の給 ・排水系 統 も確立 し、園池の周囲には建物が配置 され、庭園 としての完成 した姿 を見せ る。 また、園池 の西岸北半 には石組蛇行溝が配置 されることか ら、曲水宴 なども行われたことが推定 され、東 院庭園の具体的な使用実態の一端が明 らか となった。

第 Ⅲ期 は上層園池

SG5800Bの

時期である。上層園池

SG5800Bは

、下層園池

SG5800Aを

埋 めたてた後 につ くられる。新たに園池の東北部 を拡張 し、中島、築山を設け、岬の数 をふや し、

汀線 はこれまで以上 に出入 りの多い湾曲 したもの となる。 また、池底や洲浜 に拳大の礫 を用い、

景石 を配するようになる。 このような園池の大改造 に伴 って、東院庭園地区の区画塀や給 ・排 水系統 も改め られ、建物 もその位置 を変え、橋 を新設す るなど、第

H期

とは庭園のデザインや 利用形態が大 きく変更 されていることが判明 した。

以上の ように、東院庭園はその位置 を踏襲 しなが らも、各時期 においてその様相 を変化 させ ていったのである。 このような変化の中で、特 に第 Ⅱ期か ら第 Ⅲ期へ転換 は、 日本庭園史上の 画期 として評価で きよう。

各時期 における造営年代 は、出土遺物や文献史料 などを検討 し、第I期は和銅

6年

(713)

〜養老

4年 (720)頃

、第Ⅱ期 は養老

4年

頃〜神護景雲元年

(767)頃

、第Ⅲ

‑1期

は神護景雲 218

玉 田

(2)

元年 頃〜宝亀

3年 (772)頃

、第 Ⅲ

‑2期

は宝亀

3年

頃 〜宝亀 年 間後 半 (775〜781)、 第 Ⅲ―

3期

は宝亀年 間後半 〜延暦

3年 (784)頃

に比定 した。

しか し、平城京廃都 に伴 つて園池が直 ち に埋没 してい くもので はない。大垣 や東 院庭 園 を区 画す る塀 は廃都 に伴 って間 もな く廃 絶 したが、園池や建物 の一部 につ いて は、あ る一定期 間存 続 していた可 能性 は高 い。

これ らの年代 比定 の中で、第Ⅱ期 が長期 にわた ってい る点が問題 と して残 され る。遺構 的 に は、第Ⅱ期 遺構 の細分 の可能性 も残 るが 、敢 えて細分 を行 わなか った。 出土 土器 や瓦 の分析 か らは、 この間 に東面大垣 や南 面大垣 が平城宮 還都 (745年

)後

に改修 されてい る こ とが指摘 さ れ てい る。 第Ⅱ期 が長期 にわた る こ との背 景 の一 つ としては、平城宮 遷都 、遠都 とい つた当時 の社会状勢 の変化 を考慮すべ きであろ う。

また、第 Ⅲ期 は短期 間 に もかか わ らず

3小

期 に細分 した。東 院庭 園が、称 徳天皇 に よる「東

院玉殿」、光仁天皇による「楊梅宮」の造営と密接に関わつていたことを示すものであろう。

東 院庭 園地 区か らの 出土 遺物 には、木街 、瓦 。導 類 、土器 ・土 製 品、木製 品、銭 貨 、金属製 品、石 製 品、鍛 冶 ・鋳 造 関係 遺 物 、漆 膜 、木炭 、建築 部材 な ど多様 な ものが あ る。 これ らの遺 物 の種類 は、量 は ともか くと して平城宮 の他 の地 区の発掘調査 で出土す る遺物 の種類 に劣 る も ので はない。 しか し、遺物 の年代 につ いて検 討す る と、土器や木製品の出土量 の大半 は、園池

SG5800Bの

埋 没 が始 まった平安 時代 の

9世

紀 中頃以 降 と考 え られ た。従 って、瓦 。導類 や木 簡 の一部 を除 けば、奈 良 時代 の東 院庭 園地 区の遺物 の 出土量 は、少量 で あ り、 出土 遺 物 か ら、

東 院庭 園で行 われ たであ ろ う儀 式 ・宴等 につ いての実態 を具体 的 に把 握 す る こ とは困難 で あ つ た。逆 にこの こ とは、奈 良時代 の東 院庭 園が徹底 して管理、維持 されてい た こ とを示 す もので あ ろ う。

出土瓦 は、一部 に奈良時代 に先行 す る瓦 や 中世 の瓦が含 まれ る ものの、基本 的 には奈良時代 の瓦 であ り、平安時代 の瓦 は認 め られ ない。瓦 の出土状況の分析 か ら、南 面大垣

SA5505や

東 面大垣SA59001ま他 の地 区の宮 大垣 同様 に総瓦 葺 であ る こ と と、東 院庭 園地 区内 の主 要建 物 は 総瓦 葺建 で あった可能性 は低 い との結論 を得 た。 なお、東 院地区 には、屋根 を施釉 瓦 で葺 い た F東院玉殿』 の存在が従来 よ り推定 されてい る。『東院玉殿』所用瓦 は、軒丸瓦6151型式 と軒平 瓦6760型式 が セ ッ トになる もの と考 え られ てい るが、東 院庭 園地 区か らは この型式 の施釉 品 は 出土 しなか った。

一方、上層 園池

SG5800B出

土土 器 には、

9世

紀 中頃か ら10世紀 以 降 の時期 の土 器 が含 まれ てお り、出土遺物が一度 に投 棄 された もので はない こ とを示 している。土器 の出土状 況 の分析 か らは、投 棄が園池 の東北 の方 向か ら始 まった ことが明 らか になった。土器 には、当時一般 的 に使用 されていた土師器 、須 恵器、黒色 土器 に加 えて、灰釉 陶器 や緑釉 陶器 な どの施釉 陶器が 少 なか らず含 まれている。 なかで も、器種 的 には、香 炉、浄瓶 、水瓶 、鉢 な どの ように仏器 的 な性格 を示 す器種 が出土 してお り、今 後 、周辺地域 を含 めて平城京廃都 以降の これ らの使用者 の実態解 明が今後の課題 として残 され る。

物 遺

219

参照

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