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蜀中後期の杜甫

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(1)

杜甫は、永泰元年(七六五)正

度參謀を辭して、

堂に歸る。廣

二年六

に 府に出仕してから、僅かに七箇 の 杜甫の 僚生活となった。

僚としての生活は、當初より必ずしも順

を果たそうと努力しながら、 かった。この時期に作られた杜甫の詩を見れば、杜甫が職務 ではな 職生活に

この時期の杜甫については、 に懊惱を深める樣を、つぶさに知ることができる。 應しきれずに第 年、

究が

力 に れて、管見に入ったものだけでも、左記の九點に上る。 めら

①陳昌渠「杜甫嚴武

中詩解讀

生存 論杜甫這一時期之 態 其價値取向」(『杜甫

②李良品・譚 究學刊』二〇〇〇年第二期)

宣「杜甫去蜀原因探

」(『

陵師範學院學報』 第一八卷第二期、二〇〇二年三

③李良品・李金榮「杜甫辭 ) 原因考」(『四川

④李良品「杜甫去蜀 〇〇二年第七期) 育學院學報』二 後心態析」(『四川師範學院學報(哲學

⑤丁 科學版)』二〇〇二年第四期) 會 陣「杜甫・嚴武〈睚眦〉考

」(『文學

⑥李良品「從杜甫〈 第六期) 』二〇〇二年 嚴詩〉看杜甫與嚴武

關係」(『四川

育學院學報』第一九卷第七期、二〇〇三年七

⑦李俊標「杜甫居蜀時期 ) 詩想發展

甫 論離蜀原因」(『杜

⑧傅 究學刊』二〇〇三年第四期)

!在慶「杜甫與嚴武關係考

年第一期) 」(『文史哲』二〇〇四

蜀中後期の杜甫

度參謀辭職の

後を中心に

松原

"

(2)

⑨丁 陣「杜甫・嚴武〈睚眦〉再考

與傅

先生 在慶

」(『文學

』二〇〇四年第四期)

これら論考において、論點は

に二點に集

第一は、嚴武と杜甫との できるだろう。

ぐる議論である。深刻な對立の存在を に深刻な對立があったか否かをめ (1)

定するのが丁

であり、否定するのが傅(⑤⑨) 陣 ・ 第二は、杜甫の離蜀の 在慶である。(⑧)

因を、杜甫の檢校工部員外

命に求めるか否かである。從來は、嚴武の 任 校工部員外 府で、杜甫は檢 の 銜を帶びて、實職である

度參謀を

と考えられてきた。しかし最 (2) めた の陳 君の 甫が檢校工部員外 究によれば、杜 (3)

に任命されたのは、

度參謀を罷めて

府を辭した以後であり、杜甫は長安で檢校工部員外

のために に就任

を去ったとされる。李良品(②③④)はこの陳 君 に贊同し、一方、李俊標は、陳(⑦)

否定 に對して

なお陳 立場をとる。

君の 檢校工部員外 ずと對立の存在を否定する立場となる。何となれば、杜甫の に左袒する場合には、第一の論點では、自

任命には、その

して好意 提として、嚴武の杜甫に對 な

への奏上が不可缺だからである。 杜甫は、

中の生活を

って 明は、 甫を辭職へといつめた原因は何だったのか。このことの解 度參謀を辭職した。では杜 辭 記の第一の論點と深く關わるだろう。また杜甫は、

して三箇

!余りの後に、

の 筆 このことの解明は、第二の論點を深く關わるだろう。 ことになる。杜甫に離蜀の決意をさせた原因は何だったのか、 "堂を去って長江を下る

#は 稿において、陳 (4)

君 の

$當性を確

しかし本稿では、その している。

%定の て杜甫の作品自體に 提とすることなく、改め

&して、辭

後の杜甫の置かれた

を明らかにしようとするものである。 '況

僚在任時期の心理

(二年の春、杜甫は嘉陵江に臨む(七六四)

船を放って長江を下る )州にいて、

嚴武が西川 *の準備をしていた。しかしその時、

度使として再度

+任するという

て、東下の計畫を取りやめ、嚴武との再會を期して ,息を知っ 歸ることになる。そして へと

-には、嚴武の

.を受けて、西川 度使の

府に 度參謀として出仕する。しかし

は長く續かず、 中の生活

/永泰元年の正

!には、

府を辭して

歸休した。 "堂に 中國詩文論叢第二十三集

(3)

いま 中生活に對する杜甫の心

して時系列に從って讀んでみると、そこには を窺わせる詩篇を取り出

かう杜甫の心理の 職辭任へと向 妙な變

を見て取ることが出來る。

①六

江風颯長 「揚旗」

、府中有餘

。我公會客、肅肅有

初筵 聲。

軍裝、羅列照廣庭。庭空六馬入、

迴迴偃飛蓋、 揚旗旌。

迸流星。來衝風飆

材歸俯身盡、妙取略地 、去擘山岳傾。

三州陷犬戎、但見西嶺 。虹霓就掌握、舒卷隨人輕。

。公來 猛士、欲奪天邊

此堂不易升、庸蜀日已 。 。吾徒且加餐、休

この詩は、原 蠻與荊。

に「二年

六 、 騎士試新旗幟」とあり、嚴武の 尹嚴公置酒公堂、觀 えられる。「旗」とは 府に出仕した直後の作と考 一 府の軍旗であり、對吐蕃戰の準備の として

府を 詩の末尾の「吾徒且加餐、休 げて「旗揚げ」の儀式が行われた。

蠻與荊」とは、後

に王粲が長安を の混亂期 嚴武によって秩序が回復されつつある蜀では、人々は他 れて荊蠻の地に身を寄せた故事を踏まえて、

寓を心配することなく安 流

またそれは同時に、杜甫自身が、蜀を離れて荊蠻の地に赴く できる、と嚴武の政治を贊美する。 という當初の計畫を撤回して、今は (5)

をち

!けて嚴武の

府で

"

#するという意思表示でもある。

②七

山雲行 立秋「立秋雨院中有作」

$塞、大火復西流。飛雨動

窮 %屋、蕭蕭梁棟秋。

&愧知己、

'齒借 (籌。已費

)、

*

北解衣開 +謀。

,、高枕對南樓。樹濕風涼

-、江喧水氣

禮 .。

/心有

、 0爽病 1。 2將歸

3鼎、五

この詩は、 4訪舊丘。

府に

#務して

5もない七

である。ここで 上旬の作(立秋)

目すべきは、「已費

晨 )、

*長

自分は +謀

6早くから出仕して拜

)するが、果たして長

嚴武)のお役に立てるだろうか」の部分であり、そこでは兩 +(上官 に置かれていることが杜甫の言 +がかつての對等の友人關係ではなく、上官と下僚との關係

7で確 篇末「 8されている。一方、 2將歸 3鼎、吾

4訪 歸 9丘」では、嚴武が宰相となって 6する時は、自分は

の :堂に屏居するつもりだと

願という る。ただしその眞意は、嚴武の推挽を得て長安で官仕したい ;べ

<にあると見るべきだろう。

③秋「院中

=>懷西郭

?舍」

蜀中後期の杜甫(松原)

37

(4)

府秋風日夜

、澹雲疏雨

高 。

心朱實看時

、階面 復有樓臺銜景、不勞鐘鼓報新 苔先自生。

溪裏

饒笑、肯信吾

「浣 吏隱名。

溪里 饒笑、肯信吾

吏隱名浣

堂では、

が美しく

きこぼれているだろう。自分は今は

の 僚だが、そ

に心惹かれる隱

分かってくれるだろうか」。ここで杜甫は、 の思いを心に懷いていることを、人は

府出仕を

するのではなく、「吏・隱」の二つの感 否 を

衡させようと

て、 高な氣韻」のあることをみずからに言い聞かせることによっ 心している。換言すれば、自分の中に俗事に泥まない「崇 僚となって吏務に埋

する自分を慰めるのである。

④秋「宿府」

秋 府井梧 、獨宿江

永夜角聲悲自語、中天 炬殘。

風塵荏苒 色好誰看。

書 、關塞蕭條行路

十年事、

をめぐる心理のこの詩では、「吏・隱」 栖息一枝安。移

衡はすでに

ている。 れ

府出仕は、そこに積極

な意義を求めるものでは なく、やむを得ぬものとしてある。「已

伶 十年事、

栖息一枝安安史の大亂より十年、零 移 くした。今の自分には、鷦鷯が森の中のささやかな小枝に みそさざい の辛酸を嘗め盡

!を架けるように、心

"まぬこの

職に るしかないのだ」と いてこの身を預け 關係か」「屏居か出仕か」という心理の葛 #べるとき、杜甫は、「友人關係か上下

$を超えた

つまり生活の安定、生計の維持という物理 %元に、

え置くことによって、 %元に問題を据 府出仕を

いてみずからに

るのである。 &得させ

⑤秋「到村」碧澗雖多雨、秋沙先少泥。蛟龍引子

、 '(逐 老去參戎 低。

、歸來散馬蹄。稻粱須就列、榛

)相

*。 +積思江 ,、疏頑惑町畦。暫酬知己分、

-入故林棲。

府の生活からしばし休暇を得て

ある。「稻は畦に從って整然と列ぶべきだが、 堂に歸ったときの作で

ので雜 .人が不在な が /り放題だ。江

,に向かって

報いた後は、 りここの田畑のことが氣に掛かる。しばらく嚴武との友誼に 0立ちたいが、やは 願甫のいは 堂に歸って隱棲するのだ」。この詩では、杜 堂隱棲の一點に集

1されている。

府出仕は、 中國詩文論叢第二十三集

(5)

友人嚴武に對する義理を果たすためであり、それ以上の積極 な意義を杜甫は見出だすことが出來なくなっている。

⑥秋「嚴鄭公階下新松(得霑字)」

質豈自負、移根方爾瞻。細聲

玉帳、疏

未見紫 珠簾。

集、

⑦秋「嚴鄭公宅同詠竹」(得香字) 蒙露霑。何當一百丈、欹蓋擁高簷。

竹 含 、新

纔出牆。色

書帙 、陰 この二首は、嚴武が 雨洗娟娟淨、風吹細細香。但令無剪伐、會見拂雲長。 酒樽涼。

る。 (7) 催する宴席で唱和された詠物詩であ の「

蓋擁高檐」では、ひ 質豈自負、移根方爾瞻。……何當一百丈、欹 な松の

木ではあるが、

と いつか大きく育って、その枝で屋根を蓋うほどになるだろう えられてようやく人の目に付くことになった。……その松も 府の庭に植 べて、ここに

府に活 職務への の場を與えられたことを感謝し、

人の獨詠ではなく、嚴武を圍んだ宴席での分韻唱和の儀禮 を嚴武に對して誓うのである。この二首は、個

制作であり、作品は、その性格を承知して讀む必

このように見ると、杜甫は がある。

府出仕を續けるか否かを

て搖れ動きながら、 っ 第に辭

の思いに向かって心が傾斜し ていったことが分かる。また

略すれば、嚴武を圍む公

唱和の場においては仕官に對する積極 な 意欲が表明され、私

な獨詠においては

極 な心

を 第に めて分かりやすい圖ができあがっている。 めるという、極

⑧秋「

!悶奉

"嚴公二十韻」(

#に後 杜甫は自分の ) に訴える。實質 僚生活に對する鬱屈した思いを、直接嚴武 にはこの時點で、杜甫は

下していた。 僚辭任の決斷を

⑨初

$「初 垂老戎衣窄、歸休 $」

%色深。漁舟上

&水、獵火

日有 '高林。

(池醉、愁來梁甫吟。干戈未偃息、出處

⑩ )何心。

$至「至後」

$至至後日初長、

*在劍南思洛陽。 +袍白馬有何意、金谷銅駝非故

,。 -.欲開不自覺、棣萼一別永相

愁極本憑詩 /。

!興、詩

これら 0吟詠轉淒涼。

$の作を見ると、辭

は、

行つ實するかという時 1擇の問題ではなく、い 2の問題である。生活の維持のために

蜀中後期の杜甫(松原)

39

(6)

出仕もやむなしとするかつての論法(「宿府」)もここでは語られず、

職にあることの

痛と、入

に對する後

れている。すなわち⑨「垂老戎衣窄……出處 が綴ら 年を取って 何心」では、

げない軍

を 何の志を 用することになった、出仕して 愁極本憑詩 げられたというのか。また⑩「袍白馬有何意……

興、詩

吟詠轉淒涼」では、袍(下僚の官

を身にまとい白馬に乘って ) しみを も見出せない、かつては心を慰めた作詩も、今はかえって悲 (8) 府に出仕することに、何の意義 らせる、という自嘲の言辭が吐露されている。

二「

悶奉

嚴公二十韻」

中期の杜甫の心

を考察する際に、「

悶奉 韻」が別して重 嚴公二十 な意味を持つのは、それが

る胸中の煩悶を、 中生活におけ 題

にてっか向に、しかも當の嚴武直接

に開陳した詩だからである。

題 という點に關しては、詩題にこそ

目する必

る。詩題の「 があ

悶」は、杜甫が

用する「

興」「

懷」「

」「

意」という一

の 特定の事件に觸發された 題の中に位置している。それは (9)

物 ・ 時 中に久しく鬱積した、負の感動としての煩悶を、 な感動ではなく、胸

括 に

べるときに用いる詩題である。從ってこの詩題の

この時の煩悶を、 用自體が、

題 に しかも「 しいのである。 べることを杜甫が宣言したに等 悶」「

興」系の詩の多くが特定の讀

しない中で、この詩が嚴武という一人の讀 を想定 たことも、見 のために作られ すべきではない。もとより嚴武は、

れるところの讀 常言わ ではなく、杜甫の今ある

る「當事 況を支配してい 杜甫が重い決意をこめて制作した詩であることは明白である。 」である。以上の二點を考慮すれば、この詩が、

悶奉

嚴公二十韻悶を

りて嚴公に奉

白水魚竿客白水魚竿の客 す二十韻 秋鶴髮

秋鶴髮の

胡爲來

下胡爲れぞ

祗合在舟中祗だ合に舟中に在るべし まさ 下に來れる

!卷眞如律

幼女幼女問頭風頭風を問ふ 老妻憂坐痺老妻坐痺を憂へ 袍也自公袍も也た公自りす !卷は眞に律の如く

"地專欹倒

"地欹倒を專らにし 中國詩文論叢第二十三集

(7)

分曹失

同分曹

義忝上官 禮甘衰力就禮あれば衰力もて就くに甘んじ 同に失す

義あれば上官に

ずるを忝くす(第一段)

澄んだ川邊で

て そんな自分は、漂泊の舟にこそ身を置くべきなのに、どうし りをして、涼秋に白髮を吹かれていた老人。

府に仕えることになったのか。

定書には嚴しく

られ、小役人の制(

袍)を、

後まで

妻は、足 る始末だ。老

の痺れを氣

い、娘は、頭痛を心配する。

も、よたよた 地で き、職場では、同僚との意見の

いに對處を

る。規則の

りに、老骨に鞭打って職務に

らないが、朋友の義があるので、上官の君とこうして友 まなければな

を わすことだけはできるのだ。

疇昔論詩早疇昔詩を論ずること早く光輝仗鉞雄光輝鉞に仗ること雄なり

容存性拙

剪拂念 容性の拙なるを存ひ おも

窮剪拂

露 の窮せるを念ふ 思 架露

うるほして

架を思ひ 霏想桂叢

霏きて桂叢を想ふ なび 信然龜觸

信然に龜は まこと

直作鳥窺籠直だ鳥の籠より窺ふを作すのみ(第二段) に觸れ

君は、かねてより詩を語り合う

柄だが、今は大きな兵

を握る大官となった。君は、私の世渡り下手の性格を思いいたわり、生活の窮

を打開してくれた(

し自分は、(浣 度參謀就任)。しか 露に濡れた堂の)

る木犀の !を思い、もやが籠め

"みを思う。今の自分は、真に

然で、籠の鳥が廣い空を懷かしむようなものなのだ。 に掛かった龜も同 西嶺紆村北西嶺村北を紆 めぐり南江遶舍東南江舍東を遶る竹皮

#舊

$竹皮舊

$に 杯乾甕 浪簸浪簸船應拆りて船應に拆くべく ゆす 椒實雨新紅椒實新紅に雨ふる #く

%空杯乾きて甕も かめ

%ち空し

&籬生野徑

斤斧任樵童斤斧樵童に任す(第三段) &籬に野徑生じ

西山は村の北まで張り出し、錦江は堂を東へと流れている。

蜀中後期の杜甫(松原)

41

(8)

ごした竹の

には、しっとりと雨が は、冷たく光り、赤みのさした山椒の實 る。浣 酒 さぞや傷んでいるだろう。自分が居ないので、杯は乾涸らび、 溪の波に搖すられて、舟は でき、木こりの子供がそこを も空っぽになっているだろう。籬は破れてそこに小徑が

くのも、今は仕方のないことだ。(以上、人不在の って我が家の植木を斫ってゆ

堂を想像)

酬知己束

蹉 せられて知己に酬ひ 效小忠蹉

たるも小忠を效さん

防期稍稍

あまねく防ぎて稍稍ならんと期するも太

匆匆太だ

なれば 曉入朱 て匆匆たり かく

曉に入るとき朱

昏歸畫角 き

昏に歸るとき畫角

不 る

別業別業(浣

堂)を

ぬるを

未敢息 さず

躬未だ敢て

烏鵲愁銀 躬を息めず やす

烏鵲銀

駑駘怕錦 に愁ひ

駑駘錦

會希 を怕る

物色會ず希はくは物色を かなら

まつたうし時放倚梧桐時に放ちて梧桐に倚らしめよ(第四段) 不自由な思いを我慢して、君のご恩に報いよう。老骨を

まして、眞心を盡くそう。氣を配って、無事に

明け方に はするが、粗忽なたちなので、なかなか上手く行かないのだ。 ぼうと努力 府に入る時、やっと朱色の衙門が開き、

時には、日 に歸る れを

げる角笛が吹き

わる。

せて走ることを な鞍を乘川に橋を架けられないことを悲しみ、駑馬は、立 もままならず、職務をおろそかにも出來ない。烏鵲は、天の かささぎ 堂に歸ること

!れる。君よ、願わくは本性を

この詩は、 まに寄り添わせて頂きたい。 りで、時期を見て、私を職務から解き放ち、梧桐の木に氣ま げさせる積 中生活の

"痛を嚴武に訴えて、辭

嚴武に の許可を

#願する詩であるが、この時に杜甫が

以下の $べる理由は、

%點に整理できる。

①身體

&不 ':「老妻憂坐痺、幼女問頭風。

杜甫は下 (地專欹倒…」

)身の痺れと頭痛に惱まされ、

(地の

②執務の 由になっていた。 *行にも不自 +さ:「

,卷眞如律、

-袍也自公」「

,卷」は、

.務

/定の文書、「

-袍」は、下僚(八品または九品

の官) 0

1。 .務 /定は法律のようにこの身を

り、

2.しても

-袍を 3

中國詩文論叢第二十三集

(9)

たままだと、職務の

さを嚴武に訴えている。杜甫は

において、文宴の場での嚴武との詩の唱和 中 の を別とすれば、そ

務條件に特別待

③同僚との不和:「分曹失 は殆ど無かったと見てよい。

同」

府の部

の 部の意見

同・對立に際して、杜甫が對處を

不和」であるが、他の詩( ろう。この詩ではわずかこの一句が觸れるだけの「同僚との ったという意味であ れが杜甫の心痛の直截 も讀み合わせる時、こ參照)

④ 理由であった可能性が高い。

堂への愛

:「露

思 架、

は、「院中 霏想桂叢……」杜甫 懷西郭

舍」詩の中でも「浣

溪里

肯信吾 饒笑、

吏隱名」と詠じて、

堂の生活に愛

の思いはこの詩においても擴大しながら繰り を示すが、そ される。

杜甫は

中の 痛をこのように種々に訴えた上で、「會希 物色、時放倚梧桐」と

べて、

に對して求める。杜甫の辭 度參謀辭任の了承を嚴武 の決意は、この詩を作った

(詩中の「 秋

秋鶴髮

思われる。杜甫が最 理解して良かろう。一方、嚴武は杜甫の慰留に努めたものと の時點で固まっていたと」「椒實雨新紅」)

府を辭して

れから三箇の 堂に歸るのは、そ

!を

ごした、明くる正のことである。

三 同僚との對立

に至った理由は、杜甫自身の

きている。その中でも最も直接 べるところは以上に盡 同僚との不和であろう な理由となったのは、③の

。正には、杜甫は嚴武の了承を得て "

府を辭去しているが、その直後に

府の同僚に宛てた

詩を作っていることは、この意味で象 の

#である。

正三日歸溪上有作

$院 正三日溪上に歸りて作有り院 %公

%公に 籬邊水向 野外堂依竹野外堂竹に依り $す

&

籬邊水 かは

蟻 &に向かふ '仍臘味蟻

'きて仍ほ臘味 (泛已春聲

藥許鄰人 (泛かびて已に春聲

)藥は鄰人の

書從稚子 )るを許し

*書は稚子の

白頭趨 *ぐるに從す まか

府白頭

覺深負 府に趨きて おもむ

+生深く

+生に負くを覺ゆ

この詩は、再び手に入れた

堂の長閑な生活を存分に

,く

蜀中後期の杜甫(松原)

43

(10)

ことで、反面に、

府の生活を無意味なものとして否定

總括する。「白頭趨 に 府、深覺負

生」の二句は、

活を個別にあげつらうのではなく、その 府の生 てを「後

文字の中に放り 」の二

むことによって完

否定するものである。

目すべきは、その思いを敢えて名指しで「院

えていることである。 公」に傳 府を辭して同僚たちと一定の

であろう。同僚との確執が 確保したことが、このような忌憚のない發言を可能にしたの 離を

中生活の最たる

を、この詩は裏付けるものである。 痛だったこと に讀むのは、それから二箇

ばかりの後、燕が

う 春

の作である。同僚たちを思い出してもかつてのような

無く、 懣は

堂の長閑な生活を樂しむほどに

り きを取

している。

春日江村五首其四扶病垂朱

病を扶けて朱

歸休 を垂れ

紫苔歸休紫苔に

郊 む

存 計郊

計存し 府愧群材

燕外 府群材に愧づ 絲卷燕外

絲卷き

邊水 開 邊水

鄰家 開く

魚 鄰家魚

を 問我數能來我に問ふ數ば能く來るかと しばし

「郊

存 計、

府愧群材自分は、郊外の

を 堂で余生

るを

!んだ。いまも

府で ての同僚 "しく公務にいそしむかつ

君には、ご

は、特に 勞樣と頭を下げたい」という二句に ら角を 目したい。この時の杜甫には、もう彼らと正面か

#き合わせる意志はない。この時、杜甫は「朱

官 」の

$を身に

ける檢校工部員外

%に任命されている

能にしたのだろう。しかし見方を變れば、 足感がもたらす氣分の余裕が、このような穩やかな態度を可 。その充 &

しむ悠然たる心境の中にあっても「 堂の春を樂 深さを裏付けるものと言えなくもない。 すめていることは、彼らとの軋轢が殘した杜甫の心の傷痕の 府の群材」が意識をか 府の同僚に對しては、

否定を宣

'する「正

上有作 三日歸溪

(院 公」と、その一方の、彼らとの宥和を

決して小さなものではなかった。以下に、 「春日江村五首其四」とを兩極として、杜甫の心理の波瀾は )べる 府の ちに對する鬱 *い同僚た を )べる「莫相疑行」「赤霄行」を

+加して、 中國詩文論叢第二十三集

(11)

この時期の杜甫の心

を仔細に窺うことにしよう。

莫相疑行男兒生無

白男兒生れて

す 無く頭は

牙齒欲 白

眞可惜牙齒の

憶獻三賦蓬獻宮憶ふ三賦を獻ず蓬 ちんと欲す眞に惜しむ可し

自怪一日聲輝 宮

赫自ら怪む一日に聲輝の

觀我 集賢學士如堵牆集賢學士堵牆の如く 赫たるを 筆中書堂我の筆を

時文 すを觀る中書堂 動人

時文

(玄宗)

を動かすも此日

趨路旁此の日

路旁を趨る

將末 託年少

に末 當面 を將ちて年少に託せば

心背面笑當面には心を

不爭好惡莫相疑好惡を爭はず相ひ疑ふこと莫れ 寄謝悠悠世上兒寄謝す悠悠たる世上の兒 すも背面には笑ふ いた

男兒に生まれながら、

す もなくしらが頭となり、齒も け 宮に獻上した時は、我ながら高い ちそうなのは、無念の極みだ。かつて三大禮賦を蓬莱

を 集賢學士たちは中書堂に集まり、垣根のように したものだった。

りを取り圍 分の文才は、陛下の御心をも動かしたというのに、今は んで、私が筆を下ろすのを固唾をのんで見守った。かつて自

られて、

で、 端をおどおどと小股で走る始末だ。老いの身 たちと付き合うことになったが(末

=長

、彼らは面と向かってはの交際) 輩と 私のことをあざ笑う。 慮しても、後ろに回れば ついた世

の 分は好きだ に申し上げる、自 獻上して 交際を持った徒輩であるから、杜甫が「三大禮賦」を玄宗に 上兒」である。その年少たちは、杜甫が高齡になって初めて この詩で杜甫の揶揄する相手は、「年少」であり「悠悠世 信じて欲しい。 いだと詰まらぬ爭いはしたくない、このことを

贊された經

が含まれることは、常識 論そうした年少の中に、十年來の知で、詩友でもある嚴武 を持つことも知らないのである。無

!斷として

"くあり得ない。

赤霄行孔雀未知牛有角孔雀は未だ知らず牛に角有るを

#飮 泉逢觝觸

#して 赤霄玄圃須來赤霄玄圃須らく來すべく 泉に飮みて觝觸に逢ふ

$尾金

%不辭辱

$尾金

%辱めらるるを辭せず

蜀中後期の杜甫(松原)

45

(12)

江中淘河嚇飛燕江中の淘河(川鵜)飛燕を嚇 おどろかし銜泥卻

羞 屋泥を銜むも卻て

して

皇孫 屋に羞づ

曾 困皇孫

ほ曾て 老 鮑莊見貶傷其足鮑莊貶されて其の足を傷ふ に困めらる

愼莫怪少年老

記憶細故非高賢細故を記憶するは高賢に非ず 丈夫丈夫垂名動萬年名を垂れて萬年を動かす 葛亮貴和書有篇葛亮の貴和書に篇有り 愼みて少年を怪むる莫れ

ここでは、美しい尾

ことをべて、杜甫が、低俗な年少の同僚に の角に威嚇され、輕やかに飛ぶ燕は、川中の鵜に威嚇される を持った孔雀は、水飮み場にいる牛

の比喩とする。同僚への 蔑されたこと 惡から出發する點で、

ものとなっている 相疑行」と趣旨を同じくし、それを寓意の詩に仕立て直した の「莫 以上、①「正 。

三日歸溪上有作

院 り上げた。その上で考察すべきは、これらの詩の中に、 村五首其四」、③「莫相疑行」、④「赤霄行」の四題の詩を取 公」、②「春日江

の同僚に對する杜甫の如何なる感 府 の變

できるかであろう。①②はすでにべたので、論ずべきは③ を見て取ることが ④である。

府の同僚に對する

霄行」の作品ではあるが、仔細に比較するとき、兩 懣を泄らした③「莫相疑行」④「赤

は、 に

妙な相 る がある。「莫相疑行」では少年の同僚に對す という挑戰 勢は硬直しており、「寄謝悠悠世上兒、不爭好惡莫相疑」

なものであった。ところが「赤霄行」では、後 「老 よ、 愼莫怪少年、葛亮貴和書有篇―年寄り(杜甫の自稱)

を責めるものではない、

大事とべた文章があるではないか」の二句は、 葛亮にも、人の和こそが

を一方 府の同僚

に指彈する態度を改めて、彼らと相い諍う自分の

勢をかえって思慮分別に缺けるものと反省するだけの冷靜さを見せている。「莫相疑行」と「赤霄行」との

に對する意識に明らかな相 には、同僚 が 昂から められる。杜甫の心理が激 靜へと推移したと考えるならば、「赤霄行」は相對 にい制作と考えるのが、その

!よりもはるかに自然な

"

斷となるだろう。この二作品(③④)は、制作時期を嚴密に確定することはできない。しかし制作時期が明らかな①②を基準に、相對

な位置をおよそ

(なお③④と、辭 #のように推定することが可能であろう。

直後の作と確定できる①との

後關係は、嚴密 中國詩文論叢第二十三集

(13)

には確定できない)③「寄謝悠悠世上兒、不爭好惡莫相疑」(「莫相疑行」)①「白頭趨

府、深覺負

生」(「正

三日歸溪上有作

院 公」)=辭

④「老

②「 愼莫怪少年、葛亮貴和書有篇」(「赤霄行」) たそこに刻まれた感 同僚との對立に言する四篇という複數の作品の存在、ま 府愧群材」(「春日江村五首」其四)

相ら、對立の超克へと、時系列の中で一定の方向をたどる樣 の複雜な樣相、しかも同僚との對立か

。これら三

が一つに

動するこの事實は、杜甫の辭 をめぐる

況を理解する上で重

同僚に對する敵愾心は、「 な意味を持つ。すなわち、

された感

時期の杜甫の心中に存在していた「切實な感 」ではなく、この

の同僚との對立こそが、杜甫をして辭 」であり、こ 接 を決意させた最も直 な

因であったことを

く推測させるのである。

堂の改修

杜甫は、

府の同僚との確執を直接の

杜甫のために用意した 機として、嚴武が 度參謀の職を辭して、浣

た。そして杜甫は、ただちに 堂に歸っ 堂の改

に取りかかった。 能令朱 我有陰江竹我に江を陰ふの竹有り おほ 營屋杜甫

能く朱

をして

陰 からしむ

積水

陰は積水の

高入 じ

雲端高きは

不 甚疑鬼物憑甚だ疑ふ鬼物の憑るかと 雲の端に入る 翦伐殘翦伐して殘るを やぶ

東 はず おも

面勢東

(東向き)

し面勢(布置)あらば

!永可安

洶洶開 蕭蕭として白日を見蕭蕭見白日 茲晨去千竿茲の晨千竿を去く のぞ 愛惜已六載愛惜すること已に六載なるも !永く安んず可し

"湍洶洶として

度堂匪 "湍を開く

#麗堂を度ること はか

#麗なるに匪ず

$拙

%考槃拙を

$ふは考槃するに

%なり &雖薙葺

&

ぎ葺 くのみと雖も衰疾方少 '衰疾方て少しく はじめ

洗然順 'くせん ゆる ()

洗然

)する 寂無斤斧 此足代加餐此に加餐に代はるに足る ここ (に順はば

*寂として斤斧の

*く無し

蜀中後期の杜甫(松原)

47

(14)

庶遂憩息歡庶くは憩息の歡を遂げんことを

杜甫の置かれた

況を理解する上で極めて重

める作品なので、その制作時期は嚴密に確 な位置を占 その時期は、杜甫が しておきたい。

府を辭した直後、またそれは

四 もなく

とは、載」上元元年(七六〇)の春に杜甫が 載ある。詩には「愛惜已六、茲晨去千竿」とある。この「六 には蜀を去ることになるその永泰元年(七六五)の春で

の浣 溪の りに しくこの永泰元年に當たっている。 堂を卜してから足掛け六年の意味であり、それは正

杜甫は辭

の後、

んで 堂の修 大風のために屋根が吹き飛ばされた時のように(「 に取りかかる。かつて

屋爲秋風 破歌」)、あるいは足掛け二年の梓

漂泊より久しぶりに

れ果てた

堂に歸ってきたときのように(「王

事許修

不到聊小詰」)、修繕が「必 堂貲 機は、如何にしてより快 」だったからではなく、その動 な居 正しく「趣味」の領域にあった。 境を手に入れるかという、

堂の修 は、浣

溪の すなわち、 りなものである。 に入口と窓を設え、その上で屋根を葺き替えるという大掛か りに廣がる竹林を開き、東向き

堂の東には、竹林が鬱

と 蔭い、天にも屆くほどであった。さながら鬼 り、それは川を いよいよ ような見事さなので、手を付けずに大事にしてきた。しかし が宿っている りすぎた。もし東向きに家の

入口や窓にも光が射して えを作り替えれば、

合が良くなるだろう。六年

るのだ。すると明るい日の光が差し と大事にしてきた竹林だが、今日こそは、その竹の千本を切 ずっ み、せせらぐ川(浣

溪)も見渡せるようになった。家を改

なものではない。また拙を しても、決して贅澤 うことを願うだけで、賢

蹈を氣取るつもりもない。かくして の高

堂は、刈り取った

杜甫が六年 體を休めることができるのだ。その竹林は、(以上大意) 屋根に葺くだけの粗末な作りだが、これでようやく老病の身 を に

堂を初めて營んだ時にわざわざ友人の韋續 中國詩文論叢第二十三集

*この「六年」=永泰元年には、傍證がある。「春日江村五首」其四には「扶病垂朱、歸

!紫苔。郊

"存

#計、

とあり、この 府愧群材」

$作詩の制作時期は、杜甫が

府を去って

「 堂に

#計」(

#年の計畫)を

蹉 春と分かる。その「春日江村五首」の其二には、「迢遞來三蜀、 %げるために「歸休」した永泰元年の 合している。符も恰しているのと、指泰元年を 六年目の永泰元年を意味し、がやはり永「六載」詩の「營屋」 &有六來蜀して足掛けの六年」「のこある。と」年數字は、

(15)

から り屆けてもらった綿竹が、

び廣がったものである

それから二箇 。

四には、「郊 ばかりたって作られた「春日江村五首」其 存

計、

府愧群材」とある。杜甫には浣 堂(「郊

」)で

年を る計畫(「

計」)があって、

の改 堂

は、そのための一

だったのである。

この「營屋」詩の存在は、第一に、當時の嚴武との關係を考える上でも、また第二に、その後の杜甫の出蜀の

る上でも、決定 を考え に重 第一に、すでに な意味を持つ。

でも明らかとなったように、杜甫の辭 の理由は、老病による身體

不 ・職務の

下關係に置かれることの不滿などのいくつかの 多・嚴武と上 たものであり、最後には同僚との確執が辭 因が複合し の直截 なった。このような 機と

「營屋」詩から知りうる事實を の結論を一方に踏まえつつ、この

深刻な對立(嚴武における杜甫 べるならば、嚴武と杜甫の の意志の存在

杜甫は、嚴武の かった、ということになる。 )は斷じて無

府を辭した後、嬉々として

堂の改 取りかかる。その改 に は、a必

b「 な修繕を施すものではなく、

計」( 老の計畫)の一

として、より快

境を 整備するためのものであった。この大規

には、相當の

金が必

とされる。その

金の來源が、直

の 年余りの 可能性も想定されよう 別、辭職に際して嚴武よりまとまった慰勞金が給付された 度參謀の俸給が中心であったことは確實であり、さらには

。すなわち嚴武の !

への配慮のみから出るものではなく、彼の "大さは、友人杜甫

#威を ために必 $圍に示す な、支配

杜甫には、嚴武の支配する いずれにしても、嚴武と深刻な對立關係にあったとすれば、 %の經費と見るべきものだからである。

&

'に

み續けるという

なかった。また一 (擇肢は を讓って、嚴武の實質

な監 のように自發 て杜甫には蜀を離れる自由がなかったと假定してみても、こ )下にあっ に、「 計」を立てて

「に見える ることまで想像することはできない。しかも「春日江村五首」 堂の改善に取り掛か

*屋 +堪賦、桃源自可

,」(其一)の、

活を桃源に見立てる詩句や、「鄰家 堂の生 魚 四)の、 -、問我數能來」(其 堂の .人との和やかな交流を

は、辭 /く詩句などの存在 後の杜甫が、嚴武の支配する當の

&

'において

な生活を 0和

とは總じて、この時期の杜甫と嚴武の っていたことを裏付けるものである。これらのこ

對立はなかったことの、明白な證據と言わなければならない。 1には持續する深刻な

蜀中後期の杜甫(松原)

49

(16)

「營屋」が傳えるもう一つの

息は、この

堂改

の時點で、杜甫には

い將來における出蜀の意志が

確かに杜甫は在 た、という事實である。 く無かっ の時にも「

積思江」(第一

の 希 ⑤「到村」)として、蜀を去って長江を中流(江)まで下る 詩 を べている。しかしこの種の希

が伏流水 は、蜀中時期の杜甫 のように常に懷き續けたものに

ぎなかった。

するに杜甫には、それを實行に移す

體 たのであり、旅費の な切っ掛けが無かっ には備わっていなかったのである。そのような 積も、さらには期待すべき目標も杜甫

杜甫は浣 況の中で、

堂で余生を

る「

計」を立てて、

に、 この

堂の改 しかし改 に取り掛かった。

が って三箇

もたたないうちに、杜甫は

く し

堂を てて を去ることになる。この

に、杜甫の

況に予期せぬある激變が生じたことを、この「營屋」の詩は端無くも際立たせることになる。杜甫をして俄かに

を去らしめた

たい何なのか。從來は、嚴武の死によって庇 況の激變とは、いっ り、加えて嚴武不在の がいなくな してきた に混亂の兆候が現れたためと理解

。これに對して !

年、陳 分なことを論じた上で、杜甫は長安で檢校工部員外 "君はこれらの理由が不十

#( に就任するという目標を得て、 #官)

を去ったとする新

示した。 $を提 中國詩文論叢第二十三集

*この「杜甫嚴武反目

$」は(

%1・

ける一 19參照)それを直接に裏付

&

'料を杜甫と嚴武の

また同時代人による目 (作の中に求めることはできず、

「一定の趣旨にそって複數の素材が )證言も見出せない中にあっては、

と見做すべきものであり、それは「杜甫嚴武反目 *集された傳聞の集積體」

べきものである。このような $話」と呼ぶ

$話は、杜甫

+究の重 な一部を ,するものであり、とりわけ杜甫に

い時代の

で重 -價を窺う上 な史料である

。しかしそれは、あくまでも傳記 .

ら 事實か

/別された史料として、

+究されるべき性質のものである。

*陳

"君の考證は「杜甫爲

考杜甫爲 #離蜀考」「杜甫離蜀後之行止原因新

#離蜀考續篇」(二篇とも陳

"君『

中國 0代文學叢考』

1會科學出版

1、一九九七年

收)に詳細だが、その

①杜甫の在 は以下の四つである。 點 時期の官

2は「

3袍・戎衣」であり、

#官の官 2

「朱

4(紅袍・緋袍)」ではない。また「

#官・臺

#・省 魚袋・銀章」などの #・ には見えない。つまり在 #官の身分を示す語句もこの時期の詩句 時期、杜甫は

も、まだ 度參謀ではあって

#官には任命されていない。

(17)

陳 君の新

に對しては、贊否兩論の反應がある。しかし 多くの論

においては、基本

な事實の確

が見 ために、必ずしも議論が ごされる 檢校工部員外 憾である。多くの場合、その最大の問題は、「いつ、杜甫が 實に深められてはいないことは 意 に任命されたのか」を明確にしないまま、恣 な解釋を先行させる點にある。

ここではa嚴武の奏上と、b杜甫の

のそれぞれを確 官任命の二つの時期

することで、陳

君 まず杜甫の の細部を檢證したい。

官任命の時期ついては、陳

君の に永泰元年(七六五)の春〔時期考證は第四 べるよう *印〕の「春日

蜀中後期の杜甫(松原)

51

官は、杜甫が永泰元年の

初に劍南

に、嚴武が 度參謀を辭任した後 に奏上してして授與された。同年

日江村五首」に、「赤管隨王命、銀章付老 春の「春 。豈知牙齒

名 、

賢中(其三)」「扶病垂朱

、歸休 そのる、「赤管」「銀章」「朱 紫苔(其四)」とあ 」等は、

しかも「豈知牙齒 官の身分を示す。

、名 賢中:まさか齒が

れとなって、賢 ける老いぼ を推 する名 という喜びの言辭は、この時點で初めて を汚すことになろうとは」

③杜甫が とを示す。 官が授與されたこ を去ったのは、

(七六五)四 官授與の直後、また永泰元年 時點である。第一に、杜甫は六 二十九日(又は三十日)の嚴武の死に先立つ

上旬に戎州を

時の舟行 した。當 度から 算すれば、杜甫の

出發は三

は五 ないし

上旬である。しかし五

上旬の出發は、嚴武の

また杜甫の支度に 儀、

!する時 また第二に、 "を考えると、不可能である。

も、その出發が嚴武の死以 において嚴武の死を哀悼する詩がないこと

④ #であることを傍證する。

官は、就任を

#提とした職事官である。もし

劍南 $銜であれば、

度參謀の辭任に

%って

$銜も は參謀辭任後も &失するはずだが、杜甫 官を自稱し、また離蜀後も一貫して、歸

して

官に就任することを願

'している。 *贊同論の例として、李良品は

官任命の時期を、「杜甫辭

因考」では辭 (原 (

#と見てこれを辭

「杜甫去蜀原因探 (の最大の原因と論じ、別稿 )」では辭

自己撞じ、 (後と見てこれを去蜀の原因と論

「杜甫居蜀時期 *っている。また否定論の例として、李俊標 思想發展

+論離蜀原因」では、陳

君の く「

官任命」の時期に作られた辭

「三韻三篇」には喜 (直後の「莫相疑行」

,の感 -が見られず、從ってこの時期の

官任命は無かったとして、陳

を否定する。しかし陳

れば「 君によ 官の授與は、杜甫が劍南

が 度參謀を辭任た後に、嚴武 に奏上してして得られたもの」で、

官任命は、在

でも、辭 (中 (直後でもなく、辭

(から一定の時

"を經 のことと した時點 .張されており、李俊標の

/解は明らかである。

(18)

江村五首」をもって、

官任命を確

できる最初の

做して良かろう 料と見

。詩中に見える「朱

・赤管・銀章」は、

官の

格の標識であり、「豈知牙齒

、名 い掛けない 賢中」は、思 が、長安に召 そして「中年召賈生」は、貶されて南方に流寓していた賈誼 官任命の喜びを、含羞もて表現したものである。

された故事を踏まえて、杜甫が

めに長安に 官就任のた されることの無理のない比喩となっている。

春日江村五首①農務村村

、春流岸岸深。乾坤萬里眼、時序百年心。

堪賦、桃源自可

。艱

②迢遞來三蜀、蹉 昧生理、飄泊到如今。

有六年。客身逢故舊、發興自林泉。

懶從衣結、

任履穿。

③種竹交加 籬頗無限、恣意向江天。

、栽桃爛

紅。經心石鏡

、到面 赤管隨王命、銀章付老 山風。

。豈知牙齒

、名

。④扶病垂朱

、歸休 紫苔。郊

存 計、

燕外 府愧群材。

絲卷、

邊水開。鄰家

!魚

⑤群盜哀王粲、中年召賈生。登樓初有作、 "、問我數能來。

宅入先賢傳、才高處士名。 #席竟爲榮。

$時懷二子、春日復含

%。 この詩が

&

'で作られたのは、「燕外

絲卷、

から見て、ほぼ 邊水開」

()いなく

春三

〔ユリウス

*三

日~四 二六

であろう。嚴武が二四日〕

死を +げる初

,四 九日(または 二 -日)の、一箇

あまり

喜 #である。

.の

%が /作 0體の表 が「中年召賈生」 は、この時點で、杜甫にはまだ入京の決斷がないことである。 %を形作っているが、興味深いの 官としての入京赴任を

「で、 1く示唆する一方 屋

堪賦、桃源自可

」「郊

存 計」などは、

こそは、杜甫が混沌の すはこ實ている。せる意向を見しもうと樂き續き引を活の生 2堂

官任命を傳

心理 3された直後の未整理の 以 は意を決して、家發は嚴武の死の出に長安に向かう。共と族 4う。しかし態がて杜甫よえられ考るものとす反映をや

#にあると推定されるから、そのための準備の期

(は、

5

一箇

この だったことになる。

官任命の確認される三

を基點に、

の時期を考えてみよう。 6って嚴武奏上 がこの時點で 7度參謀を罷める杜甫のために嚴武 89に奏上したとすれば、その

官は、

謀の 7度參

:銜ではなく、就任を

正 #提とする職事官である。杜甫は 三日に 2堂に歸っている(「正

三日歸溪上有作

;院 aこの時點では、杜甫に <=。公」)

官任命は傳

3されていないし、b 中國詩文論叢第二十三集

(19)

嚴武が

であればこそ、杜甫は「營屋」の詩を作って、「 に奏上したことも知らなかったはずである。そう

計」を

すべく

堂の大規

陳 改に取り掛かるのである。

君が、嚴武の奏上は杜甫の辭

とした證據に基づかぬ推定に の後と見るのは、確乎

ぎないが、その推定は極めて 當なものである。驛傳を用いれば、二箇

で と長安の 復は可能であろう。

結語

杜甫の第二

流寓時期は、廣

二年(七六四)の

から、 春

永泰元年

春までの僅か一年の時

てこの中の七箇 であった。そし を、

度參謀として嚴武の

最後の三箇 府に出仕し、

は、歸休して

堂に隱遯の生活を

この時期の杜甫については、二つの っている。

點から

究が

れる必 めら

がある。第一は

中期について、杜甫が

るに至った原因の究明である。この課題は必然 僚を辭す 友議』等が記す「杜甫と嚴武の深刻な反目」の眞否の解明と に、『雲溪 動することになる。本稿は、當該時期および辭

の杜甫の作品を 直後時期 査することによって、辭

による身體 の原因は、老病 不

・職務の苛・嚴武と上下關係に置かれる ことの不滿などのいくつかの

後には同僚との確執が辭 因が複合したものであり、最 の直截

!機となったことを確

"

した。また同時に、「杜甫と嚴武の深刻な反目」はその事實を確

"することはできず、むしろ

であることを確 #話として理解すべきもの 第二は "した。

た原因の究明である。杜甫は辭 堂歸休時期について、杜甫が俄かに離蜀するに至っ

の後、「

計」の一

て $とし

堂の大規

改に取り掛かった。このとき杜甫は、

において余生を 堂 から僅かに三箇 ろうと決意していたのである。しかしそれ 後、杜甫は

%しく 堂を その短い期 &てて長江を下る。

想定しなければならないだろう。陳 の中に、杜甫には予期せぬ激變が生じたことを

て の有力な解釋を提出している。すなわち、嚴武の奏上によっ 君は、この問題に一つ より檢校工部員外

けて '任命が傳えられ、杜甫はこれを受 (ぎ就任のために長安に向かったと見るのである。筆

)

はすでに

*稿で陳

君 稿において、改めてその #の有效性を論じたことがあるが、本

#を檢證し、その

當性を確

ものである。 "する

蜀中後期の杜甫(松原)

53

(20)

(1)代表

な記事として『雲溪友議』上・嚴

門には「杜甫拾

「杜審言孫子、擬 、乘醉而言曰「不謂、嚴挺之有此兒也」。武恚目久之、曰

虎鬚」。合座皆笑以彌

飮饌謀歡、何至於 之。武曰「與公等 考耶」。

太尉綰亦有

忤、憂怖

武母 疾。

賢良、

以小舟

不 甫下峽。母則可謂賢也。然二公幾 於虎口矣」とある。また『新

武牀、 書』杜甫傳には「嘗醉登 曰「嚴挺之乃有此兒」。武亦暴猛、外

中銜之。一日欲 不爲忤、

甫 鉤于簾三、左右白其母、 梓州刺史章彝。集吏於門。武將出、冠

救得止、獨

(2)一例として『新 彝」とある。

帥劍南、表爲參謀、檢校工部員外 書』二〇一「杜甫傳」には、「(嚴)武再

(3)「杜甫爲 」。

離蜀考」「杜甫離蜀後之行止原因新考杜甫爲 離蜀考續篇」(二篇とも陳

君『

代文學叢考』中國

科學出版 會

、一九九七年

(4)松原 收)

「杜甫

州詩考序論

書 就任を

稻田大學中國文學會『中國文學 って」(早 年、松浦友久 究』第二十九期、二〇〇三

(5)杜甫は梓 士悼號)

畫を立てていた。嚴武の !を漂泊していた時期、蜀を離れて長江を下る計

"再

「奉待嚴大夫」に、「殊方又喜故人來、重 #を聞いた直後の作である

#$須濟世才。常怪

%裨

&日待、不知旌

'(合鶯啼徼巴辭年迴。欲、

)下荊門去

。身老時危思會面、一生襟

*向誰開」。後

+四句に、荊 )6(に安長が二)に嚴武六年(七寶應元召 明する。したと放棄言 に計畫をめ、嚴武と會うたがしていた用意を船門を下ろうと

「奉濟驛重 $された時の杜甫の 嚴公四韻」の後

+に「列郡謳歌惜、三

江村獨歸處、寂寞 ,出入榮。

、ら -。これは、嚴武殘長安に歸ってか生」が "の自分に官職の斡旋を依

(7)嚴武は秋三箇 .するものである。

/を吐蕃との戰いに費やし、

0秋九 /に、最

&

に吐蕃に

1利する。

らくは凱旋の後、嚴武は

秋公陪鄭「に、 た。しいものおぼの時期の作とそ設けを宴席か度て何從えを 2府々の人 0北池臨眺」「

0秋陪嚴鄭公

)」字「奉 3訶池泛舟(得溪 4嚴鄭公廳事岷山沱江畫圖十韻(得

)8(」詩に「惜杜甫の「可 能い。高が性時期の作である可同の二篇も、⑥⑦のこ 5字、りあが)」

6心應是酒、

7興莫

9()◆「 8詩」。

7興」の詩題は、「

7興三首(下馬古戰場ほか)」「

7

興五首(蟄龍三

9臥ほか)」「

「 7興五首(朔風飄胡雁ほか)」

7興五首(天用莫如龍ほか)」「

:秋枉裴

;州手札

<爾

寄遞 7興

=蘇渙侍御」「

7興(驥子好男兒)」「至日

舊閣老兩院故人」「 7興奉寄北省 7興(干戈

>未定)」「

?廬 水宿「 7興奉寄嚴公」

7興奉

=群公」の二十四首。◆「

7懷」の詩題は、「

7

懷(昔我游宋中)」「上水

7懷」「舟中

@熱 7懷奉

=陽中丞

A B臺省 C公」「

7懷(愁眼看霜露)」「秋日

(審)李 府詠懷奉寄鄭監 D客(之

E)一百韻」の五首。◆「

「 7F」の詩題は、

7F(磬折辭

G人)」の一首。◆「

7意」の詩題は、「

7意 中國詩文論叢第二十三集

(21)

二首(囀枝

( )」の二首。

)第二

堂期に作られた「破船」詩に

「 似の表現がある。

生江心、宿昔

扁舟。豈惟

溪上、日傍柴門

( 。……」

)「立秋雨院中有作」に「……窮

愧知己、

齒借

費 籌。已

晨 、 長 謀……」。なお

を念頭に置いて「東西兩川 度參謀時期に對吐蕃戰 」を

し、また「

旱」を

( 果たそうとする努力の表れである。 て誅求を諫めている。これは杜甫が嚴武の參謀として職責を べ

)「上元元年八

又制、……文武三品已上

品 紫、金玉帶。四

深緋、五品

淺緋、竝金帶。六品

深 、七品

淺 竝銀帶。八品 、 深 、九品

淺 」。(『舊 輿 書』卷四十五・

志)。なお朱鶴齡

に「公時已賜緋而云

袍 府故耳」とあり、仇 、以在 すでに檢校工部員外 もこれを引用するのは、杜甫がこの時

!を拜命して緋衣(朱

")の官

を する官位にあったと #用

$識するからである。しかし陳

ずるように、中時期の杜甫は、まだ檢校工部員外 %君が論 していなかったと考えるべきであり、輿 !を拜命 規定が嚴格だった 代では、

袍の

#用こそ、この時期の杜甫が檢校工部員外

( !を拜命していなかったことの證左となる。

&)

「および陪鄭公秋 'の二首⑥「嚴鄭公階下新松」、⑦「嚴鄭公宅同詠竹」、

(北池臨眺」「

(秋陪嚴鄭公

(得溪字)」「奉 )訶池泛舟

*嚴鄭公廳事岷山沱江畫圖十韻(得

ど。 +字)」な

(秋の作と明記するものを中心に、これらの文宴唱和の 詩の大部分は、九

に吐蕃に

( ,利した後の作であろう。

-)杜甫と府の同僚との不和が、

體 との個人 るかは一切不明である。想像できることとして、長官の嚴武 .に何を原因としてい .な /故で格別に提

ちが嫉妬の念を持つことは、いわば人 0された杜甫に對して、同僚た

に加えて、杜甫の非 1の自然である。これ 2協

( 可能きをした性があるだろう。 .な「個性」が、集團の中で負の働 3)陳

%君に據れば、杜甫が檢校工部員外

筆作品であるとする。 がの最初る付け裏命を任五首」村日江春「の後であり、辭 !に命されたのは、任 も、この

( に贊同する立場にある。

4)「莫相疑行」「赤霄行」と同時期と見られる寓意

貽は、陳 篇圖について意作制」の「三韻三このある。が」篇「三韻三 .作品に 5『杜甫

6傳(下卷・九六三頁)』、韓

詩 武他『杜甫

。しかし景く解にしたものと 7武の譯軋轢を背、嚴)』は頁(六五一府での同僚との

8もあり、仇

・楊 は

の 9鶴

を引いて、代宗が元載・魚

批 :恩ら佞臣を信任したことを

;すると解き、浦

は、

<=な世俗一般を批

有魚魚困 、長、辱馬馬毛焦。無損鱗魚高馬勿唾面一「:其」篇「三韻三 ;すると。く解

>。君看磊

影 ?士、不肯易其身」、其二「蕩蕩萬斛船、

@搖白虹。

人自同中」小門、惡多士烈三「其、水 A檣必椎牛置大莫、風動天。自非衆功集挂席、

B。名利苟可取、

傍權 C身

D。何當官曹

、爾輩堪一笑」。

蜀中後期の杜甫(松原)

55

(22)

( )丁

陣は、年少の同僚に對する揶揄は、嚴武に對する直接 な批 が憚られる中で、屈折した心理のはけ口として

されたと論ずる。(「杜甫・嚴武〈睚眦〉考

」文學

( ○○二年第六期、二三頁) 。二 )「從韋二明府續處覓綿竹」:「

出縣高。江上舍 軒藹藹他年到、綿竹亭亭 無此物、幸分

せた竹を、 拂波濤」。杜甫は取り寄 堂の

面、江(浣

溪)の

位置、その りに植えた。その (植えて六年)から見て、この時に伐

( のは、韋續の竹である。 した )「杜甫嚴武反目

」を 張する最

の論文に、丁

甫・嚴武〈睚眦〉考 陣「杜 」(『文學

同「杜甫・嚴武〈睚眦〉再考 』二〇〇二年第六期)、

與傅

・ 在慶先生

この 」(『文史哲』二〇〇四年度第四期・總第二八三期)。また に對する反論に、傅

・ 考 在慶「杜甫與嚴武關係

( 」(『文史哲』二〇〇四年第一期・總第二八〇期)がある。

!)かつて杜甫が出蜀の

"に取りかかったとき、東川

の章彝が杜甫を丁重に餞別している。參照:「桃竹杖引 #度留後 留後」、また同時の作「將 $章

%楚、留別章使君留後、

&

'府 (公、得柳字」に「取別隨

)厚―餞別の金品は人によって

)

厚がある」。嚴武が杜甫を

'府から

( なことは十分に想定される。 *るときにも、このよう +)一例として、李白がその

水中の ,年、長江の采石磯で酒に醉い、

を捉ろうとして溺死したという「捉

話」は、傳 記

事實としてみれば

-りであるが、李白文學の傳承

おける ./に 0史 な理解と

1價を知る上で、重

2な 參照:松浦友久「李白における〈捉 3料である。

〉 記論客寓の詩想』 話」(同『李白傳

( 4文出版、一九九四年)

5)古くは『

67書』杜甫傳に、「永泰元年

8、武卒、甫無

9

依。……蜀中大亂。甫以其家

陳 :亂荊楚、扁舟下峽」。しかし

;君が指摘するように、①嚴武の死後に臨時に

た杜濟は、杜甫の天寶以來の <=尹となっ その後、 6知であり(「示從孫濟」詩)、

<=尹・西川

#度使となった郭

>乂とも鳳

の知人であり、 ?府以來

<=の また②蜀中の混亂(崔 @境は杜甫に對して險惡ではなかった。

Aの反亂)は閏九

で、杜甫の離蜀

B

年後の事件である。從って、嚴武の死が、杜甫を離蜀の

驅り立てたとする "に 6は、

<り立ち

( Cい。

D)仇

Eでは '中期の作と見る「村雨」詩に「攬帶看朱

箱睹 F、開 G裘」、また「獨坐」詩に「悲秋迴白首、…朱

F負 とある。しかしこの二篇は H生」

<=の作とも、いわんや

作とも見るべき根據もない。 '中期の '中期の杜甫は檢校工部員外

I

銜を帶びていたという臆斷が、こうした系年を

ちある。なみに浦 であろう。作品そのものは、離蜀以後の作と見るのが穩當で Jいたの Eでは「獨坐」を湖南漂泊時期の作と見る。

〔附記〕本稿は、

H<十四年度專修大學

4究助

<(個別

國古典詩における 4究)「中 題と樣式」の

4究

<果の一部である。 中國詩文論叢第二十三集

参照

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