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書物史の中の罪の戦利品-グレヴィルの不在の22ペ ージを読む

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書物史の中の罪の戦利品‑グレヴィルの不在の22ペ ージを読む

著者 圓月 勝博

雑誌名 同志社大学英語英文学研究

号 77

ページ 21‑43

発行年 2004‑03‑01

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004609

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書物史の中の罪の戦利品

―グレヴィルの不在の 22 ページを読む

圓 月 勝 博

 1628年9月1日,初代ブルック男爵フルク・グレヴィルは,老召使いラル フ・ヘイワードに左脇腹をナイフで二度刺され,1ヶ月ほど死の床に伏した 後,74歳の誕生日を3日後に控えた同月30日,加害者の罪を哀れみつつ心 静かに息を引き取った。犯行の直後に自死したヘイワードの凶行の動機は,

待遇に関する不満であったとの憶測もあるが,いかなる記録も残さず歴史の 闇に消えた老残の日陰者の胸中をさかしらに詮索しても,さしたる学問的意 味もなかろう。書物史の実践例を提供することを目的とする本稿が注目した い点は,近世イングランド屈指の宮廷人グレヴィルの死を伝えるテクストで ある。グレヴィルの領地ウォリックの教会には,彼の死の直後,その遺志に 従って建てられた墓が残っており,その陰鬱な黒く巨大な石の上には,次の ような墓碑銘が今もなお鮮やかに読み取れる。

FVLKE GREVILL

SERVANT TO QVEENE ELIZABETH CONCELLER TO KING JAMES AND FREND TO SIR PHILIP SIDNEY

TROPHAEVM PECCATI1

初期ステュアート朝イングランド最大の財産家と謳われたグレヴィルは,実

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際の死の10年以上前から,自分の墓の建立計画を周到に構想していた。し かし,一寸先は闇と言われる策謀渦巻く宮廷の中で,エリザベス一世から ジェイムズ一世を経てチャールズ一世に至る3代の君主に平穏無事に仕え続 けるという比肩する者なき経歴を誇る自己を語る言葉として,後世において も公衆の目に留まることを彼が最終的に許した文字は,拍子抜けするほど簡 素なものだったのである――「フルク・グレヴィル/エリザベス女王の従僕

/ジェイムズ王の相談役/そして,サー・フィリップ・シドニーの友人/罪 の戦利品」。

 東京都文京区に設立された印刷博物館の総合展示室に足を踏み入れると,

石に何かを刻みつける人間の模型が展示されている。2 <出版(publication)>

という言葉を<何かを公にすること>という意味に解釈するならば,たしか に,人類文化における出版テクストの原型は,石に刻まれた文字にある。

「サー・フィリップ・シドニーの友人」であったことを晩年に至るまで誇り にしつつ,生涯にわたって独身を貫いたグレヴィルは,手稿回覧という出版 形態をとおして,自らも卓越した詩人として知られていたが,生前,自分の 著作が活字出版されることを決して許可しなかった。彼が公衆の目に触れる ことを許した著作があるとするならば,上に見た墓碑銘だけなのである。文 人としての矜持を墓碑銘の建立に注いだグレヴィルは,出版という行為の原 点に回帰したかのようである。彼の著作の歴史的読解を試みる者が最初に目 を向けるべきテクストは,彼の墓に刻まれた文字でなければならない。

 グレヴィルの遺志を正確に反映したものかどうかを検証する術もないため,

作者とともにその意図も死滅した墓碑銘は,多様な解釈に向かって拡散して しまっている。「罪の戦利品」という最終行は,「フルク・グレヴィル/エリ ザベス女王の従僕/ジェイムズ王の相談役/そして,サー・フィリップ・シ ドニーの友人」という上の4行と同格で,その輝かしい交友関係を「罪」に 汚れた現世における数少ない「戦利品」として誇っているようにも読める。

しかし,「戦利品」が単数形である点に文法的に厳格にこだわれば,直前の

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「サー・フィリップ・シドニー」という固有名詞だけと同格で,夭折した莫 逆の友シドニーに対する老グレヴィルの消えることのない愛惜の念を表明し たものとも解釈できる。さらに,「罪の戦利品」という謎めいた最終行は,最 初の「フルク・グレヴィル」という固有名詞と同格で,「罪」の所有すると ころとなった「戦利品」として自分自身を描く苦渋に満ちた罪悪感の表現と も読める。そして,すべての場合において,語り手をグレヴィル自身と取る か,それとも,墓碑銘読解の約束事に従って,語り手を墓石と取るかによっ て,墓碑銘の解釈が大きく振幅する。どの解釈もグレヴィルらしいと言えば グレヴィルらしいが,とりわけグレヴィルらしい点は,作者の意図が死滅し た後の解釈不可能性である。

 グレヴィルの作品が持つ解釈不可能性が端的に現れるテクストは,1633年 に死後出版された『若き日にサー・フィリップ・シドニーとの親密な研鑚の 中で書かれた誉れ高きブルック卿フルクの精選諸著作集』(以下『著作集』) である。3 彼の遺稿をまとめた書物だが,誰がどのような意図で出版したのか もわからない。しかも,このグレヴィルの書物は,23ページから始まるとい う異様な製本になっている。出版の最終段階において,何らかの理由によっ て,冒頭の22ページが緊急削除されたのだが,その削除の理由も歴史の闇 に消えて,今では知る由もない。栄光の宮廷人の遺稿集が無惨に傷つけられ た状態で出版されているという書物史的事実の中には,16世紀後半から17 世紀のイングランドが経験しなければならなかった文化的葛藤の痕跡だけが 刻印されているのである。本稿の目的は,1633年に死後出版されたグレヴィ ル遺稿集の不在の22ページを書物史の観点から読解することにある。

 まず,グレヴィルが執筆活動を行った近世においては,自分の著作が活字 出版されることを忌避する<活字の恥辱>と呼ばれる文化的心性があったこ とを確認しておこう。4 コンピュータ時代と呼ばれる21世紀において,イン ターネットで個人的意見や情報を公開する人々を軽蔑する風潮が根強く残存 しているが,それと同じように,活版印刷が急速に普及し始めた15世紀後

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半においても,活字によって自己の思想や生涯を知られることを人品卑しき 行為とみなす傾向が強くあった。たとえば,17世紀中葉の忘れられた大詩人 エイブラハム・カウリーは,<活字の恥辱>からの脱皮を推進した詩人の一 人であるが,1656年に自作詩集を自分自身で活字出版するにあたって,自分 が「死者」になったかのような気がするという奇妙な弁解を延々と「序文」

で述べているが,著作の活字出版は,本来ならば自分で進んで行うべきもの ではないという文化的規範を彼は確認しているのである。5 もしも,活字出 版されることがあるとするならば,グレヴィルの遺稿集と時を同じくして,

1633年に出版されたジョン・ダンの『詩集』やジョージ・ハーバートの『寺 院』のように,著者が死んだ後,その著作をもっと多数の読者に供したいと 考える信頼できる友人などによって活字出版されることが正しい知識人のあ り方なのであった。

 <活字の恥辱>をめぐる近世イングランドの書物史的問題を集約する人物 の一人がグレヴィルである。「サー・フィリップ・シドニーの友人」という 墓碑銘の文言にも明確に示されているように,グレヴィルが文学史に名前を 残している最大の理由は,1586年に31歳で夭折したシドニーをエリザベス 朝に咲いた騎士道の華として描いた『シドニー伝』を残したからである。6 し かし,グレヴィルとシドニーの関係は,前者が後者の伝記を書いただけでは ない。自らの著作を手稿回覧することはあっても,決して活字出版すること はなかったシドニーが残した『オールド・アーケイディア』の劣悪な手稿が 某印刷出版業者の手に渡ったとき,別の印刷出版業者ウィリアム・ポンソン ビーからその情報をいち早く入手して,故シドニーの後援者でもあった サー・フランシス・ウォルシンガムに伝えるなど奔走して,ポンソンビーに よって1590年に活字出版される『ニュー・アーケイディア』の良質の手稿 を提供した上,校正を含む印刷工程の監督を行った人物がグレヴィルであっ た。7 鬼籍に入った友人シドニーの遺稿が不完全な形で出版されることを阻 止しただけではなく,<活字の恥辱>という文化的概念ゆえに著者生前は決

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して公刊されなかった著作の良質の手稿を印刷出版業者に提供することに よって,手稿回覧文化と活字出版文化を橋渡しするという重大な役割を果た した人物がグレヴィルだったのである。

 活字出版という行為に対して,シドニーやグレヴィルがこれほど大きな警 戒心を持っていた理由は,グレヴィルの『シドニー伝』の中の一節が明らか にしている。シドニーとともに詩才を磨いたグレヴィルは,『アントニーとク レオパトラ』と題された悲劇を執筆していたが,その悲劇の「国政を捨てて 感情に従う」という主題ゆえに,第二代エセックス伯の叛乱に荷担したとい う嫌疑がかかることを恐れて,自分自身でそれを焼却処分することによって,

「作者自らが死刑執行人」になったと語る。8 1601年のエセックス伯の叛乱と の関連が具体的に言及されているところから見て,幻の悲劇『アントニーと クレオパトラ』の執筆時期は,1590年代終わりなのであろう。自作を焼却し た理由として,当時の状況を振り返るグレヴィルは,彼が想定する当時の読 書習慣を開陳する。まず,「現行の支配者および支配体制の悪徳の擬人化」を 作品の中に読み取ろうとする「稚拙な気紛れ」を持つ者たちが警戒されてい る。そして,その警戒が過敏過ぎるものではないことを説明するために,オ ウィディウスの寓意的読解の手法を使って,「時代」や「場所」を自由自在に 変換しながら,主人公アントニーのような「偉大さの突然の転落」に「その 時に転落していったエセックス伯」を重ね合わせる読みが成立する可能性を 自ら指摘するのである。作品中の虚構の登場人物を実在の同時代の人物と同 一視する政治的読解は,現代批評の観点から見ると,あまりに素朴で恣意的 な解釈行為のように思えるが,グレヴィルの説明を信じるならば,それが16 世紀から17世紀にかけての標準的な読書習慣なのであった。思慮深いグレ ヴィルは,いったん作者の手を離れた著作が作者の意図を離れた政治的解釈 に委ねられる危険を強く意識しており,自分の著作が不特定多数の読者の目 に触れることを恐れているのである。シドニー・サークルの最後の生き残り となったグレヴィルを支配する<活字の恥辱>という文化は,近世イングラ

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ンドにおいて活字印刷された書物という新たなメディアが持つ不安定な政治 性の産物なのである。恋愛詩集『シーリカ』の数編がウィリアム・ダウラン ドによって作曲されたことに加えて,1609年に著者の承諾なしに出版された 粗悪な『ムスタファの悲劇』という意に反した例外を除けば,生前のグレヴィ ルが決して自作の公刊を行わなかった理由は,ウォルシンガムからレスター 伯を経てエセックス伯に流れるエリザベス宮廷における急進的プロテスタン ト勢力の政治的磁場に身を置いてきた政治家としての経験から体得した出版 という行為の政治性の中にある。9

 グレヴィルが警戒を怠らなかった<活字の恥辱>は,著者の死から5年後 の1633年に出版された遺稿集の中に異様な亡霊のように立ち現れる。この

『著作集』には,『人文学論』と『名声と名誉に関する探求』と『戦争論』と いう3編の論考詩,『アラハムの悲劇』と『ムスタファの悲劇』という戯曲2 編に加えて,恋愛詩集『シーリカ』と書簡2編が収められている。ところが,

この『著作集』には出版直前に加えられたとしか考えられない杜撰な改訂の 痕跡がある。本来は明らかに二桁であった本文ページ通し番号の最初の数字 が手書きのインクによって消去され,本文が3ページから始まっているので ある(図1参照)。手書きのインクによって消去された数字が「2」であるこ とが書誌学的に確認されている。10 すなわち,本文の活字印刷が既にすべて 完了した段階で,本文最初の22ページに何らかの不都合が発見されて,製 本装丁作業の前に該当ページが廃棄され,それを隠蔽するために,目次ペー ジだけを刷り直した上,手書き作業によって一桁目の数字を消去して,本文 を3ページから始めるといういかにも緊急避難的な措置が取られて,活字出 版に何とかこぎつけたということになるのである。廃棄されたページ数から 推定した行数を判断材料として,いったんは活字印刷までされながら,最終 段階において公刊が不可能になった作品は,論考詩『宗教論』であることは まず間違いないであろう。当代が誇る理想の宮廷人の遺稿がこのような形で 汚されることにこそ,<活字の恥辱>という近世出版文化のおぞましさが端

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図1

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的に現れている。

 このような異様な書物が生まれた原因として考えられる可能性は,既にこ の世を去ったグレヴィルが若き日に執筆した『宗教論』が,作者の意図など とは関係なく,1633年の死後出版の段階において,検閲によって出版許可さ れなかったということである。1633年と言えば,ウィリアム・ロードがカン タベリ大主教の地位に就き,いわゆるロード体制が確立して,出版をめぐっ てピューリタン思想の抑圧が顕著になった時期である。11 1633年という年 は,ダンの『詩集』やハーバートの『寺院』という17世紀英国国教会詩人 の代表と目されることになる人物の主著が死後出版された英文学史上記念す べき年であるが,その文学的栄光の陰で,ダンやハーバートよりもさらに社 会的名声が高かったグレヴィルの遺稿集が検閲によって上記のような無残な 出版物になり,17世紀英文学の正典から排除された年でもあったことを忘れ ていては,17世紀英文学論として一面的と言うものであろう。しかも,ハー バートの『寺院』は,ケンブリッジ大学出版局から上梓されている。創生期 のケンブリッジ大学出版局が主に古典や神学書の出版を目的としていたこと を考え合わせると,いくら家柄に優れているとは言いながら,1633年に鬼籍 に入ったばかりの同時代詩人ハーバートの宗教詩集を間髪入れずに上梓する ことは,グレヴィルの遺稿のようなピューリタニズムに親和性の高い著作を 世に出すことに熱心であったロンドン出版業界に対抗するための異例の出版 事業であろう。1633年のグレヴィル『著作集』の不在の22ページは,作者 の意図とは無関係な政治的な理由によって,偉大な詩人が17世紀英文学の 正典から排除された瞬間を物語っているのである。

 1633年に死後出版されたグレヴィル『著作集』の検閲の詳細を伝える資料 は,隠蔽を目的とする検閲という行為の性格上から言って当然のことながら,

後世には何も伝えられていない。しかし,グレヴィルが忠実な王政主義者で あったことを伝える墓碑銘の文言の中に,エリザベス一世とジェイムズ一世 の名前はあっても,最晩年に仕えたチャールズ一世の名前だけがないことは,

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チャールズ一世の治世のもとで過ごされたグレヴィルの晩年が必ずしも幸福 なものではなかったことを示唆している。事実,グレヴィルの遺稿集とロー ド体制下の検閲の間にあった軋轢を暗示する言説が内乱勃発前後から世に現 れ始める。鍵を握る人物は,第二代ブルック卿ロバート・グレヴィルである。

生涯を独身で過ごしたフルク・グレヴィルは,晩年,甥のロバートを養子に 迎えて,ブルック男爵位を継がせた。フルク・グレヴィルの後継者ロバート は,チャールズ一世の親政の終焉を告げることになる主教戦争の失敗以降,

ロード体制批判の口火を切ることになる人物なのである。たとえば,1641年 に出版された彼の激越なロード体制批判パンフレット『イングランドにおい て実施されている主教制の本質を暴露する演説』は,主教の「悪影響によっ て大学が腐り果てている」ことを糾弾した上で,主教の行状をネロの母親殺 しに喩えつつ,「説教と祈りと聖書解釈」における表現の自由の弾圧をロード 体制の最大の欠陥として舌鋒鋭く攻撃している。12 英国国教会主教制を批判 するロバートは,大学の腐敗と表現の自由の弾圧を表裏一体の現象として把 握しつつ,教会政策をネロの母親殺しに喩えることによって,その罪が前世 代の文化的業績の抹殺にあることを暗示しながら,ロード体制下の検閲に対 する激しい憎悪を表明しているのである。

 ロード体制批判の先頭を走ったロバート・グレヴィルは,上院議員であり ながら議会軍に司令官として身を投じて,1643年の王党派との戦闘において 戦死してしまう。17世紀イングランドにおいて出版の自由を最も先鋭に表現 したジョン・ミルトンは,翌1644年に出版された古典的パンフレット『ア レオパジティカ』の中で,上記のロバートのパンフレットを知悉しているこ とを誇示しつつ,「ブルック卿」という名前に対して検閲批判の偉大なる先駆 者として最大級の賛辞を捧げている。13 出版の自由を高らかに主張する『ア レオパジティカ』を出版したミルトンが同年に『教育論』を出版しているこ とも偶然ではない。ミルトンのパンフレット戦略においては,出版の自由と 教育改革が不可分の課題として提示されているのである。さらに,ミルトン

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の『教育論』は,ドイツ出身の教育改革者サミュエル・ハートリブに献呈さ れているが,ハートリブが文通をしていたチェコ出身の汎知学者コメニウス を1641年にイングランドに招聘するにあたって,尽力した庇護者の一人が 他ならぬロバートであった。『アレオパジティカ』の中で,ミルトンがロバー トを自分たちが推進しようとしている知の運動の指導者と賞賛していること は,決して若き理想主義的詩人の気紛れではない。ロード体制と激しい確執 を醸し出したロバートが,内乱期における激しい英国国教会批判の中で,検 閲がもたらす教育の腐敗という罪と戦う人物として明確に理解されているの である。そして,王党派との戦闘において倒れた「ブルック卿」ロバート・

グレヴィルの背後には,エリザベス朝プロテスタンティズムの輝かしい伝統 を体現したシドニー・サークルの最後の証人「ブルック卿」フルク・グレヴィ ルの存在があることをミルトンたちが知らなかったはずはないのである。

 事実,内乱が議会軍の勝利によって終結した後,共和政が成立してから3 年後の1652年,グレヴィルが残した遺稿『シドニー伝』が初めて活字出版 される。親友シドニーの名声を伝えるために執筆されたらしい『シドニー伝』

を近代的な意味での単なる名士の伝記と考えると,この著作が持つ政治性を 見誤ることになるだろう。1652年版の正式書名(『高名なるサー・フィリッ プ・シドニーの生涯。およびすべての外国君主との関係におけるイングラン ドの真の利害。とりわけ彼によって述べられたスペイン勢力を抑える方策に ついて・ ・ ・』)からも読み取れるように,14 一般に『シドニー伝』と呼び 習わされているグレヴィルの著作は,16世紀後半のイングランドを取り巻く ヨーロッパ国際政治情勢を分析した政治的文書でもある。事実,グレヴィル の具体的な叙述は,親友シドニーがスペインからの独立運動を行っていたオ ランダの指導者ナッサウ家のオラニエ公ウィレムと連絡を取り合っていたと いう事実から始まり,両国の未来を担うと目された二人の最大の関心は,「イ ングランド,フランス,ドイツ,イタリア,オランダあるいはスペインを舞 台にして交わされていた最高機密の出来事」にあったと言明する。15 1652年

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版の『シドニー伝』の主要な強調点は,その書名が「スペイン勢力を抑える 方策」を特筆していることからもわかるように,対スペイン政策の伝統に あった。国王チャールズ一世を処刑して,前代未聞の共和政となったイング ランド政府は,当時,西インド諸島の植民地化を目論む西方政策を推進して,

領海権をめぐってスペインと戦争状態に突入していたが,自分たちの政策の 正当性を保証する権威として,シドニーとグレヴィルというエリザベス朝宮 廷が誇るプロテスタント貴紳の名前と伝統を必要としていたのであった。状 況が急進的プロテスタンティズムに追い風となり,その公刊が必要となれば,

絶妙のタイミングで活字出版されるということは,グレヴィルの死後,彼の 遺稿がかなり広範に手稿回覧され続けていたことを暗示する。活字出版され た書物は,文字情報の氷山の一角に過ぎず,その地下水脈には手稿の形態で 多数の著作が流通していたことは,17世紀イングランドの文学文化を理解す るために欠かすことのできない視点である。16 グレヴィルの『シドニー伝』

は,内乱によってロード体制と王政が完全に瓦解したとき,反スペイン政策 の政治的プロパガンダとして,手稿回覧という地下水脈から活字出版文化の 世界に突如として姿を現したのである。

 作者の意図とは関係なく,時宜折々の政治的読解に晒されることがグレ ヴィルの著作の運命である。共和政は護国卿体制に移行するが,1658年のカ リスマ的指導者クロムウェルの死によって,20年近い政治的混乱を経験した イングランドは,1660年の王政復古によって,内乱以前の統治形態に戻るこ とになる。共和政の時代に政治的プロパガンダとして脚光を浴びたグレヴィ ルの『シドニー伝』は,もはや御用済みになるかと思うと,そうではないと ころが読書史の妙味である。初版出版から16年も経った1668年前後に,グ レヴィルの『シドニー伝』のリヴァイヴァル・ブームが起こるのである。1668 年元旦のサミュエル・ピープスの日記には,彼が上司ジョン・クルーの家に

「仲間」とともに集まり,歓談をしたことが記録されている。この歓談を差配 するクルーは,「サー・フルク・グレヴィルによって書かれた『サー・フィ

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リップ・シドニー伝』のある箇所を指して,それは預言と言ってもよいほど 我が国とオランダの関係の現状を言い当てている」と発言して,ピープスに 大きな感銘を与えるのである。17 ピープスの周辺で一種の集団読書が行われ ているわけだが,そこで読まれている書物がグレヴィルの『シドニー伝』だっ たのである。1668年の時点において,イングランドの最大の外交的関心事は,

前年に終結した第二次英蘭戦争の戦後処理として,今後の対オランダ政策 だったのである。1659年にフランスに完敗して急速に没落し始めていたスペ インの脅威は,もはや語るに値するものではなくなっていた。このような政 治的状況の変化に合わせて,1652年の初版出版当時,反スペイン政策の政治 的プロパガンダとして出版されたグレヴィルの『シドニー伝』は,1668年の 時点においては,対オランダ政策の規範を「預言」の如く示す権威的な書物 として,新たな読者によって再発見されたわけである。近世イングランドに おけるテクストの意味は,作者の意図が文字によって支配するものと言うよ りも,文字と声が交錯する集団読書のような環境の中で,読者が必要に応じ て融通無碍に消費するものなのである。

 クルーを囲んで行われた『シドニー伝』集団読書に大きな刺激を受けた ピープスは,持ち前の旺盛な好奇心を発揮して,「その書物を一冊買う決心」

を即座にしている。そして,持ち前の果敢な行動力によって,翌1月2日に はさっそく書店に足を運んでいる。消費の欲望に突き動かされたピープスの ような読者は,書物の話を聞くだけでは満足できず,その書物を所有したい と思い始めるのである。そして,ウエストミンスター・ホールから家路に向 かうピープスは,「途中で『サー・フィリップ・シドニー伝』(昨日触れた書 物である)を苦労して見つけた」。ピープスのようにロンドン在住の経済的余 裕のある人物なら,多少の「苦労」は伴うようだが,欲しい書物がすぐに入 手できる出版物流通体制が整備されつつあったことがこのエピソードの中に は示唆されている。ピープスと顔見知りらしい書籍商は,『シドニー伝』が

「この一,二週間のうちに4冊も売れて,これまでに売った以上の冊数だが,

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なぜこんなに売れるのか想像もできない」とピープスに語った。たしかに,

16年も前に出版された決して読み易いわけでもない書物が短期間に4冊も売 れるという現象は,書籍商にとって異例の出来事であろう。ピープスが「同 じ理由だと思う」と日記の中に記しているように,第二次英蘭戦争直後の混 乱の中,多くのロンドン市民が対オランダ政策のあるべき姿に思いをめぐら すとき,シドニーとグレヴィルが一世紀近くも前に関わったオランダとのプ ロテスタント同盟構想の歴史が現在の有効な指針となることが口コミで広 がっていたのである。情報通ピープスがロンドンを闊歩する王政復古期とは,

都市空間の中での声と文字が交錯する情報が書物の売行きを左右するという 事実を書籍商が発見した消費の時代でもある。

 1670年,この時代錯誤的なグレヴィル・ブームに便乗する形で,1633年 に検閲によって削除されていた22ページ分の『宗教論』が,従来はその存 在さえも知られていなかった長大な論考詩『王政論』とともに,遂に活字出 版された。初めて全貌を現すグレヴィルの『宗教論』は,内乱を挟んだ数十 年の時を経ても,王政復古期の温厚なピューリタンであるリチャード・バク スターをたじろがせるに十分なほど過激な言説に満ち溢れている。どの部分 が1633年の検閲官の逆鱗に触れたのかは今となっては知る由もないが,た とえば,『王政論』の中には,内乱を「預言」したかのようにさえ読める次 のような激越にして辛辣な聖職者と教育機関に対する批判がある。

29 

They draw the sword of power against her owne, Or else stirre people up to warre their Kinges;

Both must be theirs, or both be overthrowne:

They bind man unto wordes, God bindes to things:

For these false heades of holie mother see, Scepters to Miters there inferior be.

(15)

30 

Amonge our selves besides there manie be, That make Religion nothinge else but Art To master others of their owne degree, Enthrall the simple well-believinge hart:

These hate opposers, scorne obedient fooles, Affectinge raigne by educations tooles.18

聖職者が王権を侵食して,その宗教政策によって人心を惑わす様を見事に描 いている。グレヴィルが念頭に置いている歴史的事実としては,中世以来の カトリック教国における教皇権と皇帝権との醜い確執のようだが,「国民を国 王との戦争に駆り立てていく」という一節などは,一般祈祷書の導入によっ てスコットランドとの主教戦争を引き起こし,内乱に突入していくイングラ ンドの情況そのままである。「神は人を物に結び付けたのに,やつらは言葉に 結び付ける」という一節などは,自分たちの高い教育を利用して人心を操作 しようとする聖職者の腐敗の本質を鋭利に剔抉して有無を言わせない。聖職 者による「言葉」と「物」の意図的混乱の認識を契機にして,29節の聖職者 批判が30節の教育批判に展開していく論旨などは,グレヴィルの後継者ロ バートが『イングランドにおいて実施されている主教制の本質を暴露する演 説』において展開したロード体制批判と同工異曲である。たしかに,1633年 の検閲者が『王政論』の削除を命じたとしても不思議ではない。天才シドニー の華麗な筆と競い合いながら,シドニー・サークル屈指の知性グレヴィルに よって鍛え上げられたセネカ風平明体が,時限爆弾のように,炸裂し続ける 強靭無比な論考詩なのである。最高の宮廷人としての名声を享受し続けなが ら,イングランド国政の中枢に確固たる地位を築いたグレヴィルが教会と国 家をこれほど批判的な眼差しで見つめていたという点に,凡人を震撼させる

(16)

近世イングランド宮廷政治の深淵が顔をのぞかせている。

 1670年にグレヴィルの『王政論』を収録する『拾遺集』を出版した人物は,

王政復古期前半の最も重要な書籍出版販売業者と称されるヘンリ・ヘリング マンである。19 この『拾遺集』の巻頭には,ヘリングマンのイニシャルを末 尾に記した「広告」と題された一文が付けられている。まず,第一パラグラ フにおいて,著者グレヴィルがいかにやんごとなき人物かということを慇懃 に述べ立てた後,続くパラグラフにおいて,『拾遺集』出版に至る経緯を説明 する。ヘリングマンの説明によると,死を控えたグレヴィルの手稿は,「年配 のジェントルマンである友人マイケル・マレット氏」に託され,著作を「一 括して活字出版したい」という故人の遺志に従って,マレット氏が活字出版 を計画したが,散逸した作品などもあり,手間取っている間にマレット氏本 人も鬼籍に入った。その後,ヘリングマンが『拾遺集』に収録することになっ た『王政論』と『宗教論』の手稿は,「サー・J・M」なる人物に渡り,そ の匿名人物から「出版許可」をもらったとヘリングマンは主張する。ロンド ン出版業界の頂点に君臨するヘリングマンは,著者の死後40年以上経って から活字出版された『拾遺集』が不正出版物ではなく,由緒正しい合法的な 書物であることを宣伝しているのである。

 自分の合法性をことさらに申し立てるヘリングマンの「広告」は,当時,

怪しげな出版物を活字化する人物も多く,出版業の社会的信頼が決して高く なかったことを暗示するとともに,『拾遺集』に収録された著作の手稿をめ ぐって,複雑な経緯があったことをヘリングマン自身が認識していることを 示唆している。なぜならば,ヘリングマンの「広告」の中で,グレヴィルの 手稿を託されたマレットという人物は,「ジェントルマン」とかグレヴィルの

「友人」と呼ばれているが,実際には,グレヴィルの最後を看取った召使いに 過ぎないのである。<活字の恥辱>に敏感であったグレヴィルが自分の著作 を「一括して活字出版したい」という意向を持っていたかどうかはかなり疑 わしく,もしもそのような意向を持っていたとしても,当時の身分社会の慣

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習から言って,召使いという身分卑しき者に遺稿を託すことはさらに疑わし い。また,自分の手稿入手経路が「サー」というナイト爵を持つ人品卑しか らざる人物であることを特記して,読者の信用を勝ち得ようとしているが,

謎の人物の実名を明かすことはない。わざわざ「出版許可」をもらったこと を明記するというのも,今回活字化する『宗教論』が内乱以前に検閲によっ て出版禁止されたことを知っているからであろう。辣腕のヘリングマンは,

『宗教論』が現在でも政治的に十分危険なことを承知の上で,活字出版に至る 経緯の細部を歪曲あるいは隠蔽しながら,グレヴィルの遺稿の活字出版に踏 み切ったのである。

 ヘリングマンの「広告」の最後の一節は,抜け目なく『拾遺集』とともに

『シドニー伝』の購入も勧めている。ニュー・エクスチェンジに店舗を構え るヘリングマンは,この時点で,『シドニー伝』の現品在庫も入手して,自分 の店舗において店頭販売しているのである。グレヴィルの『シドニー伝』は,

1652年にヘンリ ・セイルという書籍出版販売業者によって活字出版された が,このセイルという人物は,1661年頃にこの世を去っている。その後,当 時の慣例に従って,彼の未亡人アンナが事業を継いでいるが,1667年を最後 に業務活動の記録は途絶える。辣腕のヘリングマンは,王政復古以降,同業 者から版権を買い集めることによって,ロンドン出版業界の頂点に踊り出て いたので,1667年頃に死亡あるいは廃業したアンナ・セイルから,『シドニー 伝』の版権と在庫を買い取ったものと推測できる。事実,1668年1月2日に ピープスが訪れた書籍商は,このヘリングマンである可能性が高い。『シド ニー伝』を入手したくなったピープスは,仕事が終わった後,当時,書籍店 舗が立ち並んでいたウエストミンスター・ホールに向かったが,お目当ての グレヴィルの著作を見つけることができず,アクス・ヤードの自宅を通り過 ぎて,彼の日記に頻繁に登場する顔見知りのヘリングマンの店舗にまでわざ わざ行って,ようやく『シドニー伝』を購入できたのである。「苦労」したと 言っている理由は,書物一冊のためにこのような遠回りをしたからであろう。

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ピープスが書籍商と親しげに話をしている様子が日記には記されているが,

この記述も『シドニー伝』の在庫を持っていた書籍商がピープスの顔見知り の人物であったことを暗示している。辣腕商人ヘリングマンは,対オランダ 政策をめぐってグレヴィルの著作が再び脚光を浴びていることをピープスと の会話から知って,グレヴィルの著作に商品価値があることを確信した上で,

その遺稿探しに取りかかったのである。40年以上も前にこの世を去った著者 の検閲によって禁書扱いになった著作の手稿を狙いどおりに入手して,すみ やかに合法出版にこぎつけたところに,ロンドン出版業界の頂点に君臨する 商人ヘリングマンの秀でた膂力が示されている。

 1628年に狂気の召使いによって殺害されたグレヴィルだが,その手稿は別 の忠実な召使いによって守られていたのである。そして,1633年に検閲とい う「罪の戦利品」として消えた22ページは,1670年に出版の商業化という 新たな「罪の戦利品」として再び姿を現した。「罪の戦利品」という文字を自 分の墓碑銘に書き込んだシドニー・サークルの知の墓守グレヴィルをめぐる 書物史は,著作の意味が作者の意図とは無関係に政治的状況によって左右さ れながら浮遊し続けることを冷徹に自覚していた稀有なる宮廷人グレヴィル にふさわしい物語であると同時に,イングランドのルネサンス出版文化の地 下水脈に流れていた美学とその終焉を雄弁に伝えてくれる忘れがたい物語で もある。

*本稿は,2002年10月13日に東京女子大学にて開催された第41回シェイクスピア学 会のセミナー「イギリス・ルネサンスの文学と出版」において,ゲストとして報告 した論考に加筆訂正を行ったものである。

01 Ronald A. Rebholz, The Life of Fulke Greville: First Lord Brooke (Oxford: Clarendon P, 1971), pp. 317-8.

02 印刷博物館の総合展示は,以下のサイトからインターネットによっても鑑賞でき

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る。http://www.printing-museum.org/jp/exhibition/permanent/index.html

03 Certaine Learned and Elegant Workes of the Right Honorable Fulke Lord Brooke, Written in his Youth, and Familiar Exercise with Sir Philip Sidney (London: Printed by E. P[urslowe]

for Henry Seyle, 1633).

04 <活字の恥辱>に関しては,J. W. Saunders, “The Stigma of Print: A Note on the Social Bases of Tudor Poetry,” Essays in Criticism, 1 (1951), 139-164を参照のこと。

05 Abraham Cowley, Poems: “Miscellanies,” “The Mistress,” “Pindarique Odes,” “Davideis,”

“Verses Written on Several Occasions,” ed. by A. R. Waller (Cambridge: Cambridge UP, 1905), p. 6.

06 グレヴィルが執筆したシドニーに関する著作の一般に使用されてきた題名『シド ニー伝』は,後に述べるように,1652年に初めて活字出版された時の慣例を踏襲す るもので,著者の意図を反映するものではない。グレヴィル散文作品の最新の編者 は,『サー・フィリップ・シドニーへの献辞』という題名を著者の意図に近いものと して新たに提案しているが,推測された作者の意図を復元することが書誌学の目的 かどうかに関しては,書物史の立場から異論もあり得るところであり,本稿におい ては,便宜的に慣例に従って『シドニー伝』と表記する。John Gouws, ed., The Prose Works of Fulke Greville, Lord Brooke (Oxford: Clarendon P, 1986), pp. xiii-xvを参照のこ と。

07 ポンソンビーとの接触をウォルシンガムに告げる158611月のグレヴィルの有

名な書簡の最も信頼できる転写文面は,William A. Ringler, ed., The Poems of Sir Philip Sidney (Oxford: Clarendon P, 1962), p. 530に収録されている。シドニーと手稿回覧文 化の関係に関しては,H. R. Woudhuysen, Sir Philip Sidney and the Circulation of Manuscripts 1558-1640 (Oxford: Clarendon P, 1996)を参照のこと。

08 Gouws, ed., The Prose Works, pp. 93-4. シドニー・サークルの政治性に関しては,

Blair Worden, The Sound of Virtue: Philip Sidney’s “Arcadia” and Elizabethan Politics (New Haven: Yale UP, 1996)を参照のこと。

09 詩が作曲されて歌われることも公刊の一形態であると認識されていたことは,John

Donne, “TheTriple Fool,” l. 20の中に示唆されている。グレヴィルの抒情詩の作曲例

に関しては,Joan Rees, Fulke Greville, Lord Brooke, 1554-1628: A Critical Biography (London: Routledge, 1971), p. 221, n. 2を参照のこと。さらに詳細な書誌学的記述に 関しては,Geoffrey Bullough, ed., Poems and Dramas of Fulke Greville, First Lord Brooke, 2 vols. (Edingburgh, 1939; rpt. Oxford: Oxford UP, 1945), 1: 231-301を見よ。『ムスタ ファの悲劇』の1609年版には,著者グレヴィルの名前はタイトル・ページにクレ ジットされていない(The Tragedy of Mustapha. [Anon.]. London: Printed [by J. Windet]

for N[athaniel] Butter, 1609)

(20)

10 W. W. Greg, A Bibliography of the English Printed Drama to the Restoration, 4 vols.

(London: The Bibliographical Society, 1939-59), 3: 1068-9. G. A. Wilkes, eds., Fulke Greville, Lord Brooke: The Remains: Being Poems of Monarchy and Religion (Oxford: Oxford UP, 1965), pp. 20-3も参照のこと。

11 近世イングランドにおける検閲に関しては,Annabel Patterson, Censorship and Interpretation: The Conditions of Writing and Reading in Early Modern England (Madison:

U of Wisconsin P, 1984)を参照のこと。ロード体制における検閲の実態に関しては,

Kevin Sharpe, The Personal Rule of Charles I (New Haven: Yale UP, 1992)を見よ。ロー ドとケンブリッジ大学との関係に関しては,Hugh Trevor-Roper, Archibishop Laud 1573-1645 (3rd ed.; London: Macmillan, 1988), pp. 205-10に詳しい。

12 Greville, Robert, Second Lord Brooke, A Discourse Opening the Nature of That Episcopacy Which Is Exercised in England (1641), in William Haller, ed., Tracts on Liberty in the Puritan Revolution, 3 vols. (New York: Columbia UP, 1934), 2: 136. ロバート・グレヴィルの当 時の活動に関しては,Robert E. L. Strider, II, Robert Greville, Lord Brooke (Cambridge, Mass.: Harvard UP, 1958), pp. 11-82を参照のこと。

13 John Milton, Areopagitica, in The Complete Prose Works of John Milton, general ed. by Don M. Wolfe, 8 vols. (New Haven: Yale UP, 1953-82), 2: 560-61.

14 正式タイトルと書誌学的情報は,次のとおりである。The Life of the Renowned Sir Philip Sidney: With the True Interest of England as It Then Stood in Relation to All Forrain Princes and Particularly for Suppressing the Power of Spain Stated by Him: His Principall Actions, Counsels, Designes, and Death: Together with a Short Account of the Maximes and Policies Used by Queen Elizabeth in Her Government. Written by Sir Fulke Grevil Knight, Lord Brook, a Servant to Queen Elizabeth, and his Companion and Friend. London: Printed for Henry Seile, 1652.

15 Gouws, ed., The Prose Works, p. 13.

16 17世紀イギリスにおける手稿回覧という出版形態に関しては,Harold Love, Scribal Publication in Seventeenth-Century England. (Oxford: Clarendon P, 1993)が必読の標準 的研究。

17 ピープスの日記からの引用は以下の版に拠るものとし,煩雑を避けるため,本稿 においては本文中に年月日のみを明記する。Samuel Pepys, The Diary of Samuel Pepys, ed. by R. C. Latham and W. Matthews, 11 vols. (London: Bell and Hyman, 1970-83).

18 グレヴィルの詩の引用は,注10に挙げたWilkes編の現代版に拠る。『王政論』に

対するバクスターの反応に関しては,Wilkes, ed., Fulke Greville, Lord Brooke: The Remains, p. viiを参照のこと。

19 ヘリングマンの生涯に関しては,C. William Miller, “Henry Herringman, Restoration

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Bookseller-Publisher,” Papers of the Bibliographical Society of America, 42: 4 (1948), 292- 306が貴重な論考。ヘリングマンの「広告」は,Wilkes, ed., Fulke Greville, Lord Brooke:

The Remains, pp. 33-4に再録されている。

(22)

Synopsis

The Trophy of Sin in Book History:

Reading Greville’s Twenty-Two Missing Pages

Katsuhiro Engetsu

Fulke Greville, first Baron Brooke (1554-1628) is an intriguing figure when we reconsider book history in early modern England. He was an eminent courtier and distinguished poet, as the following epitaph, which he prepared for his own death, suggests: “FVLKE GREVILL / SERVANT TO QVEENE ELIZABETH / CONCELLER TO KING JAMES / AND FREND TO SIR PHILIP SIDNEY / TROPHAEVM PECCATI.” Although he committed himself to the Protestant literary circle around Sidney, he never showed himself as a poet without ever allowing his manuscripts to be published except the epitaph––if the act of engraving an epitaph on a tombstone is a form of publication––that ends with the ambiguous phrase: “TROPHAEVM PECCATI [the trophy of sin].” His keen awareness of the stigma of print, which was shared in the courtly sphere, suppressed his own literary works.

Greville’s literary works were published in 1633––five years after he was stabbed to death by one of his servants––as Certaine Learned and Elegant Workes of the Right Honorable Fulke Lord Brooke, Written in his Youth, and Familiar Exercise with Sir Philip Sidney. The printed book, however, saw the first twenty-two pages of the text missing from itself. A part of his manuscripts was suppressed, after the printing had begun, by censorship in 1633, when William Laud, a champion of the anti-Calvinist movement, was ordained Archbishop of Canterbury. The suppressed text was bibliographically

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identified as A Treatise of Religion: Greville’s poetical discourse on the history of the Christian church. Robert Greville, second Baron Brooke, the adopted son of Fulke Greville, who remained single through all his life, suggested some serious conflict between the Greville family and the Laudian church government because the successor of the eminent courtier furiously accused the prelacy of tyranny against liberty of speech in A Discourse Opening the Nature of That Episcopacy Which Is Exercised in England (1641): a revolutionary tract which received the greatest admiration from John Milton in Areopagitica (1644).

Fulke Greville was invoked as a prophetic patron of the Protestant policy Parliamentarians had promoted after the outbreak of the Civil War. Another piece of his unpublished manuscripts was printed in 1652: The Life of the Renowned Sir Philip Sidney. The special reference to Spain in its subtitle tells us that the book was published as a popular propaganda of the anti- Spanish policy. The republican government, which established itself after the execution of Charles I in 1649, needed an authority to win wide support from people for the West Design that would inevitably cause military troubles with Spain in the West Indies. The legendary reputation of the honorable friendship between Greville and Sidney, who had struggled against Spain in order to support Protestants in the Netherlands in the Elizabethan age, gave the anti- Spanish policy a sense of traditional authority which had gone from the government since the collapse of monarchy.

After the Restoration, however, The Life of the Renowned Sir Philip Sidney found a different kind of readership. Samuel Pepys recorded in his diary for January 1, 1668 that Greville’s political biography of Sidney was strongly recommended by his colleague as a prophetic book to analyze the present state of affairs in England just after the second Anglo-Dutch War. With the

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fall of Spain after 1659, England advanced the anti-Dutch policy, only to see France prosper after the exhaustion of the two Protestant nations; the unhappy result of the second Anglo-Dutch War encouraged English people to reconsider a possible readjustment of their attitude toward the Netherlands. The Life of the Renowned Sir Philip Sidney reminded them of the traditional Protestant foreign policy. A new audience found a new meaning in the same book.

Purchasing a copy of The Life of the Renowned Sir Philip Sidney on the following day, the sociable Pepys talked about the unpredictable popularity of the old book with a bookseller: Henry Herringman. The bookseller published The Remains of Sir Fulke Grevill Lord Brook Being Poems of Monarchy and Religion in 1670––two years after his recognition of the salability of Greville’s works. The posthumous publication of Greville’s works, whose manuscripts were, according to Herringman’s “Advertisement,”

obtained through an anonymous person from Greville’s faithful servant, included A Treatise of Religion, which had been suppressed by the Laudian censorship in 1633. The poem could still embarrass Richard Baxter––a moderate Puritan––in 1681 with its radical skepticism about any secular power. Greville’s text, which had disappeared as a “trophy” of censorship in 1633, appeared a

“trophy” of commercialism in 1670. Greville's literary legacy was repeatedly stigmatized as “the trophy of sin” in seventeenth-century England.

参照

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