(番外編) 初版発行:2009 年 3 月 6 日
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画
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「過疎・高齢化に悩む農山村。未来が見えない」 そんなイメージを抱いて竹田市宮砥 (みやど) 地区を訪れた、 とNHK大分放送局の豊田研吾ディレクター( 28)は書き出し た。大分合同新聞社の記者と宮砥地区を共同取材し、特集番組 「 大 分 に 生 き る 」 第 一 部 を 制 作 し た ス タ ッ フ だ。 豊 田 デ ィ レ ク ターは東京都で生まれ、東京都で育った。大分放送局に勤務し て四年。中山間地の暮らしを初めて取材したという。豊田ディ都会とは違う高齢者の目の輝き
安全な食の提供で町と共生できないか
レクターの報告だ。 実際に、地域に入れ ば入るほど暗いイメー ジを抱いていたのが表 面的な見方だった、と 思い知らされた。宮砥 で は 会 う 人、 会 う 人 が 生 き 生 き し て い た。 六十歳、七十歳の高齢 者が山や畑で汗を流し て い た。 東 京 で 見 る 六十歳、七十歳とは目 の輝きが違う。一人暮 らしの高齢者宅に、近 所の人が当たり前のよ 竹田市宮砥地区で取材するNHK大分の豊田研吾ディレクター(右端)p.
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うに顔をのぞかせる。何気ない農山村の暮らしの中に、都会に はない福祉の基盤があった。 なぜなのか。特集番組に出演した中津江村の佐藤栄希子さん ( 27)が疑問に答えた。 「自分が期待されている、自分の役割が あ る。 こ の 気 持 ち の 充 実 は、 都 会 で は 味 わ え な い で し ょ う 」。 時 代 を 超 え、 受 け 継 が れ て き た 集 落 で そ れ ぞ れ が 役 割 を 持 ち、 支え合って生きている。豊かさとは何なのか。中山間地の暮ら しの中に、その手がかりがあるのではないだろうか。未来の高 齢化社会のあるべき姿を見るようでもあった。 住 民 の 話 も 記 憶 に 残 っ た。 葉 タ バ コ 農 家 の 安 達 智 徳 さ ん ( 48) は「 山 や 田 ん ぼ を 荒 ら し た ら、 も う 暮 ら し て い け ん。 将 来はどうなるか分からんが、次の世代に引き継ぐことが自分の 役 割 や 」 と 話 し た。 過 疎 地 の 農 林 業 で 生 き て い く の は 厳 し い。 若者がいない、後継者がいない。先行きさえも定かに見えない 中山間地で、安達さんは「暮らしを守り続けることが未来へと つ な が る 」 と 日 々 を 過 ご し て い る。 地 域 再 生 に 向 け て「 で は、 あなたたちに何ができるのか」 と問い掛けていたのに違いない。 食の豊かさにも驚いた。掘り立てのタケノコ、自家製の漬物 など、住民の「お接待」では豊富な山の幸が並んだ。私が生ま れ育った東京では、高級スーパーにうやうやしく鎮座している 無添加食材の数々。私にとっては究極のぜいたくだった。豊か な〝食〟を都会に提供し、無添加に象徴される安全な食材の供 給基地になったら…。中山間地の新たな可能性が垣間見えたと 思う。 宮砥地区は山に囲まれ、 谷あいに棚田が広がる。取材先へと、p.
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集落の道を歩く度に、心が安らぐ思いがした。日本の原風景な のだろう。そんな中山間地の価値が国土保全や水源地など暮ら しに欠かせないものとして見直されている。中山間地の農業を 中心に、自分の住む地域で取れたもの(地産)をその地域で食 べよう(地消)という「地産地消」が提唱されてもいる。農家 から安全な食の提供を受け、一方で消費者が農家の生活を支え るという考え方だ。 宮砥地区では、菜の花を肥料にした減農薬の米を三年前から 作っている。秋にはみそや豆腐の加工所を造り、そば打ち体験 などを通して、町の人と交流する計画も進めている。いわゆる グリーンツーリズムで、消費者と向き合う関係をつくろうとし ている。 それにしても、 私たちは中山間地の価値を認め、 対価を支払っ てきたのだろうか、と考え込む。町とムラが共生できるいい関 係がつくれないか。若い人が家族を持ち、子供を育てるのに十 分な収入を得る道は探せないか。親から子へと、世代の再生産 ができる持続可能な農村は実現できないか。笑い声の絶えない 宮砥の人たちの暮らしに、私は地域再生への萌芽(ほうが)を 見た。 「次ちゃんショーの始まり、 始まり」 。人形を抱えて踊り出す。 駅員にふんした駅構内放送の語りは、SLが走っていた時代を「ふるさとに帰りたい」
団塊世代の4割
受け皿できれば新たな未来開ける
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思い起こさせる。 派手な女装で登場することもある。 「一人芝居」 の次ちゃんは今日も笑いを振りまく。取材中の私たちも、思わ ず爆笑を繰り返した。 竹田市宮砥の公民館分館長、佐藤次男さん( 67)は定年退職 「次ちゃんショー」を楽しむお年寄りたちp.
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後、ふるさとに帰ってきた。住民に推され、公民館の世話をす る一方で、一人芝居を始めた。山口県光市で会社に勤めていた ころからの 〝特技〟 だった。もともと芸事が好きだったと言う。 七年前、 会社を退職すると、 宮砥に家を建てた。 「ここ(宮砥) は空気がいい。何よりも知り合いが多い。気兼ねなく、夫婦二 人の年金暮らしができる。年寄りばかりのここじゃ、六十歳は まだ若手。何をするにも、私を育ててくれたふるさとへの恩返 し」と話す。佐藤さんの一人芝居がどれだけ、宮砥のお年寄り を元気づけていることか。 定 年 後 に ふ る さ と で 暮 ら す ―。 佐 藤 さ ん ら の 取 材 を 通 じ て、 私 た ち は 中 山 間 地 の 再 生 に 向 け て 一 つ の 可 能 性 を 考 え た。 「 団 塊(だんかい)の世代が帰ってきたら、そりゃあ農業だけじゃ ね え。 会 社 や 役 所 で 身 に つ け た 知 識 や 技 術 を 持 っ ち ょ る か ら、 新しい収入の道がつくれるかもしれん。 そうすりゃ、 若いし (者) もここに住める」 。農家の話にハッと気付いたのだ。 団塊の世代は、戦後間もない一九四八(昭和二十三)年前後 のベビーブームで生み出された。男女とも、最も人口の多い世 代にあたる。町や村から工業地帯へ、都市部へと出ていき、高 度経済成長の時代を支えてきた。中山間地の過疎をつくり出し た 世 代、 と 言 っ て も い い か も し れ な い。 現 在、 五 十 五 歳 前 後、 間もなく定年退職の時期を迎える。 各 種 の 調 査 に よ る と、 一 九 六 ○ 年 代 か ら 七 ○ 年 代 に か け て、 全 国 で は 地 方 か ら 大 都 市 へ と 約 六 百 五 十 万 人、 県 内 で は 約 二 十 万 人 が 出 て い っ た と さ れ る。 一 割 で も、 二 割 で も い い。p.
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七十歳、八十歳がまだ現役の中山間地に、六十歳の団塊の世代 が帰ってくれば…。 「都会で暮らし、自分の求めていたものがふるさとにあると、 初めて気付いた。子どものころ、野山や川で遊んでいた自分の 姿を思い出す」 大 分 合 同 新 聞 社 と N H K 大 分 放 送 局 が 共 同 で 実 施 し た ア ン ケート調査で、宮砥小学校を卒業した会社員( 56)=埼玉県= はこう回答した。調査では、宮砥を離れ、県外の大都市に住む 人たちに「ふるさとに、どんな気持ちを抱いていますか」と聞 いた。都会から届いた五十通の手紙には、私たちの想像を超え るふるさと・宮砥への思いがあった。 五十人は四十代後半から六十代前半。うち四割に当たる十九 人が「帰りたい」と思い、六人が「退職後は宮砥に住む」と具 体的な計画を持っていた。見方によっては、一割もの人たちが 帰ってくることになる。 広島県に住む会社員( 49)は「早期退職(五十五歳)の五年 後を目標に帰郷を計画中。昨年から宮砥地区の森林公園祭りに 参 加 し て い る 」。 兵 庫 県 の 会 社 員( 54) は「 老 後 は、 親 が 守 っ ている田んぼを引き継ぎ、自然の中で暮らしたい。私が帰る六 年後、宮砥の地域が生活が維持できる共同体として機能してい るか心配にもなる」と伝えてきた。 「新しい家族がいる。 家も造った」 「今の生活は捨てられない」 。 そ う 回 答 し た 宮 砥 出 身 者 も「 暮 ら し て い け る 条 件 さ え 整 え ば、 帰りたい」と答えた。p.
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一人芝居の佐藤さんは「ふるさとはいいよ」と話す。あと五 年もすれば、団塊の世代の〝大量定年時代〟が現実のものとな る。受け皿づくりができれば、次の世代に向けて、中山間地に 新たな未来がひらけていく気がした。 「 収 入 が な け れ ば 暮 ら し て い け な い。 中 山 間 地 の 農 林 業 に つ いて、もっと真剣に考えなければならない」 大分合同新聞の読者、NHK大分放送局の視聴者から寄せら れた意見と感想を集約すると、こんな形になる。大分県の面積 の七○%を占める中山間地。私たちが取材した竹田市宮砥地区 でも、生活の基盤は農林業だった。 「 農 家 が や っ て い け な い と い う の は、 深 刻 な 事 態 な の で す。 農業の崩壊は国の将来が危ぶまれる国家的な問題なのです」 九重町の小学校教諭( 36)=女性=は「実家は農業を営んで います。父母の働く姿を見ていると、 先行きが心配になります。 食糧の安全保障という言葉さえ浮かんできます」と手紙に書い ていた。 米、野菜、牛…。私たちの「食」の多くは中山間地で生産さ れてきた。家を建てるのに必要な木材も、中山間地の山から供 給されてきた。中山間地の存在なしには、都市の生活はなかっ たと言ってもいい。食生活の変化による米の地位低下、外国産中山間地農業の崩壊、国の将来に直結
炭焼き体験などで町と向かい合わせに
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の農産物、林産物の輸入増加に伴う価格低下で、農家が生活に 必要な収入を確保できないようになったのは、そう遠いことで はない。小学校教諭の手紙は続く。 「 日 本 の 食 糧 自 給 率 は 四 ○ % を 切 っ て い る。 中 山 間 地 に 人 が 子どもたちと一緒に炭窯づくりをする後藤生也さん(左から2人目)p.
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住 ま な く な り、 農 産 物 を 作 ら な く な っ た ら、 と 考 え る と 怖 い。 消費者の立場から、食の立場から農業を考えていくと過疎や中 山間地の問題にたどりつくのです」 。 宮 砥 地 区 か ら 大 分 市 に 移 り 住 ん だ 無 職 男 性( 77) の 意 見 も、 私 た ち を 考 え 込 ま せ た。 男 性 は 宮 砥 小 学 校 を 一 九 三 六( 昭 和 十 一 ) 年 に 卒 業 し た。 「 農 業 を し よ っ た ん じ ゃ け ど、 米 だ け で はやっていけん、輸入品の増加に太刀打ちできなくなるだろう と、 農業の将来に不安を覚え、 サラリーマンになった。その後、 米の減反(生産調整 ・ 一九七○年)が始まるし、 昔は必要なかっ た農業機械の購入で、経営が圧迫されるし、若い者は出ていく し…」 無職男性は「個人の力だけでは、農業は支えきれん。地域ご とに生産組合や出荷組合を作って、共同で野菜や果樹を生産す ればやっていけるかもしれんが、だれかが中心にならんと、そ れも実現できんじゃろう。問題は人じゃ」と話した。 連載と特集番組の終了後、宮砥地区の住民から電話がかかっ て き た。 「 宮 砥 の 者 は 今、 が ん ば っ ち ょ る。 厳 し い け ど、 何 と かしようとしちょることをもっと、伝えてくれんじゃろか」 。 宮砥地区では、生産条件が不利な農家に交付金が支払われる 国の中山間地直接支払制度が導入されている。住民はこの制度 を活用し、集落単位の営農で大豆やソバを生産。菜の花を肥料 に有機栽培の米作りに挑戦している。 農産物の加工所を造り、そば打ちや田植え、炭焼き体験を計 画 し て も い る。 「 田 舎 が ど ん な と こ ろ か、 知 っ て も ら え ば 道 はp.
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開 け る 」。 私 た ち の 心 に、 リ ー ダ ー の 後 藤 生 也 さ ん( 71) の 言 葉が残った。 「 た だ、 作 る だ け で な く、 い か に し て 売 る か ま で を 考 え、 所 得をアップさせていかんとやっていけん。そのためには、マチ とムラが背中合わせではなく、向かい合わんといけんのじゃ」 二 十 一 日、 宮 砥 地 区 で、 炭 窯 づ く り が 始 ま っ た。 「 宮 砥 小 学 校 の 児 童 と 福 岡 県 か ら や っ て き た 人 た ち 計 五 十 人 で〝 窯 打 ち 〟 をした」と私たちに連絡があった。 「加工所建設の準備も始めた。宮砥で暮らしていけるように、 何かせんといけん。地域がもう一度、力をつけるようにと、宮 砥の者にも夢がある」 ※ こ の 連 載 は 大 分 合 同 新 聞 社 会 部・ 清 田 透、 湯 布 院 支 局・ 小 田圭之介、NHK大分放送局制作・豊田研吾が担当しましたp.