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ドイツ共通語の成立

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Academic year: 2021

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ドイツ共通語の成立

はじめに

 ハインリヒ・ハイネは『ドイツの宗教と歴史について』のなかで、次のように述べている。

わが教理に反駁するにはどこまでも聖書そのもの、もしくは理性的理由によらねばならぬとル ターの発言したことにより、人間の理性に聖書解釈の権利が認められ、加えて、それ、すなわ ち理性がすべての宗教上の論難における最上の審理者であると認められた。これによりドイツ ではいわゆる精神の自由、あるいはこうも呼ばれているが、思想の自由がうまれた。〔中略〕だが、

このマルティン・ルターは、運動の自由を与えてくれただけでなく、運動の手段も与えてくれ た。というのも彼は精神に肉体を授けたからだ。彼は思考にことばをも授けたのである。彼は ドイツ語をつくった。このことは、彼が聖書を翻訳することによっておこなわれた。

 ハイネのこのエッセイは、ハイネが七月革命以後のパリに亡命した時期に書かれたものである。

ドイツにおけるハイネの文筆活動が当局の検閲とたたかいつつおこなわれ、その道程が容易なもの でなかったように、ルターのドイツ語への聖書翻訳の仕事もまた行く手を阻む幾多の障害に直面し た。835年、カール・グツコー、ハインリヒ・ラウベ、ルードルフ・ヴィーンバルクおよびテーオ ドール・ムントとともに、ハイネの著作に対し、出版禁止令が出され、ドイツにおけるハイネの文 筆活動に対し、いわば死刑宣告ともいえる措置がとられることになる。方や、ルターであるが、聖 書をドイツ語に翻訳することが禁じられていた時代に、聖書のことばを民衆のものとするため果敢 にその達成に挑んだ。彼はまず方言による地域的言語差の著しい当時のドイツ、まだ共通語として のドイツ語が存在しないドイツにあって、地域を越えて理解可能なドイツ語をつくることから始め なければならなかった。52年初めルターは破門の勅令を受け、さらに同年4月ヴォルムスの帝国 議会に召喚され、審理の末、帝国追放刑を宣告されたことにより、帝国公民権を剥奪され、著作も 禁圧される。カトリックの聖職者として、また一個の人間としてこの処分は、ハイネ同様に、いわば 死刑宣告ともいえるものである。にもかかわず両者は、その後も不屈の精神で、仕事の違いはあっ ても、このふたりはともに、彼らが生きた時代の権力とたたかいつつ、後世につたわる成果をのこ したのである。

 詩人としてのハイネの言語に対する執着ということも否定できないのかもしれないが、むしろこ

金 山 正 道

――中世からルターまで――

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のような、つまりルターとその行為に象徴されるところのドイツを紹介し、同時に自己の精神とル ターのそれとの重ね合わせが、ハイネの上掲の文にはあるものと考える。

 ハイネが言うように、ルターによってドイツ語、ドイツ人が共有できるドイツ語生成の基盤がつ くられたのである。特定の階級語ではなく、広くドイツ人が理解できるドイツ語の第一段階のもの がルターによってつくられたのである。

 本稿では、ドイツ中世に「共通語」と呼びうる言語が存在していたか否かという問題を、ことに 中世文学における文章語を中心に、過去の研究者の諸説を紹介しながら再考し、続く初期新高ド イツ語期におけるルターによる聖書独訳の業を中心に考察しながら、いわゆる「ルター ドイツ語」

の問題について再考する。これらの問題はこれまでにも多くの研究があるが、にもかかからず、ル ター自身の手に成るドイツ語聖書のテキストを知るものは、ゲルマニストであっても必ずしも多く はないのではなかろうか。「ルター訳による」というドイツ語聖書が手元にあっても、それは幾多 の修訂を経たものであり、ルター訳そのものではない。ルターの死後ほどなくすでに幾多の改訂が、

あるいは現代語化がおこなわれ、ついには「ルター訳による」とはいえ完全な新訳ともいえるルター 訳に基づくドイツ語聖書が流布している次第である。

 筆者の本来の研究上の関心は、ファウスト文学、それもゲーテも含めたうえで、それより前の時 代のファウスト文学にあるが、ことに6世紀にながくかかわってきた関係から、またルターが『卓 上談話』――とでも訳したらよいのであろうか――のなかで実在したファウストに言及しているこ と、またファウスト文学史上、刊行された最初のファウスト作品である『ヨーハン・ファウストゥ ス博士の物語』と聖書のことばとの密接な関連等々から、「ルターとドイツ語」という問題について、

筆者自身の立場から考究を余儀なくされた次第である。

1−1.中世に「共通語」は存在していたか

 中世ドイツ文学を概観すると、中世には各種族の方言に加えて、騎士階級によって用いられた書 くための言語が存在していたようであるが、ドイツ共通語の成立という観点から、このドイツ語に みとめられる注目すべき現象は、共通語的文章語生成の萌芽が認められる点である。この言語は宮 廷の文学語、いわゆる古典的中高ドイツ語(Klassisches Mittelhochdeutsch)と呼ばれるものであり、

これは騎士階級によって造られたことばである。騎士階級のこの文学語、すなわち特定の階級によっ て用いられた特殊語が、やがて中世のドイツ語全体と見なされることになる。この文章語の特質を 考えるとき、果たして中世に「共通語」(Gemeinsprache)が存在していたのかどうかが問題となる。

すなわち、異なった地方の騎士社会を結ぶ言語、ことに宮廷間をつなぐ交通手段的言語がすでに存 在し、それが時代に、言語に影響を与えていたかどうか、という問題である。この問題は9世紀に はいって、主に中世文学研究者たちによって議論されたが、そのいわば代表としてラッハマンとラッ ハマンに真っ向から反対したパウルの見解からみていくことにする。

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1−2.ラッハマン対パウル

 ラッハマン2)は、それまでの古典文献学の研究方法に対し、写本に基づき原作をできるかぎり 忠実に復元しようとする原典批判的方法を打ち出したこと、ならびにその方法による聖書や中世文 学の編纂によって知られる人物であるが、ラッハマンは、中世最盛期には宮廷社会で語られ、詩人 たちによって利用された共通語がすでに成立していたと主張した。そしてそれは――シュヴァーベ ン方言に基礎を置くものであるが――ホーエンシュタウフェンの宮廷から出たものであるから、そ れを宮廷語(Hofsprache)と呼ぶのが妥当だ、と述べている。この説は、グリムや文学史家のシェー ラー(Scherer)、そのほか文法学者らにも指示され、共通語の存在が肯定されるようになった。

 しかし、ヘルマン・パウル3)は、ラッハマンのこの見解に対して猛烈に反対した。パウルによれば、

3世紀の詩人たちが用いた言語を詳細に調べると、確かに異なる地方の詩人間相互の影響が語彙と 構文にあらわれていることは確認されるが、それでもなお明白な方言的差異が存在しており、彼ら が用いた脚韻からそれぞれの故郷が指摘できるほどである、と述べている。さらにパウルは、従っ てそこには統一的言語など認められないし、高地ドイツ語の一方言が、標準的言語として認められ たことにはならない、と主張した。

 パウルのこの説は発表当時注目されたが、この問題は今日なお完全な解決には達していない。一 般には、共通語の肯定説もパウルのような否定説も行き過ぎであるとされている。

1−3.ナウマンの説とその限界

 中世宮廷社会の精神的特性とその普遍性に目を向けて、共通語ではなく、文学語(Literatur- sprache)の存在を指摘したのがハンス・ナウマン4)である。ナウマンによれば、中世文学語の存 在は文法的には証明されなくとも、形式文化として宮廷社会の本質を考えれば、その存在はきわめ て明らかなのであって、「統一語」や「共通語」ではなく、「文学語」(Literatursprache)の存在 が証明されるという。

 「共通語ではなく、文学語」というナウマンの発想は、このあと言及するマウトナーの特殊言語 とその基盤に関する理論とを組み合わせて考えるとき、この時期の中世高地ドイツ語をめぐる論争 に新機軸を与えたものといえよう。しかしながら、物理学の世界に例をもとめ述べてみると、理論 上予測される粒子――たとえば反陽子など――も実験によって証明され、はじめて真の生存権を得 るといえよう。「次元」の問題についても、今日さまざまな理論が提出されているが、それぞれに なるほどと思わせるところはあっても、現実のすがたは一つであろう。その現実のすがたが実際に 証明されなければならないのである。机上では、すぐれた頭脳によりさまざまな卓越した理論の形 成が可能であろうとも、現実のすがたが究極の課題である。つまり、中世文学語の存在についても、

「形式文化の本質」という理論的な面からだけではなく、「ことばそのもの」の研究から証明されね ばなるまい。ここにナウマンの見解の限界があるのだが、いま少しナウマンの考えを紹介していく ことにしよう。

 『エネイート』Eneit の作者ハインリヒ・フォン・フェルデケ(Heinrich von Veldeke)は、高地

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ドイツ語では純粋でないとされる脚韻を避けたことが証明されているが、自己の方言的特質を捨て ようとした詩人は、フェルデケに限らず、少なくなかった。この傾向が促進されれば、宮廷を渡り 歩く詩人たちによって騎士社会における共通語的言語の形成がなされていくことになる。

 そこでさらにナウマンによれば――この文学語の最も早い例が、フェルデケが用いたライン地方 の言語であり、これが文学語の第一段階となって、これに超地方的傾向が生じてゆき、次第に統一 語形成への努力が認められるようになる、というのである。

 騎士社会では、宮廷の祭典、武技・出征などのために各地方から騎士が一つの場所に集まり、交 流する機会も多く、また騎士のなかには遠隔の地に城や領地をもつ者もあったので、騎士たちの方 言的特性が互いに弱められたことは確かであろう。ことに宮廷詩人の場合は、他国の宮廷に滞在す るから、彼らはおのずと自分の出身地の方言的表現をできるかぎり避けることを余儀なくされた。

そして特定の地域だけで通用する言語・表現の回避というこの努力が、特定の階級における共通語 的言語形成への一つの大きな要因となったと考えることができよう。

 尤も、この文学語は、綴りが一定していなかったり、語形や語彙にも差異があったので、厳密な 意味での統一語(Einheitssprache)としての文学語とはいえないが、当時の宮廷社会における普 遍的精神を考慮するとき、ナウマンが言うように、そこに共通語らしきものの萌芽が認められるこ とは確かであろう。ただし、これが近世以降の共通語に匹敵するものかどうかは問題である。

1−4.フリッツ・マウトナーの見解

 近世における文学語は、上に述べた場合とは異なり、比較的広範な地域において共通語的性質を 有していたことばが、ルター以降のひとびとの努力によって文学語に上昇したという点に大きな特 徴があるといえよう。中世宮廷詩人によって用いられ、特定の階級のなかで共通語的性質を帯びて いった言語に関して、フリッツ・マウトナー5)は、宮廷詩人の言語がある共通性をもっているのは、

音声や語形を超越したものであり、全宮廷社会を結ぶ精神的基調の支配によってこの共通性は生ま れたものだ、と考えている。マウトナーによれば――宮廷詩人の言語は共通語的性質を帯びた特殊 語であり、一種の階級語である。従って、言語を支える社会的基盤が崩壊し、その後これを育成す る新たな基盤がなければ、その言語は消滅の運命をたどらねばならない、とするのである。

 要するに、マウトナーの見解に従えば、ホーエンシュタウフェン家の没落によって、この宮廷語 は見る影も無くなっていく。他方、次第に力を得てきた市民には未だしかるべき文学を産み出す力 はなく、その結果、中世ドイツ詩人によって用いられた言語が、次の近世における共通文語の基礎 とは成り得なかった、ということになるわけである。

2−1.ラテン語の全盛

 3世紀後半シュヴァーベン・シュピーゲル(Schwabenspiegel)などの法典(法鑑)が上部ドイ ツ語で著される。また、エックハルト6)をはじめとする神秘主義者たちがドイツ語を用いてみずか らの宗教体験を記し、その思想を展開させたことはよく知られている。けれども、全体的にはラテ

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ン語の勢力が圧倒的であり、ことに一般民衆を支配していた教会の用語がラテン語であったことは 周知のとおりである。信者に対する説教はドイツ語でおこなわれたが、ミサではほとんどラテン語 が用いられ、聖書をドイツ語に訳すことが禁止されている状況であった。教養人はほとんど教会に 属していたから、ラテン語が教養ある人のことばとされていた。また人文主義者たちが古典語、す なわちギリシア語やラテン語を好んで用いたこともよく知られているところである。グーテンベル クの印刷術の発明によって、書物が徐々に安価に、かつ広範に普及することになるが、出版物のほ とんどがまだラテン語で著されていた。

 統計によると、6世紀の最初の20年間は、年に約00種の書物が印刷されたにすぎなかったが、

そのうちの約九割がラテン語のもので占められていた。ところが、ルターの聖書翻訳、またその 他の文筆活動によって、ドイツ語の書物の出版が激増することになる。たとえば、57年には80種 にすぎなかったドイツ語の出版物が8年には80種に増え、24年には約000種になったといわれる。

しかし、全体から見るとラテン語の勢力は依然強く、570年においてもラテン語の出版物は全出版 物の七割を占めていた。これが600年に至って五割以下となり、8世紀前半には三割、その後半に 五部となる。

 けれどもルター(483-546)7)の時代の出版界は、ラテン語の全盛期にあった。大学の講義も ラテン語でおこなわれていた。当時のラテン語優勢を物語る例を文学の世界にひけば、ゼバスティ アン・ブラント(Sebastian Brant)の『愚者の船』

Das Narrenschiff

は、最初ドイツ語で出版されたが、

のちにラテン語で出版されてはじめて好評が得られたのである。

2−2.公用語としてのラテン語とルターのたたかい

 ルターによる聖書のドイツ語への翻訳は方言に分裂したドイツ語に統一の気運をもたらしたもの であるが、そのためにルターはまずラテン語との対決から始めねばならなかった。52年、ルター はこの年すでに破門となっていたが、同年4月ヴォルムス(Worms)の帝国議会へ召喚された。

皇帝によって任命された査問委員会が、ルターの翻訳作品の有害であるか否かを審議していたとき、

質問は最初ラテン語でなされ、次いでドイツ語で繰り返された。これに対し、ルターは、まずドイ ツ語で答え、次にラテン語で同じ意味の答えを繰り返したのである。これは議会の公用語であるラ テン語を否定した態度であり、当時大きなセンセーションを巻き起こしたという。

 その後530年、アウクスブルクで帝国議会が開かれるが、宗教的視点からいえば、この会議にお ける重要な論題はルター教会の信仰箇条、すなわちメランヒトンによって起草されたいわゆるアウ クスブルク信仰告白の承認であったといえよう。この帝国議会ではこの信仰告白はカトリック側に より退けられたが、555年の同地で開かれた帝国議会での和議(アウクスブルクの宗教和議)で若 干の変更を加えたこの信仰告白が復活し、和議に向けての基礎となった。

 ところで、530年のアウクスブルク帝国議会におけるこの信仰告白であるが、われわれが今扱っ ている問題、すなわち「ラテン語対ドイツ語」という視点からも、この帝国議会では注目すべき出 来事があった。すなわち、ルター派の信仰箇条のうちラテン語のものを先にするか、ドイツ語のも

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のを先にするかで大紛糾が起こったのだが、旧教に属するひとはラテン語、ルター派を支持するザ クセン侯はドイツ語優先を主張したのである。結局、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カル ロス1世)の裁断により、ドイツ語優先が認められた。これは、ドイツ語公用語に向けての基盤の 形成という点で大きな意味をもつ出来事であり、先のヴォルムスにおけるルターの態度にいわば端 を発し、ついにこの帝国議会でその不屈の精神が結実したとみることもできよう。

 さて、ヴォルムスにおけるルターであるが、自説の撤回を飽くまで拒絶した彼に対し、帝国追放 刑8)が下されたが、その帰途ルターが属する領邦の君主であったザクセン選帝侯フリードリヒ3 世(賢王)が、ルターの身柄を拘束し、保護する。いわゆる保護検束である。その結果ルターは、

ユンカー「イェルク」(Jörg)として、チュービンゲンのヴァルトブルク城に52年5月4日から 22年3月日までおよそ9ヶ月の間かくまわれることになる。

3−1.ルターと聖書翻訳――「九月聖書」を中心に

 ヴァルトブルクでの9ヶ月のうち0ないし週でルターは新約聖書のドイツ語への翻訳をおこな うが、ルターが聖書をドイツ語に翻訳する決意を固めたのは、52年2月のことである。すでにヴィ テンベルクに入ることのできない身であったにもかかわらず、ルターは数日間ヴィテンベルクに滞 在し、知人たちとの語らいのなかで新約聖書を翻訳するという決断をおこなうが、それは誰よりも メランヒトンの説得によるものであり、爾後他界の日まで聖書翻訳という企てを通じ、両者の親密 な交流が続く。

 ヴァルトブルクに戻ったルターは、さっそく2月から新約聖書の翻訳に着手し、翌22年3月翻訳 は完成して、メランヒトンその他の協力を得、22年9月ヴィテンベルクで独訳聖書が出版された。

いわゆる「九月聖書」Sptember-Testamentである。

 ここで、ルターの思想に言及すれば、その中心にあるのは「聖書」、「神の恵み」、「信仰」の三つ である。当時のカトリック教会では、聖書とともに教会の伝統的な典礼、教皇や公会議の権威も教 義や実践のよりどころとして権威をもっていたが、ルターにあっては聖書以外の教えは排除される ことになる。ひとが救われるのも、贖宥状、いわゆる免罪符によるのではなく、ただ「神の恵み」

すなわち「神の恩寵」のみによるのであって、「信仰」さえも神からくるものであるとされる。「聖書」

は神のことばを記した書として絶対的なものであり、教会の教えはどこまでも「聖書」の教えによ らなければならない。従って、ルターの聖書翻訳をこの視点からみれば、これまで教会内に、民衆 には理解できない言葉でとじこめられていた神のことばを広く人々に知らしめるためのものであっ たということができよう。それに応じ、ルターは、後述するように、地理的な枠を超えて広くひと びとが理解できる言語、すなわち共通語的ドイツ語を模索することからはじめなければならなかっ た。ここに、ルターとドイツ語、あるいはドイツ共通語とルターとの密接なつながりが生ずる次第 である。

 さて、「九月聖書」であるが、この翻訳聖書の反響はすばらしく、1グルデン半という当時とし てはかなり高価なものであったにもかかわらず、初版推定3000部はたちまち売り切れ、同年2月の

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うちにさらに3000部が増刷されることになる。学校教育が不十分で、ひとびとの読書力が乏しかっ たことを考えれば、これは画期的な出来事であると同時に、驚異的な事柄ということができよう。

 同時に驚くべきことは、聖書翻訳に当ってのルターの一定期間における仕事量、換言すれば翻訳 の迅速さである。わずか週ほどで新約聖書のいわば第一稿が出来上る。それに手を加えたのもの が、メランヒトンその他の支援のもと522年に出版されるが、「九月聖書」が印刷に回されている 間にルターはすでに旧約聖書の翻訳に着手し、23年夏には、その最初の五つの書、いわゆる「モー セ五書」が印刷された。旧約・新約を合せた全訳は 534 年に出版された。すなわち「完訳聖書」、

ドイツ語でいうところのVollbibelである。9)

 「ルターは、旧約聖書はヘブライ語原典から、新約聖書はギリシア語原典から訳した」という類 の文に筆者はこれまで幾度か出会ったことがあるが、ことに新約聖書の翻訳について、今日なおこ の種の発言が仮におこなわれていれば、それは実情に即したものとは言い難いところもあり、これ については後に言及する。

3−2.翻訳におけるルターの姿勢

 ところで、ドイツにおいて、ルター以前に聖書翻訳の試みがなされなかったわけではない。印刷 術の発明により 466年シュトラースブルクの J. メンテル0)による全訳聖書、いわゆる「メンテル 聖書」をはじめとし、高地ドイツ語の翻訳は4種類、低地ドイツ語による翻訳は4種類をかぞえて いる。ここで、なぜそれらが一般に普及しなかったのかという疑問が生じる。その理由として、一 つには聖書翻訳に対する教会の監視が厳しかったことが指摘されるが、もう一つには、ルター以前 の翻訳はラテン語からの重訳であったため、ラテン語からの直訳的ドイツ語であることが歴然とし ており、要領を得ない箇所が多かったことが挙げられる。すなわち、それらの翻訳聖書は「ドイツ 語とは思えないドイツ語聖書」eine undeutsche deutsche Bibel であったといわれている。

 これに対して、ルターの訳は従来のものとは異なった、いきいきとした純粋の訳であった。聖書 翻訳について、ルターは次のように述べている。

ドイツ語で語ろうとする者は、ヘブライ人のことばを理解するとき、意味をつかむことに心が けねばならない。そして次のように考えることが望ましい。ドイツ人だったらどういうだろう か。そしてひとたびドイツ語をつかんだならば、ヘブライ語を忘れて、その意味にもっともふ さわしいドイツ語に自由に表現しようと試みるがよい。

 そしてまた、従来の聖書独訳は方言的色彩が強く、多くの地方のひとびとには理解されにくいも のであった。ルターはこの弊害をのぞき、聖書のことばを活きたものにしようとしたのである。ル ターは次のように言っている。

われわれは、ラテン語の字面に従って、いかにドイツ語に訳すべきかをたずねてはならない。

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家庭にある母親、道に遊ぶ子供たち、市場にむらがる平民にたずねてみなければならない。そ の人たちの言葉遣いをよくみて、それに従って翻訳しなければならない。

 つまりルターによれば、それによってはじめてひとびとは訳文を理解してくれる、訳者がわれわ れのドイツ語で語ってくれている、と気が付くのである。

 ルター訳聖書に用いられたことばは庶民の話し言葉であり、これによってラテン語の勢力を削ぎ、

自然で美しいドイツ語を造り出すことに成功したといえよう。

3−3.「ルター ドイツ語」の特徴(1)――独訳聖書にみる特性

 ここでは『九月聖書』より、「ルカ伝」第 章1節から4節までを引用することにより、「ルター ドイツ語」の特徴の一面をみてみよう。

Unnd es begab sich, das er war an eynem ortt vnd bettet, vnd da er auff gehoret hatte, sprach seyner iunger eyner zu yhm, Herre lere vns beten, wie auch Johannes seyne iungere lerete, 2Er aber sprach, wenn yhr bettet, so sprecht, Vnser vater ym hymel, deyn name sey heylig, deyn reych kome, deyn wille geschehe auff erden wie ym hymel, 3gib uns ymer dar vnser teglich brod, 4vnnd vergib vns vnsere sunde, denn auch wyr vergeben allen die vns schuldig sind, vnd fure vns nicht ynn versuchung, sondern erlose vns von dem vbel.

 いわゆる「主の祈り」に関する箇所であるが、現代のドイツ語、すなわち新高ドイツ語と比べて まず目に付くことは、ウムラウトがないことである。gehoret, iunger, iungere(1節), teglich(3 節), sunde, schuldig, fure, erlose, vbel(4節)が挙げられよう。

 子音の重複や u が v であらわされている点も容易に気付くことである。上のごく数行の引用に おいてもこの例は数多く見出されるので、最初の2行だけから抽出してみると、子音の重複につい ては Unnd ――この n の重複について筆者は実のところ疑問視している ―― , ortt, bettet, auff が 取り出される。u と v の入替わりについては一1行目の二つの vnd、2行目の vns が挙げられる。

ここで使われているドイツ語を「ルター ドイツ語」Lutherdeutsch というが、子音の重複と u と v の交替は必ずしもルターのドイツ語だけに特徴的なことではなく、この時代のドイツ語、すなわ ち初期新高ドイツ語に広くみられる現象である。

 むしろ、母音と子音の交替に関して注目したいのは、i と y の交替である。eynem, seyner, eyner, yhm, seyne(1節), yhr, ym, hymel, deyn, sey, heylig, deyn, reych, deyn, ym, hymel(2節), ymer(3節), wyr, ynn(4節)が抽出される。hymel や deyn のように全く綴りが同じであるに もかかわらず、重複抽出をおこなった理由は、初期新高ドイツ語期には同じ書物のなかで、それど ころが同じ行の中で同じことばの綴りが一定していないケースがみられる場合があるからにほかな らない。尤も、聖書や神学関係のいわば然るべき書物の場合にはその書物の広い意味での作成が、

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たとえば民衆本などに比べ丁寧かつ慎重におこなわれている。

 i と y の入替わりも確かに初期新高ドイツ語ではときどきみられる現象ではあるが、「九月聖書」

のドイツ語におけるこの現象はきわめて顕著であるといえよう。因みに、ルターの存命中、すなわ ち 545 年に刊行されたルター訳聖書の対応する箇所では、次に引用しているように、上に抽出し た 8 の語のうち 5 について <y → i> の変換がおこなわれている。同時にまた、例えば、最後の ynn の場合、この変換とともに、inn ではなく、in とされるが、こうした詳細への言及はここでは 割愛させていただく。

 この 8 例のうち他の三つについては、yhm → jm(1節), yhr → jr(2節)となり、sey は werde とされ、これに伴い、heylig が geheiliget となる(2節)。要するに、ここでは、「九月聖書」

との比較において、< y → j> の変化が生じているわけだが、y を j で表記することは、初期新高ド イツ語に多くみられる現象である。

 引用があとになったが、545年版ルター訳聖書から、同じ箇所、すなわち「ルカ伝」第章1節 から4節までを引用する2)

 

VND es begab sich / das er war an einem ort / vnd betet. Vnd da er auffgehöret hatte / sprach seiner Jünger einer zu jm / HErr / Lere vns beten / wie auch Johannes seine Jünger lerete. 2Er aber sprach zu jnen / Wenn jr betet / so sprecht / Vnser Vater im Himel. Dein Name werde geheiliget. Dein Reich kome. Dein wille geschehe / auff Erden wie im Himel. 3Gib vns vnser teglich Brot jmerdar. 4Vnd vergib vns vnser Sünde / Denn auch wir vergeben allen die vns schüldig sind. Vnd füre vns nicht in Versuchung. Sondern erlöse vns von dem Vbel.

 いわゆるマルチメディア時代のなかで、辞書や事典、文学作品、あるいはさまざまな資料がドイ ツでもデジタル化されている。聖書に関する CD-ROM もいろいろな種類のものが刊行されてい る。筆者も試しにここで『ルター聖書』と題するデジタル書籍を用いて引用をおこなってみた。利 便性の高さ、また、このような過去の文化財の一般への普及がいわゆる書籍に比べ容易である点は 認めるところである。一般の利用も考えたせいであろうか、ウムラウトが全てまさに今日のウムラ ウトで表記されている。当時のすがたを反映させるためには、小文字を例に記せば ae, oe, ueでなけれ ばならない。他の点に関しては恐らく問題ないのであろう。「コピー」機能を利用して筆者はその ままデジタル版から転写しているから、引用に際して綴りの誤りは生じていないはずである。この デジタル版ルター訳聖書が研究用としてどこまで使いうるものであるのか多少危惧されるところで はあるが、545年の版としてここではこのデジタル版を使ってみた。

 545年の版と522年の版を比べた場合、訳し方に関して2節における上述の違い、すなわち deyn name sey heylig から Dein Name werde geheiliget への変更に加え、545年の版には、522 年の版にはない zu jnen(2節)、jmerdar(3節)が見出される。

 上のデジタル版には、ウムラウトの表記の不完全性に象徴される然るべきテキストとしてのある

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種の不安が感じられるところもあるので、546年すなわちルターの生涯最後の年に刊行された版に おけるルカ伝の同じ箇所を、注 36 に示したルター全集から引用しておこう。

VND es begab sich, das er war an einem ort, vnd betet. Vnd da er arffgehoeret hatte, sprach seiner Juenger einer zu jm, HERR, lere vns beten, wie auch Johannes seine Juenger lerete. 2Er aber sprach zu jnen, Wenn jr betet, so sprecht, Vnser Vater im Himel. Dein Name werde geheiliget.

Dein Reich kome. Dein wille geschehe, auff Erden wie im Himel. 3Gib vns vnser teglich Brot jmmerdar. 4Vnd vergib vns vnser Suende, denn auch wir vergeben allen die vns schueldig sind.

Vnd fuere vns nicht in Versuchung. Sondern erloese vns von dem Vbel.

 先に示した545年のテキストとの比較におけるこのテキストにおける違いは、 節の HErr, Lere が HERR, lere に、3節最後の語が imerdar から immerdar に変わっていること、および4節の Denn(545年)と denn(546年)の違いである。デジタル版がウムラウトの問題を除いては、翻 訳原文を忠実に再現しているとすれば、翌年の版においても更なる修訂がおこなわれたことになる。

筆者が問題視すべきことと考えているのはこの点、すなわち546年の版が、ルターの死後に刊行さ れたとはいえルター自身の手が加わったと想定される最後のテキストと考えられる点である。だが、

546年の版から当該の箇所を引用した理由は、545年のテキストを再現したとするデジタル版に表 記の点で必ずしも当時の姿を忠実に反映していないところもあるので、翌年の版によって引用箇所 に関する広い意味での参考として補足をおこなったということにここではとどめておきたい。

 ルターがメランヒトンらの協力を得、旧・新約聖書全巻のドイツ語訳を最初に出すのは534年の ことであるが、この全訳が刊行されたのちも、改訂の手が加えられている。545年春に刊行された 版のもつ意味は、これがルター自身の手による、生前最後の版である点に見出されよう。ルターは 546年2月8日他界するが、死因は心臓発作と見なされており、晩年はすぐれぬ健康状態にあった。

546年の版は、ルターの死後出版されたものであるが、この版を引用する意味・目的は、その直前 の版との間でなお字句の変更が生じており、改修への取り組みが最後の最後までおこなわれたこと を示すことにある。また、ルターの死後に刊行された版とはいえ、この版に対するルターの修訂へ の関与は自明であるだけに、真の意味でのルターによる最終的な完訳聖書はどちらの版と見るべき であるかという問題の提起ともなっている次第である。

 ここで引用したデジタル版の前書「この版について」のなかで、545年の版がこのデジタル版に よりはじめて世に出された旨記されている。確かに、今日までにルターの手になる全訳聖書の本文 が示されるとき、文学の世界でよく使われることばを援用すれば、遺作である546年版を掲載して いるものが、刊本・デジタル書籍の別を問わず多いように思われる。この意味では、表記に不足は あるものの、その前年545年のテキストを収録したここのデジタル版の価値が認められよう。同時 に、このデジタル版からの引用に加え、翌年の版から同じ箇所を刊本により引用したのは、修訂の 作業がいかに持続的におこなわれたかを示すためであるが、同時にこのいわば並列引用によって、

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遺作としての546年版をもってルター訳全訳聖書の最終的なすがたとみる筆者の姿勢をも暗に示し た次第である。

 「主の祈り」にかかわる、上の三つの引用には節を数える数字が組み込まれている。ただ、節を 数える数字はルターよりのちの時代に取り入れられたものであることを付言しておきたい。同時に、

ルター訳聖書の印刷に当った業者についてもここで触れておきたい。522年の「九月聖書」および 同年2月に刊行された「2月聖書」(Dezembertestament)を印刷したのはメルヒオール・ロター

3)であり、524年に刊行された二折版のルター訳新約聖書はこの人メルヒオール・ロターとミヒャ エル・ロター4)によるが、そのあと24年から25年にかけての八折版の新約聖書はふたたびメルヒオー ル・ロターの印刷による。しかし、ロターのルター訳聖書とのかかわりはここまでであり、その後 旧約聖書も含め、その多くの版の刊行に当ったのはハンス・ルフト5)であった。6) ルフトとルター 訳聖書との関係は、526年における新約聖書の発行にはじまり、爾後546年まで新約聖書がヴィテ ンベルクのこの印刷業者によって発行された。従って、全訳聖書

Biblia deutsch

は 534 年に刊行さ れたが、全訳聖書については546年まですべてその印刷はルフトによるものであった。

 ハンス・ルフトが成人するまでの経歴に関する詳しいことはわかっていないが、ルフトは 524 年からヴィテンベルクで印刷業を営み、その後たちまちのうちに才を発揮し、この町の印刷業界で 主導的な地位を得るに至る。上に述べたように、ルターの生前に出版された全訳聖書はすべてルフ トの手によるが、ルフトはメランヒトンとの交流も深く、その要望に応じたテキストの出版も手掛 けている。世知にたけた人物であったようで、印刷業だけではなく、ワイン酒場も経営し、542年 にはヴィテンベルク市の参事会員となり、45年には市の裁判官に任命される。さらに66年以降ルフ トは交番でヴィテンベルク市長をつとめた。7)

 グーテンベルク以来ドイツの印刷業はその技術を高めていったが、こうした印刷業者との連携が あってこそ、ルター訳聖書の普及も促進されたといえよう。もっぱら「九月聖書」を例にそのテキ ストにみるドイツ語の特性を中心に述べてきたが、完成した訳文を世におくリ出すことに寄与した もうひとつの背景も見逃してはならないという意味で、ここで少し印刷業者に関する事柄に言及し た次第である。尤も、ルフトのヴィテンベルクにおける経歴を紹介したのは、当時の、あるいはし ばしばその後の時代においてもそうであろうが、印刷業者が決して慈善事業として翻訳聖書の発行、

というよりも書籍の出版という仕事に関係したわけではないこと、すなわち時代の動向と好機を逸 さぬ彼らの姿勢を同時に暗に示したかったからでもある。

3−4. 「ルター ドイツ語」の特徴(2)――歴史的・地理的視点からの考察

 さて、ドイツ語は、地域的にみた場合、低地方言と高地方言に分れるが、高地方言は中部方言と 上部方言に分れる。ルターの頃には、低地および中部・上部ドイツおいて共通語生成の動きがあっ た。中部ドイツ語は上部ドイツ語と著しくは異ならず、低地のひとびとにも理解できるものであっ た。ルターの言語はこの中部方言に属している。ルター自身、みずからの用いるドイツ語について 次のように語っている。

(12)

わたしのことばは、ドイツ領内にある独特の言語を使うのではなく、低地・高地のひとびとが 理解できるよう、最も共通的なことばをはなすザクセンの官庁語にしたがって語るのである。

 中部ドイツに比較的均一な言語、いわば地域的通用語が存在したことを確認したのは、フリンク ス(886-968)8)、シュヴァルツ(Schwarz)等であるが、それは、エルベ、ザーレ以東の新開 地に中部、あるいは上部ドイツ地方から移住したひとびとが集まって、次第にできた平均的方言で あり、やがてその地域おける超地域的文語としても使用されるようになったものである。それはザ クセンや歴史的地域としてのマイセン、すなわち0世紀末以来の辺境伯領マイセンの言語となって いき、よって<ルター ドイチュ>は、上記の分類のかぎりでいえば中部ドイツの通用語に基づい ていることになる。このような歴史的・地理的視点からみた「ルター ドイツ語」の位置付けにつ いていま少し詳しく、かつより正確にみておきたいと思う。

 中世末期には三つの超地域的な言語が成立していたようである。一つは、低地ドイツ語の文章語 である。4世紀後半に成立したハンザ同盟諸都市の商業語をもとに、同盟の拡大とともに、都市間 の通商語として発達し、言語としての統一性を獲得していったことばである。要するに、この言語 は通商語であり、同盟の勢力拡張により、一時はスカンジナビア、バルト海沿岸諸国、さらにはロ シア領内にまで大きな影響を与えた言語である。

 もうひとつは東中部ドイツ語による文章語である。上で<ルター ドイチュ>が中部ドイツの通 用語に属すると述べたが、ルターが依拠したことばは、ルター自身が語っているように、自分の出 身地に近いザクセン、より正確にはマイセンの官庁語である。つまり、ルターはドイツ東中部地方 の言語に従っているのである。2~3世紀に、ドイツ西部では人口は都市に集中していく。また政 治的には、神聖ローマ皇帝は有名無実となり、事実上個々の領邦君主がそれぞれの領邦(ラント)

を支配する状況にあった。このような状況のもとで、ドイツ東部へのドイツ人の移住、いわゆる東 方殖民が推進され、ドイツ東部は次第に政治的・経済的に力を得ていく。ブランデンブルク、プロ イセン、ザクセン、オーストリアといったドイツ史、否、ヨーロッパ史においてのちに重要な役割 を演じる領国の基礎が築かれていくのである。

 東中部ドイツ語との関係でザクセンに注目してみると、まず認識しておかなければならないこと は、今日単に「ザクセン」といえば二つの異なる地域を指し示しうるという点である。一つは、ド イツ連邦共和国の一つの州としてのザクセン、より正確にいえば「ニーダーザクセン」州であり、

もう一つは、ドイツ東部にあるザクセン州とその一帯である。われわれの問題との関係で注目すべ きザクセンは後者であり、歴史的にみれば、ザクセン選帝侯国の中核となっていた地域である。従っ て、今日この二つのザクセンを区別する必要のある場合に用いられる名称でいえば、「オーバーザ クセン」(上部ザクセン)がわれわれの注目するザクセンである9)

 オーバーザクセンは元来スラブ系住民の住む未開の地域であったが、2世紀初頭からはじまった ドイツ人の東方殖民により急速に発展した地域であり、主として中部ドイツ人、これに低地ドイツ

(13)

と上部ドイツからの移住者が加わって、ドイツ語化された地方である。3世紀にはいるとエルツ山 地で豊かな銀鉱が発見されたことも相俟って、この地方の人口は爆発的に増加する。このようなド イツ人急増のなかで、異なる地域から移住してきたひとびとが用いる言語のあいだで均一化がおこ り、3 世紀に上部ザクセン、マイセン地方に平均的なドイツ語がうまれ、さらにチューリンゲン、

上部ザクセンの言語をあわせてできたのが東中部ドイツ文章語である。

 いま一つは、上部ドイツ文章語である。4 世紀頃からドイツ各地の官庁では公文書の作成にあ たり、ドイツ語がラテン語にかわって用いられるようになる。当初は官庁ごとにそのことばは異なっ ていたが、官庁間の交流に加え、有力な官庁のことばをいわば手本とするといった現象により官庁 語のあいだに平均化・均一化が徐々に進行していく。ことにウィーンのハプスブルク家の皇帝庁で 用いられたドイツ語は大きな影響力をもった。その結果バイエルン、オーストリアを中心とする東 南ドイツに通用語――皇帝庁のことばとの関係以外でも東南ドイツには比較的均一な通用語形成の 動きがあったが20)――というよりも、ほとんど共通語とも呼びうる均一な文章語が形成されていっ た。そして、この東南ドイツの通用語は、スイスを除く上部ドイツ地方に広くその使用がおこなわ れ、上部ドイツに波及していったのである。

 これら三つの超地域的な文章語は、それぞれその地方に限定された通用語であって、全ドイツに わたる統一的通用語もしくは共通語ではなかった。統一的な共通語が成立するためには、この三つ の地方的通用語のあいだで激しい競争がおこなわれねばならなかった。

 この競争において最初に脱落したのは、低地ドイツの文章語である。この言語は事実上、3世紀 から 7 世紀にかけて北ヨーロッパに展開したいわゆるハンザ同盟の商用語として発展したもので あったから、この都市連合の盛衰とこの言語のそれとは自ずから密な関係にあった。従って、4~

5世紀にハンザ同盟は最盛期をむかえるが、5世紀以降のオランダ・イギリス商人の擡頭、ロシア やイギリスといった集権的大国家と同盟の対立によるノブゴロド商館の閉鎖(494年)、ロンドン(ス ティールヤード)商館の閉鎖(598年)は、ハンザ同盟の衰退をあらわす顕著な出来事であり、同 時にその通用語としての低地ドイツ文章語も衰退の一途をたどることになった。

 この意味で、低地ドイツ文章語の衰退は、他の二つの超地域的通用語との競争というよりは歴史 のなせる自然の衰微であったとみることもできよう。以後、低地ドイツ語は、ドイツ共通語形成の フィールドから姿を消し、そこは高地ドイツ語の独壇場となっていく。その後の低地ドイツに関し ていえば、7世紀のはじめまでに東中部ドイツの通用語が支配的になっていく次第である。

 小さな領邦(ラント)に細分化されたドイツ西部と異なり、ドイツ東部には大領国が徐々に成立 していったが、それら領国の政治的・経済的影響力と相俟って、その発展はドイツ語の発展にも影 響を及ぼしていく。ヴォルムスからの帰還の途上ルターを保護したのはウィッテン家のフリードリ ヒ3世賢侯であったが、ウィッテン家は2世紀以降オーバーザクセン地方、ザーレ川流域に進出し、

マイセンやザクセンといった地域を着実にその領土としていった。ハインリヒ3世貴顕侯(在位 22-88)のときその領地は著しく拡大し、ドイツ諸侯のなかでも最大の領土を持つ君主がドイツ 東部に誕生したのである。のちにドイツの領邦というよりはヨーロッパの大帝国オーストリアが、

(14)

また領邦支配においていち早く近代化を進めたプロイセンが、そしてのちに再び、ポーランドと同 君連合を結びヨーロッパ列強の一員となるザクセンがドイツ東部から出てくるのである。オースト リアの問題は別として、オーバーザクセンを中心とする東中部ドイツで用いられた文章語は、この ような政治的状況およびこの地域の言語に基礎をもとめた「ルター ドイツ語」の超地域的な影響 により、その言語使用における更なる拡張に向けて、力を増していったのである。

 結局その後、東中部ドイツ文章語と上部ドイツ文章語が対立した状態で7世紀から8世紀には いっていくことになる。ある程度の広がりを有する特定の地域でおこなわれている言語同士の競合 という問題を考える場合、歴史的・政治的要因は無視することができないであろう。この二つの言 語の淘汰を、世界史上における大きな出来事である宗教改革という面からみると、おおまかには宗 教改革をおこなった東中部ドイツとローマ・カトリックにとどまった上部ドイツ、換言すれば、バ イエルン、オーストリアを中心とする東南ドイツとの競合とみることもできよう。<ルター ドイ チュ>の影響により、東中部ドイツの通用語がその使用の拡大をみせていくなかで、8世紀までヨー ロッパの強国オーストリアの皇帝庁の官庁語に基礎を置く上部ドイツ文章語も依然、東南ドイツで は用いられ続けた。

 これ以降の詳しい事情は本稿の対象とする範囲ではないが、簡潔にその後のドイツ共通語生成の 過程を、それに多大の寄与をした人物の名で示しておくと、7世紀のショッテル2)、8世紀のゴッ トシェート22)およびアーデルング23)、20世紀のドゥーデン24)であり、発音の面で9世紀末のジー プス25)が挙げられる。

 本稿では、ルター訳聖書からルカ伝の一部を引用したが、三つの異なる版から同じ箇所を引用し た。引用は僅少であっても、次のことがあるいは容易に理解されよう。すなわち、ルター訳聖書は すでに訳者の生前からたびたび改訂がおこなわれたが、語形あるいは正書法という視点からみれば、

統一性を欠いている、ということである。この問題が上記の人々およびその他の協力により、まず ショッテルによって、東南ドイツの通用語をも含めた高地ドイツ語による標準語という考え方が打 ち出された。同時に言語の規範化と体系化もすでにショッテルからおこなわれているが、8世紀ゴッ トシェートの著書『ドイツ文法の基礎付け』によって示された考え方が東南部ドイツ、さらにはス イスも含め広くドイツ語圏で受け入れられていく。また、正書法という問題について、8世紀後半 アーデルングが尽力し、20世紀初頭のドゥーデンの『正書法辞典』(90年)に至り、ようやく近 代ドイツ標準語の正書法が確立し、これにオーストリア、スイスも従うことになる。

 このようにルター以降もドイツ共通語あるいは標準語の形成をめぐり、大きな努力が重ねられる が、6世紀ルターの独訳聖書の出版および<ルター ドイチュ>の考案はその端緒となる重要なも のであったといえよう。確かに、語形の不統一、正書法という点から見た問題はあろうが、今日の 学問的水準とそれに基づく評価からルターの仕事を評価することは不当である。ルターが生きた時 代のなかで、彼の仕事とその遂行がどれほど多くの障害を前にしながらも、それに屈することなく、

続けられ、達成されたかという点が看過されてはならないのである。同時に聖書の翻訳に際しての ルターの基本姿勢からは今日でもわれわれはなお多くを学ぶことができるのかもしれない。ルター

(15)

とその独訳聖書がなければ、ドイツ標準語の形成への道がさらに多難なものとなったであろうこと は推測にやぶさかでない。

3−5−0.「ルター ドイツ語」の特徴(3)―― 語形・語彙・語の意味・名詞の性・造語および表現  3-3 でルター訳聖書からルカ伝の有名な箇所をごく一部、三つの異なる版から引用し、比較検討 したが、ここでは広くルターのドイツ語の特徴について、具体例をある程度示しながら、語形・語彙・

語の意味・名詞の性・造語および慣用的表現ついて、最後に簡潔にみておきたいと思う。

3−5−1.語 形

 ルターが聖書の独訳に際し、広い意味での規範とした言語はマイセンの官庁語であった。その結 果ルターのドイツ語は、マイセン方言(Meißnisch)の特徴をかなり引き継いでいる。同時に注目 される点は、ルターのドイツ語には中世的な、あるいはまさに中世の形がのこっていることである。

具体例として次の点が挙げられる。

1.bleib という形を過去時称においてルターは使っており、これは中高ドイツ語と共通する変 化である。

2.動詞の過去分詞に ge- を付けないのも、ルターのドイツ語に見出される特徴の一つであるが、

これも中高ドイツ語の古い形を受け継いだものといえよう。

3.新高ドイツ語において -er をもった複数形が、ルターの場合、これを付けない形がのこっ ており、これも中世の形を色濃くのこしている例といえる。

 このほかにも finden に対する funden の例など中高ドイツ語とルターのドイツ語との関係を示す 例はあるが割愛する。

 これに対し、中高ドイツ語の語形がそのまま使われないケースの方が、当然のことながら一般的 ではあるのだが、その際の転換について母音を中心に若干の例を示しておく。

 

1.mîn、zît という単長母音が、mein、Zeit という複母音に変えられている。

2.また、この1の逆のケースとして、たとえば bruoder、liab がそれぞれ Bruder、lieb に変 えられている。すなわち<複母音→単長母音>という転換がおこなわれている。

3.gân、stân が、マイセン方言では、gehn、stehn となるが、この方言的特性がそのまま受 け継がれている。

3−5−2.語 彙

 今日につながるルターの功績のなかで、その最たるものは語彙の面に見出される。本来は中東部 ドイツ語で用いられていた語であったのだが、ルターの著作を通して今日の標準語に採り入れられ

(16)

たことばとして、次のようなものがある。綴りは現代ドイツ語の形で示し、括弧内にその上部ドイ ツ語形を現代語の表記により付記しておく。

Blüte (obd. Blust) bunt (obd. gespräckelt) Hügel (obd. Bühel) Lippe (obd. Lefze) Topf (obd. Hafen) Töpfer (obd. Hafner) Treppe (obd. Stiege) Ufer (obd. Gestade)

 このほか darben、Grenze、pissen なども、東中部ドイツ語からルターの著作を通して今日の標 準語に入ってきたものである。

3−5−3.語の意味――新たな意味の付与

 語彙の移入に加え、ルターはこれまで用いられていた語に新たな意味を付与することをおこなっ た。ルターによって新しい意味内容を与えられた語として、次のようなものが挙げられる。

 

  Beruf :従来は Ruf, Berufung の意味であったが、

      ルターが「職業」という意味で使った。

  fassen :本来は「つかまえる」という意味であったが、

      ルターにより「把握する」の意が付与された。

  fühlen :本来の意味「さわる」を

      ルターが「感ずる」の意味で用いた。

  Grund :「理由」という意味をルターが付加した。

      本来は Grundlage「基礎」の意。

  Richtschnur :Kanon, Regel「基準」という意味でルターが使った。

  fromm :本来は tüchtig「有能な」、 rechtschaffen「正直な」の意であったが、

      ルターが gläubig, gottesfürchtig「敬虔な」の意味で用いた。26)

3−5−4.名詞の性――決定と転換

 ルター以前には語形が不安定であったものが、ルターにより定まった形を得るようになったもの が多い。勿論、ルターのドイツ語においても、すでにルカ伝からの引用にみたように、同じ語であ

(17)

りながら語形に統一性を欠いているものがあるが、ルター前の時代との比較における相対的な意味 で、ルターにより語形が安定したものが多い。それと同時に名詞の性が、ルターのドイツ語によっ て決まったものが多く見出される。例を挙げておこう。例示に際し、最初の三つは新高ドイツ語形 を挙げ矢印(→)によりルター前とルターの場合とを示し、四番目以下では語形の変化も含め、矢 印によりその転換を示している。四番目以下において、名詞の頭文字が大文字のもの、小文字のも のが混在しているが、まだ今日的な意味での正書法がなかった時代のことであり、同じ名詞の場合 でさえ、それもルターのドイツの場合であっても、たとえば hymel と Himel が見出される次第で ある。

Gewalt:m. → f.

Luft: m. → f.

Last: m. → f.

Spitz m. → Spitze f.

wolk m. → Wolke f.

Flamm m. → Flamme f.

 後半の三つの例が示しているのだが、ルターは -e を付加することによって名詞の女性化を おこなっている。この -e を「ルターの –e」Lutherisches –e あるいは「プロテスタントの –e」

protestantisches –e と呼ぶ。但し、看過してならないことは、ルターにより -e が付与され、語形 が安定し、性が女性となっていない語のあることである。例を一つ挙げておこう。

  nam → Name

3−5−5.ルターによる造語

 ルターによって新たに作られた語として次のようなものが挙げられる。

Dachrinne deuteln Gegenbild Glaubenskampf gottselig Machtwort Lückenbüßer Morgenland

(18)

 最後の例 Morgenland「東洋」との関連で、ここで再び語の意味に関することで付け加えておくと、

Abend を Westen の意味で使ったのもルターである。Morgenland との対比では、Abendland「西 洋」が挙げられよう。

 形容詞を名詞あるいは他の形容詞と結び付けて合成語を造る傾向がこのころみられたが、ルター の場合にも次のような例が見出される。

wolgefallen

rottwelsch(子音の重複もこの時代のドイツ語、すなわち初期新高地ドイツ語の特徴である。)

3−5−6.慣用的表現――ことわざ、あるいはことわざ風の慣用句

 さきに述べたように、ルターは日常の民衆のことば・表現にも目を向け、ドイツ語への聖書翻訳 に際し、広くひとびとが理解することができ、かつひとびとの胸に訴えるような表現をもとめた。

その結果、いわゆる<ルター ドイチュ>には、人口に膾炙したことわざなどから慣用句が多く採 り入れられた。ルターに採り入れられたことによって、それらのことわざ、あるいはことわざ風の 慣用句は以後ながくドイツの言語財として、ドイツ標準語形成のなかにあっても保持されていった。

尤も、今日では学校教育の普及、マスコミの発達等の理由から、処世の術、農耕等に関する知識、

あるいは広い意味での「教え」――ことわざの機能の一つに即していえば「教訓」――を求めなく なったためであろうか、ことわざはドイツ語にかぎらず、日本語の場合でもその使用という点で頻 度が減り、衰退の一途をたどっている。

 現代のこうした状況は別として、ルターによりドイツ語への定着が促進されたものとして次のよ うなものが挙げられる。看過されてならないこと、もしくは容易に気付かれるであろうことは、聖 書のことばとのつながりである。

Zeichen der Zeit(時のしるし)

Stein des Anstoßes(つまずきの石)

ein Dorn im Auge(目の上のこぶ)

im Schweiße seines Angesichts(額に汗して)

ein Kind des Todes(死ぬ運命にある人)

sein Licht unter den Scheffel stellen(自分の才能をかくす)

durch die Finger sehen(大目に見る)

jn. an der Nase herumführen(或る人を思いのままに引き回す)

nach seiner Pfeife tanzen(或る人のいいなりになる)

Wer anderen eine Grube gräbt, fällt selbst hinein.(人をのろわば穴二つ)

Unrecht Gut gedeiht nicht.(悪銭身につかず)

Hochmut kommt vor dem Fall.(おごれる者久しからず)

(19)

Gewalt geht vor Recht.(無理が通れば道理がひっこむ)

結 語

 ルターの時代にはことばの乱れる傾向――ドイツ語でいえば、Grobianismus ――がみられた。

その理由は一つではないが、宗教上の論争もその一因ではあろう。教皇のことを bapstesel、僧を frezpfaffe とののしり、ルターのことを wortchrist、maulchrist あるいは der wortheilige さらには Luder ――訳すのもためらわれるが――と呼び27)、論敵を Eck、Dreck と言ったことは専門家に は周知のところであろう。

 ルター自身もこうした論難と無縁ではなかったが、彼の聖書独訳とそのための共通的ドイツ語形 成への努力は、ドイツ共通語の確立を目指すその後の動きを早め、統一性のなかったドイツ語に大 きな変化を与えることになった。勿論、さきに述べたように、ルター以降も東南ドイツ通用語、換 言すれば、ウィーンの皇帝庁の文章語に基礎を置く言語の並存もしばらく続くが、「ルターのドイ ツ語」なくして、その後ショッテルらの努力が彼らの時代に実現した可能性は低かったといっても 過言ではあるまい。

 ルターのドイツ語を中心にみてきたが、筆者は次の点を見落としていない。既に名前を挙げた ショッテル他いわば学者達によるドイツ語の規範化・体系化の努力とともに、ドイツ語で書くこと によってドイツ語の表現能力を高め、これにより直接、間接に標準的ドイツ語の生成、ことに散文 の発達に貢献したひとびとがいたことである。

 本稿でも言及したマイスター・エックハルトに代表される神秘主義たちの功績が想起される。自 身の信仰体験をことばで、ドイツ語で表現しようとした彼らの試みは、思想や抽象的概念を表現す るための言語の力を高める方向に大きく作用したといえよう。異端とされたエックハルトの著作は 禁書となるが、その弟子ゾイゼ28)やタウラー29)、ことに後者の宗教活動ならびに彼らの著した説 教や論文によって、神秘主義者たちのこの面におけるドイツ語への影響はその後の時代にも及ぶこ とになる。

 7世紀、670年ごろヤーコプ・シュペーナー30)により始められた敬虔主義、すなわちピエティ スムスもまた抽象的思考や宗教的体験の叙述によってドイツ語の表現能力の向上に結果としてつな がるものであった。より高い視点からいえば、8、9世紀ドイツ文学の特徴の一つである内面描写 あるいは心理描写に、別言すれば、幾分抽象的な表現ではあるけれども「内面化への道」に通ずる ものであった。ピエティスト達は生前、自身の葬儀の際に読誦される故人の履歴「ペルソナーリア」3)

を自らの手で書いたが、それは多くの場合、自分がいかにして神を認識し、回心したかという宗教 体験を中心に記された広い意味での自伝であった。32)

 ゲーテも若いころ敬虔主義の集いに参加したが、その後のゲーテ、シラー競作の時代ともいうべ きドイツ古典主義の文学、またそれに続くドイツ・ロマン主義の文学もまたドイツ語による表現の 可能性を著しく高め、ラテン語からドイツ語を完全に解放し、ドイツ国民文学と呼びうる作品を世 に送り、ドイツ語の発達に大きく寄与したのである。

(20)

 教養人の用いる言語として、また教会の公用語としてラテン語が全盛であった時代から、ドイツ 人のためにドイツ語で表現する権利を獲得し、さらにいくつもの方言に分れたドイツ語から、共通 語をつくりだす仕事は、ひとりの人物の手で、一つの時代のなかでおこないうることではない。一 方において規範化と体系化の努力が、また一方では著述を通しての表現の多様化と深化への努力が、

そして何よりも、新たな方向性とその運動を抑圧する時代の支配的精神や諸力との闘いを経て、標 準語あるいは共通語としてのドイツ語が確立していった次第である。

 こうした事情も踏まえた上で、ヴォルムスにおける審理の場で、公然と「最初にドイツ語、次に ラテン語」で答えたルターは、ドイツ語のラテン語からの解放という面でも嚆矢となった存在であ るが、聖書の独訳が教会によって禁止されていた時代に、民衆のために民衆のことばと表現にも留 意しながら、広く通用するドイツ語を考案することからはじめ翻訳をおこなったルターの功績、な かでも独訳聖書に関する評価二例を最後に示し、本稿を閉じさせていただくことにする。33)

「それ〔ルターの翻訳聖書〕は世界文学の最も重要なテキストのひとつである」

(ヴァルター・キリーのことば)34)

「ドイツ文化とドイツ語の発展に、マルティン・ルターによる聖書翻訳ほど奥深く、あとまでの こる影響を与えた書物はふたつとしてない」

(デジタル版ルター訳聖書の前書より)35)

【付記】ゲーテ研究に関する文献をその量の点で大山にたとえるならば、ルター研究のそれは大洋 であるといって過言であるまい。本稿では、中世のドイツ語に関する研究も含め、先学の仕事に 学ぶところ多大であった。従って、以下の注は最小限にとどめたことをお断りしておく。それで も、本文総頁数 20 に対し、注が6頁に及んでいる。そのため引用に関しても、専門的研究者の あいだで共有されていると判断されるものに関しては注記を割愛したケースもある。36)

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