• 検索結果がありません。

VIVIR FLAMENCO カンテ・ホンドの世界

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "VIVIR FLAMENCO カンテ・ホンドの世界"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

VIVIR FLAMENCO カンテ・ホンドの世界

 筆者は、パセオフラメンコ誌(Paseo Flamenco)の 2009 年 1 月号から 12 月号まで、カンテホンドの世界に フラメンコ愛好家を誘

いざな

いたい思いから、この資料の表題 にある「カンテホンドの世界(Vivir Flamenco)」を連 載させていただいた。この連載に先立ち、福岡大学人 文論叢 36 巻(2004 年)に”Expresiones de dinamismo emocional en la poesía flamenca / Expresiones de sosegado sentimiento en el haiku (primera parte)、

同 論 叢 38 巻(2006 年 ) に ”Expresiones dinámicas del flamenco: Segunda parte del "expresiones de dinamismo emocional en la poesía flamenca・

expresiones de sosegado sentimiento en el haiku.” と いう論文を発表して、カンテホンドにおける表現の「動 性」と俳句における表現の 「静性」 の比較の序論とした のだが、以来カンテホンドにおける表現の動的な側面と、

その表現の背後にあるイスラム思想と、そのジプシーへ の影響に興味を持ち、論説を準備して、出版の機会を窺 っていた。そこにパセオフラメンコ誌から、準備してい た論説の中から読者の興味を惹くテーマのいくつかに絞 って連載してはどうかという申し出があり、フラメンコ 愛好家がカンテホンドの深淵な世界に触れるきっかけに なればと思い、喜んで連載させていただいた。

 以下では、連載が終了したことから、この分野の研究 家の資料となるように同誌のお許しを得て、連載した記 事全体を一つにまとめて、ご覧いただくことにした。構 成は次のようになっている。まず、連載が何回目か、そ の回全体のテーマ、とりあげたカンテの中の表現の主題、

原文、和訳、音源(ない場合も)、解説の順である。な お、作者や音源などについては、筆者も不明の部分が多 く、もし文中に誤りや作者不詳としたカンテの作者がわ かる場合などには、是非とも青木までご指摘いただけれ

ば幸甚です。

 なお、連載記事の再掲を快く承諾していただいたパセ オフラメンコ誌の関係者、とくに編集の谷口哲哉氏には、

さまざまにお世話になり、心から改めてお礼申し上げます。

第 1 回:激情

「激情(furia pasional)」のレトラ

Si mi mare no me casa para este domingo que viene le pego fuego a la casa con toíto lo que tiene

※ mare = madre, toíto = todo

次の日曜日までに

母が私に結婚させてくれないなら 何もかもいっしょに

この家に火を放つ

作詞:不明

カンタオール:アントニオ・マイレーナ        (Antonio Mairena)

曲種:タンゴまたはガロティン

参考音源:フラメンコ ・ サイト「flamenco y universidad      (http//flun.cica.es/flamenco_y_universidad)」

     より「Grabaciones(録音)」の項目から試聴可

 フラメンコの詩は総称してカンテ(cante)と呼ばれ るが、カンテ・ホンド(cante hondo)〈註①〉は力強い 感情的情感を込めて歌われるカンテのことである。アン

【資料】

パセオフラメンコ誌への連載を終了して

青 木 文 夫*

      Vicente Haya**

パロ解説協力:María del Carmen Corpas Martín***

* 福岡大学人文学部教授:メールアドレス [email protected]

**  長崎外国語大学専任講師

*** カンタオーラ(在スペイン)

(2)

ダルシアの詩人マヌエル・マチャードが、 「カンターレス、

我が祖国のカンターレス、カンターレスはアンダルシア だけのもの(Cantares〈註②〉, Cantares de la patria mía…Cantares son sólo los de Andalucía)」と詠ってい るように、深い感銘を与えてくれるほとんどの詩は、ア ンダルシアの民衆の心そのものと言っても過言ではない であろう。

 フラメンコを知ることは、アンダルシアの民衆の心に 触れること。とくにフラメンコの詩を知ることは、アン ダルシア地方のスペイン語〈註③〉を理解するとともに、

ジプシーたちの心の叫びを体感することである。今回か ら毎月、カンテ・ホンドの広大な精神世界の一部を、そ のテーマに沿って眺めてみたい。

 フラメンコの詩には「静まることのない動性」〈註④〉

がある。これは挑発的で主観的で無遠慮な言語を用いる アンダルシアの民衆の特徴であり、論理よりも画像的イ メージを追究する視覚的な性格であることに由来する。

 カンテ・ホンドが具象化する典型的な例は、嫉妬、復讐、

自尊、死、愛、脅迫、不信、罵倒、不誠実、呪術、誇張、

不服従、快楽、放蕩、怠惰など。まさに「情熱(心の激 しさ:pasión)」の世界である。

 これらの感情や情態は、敏捷で、針で刺すように鋭く、

瞬時に捕まえることができない動的なアンダルシアの言 語によって表現される。

 ちなみに「情熱」は、カンテ ・ ホンドにはところかま

わず出現する、欠かせない感情である。それはカンテ・

ホンドが、アンダルシアが経験したイスラム文化の流入 に深く根ざしていることを示している。というのは、情 熱的であることが不純で罪深いことであるキリスト教世 界とは異なり、イスラム教世界では「情熱」が至極当た り前のこととして受け入れられるからである。そして、

その「情熱」は喜びであり、魔術であり、度を超せば越 すほど、カンテ・ホンドの深淵な世界は広がるのである。

 その心の激しさを表すカンテの代表作として、アント ニオ・マイレーナがラ・ニーニャ・デ・ロス・ペイネス

(La Niña de los Peines)に捧げて歌った次のカンテを 紹介してみよう。

 結婚相手は両親が決めるというジプシーの掟に逆らっ て、愛する人との結婚を望む娘が、もし叶わぬなら家に 火を放つという誓いを密かにたてる。「何もかもいっし ょに(con toíto lo que tiene)」という表現が、すべてが 焼き尽くされ、誰一人救われないという壮絶な決意に至 ったことを表している。愛する人との結婚か、「すべて を燃やしてしまう」という極端な選択しかない激情が、

愛のすごさを表わしている。

 これは、カマロン(Camarón)が歌うブレリアの名 曲「Pasando el puente」の1節「yo siempre estaré a tu lao y no me iré de tu vera(ずっとお前のそばにいて、

お前を捨てたりなんてしないさ)※ lao=lado」という男の誓 いがあってこそ、この娘の壮絶な誓いが生まれるのである。

① 「カンテ・ホンド」は Cante Hondo(標準的なスペ イン語では「カンテ・オンド」と h を発音しない)

またはフェデリコ・ガルシア・ロルカ(Federico García Lorca)の作品に由来して Cante Jondo と書 かれるが、アンダルシアでの実際の発音は「カンテ・

ホンド」である

② フラメンコの歌も含めたさまざまな形式の民衆の心 の歌カンタール(cantar)の複数形

③ アンダルシア訛りと、多くのジプシー語(caló また は romaní)の語彙が特徴的なスペイン語

④ スペイン語で desasosegado dinamismo

第 2 回:愛の夜は2人だけのもの

「愛の夜(Noche de amor)」のレトラ

Al amanecer al amanecer con un beso blanco yo te desperté

夜明けに

朝を迎えるこのときに 喜びの後の口づけで お前を目覚めさせた

作者:マヌエル・モリーナ(Manuel Molina)

カンタオーラ:ローレ・モントージャ(Lole Montoya)

曲種:ブレリア

音源:『Nuevo día, Lole y Manuel』

   (Warner Music Spain / 2005 年)※再編集版

 その昔、ジプシーにとって野生の籐から作った籠を売 り歩く「籠作り」〈註①〉の仕事は、数少ない収入源の 一つであった。彼らの生活はとても貧しかったが、それ でも盗みや暴行などの罪は犯さずにまじめに働くジプシ ーもいたのである。

 第 1 回の文中で触れたカンテの一節、「ずっとお前の

そばにいて、お前を捨てたりなんてしないさ」には、そ

の前段に「俺が受け継いだのは、高潔なジプシーの血と

籠作りの家系さ」という詩が配されている。貧しいけれ

ど、「籠売り」だけに従事し、悪事に走らず清貧な暮ら

しを貫くことを誇りにするジプシーだからこそ、「永遠

の愛」を誓うことが許されるのだ。その「永遠の愛」を

(3)

支えるのが、2人だけの「愛の夜」である。

 

 フラメンコの世界は「愛と嫉妬と憎しみが支配してい る」と言っても大袈裟ではない。彼らの物質的な状況は とても厳しく、満たされないことが多いからこそ、そう いった人間としてのさまざまな感情の高揚が日常的な活 力の支えとなっている。とりわけ「愛」は、人間が存在 するために欠かせないもっとも崇高なものとして捉えら れている。愛のない世界はまったく無意味で、神がいな い世界より空虚で何も生みださない。フラメンコの世界 にとって、愛は神よりも大切なもの、と言ってもよい。

 今回採りあげた詩はあまりにも有名だ。フラメンコに 生きる人々の心をこの上なく簡潔に表現し、推敲が行き 届いた美しい詩である。現代詩にもかかわらず、古くか らのフラメンコの世界を見事に描いている。ちなみに、

ジプシーの血を引き継ぐ作者のマヌエル・エル・デ・ラ・

ローレ(Manuel el de la Lole〈註②〉)は、美しい愛の 詩が書ける作家。同時に、アンダルシアにおいてフラメ ンコに偏見を持つ人、とくに都市部のブルジョア層にも フラメンコを広めた功績が評価される芸術家である。

 人工的な灯りのない自然の中で暮らしていたジプシー の男と女にとって、月明かりのない暗い夜こそが2人だ けの「愛」をもたらしてくれていた。夜明けを迎えるま でひと時たりとも離れず、愛の魔術が計り知れない喜び に変わり、そして夜明けを迎えるのだ。

 別の詩では、「愛の夜」を過ごす2人を「君の唇が僕 の唇から離れたとき、真っ暗な夜が朝の光を帯びていた」

〈註③〉と詠っている。「愛の夜」はまさに特別な瞬間で ある。瞬きしている間に過ぎてしまうような愛の夜。マ ヌエルの詩は、漆黒の闇が明るく輝くまで、恋人たちが 一時たりとも唇を離すことなく過ごす情景を、鮮やかに 私たちに語ってくれている。唇を重ねたままの一夜を──。

 詩の中の beso blanco(白い口づけ)は、本来「額へ のキス」の意味である。だが、その外延に性的な意味が あることは明白なので、それを含めて「喜びの後の口づ け」という訳出を試みた。また、男性側からの訳出を行 ったが、実際に歌っているのはローレ・モントージャ。

女性側からの訳出も可能だが、「白い口づけ」といった ように、より性的ニュアンスを強調せざるを得ず、思わ ずニヤリとするのは筆者だけであろうか……。

① スペイン語で canastero

② マヌエル・モリーナ。有名な歌い手ローレ・モント ージャの夫だと誰もが知っているので、ローレの亭 主(El de la Lole)という意味のこの通称がよく用 いられる

③ 原文は以下の通り   Y cuando tu boca

  se separó de la mía   la noche, dos veces negra,   se vistió de luz del día

第 3 回:束の間の愛こそ真実の瞬間

「束の間の愛(amor pasajero)」のレトラ

Se mudaron los tiempos me he mudao yo;

aonde no hay escritura jesha no hay obligasión

※ mudao = mudado, aonde = adonde, jesha = hecha, obligasión = obligación

時が移ろい 俺も変わった

何か書いて約束したわけではないから そこに繋がれる義務はない

作者:マヌエル・トーレ(Manuel Torre)

カンタオール:マヌエル・トーレ、ペリコン・デ・カデ ィス(Pericón de Cádiz)、他

曲種:シギリージャ

音源:タイトルは「Cuando yo me muera」。おなじみ の歌詞ではあるが、マヌエル・トーレが歌ってい る音源は筆者の知る限りでは存在しない。

 メキシコ伝統音楽の歌手であるアストリー・アダー

(Astrid Hadad)も歌ったことで有名になった、作者不 詳のアレグリアスに「お前を一週間愛していたけど、次 の一週間はもう愛していなかった。だってそうしたいと 思わなかったからだ」という一節がある〈註①〉。

 ジプシーにとって本当の愛は、真に自由であることか ら成り立つ。それゆえ、ジプシーの道徳観の中に「永遠 の愛」と「束の間の愛」が両立していても、何ら矛盾は ない。彼らにとって愛とは、それが真実である間は永遠 に続くものであるが、もしその愛が偽りになれば、その 瞬間から、愛ではなくなってしまうのだ。

 捨てられる女の苦しみに心を揺らすことなく「もう愛 していない」と言い切る男の厚顔さには呆れるかもしれ ない。だが、それは我々が一般社会の陳腐な道徳観や子 どもじみた耽美主義に慣れ切っているからであって、ジ プシーの持つ真に解き放された野性の本性と、その本性 に忠実に従う誠実さに慣れていないからである。

  サ ル ス エ ラ の 作 曲 家 で あ る ハ シ ン ト・ ゲ レ ー ロ

(Jacinto Guerrero)のある作品の中で歌われたソレアに、

「俺に本当のことを言ってほしいなら、歌いながら言っ

(4)

てやるよ。お前との愛は辿ってきたところから去ってし まったのさ」という一節がある〈註②〉。この詩の歌い 手は、思っていることを当たり前のように言うのになん ら羞恥心を持たないばかりか、それを歌いながら語ると いう身勝手な贅沢さえも自分に許してしまっている。

 女を捨て去ろうとするジプシーの男にとって、この世 のすべては移ろうものであり、永久にその姿をとどめ るものは何もない。哲学者ヘラクレイトス(Heráclito)

の「万物は流転する(panta rei)」のごとく、自分の気 持ちも変わってしまったと素直に語れるのである。アラ ビア語で心(スペイン語で corazón)は「qalb」と言い、

それは「飛び跳ねる(dar saltos)」という表現(アラビ ア語の動詞 qalaba)から派生したものである。すなわ ちイスラム思想に影響を受けているであろうジプシーに とっての「心」とは、ある所から別の所へ移ろい行くも の、その興味は自ずと変化するものなのである。

 別掲に紹介した「書いて約束したもの」とは「婚姻の 証し」のこと。しかし、ジプシー社会にはそんなものは なかったわけで、いつも男はサインしたわけではないか らと女を捨てたのであった。それがいつしか、女にとっ て「書いた証し」をもらうまでは体を許さないという考 えを生み「男は(籍に)入れるよ、入れるよと、入れる まで言って、入れた後はそんな約束はどこかに行ってし まうのさ」〈註③〉といったユーモア? あふれるアレ グリアスが、女たちの間で流行ったのである。

 そしてそんな証しを記したために、最後にはラ・パケ ーラ・デ・ヘレス(La Paquera de Jerez)の有名なテ ィエント「俺の愛してる二人の女、どちらから逃れられ るかって、一人がいなくなったら気が狂うし、もう一人 だと契りを破ることになるし、俺は愛にのめりこんだ。

二人をこんなに愛してるなんてバカな奴だ」〈註④〉と いう、一夫一婦制のジレンマに陥るのである。

① 原文は「Yo te quise una semana y a la otra no te quise porque no me dio la gana.」

② 原文は「Si quieres que te lo diga, cantando te lo diré: el amor que te tenía por donde vino se fue. 」

③ 原文は「El hombre: Prometer y prometer hasta meter y, después de metido, nada de lo prometido. 」

④ 原文は「De dos mujeres que quiero, ¿de cuál me desprenderé? Si dejo una por otra loquito m’

he de gorbé. Si dejo otra por una mi derecho lo quebranto. Yo me metí en el queré…¡Malhaya quien quiere tanto! 」

※ m’he = me he, gorbé =volver, queré =querer

第 4 回:ジプシーの呪いと誓いの深淵

「呪いと誓い(maldición y juramento)」のレトラ

Se te vean tus carnes desprendías de tu cuerpo, si tú vienes a dejarme

※ desprendías = desprendidas

私を捨てるために来たのなら 身体から引きちぎられた おまえの肉片を皆が見ることに

作者:不明だがウトレーラ(Utrera)姉妹のどちらかと 推察される

カンタオーラ:ウトレーラ姉妹 曲種:タンゴ(トナーの場合もある)

音源:『Cultura Jonda 7, Fernanda y Bernarda de Utrera』(Fonomusic / 1990 年)※現在廃盤

 前号の「束の間の愛」で述べたように、ジプシーの世 界には婚姻の証しはなかった。愛し合って一緒に暮らし ている間に浮気さえしなければよく、愛が終われば2人 を繋ぐものは何もない。したがって、男は簡単に女を捨 てることができるが、女のほうも「はい、そうですか」

というわけにはいかないのは、当然のことである。男を 引き留めることも自らが手を下して復讐することも叶わ ないならば、ジプシーの女は「呪い」という魔術によっ て男を脅迫することになる。

 別掲の詩は、自分を捨て去ろうとしている男への呪い を見事に詠っている。「私を捨てたら、お前の肉が身体 から剥がれることになる」というこの詩が描くイメージ の恐ろしさはすさまじい。

 ジプシーは「呪い」や「誓い」という魔術を持ってい る。それは復讐や脅迫のための、理性を超えた世界に存 在する魔術である。もちろん男も魔術を信じている。女 の呪いが自分に死をもたらすと思い、この女を捨てたら 本当に死の代価を払うことになると信じて、女を捨てる のを諦めるかもしれない──。

フラメンコの詩の「呪い」や「誓い」の表現には、

イスラム思想の影響がはっきりと見られる。例えば、ア ンダルシアの民衆が 8 百年以上にわたって信じていたコ ーランの書には、多くの「呪い」と「誓い」の表現があ る。代表的な「呪い」の表現は「Que+ 無人称や受け身 の se +接続法現在形」の形式になり〈註①〉、しばしば que は省略される。また「誓い」の表現は前置詞「por(~

にかけて)」によって導入され、その表現形式がフラメ

ンコの詩にも頻繁に出現し、独特で興味深いものが多い。

(5)

フラメンコの詩に現れるコーランからの「誓い」の例を 示すと、「帳(ルビ:とばり)を広げる夜にかけて“por la noche cuando extiende su velo” (コーラン 92 章)」、 「無 花果とオリーブにかけて“por la higuera y el olivo”(同 95 章)」などがある。復讐や脅迫がこの「誓い」を伴う ことによって、必ず現実になると感じさせる魔術的な表 現である。

作者不詳のソレアに「もう俺に会えないと言うのか い、俺が飲んでいた乳に誓って、お前にその言葉を忘れ させない」〈註②〉という一節がある。「呪い」とは異な るが、復讐や脅迫のための「誓い」が鮮明に用いられた 詩である。このソレアの「誓い」は、普通のスペイン人 にとっても馴染みのない珍しい表現だ。「赤ん坊のとき に大きくなるために飲んでいた母乳」がとても大切なの は当然であるが、イスラム教徒はそれを「自分の誓いの 強さ」に倣った表現として用いるのである。

痴情のもつれから別れる男と女の最後の情景。「もう 愛していないし、今後一切会うこともないし、会うこと さえも不快だ」と女が言ったのに対し、男は女に復讐を 誓う。「復讐の憂き目に会う時には、女が言ったひどい 言葉を必ず思い出させてやる」と力強く誓っている。

 では、 「呪い」や「復讐」を実際に執行するのは誰か?

そこにはアンダルシア地方の神(Dios /アンダルシア 語では Dibé)の存在があることを次回で取り上げたい。

① 例えば、コーラン 111 章には「アブー・ラハブ(ム ハマンドの父方の伯父のあだ名)の両手が滅びてし まえ(Que se pierdan las manos de Abû Lahab.)

など有名な表現の多くがこの形式である。

②  原 文 は「Dices que no me pués vé. Desa palabra tacuerdas. Por la leche que mamé. 」

※ pués = puedes, vé = ver, desa = de esa, tacuerdas = te acuerdas

第5回 捨てられて、裏切られて……

「復讐(venganza)」のレトラ

Anda compañera, permitan los sielos

que con el cuchiyo que matarme quieres mueras tú primero

※ sielos = cielos,cuchiyo = cuchillo

まさかお前が……

天よ許したまえ

俺を殺そうとしたこのナイフで

お前が先に死ぬんだ

作者:不詳

カンタオーラ:不詳 曲種:ティエント

音源:セビージャのペーニャで収集。残念ながら音源は ないが、LAS LETRAS DEL FLAMENCO(http://

culturitalia.uibk.ac.at/hispanoteca/Musik- Spanien/Flamenco/Las % 20letras % 20del % 20 flamenco.htm)にレトラが収載されている。

 あるソレアに、「もし他の男がお前を口説こうものな ら、ナイフでそいつの頭を切りとってやるからな」 〈註①〉

という一節がある。2 頭の雄鹿が 1 頭の雌をめぐって喧 嘩になるように、この詩でも「自分の女に他の男が近付 いて口説こうものなら、そいつを殺す」とごく自然に言 い放っている。しかも、素直に、自然に、何の取り繕っ た品位や良心の呵責もなく詠う──それは、フラメンコ の世界では、誰もが自然の摂理に従って生きているから だ。このように、ジプシーにとって愛する女のために人 を殺すことは、ごく当たり前と言ってよい。

 ところで、別掲の詩の「天よ許したまえ」という言い 方は、キリスト教の倫理観において受け入れられない すさまじい表現である。今回の詩の背景にある概念は

「vendetta (venganza)、仇討ち」だ。破局した恋人た ちの情景、女は男を殺したいと思うまで憎むようになる。

そして、男は自身を守るために、女が自分を殺そうとし た同じナイフで女を殺すことを「神によって仕組まれた 魔術であれ」と祈願する。まさにレックス・タリオニス

(復讐法)である。自ら復讐に手を染めるにもかかわらず、

それが神によって仕組まれ、導かれ、許されたものとす ることで正当化しているのだ。

 長い歴史を経て、ジプシーたちはイスラム教からキリ スト教へと、神への信仰において大きな変遷を遂げてき た。この詩の表現のように、誰かに悪の報いをもたらす 役割りを神に負わせようとする行為は、キリスト教的視 点からは眉を顰めざるを得ない。ジプシーが神に魔術の 執行を願うのは、イスラム思想から来ているのではない かと考えられる。というのも「神に慈悲を乞う(petición a Dios de un beneficio)」と「誰かを呪う(maldecir a alguien)」という表現のどちらもアラビア語では「duʹâ」

が兼ねているからだ。

 もう一つ興味深いのは、ジプシーはアブラハムの宗教 で唯一神教であるイスラム教のアラー(Alá)とキリス ト教の神(Dios)を“使い分けている”という仮説が成 り立つことだ。マヌエル・トーレのソレアに、2つの「神」

の対比を明確に表わす詩の例がある。「俺の洗礼証書さ

えもお前との愛のために質に入れたのに、お前は行って

(6)

しまい、俺を捨てるだなんて、神がお前に罰を与える さ。お袋よ、お願いだ神様に頼んでくれ、俺の心の痛み を和らげてくれるように」〈註②〉という一節では、罰 を与えるのがアンダルシア語の「un Debé」であり、心 の痛みを和らげるように懇願する相手は標準スペイン語 の「Dios」である。このように「復讐」や「呪い」の執 行にはアンダルシア語の「神」が登場することが多い。

これは、そのような表現に「Dios」を使うことはキリス ト教的な倫理観において禁忌であり、一般社会を敵にま わすことを避ける意図があるのだろう。

 あるソレアでは、 「神様お願い、お前が私を殺すように、

お前にも死を」〈註③〉と歌っている。アンダルシアの ジプシーが持つイスラム的な復讐法と神に対する畏敬の 念を端的に表した詩である。

① 原文は「Si otro te camelara, yo sacaría un cuchillito y la cabeza le cortara」

② 原文は「Hasta mi fe de bautismo yo la había empeñaito por tu querer. Ahora te vas y me abandonas, que te castigue un Debé. Mamaíta de mi alma, quiero que le ruegues a Dios, para que alivie las penas que tengo en mi corazón.」

※ un Debé(または Debel)は un Dibé もよく用 いられる。

  ※ empeñaíto = empeñado, mamaíta = mamita

※ マ ヌ エ ル・ ト ー レ の 2 枚 組『Grabaciones históricas』に収載されているが、現在廃版。

③ 原文は「A un Dibé le estoy pidiendo que como me matas mueras」

第 6 回:自然の中で生きるジプシーの諸相(1)

「偶像崇拝(idolatría)」のレトラ

A la luna le pido a la del alto Cielo

cómo le pido que saque a mi padre de donde está preso

月に

天空にまします月に

父が囚われているところから 解き放されることを

どんなにか願う

作者:アントニオ・マイレーナ

カンタオール:アントニオ・マイレーナ

曲種:シギリージャ

音源:『Quejío. Solera Gitana』 (Emi-hispavox, 1997)

   ※残念ながら廃版。

 イスラム教のシンボルといえばトルコの国旗にもなっ ている上弦の月と星が有名である。だが、それは決して アラーを唯一神とするイスラム教の信仰の象徴ではな い、という説が有力だ。しかしながら、自然の中で暮ら すジプシーにとって、大地をやさしく照らす月や満天の 星が神秘的な存在であり、信仰の対象となり得ることは 想像に難くない。自然への畏敬は、前号で述べたジプシ ーの多神教的な精神と相関していると言えるだろう。

 「お月さまをそっとしておいてね。誰にも口を出さな いし、周りの星たちもそうするんだから」〈註①〉とい う可愛らしい詩がある。ジプシーにとってお月さまは、

願いごとを叶えてくれる神のような存在だ。そんなお月 さまに誰かが口を挟んで、自分の夢や希望を邪魔しよう としている。でも、お月さまは悠然と輝き、その周りの 星は従うように瞬いている。だから、お月さまをそっと しておいてほしいと詠っているのだ。この詩のように、

ジプシーにとって。月は、神とは言わないまでも、雲の ない夜空を支配する女王のような存在であり、周りの星 たちは月に仕える召使いとして見ていたのである。

 一方、それとは対照的にジプシーが暮らしている大地

(tierra)には、現実の苦しさや残酷さを詠っている。

ロドリゲス・マリン(Rodríguez Marín〈註②〉)は「死」

に関するカンテの名作を多く収集し、中でも大地が持つ 厳しさを端的に表す美しい詩をいくつも挙げている。そ の一つに、「大地が食べ尽くしてしまうその表情の哀れ さ」〈註③〉という一節がある。イスラム教の六信には 天命(カダル:qadar)や来生(アーヒラ:akhira)と いう考えがあるとはいえ、ジプシーは一般的に「死」は 何ももたらさない無意味で空虚なものと考えていた。そ の空虚な「死」が「大地」によってもたらされることを 表す詩的な表現に「大地に顔を埋める(juntar la cara a/con la tierra)」という慣用句がある。ここでは一例と して「敗者は顔を大地に埋める。この世に存在するもの にはいつかは喜びが訪れる」〈註④〉というカンテの一 節を挙げておこう。

自然の中で生きるジプシーにとって、人は「大地」

から生まれ、「大地」に帰るものである。「大地」は豊か な生命を生み出すと同時に、「死」を迎える敗者を食べ 尽くしてしまうのだ。

 別掲の詩で、「大地」に囚われている作者の父親を最

後に待ち受けているのは「死」である。そんな残酷な「大

地」の仕打ちから父親を救ってくれるよう願うのは、先

月解説した「Dios」でもなければ「Dibé」でもない。天

(7)

空の女王である「月」に対して願うのだ。この詩の出だ しの「月に、天空にまします月に(願う)」という表現は、

エル・プラネタが最初にカンテに詠んだとされるが、こ の詩の作者のアントニオ・マイレーナ以外にも、ラファ エル・ロメーロなどのカンテに用いられている、このう えなく美しい表現である。

 苦しみに満ちた「大地」に寝そべり、夜空の「月」を 見上げながら、ジプシーたちが捧げた祈りに思いを馳せ ることができる。

① 原文は「Deja la luna quieta que no se mete con nadie.

Lo mismo que sus planetas. 」   ※アルカラのソレア(作者不詳)

② Francisco Rodríguez Marín(1855-1943)詩人、フ ォルクローレ研究家、セルバンテス研究家、諺研究 家。

③ 原文は「¡Qué lástima de carita que se la coma la tierra!」

  ※曲種不詳(作者不詳)

④ 原文は「El que pierde es el que junta su carita con la tierra; el que se quea (=queda)en este mundo tarde o temprano se alegra. 」

※シギリージャ(作者不詳)

第 7 回:自然の中で生きるジプシーの諸相(2)

「 独 立(independencia)と た く ま し さ(reciedumbre)」

のレトラ

Mi manta de cabecera y las estrellas por techo, el ganado en la ladera, la tierra bajo mi pecho y mi serrana a mi vera

愛用の毛布 天上には星 山の中腹には家畜 胸元には大地 そばにはいい女

作者:ホセ・ペレス・デ・グスマン    (José Pérez de Guzmán)

カンタオール:エル・カブレロ(El Cabrero)、他 曲種:ファンダンゴ・デ・ウエルバ

音 源:http://www.mispordentros.com の 13 ペ ー ジ で エル・カブレロによるカンテが試聴可能

 喧嘩、嫉妬、不倫といった人間関係の醜悪さを描くカ ンテとは対照的に、フラメンコの詩人が歌う自己と自然 との関係は、俳句に描かれる世界と同じように、深い愛 情がこもったこのうえなく美しい表現に満ちている。そ こにはフラメンコの詩人たちの理想──あらゆる日常の 煩わしさから解き放たれた、自然の中での生活と恋愛が 描かれる。

 エル・カブレロは、そんなカンテを歌わせたら右に出 る者がいないカンタオールだ。彼が歌うカンテに次の一 節がある。「山で暮らすのが好きだ。声が走ったり飛ん だりして、星明りの下で安らかに眠れる」〈註①〉。声に

「correr(走る)」や「volar(飛ぶ)」といった表現を用 いるところが、広大な自然の美しさとそれを独り占めし て生活する楽しさを強く感じさせてくれる。ジプシーた ちは自然の中で生活することを余儀なくされた。しかし、

彼らは自然と共生し、過酷な暮らしを愛するようになる。

このカンテは、彼らがどのようにして、その境地に至っ たのかを見事に教えてくれる。

 故・永川玲二先生〈註②〉は、「多数の意志が協調し ないと生き延びることが不可能なため個人の意志には最 小限の配慮しかなされない農耕文化から東洋の群生主義

(gregarismo)が生じた。一方、西洋の個人主義は、自 然の中で個人が自立できる牧畜文化から生じたものであ る」というお話しをよく講義でされていた。その説に従 えば、別掲のカンテは西洋的個人主義の理想の典型、す なわち“自分だけの世界”の描写である。

この西洋的個人主義の理想はジプシーのみならず、

イスラム文化圏にも大きな影響をおよぼしている。例 えば、つねに戦士としての誇りを持ち、自主独立を良 しとしたベルベル人は、他人から干渉されると決まっ て次のように言ったものである。「Kurshi di anna(el mundo es mío)(世界は俺のものだ)」。そしてスペイン には、次の冗句がある。「En España existen 39.999.999 de reyes de amateur y uno sólo professional(スペイン には 39,999,999 人の素人の王様と一人だけのプロの王様 が存在する)」。

そんな自立の精神を支えるのが「たくましさ」だ。

次もエル・カブレロが歌うカンテの一節である。「田園 に雨が降れば風で乾かす。その野をかけめぐり俺の身体 は何度も濡れたことか」〈註③〉。美しい詩だが、厳しい 自然の真っ只中で、放浪を好み危険に身を晒すジプシー の詩人の生き様が垣間見える。困難な試練を乗り越える

「たくましさ」があってこそ、美しい自然との共生が可 能であり、満天の星も、家畜も、広大な大地も、いい女 も、何もかもすべてが自分のものになる。もし、生命力 がなければ、前号で述べたように「大地」に食べ尽くさ れてしまい、この世での喜びは一切訪れないのである。

このカンテ・ホンドの詩人を、お遍路の僧(monje

(8)

errante)であった俳人と比較せずにはいられない。種 田山頭火は次のように詠んでいる。「ぬれてついてほん にしづかな雨」(Completamente empapado. Una lluvia verdaderamente mansa:西訳は Vicente Haya)。

① 原文は「Me gusta viví(vivir) en er (el)monte, donde la voz corre y vuela y donde duermo tranquilo a la luz de las estrellas.」

※曲種はティエントだが、エル・カブレロはブレリ ア・ポル・ソレアで歌う。エル・カブレロの作 とされる。

② 著者アヤのセビージャ大学での恩師。著書は『アン ダルシーア風土記』(岩波書店)他多数。

③ 原文は「Cuando llueve en la campiña, yo me seco con el viento; cuántas mojaditas lleva por esos campos mi cuerpo. 」

※曲種はファンダンゴ。ペレス・デ・グスマン作。

※本文中の 2 つのカンテは、El Cabrero『Grandes éxitos』 (Divusca / 2003 年)に収載されている。

第 8 回:愛を信じて……

「性の虜(encoñamiento)」のレトラ

Yo no sé lo que le ha dao esta serrana a mi cuerpo, que hago por desecharla y más presente la tengo

※ dao = dado

この娘が俺の身体に 何をしたというのだろう 忘れようとすればするほど その姿が頭から消えない

作者:不詳

曲種:シギリージャ

音源:有名な曲ですが、筆者の知る限りではありません    〈註①〉

 先月号の「呪いと誓い」で述べた、魔術が信仰されて いた時代には、イベリア半島のあちこちに魔女や呪術師 が生息しており、女はそこで処方される媚薬で男を虜に できると信じていた。最も効果があるとされたのは、女 自身の経血を数滴垂らした飲み物であったと言われてい る。

 カンテで常用される有名な一節に「¿Qué me ha dado

esta mujer?(この女が俺に何をしたのか)」という表現 がある。不気味な媚薬を飲まされて、女に溺れていく男 の姿をイメージさせるものであり、別掲の詩にも援用さ れている。

 とはいえ、現実的には媚薬の効果は疑わしい。女が男 に施す魔術は、性の営みそのものだったはずだ。男は豊 潤で至福の時を与えてくれる性の営みによって、自分の 意志に反して女にのめり込む。まさに「性の虜」にされ るわけである。

  ス ペ イ ン 語 で「 性 の 虜 に す る 」 は「encoñar」 や

「enchochar」が用いられる。だが、カンテの表現とし てはあまりにも直截的であり、別掲の詩のように「この 娘が俺の身体に何をしたというのだ」という比喩的表現 で、そのニュアンスを匂わせる場合が多い。

 歌詞に登場する男は、愛は去ってしまったのに、女を 忘れることができない。かつて男は鎖で縛りつけられる ように女に魅せられ、喜びの時を過ごした。だが、女は いなくなり、もはや苦しみだけしか残っていないのに、

それでも過去の愛を忘れられないでいるのである。

 同じ表現を含む次の詩も有名だ。「お前が俺に何をし たのかはわからない。でも、こんなにお前を愛するよう になるなんて。本当に愛していた女をこんなに嫌いにさ せるなんて」〈註②〉。愛する女を捨ててまでも別の女に 走る原因を、女が自分に施した媚薬の仕業にしているが、

それは男の身勝手でしかない。

 同様の表現で、女性側の視点からの詩も存在する。「あ なたは目が見えなくなったの。私としていることがわか らなくなるなんて。あの女をずっと愛するようになるな んて、いったいあなたに何をしたの」〈註③〉。自分と抱 き合っていても、他の女のことを思う男への切ない気持 ちを感じる一節だ。男が他の女を愛するようになったこ とは受け入れがたく、媚薬という魔術によって「性の虜」

にされた、と信じるのである。

 いずれの詩も、愛の移ろいを当事者たちのせいだと認 めたくないために、媚薬という魔術──この表現が用い られたのであろう。

 ところで、当時「性の虜」という言葉を口にすること は、男女の性愛を生殖のためにのみ認める、カトリック 信仰を持つブルジョア層にはタブーであった。しかしな がら、こうして詩の中に「性の営み」が随所に見受けら れるのは、民衆にとって男女の愛がいかに大切だったか を物語っている。

① 別掲のカンテには、多くの異なるバージョンがあ

ります。一例を挙げておきます。「No sé lo que le

ha dado esta serrana a mi cuerpo, que hago por

olvidarla y en viéndola me arrepiento 」

(9)

② 原文は「No sé lo que me has daíto pa que yo tanto te quiera, que mas jecho aborrecé a quien quería de veras」

※ daíto = dado, pa = para, mas jecho = me has hecho, aborrecé = aborrecer

※ 曲種:ソレア(アルカラ)、音源:不明。前号で 紹介したロドリゲス・マリンの著書『Canto populares españoles』より。同書には同じ 表現を含む多くのカンテが収載されている

③ 原文は「Estás ciego pa no vé lo que conmigo estás jasiendo, ¿qué te ha dao esa mujer pa que la sigas queriendo? 」

※ pa = para, vé = ver, jasiendo = haciendo, dao = dado, pa que= para que

※ 曲種:ソレア(チャラムスコ)、音源:Camarón y Paco de Lucía『Canastera』(Universal Music, Spain / 1972 年)

第 9 回:愛と性──身勝手な男の諸相(1)

「男尊女卑(machismo)」のレトラ

Por Dios que la respetara llorando me lo pedía, yo viendo que me quería de su cuerpo abusaba ella callaba y sufría

後生だから大切にして そうあいつは泣きながら 俺にすがったんだよ

でも俺のことを愛しているって わかってるから

身体を弄んでやったのさ

それでも黙って耐えていたんだぜ

作者:不詳

カンタオール:カマロン(Camarón de la Isla)

曲種:ティエントまたはファンダンゴ・デ・ウエルバ 音源:Camarón『Al verte las flores lloran』(Universal

Music Spain / 1969 年)※カマロンの他のアル バムにも収載されています。

 「性の営み」が男を引き止める媚薬であることは前号 で述べた。一方で、愛する男を引き止めるために、「望 まない性の営み」に女が耐える姿を歌うカンテも数多く ある。そこでは、男のあまりにも理不尽な姿が浮き彫り にされている。

 別掲の詩は、民間に伝わっていたレトラをカマロンが 歌ったことで有名になった一節だ。自分が愛されている という状況を単なる享楽のために利用する。女はただや さしくしてほしいがため、望んでいないのに身体を男に ゆだねなければならない。極端な男尊女卑の価値観が、

ジプシーの男たちの間でまかり通っていたことを端的に 描いている。

 男たちは、その奔放な振る舞いを神のせいにさえして しまう。「お前と街で出会ってお互いを満たすようにな るのは、神がいつそれを望まれるのかということに過ぎ ないんだよ」 〈註①〉。イスラム教のカダル(qadar:天命)

のもとでは、街での出会いも、愛し合うようになること もすべて神の意思。さらには、お互いを満たし、喜びを 与え合うことも、神がそう望むからなのだと言い張って いる。

 何とも身勝手な主張であるが、このカンテには邦訳で はちょっとわかりにくい、意味深な部分がある。それは、

この男には妻か恋人が別にいて相手の女性は愛人という ことである。閉ざされたジプシーの世界では全員が顔見 知り。原文からは、男は愛人に対し、あたかも街で偶然 に出会い、世間話をしているように装わせ、帳がおりる ころにお互いを満たし合う、というニュアンスが濃密に 漂っている。

 次のカンテは決定的な表現だ。「暗い夜、神が俺に勇 気をくれた。その墓地までお前を連れて行くのに」〈註

②〉。不倫関係の二人にとって、人目を忍んで情を交わ すためには、暗い夜を待つしかない。おもしろいのは、

密かな性の契りを全うする勇気を神が与えてくれたとす る、男の戯言である。女との行為を成し遂げることが武 勲であるという、性差別的で男尊女卑的な考えは眉をひ そめざるをえない。だが、男を愛してしまった女は、墓 地へと歩みを進めてしまうのである。

 もし、男のそんな我が儘に逆らえばどうなるか? そ の結果を示したカンテは、本当に数限りなくある。女性 からはお叱りを受けそうな詩ばかりであるが、あえて代 表的なものを挙げておこう。「その角っこでお前を待っ ているよ、かわい子ちゃん。来ないなんて言ったら、ど こで会ってもぶん殴ってやる」〈註③〉。「見ろと言った ら見るんだよ。歩けと言ったら歩くんだよ。お前がそう したくても、したくなくても、俺がお前に言った通りに するんだ。もし俺のそばにいたいのならね」〈註④〉。こ んな歌詞があったなんて、ショックだろうか? 男性を 代表してお詫びいたします……。

① 原文は「Que ¿cuándo querrá Dios que nos encontremos, prima, en la calle, y nos demos satisfacción?」

  ※曲種:ソレア、作者不詳

(10)

② 原文は「Nochesita oscura me dio Dios való pa llevarme a mi compañera jasta er panteón (nochesita = nochecita, való = valor, jasta = hasta, er = el)」

  ※曲種:カルセレラ。作者不詳

  ※「panteón(霊廟)」は「墓地」を意味している

③ 原文は「En la esquinita te espero; chiquilla, como no vengas, aonde tencuentre, te pego (aonde = en donde, tencuentre = te encuentre)」

  ※曲種:タンゴ、作者不詳

※『LA IMAGEN PATRIARCAL DE LAS MUJERES EN LAS COPLAS FLAMENCAS

(Miguel López Castro 著) 』に収載

④ 原文は「Mira que mira y mira, mira que anda y anda, que quieras tú o que no quieras, harás lo que yo te diga」

  si quieres viví(= vivir) a mi vera

  ※曲種:タンゴ、作者:アントニオ・サンチェス・

   ペシーノ(Antonio Sánchez Pecino)

第 10 回:愛と性──身勝手な男の諸相(2)

「娼婦(puta)」のレトラ

Por mi mala suerte he venío a dá

con una hija de mala mare jartita e roá〈註①〉

※ venío=venido, dá=dar, mare=madre, jartita=hartita, e=de, roá=rodar

俺は運が悪い

真っ当な暮らしに飽きた こんな親譲りの性悪女に 中

あた

るなんて

作者:トマス・パボン(Tomás Pavón)の作とされる カンタオール:トマス・パボン

曲種:ソレア・ポル・ブレリア

音源:有名な曲ですが、残念ながら発見できず。すいま せん……。

 フラメンコの名家に生まれたトマス・パボン。メルチ ョール・デ・マイレーナ(Melchor de Mairena)やニ ーニョ・リカルド(Niño Ricardo)のギターに合わせて 歌う、彼こそが最高のカンタオールだと評される〈註②〉。

その理由は、普段の生活では決して心の奥底を見せるこ とはなく、別掲のカンテのように男の心の暗部を赤裸々 に歌うときだけ、自分自身を曝け出したからだ。

 それゆえ劇場公演への出演やレコードの録音は極めて 少ない。自分の感情が真に高揚したときだけ歌い、小さ な会場やパーティなどで、そのすばらしいカンテを披露 していたからだ。

 娼婦に惚れてしまったが、当然その女は他の男と寝る ので、男は心の痛みに苛まれる──これは古典的なフラ メンコのテーマの一つであるが、その淫靡な内容から劇 場で演じられたり録音されたりすることは少なく、おも に民衆の間で歌われていた。

 ジプシーの世界には、「娼婦からは娼婦しか生まれな い」という隠然たる了解があった。別掲の歌詞では、男 は「お前は親譲りの性悪女(性悪女を母に持つ=娼婦の 娘)」で、「真っ当な暮らしに飽きた」。すなわち「男か ら男に情を結びながら生きていく」低俗な女だと罵って いるが、世間の目からしたらなんとも恥知らずの男であ る……。

「中る」という表現に、「運命」を信じ自らが「この女を 選んだ」と言わない責任回避的な姿勢も見て取れる。人 間の法に逆らい、自らが信じる自然の法に従って生きる ときに起きる悲劇を「運命」と捉えることは、ギリシャ・

ラテン的な思想だ。もちろん、その哲学はアンダルシア にもたらされていたが、ジプシーはコルドバ生まれの 哲人セネカ(Seneca)や、ましてやあのソフォクレス

(Sófocles)古代ギリシャの悲劇作家)を読んでいたわ けではない。悲しい運命を想い抱くときには、やはりイ スラム教のアラーの意志によるカダル(天命:qadar)

が心の中にあったと言ってよい。苦悶しながらも、それ が定めであると信じることによって、少しでも苦痛を和 らげようとするのである。

 トマス・パボンは次のようにも歌っている。「お前に 鉄槌がくだらんことを願う。みんながお前から喜びを得 ているのに俺は何も得ることができないなんて」 〈註③〉。

男の心の暗部を白日に晒(ルビ:さら)す、非常に印象 的な詩である。鬼気迫る表現は、文学的な推敲や当時人々 を苦しめた政治的な検閲を避けるための婉曲的な文言へ の置換など、一切必要としない。手直しの形跡がなにも 見られない、無垢の心の叫びを表したこうした詩こそ、

フラメンコの宝である。

 なぜ自分だけが拒まれるのか?慎み深い女ならともか く、誰とでも寝る女にとって自分と寝ることなどどうで も良いことなのに。男はプライドを傷つけられたと誤解 し、身勝手にも女に死がもたらされんことを願うのだ。

 しかしながら、女はその男の愛を感じ、身体を受け入 れたとしても、心までは決し許すことはないのだろう。

そんな強い意志を持った強い女性だからこそ、男はその

女に惚れてしまったのだ。

(11)

① 本来「hartita de rodar」という表現は「歩き回る のに飽きた」という意味。ここでは「安い娼婦にな って、どこでも男と寝ることで生きていく」と訳出 した

② 代 表 作 と し て『Antología “la época dorada del flamenco, vol. 24』(Tecnodisco / 2003 年)を挙げ ておこう

③ 原文は「Te den una puñalá, tó er mundo de ti consigue, yo no pueo conseguí ná puñalá」

※ puñalá = puñalada, tó er = todo el, pueo = puedo, conseguí = conseguir, ná = nada

  ※曲種:ソレア、作者:トマス・パボン

第 11 回:労働への呪い

「その日暮らし(vivir al día)」のレトラ

Malditos sean los dineros que ganamos en las minas, yo gastármelos prefiero aunque viva en la ruina por si de pronto me muero

鉱山で稼いだ金なんて こんちくしょうだ たとえ落ちぶれても 使い尽くすに決まっている 突然死ぬかもしれないじゃないか

作者:不詳

カンタオール:カマロン 曲種:ミネーラまたはタラント

音源: 『Camarón de la Isla, con la colaboración especial de Paco de Lucía』(Rosamaría 盤/ 1973 年)

 カンテのレトラの中で、これまで紹介してきた男と女 に関する以外のテーマなら、 「労働と金」と「酒」に「バ カ騒ぎ」が、ジプシーらしさを端的に表している。

「労働と金」について多く唄っているのが、鉱山のカン テ(minera)である。極貧のジプシーが選択できた数 少ない仕事は、当時最も非人間的な労働であった鉱夫か 鍛冶職であった──過酷な職業であり、終身刑の宣告を 受け、永遠に牢獄に繋がれるようなものだ。

 自由に生きることを理想とするジプシーの男にとって は、世の中のさまざまなことが煩わしいと感じるもの。

なかでも、決まった仕事に就くのは、結婚して決まった 家に住むのと同じくらい息苦しく、辛いことだった。

 別掲の歌詞では、労働を呪い「稼いだ金なんてこんち くしょう」だとまで言わしめる。というのは、「金」こ そ彼らが最も隷属したくないものであるからだ。今日に おいてもその気持ちは変わっていないと言ってよい。

 夜のトリアーナやアルバイシンで、フラメンコのアー ティストたちが稼いだ以上に金を使うのを目の当たりす る。その場を楽しむために惜しまず金を使うことは、フ ラメンコの生き方の真髄である。仮にその後、落ちぶれ て暮らすことを余儀なくされたとしても……。

 アンダルシア人、とくにジプシーは「その日暮らし」

のメンタリティを持っている。フェリア(Feria:セビ ージャの春祭り)やロシオ(Rocío :ウエルバの有名な 聖母マリアの祭り)に行けば、そこで莫大な額のお金が ほんの数日の間に消費されるのを実感することだろう。

 別掲のカンテでは「突然死ぬかもしれないじゃないか」

と詠んでいる。死はいつでも誰かを待ち受けているもの であり、アンダルシア人にとっては「その日暮らし」の 究極の意味が死である。

 ラテン民族であるカタルーニャ人とアンダルシア人 は、同じく「今日を楽しめ(carpe diem)」と言う。そ の死生観が決定的に違うのは、カタルーニャ人には「そ の日暮らし」のメンタリティがないことだ。

 それは、フラメンコの世界に投射されたアンダルシア の精神構造には、これまで述べてきたように、イスラム 文化の影響がはっきりと流れているからである。9 人の 妻と数え切れない愛人に囲まれた一人の預言者、アルハ ンブラの庭園を流れる水、スーク市場の香り高いスパイ ス、神秘主義者によって書かれたバッカス神の詩、とい った文化。フラメンコのジプシーがその日の人生を楽し むことができ、女を愛し、将来に不安を感じないのは、

まさにイスラム文化に負っていると言ってよい。

 当連載で何度も出てきた、イスラム教の教義である「天 命(qadar)」が将来に不安を抱かせないことに貢献し てきたのである。というのは、「すべてが同じ人の手に よって書かれている(maktub)」〈註①〉からである。

 42 歳で夭折したカマロンも同じような人生を歩んだ のだろうかと、彼の命日である 7 月 2 日にこの稿を書き ながら思いを馳せている。

① maktub はアラビア語の「本:kitâb」の語幹(K-T-B)

から派生する語で、「書かれてあること=個々人の 運命」を意味する。イスラム教では「すべてが神に よって書かれ、もうすでにそのインクは乾いている」

と言われる。こういう個人の自由意志をはっきりと

否定するイスラムの教義を否定するイスラム教の学

者による論争は今日までまだ終結していないが、も

っとも有名な言い伝えは「我々は母のお腹から生ま

れたとき、すでにアラーによって天国か地獄に行く

(12)

かが決められている」いうものである。

最終回:結び──酔いしれて

「秘跡の酒(sacramenta)」のレトラ

Traigo una sacramenta que a Dios llamo de tú……

神をお前呼ばわりするほどに 秘跡の酒に酔いしれる

作者:不詳

カンタオール:不詳 曲種:カディスのソレア 音源:なし

 「sacramenta」 と は、 カ ト リ ッ ク に お け る「 秘 跡

(sacramento)」の女性形で、辞書に載ることは稀な、 「酩 酊」の意味で用いられる俗語である。

 その起源は聖体の秘跡(神の恩恵にあずかる儀式)に おいて、キリストの血としてワインを口にすることにち なんでいる。当然ながらカトリックに対しては、侮蔑極 まりない表現だ。

 酒にちなんだ、かわいらしい詩がある。「とある屋台 で次々にワインを飲みながら、その場限りの兄弟からち ょっとした言葉を聞いた。俺の恋人は『お星様』って言 うんだ。だからこの大空を独り占めだぜ」 〈註①〉。「次々 にワインを飲む」という一句は、いかにもジプシーらし い表現だ。ワインのないフラメンコ文化はありえない。

アル・アンダルース(8 世紀初頭、イベリア半島を征服 したイスラム教徒がその半島につけた名称)においても、

ワインはイスラム教の教義の下で表向きには禁じられて いたが、実際にはイスラム教のカリフや皇太子の宴にも 好きなだけのワインが振舞われていた。

 次の詩の情景もフラメンコの典型だ。「こ楢(ルビ:

なら)の木立で踊りながら月を見るのが好きだ。丘の小 高いところで 12 時、1 時と過ぎていく」〈註②〉。これ らの一文からは「酒神ディオニュソスの儀式」、「魔女の 集会」、「スフィ教の踊りの儀式〈註③〉」、「ロシオ巡礼 の夜の行路」が湧き上がってくる──どれもさまざまな 民族の儀式であり、ジプシーにとっては異教徒の風習で あるが、フラメンコには欠かせない夜の「馬鹿騒ぎ」の 情景である。

 このように、「ワイン」と「馬鹿騒ぎ」はフラメンコ そのものだ。スペイン語で「馬鹿騒ぎ」は「juerga」。だが、

アンダルシアでは「jarana」がよく用いられる。これは アラビア語の「haram(禁じられたこと)」が語源で、 「irse

de haram(禁じられたところへ行く)」が時を経るにつ れ、アンダルシアでは「irse de jarana(馬鹿騒ぎに行く)」

へと変化したのだ。すなわち「ワイン」も「馬鹿騒ぎ」

も禁じられたことであるがゆえに、その楽しさはなおさ ら大きいというわけだ。

 心地よい酔いが進み、「12 時になり 1 時になって風が 吹き始めると、いつも知らず知らずに俺に月下酔人が訪 れる」〈註④〉。ぼんやりと月を眺めていると、お月様が 自分の目の前にやってきたかのように感じられるほど酔 っている。だが、その月が遠くに見えたとき、男はふと 我に帰る。頭によぎるのは「月は小さな井戸、花も何の 価値もなく、大切なのはあなたの腕だけ」〈註⑤〉。馬鹿 騒ぎで酔いしれ、最後は愛する人の腕の中で幸せな朝を 迎えるために帰っていく。これこそが、今という一瞬を 精いっぱいに楽しむ、カンテ・ホンドの世界なのである。

① 原文は「Y en una venta, tomando vino y más vino a mi hermano de camino le escuché dos o tres letras:

mi novia se llama “Estrella” y tiene un firmamento solito pa ella」

  ※ pa = para

※曲種:ブレリア、作者不詳。ローレ・イ・マヌエ    ルによって歌われている

② 原文は「Bailando entre las encinas me gusta ver la luna, en lo alto e la colina me dan las doce y la una 」

  ※ e = de)

  ※曲種:ソロンゴ、作者不詳

③ スフィ教の「hadra」と呼ばれる聖なる踊りの儀式。

今日でもモロッコでスフィ教の神秘主義者たちは、

山の頂上で一晩中アラーの名において踊り明かして いる

④ 原文は「A las doce o a la una, cuando viene el viento, siempre me encuentra borracho de luna sin conocimiento」

  ※曲種:ソロンゴ、作者不詳

⑤ 原文は「La luna es un pozo chico las flores no valen nada lo que valen son tus brazos cuando de noche me abrazas」

  ※曲種:ソロンゴ、作者フェデリコ・ガルシア・ロ

ルカ。なんの慰めにもならない月を「小さ

な井戸(pozo chico)」と喩えているのが

余情的だ

参照

関連したドキュメント

Como el objetivo de este trabajo es estimar solo una parte del vector θ , es conveniente definir estadísticos que contengan información solo sobre una partición del vector que define

La entrevista socr´atica, en las investigaciones que se han llevado a cabo hasta el momento, ha sido el medio m´as adecuado para realizar el seguimiento de la construcci´on y

La ecuaci´ on de Schr¨ odinger es una ecuaci´ on lineal de manera que el caos, en el mismo sentido que aparece en las leyes cl´ asicas, no puede hacer su aparici´ on en la mec´

A pesar de que la simulaci´on se realiz´o bajo ciertas particularidades (modelo espec´ıfico de regla de conteo de multiplicidad y ausencia de errores no muestrales), se pudo

Con res- pecto al segundo objetivo, que se formuló como investigar si las posiciones de las medias de los grupos han cambiado a través de las 4 semanas y, si lo han hecho, buscar

En este artículo se propuso una metodología para la estimación de información faltante en diseños de medidas repetidas con respuesta binaria basada en máxi- ma verosimilitud, desde

los sitios que enlazan a la p´ agina A no influyen uniformemente; depende del n´ umero de v´ınculos salientes que ellas posean: a m´ as v´ınculos salientes de una p´ agina

El resultado de este ejercicio establece que el dise˜ no final de muestra en cua- tro estratos y tres etapas para la estimaci´ on de la tasa de favoritismo electoral en Colombia en