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 大学発足に先立ち、1949

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(1)

特論5 入学者選抜試験の変遷

 第1節 入学試験制度の変化と熊本大学 1 発足期の入学試験

 1949

(昭和24)

年5月に新制国立大学が発足し、各大学で学生の募集が開始された。新制 大学設置時は、旧制・新制学生が入り混じった状態であった。戦後まもないこともあり、

復員学徒

(引揚学徒)

も多く、政府による臨時措置も講じられた。

 大学発足に先立ち、1949

(昭和24)

年1月末には、全国一斉に新制大学と旧制専門学校 の入学志願者に対する知能検査が実施された。この検査は官立学校志願者に対して1947

(昭和22)

年度より用いられるようになったもので、1948

(昭和23)

年に進学適性検査と名 づけられた。そして1949年、新制大学の第1回入学者選抜からは、大学受験生全員が受験 することとなった。

 熊本においては、1949

(昭和24)

年4月中に大学が設置される見通しが立ったというこ とで、4月9日に熊本総合大学設立委員会が緊急総会を開き、募集人員や試験日程といっ た募集要項その他についての協議を行った。具体的には、入試の細目を協議するために、

学部長や教務関係の教員からなる委員が選出されたほか、学生募集事務局の本部と入学相 談所を熊本工業専門学校内に置くことや、大学要項や募集要項の作成・配付・案内の方法 について話し合われた。4月19日、出願期日が4月21日から5月4日まで、考査期日が5 月17日から19日まで、合格発表を5月26日とする熊本大学の募集要項が広く新聞で報道さ れ、学生の応募が待たれた。しかし、この段階ではまだ設置認可が下りておらず、実際に はこの日程での試験は行われなかった。

 本学の正式な出願募集は5月13日から26日の間に行われ、定員1,070名に対し、2,332名 の志願があった。このとき配付された募集要項を見てみると、4月の設立委員会緊急総会 では工専内に置かれることとなっていた学生募集事務局本部は、黒髪の工専ではなく、城 内二の丸の熊本医科大学内に置かれた様子である

。募集が行われたのは法文学部・教育 学部・理学部・薬学部・工学部の5学部で、医学部を希望する者は理学部の乙

(医学部へ の進学課程)

を受験すること となっていた。また、文科4 系列

(法文学部法学系・法文学 部文学系・教育学部4年課程・

教育学部2年課程)

あるいは 理科6系列

(工学部・薬学部・

理学部甲類・理学部乙類・教育 学部4年課程・教育学部2年課 程)

のそれぞれの枠内から第

3志望まで選択しての出願が

可能であった。ただし、この

写真1 1949年度学生募集要項

(2)

制度は翌年より廃止され、以後は1学部のみの出願となったため、1949

(昭和24)

年のみ の措置であったといえる。

 こうして学生募集が行われた後、6月15日から17日の3日間にわたり本学の第1回入学 試験が実施された。当該年度の進学適性検査を受けていることが出願の条件とされ、進学 適性検査と学力検査からなる筆答試験のほか、身体検査と出身校の校長から提出された調 査書による選抜が行われた。当時は食糧難ということもあり、特に学生の健康状況への配 慮がなされ、結核性及び伝染性疾患の身体検査が行われた。なお、当時の国立大学の入学 者選抜試験は一期校・二期校の区分で行われていたが、熊本大学は1949

(昭和24)

年のみ 二期校、翌年からは一期校に振り分けられ、試験を行った。6月29日には医学部を除く5 学部の合格者を発表し、欠員や入学取り消しが生じた分については、7月中旬に追加発表 を行った。そして9月1日、入学試験を突破した1,154名の学生を迎え、第1回入学式を 挙行した。

 以上のような進学適性検査と大学別の個別学力試験を組み合わせた入学試験は、進学適 性検査が廃止される1954

(昭和29)

年度入試まで続けられた。1954年1月18日、文部省は 1954年受験・1955年度大学進学者からは大学進学適性検査を廃止することを決定した。こ の背景には、進学適性検査への予備校での準備教育・模擬試験等が活発になってきたこ と、大学側の評判が良くないこと、検査そのものの科学的根拠が立証されていないことが あった

。これを受け本学では、1955

(昭和30)

年度の学生募集要項を決定するために、選 抜手続きの説明と学力検査等についての高校側の希望・意見を聞くための場として「熊本 大学入学者選抜に関する懇談会」を設けることとなった。1955年12月10日、九州・山口8 県の高等学校教員204名が出席しての懇談会が開催され、学生募集要項等の説明が行われ たほか、大学側教官と教科ごとに設けられた部会において種々の意見が交わされた。同月 13日、この意見を盛り込んだ個別学力検査のみによる熊本大学入試の募集要項が発表され た。翌年3月実施の入試より、入学志願資格者の要件から「進学適性検査を受けたもの」

という文言が外され、学力検査・身体検査・調査書の3つによる選抜となった。

 その一方で、新制大学へ切り替わるにあたっては、学制改革による過渡期の学生たちの 進路が社会的な問題となっていた。旧制大学時代の大学進学は、出身学校によって順位を 異にする優先順位制がとられており、優先順位第1位の志願者数が定員を超えた場合に、

その1位の者のみについて競争試験が実施され、合格した者は大学進学、落ちた者は浪人

(いわゆる「白線浪人」)

となった。また、優先順位第1位の志願者が定員以下の場合は全員が 合格となり、欠員の部分が優先順位第2位以下の者に振り分けられることとなっていた

。 この方式は1946

(昭和21)

年度入試からは、帝国大学・官立単科大学において全面的に撤 廃されたものの、1949

(昭和24)

年度に新制大学が発足することとなるに際し、年々増加 していく白線浪人が大きな問題として取り上げられるようになった。

 1949

(昭和24)

年の新制大学第1回入試では、こうした旧制高等学校卒業者と旧制専門

学校等卒業者、それに新制高等学校卒業者が一緒に大学を受験した。1949年1月の「熊本

日日新聞」では、当時7,300名にも上った白線浪人が、新制高校卒業生や旧制高校1年修

了生、あるいは旧制専門学校在学生等全国を合わせて20~30万人にも達するとみられる受

験生とともに試験を受けるという深刻な進学難となっていたことが報じられている

。こ

のように深刻度を増す白線浪人問題について文部省は、1949

(昭和24)

年11月、①旧制大

(3)

学の試験期日を分けて少なくとも2回は実施すること、②各大学の収容定員については特 に収容が困難な理科系統を中心に増加すること、③新制大学2学年生への転入試験を行い 旧制高校卒業生を収容することの3点を決定し、各旧制国立大学へ通達した。

 更に1950

(昭和25)

年5月頃には、なお8,000名に上る白線浪人がいることから、各大学 が共同で同時に編入試験を行うことが全国学長会議で決定された

。そして文部省もこの 方針に基づき、1951

(昭和26)

年に限り国立大学の学生を臨時に増募することを決定し、

旧帝国大学

(東京大学・京都大学・東北大学・九州大学・北海道大学・大阪大学・名古屋大学)

と一橋大学・神戸大学・東京工業大学・東京教育大学・広島大学の各大学で2,485名、そ の他の大学は各学部定員の1割を募集することとなった。本学でもこうした事態に対応す べく、第五高等学校を母体として成立した法文学部において、白線浪人の受験希望者の調 査を行った。これと並行し、1950年4月19日付で、医学部を除く5学部における旧制高等 学校・専門学校の第2学年以上修了の学歴を持つ者、あるいは新制大学1年を修了し一定 の単位を取得したものを対象とする2年次編入の募集がかけられた。2年次編入試験は、

学部・学科は一部のみとなり、募集人員は若干名と限られたものの、翌年以降も続けられ た。

2 新テストの模索

 1960

(昭和35)

年1月29日、松田竹千代文部大臣は、学制制度の根本的な改革について 近く中央教育審議会

(中教審)

に諮問する方針を明らかにした。その中には、国立大学で は理工科教育を重点的に行い、人文科学系統を私立大学に任せること、高校・大学の試験 制度の抜本的改革、6・ 3・ 3・ 4制を6・ 3・ 5の新学制にすること等が盛り込まれた。

この背景には、極端な学力偏重試験により、学生の資質が適正に計れているのかという問 題があった。こうして同年5月2日、大学制度の根本的な再検討のため、中教審に対し、

①大学の目的と性格、②大学の設置と組織編成、③大学の管理運営、④大学の厚生補導、

⑤大学の入学試験、⑥大学の財政についての諮問がなされた。

 このうち⑤大学の入学試験については高校側からも問題視する声があがっており、1958

(昭和33)

年頃から、全国高等学校長協会が入試のあり方を改めるようにと全国の大学に要 望を出していた。1960

(昭和35)

年11月に全国高等学校長協会が発表した入試問題の改善 を求める意見書では、大学の入学試験の問題が難しすぎること、高校の学習範囲外の内容 が含まれていること、科目の本質的内容から離れて枝葉末節にこだわったものが出題され ていること等の入試に関わる諸問題が指摘された。こうした状況にもかかわらず、入試の あり方が改善されることはなく、1961

(昭和36)

年には大学入試をめぐる不祥事が全国で 多発した。これを受け、同年5月23日、文部省は入試関係では初となる通達を全国の国立 大学長へ宛てて出した。通達において大学には、入試管理の組織とその運営方法について 事故防止の観点から再検討・改善をすること、入試関係者は受験雑誌への問題出題や予備 校講師への就任あるいは受験者の自宅指導などの疑惑を受けるような行動をとらないこ と、事故の発生した各大学は事故の実態・原因を究明し、大学自治の原則に照らしてその 責任を明らかにすることが求められた。

 この文部省通達に対応するため、1961

(昭和36)

年6月24日に開かれた国立大学長会議

では入試ミス対策についての討議が行われ、その後、本学においても入試に関する組織の

(4)

整備が始まった。既に1953

(昭和28)

年から学内の入試管理委員会は設置されていたが、

1962

(昭和37)

年2月3日に熊本大学入学試験管理委員会規則が制定されたことにより、

正式に全学組織となった。この委員会規則に基づき入学試験実施組織規則も制定され、健 康診断委員会・学力検査委員会・試験実施委員会が置かれた。更にその後1965

(昭和40)

年3月には入試学力検査実施教科専門委員会が全学の委員会として設置され、選抜方法及 び学力検査実施教科・科目や学生募集要項、あるいはその他の学力検査実施教科に関する 入学試験管理委員会の諮問事項の審議にあたった。

 大学内での組織整備が進められる一方で、国立大学全体としての新たな選抜方法が模索 された。1963

(昭和38)

年1月、中央教育審議会答申「大学教育の改善について」が出され、

大学入試については、財団法人を設けて学習到達度と進学適性を計る共通的・客観的なテ ストを行うことが提案された。これを受け同年11月17日、財団法人能力開発研究所により 大学進学希望者を対象とする共通テスト「能研テスト」が実施された。このテストは学力 テスト・進学適性能力テスト・職業適応能力テストの3つで構成され、3年間を準備期間 とし、1966

(昭和41)

年から合否判定に利用できるようにとのプランが建てられた。しか し実際は、年々受験者が減少していった事情もあり、1968

(昭和43)

年には廃止された。

 1965

(昭和40)

年5月、文部省の「大学入学者選抜方法の改善に関する会議」において、

1966

(昭和41)

年度の具体的な大学入試要領が定められた。この要項は、1963

(昭和38)

年 度から実施された高校の新教育課程の卒業生が1966年度から大学を受験することから改訂 されたものであるが、ちょうど能研テストをはじめとする大学入試方法改善の動きや、大 学入学者急増期にも重なることから、内申書重視などの大幅な改善案が盛り込まれた。こ の内申書重視案については、同年3月の段階では大学基準協会が慎重論を唱えていたが、

結局導入されることとなった。

 この大学入試要領を受け、本学においても次年度入試についての協議が重ねられた。9 月には、熊本大学入学試験管理委員会においてマルA方式

(内申書を利用した高校長推薦制 度)

について審議を行い、10月26日から27日にかけて開催された九州国立大学学長会議に おいて、マルA方式についての基準内容を九州内で統一することを提案した。同月末には 医・薬の2学部で試験的にマルA方式を導入することが決まり、文部省に報告した。11月 半ばに入試管理委員会においてマルA方式の具体的な基準が決まり、12月半ば頃には最終 決定された。これを受け、各都道府県知事・教育委員長を通じて熊本大学で採用したマル A方式の基準を各高校へ通知したが、各高校からは無意味な基準であるとの声があがっ た。翌1966

(昭和41)

年3月に行われた熊本大学入学試験では、医学部・薬学部でマルA方 式を採用した試験が行われたが、この年の入試ではマルAによる合格者は出ず、翌年の入 試において、医学部で3名、薬学部で2名がマルAによる合格者となった。

 この頃、本学では、特に薬学部で女子学生が顕著な増加傾向を見せていた。1966

(昭和 41)

年4月に柳本武学長が薬学部の女子学生数に制限を加えることを考えている旨の発言

をし、更に同年11月に決定した募集要項の願書中に「女子学生は薬学部製薬学科はなるべ

く第一志望にしないよう」との但し書きを加える旨が発表されると、この問題は各方面へ

飛び火した。12月に柳本学長が規制の考えは全くないとの見解を表明したが、女子学生有

志が学生部長に対して反対署名を提出し、学長へ何らかの意思表示を求めたほか、新聞各

紙や雑誌で全国的に取り上げられるなどの大きな波紋を呼んだ。

(5)

3 進学率の急上昇と国立大学共通テスト構想の展開

 1960年代半ば頃から全国的に進学率が急激に上がり、更に1966

(昭和41)

年度からは第 1次ベビーブーム世代が大学へ進学する年齢に達するなど、1960年代は、学生を受け入れ るための大学の整備が必要とされた時代であった。こうした状況を背景に、文部省は1964

(昭和39)

年頃から学生の受け入れ数や学部・学科の拡充計画等を発表し始めた。18歳人口 の急増による受験戦争の激化は、高校教育にも歪みを生じさせるなど社会問題にもなって いた。1969

(昭和44)

年5月末の全国高等学校長協会の総会においては、大学入試の抜本 的改善が満場一致で決議され、大学側に強く要請されることとなった。更に、同協会は同 年10月にも大学入試の難問・珍問を取り上げ、もっと教育的な出題をするよう大学側に要 請した。1968

(昭和43)

年から1969年にかけては全国的に大学紛争が激化した時期でもあ り、大学改革への要望は社会の側からも厳しく問われることとなり、改革の一環として入 試制度改革が進められた。

 大学紛争時、本学においても、学内外の状況を鑑みての試験実施に向けた対応策がとら れた。1969

(昭和44)

年1月20日、学生運動の影響により、政府は東京大学の入試中止を 決定した。東大総長代行がこれに抗議するものの受け入れられなかった。更に東京教育大 学でも入試が中止となると、全国の受験生から不安の声があがり、入試を実施する国立大 学に対して定員を増やすようにとの要望も出てきた。これを受け同月末、本学では、入学 定員増はしないが水増し合格を増やす方針を示した。しかしこの時期は本学も生協の水光 熱費支払いをめぐる大学側と学生との攻防が続いている状態にあり、翌年3月3日から実 施された入試の際も試験日前日まで公開交渉が行われ、試験2日目の3月4日から公開交 渉が再開されるなどの混乱を極めた。幸いこの年の入試では大きな問題もなく試験が実施 されたものの、紛争の影響から、法文学部・理学部・医学部で試験会場の変更を余儀なく された。全国的に見ると、1969年度入試では、一期校28校のうち12校が紛争が継続してい る状態で入試を実施した。このうち京都大学・東京工業大学・大阪大学・神戸大学・広島 大学・岡山大学は学外に試験会場を移し、岡山大学では機動隊が警備する中で試験を実施 するなど、受験生にとっては不安の多い試験となった。

 翌1970

(昭和45)

年度の入試は、文部省や各大学が対策を練ったこともあり前年ほど大 きな問題にはならなかったものの、全国的に紛争はなおも継続状態であった。本学におい ても、5月以降、数度にわたって機動隊が学内に出動するなど、予断を許さない状況で あった。同年度の本学の入試では、学生の妨害に備え機動隊が学内に待機して試験が行わ れた。その際、全共闘系学生による集会と構内デモが行われたため、大学側は機動隊の出 動を要請し実力排除が行われた。続く1971

(昭和46)

年度入試でも、機動隊が学内に待機 し、入試妨害のデモを行った過激派学生が公務執行妨害と不退去罪の現行犯で逮捕される 事態となった。

 こうして全国の大学で大学と学生の対立が続く中、1970年代に入ると大学入試改革が本

格化し、文部省・中教審・国立大学協会・大学基準協会・全国高等学校長協会などさまざ

まなレベルでの検討が重ねられた。1970

(昭和45)

年3月4日、中教審第二十六特別委員

会において、全国高等学校長協会・都道府県教育長協議会や関係省庁代表者らを招いての

大学改革試案についての意見聴取が行われた。高等学校長協会は大学と文部省の間の不信

感を指摘し、入試制度改善に関しては、「能力開発研究調査機関」の設置等を提案すると

(6)

ともに、大学浪人・進学予備校についての抜本的な対策をとるように要請した。教育長協 議会も「能研テスト」のような共通テストの実現や大学教養部の廃止とそれに伴う高校教 育と大学教育の円滑な移行等を訴えた。

 1971

(昭和46)

年2月19日、国立大学協会理事会が開催され、全国立大学共通第一次試 験の実施について検討する「入試調査特別委員会」を設置することが決定した。同年12月 には、文部省の大学入試改善会議が、共通テストの実施や調査書の活用などを骨子とした

「大学入学者選抜方法について」の最終報告をまとめ文部事務次官に提出した。1972

(昭和 47)

年8月22日の大学基準協会の大学入試制度改革研究委員会は、「大学入学試験制度改 革に関する報告」をまとめ、文部省・国立学校協会・全国高等学校長協会に提示し、改善 策実施にあたってこれを尊重することを求めた。続いて同年10月に文部省は、「共通テス ト」実施のための具体的な方法・手段等を審議するための「大学入試共通学力検査等調査会」

を発足させることとし、そのメンバーを決定した。1973

(昭和48)

年5月15日には、奥野 誠亮文部大臣が文部省の大学入学者選抜方法改善会議に対し、一期と二期の2回に分けて 実施している現行の国立大学入試の時期について、一本化も含めて抜本的に再検討をする ように依頼した。翌月に開催された国立大学協会総会においても国立大学共通テストにつ いての話し合いがもたれ、国立大学協会も「入試制度改善調査委員会」を設置し、標準問 題の作成に着手することを決定した。また、国立大学協会は翌1974

(昭和49)

年4月22日 に開催された理事会において、共通テストについて入試制度改善調査委員会がまとめた

「国立大学入試改善調査研究報告書」の中間報告を了承し公表した。こうして同年11月に は、国立大学協会による初の「国立大学共通第一次試験」模擬試験が実施されることとなっ た。これと前後し、大学入試改革を検討してきた自民党の文教部会が、現行の選抜制度を 改めて「全国統一テスト」と「各大学の個別試験」の2本立てとする等の具体案をまとめ、

これが1974年6月に新聞紙上で報道された。

 以上のように、全国のさまざまな機関で国立大学入試の改革について話し合われる中、

第1次ベビーブーム世代の波がピークを過ぎた1970

(昭和45)

年の大学入試では、全国的 に大学受験志望者実数が減少し、更に一期校・二期校・公私立のかけもち出願が行われた ため、一期校入試において志願者の1割近くが欠席した大学が半数近くに上るというとい う特異な事態が起こっていた。これには、何かと問題の多い国立大を敬遠し、都会の有名 校・有名私立を志向するという風潮も影響していた。

 本学においても、1970

(昭和45)

年3月実施の入試では、合格者のうち熊本県内出身者 が大幅に減少するという事態が起こった。この背景には、家庭状況

(経済状況が良くなった こと)

の影響や、高校における指導

(有名校指向型、有名大学の方が就職に有利)

などの理由 があったと考えられるが、そもそも県内出身者の受験者数自体が減少していたことも原因 の1つであった。1976

(昭和51)

年の熊本県文教治安委員会では、国立大学入試、特に熊 本大学入試において県内出身者の割合が激減していることが取り上げられ、熊本県とし て、県内出身の熊本大学合格者の減少を食い止めるようにとの要望が出されるほどであっ た。

 このように、受験者実数そのものは減少傾向にあったものの、大学進学率は上昇し続け

ており、受験戦争は更に過熱していた。実際、本学の受験者数も、1969

(昭和44)

年をピー

クに減少傾向にあったものの、ベビーブーム世代の受験ピークが過ぎても、志願者数その

(7)

ものはそれ以前よりも高い水準で推移していた。こうした中で1975

(昭和50)

年、東京大 学や九州大学等では、受験戦争を煽る原因の1つとされた合格者発表の際の出身校の公表 について控えることが決まった。本学では同年10月に開かれた入試管理委員会において、

この件については従来どおりの公表を決めた。この件との関係は定かではないが、翌1976

(昭和51)

年度入学者試験においては、300名近く志願者が増加している。

 また、大学入試を取り巻く諸課題に対応するため、本学では、1973

(昭和48)

年10月1 日に熊本大学入学者選抜方法研究委員会が発足した。この委員会は教養部長・学生部長・

各学部及び教養部教官各1名・入学試験学力検査実施教科各1名・その他必要な者若干名 で構成され、これ以前の入学者選抜方法を検討する部会が要項によって曖昧に定められた ものであったのに対し、本委員会は学則に基づく全学委員会として位置づけられるもので あった。

 1975

(昭和50)

年に入ると、共通一次試験の実施が具体化していった。3月には文部省 の大学入学者選抜方法改善会議が、国立大学入試の一元化についての最終報告をまとめ文 部大臣に報告した。また4月には国立大学協会の入試制度改善調査委員会が研究報告書を まとめ、共通一次試験の具体案を公表した。11月には共通一次試験の実施に向け、全国14 大学で国立大学協会による模擬テストが実施された。この14校の中には本学も含まれてお り、以後、共通一次試験開始まで毎年実施された模擬テストへの協力を行った。模擬テス トの調査研究の結果については翌年4月に国立大学協会の入試制度改善調査委員会により 公表され、同年6月の国立大学協会の総会において、こうした共通一次試験は入試改善に 役立つと結論づけられた。また、総会では1979

(昭和54)

年度からの試験開始が示唆され、

11月には同年度からの実施が、正式に決定した。1977

(昭和52)

年5月2日には東京教育 大学農学部内に大学入試センターが発足し、同日、国立大学協会が、共通一次試験の実施 に関連し、各国立大学での二次試験の内容・方法や一次テストの利用法などをまとめた中 間報告を公表した。更に同月、文部省大学入試改善会議による「国立大の入学者選抜方法」

(試案)

がまとめられ、共通一次試験の教科・科目や試験期日等の入試実施要項最終案が発 表されると、6月2日にはついに共通一次試験の実施要項が決定した。

 これに対応し本学では、同年6月上旬から入学者選抜方法研究委員会による共通一次試 験と二次試験に対する基本構想がまとめられた。この間、前述のとおり県内出身者の熊本 大学進学率が非常に問題となっていたこともあいまって、6月下旬、熊本県高等学校教職 員組合が本学に対し、共通試験の二次試験の作成については学外関係者も参加できるよう にとの要望を提出するなどの動きもあった。こうして7月29日、本学は1979

(昭和54)

年 度入試の二次試験の教科・科目を発表した。7月30日には全国120の大学の要項が出揃っ たことを受け、文部省が試験内容の集計を行い、その結果を8月19日に公表した。

 こうして共通一次試験と二次試験の実施要項が決められていく中、高等学校側からは、

特に共通一次試験の日程についての不満の声があがった。これを受け1977

(昭和52)

年10

月に開かれた文部省の大学入試改善会議において、当初は1978

(昭和53)

年12月23日から

24日にかけて実施予定であった共通一次試験の日程を、1月以降に繰り下げる方向で検討

していくことで合意し、翌1978年1月11日の国立大学協会理事会で決議された。そして同

年1月19日に文部省が共通一次の実施日繰り下げを正式に決定し、初の共通一次試験は

1979

(昭和54)

年1月に行われることとなった。

(8)

 しかし、高校側にはなおも日程についての不満がくすぶっており、次年度以降も引き続 き共通一次試験の問題点として改善要求がなされた。1978

(昭和53)

年11月の全国高校進 路指導研究協議会全国常任理事会では、共通一次試験の問題点が検討され、志願票の出願 日や試験実施日の繰り下げ、科目の削減など10項目にわたる改善点にまとめられ文部省と 大学入試センターに提出された。翌1979

(昭和54)

年4月には、国立大学協会で試験期日 や科目数等についての検討が行われたが、1980

(昭和55)

年度の試験も基本的には初年度 どおりとし、2次募集の説明と一次試験と二次試験の配点の比率をなるべく早く公表する よう各大学に要請するにとどまった。文部省の大学入試改善会議も5月末に開かれたが、

ここにおいてもほぼ初年度と同じ内容で試験を行うことが決められた。

 このようなさまざまな立場での意見のやりとりを経た1978

(昭和53)

年6月3日、大学 入試センターは初の共通一次試験に向けた「受験案内」を発表し、また、関係各位に「実 施要項」を通知した。これを遡ること1ヵ月前の5月2日、本学にも「熊本大学主管共通 第一次学力試験実施委員会」が発足し、いよいよ目前に控えた共通一次試験の実施に備え た。既に1977

(昭和52)

年頃より地元新聞紙上では熊本大学の二次試験の方針等への論議 が種々掲載されてはいたが、1978年7月1日に熊本大学の二次試験の実施教科・科目が正 式に公表され、12日には各学部の共通一次試験と二次試験の点数配分が発表された。ま た、同月15日には、文部省がまとめた全国の各国公立大学で行われる二次試験の入試要項 の概況が発表された。「共通一次を利用した足切り実施」「推薦入試導入」など、新聞紙上 では全国の各大学の試験実施要項の情報が飛び交い、初めて行われる共通一次試験に対す る世間の注目の高さが窺われた。10月2日、初の共通一次試験に向けての願書受付が始ま り、11月末には受験票の発送作業が開始されるとともに受験会場が発表され、熊本大学黒 髪地区が共通一次試験の会場に正式に決定した。

 

4 共通一次試験の実施と実施後の動向

 1979

(昭和54)

年1月13・14日の両日、初の共通一次試験が実施された。本学において は黒髪地区がその会場となり、学生部には熊本県の本部が置かれた。初の共通一次試験導 入後の二次試験では、新方式に慣れない受験生の出願ミスが相次いだ。

 共通一次試験導入の結果、本学の二次試験志願者は前年の6,690名

(倍率4.6倍)

から 3,575名

(倍率2.2倍)

へとほぼ半減し、特に教育学部と工学部の志願者が半分以下に激減し た

。一方、同県内の熊本県立熊本女子大学の志願者数が前年度の1,048名

(倍率5.8倍)

か ら1,067名

(倍率5.9倍)

とやや増加しており、内訳を見ると家政・食物の2学科で志願者が 減ったものの、国文学科の倍率が9.3倍

(前年6.9倍)

、英文学科の倍率が6.9倍

(前年5.3倍)

となるなど学科間に顕著な差が見られた。この年の全国公立大の平均競争率は3.4倍で あったが、国立87大学の倍率は3.0倍、公立33大学の倍率は6.7倍と、全国的に見ても公立 大学の平均競争率の方が高い結果となった

 前項にも記したとおり、共通一次試験の実施前には各大学の二次試験の内容が話題と

なっており、新聞でも度々取り上げられた。共通一次の導入により、文系の学部・学科を

中心として、二次試験では学力試験を行わず小論文や面接のみに切り替える大学が増加し

た。また、2次募集や推薦入学を新たに導入する大学も現れた。1977

(昭和52)

年7月末

に全国120の国公立大学の要項が出揃ったことを取り上げた新聞記事では、なるべく科目

(9)

数や出題数を減らして受験生の負担にならないようにとする国立大学協会の方針に反し、

多くの大学で記述式が比較的多く採用され、しかも共通一次と同じ科目を課す大学が多い ことが報じられた。この時点では全体の半数を超える62の大学が二段階選抜

(足切り)

を 実施するとしており、批判を浴びていた。

 本学においては、法文学部文科の二次試験を論文のみ、工学部では推薦入試を導入する と決定しており、地元新聞で大々的に報じられた

。また、この年には法文学部文科の試 験で二段階選抜を予定していたが、翌年発表の入試要項ではこれを実施しないことと改め られた。本学のほかにも、1977

(昭和52)

年度の試案段階では二段階選抜を行うとしてい た62の大学のうち17校が翌年の入試要項で中止の措置をとった。

 開始前から既に多くの話題をふりまきながら行われた初の二次試験であるが、結果とし ては、全国各地で定員割れが相次いだ。志願者数そのものが定員割れを起こしている大学 や、志願者全員合格若しくはそれに近い合格率にしないと定員が埋まらない大学・学科も 出てきており、二次試験が終了してまもない3月6日の段階で、既に文部省が定員割れ対 策として2次募集を行うよう指導を始めたことが報道された

。二次試験終了後に2次募 集をかけることとなった大学は16大学あり、1,000名余りが追加募集された。本学では、

志願者数そのものは定員を下回ることはなかったものの、定員より多めの合格者を出した にもかかわらず、4月中旬の時点で118名の入学辞退者が出ており、62名の定員割れを起 こした。全国的に見てみると6,000名の入学辞退者が出ており、各大学は急遽補欠の繰り 上げ合格を発表するなど、新学期に入ってもなお対応に追われることとなった。

 当初は、共通一次試験に対し概ね好意的な意見が多かったが、試験の実施以後は、その 効果について種々の議論が巻き起こり、マスコミをはじめとして一斉に非難が浴びせられ た

10

。最も大きな原因は、そもそも激化する受験戦争のために導入されたはずの共通一次 試験が、その導入によってかえって受験産業の介入を許してしまい、競争が過熱した点に あるとされた。一期校・二期校の区分で入試が行われていた際は、試験日程がずれていた ため複数受験が可能というメリットがあったが、共通一次を導入したことにより、ほぼ同 日程で一斉に二次試験が行われたため、受験生は一発勝負をせざるを得ない状況になった ことや、共通一次試験のマークシート方式が批判の対象とされることもあった。また、大学 間の格差を生むとされた一期校・二期校の区分が廃止されたにもかかわらず、共通一次試 験の導入により、一次試験の結果に基づく二次試験受験校の選択がなされるようになると、

結果として大学間の序列化がより一層進む事態となり、旧二期校側の不満が高まった

11

。こ うしたことから、高等学校側も受験指導の強化を行うようになり、「入りたい大学より入 れる大学」の風潮も生まれた。

 共通一次に対する批判を受け、国立大学協会は、1980

(昭和55)

年6月に行われた総会 において、1982

(昭和57)

年度入試からの社会科の倫理・社会と政治・経済の2科目同時 選択禁止の方針を決め

(同年9月に文部省もこの方針を決定)

、特定の受験者が有利になら ないようにとの配慮がなされた。また、国公立大学の個性化を図るため、1981

(昭和56)

年5月の国立大学協会第二常置委員会において、1982年度共通一次試験から得点の傾斜配 分方式を積極的に導入するよう協会として全国公立大学に強く要望することを決定した。

こうした共通一次試験に対する検討は高校側でもなされており、1981年5月の全国高等学

校長協会総会においては、共通一次の試験科目数は5教科10科目とすること、コース別方

(10)

式は好ましくないとの案がまとめられた。続いて同年11月の全国普通科校長会総会では、

新学習指導要領実施に伴う共通一次の改革に関する調査結果が報告され、5教科7科目の 国立大学協会案を概ね受け入れることが決まった。

 共通一次試験への批判は、世間からのバッシングのほかにも、国公立大学受験生の減少 という現象としてダイレクトに顕れた。共通一次試験導入の前から既に国公立大学離れは 起こっていたが、その原因として、私立大学への国の支援が開始されたり、受益者負担の 観点から国立大学の授業料が大幅に増額して国公私立間の格差が縮まってきたことなどが あった。こうした状況に加え、共通一次試験と個別学力検査という入学試験方法により受 験者への負担が増大したことが、国公立大学受験生が減少のする要因の1つとなった。そ こで、1979

(昭和54)

年末頃から、共通一次試験参加校が『国公立大ガイドブック』の出版 を開始するなど、各大学のアピールに努めた。しかし、1981

(昭和56)

年には全国の国公 立大学の入学辞退者数が初めて全体の1割を超えることとなり、更に顕著になった国公立 大学離れを食い止めるため、1982

(昭和57)

年にはガイドブックを改訂したり、大学へ誘 う学長のメッセージを掲載したりと、受験生へのアピールに工夫を凝らすようになった。

 こうした背景には、1970年代に行われた大学改革問題があった。前述のとおり、1960年 代末には、第1次ベビーブーム世代が大学に入学するということもあり大学の学生定員を 増加させる措置がとられたが、1970年代に入ってもベビーブーム対応のために増やされた 学生定員数は元に戻らず、むしろ大学・短期大学の新設が行われるなど、高等教育の拡充 が図られた。1960

(昭和35)

年段階では10.3%であった大学進学率は、1965

(昭和40)

年に 17.0%に、1970

(昭和45)

年には23.6%に増加しており、更に4年後の1974

(昭和49)

年には 38.4%と、鰻登りの状態であった

12

。高等教育における私立大学・短大の割合は、1955

(昭 和30)

年は59.7%

(大学)

・81.1%

(短大)

であったが、1970年には74.4%

(大学)

・90.1%

(短 大)

とその比重は増大していた。このように大学の選択肢が増え、かつ私立大学人気が高 まる中、国立大学では合格者から辞退者が出ても再募集をかけなかったため、1973

(昭和 48)

年4月17日、文部省大学局長名で「本年度について補欠入学などの措置により入学者 の確保に努力するように」との異例の通知が各国立大学長に出されるとともに、入学状況 の実態調査が開始され

13

、高等教育における国公立大学の位置づけが改めて問われること となった。1976

(昭和51)

年3月には、文部大臣の私的諮問機関である高等教育懇談会に おいて、大学定員増をペースダウンさせて地方国立大学の充実を図ること、私立大学の質 的充実を図り水増し入学を是正すること等を盛り込んだ「高等教育の計画的整備について」

の最終報告がまとめられた。

 私立大学の比重増大と共通一次試験をはじめとする大学入試制度の問題があいまって国 公立大学離れが加速する中、より一層の大学入試制度の改革が求められるようになった。

1983

(昭和58)

年秋、国立大学協会は入試改善特別委員会を設け、試験の改善に向けての 検討を開始したが、そこでは以下の6点が共通一次試験の評価点として挙げられた。

①二次学力検査の科目数が減り、面接・小論文・実技検査など学力以外の観点からの選 抜が可能となった。

②共通一次試験での適切な出題の影響もあり、二次での出題が良くなり、難問・奇問が 減って高校教科書に沿った出題となった。

 ③推薦入学・帰国子女入学・2次募集等の工夫が進んだ。

(11)

 ④身体障害者への配慮が進み、二次試験へも波及した。

 ⑤共通一次の結果を目安に志望校の選択が可能となった。

⑥一期校・二期校の一元化により見かけの倍率が低下した。志望した大学・学部に入学 しやすくなった。

 一方で、以下6点が共通一次試験の問題点として挙げられた。

 ①受験産業等による大学・学部の入試難易度や合格圏が設定され、序列化が行われた。

 ②国公立離れが起こった。

③記述力・想像力・考察力を必要としないマークシート方式の導入により、学生が画一 的で積極性に欠けるようになった。学力低下も目立つようになった。

④受験情報が大量で詳細になり、高校での進路指導が合格可能性に基づいて行われるよ うになった。

⑤一期校・二期校の一元化により、受験機会が減少した。

⑥国公立・私立でかなり異なる入試方法となったため、受験生の準備が大変になり、併 願も困難になった。

 これと同じ頃文部省でも、同年6月に共通一次試験改革のためのテコ入れとして、1986

(昭和61)

年度入試から全大学を2~3のグループに分け、二次試験の実施日をそれぞれず らして設定するというグループ試験制度を導入する方針を固めた。1985

(昭和60)

年11月 には、国立大学協会総会においても、1987

(昭和62)

年度入試から希望する大学について は二次試験の実施期日をずらして2回受験することが可能となるように「受験機会の複数 化」を導入することが決定した。

 翌1986

(昭和61)

年4月3日には、国立大学協会が、受験機会の複数化に伴う二次試験 の実施期日について旧帝大7大学のグループ分けを発表し、引き続いてその他の各国立大 学の実施期日の検討が行われることとなった。しかし、この旧帝大のグループ分けについ ては、特に京都大学からの反発が大きく、京都大学側は、東京大学と同日での試験実施を 求めた。更に他の国立大学からも、こうしたグループ分けは「一期校」「二期校」の時代 への回帰ではないかと懸念する声があがった

14

 そこで同年4月15日、九州の15大学の臨時学長会議が開かれ、国立大入試の二次グルー プについての話し合いがもたれた。既に国立大学協会が発表したグループ分けでは、旧帝 大である九州大学はAグループに入ることになっていたが、それを踏まえて話し合った結 果、Aグループには長崎大学・佐賀大学等が入り、熊本大学は鹿児島大学等と一緒にBグ ループに入ることが決まった。このように各国立大学は、他大学、特に近隣大学の試験日 程日をにらみながらA・Bどちらの日程に入るかを決め、5月7日には国立大学協会がこ れらをまとめた1987

(昭和62)

年度からの国立大学の二次試験の実施方法を発表した。そ の結果、A日程は関西の有力大学、B日程は関東の有力大学と評されるグループ分けとなっ た。こうして大学同士が受験機会の複数化導入に向けて着々と準備を進めていく一方で、

国公私立大学教授からは、そのデメリットを懸念して複数化の実施延期を求める声明が発 表された。更に新聞にはA・Bグループ分けについての論評が連日掲載され、大学入試の 勢力図がどのようになるのか、また、グループ分けや複数化そのものについての是非が議 論された。

 受験機会の複数化が検討され実施に至るまでの間には、複数化以外の面からの改革につ

(12)

いて、各大学でさまざまな事柄が検討された。本学では1984

(昭和59)

年7月に、1985

(昭 和59)

年度入試から科目・配点を大幅に変更し、二次試験を重視する方策をとることを発 表した。また、翌年7月には、1986

(昭和61)

年度入試より本学では初となる2次募集を 理学部地学科で採用することを発表した。また同月、1987

(昭和62)

年度入試からは国立 大学協会の改革方針に基づき、試験科目数を5教科5科目とすることを発表した。

 1987年3月に実施された国公立大学の入試において、初めて受験機会の複数化が導入さ れた。受験日程を複数化した結果、各国立大学の志願者数が激増することとなり、大学側 は一方では二段階選抜による大量の足切りを行ったり、また一方では合格者を水増しする などの対応をとった。複数化を導入する時点で既に選抜の困難さが予想されたとはいえ、

大学側がこうした対応をとったことに対し、受験生や高校からの批判が相次いだ。それに もかかわらず、最終的には地方大学を中心として定員割れが続出するという、大学側に とっては二重三重に頭の痛い出来事が重なった。深刻な定員割れを受け、衆議院文教委員 会は、各大学はできるだけ定員を満たすようにとの指導を強めることを決めた。本学もそ の例にもれず、定員1,720名に対し、前年度の倍以上である7,600名余の志願があった。学 部別に見ても、ほぼすべての学科で定員の2倍程度の志願者増となり、唯一志願者が減少 に転じたのは医療技術短期大学部のみという結果であった。合格者のうちA日程にもB日 程にも合格した受験生が本学に入学するとは限らなかったことから、定員より35%水増し した2,354名を合格者として発表したが、入学手続きの結果全7学部の定員充足率は9割 にとどまり、追加合格者発表を行わねばならない事態になった。

 このように大きな混乱がもたらされた1987

(昭和62)

年度入試の後、国公立大学入学試 験制度の改善と臨時教育審議会の第三次答申の具体化に向けて、各地方で教育改革推進懇 談会が開かれた。その第1回は熊本県で開かれ、二段階選抜による足切り問題やマーク シート方式の是非など、さまざまな問題点が高校側から突き付けられた。

 当時は二段階選抜のみに限ってみても、試験実施以後は不平等感があるとの不満の声が 各大学からあがっていた。こうした不満の原因は、国立大学のうち京都大学等A日程のグ ループに振り分けられた関西の大学が、東京大学等B日程のグループに振り分けられた関東 の大学の「すべり止め校」の様相を呈したことにあった。そこで、まず京都大学が、1987

(昭 和62)

年度はA日程に振り分けられていた日程を、次年度入試は法・経系の学部を中心とし てB日程で実施すると決めた。これに1987年度にA日程で試験を行った各大学が追随し、有 力校の大半が次年度はB日程で試験を実施することを決めるというアンバランスな事態が起 こった。5月下旬にはこうした各大学の動向について新聞紙上で盛んに報道され、大学入 試のあり方に再び問題が投げかけられることとなった。こうした事態を重く見た自民党の 大学入試に関するプロジェクトチームは、5月25日にA・B両日程に分かれた試験グループ 分けを撤廃し各大学が定員を2分割して入試を2回行う「分離分割方式」の導入を柱とする 合意事項を取りまとめ、国立大学協会にその是正を呼びかけた。また、こうした大学の動 きに対して、受験生や高校側からも身勝手だとの非難の声が浴びせかけられた。

 受験日程をめぐる世間からの非難を受け、5月27日に開かれた国大協理事会では、1988

(昭和63)

年度の入試改善についてはグループ分けのアンバランス是正を行い、特に法学部

を中心として各大学で再検討することを決めた。しかし、ここでは日程を再検討すること

だけが決まり、基本的な方針については示されなかったため、実際の対応は各大学の裁量

(13)

によるものとなった。東京大学では、翌28日からすべての科類をA・Bに分割した試験の 検討が開始されたが、6月上旬には、全体的なバランスの問題から、1988年度の入試は前 年度同様B日程で試験を行うことを決めた。

 そして国立大学協会理事会の決議から2日後の5月29日、本学においては、前年度同様 に全学部B日程で1988

(昭和63)

年度入試を行うことを決定し公表した。他大学がA日程か らB日程へ移ってくる可能性がある中、早々にB日程のみの試験を決めた理由としては次 の2点が挙げられた。

 ①九州大学がA日程からB日程に移ったとして、熊本大学がA日程に動く筋合いはない。

②熊本大学が日程を動かすと、試験日程をずらすことにしていた熊本女子大学への影響 が出る。また、同大のみならず、鹿児島大学や他の大学へも影響がある。

 その後6月に入ると他の国立大学の動向を伝える報道も増え、九州大学・岡山大学・神 戸大学等で1988年

(昭和63)

度入試からAB分割方式が採用されることが明らかになった。

 更に1989

(平成元)

年度以降の入試についても話し合いが行われ、1987

(昭和62)

年10月 の国立大学協会理事会では、1989年度からの入試抜本見直しについて「分割方式」

(前期 合格発表後に後期試験を実施)

を導入する方向で内部討議を行うことが決定した。11月の国 立大学協会総会では現行手直しと分離・分割の2本立てとすることで合意し、翌年2月に 正式決定した。なお、こうした全国的な合意とは別に、1987年11月に開かれた九州地区15 国立大学の入試問題連絡会では、1989年度の入試は、九州では現行の連続方式の一部を手 直しすることに決まり、本学では1989年度・1990年度の入試についても、従来どおり全学 部・学科とも連続方式B日程での入試を行った。

 一方、二段階選抜による門前払い等が世間の不評を買ったことを受け、大学側には入試 をはじめとするさまざまな事柄について、受験生への情報開示が求められるようになっ た。1987

(昭和62)

年8月、文部省は国立大学の研究内容や卒業生の就職先等をデータベー ス化して受験生などに提供する「進学指導に関するデータベースシステム事業」を開始し、

進学希望者が受験校を判断する材料の1つとなる大学の情報が開示された。1988

(昭和63)

年度入試からは、文部省が国公立大二次出願に関するテレホンサービスの実施状況をまと めて公表するようになり、受験生は各大学の出願状況等を知ることができるようになっ た。本学もテレホンサービスを導入し、1988年4月1日から5日まで欠員補充2次募集の サービスを行った。また同年10月には大学入試センターが、キャプテンシステムを利用し てセンターと高校の端末を結び、進学情報を流すサービスを開始した。そのほかにも各大 学で受験生を呼び込むためのさまざまな取り組みが行われており、本学では、1988年9月 に熊本大学紹介用ビデオ制作委員会を設置して受験生に向けたビデオの制作を開始し、 「森 の都のキャンパスライフ」と題したビデオが1990

(平成2)

年に完成した。また、1988年か ら一部の学部で研究室公開及び学部説明会を開始した。

 これらの大学入試改革の時期は、ちょうど第2次ベビーブーム世代が大学への進学を果

たす時期と重なっており、1986

(昭和61)

年から1992

(平成4)

年までは全国の大学で、ベ

ビーブームへの対策として定員増募の措置がとられた。1986年までは定員を下回り続けて

いた入学者数も、こうした大学・文部省等による学生確保のためのさまざまな努力と18歳

人口急増の影響もあり、同年以降は現在に至るまで、定員を上回る入学者数を保ってい

る。こうして大学進学者数や大学の定員が増大していく中にあって、より有効で新たな入

(14)

試方法の途が探られることとなった。

5 大学入試センター試験の開始と入試の多様化

 1980年代には、共通一次の改善と並行して、試験制度そのものの見直しが検討された。

1984

(昭和59)

年2月、中曽根康弘首相は国会の施政方針演説において、内閣総理大臣の 諮問に応じ教育改革について調査審議する機関を3年間設けることを表明した

15

。これに より、8月に臨時教育審議会が設置され、その下に置かれた「二十一世紀を展望した教育 の在り方」

(第一部会)

、 「社会の教育諸機能の活性化」

(第二部会)

、 「初等中等教育の改革」

(第 三部会)

、「高等教育の改革」

(第四部会)

の4つの部会で審議が進められた。

 前項で記したように、このとき国立大学協会では入試改善特別委員会を設け、共通一次 試験の科目削減や受験機会の複数化等を盛り込んだ改革案をまとめている最中であった。

1985

(昭和60)

年5月30日に、国立大学協会による入試改革案に対するアンケート調査の 結果概要がまとめられ、同年6月20には、共通一次試験の試験科目数を5教科に削減する ことや受験教科の選択を各大学の決定に委ねること等を盛り込んだ国立大学協会入試改革 案が決定した。ところが、わずか1週間後の6月26日に臨時教育審議会が提出した共通一 次に関する第1次答申を受け、翌27日、中曽根首相は共通一次の廃止を表明した。7月3 日には、共通一次を廃止し1987

(昭和62)

年4月入学者から新しい試験制度を開始する方 針が官房長官から明らかにされた。1984

(昭和59)

年に設置された臨時教育審議会はその 後も各部会での審議を続け、1987年8月に最終答申を提出して活動を終了した。以後はこ れに代わり、中曽根首相を本部長とする教育改革推進本部が設置されることとなった。

 1985

(昭和60)

年7月、共通一次廃止の意向を受けた文部省は、それに代わる新共通テ ストの具体的な実施方法等の検討のため大学入試改革協議会を発足させた。10月に開かれ た第2回教育改革推進閣僚会議では、臨時教育審議会によって打ち出されたこれまでの共 通一次に代わる国公私立大が参加可能な「共通テスト」構想の1989

(平成元)

年度からの実 施を目指す旨が了承される。ただし、この新しい共通テストの1989年度からの実施につい ては、諸般の事情により難しいと判断され、1990

(平成2)

年度からの導入が目指された。

 これらの意向を受け、大学入試センターでも新テスト案の検討が重ねられた。1987

(昭 和62)

年3月、新テストの最終案が大学入試センター評議委員会と運営協議委員会におい て決定し、1988

(昭和63)

年6月には、国立大学協会が「新テスト」への参加を決めた。同 年7月に新テストの名称が「大学入試センター試験」と正式に決まり、1989

(平成元)

年1 月には、いよいよ最後となる共通一次試験が実施された。

 共通一次廃止・新テスト構想が展開されていたこの時期、生涯学習・生涯教育について も臨時教育審議会答申が発表され、教育・学習の振興を充実・発展させるために、大学に 対して社会人入学などの門戸開放等が求められた。そのほかにも、多様な学生を求め、帰 国子女に対する特別措置・入試を実施することなど多様なアプローチにより入試改革が進 められた。

 遡ること1981

(昭和56)

年9月、文部省は社会人に国立大学の門戸を開放するため、入

試方法や入学後の教育内容を社会人向けに改善する方法を決めていた。また、翌1982

(昭 和57)

年3月には京都大学法学部が海外帰国生徒のための特別入試を行い、4月1日から

は大学設置基準が一部改正されて大学と短大の間での単位互換や海外帰国子女が外国語の

(15)

一部について履修読み替えができるようになるなど、各種の施策や制度が整備・実施され ていった。あわせて同年4月施行の新学習指導要領により、1985

(昭和60)

年度以降の共 通一次試験に「簿記」「工業数理」が専門科目として新設され、更に1983

(昭和58)

年1月、

帰国子女や社会人については、1985年度から国公立大学入試の共通一次試験を免除する旨 が盛り込まれた入試実施要領が全国の大学に通知されるなど、大学の門戸を広げるために 共通一次のあり方が見直された。そのほか1984

(昭和59)

年に大学制度の弾力化のため、

短大・高等専門学校卒業生などの4年制大学への編入学枠の抜本的拡大の方針が固まる と、1985年には大学基準協会が大学の編入学や単位互換に新基準を設定することや推薦入 学生の大幅導入などを盛り込んだ研究報告書を文部大臣に提出するなど、どのようにして 多様な学生を受け入れていくのかについて、入試制度の見直しが次々と行われた。

 第1回大学入試センター試験は、このような高等教育に対する時代のニーズを大きく反 映したものとして、1990

(平成2)

年1月に実施された。センター試験は、共通一次のよ うに国公立大学だけが参加するのではなく、私立大学入試にも利用することができた。ま た、それまでの5教科5科目から5教科8科目となり

16

、更に2教科以下と3教科以上の 2種類の志願制度が新しく設けられるなど、志望する大学が課す科目によって試験形態を 選択できるようになった。

 初のセンター試験では、共通試験としてはそれまでで最多の43万542名が受験するな ど、学生数の上でもこれまでにない大きな変化が見られたが、これは、センター試験が導 入された1990

(平成2)

年当時は、第2次ベビーブーム世代の大学入学と時期が重なってい たためである

17

。これに対応するため、各大学は1990年代半ばまでは臨時増募を行ってお り、本学でも、1985

(昭和60)

年当時1,610名であった定員が、1992

(平成4)

年には1,800名 まで増加している。

 しかし、1992

(平成4)

年に第2次ベビーブーム世代の進学ラッシュが終息して以降は 一転して18歳世代の人口が減少したため、各大学が臨時増募の枠を廃止し、35年ぶりに定 員減に転じた。しかしその一方では、大学への進学率が50%を超えるという大学のユニ バーサル化の時代にも突入していた。臨時増募分の定員は徐々に減らされつつあったもの の、すべてが臨時増募枠を設ける前の水準には戻ったわけではなく、総体としての大学 数・定員数は増加傾向にあった。こうした中で次第に、私立大学・短期大学を中心に定員 割れが深刻化していった。

 既に共通一次試験導入数年後には、大学を偏差値によって「輪切り」することが行われ

るようになり、これに伴い、受験生のほとんどが無謀な冒険をやめて「入りたい大学」よ

りも「入れる大学」へと安全な選択を行うようになっていったこと、高校側の進路指導も

偏差値による「輪切り」に基づくものが一般化していったことが問題視されていた。セン

ター試験への移行後は更にその傾向が強まり、加えて18歳人口の減少やバブルの崩壊によ

り大学を受験する学生が激減したため、各大学は学生数の確保に必死になった。センター

試験以後に導入された受験科目の弾力化は、多くの大学で入試科目が軽減されたことで幅

広い学生の募集を可能にした一方で、入試に不必要な科目を「切り捨てる」傾向を生み出

し、結果として大学の授業の理解に必要な科目を学んでいない学生が増加するなど、高等

教育の現場へ歪みをもたらした。更に、バブル崩壊後の不況が教育を直撃し、「将来どん

な職業に就くのか」を描くことを先送りして受験勉強を続けて学習の動機づけを失ってし

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