教 育 共 同 体 の 生 成
高 田 熱 美
*
はじめに
教育に関する話題が巷間にあふれている。教育が社会の存続・発展に不可欠 なものであることを否定する者はいない。だが、教育にも自由と規律、個人と 国家、学力と人間性、知育と徳育、競争と協調といったものの対立構図が拡大 され、教育の非効率性のみならず非人間性が見え、教育の進むべき方向があい まいになり始めている。方向が定かでないとき、教育は生きる照準を失い、活 力を減退する。もちろん、方向を見出すということは、一義的な目的を提示し て、そこへ統制的に導くということではない。方向を見出すということは、そ れを見出そうという意欲によって生じ、その過程を持続的に歩むということで ある。したがって、方向を見出すということは、方向への問いの連続によって 成立する。
現在、教育の話題が錯綜し、教育の閉塞、疲労、無気力、無責任が世間に喧 伝されているのは、方向への問いの欠如によるところが大きい。そもそも、何 のための教育であるか。
本論は、この問いを根幹にすえている。この問いに応答するものとして、人 類の自然、すなわち原始の共同体において、教育はどのようなものであったか
*福岡大学人文学部教授
探求する。このことは、現在の教育がなにを目指すべきであるか、その本質を 明かにするはずである。
1 起源
化石人類学の知見では、チンパンジーとヒトとの分岐は 900 万年前である。
ゴリラは 1200 万年、オランウータンは 2000 万年前という。
ヒトとチンパンジーとの違いは一目瞭然であるが、現代の遺伝学的比較によ れば、生命の設計図ともいうべき、DNA に記録されたゲノム(全遺伝情報)
の暗号文字(塩基配列)の差は 5 パーセントほどであったが、それを基に作ら れる遺伝子には 80 パーセント以上の違いがあったという。ちなみに、ヒトに おいては、暗号文字の個人差は 0.1 パーセント以下であるという。
解剖生理学的比較においても、ヒトとチンパンジーとの違いは顕著である。
チンパンジーが全身を毛で被われているのに対して、ヒトは一部を除いて脱毛 している。ヒトの皮膚には、500 万個の汗腺の穴があり、一日最大 28 リット ルの水を飲むことができる。ヒトにおいては、背骨とひざが伸び、腰は安定し、
股関節の間が狭い。足の指は横並びである。犬歯は退化し、舌は短く、口腔が 大きく、口は小さい。鎖骨は伸び、胸が広く、肩甲骨は発達して、腕の回転が 良い。脳の容量は 1350 立方センチメートルにもなっている。耳は平耳で、鼻 は下向きである。体型は円筒形で、消化器官も小さくなっている。つまり、ピ ラミッド型ではない。もっとも、ヒトの腸は約 7 メートル、これを広げるとテ ニスコート一面分、そこいる共生細菌(1000 分の 1 ミリ)は、100 兆個(1.5 キログラム)というが、それでも、他の類人猿に比べると小さい。
脳の容量の大きな、直立した身体は、子どもを胎児(未熟児)の状態で産む。
この胎児は、母体の脊髄の前を通っている大静脈を圧迫するので、血液循環を 悪くし、妊娠中毒症(むくみ、高血圧、蛋白尿)をおこす。このため、ヒトの 妊娠、出産、出生は危険なものとなっている。
さらに、生化学的相違に関して言えば、ヒトは、血液中の血糖値を高く保っ ている。グルコース(ブドウ糖)は身体の運動に不可欠であるばかりではなく、
神経細胞と自己免疫細胞を生かすのに欠かせないのであった。このため、グル コースが脂肪細胞や骨格筋細胞に取り込まれるのを抑えるインスリン抵抗性が 生まれている。1)
解剖学ないし生化学的違いは運動機能の違いと連動する。ヒトは直立歩行を する。直立は、樹上にいたとき、果物などを背伸びして取っていたことに起因 するという。さらに、アフリカの大地溝帯発生(1000 - 800 万年前)からサヴァ ンナが広がると、当時の猿人は常時立って移動する他はなかったという。2)直 立歩行は、陽射しの温熱効果を下げるからである。ちなみに、平熱より2度体 温が上がると脳は機能不全になるのである。猿人は、木の実や葉っぱのほかに、
草原の草や実、昆虫、小さな動物などを求めて移動したであろう。
猿人は、ほかの霊長類と同じように、ビタミン C を体内で作ることができ ないので、草を必要とした。また、紫外線が強く、活性酸素ができやすいので、
それを不活性化するために尿酸(肉類)が欠かせないのであった。3)
草原を歩きまわるには、脱毛し、発汗する身体は有効であった。汗腺は冷却 器となり、大量の水を飲み下す口腔はそれを稼動させるのであつた。もちろん、
このための呼吸の制御も可能であった。
直立二足歩行によって、両手は特定の機能から解き放たれる。ヒトは、歩き ながら同時進行的に多くの動作ができる。つまり、ヒトは、歩きながら手を使 い、物を運び、食べることもできる。回転のよく利く腕は棒を持って振り回す ことも、物を投げることもできる。このことは、肉食獣や類人猿に対して力で も対等になれるのに、有効であったであろう。もちろん、このような機能は脳 の働きを豊かにしたのである。4)
直立歩行と連動して、多くの変化が生まれる。サヴァンナに出たため、視覚 が発達し、その反面、臭覚は退化する。もともと、口腔は咀嚼と呼吸の器官で
あったが、広くなった口腔と短い舌は、食べ物を口腔内に長くとどめておくこ とができるので、味覚が発達する。さらに、呼吸の調節ができる。呼吸の調節 ができるのは、ヒト以外には、トリの約半数(4000 種)、クジラの一部(数十 種)、それにゾウがいるという。これらは、いずれも、大脳が延髄の呼吸中枢 を制御する回路ができているのである。このため、発声ができ、これは音声の 模倣を可能にする。5)
身体機能の変化は社会的機能の変化となる。社会的機能とは、個体が集団の なかで集団によって形成されながら、集団の形成に参与するという働きである。
ここでは、個体と個体ないし個体と集団の対立、葛藤、和解、協調、制裁、処 罰、抗議、非難、仲裁、保護、慰撫などがくり返されながら、集団の統合が進 められる。これが可能であるのは、集団内の個体が互いに通じ合う可能性を有 しているからである。ちなみに、チンパンジーには物乞い行動が見られる。た とえば、チンパンジーAは、Bがバナナを持っているのに気づく。Aはバナナ が食べたいのか、Bの目をじっと見つめる。Bは目をそらそうとする。それで も、いかにも食べたそうに、しつこくBの目を見つめると、耐え難くなって、
しぶしぶ、バナナをAにくれてやる。もっとも、Aが、以前、Bにいじわるを したとか、バナナをくれなかったこととかがあると、腐った部分や皮をやって すますこともある。
物乞いに応える行為は、相手の表情や所作から気持ちないし感情が感じ取ら れ、自分の気持ちがゆすぶられることから生まれる。ここでは、バナナを相手 にやらないことのほうが苦しみを大きくする。かえって、バナナをやることに よって、自分の気が晴れ、気持ちよくなるのである。
チンパンジーのボスには、狩で獲った獲物(小動物)の肉を気前よく仲間に 与える者があるという。ただし、この場合にも、狩に協力しなかった者は分け 前にあずからないことになる。
チンパンジーにおいては、食べ物を独り占めする者、ルールを守らない者な
どは、制裁を受ける。もちろん、ボスが独占したりすると、仲間から抗議をう けて、ボスの地位を失うことにもなりかねない。
互いの気持ち、願い、欲求、喜怒哀楽の感情をくみ取ることのできる者は、
相互扶助を可能にする。これは、物の交換を喚起し、交換において平等や公平 の感情を湧出する。こうした能力は集団の統合・発展に不可欠である。すなわ ち、これらの能力は個体間および個体と集団との間の無益な争いを最小限にく い止めるのである。ちなみに、かの物乞い行動は、暴力に訴えることを防止し ている。
もちろん、ここには、相手の感情をくみ取る以上の働きがある。相手の表情 や仕草から、相手の感情や欲求をくみ取ることは、一つの契機であって、この 契機から相手を思いやる感情が生まれる。それは同情といってよい。
同情は、相手の悲しみを減らし、喜びを増し、相手に安らぎを与える。類人 猿は、相手の仕草や表情から感情や欲求を感じることができたが、さらに、こ れは同情を誘発する。6)
チンパンジー、ボノボ、アカゲザルには、発育障害の子、いじめられている 子、盲目の子、神経障害の子、テンカンの子、大人でも障害のある者、けがを した者、喧嘩に負けた者、病気の者などを、かばい、いたわり、異常な行動に も寛容で、慰める行動が見られる。これは、ときには、日本ザルにもあるとい う。人の場合、一歳になるかならない子にも、苦しんでいる(これは演技であ るが)家族の者を慰める仕草が見られる。
他者の感情を受容するのは、何か特別の報酬があるからではない。苦しみや 悲しみなどの感情にふれると、自分にもそれと同じような感情が生まれるので、
自分も苦しく、悲しくなる。それを解消するためには、相手の感情を和らげね ばならないのである。相手の安らぎが自分の安らぎとなる。自分に安らぎを得 ることが報酬である。これは身近な者ほど可能になる。
これは、怒りの感情についてもいえる。他者になにか理不尽な仕打ちを受け
た者の怒りに出会い、これが受容されると、自分にも同じような怒りの感情が 生まれる。これは、仕打ちをした者への抗議となる。これは怒りの感情を和ら げ、怒っている者をなだめることになる。
他者の感情を受容して、自分に同じような感情が生まれるということは、こ の場合、他者と自分との境界が消えてしまうということではない。他者と自己 との距離を保ちながら、同じような感情が自分に生まれるということである。
これは共感ということに近い。すなわち、共感とは、相互に独立した個体と個 体との間に生じる共有の感情である。ともに悲しみ、ともに苦しみ、ともに喜 ぶといった感情である。これは、自分が他者の感情にふれ、その身に自分の身 が重ね合わされることである。
ところが、チンパンジーやゴリラには、それを越えた働きが見られる。たと えば、チンパンジーやゴリラには、食べ物などを隠して、素知らぬ振りをする ことがあるという。これは、他者の視点ないし立場に立つことができることを 示している。それができるため、他者は、自分が隠していることを知らない、
との認知が可能になる。また、他者をおどかしたり、からかったりすることも できる。これができるのは、自分が他者の立場に成るとすれば、どのようにな るか、そこでは、自分は驚くであろう、と思い量ることができるからである。
自分の驚きを知るがゆえに、相手の驚きを見るのが楽しみとなるのである。こ れは矛盾に気づいて笑う能力があることを示している。さらに、他者の行動を まねることも、他者の身体に自分を重ね合わせることができるからである。こ うした行動がみられるのは、自己というものの芽生えがあるということである。
ちなみに、鏡を見ることができるのも自己の芽生えの証左である。なお、ボノ ボなどには、おしゃれの行動があるという。この場合も、他者の視点に立って 自分を見て、他者も同じようにステキと見るであろうと思い量るからである。
自己というものの意識は、他者を意識し、同時に、自己と他者との区別を意 識し、これによって、自分だけが知っていることがあることに気づかせ、隠す
とかだますとかいう行動を喚起する。自己の意識は、共感のみならず自立を創 出する。このような能力が、類人猿たちの集団を形成し、個体の生存を可能に してきたのである。チンパンジーには、温かいまなざし、ほほえみ、わらい、
も見られるという。もっとも、チンパンジーの感情の及ばない事態もある。仲 間の死を前にしたとき、緊張が高まり、哀れっぽい声があがる。やがて、沈黙 が周囲を支配する。この者たちは、死者を埋葬することはない。
おそらく、チンパンジーから分岐した猿人たちも、チンパンジーと同じよう な行動、心性を保持しながら、進化の道をたどったはずである。
2 ヒトの出現
ヒトは類人猿と共通な基盤から出発した。遺伝、解剖生理、心理、感情、社 会行動、学習など、あらゆる面で共通なものが見られる。もちろん、違いも多 い。直立歩行は、股関節の間を狭くし、きつい骨盤(の輪)となり、胎児の状 態の重い赤ん坊が生まれ、この赤ん坊には、ほとんど能力らしきものが見られ ない。
チンパンジーの赤ん坊は、母親にしがみつき、乳首をさがし、吸うことがで きる。母親は、生後三ヶ月ほどまでは、いつも片手をわずかにそえて、抱いた まま移動する。おしっこもうんこもたれ流すので、母親のお腹のあたりはぬれ ているという。ちなみに、母親もほかの大人たちも子どもをしかったり、たた いたりはしないという。7)
ところが、ヒトの赤ん坊はしがみつくことができない。赤ん坊は首がすわっ ていないので、母親は両手で大きな体重の赤ん坊を抱いていなければならず、
その間は、何もできない。仕事をするときには、母親は赤ん坊を寝かすことに なる。ヒトの赤ん坊は仰向けに寝るのである。そして、こともあろうか、捕食 者がいるこの地で、この子は泣くのである。
赤ん坊が泣くからには、親は抱き上げるかあやすしかない。類人猿のなかで
ヒトだけが呼吸の制御ができるのであったが、ヒトの母親は、子どもをあやす ために声をかけ、歌うように語りかけたり、おもちゃを握らせたりする。音声 を聞いて、あやされ、なだめられると子どもは安らぎ、眠りにつく。これは子 守唄である。ちなみに、最初のことばは子守唄であったというのも肯うことが できる。
ヒトは音声を自由に出すことによって、感情や気持ちを表現し、他者とのか かわりを多様にし、拡大させることができる。チンパンジーの集団は数十人ほ どであるというが、ヒトの場合は百人を越えている。これができるのは脳の働 きの大きさも関与しているのか、いずれにせよ、ここでは、チンパンジーのよ うに毛づくろいをして、なかまをつくることはできない。このため、ヒトは 音 声を出して、たがいにストレスを和らげ、親しさを育んだのではなかったか。8)
最初のことばは、感情の表出・応答からなる音楽的なものであったであろう。
ヒトの直立歩行はリズムに乗った運動であるが、これは音楽能力に共鳴して進 められる。これは運動エネルギーの削減にも効果をもつのである。原始の人び とは、共に歌うように語りかけ、集団の結びつきを新たにしたであろう。チン パンジーにも、このような状態は見られるというが、ヒトのそれは、はるかに 感情を高揚させるものであったであろう。これによって、ヒトは、百人を超え る大きな集団をつくりあげるのである。9)
音声的なことばは、他者の感情に働きかけ、同調をうながし、願望をかなえ させるということにおいて、これは操作的な役割をもつのである。
ヒトの発声器官の進化は、母音のみならず促音便、拗音、撥音などを自由に 出すことができる。呼吸の調節によって、リズム、テンポ、メロデー、ハーモ ニーとして音楽的に発声することも可能である。続いて、音楽的発声に後続・
連動しながら、指示、すなわち認識的ことばが現れる。このことばは、事物や 出来事を固定し、それを情報ないし知識として他者に伝達することを可能にす る。ヒトの幼児にも見られる、指差すという行為には、「あれをとってほしい」
とか「あそこにゆこう」といった操作的働きかけがあるが、同時に、「あそこ に何かものがある」という指示的働きがある。
操作的ことばが直接的であるのに対して、指示的ことばは間接的であって、
これは、事態を対象化して、一般的な知識を生み、それを蓄え、好奇心を触発 し、学習の可能性を飛躍的に広げた。これによって、ヒトは「なにか」「なぜ か」「どうしてか」といった問いを他者に投げかけ、なんらかの答えをえるこ とができるのである。
チンパンジーの学習は、主として模倣に関わる学習であって、「教え-習う」、
「問い-答える」という学習の構造ができあがっていない。実験では、自分の 欲しいものを相手(人間)が取ってくれるように、その取り方を指示すること が見られるというが、ふだんの生活で、チンパンジーが教え合うということは ない。チンパンジーはたべものを分けることはできるが、情報や知識を分ける ことはできないのである。いわば、食べ物の欲求については、相手の身になる ことが直截に可能である。これは欲求ないし感情への同調もしくは同一化であっ た。ところが、情報は目に見えるものではない。だから、相手が情報をもって いることを見ることはできない。目に見えないものを、どうして乞うことがで きようか。ここでは、「教えて」との願いは生まれないのである。また、ある ことを問い-答えるための指示言語をチンパンジーはもたない。
そもそも、指示言語の使用は、自分と他者との関係が、同調ではなく差異認 識的関係とならなければ、可能にならない。自分が知っているからといって、
相手が知っているわけではないということが認識されなければ、「教える」「指 示する」ということは成立しない。また、自分がしらないことを相手が知って いるかもしれないということが認識されなければ、「問う」ことは起こりえな い。これは、相手の心をおしはかり、思いを読みとる認識的働きである。
チンパンジーやゴリラには、食べ物をかくしたり、あざむいたり、だました り、そ知らぬ振りをして脅かしたりする行為が見られるという。これは、自分
だけが知っていて、相手は知らないことを知っているからである。これは、感 情の同一化ではなく、自分と相手とは別ものであることを知っていることであ る。もちろん、仲間を脅かして、すばやく身をかくし、笑みをまじえて愉しむ のは、自分を脅かされた者の身に重ね合わせることができるからである。脅か しやからかいには、他者同一化と認識とが働いている。
だが、チンパンジーには教えるという行為は容易ではなかった。これは、自 分と他者とを異化する能力と指示認識的言語が発達しなければならなかったの である。大脳生理学の観点でいえば、現生人の脳は手のひらに納まるほどの大 きさであるが、これは、1000 億の細胞(ニューロン)、1000 兆のシナプスをも つ小宇宙である。そのうち、大脳の 90%(150 億個のニューロン)が数ミリメー トルの層からなる大脳新皮質である。脳の進化が認識的言語を生むのに欠かせ ないのであった。
かのネアンデルタール人は、四万年前に絶滅したというが、かれらの主たる 言語は音楽的言語、つまり感情的言語であって、認識的言語は乏しかったので はないか。すなわち、事物、方向、場所、行動の仕方などを指示する言語が少 なかったということである。このため、行動する範囲が広がらず、自然環境の 変化を乗り越えられなくなったであろう。行動範囲の狭さは、現生人類のフリ ント(火打石)の広がりが 300 キロメートルに及んでいるのに対して、ネアン デルタール人の場合は、50 キロメートルにとどまっていることからいえるで あろう。10)
そもそも、他者の気持ち、思い、知っていることを読むという能力は、自分 の意識、自我、または心というものが在るということによって可能になるので はないか。心は、少なくとも継続的なものであって、同一性を保っているもの であろう。いわば、心は記憶を根本的な機能としている。かのヒュームは「記 憶はわれわれが過去の知覚の心像を呼び起こす機能に他ならない11)」として、
心ないし自我が記憶の持続にあることを理解していた。もちろん、この記憶は、
鳥の「刷り込み」のような、本能による記憶ではなく、経験による記憶である。
経験によるがゆえに、古い経験に新しい経験を組み込み、古い経験を修正した り、消去したりして、生きる可能性を豊かにすることができる。この働きが心 の始原である。こころは、環境のなかで、環境を受容しながら、環境に働きか け、個体を創造していく機能なのである。12)
この心は、環境を生きる他者の心を読むだけではなく、自分の心を読む。他 者が知らなくても、自分が何をしたかを心知っている。物を隠しているとか、
一人で食べたとか、他者は知らなくとも、自分は知っている。知っているがゆ えに、思いがけなくも、他者に出会ったとき、困ったような表情、落ち着きの ない目、相手の目をそらすことなどが起こる。チンパンジーにも、このような 表情が見られることがあるというが、ほとんどはなんの動揺もなく、素知らぬ 顔をしているという。
ヒトにおいては、心、いわば自我の意識の働きは、チンパンジーのそれを凌 駕している。自我の意識は、他者の感情や願望を自分のものとして感受するだ けではなく、他者が思っていること、知っていることを認知する。認知すると いうことは背進的である。つまり、「一郎はこう思っている」ことを私は認知 している。「『一郎はこう思っている』ことを次郎は認知している」ことを私は 知っている。これは、さらに、三郎、四郎へと背進する。このような認知は集 団の統合と拡大を推進する。
認知の拡大過程で、認知的言語が発達して、自我の意識は強化される。これ は、狩猟採集を盛んにし、ここで、高次の指示・認知の機能が現れる。たとえ ば、狩猟や採集の途中で、仲間からはぐれて、独りになったりしたとき、ここ には、指示する人はいないのであるから、自問自答するほかはない。これは自 我の意識を強化する。13)しかし、親しい者を亡くしたりすると自我が裂開して、
危機的な状態に陥る。ここでは、認知力も思考力も麻ひしてしまう。このこと は、認知・指示言語が感情ないし同調的言語に支えられていることを語ってい
る。心、すなわち自我は他者の関与のなかで培われているのである。
ヒトの学習は、他者に自ら問いかけ、他者から教えられることによって進む。
さらに、自己自身で問い、学びを進めることもできる。認識的言語がそれを促 進している。大きな社会集団になると、音楽的な言語による集団の統合・一体 化だけでは不十分であって、認識的言語は欠かせないのであった。認識的言語 は集団の活動を広げ、学習の可能性を拡大するのである。
集団が大きくなるにつれて、自我は強化され、自立したものになる。自立し た者は、仲間からはぐれて、独りになった時でも、怠けずに働き、獲ったもの は仲間のいるところへもっていくのである。つまり、他者がいる、いないにか かわらず、自立した者は、変わることなく行動する。これが、大きくなった集 団が生き延びるために求められている。自我は、この意味で、自分を認知し、
律する働きである。自分を意識し、自分の心を読み取り、自分で自分に圧力を かける自我が他者との関わりにおいて定位され、こころに常住するようになっ た時、新たな可能性が生まれる。すなわち、恐れ、怒り、悲しみ、嘆き、喜び などの感情のなかに、罪悪、恥、自責、責任、後悔、誇り、自尊、誠実、愛な どの感情が屹立するのである。
3 共同体
コミュニティーが拡大するにつれて、認知的言語は一段と活用される。ここ で、遠くにいる者を想い、共感する能力が育まれ、各人の行動の目安となる規 則や習慣が生まれ、それが共有され、心に内面化される。すなわち、自我ない し自己が生成するのである。自我が私的欲望に関与しているのに対して、自己 はより脱自我的である。これによって、正義、公平、全体への奉仕といった感 情ないし感覚が醸成される。これは、感情や感覚であっても、認知的な働きを もっている。ヒトのコミュニティーは、このような認知的感情ともいうべき働 きによって、維持され、発展してきたのであり、それゆえに、コミュニティー
は、すべての者がそのような働きができるように期待し、育成しようとするの である。14)
類人猿と同じように、ヒトも集団のなかで育ち、仲間たちと協調・協力しな がらいきる。類人猿においても、公平さ、お互いの面子をたてる喧嘩の仲裁、
和解、慰め、弱者への寛容さなどがある。これらは、類人猿に自然に具わって いる感情が仲間のなかで生成するのであって、意識的に作られるものではなかっ た。すなわち、仲間との関わりのなかで自然に学ばれるのであった。つまり、
ここには、意識して教えるという行動は見られないのである。これが可能にな るのは、認知ないし指示的言語の創発を待たねばならなかったのでる。
ヒトの学習は、「教え」、「習う」ということによって促進される。ちなみに、
ティーリッヒは教育の働きを三つに集約して述べたことがあった。15)すなわち、
日々の生活に必要な業ないし技術を習うことである。衣食住のための、狩猟採 集、制作、生産、ことば、などは広義の技術である。つぎに、共同体への導入 である。共同体を生きるためには、かのチンパンジーらが行っていたように、
他者の感情や願望を受容し、慰撫や思いやり、公平さ、寛容をもって、他者に 臨むことを学ばねばならない。さらに、集団が拡大すると、他者の感情に直接 に触れることは難しくなるので、共同体の維持・発展を可能にするため、規則 が生まれ、それを遵守することが求められる。これによって、匿名的な社会に おいても、人は共存することができる。
社会の規則ないし規律は、生活のなかで学ぶことができる。これを可能にす るのは音楽的言語および認知的言語である。認知的言語によって、人は、人並 みに社会を生きることを語る。これは教化というべき働きであり、教化された 者は、自己の内に規律を創造し、自己の行動の規準にする。人は、これに違反 した時、恥じらい、自責の念に駆られ、他者を前にして、動揺し、赤面するこ ともある。
規律は、数学の公理のようなものではない。人は、公理を知らなかったから
といって赤面したりはしない。他者からとがめられることもない。規律は、社 会が求めているものであるが、それが自己に内面化されると、もう1人の生き た自分となる。これによって、自分は、もう1人の屹立する自分から逃れるこ とはできなくなる。他者の前で、規律の違反をごまかし、繕うことができたと しても、内にある自分は、そのことを見逃しはしない。これが、罪の意識、恥 や赤面の根拠なのである。こうしたことは、チンパンジーにもわずかに見られ るというが、16)人においては顕著に見られるのであり、これが、大きな匿名の 社会において、共存するために必須なのである。
こうして、人は決してごまかすことのできないもう1人の自分と生涯生きる ことになる。この自分とは離れようにも離れることができないのである。人間 にとって、重要なことは、このような人間を育むことである。こういう人間こ そが社会を豊かにするのであり、これがなければ、生産のための技術も無効に なるのである。
人は、共同体のなかで、共存しながら生きることを学ばねばならない。他者 への気づかい、配慮、思いやり、正義や義務の遂行、責任を負うことなどは、
学びの内容になるのである。もちろん、これらは知力とか認知能力ではなく感 情に近いものである。
本来、人が教えるということは認知的言語によるものであった。他方、感情 は音楽的言語として表現されるものであった。怒り、嘆き、哀しみ、不満、喜 び、恥、妬み、恨み、恩、復讐、同情、愛、慈悲、感謝、赦し、これらは、い ずれも、知性よりも感情の領域にあるものであった。これらは、音楽的に表現 され、交感、共鳴、同調、反発、離反などを生むのである。であるがゆえに、
これらは、教えることのできる次元にないのであった。すでに、チンパンジー の群れに見られたように、感情の表出は認知的活動とは別の位相にあるか、も しくはその基底にあるものであったのである。かのヒュームが、その著書『人 間性論』のなかで、「感情(passion)は原初的な存在である。17)」と述べ、「理
性は感情の奴隷であり、ただそうであるべきである。そして、理性は、感情に 仕え、従うこと以外に何の役目をも望むことができない。18)」としたのも肯う ことができる。
共同体において、共存しながら生きることが感情によるとすれば、感情は、
教えられて育まれるであろうか。これは、感情は教えられるかという問いなの である。かのチンパンジーたちは、群れのなかで、他者の感情に出会い、ふれ ながら、嫌われる感情や欲望をおさえ、好まれる感情や欲望をもつようになる のであったが、これは、人においても言うことができる。すなわち、人におい ても、家族、地域などの共同体のなかで育てられながら、行動や感情の在り様 にふれ、生きるうちに、あるべき行動や態度、振る舞いなどを学び、感情をも 望ましいものに育成されるのである。したがって、これは、なにか認知的言語 によるものではない。日ごろの生活において、認知的な言語が語られるとして も、これは生活という人間の状況のなかで語られなければ、感情にふれること はないのである。ちなみに、「おやつをひとり占めしてはいけない」、「ひとを なぐってはいけない」、「ありがとう」「こんにちは」「ごめんなさい」「さよう なら」を言おうなど、指示・命令的言語は、人間が生きる状況において意味を 有し、「共存可能な(compossible)19)」感情ないし願望を培うのである。
人類は、発生以来、共同体を生きるための感情、いわば道徳や倫理に関する 感情が育つように、日々の暮らしのなかで望んできた。これもまた自然な感情 であった。そもそも、地域、家族の生活は子どもを、このように育む機能を有 しており、生活が子どもが学ぶ場であったのでる。ここでは、大人が、ことさ ら、人として生きること、その生き方、などを教えることはなかった。ただ、
黙々と働き、真っ当に生きておればよかった。それは、子どもに模倣され伝え られたのである。子どもが、共同体のなかで人間になるには、大人たちと暮ら し、その生き様をまねればよかった。まねることが学びであったのである。
わが国においても、子どもはいつも大人たちと共にくらしてきた。明治、大
正期に日本を訪れた外国人たちは、子どもが大人に連れられて、どこ・かしこ に行っているのをよく見たという。20)そして、幼い子たちが、叱られることも なく、好きなように振舞っているのを目にして、「日本は子どもの天国である。
ここにはルソーが語った子どもがいる。」と驚いたものであった。21)
幼い子どもは、チンパンジーの子がそうであったように、叱られることはな かったが、ただ、大人から「みんな、こうしているから、太郎も花ちゃんもこ うしなければいけない」といわれたものである。子どもは、みんなもしている ように、「しずかにして」「こんにちはをいって」「ありがとうをいって」と、
諭されたのである。
こうして、家族や地域のなかで、思いのまま生きているように見えた子ども も、五歳ともなれば、大人たちの所作を学び、落ち着きとも威厳ともいえる態 度をもって、大人にも応対することができたのである。もっとも、他方では、
余計なことを学ぶこともあったのである。たとえば、酒をのみ、タバコをすう ことなども覚えたのである。ちなみに、小学校の子どもが、タバコをすうこと を禁止する法案が通過したのは、明治三十三(1900)年のことであった。
このように、人としての生き方は、共同体のなかで暮らすうちに自然に学ん だものであって、大人から特別に指示されたものではなかった。学ぶとは、ま ねることであって、このまねるとは、人の所作や表情に現れた感情をくみとり、
それに応えることであった。かりに、教えることがあるとはいえ、これは諭す ことであった。諭すとは、かんで含めるように、よく分かるように、言い聞か せることであった。そもそも、共同体のなかで生きることは共存可能な感情、
すなわち、思いやりや励まし、正義、責任などの気持ちないし感情を育むこと であってみれば、これは、何か理知的方法によって教えることなど、ありえな いことであった。
4 共同体の崩壊
人の生き方は人のなかで学ぶものであった。これは、人と人とのふれ合い、
出会い、離反や対立などにおいて、自然に学ぶのであった。これは、知的・認 識的言語ではなく感情的言語の働きによるのであった。それゆえ、現在のよう に、個室で過ごし、電波で情報をえて、電波で交信する環境では、人と人との ふれ合いは失われる。そして、あらゆる学びが学校に委ねられている。だが、
学校は、子どもが理解することを援助すること、それを目的にするのであって、
道徳や倫理のような感情の領域にあるものを育むものではなかったのである。
それゆえ、人が生きることとしての道徳が、学校に導入され、それを教えるな どということは、学校が最も苦手としたことであった。
しかも、現在の社会には、功利主義的欲望が蔓延している。すなわち、人び とが快を求め、苦を嫌うことの強烈な社会である。ミンコフスキーが論じ、22)エ ンデが語ったように、23)技術は、目的を可能な限り、労せずして達成するために 供されている。技術の大きな目的は利便性、いわば時間空間の克服である。努 力せず、安楽に望みがかなえられることが人びとを魅了している。この望みは金 銭によって購われる。より多くの金を出せばより速く時間空間を短縮できる。
かつて、功利主義が向かっていたものは心身・感覚の快であったが、いまで は目的の早期達成へと拡大した。このために、あらゆる機器が作られる。ここ では、金銭を多く持った者が主人である。
人間の願望は止まることがない。これは、「無限の動因24)」とも言うべきも のであって、このため、あらゆる方向にかぎりなく手を広げる。これは、市場 の原理となって広がっている。ここでは、人は、金銭によって、物品のみなら ず時間も人の労力も買うことができる。市場の原理においては、金銭を払う者、
すなわち消費者が主人である。
市場の原理は医療や教育の場面にも浸透している。医療においては、患者は、
患者様と呼ばれ、看護師をはじめ医療従事者はサーヴァントである。これは、
雇い人、召使、奉公人、従者、しもべ、小使い、などの意味をもたせている。
これは、医療における人間関係に亀裂を起こし、患者の欲望を肥大させる。こ のため、医療従事者にストレスが生じ、患者への反発、虐待の感情が芽生える ことにもなる。本来、医療は患者と医療従事者との協力によって成立する。こ れは、患者が自分の身体を回復しようとの意志ないし努力がなければ成り立た ない。それゆえ、医療業務をサービスと見ることは、自分の健康への回復を他 者に任せ、依存し、自分を放棄することである。
市場の原理は教育にも及んでいる。児童、生徒、学生、それにその保護者は、
自分は消費者であるとの意識をもちはじめている。ここでも、教える者はサー ヴァントになる。消費者は、かぎりなくサービスを求め、自ら努力し、労して 学ぶという心意を忘却する。こうして、学ぶ者と教える者との教育的共同体は 衰弱する。
そもそも、教育の名にふさわしい教育とは、共に学ぶこと、学ぶことにおい て共に自己を創造することであった。これは、「純粋な対話的関係25)」であっ て、ここには、信頼、尊敬、愛、責任、誠実といった、教育にとって本質的な ものが現成するのである。これら、本質的なものをサーヴァントに求めること はできない。この人にはないのである。これをサーヴァントに要求するならば、
これはストレスを生むだけである。本質的なことはサービスできないからであ る。本質的なことは、自由において、おのずと現れ出るからである。
それでは、教育が可能であるような共同体は、どのようにして、生成するの であるか。これには、宗教、政治、経済、文化、科学などのあらゆる位相から 接近することができるであろう。もちろん、教育が可能であるような共同体の 生成のみならず、教育における共同体の回復を、教育は進めなければならない。
市場の原理が教育を侵襲しているにしても、それに立ち向かうことは、可能な はずである。
5 学校の台頭
チンパンジーの社会に見られたように、道徳的なものは、個体と個体の感情 のふれ合い、こづき合い、から自然に生まれるのであった。人においても、こ れは妥当する。道徳の根源は共同体における感情に起源をもつのである。この ことは、ヒュームやスミスが省察したことでもあった。
ところが、現在では、個人と個人とが出会い、直にふれ合い、ときには対立 し、葛藤するような経験は減少している。かわりに、電子による記号の交換が 登場したのである。これは学校の児童・生徒をも席巻している。
近代になって現れた学校は、すべての子どもを共同体から離し、抽象的な知 識の理解や技術の習得に導いたのであった。この学校を牽引するのは国家であ る。学校を生んだ元の力が住民であれ国家であれ、現在では、いずれも国家が 学校に関与し、学校に国家の秩序の維持と発展を期するのである。
もともと、国家は、交通、流通、生産の発達、文字の普及、勤労する個人の 形成などが相乗して、出現したのであって、これは学校を不可欠としていたの である。学校は、知識や技術を教え、国家に奉仕する人間を育成することによっ て、国家に奉仕するのである。さらに、民主主義を標榜する国家は、開明され た市民の要求に応じて、公共心を培うとともに、個人を尊重することをも教え ようとしたのである。もちろん、公共心は社会の秩序および国家の秩序をも保 持するのである。
国家の支配が市民に対して優勢である場合には、国家は学校に道徳の教育を 求めるが、この道徳は抽象的なものである。すなわち、これは、血縁、地縁を ふくむ共同体のなかで、感情が交流するなかで学ばれる道徳ではない。にもか かわらず、国家は道徳を教えることを学校に要求した。けだし、この要求は国 家の必然的帰結であった。国家であれ市民社会であれ、これが成り立つために は道徳は欠かせないのである。それゆえ、独裁国家はいうまでもなく民主国家 も道徳を教育目的の中核にすえるのである。
とはいえ、道徳は学校で教えられるものであるか。すなわち、道徳は学校教 育の目的になりうるのか。道徳が教えられるとすれば、それはどのようにして 教えられるのか。つまり、道徳教育の方法はいかなるものであるのか。また、
具体的に何を教えるのか。道徳の教科書は作られるのか。さらに、誰が道徳を 教えることができるか。ちなみに、教師は、ほかの教科と同じように、道徳を 教える資格があるのか。道徳の教員免許状は可能であるか。
多くの問いが投げかけられる。これらの問いに対する探求を続けながら、わ が国の学校は道徳の教育を進めたのである。ちなみに、文部科学省は、小学お よび中学校の指導要領において、一章を割き、道徳の時間を設けることを明示 している。
6 道徳教育の可能性
「道徳は教えられる」という命題が成り立つならば、だれが、いつ、どこで、
どのようにして、教えるかという問いにも答える途が開かれる。
では、そもそも、道徳は教えられるものであるのか。かつて、論理哲学にお いて勢力のあった実証論理学は、デカルトの思惟の終点に至ったといえるもの であったが、これは、主観と客観というカテゴリーで認識をとらえていた。こ こでは、知識とは、知覚を介して認識されたもの、すなわち観察・実験による もの、さらにもうひとつ、論証されたものである。たとえば、「イカの脚は十 本である」という命題は観察によって、また、「水は酸素と水素の化合物であ る」という命題は実験によって証明される。さらに、「三角形の内角の和は二 直角である」という命題は、「錯角は等しい」という公理を用いて証明される。
これらは、いずれも、客観的な知識である。この知識の確かさについて、異論 を唱える人はいない。かりに、「観察・実験する人間の目は絶対に正しい」と いう知覚の確かさ、および「錯角は等しい」という公理が証明できないとして も、である。知識は、知覚の確かを確信すること、および、これ以上論証でき
ない第一原理としての公理を承認することによって、成立するのである。
ところが、実証も論証もできない命題がある。「誠実であることは善い」「嘘 をつくことは悪い」などが、そうである。これらは、どれも、「誠実であるべ きである」「嘘をつくべきではない」というように、義務・当為の意味をもっ ている。さらに、「誠実であれ」「嘘をつくな」というように、命令形で語られ もする。また、「ばらの花は美しい」とか「愛することは素晴らしい」といっ た命題もある。
このような命題は、いずれも、実証や論証の外にあって、状況的で、あいま いであって、確かなものではない。それゆえ、これらは主観的と称される。客 観を理知ないし認識によるものとすれば、主観は感情によるものである。した がって、道徳や美しさに関する命題は、感情によるので、主観的で、気まぐれ で、とりとめのないものとされる。
学校は、技術、技能、知識を教えるところであった。つまり、客観的なもの を教えるところであった。学校は、そうでなければならなかった。いったい、
主観的なことを教えて欲しいと望む親がいるであろうか。
であれば、道徳に関する命題は主観的であるので、学校は、それを教えるこ とはできない。教える必要など生まれえないのである。
このように、実証論理学の立場からいえば、道徳の教育のごときは、無意味 かつ不可能である。あえて、道徳の教育らしきものといえば、それは、それぞ れの個人の感情や好み、いわば主観のつばぜり合い、こづきあい、対立、葛藤 を合理的に調整する方法を教えることであろう。
デカルトの思惟は、主観と客観、精神と身体、理知と感情とを分離し、身体 や感情に対する精神と理性の優位を導きだしたのであった。だが、むしろ、逆 に、身体や感情が人間の生において、根源的で、重要なものではないか。ちな みに、人間学ないし現象学は、身体・感情が生の現実であり、道徳や美が生起 する世界を主観とは見ない。他方、客観と称される知識のシステムこそが非人
称かつ抽象的であって、それゆえ非現実的なのである。
現実は、身体・感情を有した人間の共同体である。身体・感情が生の原点で ある。このことはチンパンジーの生活からも明かであった。共同体を生きると は、知識ではなく共感や同情、公平や正義の感覚が行きわたることであった。
知識は、これを基底にして初めて有効に稼動するのである。したがって、重要 なことは、共同体を生きる感情が創発されることであった。
共同体を生きること、すなわち共存在的感情を培うことは、いかにして可能 であるか。共存在的感情は自己と他者との関わりを志向するものであるから、
これは、自己と他者との創発が求められる。これは対話における創発である。
もちろん、対話とは、たんに話し合うということではない。また、一般的なテー マをきめて、これについて討論するということでもない。対話は、お互いの身 体が向き合い、おたがいの身体に住まうことにおいて生まれる、相互の往還的 関与である。ここで、感情がことばのなかに融解され、生きた言葉になって相 互に浸透する。
自己と他者の往還、自己の創発は意志の能動的働きによるのではない。そも そも、現実において、自己の意志を貫徹することなど不可能である。意志の自 由、選択の自由とはいえ、それは、世界の内にあることであって、この点で、
受動的である。これは世界において創造されるのである。自己の本質は意志で はない。自己といえども、生活のなかで育まれるのである。
それゆえ、道徳のごときは、生活のなかで意図せず、意識せずに学ばれるの である。よって、愛、人間に対する尊厳の感情、生命への畏敬、希望、信頼、
共同体の規律や規範の同一化(内面化)、といったものは、生活のなかで人と の交わりを養分にしながら、培われる。いわば、これらは、理解ではなく人間 の体験によるのである。
学校が、教育の名にふさわしい学校として成立するには、自己の生成、創発 を可能にするような協同体であることが望まれる。これは利益社会ないし市場
原理に立った消費社会の対極にある。
学校であるとはいえ、これは意図的システムに支配されつくしているわけで はない。学校にも、自由な日常性がある。したがって、児童・生徒のあいだに も対立や和合がある。お互いの自己の侵襲・創発がつねにある。教育者として の教師は、このような状況を生きている。この状況は、人間の感情が交錯し、
流動する一回的なものであって、それゆえ、何が起こるか予測することは不可 能にちかい。現実は不確かさに満ちている。教師は、ただ、そのなかに住み、
児童・生徒を気づかい、ここで、その都度、判断するのである。前もって、ど のように判断するべきであるかを教えてくれるマニュアルはない。
もっとも、状況に同じものはない、人は同じ川の流れに二度と足を入れるこ とはできないとはいえ、状況に対応する原則は考えられる。それは、児童・生 徒の道徳的行為に対して、それを無視、看過、放置してはならないということ である。具体的にいえば、ほめたり、しかったりすることがなければならない ということである。ただし、これは状況のなかで、状況に呼び覚まされて起こ ることであって、意図的に、児童・生徒を対象化し、心理操作することではな い。心理操作は、児童・生徒に対する教師の優位を語っており、状況を抽象化 し、教師の働きを無効にする。ここでは、教師は状況の外に立って、児童・生 徒を傍観している。これは、見えないかたちで児童・生徒の人格を傷つけるの である。
教育は、相互の人格の尊重から始まる。それゆえ、教育における悪は、言動 によって児童・生徒の人格を傷つけることである。このため、児童・生徒の人 格を悪いとしてきめつけること、皮肉をいうこと、見せしめにすること、他の 者と比較すること、などは避けねばならない。
教育を意図的な働きかけであるとすれば、厳密な意味での道徳の教育は成立 しない。道徳は、日常の生活のなかで、児童・生徒と教師が、感情的な言動の ふれ合いを生きることにおいて、学ばれるのである。これを、ジャック・マリ
タンは道徳の直接的形成と呼んだが、26)教える意図がないことを意味する適切 なことばであるといえる。
直接的であるということにおいて、はじめて理解(理知)を突破して、感情 および自己を揺さぶり、共同体を生きることを促進する。チンパンジーと同じ ように、人間が感情を共有する存在であるかぎり、それは、可能なことである。
かのアダム・スミスが『道徳感情論27)』において、人間性、すなわち道徳の根 源ないし原理は感情であると見たのはそのことであった。
7 道徳の教育
バートランド・ラッセルは、教育に関しては、新自由主義教育に近い立場を とっていたが、文明社会を生きるために欠かせない規律をあげていた。28)これ は、子どもが、何であれ学ばねばならないものであった。それは、すなわち、
まず清潔であること、手洗い、洗面、歯磨きなどは、子どもが習慣とするよう に教えねばならないのである。つぎに、時間を守ることである。これも、文明 社会が要求することであり、それができなければ、この社会は機能しなくなる のである。第三に、他者の所有物を尊重すること、つまり、他人の物をとらな いことである。第四に、日課を守ることである。毎日の生活が所定のルールに 従って、あたかもリズムをもっているように動いていることは、子どもに安ら ぎをあたえる。これは、心身の発育を豊かにするだけではなく、文明社会が何 であるかを教えるのである。最後に、教え込み(instruction)がある。九九 の表や文字を覚えることは、生きるための基本的知識であるから、子どもは、
面白くなくても学ばねばならない。したがって、大人は、これらの規律を徹底 的に、教えねばならないのであった。
これらの規律といわれるもののうちで、他人の物を尊重することの他は、厳 密には、道徳的なものとはいえないが、いずれも、これらは子どもの時に教え 込まれ、習慣化されねばならない。これは、長じて、道徳的なものに転じてい
くのである。ちなみに、清潔は他人を不快にさせないこと、人の物を尊重する ことはその人を尊重すること、時間を守ることは人との約束の時を守ること、
日課を守ることは他人と時間を共有すること、教え込みで知識を学ぶことは、
いずれも、文明社会において共存することに必須なのである。
これらを子どもに学ばせるのに理由はいらない。父も母も先生も兄も姉も、
「みんながそうするから、そうするのだ」ということで十分なのである。これ は、生活の教育、いわば前道徳的教育であって、道徳教育そのものではないが、
生活の基本として教えられるものである。道徳の教育は、こうした生活の基本 に支えられて進められる。
地域共同体が崩れて、子どもが道徳を学ぶことができなくなる前にも、学校 はある種の道徳を教えようとしてきた。とりわけ、わが国のように国家の主導 でつくられた学校はそうである。すなわち、学校は愛国心を教えることに腐心 したのである。もちろん、愛国心は感情であって、理知的なものではない。こ の感情を起こさせたものは、国民自体のナショナリズムであったが、学校はこ れを誘発・形成したのである。学校において、児童・生徒は国語、修身、歴史、
唱歌、体操などあらゆる教科のなかで、国家の民としての愛国感情を醸成され たのであった。学校行事では国旗や国歌が児童・生徒の感情を鼓舞して、国家 との一体感を作りだしたのであった。
とはいえ、この教育は児童・生徒1人ひとりの尊重、自立、道徳的判断力を 培うのではなかった。民主主義の国家は、個人の自立・共存、尊重、共同体を 生きる道徳的判断力を求めている。とりわけ、地域共同体の教育力が衰弱して いる現在では、このことが学校に望まれている。
学校は、こうした期待に応えることができるか。学校の生活において直接に 学ばれる道徳は直接的形成であって、これは意図的な働きによるものではなかっ た。だが、意図的に教えるとなれば、これは間接的形成である。であれば、学 校において、道徳の間接的形成は可能であるか。
共同体を生きるために、もっとも大切なものは愛や慈悲、仁であるとすれば、
これは道徳の根本となる。しかし、これは意図的に教えることはできない。た とえば、愛は意志し、努力して生まれるわけではない。まして、他人から言わ れて起こることはない。愛は愛によってしか生まれない。愛の体験が愛を生む のである。愛は理知ではなく、人間である者の根源的感情として現れる。
道徳は、数学や科学を教えるような仕方で、教えることなど不可能であった。
教科においては、知っている教師と知らない児童・生徒との落差がある。この 落差は、上位と下位の関係をうむ。それゆえ、教科を教えることに関しては、
児童・生徒は従うことができる。ところが、道徳に関しては、上下の関係は成 立しがたい。道徳においては、思いやり、愛、誠実、など人格の高邁さが意味 をもつのであって、ここにおいて、宗教の気圏にある覚者はともかくとして、
教師が、自分は自童・生徒の上位にあると見ることはできないのである。もち ろん、覚者といえども、それを誇ることはなく、謙虚であり続けたのであった。
道徳のようなものは、教えようにも教えることができないとすれば、それは、
共に学ぶほかはないのではないか。それゆえ、かのソクラテスは、「徳は教え られるか」というメノンの問いに対して、共に探求するということをもって、
答えようとしたのであった。ソクラテスは、「弁明」においても、自分は教え ようと思ったことも、教えたこともない、としたのである。にもかかわらず、
ソクラテスは、自分に問いかける相手と共に、探求しながら、相手の心に何ほ どのことかが生じることを願わなかったわけではあるまい。これは、一つのパ ラドクスである。つまり、人は徳を教えることはできない。にもかかわらず、
人は徳が生まれることを願う、ということにおいて。
ソクラテスは語った。「私のところへ度々来て、私と交わる人たちの中には、
初めははなはだ無知と見える者もあるが、話し合いが進むにつれて神が好しと した人たちはすべて驚くばかりに進歩して、彼ら自らにも他の人たちにもそれ が認められる。しかも明かに彼らは私からかつて何事も学んだことがなく、む