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《唐代中期の文学批評・緒論》訳注 (中)

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(1)

(資料)

王運煕・楊明《隋唐五代文学批評史》第二編

《唐代中期の文学批評・緒論》訳注 (中)

中 唐 の 詩 論

甲 斐 勝 二 東 英 寿**

翻訳にあたって

先回に引き続き、王運煕・楊明著《隋唐五代文学批評史》の第二篇唐代中期文学批評 第一章諸論の翻訳の第 2 回を掲載する。今回は分量の関係で、諸論の第二節中唐の詩論 の部分を訳出する。書籍については先回のまえがきを参考にされたい

この翻訳は、甲斐と東が定期的に行う読書会の原稿をまとめたもので、試訳の域を出 ない。下訳を東が作り、甲斐が注をつけた。

もとより翻訳、つまり二つの言語による同意味の置き換えは極めて難しい。さればこ そ正確な翻訳を目指して各種各様の微に入り細を穿った詳細な研究がなされることにな るわけだ。翻訳者の実力不足による翻訳の失敗は、かえって読者の原書への誤解を生む 事になり、時には不要なばかりでなく害すらある翻訳というものもでてくる。我々の翻 訳がその類でないことを祈る。

しかしながら、日本における中国文学の分野では著名な詩人や詩文の翻訳については 結構見かけても、「文学評論」領域の紹介となると手薄に思え、かかる翻訳でも、ま

福岡大学人文学部教授

**九州大学教授

福岡大学人文論叢第 40 巻 3 号(平成 20 年 12 月)掲載

中国文学批評史の日本語訳としては、管見の限り唯一、周勛初『中国文学批評小史』

(長江文芸出版社、1981 年)を翻訳した『中国古典文学批評史』(高津孝訳、勉誠出版、

2007)があるだけである。

(2)

だ中国語を解せぬ学生諸君や他領域の研究者には、当座の役に立つのではないかと思う。

もちろん、これで興味を持つ方は、今後原書に当たって検討していただくのが一番よい。

そうすれば、一層よくわかるばかりでなく、我々の翻訳の不備や誤訳にも気づかれ、もっ と優れた翻訳の作成及び内容の理解へと進むことができよう。研究職にある我々として は、今の実力で可能なところまでを仕上げ、仕事の一部として世間に晒し、御教示を仰 ぐばかりである。

(3)

《唐代中期の文学批評・緒論》(中)

二、中唐の詩論

中唐の詩論は内容が豊富多彩であり、それもまたおおよそ前後二つの段階に分けるこ とができる。前期は代宗(在位 762-779)、徳宗(779-805)の両朝であり、批評家には 元結、高仲武、皎然等がいた。元結は単篇の論文以外に、また《 中集》を編輯し、

その詩論の理想を表した。高仲武の《中興間気集》は、殷 の《河嶽英霊集》 の体例 を模倣し、選んだ詩人に対して、すべて評語をつけている。皎然の《詩式》五巻は非常 にボリュームのある論詩の専著であり、内容は王昌齢の《詩格》 の後を継いで、詩歌 芸術を検討することに重点を置き、更に彼の表示する標準に基づいて、漢魏六朝、隋唐 の作家作品の優劣、得失を評価している。後期は憲宗(在位 805-820)から文宗(826-

839)朝までであり、批評家には白居易、元 、劉禹錫などがいた。彼らにはそれぞ れ文学批評にまで及ぶ多くの篇章がある。その内容はかなり幅広く、題材内容、体裁様 式、芸術技巧や作家作品の評論などの各方面まで及んでいた。以上の各作家は、《中興 間気集》、《詩式》の系統的な専書以外、元結、白居易、元 などは、別に各自の詩文 の中で、鮮明な文学の主張を表明しており、その主張もかなり筋の通ったものである。

また、古文の大家である韓愈も、いくつかの重視すべき詩論を表明した。中唐詩論は、

内容が豊富多彩であるだけではなく、主旨は鮮明で、論述も詳しくかなりの体系性があっ て、唐代詩論の中では、最も発達し、突出した成果を上げた時期だと言うことができる。

以下に、項目を分けて、中唐詩論の主要な内容を紹介する。

元結(

719-772

):本書・第三章中唐的詩歌批評・第一節に詳論有り。高仲武(生卒年

不詳)本書第二篇・第三章中唐的詩歌批評・第一節に詳論有り。皎然(生卒年不詳)本 書第二編・第三章・第三節に詳論有り。

殷 (生卒年不詳・玄宗の開元・天宝年間の人)の『河嶽英霊集』:盛唐の詩人二四 名を選び、品評を加えた選集。 本書第二編・第二章盛唐的詩歌批評・第三節に詳論有 り。

王昌齢(約

698-757

)の『詩格』:本書第二篇・第二章・第一節に詳論あり。

白居易(

772-846

)本書第二篇・第三章・第四節に詳論有り。元 (

779-831

):同第五

節に詳論有り。劉禹錫(

772-842

):同第六節に詳論有り。

韓愈

:

768-824

)第二篇第四章中唐古文作者及其先駆的文学批評・第三節にて詳論。

(4)

(一)諷諭詩理論の発展

諷諭詩は詩人が見聞きしたさまざまな生活現象に対する感興や風刺ではあるが、しか しその重点は、政治、社会の不良現象を暴露、風刺し、権力者に注意を促して、改革を 促進することにある。陳子昴の「感遇詩」は時事政治の弊害を訴えようとするもので、

彼の詩論で、「興寄」(「修竹篇序」に見える)を重視するのは、唐代の諷諭詩論の先駆 だと言うことができる。杜甫は晩年に、「同元使君舂陵行」の詩を書き、その詩の序 では元結が「民衆の苦しみを了解する(知民疾苦)」と褒め称え、元結の「舂陵行」、

「賊退示官吏」の両詩には「比興の姿勢(比興体制)」が備わっていて、即ち《詩経》の 美刺比興の伝統を受け継ぐと賛美した。彼は、詩の中で元結の両詩が光り輝く、秋の月 やきれいな星のようだと賛美する。杜甫の多くの詩は、時事政治の弊害や人民の苦痛を 描写するが、それは彼のかかる「比興体制」の主張を実践するものである。杜甫の創作 や主張は、中唐の諷諭詩創作の有力な先駆けとなった。元結は「二風詩」十篇を書き、

古代の聖君と暴君をそれぞれ分けてほめたたえたり批判したりした。また「二風詩論」

の中で「帝王の治める道混乱の道を理解し、古人の戒め諌める伝統につなげる(極帝王 理亂之道,系古人規諷之流)」という創作の原則を挙げた。元結は「系楽府」十二篇を書 き、政治や民衆の生活を反映させることに注意し、彼はその序文の中でこれらの詩群を

「上位は上の統治者を感じさせ、下位は下の民衆までも教化できる(可以上感於上,下 化於下)」と公言する。即ち統治者を正しく諌め、民衆を教化するということだ。彼の

「舂陵行」の末尾ではこの詩を《詩経》の「国風」になぞらえて、それが世間の情況を 反映し、統治者の施政の参考に供することができると考えている10。元結の創作や主張 は、杜甫と精神上で意気投合したものだと言ってよい。杜甫と元結のかかる方面におけ

陳子昴(約

659-700

)本書第一編隋和初唐的文学批評・第三章初唐文学批評・第四節に て詳論。「修竹篇序」は「與東方左史 修竹篇序」のこと。「感遇詩」は全部で三八首、

魏晋の阮籍の強い影響を受けたもの。阮籍はその詩で社会風刺をしたとされる。「興寄」

とは、真実の心情表現のこと。

杜甫:本書第二篇第二章第四節にて詳論。「同元使君舂陵行」は、友人の元結の政治活 動と文学活動を高く評価するもの。『詩経』掲載の詩の特色として知られる「比興」は漢 代では風諭の表現技法としてとらえられていたが、唐代では経典である『詩経』の伝統 を受け継ぐ時世風刺の意味で用いる。(《中国歴代文論選新編・先秦至唐五代巻》(上海 教育出版社

2007

年)同元使君舂陵行併序参照)

10 最後の二句は、「何人采國風、吾欲獻此辭」(各国の民歌を採集して国情を監察しよう とする者が誰かいないか、私はこの歌を献じたい)、昔、皇帝が各地の様子を知るために 各地の民歌を集める役所を置いたという話を踏まえる。

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る創作と主張は、唐の玄宗後期の政治腐敗、安史の乱後の唐朝のさまざまな政治社会の 矛盾の激化の情況で生じたもので、詩人の政治や民衆の生活に対する関心および詩人の 社会への責任感を充分に表現している。

諷諭詩の創作は白居易、元 に至ると高度な発展があり、やや体系性のある理論を も形成した。白居易11は、朝廷が古代の詩を採集する制度を回復し、詩の採集により民 間の様子を観察すべきだと考えた。一方詩人のほうは、さまざまな社会現象を積極的に 伝え、統治者の注意を促し、当時の政治の改革に役に立つようにするべきなのである。

彼は憲宗の元和年間、左拾遺に任ぜられていた時、数多くの諷諭詩を書いたが、その目 的は「人の病気を救い、当時の闕失を補う(救濟人病、裨補時闕)」(「與元九書」12)た めであった。彼は詩を論じる際に熱心に《詩経》の六義と風雅比興を推賞するが、その 主旨は即ち当時の政治の弊害をうったえ、諷諭を行うことを重視するところにあり、比 興の技法を利用するかどうかは、別に大したことではなかった。彼は「新楽府」五十首 の連作詩を書き、「君主のため、臣下のため、民衆のため、万物のため、事件のために 書いた(為君、為臣、為民、為物、為事而作)」と自ら述べた。その意味は民衆の苦し み、社会の弊害を表現し、君主と権力を握る諸官吏に諷諭を行うということである。

「与元九書」ではさらに概括して「文章は今ある時代のために書くべきで、歌詩は具体 的な出来事に向けて作るべき(文章合為時而著、歌詩合為事而作)」という精錬された 二句の名句を発した。彼は自分の諷諭詩について「詩歌というものは民衆の苦しみより のみ生まれる(惟歌生民病)」(「寄唐生」)と自ら述べ、更にかかる詩篇の主な内容の要 点を把握して明快にしている。「新楽府序」の中で、白居易はこの連作詩が有効に諷諭 の目的に到達するために、事件の記録は正確で信用できること、文辞はまっすぐで分か りやすいことに注意し、語気は直接的で切実で、「聞く者は深く誡めてほしい(欲聞之者 深戒)」と述べた。ここに彼の大多数の諷諭詩の思想の芸術特徴を概括することができ る。「与元九書」の中で、彼は《詩経》の六義と風雅比興の原則によって、歴代の詩歌 に対して評論を行い、美刺比興の内容に欠けている詩人の詩篇に不適当な低い評価をし たが、それは彼が諷諭詩を強く提唱した折の偏向性を表すものである13

11 白居易(772~846):本書第二篇第三章第四節白居易にて詳論。

12 「与元九書」:白居易が元和十三年(815)冬江州司馬に左遷されたとき、友人の元槙 に送った手紙。白居易の文学観を示す作として知られる。

13 「与元九書」の中で、「南朝の梁や陳のころは、ほとんど風雪の風景を歌うだけになっ た……、「なごりの夕焼けは広がって美しい織物のように、 澄み渡る河は静かで練り絹の

(6)

14は詩を論じる時、また六義を重視し、「寄興を持つこと(存寄興15」(「進詩状」

に見える)を要求した。「敍詩寄楽天書」では、元 は自分が諷諭詩を創作することを 述べて、陳子昂の「感遇詩」及び杜甫の詩数百首に啓発を受けているとし、唐代の諷諭 詩の発展の過程を指摘している。「樂府古題序」で、元 は樂府詩の創作は現実に奉仕 すべきだと力強く指摘した。彼は昔ながらの楽府題に基づく楽府を創作するときは、

「そしることほめることが描かれる事柄に表されている(美刺見事)」べき、即ちそれに よって諷諭すべき内容が示されるものと考えて、「古題のままで」、新しさが全然ないよ うな作品に反対した。杜甫の「悲陳陶」「哀江頭」のような「事情に沿った名篇でも、

何も昔の楽府作品で依拠するものが無い(即事名篇、無復依傍)」ような時事を風刺する 新樂府に対しては、彼は一層重視する。そして、自分や白居易、李紳が新樂府詩を書く のは、杜甫から影響を受けたと公言するのだ。この話は、新樂府は諷諭内容を表現する のに力のある有効的な様式であることを語るものであり、また、元、白の諷諭詩の中に、

新樂府体が特に多かった理由が語るものだ。元 は徳宗後期、政治が腐敗し、社会矛盾 が激化したことが、彼に諷諭詩を創作させるよう促したと述べていた。「敍詩寄楽天書」

に見える)。一方白居易は、憲宗初年、朝廷が改革に慌ただしく、それで彼は数多くの 諷諭詩を書いたと述べている。(「與元九書」に見える)。これこそが、元、白二人が積 極的に数多くの諷諭詩を創作した歴史の背景なのである。

(二)閑適、感傷詩についての言論

白居易は、諷諭詩以外に、ほかの二種類の題材の詩篇を閑適詩、感傷詩と名づけた。

実は、この二種類の題材の詩は、他の詩人の作品の中にも少なくないばかりでなく、理 論化までされていたので、白居易はこれをもっと鮮明に、集中的に言及したのに過ぎな い。閑適詩について、彼は「或いは公より退き独居し、或いは病を理由に辞表を提出し

ようだ(謝 )」「花は先ず露によって散り始め、葉は風に吹かれて落ち始める」(鮑照) の詩は、 確かに美しいのは美しいが、 そこにいかなる風諭があるか分からない。 これが 私の言うただ風雪の風景を歌い、花木を楽しむだけのものだ。ここに詩経の六義は全く なくなってしまった。(至于梁陳間、率不過嘲風雪而已、……“余霞散成綺、澄江淨如練”

“離花先委露、別葉乍辭風”之什、麗則麗矣、吾不知其所諷焉。故僕所謂嘲風雪、弄花 草而已。于時六義盡去矣)」とある。これは、詩歌を審美と関係する文芸ととらえるとき、

一面的視点となる。

14 元 (779~831):本書第二篇第三章第五節元槙にて詳論。

15 存寄興:詩経や楽府がもつ社会風刺性を持つこと。

(7)

閑居する(或退公獨處、或移病閑居)」時に当たって「足るを知り和を保ち、情性を吟じ 楽しむ(知足保和、吟玩情性)」という趣旨を表明するものだと語った。彼は《孟子・盡 心》篇の言葉、「窮すれば則ち独り其の身を善くし、達(あら)わるれば、則ち兼ねて 天下を濟う」を引用し、並びに諷諭詩は「兼ねて濟う志」を、「閑適詩」は「独り善く する義」を表すものだと指摘した。中国古代の士人について、その生活の道は、大体は 出仕、隠退の二つであり、出仕して栄達するのを達とし、出仕できない或いは官途に失 意することを窮とする。従って、「兼ねて天下を濟う」兼済の志および「独り其の身を 善くす」独善の義を表す諷諭、閑適の内容は、自ずと彼らの詩の中によく出現し、しか も言論の上にも表わされることになる。白居易以前に、杜甫は詩を書くのは、心の霊妙 なるところを鍛錬し、興趣を示し、悶えを排出する作用を持っていると自ら述べ、「性 霊を陶冶するには詩を除いて何物があるだろうか。新しい詩を作り、改め終われば、自 分で節をつけて長く吟じてみる(陶冶性靈存底物、新詩改罷自長吟)」(「解悶」十二首 の七)のような発言をしたことがある。元結も「文編序」の中に「つくるところの文

(詩文を含む)は、戒むべき勸むべき、安んずるべき順うべき(所為之文、可戒可觀、

可安可順)もの」と自らのべ、公的な世界への関与と自身一人で独善をなす思想内容を 表していた。白居易に至って、ようやく明確に閑適詩の名称が提出され、また理論の面 でも明快になったにすぎない。

白居易は陶淵明の詩が非常に好きだった。彼は若いころに下 の渭村に退居したおり、

「效陶潜体詩」 十六首を書き、 その小序には 「おっくうがる心が、 ますます自分の中 に増えて行く。 ……よって陶淵明の詩を詠じると、 折良く意にかなうものだった、 か くてその詩体に效った (懶放之心、 彌覺自得。 ……因詠陶淵明詩、 適與意會、 遂效 其體)」と言っている。この後の少なからぬ詩文の中で、彼は陶淵明の人柄と詩風につ いて何度もほめている。また彼は韋應物(732-792?)の詩も好きであった。彼は陶淵 明を「文思は何とも高玄(文思和高玄)(「題潯陽楼」)と賛美し、韋應物を「詩情は亦 た清閑(詩情亦清閑)」(同上)と賛美し、また韋應物を「五言詩は高雅閑澹にして、自 ら一家の体を成す(五言詩高雅閑澹、自成一家之體)」(「與元九書」)と褒めた。白居易 の陶、韋二家の詩に対する好みと重視は、主として閑適詩を好むという角度から出発し たのであった。白居易は晩年、洛陽に閑居し、数多くの閑適詩を書き、その「序洛詩」

では彼の詩を自ら称して「治世の音は安らかにして楽しく、閑居の詩は泰にして適う

(治世之音安以樂、 閒居之詩泰以適)」 と言う。 それは当時の政治の現実 (牛李の党

(8)

16が生じてさらに激化し、宦官は権力をほしいままにしていた)を回避する消極的な 態度を表すものだった。

白居易にはさらに感傷詩がある。「與元九書」ではその詩類の内容の特徴は「外界の 事物に触発され、感情が中で動き、感じたまま触れたままに嘆き詠じたもの(事物牽於 外、情理動於 、隨感遇而形於歎詠者)」であり、「序洛詩」の中では、さらに古代以来 の詩人の篇章が十中八九「憤憂怨傷の作」であると白居易は指摘する。つまり、詩人た ちが「讒言寃罪での放逐、国境警備や旅、凍え、餒え、病気、老い、生死や別離(讒言 譴逐、征戍行旅、凍餒病老、存歿別離)」などのような不幸な巡り合わせの中にあって、

生まれたものだというのだ。これは、詩人達に憤怒、憂鬱、怨恨、感傷の気持ちを表現 する篇章の数量が極めて多いことを物語るものなのだ。「序洛詩」は、さらにこのよう な詩篇が非常に多いというところから、世間に広く伝わる「文士には数奇な運命が多く、

詩人は幸運に恵まれない者が多い(文士多數奇、詩人多命薄)」という思いを証明したも のだ。これに先立ち、杜甫にすでに「文章は人の命運が上がることを憎むかのよう(文 章憎命達)」(「天末懐李白」)の句があり、詩人薄命という思いは、唐代の社会で相当流 行っていたのが分かる。

韓愈17(767~824)はこの方面について白居易と相い通じ合う理論を明らかにしてい る。「送孟東野序」18の中で、韓愈は人々が外界の事物から触発を受け、揺れ動いて平 穏ならざる思想感情が生まれ、それゆえにさまざまな著作と文学作品が生まれるのだ、

これこそが即ち平らかならざれば鳴るということなのだと指摘する。平らかならざる感 情には悲しみも楽しみもあるけれども、孟郊の境遇へと結びつけ、悲しみ愁える側へと 立つ、いわゆる「その身を窮乏させ、飢えさせて、その心を憂愁させ、自分の不幸の音 を立てさせる(窮餓其身、思愁其心腸、而使自鳴其不幸)」というものだ。「荊潭唱和詩 序」の中では、韓愈は「およそ、和平の音調は淡薄であり、憂愁の詩歌は精妙で、歓喜 の辞句はうまく表現しにくく、困苦の言語は上手に言いやすい(和平之音淡薄、而愁思 之聲要妙、歡愉之辭難工、而窮苦之言易好)」とさらに明確に指摘する。この見方は、

16 牛李の党争:牛僧孺(780~848)と李徳裕(787~850)をそれぞれ盟主とする政治闘争。

白居易の詩文の中にはそれぞれへの詩文が残り、どちらとも交友があったことが分かる。

17 韓愈:本書第二篇第四章中唐古文作者及其先駆的文学批評第四節韓愈、にて詳論。

18 「送孟東野序」:友人の孟郊(751~814)が貞元 17 年(801)に江蘇の 陽に赴任す る折のもの。孟郊は韓愈に並ぶ詩人だったが、終生の困窮で知られる。訳文は筑摩書房 世界古典文学全集『韓愈』(清水茂訳)を参照、以下同じ。

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中国の詩歌史上の数多くの事実を概括して得られたものだった。梁の鍾嶸の《詩品》19 は漢魏から斉梁までの五言詩を品評し、一部分の優秀な作家作品が怨恨の感情をうまく 叙述することをしばしば指摘している。つまり、南朝の文論家はすでにこの情況が分かっ ており、韓愈の場合はこの認識を概括してもっと明確な理論としたのである。

(三)風格の異なる詩歌に対する重視と提唱

中唐前期の大暦、貞元年間(766~804)と後期の元和、長慶年間(806~824)は、詩 歌の創作の気風がかなり異なっており、代表的な作家の作品の風格も頗る趣きを異にす る。たとえ同じ時期であっても、流派の異なる作家には詩風にも違う好みや傾向があっ た。これらは理論批評の面の各所に反映されている。

大暦年間、銭起(710?~782?)、郎士元(?~780?)をはじめとする一群の詩人が 現れた。高仲武20(766~779)が編集した《中興間気集》は専ら大暦の時期の作品を集 めている。高仲武が最も鑑賞し重視したのは、写景、抒情に、構想が斬新で、言語が清 麗で巧妙であり、対偶が巧緻な詩篇である(大部分は五律である)。彼は銭起の詩につ いて「体格が新奇であり、理致が清らかで豊富(體格新奇、理致清贍)」と賛美し、于良 史の詩について「清雅」と賛美し、郎士元の詩について「閒雅」と賛美したように、大 体すべて清雅を強調している。「間気集序」では詩を選択する基準を挙げて「文体が風 雅であり、理致が清新である(體 風雅、理致清新)」と述べているが、重要視したのも この点だった。彼は王維の詩を最も崇拝し、銭起、郎士元がよく王維の詩風を受け継い でいると考えた。高仲武は銭、郎を以て代表とする大暦詩風の鼓吹者と言うことができ る。大暦の詩風は清雅閒婉に偏り、ただ柔弱で骨力が足りなかった。貞元年間に書かれ た皎然21の《詩式》では、この点を批判する。皎然は大暦の多くの詩人が「青い山白い 雲、春の風芳しい草(青山白雲、春風芳草)」の描写に力を入れることを指して「詩の 道がまさに喪んだ(詩道初喪)」(《詩式》「齊梁詩」の條に見える)と批判した。彼は

19 鍾嶸の『詩品』:鍾嶸(?468~518)『詩品』は中国に現存する最古の詩論の専著。漢・

魏以来の五言詩詩人を上中下に分けて論じたもの。中国文学批評通史シリーズ《魏晋南 北朝文学批評史・第二編南北朝文学批評第四章鍾嶸〈詩品〉》に詳論。

20 高仲武:事跡はよく分からないが、大暦年間前後の人。『中興間気集』は、唐代安史の 乱前後の詩を集めた詩集。評語に中唐大暦年間の創作傾向と審美感が示される。本書第 二篇第三章中唐の詩歌批評第三節にて詳論。

21 皎然:生卒年不詳。謝霊運十世の孫という。詩僧として知られる。『詩式』五巻、五つ の格に分けて詩を論じたもの。本書第二篇第三章中唐の詩歌批評第四節で詳論。

(10)

詩を評価する時、気格、格力を重視する。《詩式》では情、格の二つを強調し、五格に 分けて、詩を品評した。感情が真で、格が高いことを提唱し、気格が高古で、格力が強 大であることを求め、柔弱な大暦の詩風に対して、偏りを補い弊害を救わんとの意図が 示唆される。彼が挙げた大暦詩人の詩例は、第三、第四、第五格に分かれて見られるが、

第五格が比較的多いことは、評価が低いことを示唆するものだ。

元和、長慶の時期に輩出した詩人の中でもっとも傑出していたのは元 、白居易の一 派と韓愈、孟郊の一派である。前者は簡明で分かりやすさで勝れ、後者は奇異に凝るこ とで勝れ、また各々の理論批評上にそれが示されている。白居易の「新楽府序」では、

その「新楽府」の詩の芸術特徴を「其の辞は質実でまっすぐ(其辭質而徑)」、「其の言 は直截にして切実(其言直而切)」「其の体は素直で自在(其體順而肆)」と指摘するが、

この特徴は実際に「新楽府」に限るだけではなく、彼のたくさんの諷喩詩及び他の詩篇 にもある程度は含まれている。白居易は「和答詩十首序」の中で、彼と元 は科挙試験 の時の作品(詩、文、賦を含む)について、「共に困ったのは、内容が切実過ぎて道理 を周到に描きすぎることだった。なんとなれば道理を丁寧に描けば複雑になるし、内容 が切実すぎると激しい表現になってしまうからだ(共患其意太切而理太周、故理太周則 辭繁、意太切則言激)」と言う。道理が周到で言辞が複雑であることは、また簡明で流 暢な特徴と緊密に関連している。この流派の詩人は簡明で分かりやすい詩風を尊ぶので、

民間の歌謡を比較的重視し肯定する。元 は「杜工部墓係銘」の中で、漢代の民間歌謡

(主として楽府民歌)は、内容が「書かねばならないから書いた(有為而為)」だけでは なく、芸術的にも「詞の意は簡結で深い(詞義簡遠)」という長所を持つという。劉禹錫 と白居易二人とも「竹枝詞」、「楊柳枝」のような通俗的な歌曲を書くことを好み、劉氏 の「竹枝詞序」では民間の「竹枝詞」が「あれこれの思いをまといからまるもの(含思 婉轉)」であり、感情の曲折と感動を表現するものだと指摘した。また彼は後代の民間 歌謡は《詩経・国風》に匹敵でき、「農夫の謡、いなかの歌音と雖も、詩篇にならぶこ とができる(雖 謠俚音、可儷風什)」(「上淮南李相公啓」)と考えた。このような民間 歌謡を重視する主張はかなり貴重なものだった。

韓愈は詩歌の創作上で雄大で怪異な風格を追求しており、その理論批評の口ぶりもま た同じである。彼は李白、杜甫の詩を極めて褒め称えたが、それらは雄大であるからだ

(下に詳しい)。彼の「薦士」詩は孟郊を「その天賦の才能は、実に駿馬のようだ(受材 實雄 )」と称賛し、孟の詩を「硬い言葉を空中にわだかまらせた様であるが、練り上

(11)

げて脱稿した上は、よく落ち着いて極めて力強い(橫空盤硬語、妥貼力排 )」と褒め称 え、孟郊の詩の痩せて硬い特徴を表現した。その「貞曜先生墓誌銘」ではさらに具体的 に孟郊の詩が構想、造語などの方面でできるだけ奇異を目指す特徴を「目を見はらせ心 に食い入り、刃が自然とすきまに入り、糸がほどけるように自然で、鈎のある文章や棘 のある語句が、胃や腎臓をつかみだし、神霊のようにこしらえあげて、あちこちに現れ、

かさなりあって出ている。( 心、刃迎縷解、鉤章棘句、 擢胃腎、神施鬼設、間 見層出)」と指摘した。彼の「めずらしい内容を探り出し、文字の表現を磨き上げる(搜 奇抉怪、雕鏤文字)(「荊潭唱和詩序」)の二句はさらに珍しさを極力追求しようとうす る好尚と主張を概括するものだ。孟郊もこの点では似ている主張があり、彼と韓愈の

「城南連句」では、構想、造語を形容し「腹中に宇宙万象を作り上げ、精神は見えない 武器を操る(腸胃造萬象、 精神驅無兵)「意象壮大な句は遠くの世界まで至り、高尚な る言葉は高い天空に迫る(大句幹玄遠、高言軋霄崢)」と言う。孟郊の詩風は比較的痩せ てスケールも小さく、韓愈のような壮大さに及ばないが、しかし「めずらしい内容を探 り出し、文字の表現を磨き上げる」方面では共通のところがある。

(四)詩歌芸術の一歩進んだ探求

いかようにして詩歌に高い芸術レベルを持たせるのか、中唐の批評家は過去の基礎に 基づき、さらに踏み込んだ探求をした。この方面の言論は、大体皎然の《詩式》の中に 表現されている。

皎然は王昌齢の主張を受け継ぎ、構想や取境を非常に重視した。彼のいう取境とは、

詩人が構想する時に、頭の中で造り上げる意象や境界であり、王氏の説と同じである。

彼は苦心することを主張し、「取境の時は、必ず困難の極み、危険の極みに至る(取境 之時、須至難至險)」と考える、即ち苦心して構想し、惨憺して取り扱う、こうしてこ そやっと「奇句」を獲得できるのだ。ただし、文字として書く時には、こんどは必ずの んびりとゆったりとした気持ちをもち、自然な気持ちであるべきで、これこそ「高手」

(《詩式》「取境」の條に見える)である。深く厳しい構想と落ち着いた表現が自然に 結合すべしと考えるのは、非常に見識がある。また、彼は詩歌に含蓄があって言外の意 味をもち、味わい深いものであることを重んじてもいる。詩歌には「含蓄の情」「文外 の旨」があることや「情は言外にある」(すべて《詩式》に見える)を主張した。彼は この方面でとりわけ劉宋の謝霊運の残した幾つかの風景描写の佳句を高く評価する。こ

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れは、彼は風景に感情を読み込むことが文外の旨を表現する重要な手段だと考えていた ことを示すものだ。この見方は後世の意境説のための準備になった。その後、劉禹錫

(772~842)は「董氏武陵集紀」の中で「詩的境地は形象の外に生まれるもので、故に 一生懸命つとめてもなかなかうまくできない(境生於象外、故精而難和)」と述べる、

これは、作詩芸術の見事さは、詩的境地を作品が直接表現する物象の外に生まれさせる 所にあるという意味で、つまり言外の意、文外の旨を具えているということでもある。

中唐前期の詩人戴叔倫(732~789)は「詩家の景色、“藍田の日が暖かく、良玉の煙が 生じる”というようなものは、遠くから望むことならできるが、目の前に置くことはで きない(詩家之景、如藍田日暖、良玉生煙、可望而不可置於眉睫之前)」と言ったこと がある。司空圖(837~908)の「與極浦書」には、この数語を引用し、さらに「象外の 象、景外の景」を以てこれを解釈しており、戴説は、実に劉氏の「境は象外から生まれ る」説と類似することがわかる。王昌齢、皎然の取境は詩人の構想の方面から論じるも ので、詩人の頭脳の中で、意象や境界を摂取し、組み立てることを指している。劉禹錫 の境は、作品の形成後の芸術効果から論じており、詩歌の言外に具わる情景を指すもの だ。構想時に手に入れた詩的境地は、最終的には作品となって表現される。皎然、劉禹 錫の説は、それぞれ創作過程の違う段階の境界を別々に指すものである。

皎然には芸術表現の方面においていくつかのすばらしい見解がある。一つは人工と自 然の結合を主張したことである。先掲のように、深く厳しい構想と落ち着いた表現との 自然な結合を彼が主張するのがつまりその例である。《詩式》の「詩に六至有り」条に

「あれこれ苦しんでもその痕跡を残さない(至苦而無跡)」の語があるが、これもこの意 味である。同じ条にはまた「巧みを凝らしながら自然のまま(至麗而自然)」を提出し、

詩歌の言語は技巧的な美しさの上、また自然であることを要求した。彼は律詩で尊ぶ対 偶、声律などの言語の美しさをすべて非常に重視し、律詩が得意な沈 期、宋之問22 の評価は非常に高かった。とはいえ、声律の規制に束縛されすぎることには反対し、沈 23を批判して、「沈休文は八病をあまりにうるさく採用し、四声に気を向けすぎてい るので、風雅の趣が殆んど消えてしまった(沈休文酷裁八病、碎用四聲、故風雅殆盡)

(《詩式》「明四声」の条)と言う。なぜならば、声律の規則に束縛されすぎて詩歌自

22 沈 期、宋之問:共に初唐における律詩の確立期の詩人。

23 沈約(

441

513

):唐に先立つ南朝時代に、音律理論を作詩に導入した人物。本書シ リーズ『魏晋南北朝文学批評史』「第二篇南北朝文学批評・第二章南朝文学批評・第三節 沈約と声律論の形成」参照。

(13)

然の美しさが阻害されているためである。二つめは、復古と新変の関係をうまく処理す るよう主張したことである。彼は「作者は必ず復、変の道理を知るべきである。古に返 ることを復と曰い、停滞しないことを変と曰う。若し惟だ復であって変でなければ、類 似の風格に陥る。……そもそも変が巧みになされ、その変化の大きさにかまわないとし ても、苟しくも正しさを失はなければ、何を咎めることができようか(作者須知復、變 之道。反(返)古曰復、不滯曰變。若惟復不變、則陷於相似之格……夫變若造微、不忌太 過、苟不失正、亦何咎哉)(《詩式》「復古通変体」の条)と言う。皎然が変を更に重 視していたことがわかる。彼は「復少なく、変多し」の沈 期、宋之問について肯定が やや多かったが、「復多く変少なし」の陳子昂については評価がやや低かった。一般的 に言えば、唐代の新体詩(すなわち近代詩)は技巧美を目指すものが多く、復古を重視 する人は古体詩を書くことが多くて、質朴で自然的なものが多い。だから、復、変の関 係をうまく処理することは、実は技巧と自然の結合を要求する主張と相通じていた。皎 然は詩の芸術を論じ、特に適度の美しさを重視し、《詩式》の中の「詩に四不有り」、

「詩に二要有り」、「詩に四離有り」、「詩に六至有り」などの各条はすべてこの問題に関 わっている。以上に述べた彼の技巧的な美しさ、自然との結合、復変の関係のしっかり とした処理の主張は、すべて彼が適度を重視する思想の現れなのである。《詩式》の登 場は、唐代の人たちの詩歌芸術の美への追求が、対偶、声律などの修辞手段に偏るもの 以外にも、さらに幅を広げ詩歌の気貌風格へと重心を置く検討へと進んだのであって、

この方面では以前に比べてここに発展があるのだ。

(五)李白杜甫についての評価

李白、杜甫が唐代の二大詩人であると公認されたのは、おおよそ中唐後期のことで あった。これ以前、盛唐の任華は二篇の歌行を書いて李、杜それぞれに送り、二人の詩 作をできる限り高く評価した。これは任華がすでに李、杜が盛唐の詩人の中での際立つ 地位を認識していることを物語る。だが、これはただ個別的な現象にすぎない。中唐の 前期、皎然の《詩式》中で、李白の詩を引いたのはただ「上雲楽」一例だけであり、

「調笑格」に入れて、「非雅の作」と見なしている。杜甫の詩はただ「哀江頭」一例だけ が引かれ、第三品に置かれて、評価も高くなかった。高仲武の《中興間気集》は、肅宗、

代宗時代の詩篇ばかりを選んでおり、杜甫はこの時期に書いた作品が非常に多かったが、

まったく選ばれていない。中唐前期では、李杜の地位がまだ公認されていないのが分か

(14)

る。

元和時代に到ると、李、杜は詩壇で崇高な地位を定めた。白居易の「與元九書」には、

「詩の豪なる者、世間では李杜と称している(詩之豪者、世稱李杜)」と述べ、当時、世 間の人がすでに李、杜二人はすばらしい詩豪だと認めていたことを示している。白居易 は李、杜二人を頗る高く評価し、彼の「讀李杜詩集因題巻後」では同じ詩に同時に二人 のことを極めて称賛し、「吟詠は千古にまで伝わり、名声は遠く辺境にまで伝わる(吟詠 流千古、聲名動四夷)」と褒め称えた。彼の「與元九書」では杜甫の評価が李白よりや や高く、彼は、風雅比興のある詩の数では、杜甫が李白より多く、格律詩の「巧緻を尽 くし、完善を尽くす(盡工盡善)」方面では、杜甫が李白を超えていると考えているの である。元 は「樂府古題序」の中で、杜甫の「悲陳陶」、「兵車行」などの詩について 彼らが新樂府詩を創作する先駆けだと大いに賛美した。「杜工部墓係銘序」の中では、

彼は杜甫を称揚し、李白を下に見る観点を更にはっきりと表している。彼は杜甫の長篇 排律には、「詞気は豪邁で、風調は清深、徘律を作ればきちんと格律に合い、そこら凡 庸なものなど相手にならない(辭氣豪邁而風調清深、屬對律切而 棄凡近)」などの芸術 美があり、この方面では、李白は遥かに遠く及ばず、「尚お守護の者にもなることがで きない(尚不能 其藩翰)」と考えていた。元 、白居易二人が五十韻、百韻など五言 長律を愛し、当時の他の文人も五言長律を書く人が少なくなく、流行となっていた。元 はこの流行の視点に立ち、格律に縛られる事を好まない李白を低く見たのであって、

これは大きな偏向性を示すものであった。

韓愈は李、杜二人に対する評価が極めて高かった。「薦士」詩では、唐詩について

「李杜二人が勃興し、萬類はこの二人の筆に蹂躙されるのに辟易した(勃興得李杜、萬 類困陵暴)」と評していて、李、杜詩がはるかに他の詩人を凌駕していると考えている。

「醉留東野」詩には「むかし李白杜甫の詩を読んだ時、この二人が相従って一緒におら ぬことは、まことに遺憾であると思った(昔年因讀李白杜甫詩、長恨二人不相隨)」と 述べ、自分が詩を書く点で、李、杜を敬慕し、二人と一緒にいることができないことが 遺憾であると述べている。韓愈は李、杜への誹謗、故意に低く評価する議論に反対し、

その「調張籍」詩では「李杜の文章は今存在して、萬丈の光 を放っている。しかるに 世間の羣児の輩は愚かにもともすれば李白杜甫を誹謗するが、たとえばアリの如き小虫 が大樹を動かそうとする様なもので、自己の力量の如何を量らず、まことに笑うべきで ある(李杜文章在、光 萬丈長、不知群兒愚、那用故謗傷。 蜉撼大樹、可笑不自量)

(15)

と言う。この矛先に元 、白居易らが含まれていたのかどうか、そこまでは分からない。

「調張籍」ではまた「さて制作しようと手を動かそうとすれば、天を摩する程に巨刃が あがり、限りなき崖は画然として切り落とされ、乾坤が震動して鳴りだす(想當施手時、

磨天揚。垠崖劃崩豁、乾坤擺雷 )」と述べ、李、杜が筆を執って創作する時、筆 の勢いは限りなく、天地を揺るがすほどの情景を精一杯に形容しているが、これは韓愈 の雄大な詩風を好む主張とも通じるものだ。

晩唐時代に至っても、李、杜が並立して、尊敬される認識が続いている。杜牧、李商 隠、顧陶、皮日休、司空圖、黄滔などが、みなこの方面の言論を述べているので、ここ では余計な事は言うまい。(本編《元 》の節を参考のこと)

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