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ロ ー マ に お け る ユ ダ ヤ 人 の 動 向
序
Itディアスボラのユダヤ人
2、ローマ権力者のユダヤ人政策
‑、ローマにおけるユダヤ人社会
4'ユダヤ人の宣教活動とローマ文人のユダヤ観
序
ディアスボラ原始ク‑スト数がヘレニズム的ローマ世界に進出するにあたり、各地に早くから散在して板を張っていた国外離散シユナゴグ(Diaspo
ra)
のユダヤ人集団やその会堂を飛石伝いに伝播していった。ク‑スト教は初代教徒達の宣教活動を通して次第に自己の性格を明確にLtやがてはユダヤ教から訣別するが、その過程においては両者が末分離のまゝに、徴妙
にからみあい、交錯していた時期があったOそれは場所的に異るものがあるにせよt。‑マ市にあっては、大体仙
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年頃から5%年頃までとしてよいであらう。
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ク‑スト教の起源と成立の頃にはローマには既にディアスボラのユダヤ人の集団社会が存在していた。そこは又'
初代宣教者達の巡回伝道の終着点でもあり、やがてそれはク‑スト教の発展において最も重要な拠点たるべきところ
であった。最古の福音書がローマにおいて成立を見たことについても定説がある。このローマにおいて'ユダヤ教と
ク‑スト教が交錯した時期を中心に、そこにあったユダヤ人の動き、ローマ権力者との関係やその宣教活動'これに
対するローマ市民の反応等をユダヤ人側から見てゆきたいと考える。
ローマ市におけるユダヤ人の動向はユダヤ民族の歴史において重要なる一部をなすが、ク‑スト教の発展とも深い
ところでつながりをもっている。こ1に扱‑問題はク‑スト教的立場から見られることが多いが、これをユダヤ民族
史の一部として見てゆく点に多少とも意味があるかと思われる。しかし、小稿に盛り得るものは綜観的覚え書を出る
ものとはならないであらう。
ー'ディアスボラのユダヤ人
ユダヤ人は早くから種々の動機をもって自らその故国を捨て'地中海世界の各地やオ‑エソト諸地方に向って絶え
ず静かなる国外流出を行っていた。この様な自発的な出国とならんで'国外の権力者の侵略による強制的な果団移住Oも断続的に行われた。この様な出国の二つの方式‑自発的移住と強制的移住‑は後まで続いて見られたところであ
った。
ヘレニズム時代に入ると、この二つの方式ともに著しく進められた。地中海域の海属は互いに活麿な貿易関係に結
ばれ、内陸交通も促進された。ユダヤ人は近隣の諸瞳族と共に個人的に,或いは冨的に,小㌘へてギ‑シャやイ
メ‑了の主要都市にまで進出していった。一方、ヘレニズム諸国の盛衰の激しい動きはユダヤ人の祖国をも押し流さ
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ずにはいなかった。それは、y‑7(セレウコス朝)とエジブ・L(プ・Lレマイオス朝)の両強国間に介在し、争奪の
まと1され、交互にその支配を‑け、その際'大量のユダヤ人は奴隷として連行された。この様な宿命は彼等をして
安住の地を求めて出国するのを更に促すこと1もなった。
シ‑了の国王達がユダヤを侵略した際、その軍隊の後には奴隷商人がユダヤ人をつなぐ鉄鎖を用意してつき従うの㊥④が常であった。シ‑了がローマに支払‑べき賠償金の財源を得るためにユダヤ人狩りを行‑こともあった。この様な
ユダヤ人の大量奴隷化は、政治的野心に燃えたローマの軍閥勢力の首領達によって著しく進められることになった。
彼等が東方各地において収奪をほしいま1にした時、ユダヤ人はその被害を免れることは出来なかった。クラッスス
やポムぺィウス、反カエサル派となったカシウス等によって彼等は大量に奴隷とされ、又、虻4年から
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数年にわたって断続したユダヤの動乱はローマ軍によって鎮圧されたが、その際も多数の者が殺りくされ、免れた者は奴隷とさ
れた。
絶えざる補給を必要としたローマの奴隷制度の需要にこたえて、地中海世界各地の海港や都市の奴隷市場は常に賑
いを見せていた。それら奴隷の出自はローマ勢力の接触したあらゆる他民族に及んだが、ユダヤ人はそれらの中で最
も主要なるものであった。地中海世界の主要なる都市には殆ど例外なくユダヤ人の居住を見たことは、文献的に又は㊥考古学的に実証されている。帝政初期のイグ‑7半島について見ると'ローマ市のほか三〇を数え、シシ‑1島には
九'サルディニア島にも二を見ることが出来る。これらに居住したユダヤ人は商業的動機を主にした自由なる移住者の
ほか'かっては奴隷身分におかれ、後に解放された者やその子孫から成り、いずれも自由なるローマ市民として扱われ
ていた。ユダヤ人奴隷はこれを所有し'使役する主人にとってほ入手しやすい点では随一であったが'使いにくい点に
おいては他の種族出の奴隷に比すれば比較にならなかった.ユダヤ人奴隷はその出自において'必ずしも下腰な者とけ
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限らず、むしろその反対の場合が多かった。能力あり、ユダヤ教の教義を身につけた者達は、ローマ人には理解し難
い「見えざる神」の信仰を堅持し'独特の宗教慣習や風変りな食事法等を日常生活の中に守り、消極的抵抗にかたま
っていた。彼等に対して、ローマ人の如く生活すること1DoatRomeastheRomansd0.‑を期待することは出来
なかった。それどころか、他種族の奴隷達に対して'ユダヤ教の宣教を試みる場合さえも見られ'ユダヤ人奴隷はロー
マ貴族達の奴隷経済論においても色々問題とされたところであった。ローマの奴隷所有の主人達は屡々これをもて余
した。ユダヤ人奴隷は自らの勤労の報酬を貯えて自由を買いとるか'又は先に解放されて自由となっていた解放奴隷(‑ibertini)や'定住していたユダヤ人商人達にょって買いもどされる形式によって解放された。彼等の間には相互
扶助の同胞愛(P
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が甚だ強烈であった故に、この最後の例こそ、最も普通に見られたのではないか。広く地中海世界の各地に散在したディアスボラのユダヤ人を数的に把握するのは'もとより困難であるにしても、全然
不可能ではない。シビル神託集の中にはUFd2世紀頃の事態を伝えるとされる「ユダヤ人はあらゆる国々にみち'すべ㊥ての海にひろがる」とする記事があり'ストラポンは帝政初期の情勢を「ユダヤ人はあらゆる国々に入りこみ'この⑦種族をうけいれぬ処はなく、彼等が支配勢力をなしていない処をさがすのは困難である」と伝える。ほぼ同時代のユ㊥ダヤ入学者を代表するフィロンは「ユダヤ人は地上到る処にひろがり'その数は土着の住民に比して劣らない」とい㊥‑。ヨセフオス自身もその著書において同様の事を屡々語っている。しかし、これらの記述はまだ数的には具体性を㊥⑭欠いている。数的史料は全然ないわけではなく、フィロンはエジプト居住のユダヤ人の数を一〇〇万としているUこ
の数字は大体において信頼し得るものとしてよいであろ‑0
エジプトとならんでユダヤ人の数の多い地方としてシ‑アをあげなければならぬ。地理的に彼等の祖国に近いこと
からも‑なづかれるが'それは特にアンティオキ7、ダマスクスの両大都市に集中していたことも当然であろう。こ
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・、・一.L.]/L, tのシリアに居住したユダヤ人の数もT応エジプトの場合と同じ一〇〇万位と見てよいであろ‑。シ‑アから西に向っ
て小東に入ると'その到る処の郡市にユダヤ人の居住を見たことは'パウロの旅行をあとづけることで簡単に‑かが
ぅことが出来る.この小壷1帯に居住したユダヤ人の数に'ギ‑シャ以西と工..hプトをのぞく北77‑カ1帯にわた
る広い地域に居住したユダヤ人の数をあわせて一五〇万とする見方も妥当なところであろ‑0
同じ‑仙初期頃において、彼等の本国に居住したユダヤ人の数について見ると'ヨセフオスは毎年の過越祭の際,㊥イエルサレムに実る者の数をも三〇〇万と伝える。この祭事の際には国外のディアス∴ボラのユダヤ人まで雲集したこ
とは事実であるにしてもへこの数字はヨセフオスに常に見られる数的誇張の一例であろ‑。彼等の本国を歴史地理的
に考察して'そこに100万以上の人口を養‑のは困難だとされる。古くから見られた彼等の自由なる出国は'その
国土の狭さから発している生活条件の悪化に由来している点も大きかったのであった。そこには又へヘレニズム時代
の世界的風潮にあわせて'ローマの統治とい‑現実があり'ギリシャ人やローマ人等の非ユダヤ人の居住も相当数見
られた筈である。かくてユダヤ人の本国にはこれらの非ユダヤ人を含めて一〇〇万近い人口があったとしてよいであ
ろ‑。ハルナックは本国のユダヤ人のほか、広く地中海世界各地に散在するディアスボラのユダヤ人の総数を推計し⑲て四五〇万とい‑数を出した。この様な試みは他に類がなくへその数も穏当と考えられる故に'一応これに従うこと
にしたい。㊨
古代世界における人口を算出したベロッホによれはtM初期における。‑マ帝国内の総人。を五四〇〇万とする。
これに対するユダヤ人の数四五〇万の比率を見ると10%にみたぬ。そしてその又20%程度が本国には居住したことに
なり'本国居住と国外居住の差があまりにも大き過ぎることがわかる。彼等の増殖率の極めて大きいことについては
種々伝えられているが'これを以て国外居住者の過大さを説明することは出来ない。これは後にふれる如‑、地中海
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