地 理 学 評 論 滋
‑9 513‑529 198117
世紀の城下町拙台における待の居住パターン
後 藤 雄 ニ *
近世城下町における持の君住パターンの性絡を,域下の拡大がみられた
17畿記の組合を例として,議奇襲爵 に分許した,その結果. (1)案文期 i こおける仙台域下の待の患桟パターンは,静態的にみれば,城を中心と する半持品問状おパターンをと夫氏すが,各地区の拡大の時議およが湾岸段 1 乏による暗藤的住み分けもみられる,
(2)
城下の拡大ぬ霊室数の増加を露関として,曹により計閥的・不連続的に行なわれたので,鉱大の霊能 には,特に小身侍において,かなり艶敷数が不足していた.
(3)城下建設時に,持の謄往パターンと待墨敷 の粧譲はー致していたと恩われるが,その後,侍の藍聾・間援の善重告が行なわれ,待の題住パタ…ンは変化 した.
(4)城下絵醤の比較により,城下の拡大期と非拡大鰐とが区京されるが,時期による移動率・移動パ ターンに麓興がみられた,
(5)城に近い
111内地誌は,役聴の上昇に捧い,譲高むよ昇または不変のままで較 入し,無投となり転出する堤富であり,城下全体の語住パターンに影響を与える秘心地区の役割を有するこ
と,などが靖らかとなった.
I
は じ め に
日本の都市発連史上,近繋争混要は劃期的な一時期 であった.それは戦時期を経て様関詑が進行し,
それにふさわしい統合の恥心として,中世末の竣下 町の規模が拡大され,あるいは新たに多くの城下町 が建設されたからで為る.近世城下町は,額墨にお ける政治・経潰・軍事の中心鳴
3市として重要な故畿 を占めており,城下寄内部においては,都市離島こ 応じて,持麗敷,都足軽屋敷,欝鞍人屋敷,町盤,
寺社などが,域を一つの中心として配置されていた 近設城下露了の研究は,点と蕗というニつの視船こ 大別されよう.欝者は,領内における城下町の鉱韓 づけ,および 城下町間の比較を行なうもので,先守
城下町という術穏を爵患としながら,待麗敷地誌蹄 究の不足が,城下町研究の漂化に鱒害となっている ことを主張した.待避敷地区の研究は,議史地理学 者により多く行なわれている.域の近くに大身,外 援に小身持という配量については誇替に概説され,
矢守(1
954)により桧託されている.また矢守(1
963)は河岸段£など雛地形との関孫についても論述し ている. しかし,より難審な分析を行なうためには,
変北過程または動態的な観点が£要であろう.
松本
(1957)は江戸の現騨大火後の梅主家屋敷の離 心的移動を述べている.また,持議敷地域について,
謀部
(1966)は第一掬弘第二次的,第三次的と分け,
身分的署長序を指摘した島と,侍謹敷地域の後期的変 容として, (1)中心的侍昼敷地域における公海屋敷,
(1958a)
,西村
(1980)の研究がこれに含まれる.後者
a・欝題盤敷の増加,
(2)侍翠敷地域の外縁部における は,域下吋の各土地帯
j用 に 関 す る も の で あ る . こ れ 拡 大 と 中 心 議 場 に お け る 細 分 化 額
i九 (3)土庶居住 については,すでに小野
(1928)以来多くの研究があ
る.土地利用柑志の関連については,城下
mrの発展 類型に関する矢守(1
958b)の研究がある.しかし,こ れを一層発嵐させるためには,多くの解決されなけ ればならない問題点がある.
それでは,域下黙の地理学的研究において貢献で きる部分は向かということになる.小林
(1957)は , 事 東 北 大 学 ・ 暁
認分割の解体傾向を述べている.三好(1
970)も,侍 の新規詔強・分家という家康閉め増加が,城下町の 都市拡張・再揺或を生じさせることを指捕している.
陪本(1
968)は,服部および三野と開
bく穂島を対象 としながらも,ユニークな変化過穏を考察している.
徳島咳下がいくつかの動から或立していることによ
ると思われるが,
r普通域近くに上最武家農敷,そ
の外舗に下鰻武家麗敷と密単にきめてかかるのは
一一一日ラ
I3‑一一一
納得いかないJとし,はじめ空地へ分家され,のち に禄高に見合う地区へ移るという過程,および躍事 的に弱体な地域を穣強すると
L
、う政策的意璽につい て説明している.以上のように,城下町の侍屋敷地誌の変化に関す る硬究はみるが,史料の制約などにより十分で島る とは
L
、えない.持屋敷地誌をより詳細に分折するた め,本稿では城下町において個々の額玄関連を問題 とする持の岩住パターンの性格と持議敷の配置につ いて,待の居住移動性という携点を加えて動態的に 考察することを目的とした.ここで,侍の麗注パタ ーンとは,侍の隷高・役職・家格等による岩住分布 を表わし,持議敷の書記賓とは区別して罷用する.そ己
E Z
図 覇 悶 川
明守山予
れは,侍屋敷の詑鐘は変化が遅いのに対して,侍の 居住分者は変生しやすいとし、う桓違立があるからで、
ある.
対象としたのは, 17註記の城下町仙台である.位 台については,後藤(1977)が,城下絵関を比較して,
城下の拡大に倖う侍の臆敷移動,童数の細分・合併 を通じて行なわれた城下の蒋謡或を論
b
た. しかし ながら,この研究では,拡大期の非拡大期に対する 位置づけの分軒に欠けており,また中規撲以上の都 市においては,地誌別の分析が必要であるにもかかわ
採舟できなかったうらみがあった域下町イ出台の特徴は次のとおりである.
( 1 )
還を長
5(1 600) 生存~::,伊達政宗により青葉山にf岳会域築
"/' . , ゃ 十.
q
々 々
'IIftj亀 私"'"1(1/;咋'1111111
む
第 l悶
寛文芸書の土地利用1.
域・藩施設
2.持票敷
3.御民総護教
4.卒童数
5.御職人墨敷
6.町議
7.寺 主 主
8.丘陵との境界.
侍盤敷設:食
2.520軒 {後藤(1
977)により{宇治.
一一‑
514… 一 一
,
「同.
に大きな変化はない.第
1図と第
2図は,それぞれ 城が開始されたが,仙台城下はこれと併行して進め
寛文図と元禄図により作成した土地利用図であり,
られた計画的建設都市であり,
17世紀に断続的な拡
現代図におとして図上のゆがみを修正し,両者の縮 大がみられた.
17世紀末の人口は約
6万人と推定さ
尺を統一している.各土地利用の配置については,
れている(仙台市,
1954,
p. 207). (2)仙台は,近
後藤
(1977)でも述べているので,重複を避けるため 世を通
bて地方知行制が維持されていた俵高
62万石
の伊達氏の城下町である. 本稿では省略する.
史料は,仙台の城下絵図が中心であるが, この吟
寛文期における侍の居住パターン I I
味については,後藤
(1980)の別稿がある.使用した
城下絵図には,侍屋敷の居住者名を記入したもの 城下絵図は,寛文
4(1664)年図,寛文
9・
10(1669・
この種類に属する仙台における最古の城 がある
2)iO)
年図,延宝
8(1680)年図,元禄
5(1692)年図で
下絵図は寛文
4年図であるが,寛文9
・10年図につ ある1)寛文9
・10年図と延宝 8年図を比較すると,
そ いては寛文
10年の侍帳
3)との対比が可能である.
城下の拡大が推定される.寛文
4年図と寛文
9・10この図について静態的に侍の居住パターンを
4
年図,延宝
8年図と元禄
5年図の聞では,土地利用 こで,
図 瞳 回 川
E
'
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.." . . .
. 正 主
"'; ,‑,‑" 川 川 、v
, , z
, , ι .,,‑ 司ド
, ワ'句, , 園
a
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日 凹 凹
Z
む
、υ第
2図
元禄5年の土地利用 1.城・藩施設
2.侍屋敷 3.組土屋敷
4.御足軽屋敷
5.卒屋敷 町 屋
8.寺 社
9.丘 陵 と の 境 界
侍屋敷数:約
3,
2卯 軒.
(斎藤報思会所蔵「仙台城下五益卦絵図
J(元禄
5年図)により作成.ただし,緑土屋敷については,宮娘県図書 館所蔵「天和 2年図」により描き加えた.延宝 8年園と比較して大規模な変化はない) .
6.
御聴人屋敷二7
.一 ー ド ラ 一 一 一
....‑ーー
,
分析し次に元禄初期までの変化を動態的に分析す
る.
イ出合藩の寵臣は,土分の者と卒以下の者の二つに 大別される.卒以下は,城下絵図上では足騒,小 人,餌刺,鞍人などと記されており,域下において は集出居住している.‑ljt.士以上(門閥と平土〉と組士 とが士分にあたる.域下絵罰にみられるの泣この程 士以上の居注者名である.本犠で,待の麗住パター ンという場合の「侍Jとは,組士i誌上の者である.
鴛文10全容の倖離によれは乎士以上は2,616名で,
このうち地方知行の者が1,703名,窃米扶持方のみ の者が913名である.また,組二とは,徳小姓綾・不 新組・絵主組・名懸組・鷹匠組などで, 1,050名と なっている(宮城県, 1966).
城下の侍の居生パターンを地誌別に分粧するまえ に,家屋容度国を作或した.家量密喪は,鹿住パタ
家屋密度(軒
j(100m) 勺
瞳覇竹内
田]
7陶10目 下 屋 敷
長ヨ 3‑6…ンと一致すると法践らないが,持屋敷地監の長三分 のための搭擦のーっとして使用した,認さのほぼ等 しい待麗敷は,ある軽度まとまって存在する.そこ で,寛文9・10都留により,独立して容在する下震 敷と大患敷を除いて20.‑30軒を単位として,家屋密 護国(第3図)を作成した次に,第3関と各地誌の 拡大の時期4)をもとにして,城下を20の埼区に誌分
した(第4図上
次に,城下絵図の麗在者名と侍械を用いて,局者
で姓名の一致する者のみについて,地区~Jjに階事別
の侍数を調査した結果を第l表に整理した.寛文9・ 10年間には,持盤敷が約2,520軒記されているが,そのなかには居住者名丹記載のない墜敷(窓墨敷λ
判読できない塵敷があり,その分だけ表中の rrJ
の軒数が少ない.第工表では,平士以上を地方知行 と切米扶持方のみに分け,組士と共に記載した.表
o ‑2 o 1km
む
第
3罰
鷺文期の家屋密度密一一‑
516一 一 ←
地区別・階麗別侍数(寛文10
年) 第
l表
19
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2 3 1 2 9 8 8 6 9 2 4 5 3 5 6 3 2 0 0 2 0 2 0 7 1 8 2 5 4 3 2 2 4 8 4 2 1 3 2 0 1 4 2 1 1 1
刷
2 2 2 2 2 3 1 2 3 4 5 8 7 8 9 0 1 2 3 4 5
句i a
句4 1 A
句i h
吋i命匂ム
中の iVIJは,城下絵閣と侍帳で姓名が一致した平 土・組士の地区別総数を,げ」の空屋敷・姓名不 明の墨散を除く軒数で験した値である.組土は,地 方知行をうげる一部のみマあるため, r
百
Jの値は,議士の震設分容に民比挺すると考えられる.
i 羽 J
のf
甚は埼方知行に対する場米扶持方のみの審の比 率私全体で地方知行と鵠米訣持方のみの者が関数 している.100%以上の となるよう地区は,切米扶持方のみの者が多く窟住しているこ とを諜わす.
平士以上では,地方知行の者が約
3
分の2
程度を 占めているが,その捧高構成の地区別性格は撃事で みる.それは,地方知行の侍の暗麗差が切米投持方52
1 :空壁と姓名が軒読できない璽敷を験く軒数 庇:地 方知行の平土
m:切米扶持方のみの
ljt土lV:地方知 行の組土
V:互十車+lV ' ¥ 在 :
V/I V宣:(理/誼)
X
(773/326)1.219 120
326 773 346
計
よワも大きいからである.そこで,域下絵図の臆住者名と侍較で数名が一致する埠方強行の乎土以上の 者のみについて,議議により 6譜暑にIJ{分しく第 2
5I7
一 一 一
数)の線に並ぶことになるので,それからの信号に
地 方 知 行 平 士 以 上 の 襟 高 構 成
(寛文
10年) 第
2表
より各地区の特撮が判断しやすいと考えた.寛文期 の侍農敷地留の範詣である1‑15の地底について,
構成比 数
高〈貫文) 人 禄
六つのタイプに分類し,第5鴎に治し;丸
以上の検討結果から,城下建設時の屠住パターン と饗文期までの変色を推定することが,ある程度可 4.1%
6
棒2
16.5 16.4 139 42.9 70人
105 281怨
0 237 730QUQUQu
・
4 Q d
9 4 2 1 100
50 30 15 10
能である.城下建設時から確実に存在していた地区 は, 1. 2, 3, 4, 5, 6, 7, 85), 9, 10, 11であり, 12の一部,
3の片平了6)は, 13地認がやや不確実な地じ主である.
大身待のみの居住庄であり,また門閥壊の蔚住認で lのHI内地誌は,大身・中身の諸住民であ
る.2,4地底は,大身・中身の居生区であるが,小 身侍7)も合まれている*中身侍は 8,9, 10地区に謂 在しており,切米扶持方の平士・組士は少ない.こ
も為る.
るが,西部には切米扶持方の平土の居住涯が害者す
れらのうち, 8, 9地底法大身侍がやや多い, 6,7地底
s地留では切米 は,中身。小身の居生区であるが,
扶持方の平土が多い.これは,域との距離が影響し
%
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引 い 山 、 、
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100 50 30 15 10
嶋 ‑99‑
1 . 9 ‑ 泊 側
14 ‑9棒高(貫文)
ていると思われる.11地区民下生段丘上にある麓 師組士の居住誌である.
A
7J 2 5
て〆 6. .
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20
1 ヘ %
、J
〉 父 ご
40
20
このように,城下建設時に は,片平了に大身, JIJ内およびその罵辺に大身e中
o
G
また 南部の下位段£上には組士が築住するという,域を 身,東部iこ中身,北部には中身・小身の待が,
中心とした階重別の「生み分け」が計廊的に行なわ れていたと推定される,
15 1f .:/j
ム メ
W/40
20 40
20
5地誌の縄水小路事〉は,寅永期の拐めに大身侍の 題住区として新設された.沼地区の北部は,名懸組
第
5密 案 文 期 の 地 区 間 禄 高 講 成
地方知行の平士以上のみ,
1繋文エロ
10右.
G O
土の居生誌であり,域下建設時から脊在していたと 思われるが,その他は,足軽盤敷が正保 貰文期の 表),堆豆別に窟住者の帯腸揮成を考察した.地区
関に昼敷曹jをみまり変北~せずに,小身侍の窟住区
ごとに各賠罵の講成比を計算すると,全体では名賠に変化したと按定される.13地誌は,城下建設当初 壌の侍数が同数ではないという影響が現われて,そ
からの脊在が不明であるが,ここも小身侍の屠住居 のままグラフを描くと地誌の特徴が控掻しにくい.
である.14地誌は,寛永末に新設された侍震敷地区 各構麗むついて全体の侍数を,地区ごとの持数で除
である.正保の城下絵弱めによれば,東部に組土の したイ震を黒いて,地区ごとの講成比を計算しなおす
岩住区があり,.lJZ士で詰切米投持方も多く,小身の 平士と短士の居住区と考えられるが,地方知行の平
一一‑ ~518 一一一
という修正を行なうと,ある地区の講成比が全体の構成比と関bであれば, 16.7% (口 100/6,6は譜麗の
土の構成をみると,山内地区と類似した傾向を示し ており,大井待から小身お乎土・組土までの護症の 状態にある 承Jo顛頃の拡大地域で為る15地誌は,
組士・切米扶持方の平土の題生長主であるが,大身待 も居住している.この大身侍の麗敷は,宮町といわ れる門前町周辺に集中している.14, 15地底の違い は, 14地院がより譲住の傾向にあり, 15地広は圧倒 的に小身待が多いという点にある.
次';:,窓生パターンと持墨敷め護送諜との関{茶を改
した.持の禄蓄と持度数め~ð については,
矢守(1970)が藷域下mrの対比を行ない, 11出合などを 侍濃敷が様高に比べて広いグループに属するという 分析を行なっている.また,中林(1977)は,鳥取藩 の城下町について,侍屋敷の広さの比較を行なって いる雀
f
出合については,寛文5年(1665)の ril出台惣 護敷定j
(信金託 1953,pp.403‑‑406)に,禄高に対 する援敷の認さが定められている〈第3表L
そこで,質 文 ト10年匿と侍i援で姓名の一致する地方知行の 平士以上のみについて,実醸の鰭敷の広さを絵国の 縮尺から述算し,これと屋敷定による各様高の屋敷 の認さ(1簡を6尺とみなした)との備殺の地区別傾 向を求めた.五の彊差とは,ある捺寓の侍が星敷定 で決められた護敷よりも窓い農敷に怒注しているこ とを示す.城下絵図にはゆがみがあるので,地区の ゆがみの程度を計測し〈後藤, 1980),穆正に利用し た.しかし屋敷定に対する広狭は,階謹の異なる 侍の臆敷の広さ以上のもののみはついて図示した.
すなわち, 30‑‑49貫文の侍でみれば,その屋敷の広 さが, 30罵x30額以上を豆の穏楚, 17関x30間以下 を負お種差とみなした.r1l出会想議敷定
i
では禄高 の分繋が縮かく,理IJ定の際誌はそれに従ったが,菌 汚ミするときにはそれを四つにまとめて表現した(第6図).
第6留をみると,葡患が正と魚で,ある程度まと まっている地豆がある.五の鱒麓は数カ所に現われ ている HI内地豆および2,4地 昆 7地震西部に
一一
‑ 5I9第
3a長
屋敷定による椴商別屋敷閣議
様 1 高{貫文) 壁敷の広
d80
, . . . .
100 40鵠
x30艶
50
, . . . .
79 30x30摺
30, . . . .
49 25x30鵠
15
, . . . .
29 17x30翻
10
, . . . .
14 14x30関
9 12x30
問
ついては,城下建設時に大きな農敷が難てられ,そ こへ欝識が比較的蚤くとも役職上,域近くに霊敷を 拝領したことによると考えるのが祭患であろう.域 下帯東部の5地s(潜水小路), 12地広北部, 10地区 南部の一帯には,以前湿地10)があり,小農敷を欝
j
ち つけることが困難だったことが一つの理由と考えら れる.また 9地区北部にも集中しているが,これ については解釈できない.負の舗越は, 6, 7地sに している.ここは,域下建設特に法外縁で あり,中身待以下の者が愚生していたが,その後,城下が拡大され,域に近いことから様高じ比べて狭 い臆敷に居住している侍が多いことをと示しているの であろう.このように,屋敷定に対する広狭の偏差 分布は,城下の待の居生ノ
f
タ…ンをと噂解する重要な 乎がかちになると思われる.以上をまとめると,城下建設時誌は計額約に,域 周辺に大身侍,外語iこは小身待という配置がなされ,
侍膿敷の配置と侍の居住パターンとは完全に一致し ていたと推定される.その後,寛永米の拡大期には 大身・小身侍の居住区が,また承応頃には小身侍地 区の中拡大身持の畳敷が,それぞれの時期に付加的 に新設され, I詰城下議ならがむ拡大地域では,侍屋 敷の配麓に大きな変北が生じなかったと議定できる.
日
I城下拡大{こついてC一考察城下町の規模と藩の石商との関係については,矢 中(1958a),西村(1980)により吟味されている.ま た,城下の拡大については,志野(1970)の論述があ
A
む
第
6関 侍屋敷の広d
の盤数定に対する爾差自ヌキ:]Eの偏護,蒸ヌキ:負の舗道.
り,後藤(1977)も…部述べているがここでは仙台藩 の性格者と考麗しながら再吟味する.
城下主主大の要盟の一つは,藩の3超高の滑加であち,
これは新田開発によるもので為る.イ出会藩の貞事Jt (1684)年調査の実高は,奥州分〈近江・下訟・常陸 に飛地)の俵揮が60万在であるのに対し, 93万石余 であった(宮城県, 1966, p. 492).この実高の増加 は,必ずしも直臨の増加には結びつかない.新田開 発は,務営および家庭によるものに分けられ,藩営 による器発高は,震轄地への編入と直冨の加増・新 摂召抱とにあてられ,新規召抱が直隠の増加につな がる.家臨による開発は,陪臣の増加もあろうが,
臨亘の増加に関するものとしては分探12)があげられ
る.
次に,護軍数と待屋敷数との関捺であるが,これ
らも霊接には結ぴつかない.その大き北京閣は,域 下における待屋敷の新設は,藩の政策によって計画 的・不漣続的に行なわれたからである.記録帝の設 置により,毎日の記録が王確となった廷宝4(1676) 年から廷宝の城下絵罰が製作された8年までの平 土・組土の増加数は, r伊達治家記隷Jによれば 115名で小身侍が多い.案文11‑延宝3年聞の増加 数はこれより少ないと息われるが,これを間数とみ えzせば,寛文11‑廷宝8年間(絵留の比較により域 下が拡大した時期とみなせる)には
230
家ほどが増加 したことになる.これは,この間の760軒に及ぶ塁 数増の釣3分のlにすぎず,残りの約3う?の2は, それ以前から召抱えられていた侍のために薪殺され たと思われる.第4
表は,姓名がー数する者のみに より,王子土以上の麓数拝領率を,寛文9・10年図と一一‑
520一 一 一
持慶敷数増加一→域下拡大
( 詑戸に常住 一 { 鍋 の 充 填 屋離の細分
仙台 i こ綾地 ( 輔 の 制 覇 発 : 糊 苔 抱
家臣の新田開発:分家
藩 の 矧 増 加 了 直 監 数 増 加 了 {離の新沼開発:鶴地への編入
家認の新間関発:情監の増加 5 4
3 S
重喜ヨ
3 2
蓮華星量醤軍事
J域下拡大のプロセス 第 7 関
江戸,鎖地のうち
l
ヵ所に,それぞれ農敷をと拝観し ていたと考えられている討議台市, 1954, pp.347‑‑‑ 348). これも藍毘数と盤敷数の不一致の際間の一つと,息われる.
以上をまとめると,域下の拡大は新聞際発に枠う 臨医数の増加,それによる待麗敷の必要により生ず ると考えられるが,盛車数の増加は遮擬には城下の 拡大を生ちさせなかった,域下の拡大は務の政策 により計画的・不連続的に行なわれたことから,域
禄高(質文) 拝領率
100 ‑‑‑ 94%
50
, . . . ,
99 75 00, . . . ,
49 59 15, . . . ,
29 49 10. . , , .
14 38 5, . . . ,
9 384 26
地 方 知 行 全 体
45切 米 扶 持 方
35禄高}j j l 選数拝 領事〈寛文
10生 存 〉 第 4表
下で iまその直前において,屋敷不足がかなり深~Jで
あったと思われる.それは特に,小身侍において霊寛文
9・
10年鴎と寛文
10年待
!援で姓名の一致する侍のみに
よる.
要であり,これが城下における侍震敷の新たな建設内容に影響を与えたと考えられる.
質文10年侍帳とをど比較して計算した結果をまとゐた ものである.これは,城下絵嬰と侍1憾で控名が一致
侍の居強パターンの変化 IV
する侍のみなので実数でiまないが,階量別の鎮向は
域下における待の鹿住パターンとその変化を検討 把躍できると考えた 小身侍培ど拝領選容は誠少する
する場合,侍の移譲毒性という抵或が必要である.r震
4
質文以下では26誌と切米投持方の平士よりもカ 三
敷磐jという語は,城下町内部のみの移動を搭すと 母いイ躍を示している.これは,留米扶持方の侍が蟹
よりJ1;.い概念としての侍の岩住移動 思われるので,
地をもたず,組合のみに屠住しているためであろう.
とはLK別して黒いる*侍の居住宅多載について述べる 直匝数は継続的に増加したにもかかわらず,仙台場
まえに誠下町における侍の麓住の意味をまとめて 下に侍巌敷が新設されなかったので,特に小身侍に
おく.侍の第
1
の仕事は域での警告番であり2 役識に おいて麗敷が不足していたといえるでるろう.就いた侍も城内外の役所において仕事を行なってい 重臣数と待譲敷数とが一致しない理出はiまかにも
た.侍の臆妻立は滞から捧領する形態であり,選択の 埼えられる.仙台蕃の侍の居住形態としては,次の
自由はかなり制約されていた.
侍の居住移動にはいくつかの理告があると考えら (2)地方知行の侍は指分の
在領地に君住する, (3)江戸藩邸内に建設する, (心 強会城下で替地する,の四つがある.侍の護世につ
∞仙台域下に岩住する,
れるが,識者は以下の3点に整理した. (1)様高の
増減はよる移動禄寓の増減によ哲,それに~じた
いて欝麗別にまとめると,大身侍は鵠札領土生,江(2)
役 職 的 変
広さの屋敷へ壁敷替が行なわれる…一ーラ2.
1一一 戸( J )
3ヵ所,中身持は組合と領地,小身侍は仙台,北山による移動;.俸高が不変でも役識の変先により 移動することが考えられる.(3)城下内外の移動;
窓郷(額地)に揖注していた侍抗域下居住の必要か ら麗敷を拝観する場合泌,また,江戸藩邸での職に 就いて移題する場合14)がこれにあたる.一較的に,
大身侍は小身持に比べて移畿性は低いと思われる,
これらの移動が居住パターンを変化させるかどう かという観点から見車す必要がある.第8図は,
f
研遼世軍家譜J ~こより作成した,域下建設後に召
抱えられた侍の寛文期における農敷分布である15)家臣は一時期に召抱えられたのではなく,また,改 易・加増などにより家窓数と禄高講或は絶えず変イと している.新規召抱と君住分布との関係を見るため に存成した第8閣によると,小身侍の罵住地と大身 の岩住地である片平了を除くと,)11内地区をも含め て城下建設後に召抱えられた持の巌敷分布は沼ぽ均
等で島る.これにより,侍の鹿住移動も滋しく2 持 の居住パターンに変記を生与させたと考えられる.
この点を詳縮に検話するため,域下絵関を比較し て,寛文4 ‑寛文9・10年層間をはド拡大I期
J
,寛 文9・10‑延室8年盟関をf
拡大期J16),廷宝8 ‑党 禄5年歯聞を「非拡大II期Jと区分し,分析した.第5表は各時期の移動率を表わしたものである.は 七めに,各時期について城下全域の移動率を計算し た.臆生者の移動率とは,ある麗敷に着目し,居患 者の苦学が変記している場合に移動したとみなし 地誌または域下全域の盤敷数に対する居生者が移動
した麗敷数の比率で表わした舗である.移動率は 悶ド主主大I期Jが他の
2
時期に比べて低く, また,f
極大類」とf
非拡大立期」とがほほ等しし、僚を示 している.r非拡大I期Jは,期間が短く,舶の持 期と比較するため2倍しでも, 13.4誌とやはり低い.'
へ
¥む
第
s陸
1601‑58年開に召抱えられた侍の寛文期における農敷分布(l
伊違法医家譜』により作成).
一一‑:;2.2.一一一
第
5衰
全域下における時期知の麗住者移動車
時 期 i 移動率
非拡大
Z期
(1侃
4‑69・70)〔寛文4
.....寛文9 ・
10年額間〕
6.7話 拡大期(1
669・70‑30)〔質文9
・10.....廷宝
8生存関閑〕
26.8非革大豆類
(1680‑92)〔 廷 さ ま 8 . . . . .冗禄 5年題詩} 2 4 .9
ここでは, r拡大類
J
と「非拡大II期jとがほぼ問t f l
躍であることが問題となろう.1 )
地底知j
移動率城下の各地区ごとに詳しく鯛資するため,葉文4 光禄5年露関の地区別移動率を顕示した(第9関).
地区数は,より詳細に検討するため,家屋密度留と 拡大の時期により 135の地底に分けた.盟中で低率
寵童75‑
待合(%)
50~ 74 25‑49 0‑24を示す
d
民主組二との居住地である.高率を邪すのはJII 内培豆であり,すべて50%弘上である.家護寵愛お よび操高構成主主ら推定される大身持を含む居生区としては痛い穫を示している.また,大身侍の築住地 底である庁平丁の南部でも高い笹を示している.50
‑74弘の高い慨は,域下外縁の小身侍の勝投誌でも みられる.
約30年額について,大まかな場拡別移動率を恭し たが,これには
f
非拡大Z期J,r拡大期J,r非拡大E期」の現象が重ねられている.そこで次に,第9 閣と開様の謂を杏時期について作成し,それらの特 撮を検討したa すなわち,
r~F拡大 I 期」では,移
動率は小身侍の農産認で高い.r拡大嬬Jでも閉じ 傾向である.弓手拡大II期J
において移動率が50%以上の地誌は,城下北東部の主主大地域,
r
日城下域外G 1
主m第 9臨 寛文 4~ 苅禄 5 年臨鰐の地区別移動車修
雪
この中身 での移譲きが多く,移動距離は比較的長い.
縁の一部ι111内地昆片平了南部などである 大
持の役鞍・禄高等の変死による移動は,屋敷を
lヵ
所にしか持たず,城下町内外の事動をも含めて移動 身侍地図は,一般に移動率が低いと考えられるが,r非甚大E類
j
では高率である じめように,問様に高い移動率をど示す「拡大期Jと「非拡大日期
j
で 性の高い小身侍の居住移動と島わせて, r非拡大 I期Jにおける定常的なものでSうると思われる.
この点につい は,地思別移動率に麓異がみられた.
「拡大期Jについては,後藤(1977)が紬台城下に おける侍の居住移動と持議敷の配畿について述べて いるが,以下これを要約する.;J、身侍と大身侍の屋 ては,以下に述べる地区顕著多動を検討する必要があ
る.
敷が,嬬設時の城下域に付加的に新設された地誌で は,大震敷が細分され,域近くでは小展敷が合併さ 地区間移動
侍の屠住移動は,域下内での移動と城下内外での 客動に大別される.後者は,小身持において顕著で
れて,大身待は求t乙、的移動を,また小身持は城下の あると議定され,各時期に共通してみられる定営的
新たな拡大地域などへ離,乙哨な移動を行ない,新た な現象である.地区間移動率の時期による惹異は,
に屋敷を拝領した小身侍と共に小身侍の建設匿を拡 誠下内の移動が京国と考えられる.そこで,前後2
大した.その結果,域調沼に大身侍,外縁には小身 枚の絵閣で姓名の一致する侍のみについて,城下内
待という再配置がみられ,待の居住パターンは大き く変化した.
の窟住移動(屋敷替)を考察した.精確な論証はでき ないが,全体の鎖向は把撞できると患われる.
f
非拡大I期j
に移動したお伊j
について,様商と 「非拡大草期」の培定問移動を諜べるため,延宝 8年国と元禄5年図で姓名の一致する侍のみについ 為わせて検討すると,中身侍が盤敷を交換する形式f 非 拡 大 豆 期
J(})地区間移動 新 監 生 地
第
6表
0 2 4 4 3 0 5 7 8 6 9 0 5 8 3 4 6 1 5 0
ワ 耐 市 ム 守 ム 匂 よ
2
制
ワ
つ l ヲ
2 2
1 2 1
3
( 1 )
(4)
1 l 2 ( 2 )
( 8 ) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9
幻
ーム管ム1企 句 ム ー ム 噌 ム 噌 ょ を ム
1命1鳴門︐ゐ
2
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3内〆嗣噌E
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・d2 l 1 1
2 2
141
( )内は,間一地区内の移動 地話番号は第4 鴎をと参鰯.
一ーラ
24町 一 一
O 2
12 8 14 13 8 11 4 97
6 9 15 41
15
針
「
て,第5諜告と作成した. これによれば,域罵認と外 議関棺互の移動がない点を鎗けは城下でランダム に地区間の移動がみられる. また,このま受からは川 内地区(1地区〉を含めて,関一地底内の移動が顕著 でみり,毒事動車惑と高めていることが推定される.
以上のように, :r非拡大1期
j
の移動は定常的な ものであると考えられるのに対し,間t.非拡大期で もはド拡大豆類J
は特異な性格を宥し,また.:r主主 大類jとも異なる特徴がある.その理由のーっとしては,廷宝 3 生存以後,第 4 抗議~鋼材の親政が行な
われ,それに捧い行政機精が整議され,一騎役職等 の変化が生t..特にJJf内地広などで屋敷替が行なわ れたと想定される.これは,域下の商糠が増大し,械からの距撃がより議要な意味をもつことになった ことで促進されたのであろう.
3) 川内地区における持の溜住移動
仙台城下は,広瀬JI[により2分されているが,そ のお岸は笛を丘践にはさまれた工場慌を形成してい る.このm内地認は,丘陵の東端に域下建設時の政 庁・藩主の居館である詰台域本丸が置かれ,寛永16
(1639)年にニの丸が建設され,設庁,帯主勝鰭の楼 能が移された袋も,城下の中心議誌を形成してい た17).
JH内地区について,これまでの考察をまとめると 次のようになる.寛文擦の諮住者法,大身・中身で あるが,明米扶持方の平士が陸識の麗敷に掛住
1
8)し ている.様高に比して広い屋敷が与えられており,これは大身でないにもかかわらず,役醸の欝祭よ,
域近くに震設する侍がいたことを推測させる.また,
麗住者の移動がかなち激しいが,それは「拡大期」
におけるよりも「非拡大賞期Jにおいて高準である.
役犠とJII内地区居住者との関保を検討するため,
f
伊達笹臣家譜Jにより,転入・転出時の役職を鎖 査した.転入時の役鞍は,奉行(龍蓬の家老にあた るい若者などの重識と武器・小姓頭などの側近 とに大別される.いずれも,蓬主と役職よ,緊密な一 一 ‑
2'ラ
連結が悲嘆であったためと考えられる.捌村の時代 には側近政治が宥なわれ(宮城県, 1966),その重要 性は増大したと思われる.転出時には無投であるこ とが最も多く,これに次そのは江戸などでの智諮で ある.また,医師・儒者は,護主の代替りにより転 出することがある.
)11内地区への転出・転入と禄高の変化との欝保を みると,転入時には役識が上昇し加増されること があり,事送出時には禄高不変のままであることが大 部分なので,][1内地誌は,鹿住者の転出により,城 下において高禄の侍の躍住地を広げる役割をもっ地 区といえる.
片平了は,大身のみの居住区で為り,家格の商い 門間層の服役誌でもある.仙台藩では,門閥のなか で最も家格が高い「一向j といわれる侍は,役鞍に 就くことはなかった.これに対し,域に近いm内埠
区は役聴の高い持が多く居生していた.このことか ら,仙台城下においては,地形条件にもよると思わ れるが,様高・家格による窓生パターシと,役議に よる謄詮パターンとは…致せず,少なくとも域の爵 辺では,高者の分布の核心地場は分畿していたとい えるのではなかろうか.
V ま と め
城下の拡大がみられた17世紀の儲舎はおける侍の 題住パターシを検討し季以下の結論を樽た.
1. 寛文期における侍の窓生パターンは,静鰭的 にみれ,;f,域を中心とする事件心月殺のパタ…ン,
域下拡大の時顛および河岸段丘による藷麗的住み分 汁によって説明できる.また,侍麗敷の配叢をみる と,建設時の城下の外部巳各拡大期に旧域下域を あまり変えずに,侍屋敷が新設されたと誰定される盆
2. 城下拡大の要菌としては, 11車台藩が地方知行 裂を採用するため,議接的なものとはいえないが,
新出開発による藩の突高の増加と,それに伴う護軍 数の増加,および議寓構成の変化が考えられる.と