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「フルベッキ写真」と幕末明治期の長崎の学校

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Academic year: 2021

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1.「古写真」と「歴史写真」

 私達は、いわゆる「古写真」を素材とした一連の研究を 行うに当たり、歴史情報を有する写真を「歴史写真」と定 義している。「歴史写真」は歴史情報を運ぶ器であって、歴 史情報を今に伝えるメディアであると言えるであろう。歴 史写真を歴史情報のメディアであると捉えれば、必然的に 歴史写真を三つの視点から統合的に眺めていく必要が出て くるであろう。三つの視点からの研究とは、具体的にはま ず撮影者(写真師)、つまり情報の送り手の研究、そして写 真の閲覧者、すなわち情報の受け手の研究、さらには情報 の送り手と受け手をつなぐ被写体の研究、これらの三つの 視点を統合的に扱っていくことで、歴史写真研究の新たな 道筋、すなわち歴史写真の新たな分析や解読が可能になる と考えている(図 1)。

 これまでの古写真研究は主に二つのアプローチだけであ ったと言っても過言ではない。一つは「写真史」分野によ るアプローチであり、もう一つは歴史学による古写真への アプローチである。

 これまでの我が国の「写真史」分野の研究は、時系列で 代表的な写真家の事績を紹介するか、あるいは撮影技法 の展開に沿って写真の歴史を説くというスタイルが多かっ た。その方法は写真の通史としては非常にわかりやすい叙 述だったと言えたが、一方で、撮影技法や撮影者のみにこ だわって、我が国の写真の歴史の本質を突くような記述が 可能なのかという疑問も存在してきた。また、歴史学から の古写真研究においては、既に認知されている「古文書」

研究や「古記録」研究を基盤として、画像史料の中の一領 域として「古写真」をとらえており、写真史研究とは対照

図 1 歴史写真研究における 3 つの視点

「フルベッキ写真」と幕末明治期の長崎の学校

歴史資料としての古写真

倉持 基(東京大学)

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的に写真の被写体に関心を集中させてきた傾向がある。も ちろん、これまでも写真を歴史資料として採用してきた例 がないわけではないが、多くの場合、写真は、古文書や古 記録、あるいはその他の物品資料をもとに綴られてきた歴 史叙述の傍証資料としての域を脱していなかったというこ とが言える。それは、幕末維新期の志士の肖像写真にして も、西南戦争の記録写真にしても例外ではなかった。

 しかしながら、写真というメディアにはもっと豊富な情 報が埋め込まれているはずである。そこで、かつての研究 者が絵巻物や浮世絵を歴史学に取り込んだように、私達は 写真を歴史学に取り込みたいと考えた。そのためには、何 よりも、写真を歴史資料として読み解くためのスキルを身 につけなければならない。つまり、写真から得られる歴史 情報を統合的に調査・分析する方法を確立しなければなら ないのである1

2.本稿における調査対象

 私達は、以上のような志向を実際に応用したケーススタ ディを行っているが、本稿では、俗に「フルベッキ写真」2 と呼ばれる写真とよく似た構図の集合写真(写真1)につ いて、現在までの調査結果を報告する。

 この写真は、古写真研究家・収集家の石黒敬章氏が大田 区平和島で開催された古民具骨董市で購入した、狩野洞春 の画帳に貼られていた複数の写真の中の1枚であり、上野 彦馬(1838 ~ 1904)によって撮影された可能性の高い写真 である3

 当該写真には表面台紙上部と裏面台紙上部にペンに よる書き込みがあり、表面上部にはドイツ語で「Schule im Nagasaki 1870.」、 裏 面 上 部 に は 同 じ く ド イ ツ 語 で

「Kindertypen aller Staende」 と 記 さ れ て い る( 写 真 2)。

日本語での意味はそれぞれ「長崎の学校、1870」、「あらゆ る身分の子供たち」であり、筆致・筆跡等から、ドイツ語 を母国語とする外国人によって書かれたものと思われる。

 前述のように、この写真は「フルベッキ写真」(写真 3)

と非常によく似た構図で撮影されているが、「フルベッキ写 真」が撮影されたのは、写場の造りや背景等からほぼ明治 元年頃と特定されている4

 画面中央に写るのがフルベッキ(とその子)であり、そ の左右両隣に写っているのは幕末維新の中心人物、岩倉具 視(1828 ~ 1883)の 2 人の子息である。フルベッキ親子の 向かって右側に座るのが具視の次男・具定(1852 ~ 1910)、

フルベッキ親子の左側に座っているのが具視の三男・具経

(1853 ~ 1890)であるが、2 人が父・具視の命を受けて長 崎にやって来るのが明治元年 10 月末(1868 年 12 月)であ るため、明治元年の暮れから明治2年の初頭に掛けての彦 馬の写場はこのような様子だったことがわかる。

 「フルベッキ写真」と石黒氏所蔵集合写真は写場の造り や背景等には共通点が見られるものの、その反対に最大の 相違点として挙げられるのは画面中央下部、写場床に見え る石畳状の敷石の有無である。「フルベッキ写真」には敷 石があるが、石黒氏所蔵集合写真にはそれが見当たらない。

すなわち、2枚の写真には撮影年代に差のあることが見て 取れるのである。

 それでは、石黒氏所蔵集合写真はいつ頃撮影されたもの なのか。1996 年に刊行された『日本の開国』5には広運館6 のフランス語教師だったレオン・ジュリー(1822 ~ 1891)

を中心として撮影された集合写真が2枚掲載されている 写真 1 石黒敬章氏所蔵上野彦馬撮影集合写真

写真 2 写真台紙にある書き込み

写真 3 「フルベッキ写真」(学校法人産業能率大学蔵)

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(写真 4, 5)。ジュリーは明治 3 年 10 月 28 日(1870 年 11 月 21 日)、フルベッキの後任として広運館のフランス語教 師に採用されるが、写真 4 は、学生たちの装束や小道具等 から、ジュリーが広運館教師になった時期に撮影されたも のと推測でき、この時期にはまだ写場床の敷石は残されて いた。

 ジュリーは明治 4 年 10 月 10 日(1871 年 11 月 22 日)付 で京都のフランス語学校(京都仏学校)に採用され長崎を 離れるが、写真 5 では広運館の学生たちはそのほとんどが 断髪しており、これは明治 4 年 8 月 9 日(1871 年 9 月 23 日)に布告された「散髪脱刀勝手令」の影響であることが 窺える。広運館でのジュリーの任期からもその事実は時間 的な整合性を持つものであり、よって、写真 5 はジュリー の退任直前に撮影された集合写真であると想像できるので ある。

 ゆえに、2 枚の写真は、前者が明治 3 年末~明治 4 年初頭、

後者が明治 4 年後半に撮影され、前者が撮影された時期に は写場床に石畳状の敷石があったが、後者が撮影された時

期には石畳が剥がされていたということが推測できる。

 ここで写真 1 に戻って見ると、写真 1 では石畳状の敷石 が剥がされている。また、写し込まれた 42 名の人物のうち 髷を結っている者は 1 名のみであり、被写体の人々が差し ている刀も短くお飾り程度のものに過ぎない。このような 状況を考え合わせると、写真 1 は写真 5 とほぼ同じ時期に 撮影されたものである可能性が高いと言える。

 以上より、彦馬写場の石畳状の敷石が取り除かれたのは 明治 4 年の後半であり、写真 1 の台紙の書き込み「Schule im Nagasaki 1870.」に見られる「1870」の文字は 1871 年(明 治 4 年)の誤りであることが考えられる。

3.写し込まれた人物

 続いて、写真 1 に写し込まれている人物の相貌に焦点を 当ててみる。前方に座っている人物のうち、向かって右か ら 3 番目の人物(写真 6)と同相貌の人物が写る名刺判写 真が、上野彦馬の子孫にあたる上野一郎氏(学校法人産 写真 5 レオン・ジュリーと広運館の学生たち−2(創元

社刊『日本の開国』より)

写真 4 レオン・ジュリーと広運館の学生たち−1(創元 社刊『日本の開国』より)

写真 6

写真 7 「A Medical Student in Nagasaki Japan」(表・裏,

上野一郎氏蔵)

(4)

業能率大学最高顧問)所蔵のコレクション中にある(写 真 7)。この写真の裏面にはペン書きの文字で「A Medical Student in Nagasaki Japan」(日本の長崎の医学生)と書 き込まれているが、この人物が写し込まれた写真は同コレ クション中にもう1点あることが知られている(写真 8)。

こちらの写真の台紙裏には「Group of Medical Student in Nagasaki Hospital Japan」(日本の長崎病院の医学生の集団)

と書き込まれており、裏書の情報からはこの人物が医学関 係者であることを窺わせている。もちろん、書き込まれた 文字情報は多分に誤情報を含んでおり、そのまま鵜呑みに することはできない。裏書だけでこの人物を医学関係者と 断定することは危険だが、書き込まれた文字から得られた 情報が全て間違っているとも言い切れない。一部は間違っ ているが一部は正しいという場合も多いことから、裏書の 情報が調査の手掛かりになることはあり得ると思われる。

4.写真の比較

 ところで、写真 1 と写真 3、写真 4 及び 5 を比較すると、

撮影技法、構図の取り方、被写体の並べ方に共通点が多い ことに気付く。写真 3、写真 4 及び 5 が教師と学生を構成 メンバーとした記念集合写真であることを考慮すると、写 真 1 もその系統の写真である可能性がある。記念集合写真

の撮影作法では、最も重要な撮影対象を焦点の中心部に置 くことから、写真 1 においても、焦点の中心部にいる写真 9 と写真 10 の人物がこの組織の中心的人物であることが推 測できる。

 この2名の人物が各々単独で写された写真が馬田智夫氏

(東京都町田市在住)が所蔵する馬田家写真アルバム(写真 11)の中から発見された。

 馬田家は 1592 年(天正 20 年)長崎に移住し、1603 年(慶 長 8 年)より代々乙名及び阿蘭陀通詞を務める家系で、乙 名馬田氏別家五代目・馬田永成(1794 ~ 1873)の次男は本 木昌造(1824 ~ 1875、我が国の「活版印刷の父」と呼ばれる)、

永成の三男は松田雅典(1832 ~ 1895、広運館の教授を務め、

同僚だったレオン・ジュリーから缶詰製造法を学び、我が 国で初めて実用化に成功、後に「日本缶詰製造の父」と呼 ばれる)、さらに永成の七男は柴田昌吉(1841 ~ 1901、世 に名高い英和辞典『英和字彙』の編者)であり、長崎の名 家の一つに数えられる家系である(馬田智夫氏は乙名馬田 氏本家の末裔)7

 馬田家写真アルバムには写真 9 の人物が単独で写る写真 12 と、写真 10 の人物が単独で写る写真 13 が貼付されてお

写真 9

写 真 8 「Group of Medical Student in Nagasaki Hospital Japan」(表・裏,上野一郎氏蔵)

写真 10

(5)

り、この2人の人物が馬田家と関係のある人物であったこ とが窺える。

 この内、写真 12 の人物については、前述の上野一郎氏が 所蔵する写真群の中によく似た相貌の人物が見つかってい る(写真 14)。この写真の台紙裏には「明治六年十二月  横山貞秀 恭呈 槇村先生閣下」との書き込みがあり、こ の写真の人物(横山貞秀)が「槇村」という人物に贈った 名刺版写真であることがわかる。この時期、「閣下」は勅任 官や将官以上の者に用いられた尊称であり、明治6年当時、

この身分にあった「槇村」という姓の人物は槇村正直(1834

~ 1896、後述)のみである。

 横山貞秀(1833 ~ 1890)は役医・三原壽山の子として生 まれ、その後、代々阿蘭陀通詞を務める横山家の養子とな った。当時の姓名は「横山又之丞」といい、後に名を「貞秀」

と改めている。幕末期は主に外国通詞を務め、維新以降は 外国管事役所に配属されたが、幕末から明治初年に掛けて は済美館(広運館)の英語教師も務めている。明治初年当 時は租税寮七等出仕で長崎に在勤し、明治6年からは長崎 県権参事を兼務している。その後も順調に出世して、晩年 には長崎税関長になっている8

 横山貞秀は幕末期には医学伝習所で通訳を務め9、後代に は上野彦馬の実姉・にわを後妻として娶っており、横山家 と上野家は縁戚関係にあった。さらに、上野彦馬の実妹・

ぬさは、前述の馬田永成の孫と思われる馬田又太郎に嫁い でおり(又太郎早世のため、ぬさは後に大竹家に再嫁)、上

野家と馬田家も縁戚である。したがって、横山家・馬田家 も上野家を通じて縁戚関係にあり、横山貞秀の写真が上野 家と馬田家の双方に残っている可能性は十分にあると言え よう。また、馬田家出身の松田雅典、柴田昌吉も済美館(広 運館)の語学教師を務めていたことから、横山貞秀とは職

写真 12

写真 13 写真 11 馬田家写真アルバム(全 4 冊,馬田智夫氏蔵)

(6)

場の同僚でもあった。

5.人物の顔の比較

 こうして、写真 9 の人物が横山貞秀である状況証拠は固 まったが、これだけで断定することはできない。私はここ で一つの実験的検証として、古写真に写る人物の顔の類似 性を比較する検証方法を試みることとした。

 法人類学者の橋本正次氏(東京歯科大学歯学部准教授)

の論文に記載されていた、「異なる写真に撮影されている 二者の顔から同一人であるか否かを判断する場合の検査方 法」を参考に、写真 9 と写真 14 の 2 枚の写真を画像処理ソ フトの透過機能を使って検証した。橋本氏に依ると、異な る写真に撮影されている二者の顔が同一人物であるかどう かを判断する場合の条件として、①顔面頭蓋部の輪郭の近 似性、②顔部品といわれる眼、鼻、口、耳などの頭蓋顔面 上での解剖学的位置関係の相似性、③各顔部品の形態的特 徴などの類似性、を挙げており、これらの中で 一致する項 目が多ければ多いほど同一人物である可能性が高まるとし ている。加えて、4番目の条件として、一般集団では稀な 本人固有と思われるような特徴が両者に存在すれば、同一 人である可能性がさらに高まることになる、ともいう10、11  写真 9 と写真 14 の顔の比較においては、①と③について は人類学の専門家によるさらなる検証作業が必要だが、少 なくとも②の顔部品の解剖学的位置関係には大きな相似性 があると言える(写真 16)。2枚の写真は水平方向の角度 がほとんど同角度であったため、写真 16 のように透過機能 を使って比較することが可能であったが、顔部品の位置関 係はほぼ一致していることが目視によって確認できる。

 古写真に写る顔の向きの角度は多様であるため、水平方 向の配置情報には信頼性がない。ゆえに、古写真において は、垂直方向の配置情報のみを採取して比較することが人 物同定の際の証拠の一つとなる可能性がある。写真 9 と写 真 14 の顔の比較においては、少なくとも両目の位置、鼻 の位置、口の位置、そして顔の大きさはほぼ一致しており、

両者が同一人物である可能性は高いと言えるだろう。

6.不可解な書き込み

 前節と同様の顔による比較検証を写真 10 と写真 13 の人 物についても行った。すると、両眼、鼻、口の垂直方向の 配置がほとんど一致し、さらに顔部品の特徴もほぼ完全に 一致する。これによって、写真 10 の人物と写真 13 の人物 が同一人物である可能性は高まったが、それではこの人物 は一体誰なのであろうか。集合写真の撮影作法からは写真 9 の人物以上に重要な被写体であることは明白だが(この 集合の中で最も格上の人物である可能性がある)、馬田家写 真アルバムの台紙には、朱文字で「三浦梧門」と記されて いた。

 三浦梧門は文化 6 年(1809 年)、長崎に生まれた画家で ある。幼少より画事を好み、明・清の近世南画に倣って 特に山水画・花鳥画に画才を発揮し、日高鉄翁(1791 ~ 1871)、木下逸雲(1799 ~ 1866)と共に長崎三名家と呼ば れる人物である12。長崎・興善町の乙名や長崎会所の目付 を務めていた経歴から、横山貞秀との接点はあるが、万延 元年(1860 年)に 52 歳で没しており、三浦梧門の活動時 期と撮影時期が一致しない(上野彦馬の写真館開業は 1862 年なので、三浦梧門が写真館で写真を撮られることはあり 得ない)。従って、この記述は誤りである可能性が高く、現 時点では、この人物の写真は写真 1 を読み解く歴史情報に はなり得ていない。

7.導き出される仮説

 以上の情報より、写真 9 の人物は横山貞秀である可能性 写真 14 「横山貞秀」名刺版写真(表・裏,上野一郎氏蔵)

写真 15 3 枚の顔写真の比較

写真 16 透過機能による比較

(7)

が高まった。それでは、写真 14 の台紙裏にある槇村正直と 横山貞秀の関係はどうなのであろうか。槇村は長州藩士で あり、木戸孝允(1833 ~ 1877)は幕末期から槇村を連絡役 として重用してきた。維新後、新政府の要職に就いた木戸 は槇村を京都府に派遣し、政治世界の経験に乏しい初代京 都府知事・長谷信篤(1818 ~ 1902、公家出身)の補佐をさ せたが、明治初年には京都府大参事となり、実質的に京都 府の政治の実権を左右できる立場に至った(その後、長谷 知事退任にともない、明治 8 年には京都府権知事、明治 11 年には第二代京都府知事に就任)。幕末の動乱と維新後の東 京遷都で荒廃した京都を復興すべく、槇村は様々な分野で 近代化・西欧化を図ったが、まず手掛けたのが舎密局と外 国語学校の設立であった。明治新政府が明治 2 年(1869 年)

に大坂に設立した大坂舎密局にならって、明治 3 年、京都 府は独自に京都舎密局を設立し、翌明治 4 年には京都仏学 校を開校した13。その際に協力を求め参考にしたのが長崎 の精得館(医学伝習所)や広運館(済美館)の関係者だっ たことは想像に難くない。この時、両方の組織に関係して いる役人として第一に名前が挙がるのが横山貞秀である。

 また、前掲のレオン・ジュリーを京都に招いた人物こそ 槇村正直であり、レオン・ジュリーは広運館教師時代に横 山貞秀や馬田家出身の松田雅典とは同じ職場の仲間という 立場だった。上野一郎氏所蔵の横山の写真とその裏書、馬 田家アルバムに残る横山と思しき人物の写真、それぞれの 写真の画像情報と周辺情報がここでほぼ一致したと言える だろう。

 以上の結果から、写真 1 にはどのような仮説が立てられ るであろうか。写場の構造や背景等から、上野彦馬の写場 で明治 4 年頃に撮影されたものであることがわかる。また、

撮影技法や構図の取り方、被写体の並べ方に「フルベッキ 写真」等との共通点が見られることから、彦馬が撮影した 記念集合写真である可能性が高い。さらには、写真中央部 に写っている人物が横山貞秀である可能性も高く、横山は この時期、外国語学校や舎密局の件で槇村正直と密接な関 係があった。そして、その槇村が京都に招聘したレオン・

ジュリーの集合写真(写真 5)との類似点も散見される。

加えて、写真 6 が写真 7 と同一人物であると仮定するなら

ば、写真 1 には医学関係者が写っている可能性もある。

 以上の点を総合的に判断すると、明治 4 年頃、横山貞秀 が重要な立場を担っていた組織に何らかの出来事が発生 し、それを記念して撮られた集合写真であるという仮説が 成り立つのではないか。だとすれば、可能性として考えれ るのは、明治 5 年 8 月 3 日(1872 年 9 月 5 日)、「学制」が 発布され(太政官布告第 214 号)、広運館は第六大学区第一 番中学に、長崎医学校(精徳館→長崎府医学校→長崎県医 学校→長崎医学校と改称)は第六大学区医学校に改組され るが、それを記念して撮影された集合写真(改組前の記念 写真か改組後の記念写真かはわからないが)という仮説で ある。

 本稿は、現在なお調査・分析中の情報に依って立てた仮 説であるため、十分な検証が行われているわけではない。

今後、本研究は、横山貞秀以上に重要な位置で写真に収ま る写真 10 の人物を特定する作業を中心に、横山貞秀のより 詳細な行動記録の分析、2人以外の人物の同定作業と行動 記録の調査を進めることにより、写真 1 の詳細な撮影事情、

撮影状況が判明することが予想される。

謝辞

 本研究は、写真資料提供者である石黒敬章氏(石黒コレ クション保存会主宰)、学校法人産業能率大学、上野一郎氏

(学校法人産業能率大学最高顧問)、共同研究者である森重 和雄氏(古写真研究家)、高橋信一氏(慶應義塾大学理工学 写真 17 2 枚の写真の比較

写真 18 「三浦梧門」と記された朱文字の書き込み

(8)

部准教授)、および馬場章氏(東京大学大学院情報学環教授)

のご協力、ご教示を得ました。関係各位に心より御礼申し 上げます。

註および参考文献

1 倉持基,研谷紀夫,馬場章:歴史写真の情報学的研究−歴史写真デジタ ルアーカイブの構築と活用に関する基礎検討−,日本写真芸術学会誌第 15 巻第 2 号,pp.65-74,2006.

2 長崎に設立された佐賀藩の藩校・致遠館の学生とその教師、ギドー・ヘ ルマン・フルドリン・フルベッキ(1830 ~ 1898)等、46 人の人物が写 る集合写真。一部で「幕末維新に活躍した志士たちが長崎に集結して撮 られた写真」として噂を呼び、近年でも新聞・雑誌等でしばしば取り上 げられる。

3 石黒敬章:幕末明治のおもしろ写真,平凡社,1996.

4 上野一郎:撮影年代を推定する−人物像・写場・小道具・台紙裏から−,

写真の開祖・上野彦馬,産業能率短期大学出版部,1975.

5 尾本圭子,フランス・マクワン:日本の開国,創元社,1996.

6 幕府が長崎に設立した英語伝習所の後身。フルベッキは 1864 年(元治元 年)、英語伝習所(フルベッキが在籍した時期には洋学所→済美館→広 運館などと呼ばれた)の英語講師として採用され、明治新政府に招聘さ れて長崎を離れる 1869 年 2 月(明治 2 年 1 月)まで勤めた。その間に 致遠館にも出校した。

7 馬田智夫:私家版・馬田氏風説書,暮しの手帖社,2005.

8 長崎縣教育会編:大礼記念長崎縣人物傳,長崎縣教育会,1919 9 森重和雄:幕末・明治の寫眞師 内田丸一,内田写真株式会社,2005.

10 橋本正次:犯罪科学捜査,宝島社,2000.

11 橋本正次:特定失踪者顔写真鑑定書,特定失踪者問題調査会ニュース,

Vol.162,2004.

12 思文閣編:美術人名辞典,http://www.shibunkaku.co.jp/biography/

13 明田鉄男:維新京都を救った豪腕知事,小学館,2004.

参照

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