著者 宮本 眞晴
雑誌名 金沢大学考古学紀要 = ARCHAEOLOGICAL BULLETIN KANAZAWA UNIVERSITY
巻 34
ページ 21‑26
発行年 2013‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/2297/34854
河北潟東岸の水郷地帯について
宮本 眞晴
(金沢大学大学院人間社会環境研究科)
1. はじめに
河北潟は干拓以前、潟の東岸・南岸の集落は農業・
漁業に、西岸は漁業に利用していた。
東岸は能瀬(裏能瀬・浦能瀬))・川尻・潟端〔現 津幡町〕 南岸は才田・八田・大場〔現金沢市〕西岸 は室・西荒屋・黒津舟地内・宮坂・大根布・本根布・
向粟ケ崎〔現内灘町〕である。
以下、津幡町の集落について、河北潟との関係を 記す。『津幡町史』 第一編 第六章 農業・漁業の発 達 漁業 第四節 漁業と干拓 から抜粋(振り仮名・
西暦は報告者付加)。
(引用はじめ)
漁業品目
アメ鮴ごり、ウナギ、フナ、コイ、泥どじょう鰌、シジミ等 干拓計画・明治以後
・明治三〇年代(1897 ~ 1906)埋め立て計画あり。
大正十一年(1922)埋立期成同盟会結成。
・昭和五年(1930)沿岸漁業組合が干拓反対決議。
・同 八年(1933)河北潟飛行場建設案が衆議院で 可決。
・同 十五年(1940)河北潟干拓事業が地元町村の 協議により実現促進。同 十六年調査開始(戦争で 中止)。
・同 二十一年(1946)調査再開。
・同 二十四年(1949)沿岸の天然ガスの事業化目 的で探査開始。
・同 二十五年(1950)以降、金沢農地事務所が干 拓計画。
・同 二十七年(1952)河北潟干拓期成同盟会結成。
・同 三十五年(1960)調査開始。同 四十五年干陸。
干拓に伴い潟の漁業権は農林省が買い上げ。当時、
生計費に占める漁業の依存度は 20 ~ 30%。
(引用おわり)
『津幡町史』684 頁 中条地区 小字 ( こあざ ) より 潟に関すると思われる名称を抜粋。
太田 3 不湖 ( ふご )(註 1)(1番より30番)・24 浜田・
25 貝殻・26 深田・42 舟池・49 堀田 南中条 6 南不湖・14 いけ田・18 砂田
潟端 13 江の島・23 小 ( こ ) 不湖 ( ふご )・31 大不湖・
37 二番新開・46 波池・57 よし場・89 島(又は中 の島)・90 蛇湖 その他「割」の付く小字が多い。
北中条 .2 島・3 がめ田・7 えび島・8 塩田・13 鮒池・
16 塩田
集落 川尻
集落内に津幡川(旧川)(註 2)が流れており、北側 に新川があった。水門があり農業用水に利用されてい る。昭和 40 年代(1965 ~ 1974)の河川改修前の 川岸には、舟小屋や四ツ手網・箱漬その他の漁具が設 置されていた。耕地整理以前、頭なし・三番川・梅川・
百石川と呼ばれる小川が潟に通じ、田の作業に小舟が 用いられた。明治四十三年(1910)から昭和初頭に かけて行われた耕地整理の結果、一号から一五号まで の稲取り川が掘られ、どの田の稲も、舟で運ばれるよ うになり、殆どの家が舟を持つようになった。水門下 流の川岸の両側には各家の舟小屋が軒を並べていた。
潟端
五代藩主前田綱紀が新開の為、近郊の百姓の二、
三男を選び基幹部とし、開発の為、金沢笠舞の非人小 屋から二四人(非人ではなく避難民)を選び移住。埋
立地に住居を建築したので飲料水に苦労した。舟小屋 は無く、東西方向に掘られた運河に舟を留め、茣蓙等 の仮屋根を載せた。
2. 報告者の記憶
報告者(昭和 21 年生まれ)は、能瀬、川尻、潟端 の昭和 30 年代の姿を現認している。
津幡町は昭和 29 ~ 32 年近隣の 6 村を合併した。
いわゆる昭和の大合併である。昭和 33 年、中学校に 入学すると、旧中条村・井上村・英田村など河北潟に 接し、半農半漁の生活を送る人々の子女と同級になる 機会を得た。
明治 22 年から町制を布いていた津幡町は潟に接し ていなかった。家に舟を持つ同級生宅を訪れることは 非常な楽しみであった。潟沿岸へは過去に行った事も 無く、いろいろ新しい経験をした。
特に川尻(旧井上村)へは近い事もあってよく行っ た。友人宅も自宅前に舟小屋があり、舟で河北潟まで
下り、春には葭原 ( よしはら ) のヨシキリの巣から、
卵を失敬したりした。当時は干拓前で、潟縁の葭原は 広かった。
報告者の母方の実家は富山県で、小矢部川で舟を こぐことは夏休み最大の楽しみであった。小矢部川は 石底の川で、竹竿を使用した。竹竿を使用する者は「櫓 を漕ぐことは難しい」と言っていた。
潟沿岸は底が柔らかい泥なので櫓が主であった。
櫓を使用する者は「竿は難しい」と言っていたが、友 人達はみな櫓さばきが上手かった。
川尻は子供の頃から日曜には寺へ行き、正しょうしんげ信偈を 習う。この年になると同級生の通夜・葬儀に参列する 事も多いが、彼等はソラで唱える。一応真宗門徒であ る身としては少々肩身が狭い気がする。
川尻は津幡川の河口に位置する集落で、川は集落 東端で旧川・新川にY字状に分けられ、河北潟に流入 していた。新川・旧川の分岐点には水門があり、その 上流の津幡町では水田に農業用ポンプを使用し給水し
稲を満載し、舟入川から潟へ出て家へ。(昭和 30 年) 津幡川を上る。横に四手網。(昭和 30 年)
旧川の風景。橋の上から潟方面(昭和 30 年)舟小屋 は自宅の前にあった。
左写真と同じアングル
ていたが、かなり上流の竹橋地区(旧倶利伽羅村)ま で川尻区が現在でも水利権を持っており、ポンプを使 用する集落は川尻区へ使用料を支払っている。
水門が無かった明治期まで、旧津幡町加賀爪には 藩へ納める御蔵があった。幅二間(約 3.6 m)の堀を めぐらし、付近一帯は椿林・竹林で昼なお暗い、淋し い場所であった。蔵の向い側に御蔵番が住み、その裏 が津幡川の舟着き場、その付近に空地があり、年貢米
旧川の風景、橋の上から上流方面(昭和 30 年)。 左写真と同じアングル
を納めるとき、馬をつなぐ場所となっていた。年貢米 は川を下り河北潟・浅野川を経て藩の米蔵へ納められ たか、大野川を下り大野・金石から大坂方面へ送られ たのか・・・。
潟の舟運については『津幡町史』第一編 町史の あらまし 第七章 商工業・観光・交通の発達 第四 節 潟の舟運 191 頁に詳しい記述がある。
また、幕末期は、①河北潟から津幡川を遡上し、現・
県境の山をトンネルで抜け、小矢部川に結び、富山湾 へ出る ②潟から宇ノ気川・横山不湖・高松不湖を経 て邑知潟と結び、七尾湾へ抜ける 等の計画がなされ た。冬季の能登半島を大きく回る日本海ルートの危険 を回避する目的だったのだろう。
潟端(旧中条村)では春から夏にかけ、舟入川か ら田へ足踏みの水車で水を取り入れる風景が見られ た。河北潟に近いため、水田と川の水位差が無いから である。
潟端は江戸期に藩主の命で開かれた新しい集落で、
集落の真ん中に潟から運河が引き込まれ、運河の両側 現在の川尻水門風景(元の新川)(平成 23 年) 旧川を埋めた道路、両側に側溝(平成 23 年)。
十字路左右方向が写真を撮った(昭和 30 年)元の橋 があった位置(平成 23 年)。
に道路があり、各家の舟は舟小屋ではなく、舟の上に 簡単な雨避けの屋根を施し、使用する時は外して使っ た。現在は埋め立てられ道路となっており、運河は暗 渠の排水路となっている。
川尻も潟端も河北潟から直角に「頭なし」と呼ば れる舟入川が水田地帯へ入りこみ、農家は自家用の舟 に収穫した稲を満載して、自宅前の舟小屋へ運んだ。
当時の農家はまだ運搬用のトラックも持たず、潟沿岸 は農道も整備されていなかった。自然の川ではなく、
水源が存在しない人口の川を「頭なし」とは、いいえ
て妙である。
満載した稲を乗せ、一旦河北潟へ出て、新川、旧 川(川尻)、集落内運河(潟端)を上り自宅まで運ぶ のだが、帰途、潟の波が高い時は舟入川の出口で治ま るのを待った。無理に潟へ出て転覆した時は、稲が水 を含んで大変だったという。現在は「頭なし」は埋め られ、各水田まで広い農道が通っている。
川尻には水門そばに舟大工を業とする家が1件 あったという。舟は受注してから建造するもので、作
向いへ行くのには狭い板橋(昭和 41 年)
潟端の運河。舟小屋はない(昭和 40 年)。運河を挟 んで両側に道路。
左同 舟には簡単な雨覆いのみ(昭和 40 年)
現在の潟端。左の玉垣は潟端を開いた「前田綱紀」
を祀る「加賀神社」。東を望む。(平成 23 年)
左同 西を望む。南側に暗渠。北側は側溝(平成 23 年)
り置きはせず、受注が重なった時は八田(現・金沢市)
の舟大工へ仕事を流したそうである。
旧津幡町の人は初夏や秋には能瀬川の河口へシジ ミ採りに行った。流れのある川が、潟に流入すると河 口に大量の土砂を沈殿させ砂洲を形成する。そこには 大量のシジミが採れ、2 日ほど盥 ( たらい ) に水を張り、
泥抜きして近所にも配った。粒も大きく、美味だった。
頻繁にシジミ採りに行ったが、地元の人達に漁業権を 主張され「採るな!」と言われたことは一度も無かっ た。
渇水期の夏、潟へ舟で出ると藻が固まっている上 に、大きな丸太のような魚が乾いて転がっていた。雷 魚 ( らいぎょ ) である。雷魚は肉食の外来魚で、肺呼 吸もできる。生きているのである。魚屋で盥に入れ、
生きた状態で売っていた。食用にもしたが見た目はグ ロテスク。刺身はサワラのように綺麗で美味だそうだ が、寄生虫がいるので生では食べなかった。魚肉はフ ライにすると寄生虫の心配も無く美味である。
天然ウナギもよく捕れた。竹筒の節を抜き藁縄を 縛って竹竿に縛り、潟に沈めると夜のうちにウナギが その中に入っていた。翌朝、竹筒の片方に網をあて、
引き上げる。
戦前、沿岸の農家で軍用防寒帽の内張りにするた め、ヌートリアと云う大型のネズミの仲間を飼育した ことがあった。戦後、放されたか、逃げ出したものが 潟沿岸で繁殖した。葭原を掻き分け泳ぐ大きなネズミ を何度も見たと友人は語っていた。現在は河北潟には 見られないが、岡山県などではまだ棲息し、堤防に穴 をあける等の被害も見られるとか。
舟橋、裏能瀬(旧英田村)に同級生はいなかった のであまり行った記憶はない。舟小屋はなかった。
金沢市(旧河北郡)の才田、八田、大場も同じく 水郷地帯であった。金沢市内の高校だったので同級生 もいたのだが、訪問する機会も無く状況は語れない。
大場の住人には戦後の金沢飛行場(現在の石川県 運転免許センター付近)の話は聞いている。『戦後、
飛行場跡には軍用機がエンジンを外され長い間、野ざ らしになっていた。今思えばあの時エンジンだけでも 舟に載せ、持ってくればよかった。だけど進駐軍が恐 ろしかったしなあ』 大場から旧金沢飛行場までは舟
で行けば近い。
今回掲載した写真は現況写真を除き、全て先年亡 くなった津幡町在住杉本清氏の撮影である。御遺族は 今春、ネガ(36 枚撮り 5000 本、昭和 20 年代末か ら近年までの年度別撮影記録付き)すべてを津幡町教 育委員会へ無償で寄附された。「使用の際は杉本清撮 影と付記してほしい」が唯一の条件である。
氏は長く小学校教員をされ、小学校長で退職され たのちも趣味の写真を晩年まで続けられた。報告者は 直接担任されたことは無いが、小学校 5・6 年の時は 隣の同学年の担任であった。
数年前、亡くなった内灘町の元小学校教諭清水先 生も大量の河北潟に関する写真をお持ちだった。遺族 の方が保管していると思う。小学生が潟で舟を漕ぎ、
水浴している写真を見せて戴いた。
かほく市大崎に元津幡中学校教諭の松原茂先生が 御健在。先生も写真を趣味とされていたので干拓前の 写真をお持ちと思う。
NPO 法人河北潟湖沼研究所通信「河北潟」に、潟 端在住の古老からの聞き取り「河北潟の水郷―潟端よ り―」が連載され、現在 16 回を数える。その内容は 半農半漁の生活、漁労の方法、季節ごとの獲物等が絵 入りで紹介され興味深い。1 ~ 16 回は報告者も保管 している。
河北潟の舟、漁労の道具等は津幡町吉倉にある津 幡町歴史資料館(旧吉倉小学校)に保管・展示してあり、
町教育委員会生涯学習課(tel:.076-288-2125)へ連 絡すれば見ることが出来る。
3. おわりに
河北潟の面積は、以前の三分の一となり、汽水湖 から淡水湖となった。その為、カレイ・ボラ・キス・
トラフグ・サヨリ・スズキ等の海水魚と鮒・鯉等の淡 水魚が共生していた(比重の重い海水は下層、上層は 真水)豊かな潟は、淡水魚のみとなり、近年はブルー ギル・ブラックバス等の外来魚が放たれ生態系を乱し ている。
また、生活形態の変化により家庭排水による窒素・
リン濃度が高くなる問題も起きてきた。車社会の発達
により潟沿岸へのゴミの不法投棄も目立つ。
湖岸が鉄パイルやコンクリートで囲まれているこ とも自然浄化を妨げている一因でもある。以前は湖岸 に生えたヨシ・マコモ等の植物が窒素・リンを吸収し、
それを壁の下地・屋根等に利用するサイクルが存在し た。河口の砂洲でのシジミ採りなど趣味と実益を兼ね た楽しみはもうできない。貝の水質浄化力も侮れない ほど大きいものである。
潟の周回道路はあるが高い土手に囲まれ、美しい 湖を車窓から眺めることはできない。その事も我々が 河北潟の環境に目を向けることから遠ざかっている一 因なのかもしれない。
河北潟干拓地内を車で走ると休耕地が目立つ。農 業政策失敗の証左であろう。
豊かな自然を人間の力(人間の欲)で破壊した行 為の愚かさ。
八郎潟から始まった干拓事業は、水田面積の拡充 が目的であった。しかし、米余りが叫ばれた後も、河 北潟、宍道湖・中海、諫早湾干拓と続き、どれも大き な問題を残した。河北潟も干拓ではなく干陸であり湖 水面より 1 mほど低い。内灘にあるポンプ場で永久 に揚水しなければ元の湖に戻るのだ。
2007 年、河北潟に隣接する二市二町(金沢市・河 北市・津幡町・内灘町)で構成する河北潟環境対策期 成同盟会が、小学 4 年~中学 3 年生を対象に『河北 潟と私たちのくらし』という社会科・道徳・総合学習 の副読本を刊行した。報告者も第 6 章を執筆させて
戴いた。
元の湖に戻すことはできないが、衆知を集め、せ めて残された河北潟を綺麗な形で次代に渡さなければ ならないと思う。
註
註 1:不湖・・・河北潟東岸にいくつも存在した。渇水期に は湿地となり、増水期には池となる土地。波受ともい う。江戸期の地図によれば太田・中条・舟橋・狩鹿野 不湖等があり、宇野気川に沿っては横山・高松(内高 松)不湖が描かれている。
註 2:激しく屈曲して流れていた津幡川は、融雪期、梅雨期 には毎年のように氾濫した。昭和 39 年(1964)河川 改修工事が起工され、昭和 44 年(1969)に完成した。
川尻集落内を流れていた旧川は埋め立てられ、広い道 路となり昔の面影は無い。新川は拡幅され、新しい水 門も完成した。潟端も同様運河は埋められた。
参考文献
津幡町史編纂委員会編 1974『津幡町史』石川県津幡町役場 . 河北潟とわたしたちのくらし編さん委員会 2007『河北潟と
わたしたちのくらし』河北潟環境対策期成同盟委員会 . 現況写真(平成 23 年)以外は全て杉本清氏撮影を使用 .