• 検索結果がありません。

異文化コミュニケーションと外国語教育

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "異文化コミュニケーションと外国語教育"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

異文化コミュニケーションと外国語教育

著者 佐々木 倫子

雑誌名 静岡大学教養部研究報告. 人文・社会科学篇

巻 26

号 1

ページ 186‑166

発行年 1990‑09‑01

出版者 静岡大学教養部

URL http://doi.org/10.14945/00008513

(2)

異文化コミュニケーションと外国語教育

Intercultural Cemmunication and Foreign Language Teaching

佐々木 倫子

  SASAKI,Michiko

1 日本語教育と外国語教育

1.日本語教育の範疇

 今日、世界は急速な通信・交通手段の発達によって、かつて経験したことの ない地球規模の国際化の波に洗われている。今日ほど国境の壁が低くなった時 代はない。日本の場合は、さらに経済発展によって世界の注目を浴びざるを得 ない存在になったという要素も加わる。もはやH本は孤立した島国として、 一民族・単一文化・単一醤語 を享受していることは許されない時代にある。

時代の波は日本語教育にも及び、国内では多数の外国入が来日して日本語を学 び始めるという有史以来の事態に直面している。さらに、海外においても広い 地域で多数の人々が自らの意志で日本語を学び始めている。現代は、日本人も 含めた多くの人々が異なる言語、異なる文化を持つ人との接触を持ち始めた大 規模な異文化接触時代なのである。こういった時代における外国語教育のあり

方を追究してみたい。

 言語に関する教育の分野は、一部を除き、次の3種類に大別することが出来

る。すなわち(1>母語としての教育、②第こ二書語としての教育、(3)外国語として の教育である。これらは、日本語の場合、ほぼ(1)日本人を対象とする国語教育、

(2)日本国内で生活する外国人対象の日本語教育、(3)海外で行なわれる外国人対

象の田本語教育と言い替えることが出来る。そして、現在(1)は国語教育と呼ば

れ、(2>と(3)が日本語教育と呼ばれる。つまり、日本語教育とは、一部を除き対

象は外国人であり、学習者の立場から言えば外国語教育の領域に属するもので

ある。

α86> 97

(3)

2.日本における外国語教育の伝統

 日本語教育が外国語教育であることを踏まえた上で、日本におけるいわゆる 外国語教育について考えてみたい。 いわゆる外国語教育 とは前述の(3)の

「日本語」を英語やフランス語で置き換えたものである。すなわち、日本入対 象の外国語としての英語やフランス語の教育である。日本における外国語教育 はかつて教養としての外国語教育、知的訓練としての外国語教育の使命をにな い、書物を通して西欧文化に触れ、人類共通の文化的遺産としての思想や教養 を身に付けるためのものであった。特に高等教育機関においてはその伝統が今 も生きており、言語の運用能力、中でも日常の会話能力などは語学校にまかせ るという考えがある。高等教育機関における学習者は、ある程度の知的水準に 達しており、教育者もその言語が生み出した言語文化の研究者があたる場合が 多い。そこで、用いられるのは体系としての外国語を書物によって学ぶ方法で ある。詳しい抽象的な文法解説は分析力を育て、翻訳の重視は効率良く語彙に 関する知識を増す。文法の分析力や文章の読解力と翻訳力が効率良く育てられ る。日本語・日本文化の背景から文法や文章の分析に新たな視点が持ち込まれ ることもある。意識的に言語を学習した日本人の方が、母語として無意識に言 語を身につけたイギリス人やフランス人よりも、鋭い分析を行うこともある。

文法対訳法が、優れた言語学者や文学者を生み出してきたのも当然である。た とえnative intuition(母語話者の持つ直感)は持たなくても日本人の研究者 が英語やフランス文学等の分析に貢献出来る所以である。このような伝統が研 究活動にも反映し、例を英語にとれば、英語の教育に関係する研究者の中で英 文学・英語学の研究者に比べて英語教育の研究者は数が少ない。また、研究と

しても一段低く見られる傾向が残っているようである。

そして、文法対訳法が申学校・高等学校で用いられる背景には、入試制度が かかわってくる。これまでの入学試験で測られてきた英語能力とは、ペーパー テストでたやすく見られるもの、つまり、文法・語彙・表記等の言語能力の正 確さであった。その目的にかなう教育法として文法対訳法が用いられてきたわ けである。世界の様々な地域からの帰国子女、中国からの帰国者の子弟、外国 人子弟等がクラスに交じり始めたこれからの申学校・高等学校で外国語教育が

どう変わっていくかは興味深い点である。

98 (185)

(4)

 さて、これまでの日本における 外国語教育 の状況は日本語教育に当ては まるのであろうか。少なくとも海外ではかなりの地域でこれまで見られた傾向

であると言えよう。米国の日本語教師の学会であるThe Association of Teach.

ers of Japaneseの前会長、オブライエン ウイスコンシン大学教授は米国の大 学における日本語教育事情を次のように述べている。

 「今の学生たちは、大体会話を中心として日本語を勉強したいと思っていま すから、読書力が昔の学生ほど上達せず、そして古典の日本語などにはまった く縁の無いという態度を取っています。これを指摘することによって、私は今 の日本語の学生を批判するつもりはありません。過去10年間、米国で日本語の 学生が予想できなかったほど増えて来たのは私たちにとってどんなに悦ばしい ことか一口に言えません。しかし、教師にとっては自分と同じように学問の道 にすすむ学生が減ってきているのがややものさびしいことだといえます。この 気持ちは、別に日本語の学生に限るわけではありません。ただ、20年間、ある いはそれより長く米国で活躍している日本語の教授たちは、昔の学生と現在の        1)

それとの日本語を学ぶ態度の違いを痛感していると思います。」

 米国など海外の日本語教育界では、教師と学習者の問のギャップが問題とな ることも多い。つまり、かなりの教師の興味が日本文学研究、日本史研究など にあるにもかかわらず、学習者が求めるのはひたすら現代日本社会、日本人と のコミュニケーション能力なのである。そこでは米国人やフランス人の教師が かつて受けた日本語教育の方法を用いることが出来ない。あるいは、用いた場 合学習者が不満を持つという状況がある。一方、日本国内ではどうだろうか。

国内における日本語教育は②の第二言語としての教育の範疇に属するものも多 く、一層コミュニケーションの道具としての教育が求められている。日本語教 師が日本文学等に深い知識を持つことは好ましいことであるが、それを教育の 場にそのまま持ち込むことは学習者のニーズに応えないことになる。それでは、

コミュニケーション能力の習得を助ける者としての観点から見た場合、日本人 教師はどのような特徴を持つだろうか。まず、日本人教師の場合は母語として

コミュニケーション能力を無意識に獲得したことはあるが、第二言語としての 日本語教育を受けたことはない。しかも、日本語教師養成が始まってからの歴 史は浅く、数年前までは多くの場合、他の専門一国文学や英文学出身の研究者 が独自の工夫でこれに取り組んできたのが実情である。教育面の研究成果も私

(184) 99

(5)

的に機関内あるいは個人間で伝えられるだけのことが多かった。今もって教授 法が理論化・体系化されているとは雷いがたい。

 さて、次に、「異文化」の見地から、外国語教育を考えてみたい。日本国内 外国語教育 に従事する日本人教師の場合、たとえば英文学者にしても、

英語学者にしても、学習者も教師も共に日本人であり、共通の文化・言語の基 盤の上に立つ。これは英語を教育対象として扱っている限りは(コミュニケー ション能力育成の点では問題があるにしても)異文化コミュニケーションの場 としての問題は起きないことを意味する。日本語による文法解説や英文和訳は 現実のコミュニケーション活動とはかけはなれたものであり、生きた英語を死 語にしてしまっている。車の運転を覚えたい、車を動かしたいと思う人間に、

エンジンの構造を教えているようなものだと評されることはあったとしても、

教室内のコミュニケーション活動自体は日本語で日本文化の基盤の上に支障な く行なわれているのである。一方、日本語教育の場合はどうであろうか。日本 人教師が教室に足を踏みいれた途端、そこは異文化が向き合う場となる。発音・

語彙・文法・表記といった言語の構造が異なるだけでなく、談話の型も異なれ ば、身振りや相手との距離の取りかたも異なる。思考型や価値観も異なるので

ある。

 さらに、日本人の英語教師の場合、英語学者であっても、英文学者であって も、自身がかつて外国語としての英語教育を受けた身であり、日本人学習者の 立場を身をもって経験している。教師と学習者との問に外国語教育に関する共 通の常識のようなものも存在する。日本語教育の場合はどうであろうか。まず、

教師と学習者の間では往々にして教育観・学習観が異なる。教師が、入門期な ら平仮名と音を結び付けるところから始めて、簡単な文法説明の後、口頭作文 に進むのが良いなどと考えても、学習者も同じ考えとは限らない。教師とはど んな役割を持つ者で、学習者とはどう行動すべき者かについても、一致してい るとは限らない。さらに、学:習者の大多数が日本語のコミュニケーション能力 を身につけたいと願っているのに対して、教師がかつて受けた外国語教育はコ ミュニケーション能力を重視するものではなかった場合が多い。日本人教師は 無意識に日本語のコミュニケーション能力を身につけたという獲得体験を持ち、

学習者は日本語を意識的に教育を通して身につけようとしている。日本人教師

100   (183)

(6)

による日本語教育の場は、それ自体、異文化接触の場なのである。

3.国語教育の伝統

 教師が日本人である場合、日本語教育の現場にさらに別の視点が持ち込まれ ることがある。つまり、教師にとっては母語である日本語を教えるという状況 にあるために、日本語教育が外国語教育の領域に属するということが教師自身 に認識されないことがままある。その場合には国語教育に近い形がとられるこ とも多い。国語教育においては、何が教育の9標ととらえられているのだろう か。コミュニケーションの手段としての言語教育、すなわち、H本語の運用能 力の育成はどうとらえられてきただろうか。特に、聞く・話す技能を考えると き、おのずから答えが明らかになるように思われる。コミュニケーション能力 の育成は日本の学校の国語教育の場で十分にとりあげられてきたとは言いがた い。中西一弘は論文「朗読と国語教育」で、以下のように国語教育の現状を記

している。

 「国語教育のおおきな研究会にいくと、いくつもの分科会がもうけられてい ることが多い。それらが、文学、説明・論説、作文、話しことばといったふう に設定されていると、きまって次のような現象がみられる。それは文学教材を とりあげ、読解の指導をテTマとする分科会に、もっとも多くの人が集まり、

以下、いま掲げた順序に、参加者が減少することである。それも、少しずつ減 っていくのではなく、二段構えで参加者の姿が少なくなる。一一mp略一さらに少 数なのが、話しことばの分科会である。文学分科会への参加者の十分の一以下        2)

というのが、いつもの例といっていい。j

 さらに氏は論を進めて、「文学好きの国語教師が、いままでのような『文学』

の読解に力点を置いているかぎり、国語教育の再建は、むずかしい。根本的な        3)

転換をよぎなくされている。」とまで言い切っている。

 しかし、これまでの国語教育の場合はコミュニケーション能力の育成は目標

の一部に過ぎないとの立場も成り立つのではないだろうか。 pt 一一言語 国家

の日本ではごく自然に「聞く・話す」能力は学齢前に家庭で獲得されるもので あり、学校で行なわれる必要が大きいのは、読み・書きを中心とするコミュニ

(182) 102

(7)

ケーション能力である。生徒の日本語は国語教育を受けている問も直接的な経 験の中で自然に習得され続ける。日々の生活、学習の中で日本語を運用してい るので、教室内で扱わなくても、コミュニケーション能力はついていくのでは ないだろうか。しかも、これまでの生徒達の大半は日本に生まれ、日本で育っ てきており、日本語・日本文化の枠内で思考が形成されている。外国人学習者 の持つような母語からの干渉も、母文化との衝突もない。

 さらに、しばしば指摘されるように、日本は高コンテキスト文化という一薦 を持つ。 高コンテキスト文化、低コンテキスト文化 はアメリカの文化人類 学者E・T・ホールの分類であるが、以下に本名信行による解説を引用する。

 「コミュニケーシ9ンはことばと、ことば以外のさまざまな要素によって成 立する。そのことば以外のさまざまな要素を文脈(コンテキスト)と呼ぶ。

一中略一ホールは、意味の伝達・解読過程で、文脈に依存する率の高い文化を

『高文脈依存文化』、その率の低い文化を『低文脈依存文化』と呼んだ・どの 文化も、そのなかで重要とされる意味の体系を伝達する言語コードを発達させ

ている。ただし、雷語コー.一ドをどう処理するかは、各文化によってかなり異な

る。(図にあるように、)文脈依存度が高まるにしたがって、意味は言語情報の なかではなく、文脈のなかに潜むようになる。ことばの役割は最少限に抑えら れ、『言わなくてもわかる』ようになる。また、一を言えば十がわかるので、

多面的な陳述の必要もないし、説明的な表現も無用になる。一中略一

 高文脈依存のコミュニケーションは、人びとが集団意識を強くもち、おたが いにホットな人間関係で結ばれている社会の特徴といえる。日本社会はその一 例である。そこでは特定の行動規範が制度化されており、人びとは多くの経験 とそれにもとつく知識を共有している。その結果、コンテキストのなかで『さ っし」がきくようになる。こうなると、ことばは縮略化し、暗示的になる。そ       4)

れでも十分に意味が通じるのである。」

 日本文化が必ずしも常に高コンテキスト文化と言えるわけではないが、言を 尽くさないのを良しとする傾向がしばしば現れるのは確かである。ホームステ イをした留学生から日本人家庭でのコミュニケーションの少なさ、特に夫婦の 問の対話の少なさに驚く声を聞くことも多い。それは対話に限られるわけでは ない。文学作品にも及び、従って、国語教育の申で文学作品の中の語られぬこ

ヱ02  (18i)

(8)

とばを読み取るといった教育の必要性が出てくるのではないだろうか。「さっ し」の教育、つまり、話さざる者、書かざる者の心晴を察する能力・感受性の 育成といった教育に傾くのである。また、抽象的な概念と語彙を結び付けた形 で学んでいく、論理的思考を育てるといった目的も小・申・高等学校の教育の 中では当然考えられるべきものである。以上、コミュニケーションの手段とし ての教育というよりも、コミュニケーションの背後の思考力、感受性を育てる ことを重視する立場を見た。

 ただし、国語教育でも口頭コミュニケーション能力を無視するわけではなく、

国語の教科書を見れば、話し合いのしかた、わかりやすい話し方といった項目 も目につく。ただ、現状では、教科書に項Hがあっても、学習者も教師もそれ をクラスでどう生かすかがわからず、そそくさと済ましてしまうといった傾向 が強い。そのためか口頭コミュニケーション能力の育成の必要性を感じている 日本人はかなりおり、それが各種の話し方講座の隆盛、企業内研修にもつなが っているとも言えよう。つまり、ここに見られるのは、言語教育よりも人間教

育を重んじる教育理念と、口頭コミュニケー一一一ション能力の育成は学校制度外に

まかせるという暗黙の方針である。

 しかし、国語教育では容認される教育理念も日本語教育の場に持ち込まれる ことには疑義を呈したい。日本語教育で、特に言語形成期を過ぎた成人を対象 とする場合、学習者の母語・母文化があたかも存在しないかのような疑似国語 教育がなされることは何としても避けられるべきである。また、成人学習者を 対象に 日本のこころ がわかるような情緒の育成といった方向に立って、押 し付けの日本文化教育をすることも避けたい。H本国内の場合、様々な文化を 持った学習者が一堂に会することも多い。一人の教師がそれぞれの学習者の母 文化を知ることは不可能である。いきおい、 日本入のわび 日本人のもの のあわれ といったテーマのもと、学習者の文化はまったく心得ずにH本の ユニークさ を講義する態度も出てくる。講義を聞く学習者の方は少なくと も自分の母文化との対比は出来るので、教師の他の文化に対する知識のなさに 驚く場合も出てきたりする。N本語教育としては学習者に臼本語でのコミュニ ケーション能力をつけ、学習者自身が日本語を運用して比較文学でも比較文化 でも追究出来る条件を作り出すことに専念すべきではないだろうか。

(180) ZO3

(9)

 さらに、異文化教育の專門家以外によって日本語教育の場で行なわれる、い わゆる文化教育が日本文化に関する知識を増す働きはしても、その中で行動し ていく能力を育成するまでには至らないことが多いことも指摘したい。学習者 が問題を感じるのは、「俳句」や「茶の湯」といった作りあげられ継承されて きた文化ではなく、無意識のうちに社会の成員が身につけた 文化 なのであ る。そういった文化を持っていることすら意識されないような価値感や行動パ ターンが日本人のそれと類似しない時に学習者は悩む。日本人教師自身も 化 を認識していないことも多く、また認識していても、往々にして個人の体 験に基づいた主観的な分析に終わることが多い。まして、文化の教育に名を借

りて、コミュニケーション能力の育成が軽:視されるのは好ましいことではない。

異文化間のコミュニケーション能力の育成は単一文化内の教育とは比較になら ない周到な方策を必要とするのである。学習者から見て日本語で交わす最初の コミュニケーションの相手となる可能性も大きい日本語教師は、まず第一に日 本語教育の場がそれ自体異文化コミュニケーションの場であること、そして第 二に異文化コミュニケーシsン能力を育てる場であることを強く自覚する必要 がある。異文化コミュニケーションの基本にあるのは、異なったものの見方・

考え方・感じ方を認識することである。たとえ、自国の文化では、ある面で自 文化中心主義の姿勢が高く評価されるものであったとしても、それを日本語教 育の場に最初から持ち込む姿勢が、異文化コミュニケーシ9ン能力を育成する とは思えない。新時代に求められる日本語教育とは学習者の文化を尊重しつつ、

       5)

日本語でのコミュニケーション能力を無駄なく伸ばす教育であろう。

 さらに、日本国内で行なわれる教育の場合、教師という本来強い立場に立つ 者が、自分の文化の申に学習者を迎え、コミュニケーションの主要な手段であ

る言語のハンディキャップは学習者に負わせた形で向き合っているという事実 がある。日本語教育において学習者を中心にすえた教育方法の研究が早急にな されなければならない理由は以上のような点にある。様々な学習者が異なる条 件のもとに日本語を学び始めた今必要とされているのは、体系だった理論研究

を経た上の多様な教授形態である。

4.外国語教授法理論の流れと日本語教育

外国語教育においてはギリシャ・ロ・一一マの時代から、対立する立場が存在し

104   (179)

(10)

てきたと言える。一醤で言えば、直接法と対訳法の対立である。外国語教育は このふたつの問を振り子のように、時代によって地域によって揺れてきた。日 本語教育においても、例えば、山口喜一郎は半世紀以上前に発行された著書『外

国語としての我が国語教授法』において、直接法と対訳法を詳細に比較対照し

   6)

ている。山口は台湾、朝鮮、中国で直接法による日本語教育を行ったが、けっ して日本国内の小学校での教育をそのまま行なったわけではない。19世紀末に F、グアンによって提唱されたグアン法を研究し導入したのである。山口らの 著作は現在でも多くの示唆を与えてくれるが、また、同時にその後の研究が解

明した点も多い。つまり、外国語教授法は同じ場所でただ振り子のように直接 法と対訳法の間を揺れてきたわけではない。言語習得過程、中問言語、学習心 理、コミュニケーション能力等の解明といった心理学や社会言語学等の研究成 果を取り入れ、左右に揺れつつ、より進んだ形へとらせん状の階段を登ってき たと言ってよい。学習者の母語の使用ひとつをとってみても、使うか使わない かの二者択一の時代ではない。

 ここで、かなり広い意味を持つ 教授法 という書葉を整理してみたい。伊 藤嘉一はE.MAnthonyに従い、教授法の「法」にあたる用語を3種類に分け

   7)

ている。すなわち、apProach(アプローチ), method(メソッド), technique

(テクニック)である。アブi・1・・一チは言語の性質や言語の学習・教授等に関す

る一連の仮説であり、いわば言語教授の公理のようなものとされる。メソッド はアプローチに基づいて教材を堤示したり、指導したりする方法であり、テク ニックはメソッドを実践するための技術や工夫、秘訣などとされている。つま り、理論から実践への段階と考えてよい。そして、教授法を考える時、理念ば かりを追究しても、あるいは、日々の授業技術ばかりを云々しても研究として は不備と言える。これまでの日本語教育では、現場の教師が実践に追われ理論 面での研究をおろそかにしてきた傾向がある。もっとも、理論面の研究がかな り進んでいる英語教育の世界では、理論と実践との相互交流が不十分であると       8)

指摘されることも多い。総合的な研究は二方向、つまり、アプローチから出発 する方向と、H々の実践、つまり授業観察から出発する方向の両方とその相互 交流が求められるべきであるし、さらに授業観察も教師がどう教えるかから、

学習者がどう学んでいるかに視点を移すべきである。今回、この小論では、現 実の日本語授業の記述に入る前の段階として、日本の英語教育において、コミ

(ユ78)  ヱ05

(11)

ユニケーション能力の育成がどのようにとらえられているかの一端を見てみた い。というのは1970年代のイギリスに始まったコミュニケーション能力育成を

うたう英語教育の流れが、日本の英語教育だけでなく、日本語教育にも大きな 影響を与えているからである。具体的教授の例として、幅広い視聴者を持つテ

レビの英語会話講座を取り上げる。

II 英語授業と異文化コミュニケーション

1.テレビ英会話番組のねらい

 今回取り上げるのはNHK教育テレビでig90年4月に放映されたある英語

会話番組のユ回分である。この番組を取り上げた理由は、以下の通りである。

まず、教授法理論の研究が進んでいる英語教育の実践の場を見ることは重要で あるが、現実の授業の観察の機会を得ることが難しい。第二に、日本語教師養 成を受けていない日本人が日本語教育を依頼された場合、自分の学習体験の他 に参考にするものにテレビの語学講座がある。そして、第三に多くの語学番組 の中からこの番組を選択した理由は、これがまさにコミュニケーション能力育 成を正面からめざして製作されたものだと主張されているからである。テキス トの最初に「私たち日本人が外国人と英語で意思を通じ合おうとするとき、ど んな問題があるのか、どうすれば会話がなめらかに進むのかというテーマにし ぼり、コンパクトかつ実践的な番組をお届けします。タッチとしては、表現や 発音を学ぶ教室というよりは一緒に海外旅行に出かけて、テレビの画面を通し て、英語でのコミュニケーションを体験する一そんな感覚を大切にしたいと思          9)

っています。」とある。

 さらに、rことばが持つコミュニケーションに役立つ機能を中心に番組の構 成を考えていきます。また、その機能を生かすために、コミュニケーションに 問題が生じるような状況を設定し、その場を上手に切り抜けるための手段とし て、様々なことばの機能やコミュニケーションのストラテジー(戦略)を導入 します。さらに、応用練習のコーナーでは、その課で取り上げられたことばの 機能やストラテジーを、実際にゲームあるいはタスクとして使う練習をしてみ

       10)

ます。」とある。

ヱ06   (177)

(12)

 そして、まさに前書きにある通り、この課では「共通の話題をさがして話し 始める」がテーマとして選ばれており、「関係代名詞の限定用法をとりあげる」

などといった文法中心の形にはなっていない。飛行機の中でとなりの乗客に話 し始める場面の入ったスキットが主要な教材であるが、そのほかにも電車の中 での異なるタイプの人々の問の話の始め方も紹介し、英語の多様な運用の型を 示している。さらに、スキットを1回目、2回目と見るうちに談話の流れがは っきりつかめるように構成されている。使われている英語は自然な会話体であ

り、話題も日米摩擦的なものを覗かせている。「ニューヨークにどれくらいご 滞在の予定ですか」といった事実情報を求めたり与えたりする文だけでなく、

感購的態度の表明なども出てくる。これらはコミュニカティブ・アプローチ(コ ミュニカティブ言語教授法〉の理念に沿ったメソッドを種々の点で用いている ことを示している。しかし、同時にコミュニカティブではない点も多く存在す る。以下に、まず、授業の構成を見る。

2.授業の構成

授業は次のような構成を持つ。

時間配分

1.ウオームアップ

 1 39

授業構成

自己紹介とあいさつ

使用言語

英言吾+E{本言吾

(十英語テロップ)

2.スキット

  10  1,25   46 計6 18

言†2 31

  45

スキットのあらすじ紹介

スキット1回目

スキット解説

スキット2回目3回目4回目

スキット解説2,3,4回臼

表現復習

日本語

英語モデル会話 英語+日本語訳 英語モデル会話 英語+日本語訳

英語(英語テロップ)

(ユ76)   107

(13)

3.映画で学ぶ英会話

  55

 1 20  1 08

説画説 解映解 日本語

英語(日本言吾字幕)

日本語+英語例文

4.会話場面紹介

 2 17 絵を使った会話場面 日本語英語例文日本語訳

5.まとめ

  12

(全20分)

挨拶

日本語(+英語)

(英語モデル会話の部分は、テキストに完全な英語表記と語句・表現の訳およ

び全文の日本語訳がのっている。)

 以下、異文化コミュニケーションの観点から番組を見ていく。語学番組の場 を普通の語学授業と同等に考えた場合、そこには三つの圏的が考えられる。第 一に、対象言語が用いられる社会のコミュニケーシgンの形を示し、知識を増 すと共に学習者の観察力・分析力を育てる、第二に、学習者に教室内で言語学 習のための練習をさせたり、(疑似)コミュニケーション活動をさせたりする・

第三に、学習者の教室外の学習活動およびコミュニケーシgン活動のための方 向付けをする、の3点である。そして、この番組に関しては、第一の英語のコ

ミュニケーションに関する知識を増すことで、コミュニケv・・一・・ション能力を間接

的に育てる観点しかみられなかった。

3.コミュニケーション場面紹介の場としての番組

以下に番組の冒頭部分を記述する。

1 Arthur

2 Risa

Hi, everyone. My name is Arthur Kuroda, and I am fr◎m the West

Coast.       (英語テロップで名前)

Hi, my name is Risa Stegmayer and I am from the East Coast.

108  (175)

(14)

3Arthur:はい、というわけで、偶然にも私が西海岸、そしてリサが東海岸。

      え一、2人は東と西にわかれての司会となります。本日新しくで       すね、英語会話1がスタート致しました。よろしくお願い致しま

      す。

3 Risa :よろしくお願いします。

4 Arthur:By the way, Risa, the weather is getting very nice lately.

5 Risa  :Yep, iガs getting warm.

6 Arthur:Spring has finaUy come.

7 Risa  :Yes, bye to winter.

8Arthur:Right.え一、というわけでですね。春がやっと来たという感じな       んで、え一、ちょっとこの写真ごらん下さい。

9 Risa  :はい。 Here, we have Jefferson Memorial overlooking the P◎tomac       River, This is the annual cherry blossom festiva1, and these are

      the cherry blossom queens.

10Arthur:はい、え一、今ごらんいただきました写真はもう、ワシントンの       桜といえば有名ですよね。

11Risa :そうですね。

12Arthur:え一、また、え一、桜祭りの女王、桜祭りのフェスティバル、こ       れもけっこう有名な話でございます。一後略一

 まず目につくのは伝達に使われる言語が常に英語→日本語訳の流れになって いることである。そして、英語と日本語訳の問にはまったくポーズがなく、流 れるように進んでいく。教師の役を果たす出演者が4人いるが、そのうち3人 はほぼ完全なバイリンガル話者であり、日本語英語の両方を母語の自然な調子 でこなしていく。自然なのは発音だけではない。日本語の発詣を見ても自然な 口語体であるし、5の英語の応答詞にも明らかなとおり英語も自然な口語体で ある。言語は終始両方を使っていくので、どちらが出てくるかは、聞くまでは 予測出来ない。8,9などには、ひとつの発話内での言語コードの切り替えが 出てくる。言語コードの切り替えをもう少し見てみたい。

 以下は、映画で学ぶ英会話のコーナーである。記述が長くなるので一部に留 めるが、ここはMarieというもう一人の完全なバイリンガル話者が受け持って

(ユ74)   109

(15)

いる。Marieの流れるような日本語によるコーナーの解説、今回の映画の解説 の後、Let go◎f my headという今日のセンテンスが紹介され、そして映画の シーンが流れる。下の括弧内は字幕である。

1 映  画:一前略一一 No, no, don t push. Hey, stop with the pushing already!

      Hey,1 m fallin !

      (おいよせ! 落っこちるよ!)

      Oh−h−h−h!Wa・Wow!He−1−p!He−1↓p!

      (助けてエ!)

      Oh, no!Put me back in, put me back in, please. Buddy, let go(of)

      my head and put me back iR, please.

      (首を押さえるな!)   一後略一

2Marie :いかがでしたでしょうか、あの赤ちゃんの声。聞き覚えがあると       思ったあなたは鋭い。ダイハードのブルース・ウィルスが声を演       じていたわけなんですね一。で、なんとこの番組では、ジnン・

      トラボルタさんから直筆のサインまでもらってしまったのですよ一。

      はい。

3Arthur:ところで、とりあえず、何ですか、ちょっと待ってください。首       を離せって、これ、どこで使うんですか。

4 Marie :もちろんレスリングやってる時に使えますですが、いろんな応用      がききます。これはLetgoof my headだからいけないのであって、

     例えばだれかがこうやって腕をつかんじゃった時には…

5 Arthur:Let go(of)my arm,

6Marie :と言えますよね。それから引ったくりに会った時にはLet g◎my

      bagというふうに言えますし、 body snatchers fr◎m outer spaceに       はLe乞9◎of my bodyと助けを求めることができるわけですね一。

7Arthur.かなり飛躍してる意見だと思いますがね一。

8 Marie :You don t know what tomorrow has in store for you.

9 Arthur:That s true.

10Marie :あした何』が起こるかわからない世の中ですので、このLet go of       myなになにと言って助けを求める…

11Arthur:でも、なんか、ただ単にhelpと叫んだ方が早いような気がしな

1fO   (173)

(16)

      いでもないんですが。

12Marie そんな気がしなくもありませんが、とりあえず役に立つ今日のセ

      ンテンスはLet go ofなになにでした。

 言語コードの目まぐるしい切り替えが見てとれるが、ここで注目すべきこと は英語は英語で発音され、外来語は完全な日本語で発音されていることである。

日本語の自然さが損なわれることはない。さらに、自然な英語という点では、

むしろ自然過ぎるような英語が使われているのにも気付く。まず、硬画は登場 人物がパニックに陥ったシーンであり、大変な早さでセリフが話されている。

アメリカ人でも画面と照らし合わせつつ必死になって聞かなければ聞き取りが 出来ないところであり、EII本人の学習者にとって、文単位の発話はおろかキー ワードを聞き取ることもまず無理であろう。Alreadyの使い方は標準的な用法

からは外れており、また、課のポイントである 1et g◎of−一・ 表現もofが軽く

発音されたり、完全に落とされたりする。つまり、日本語に関しても英語に関

しても、教育的見地よりは、生の自然なコミュニケーションの実態を出すこと が優先されている。その姿勢は出演者間の会話にもビデオのスキットにもさら

に絵を使った会話場面にも見られ、繰り返すとか、答えるためのポーズのよう な言語学習のための活動は遣かれていない。つまり、自然な、あるいは、かなり 自然に近いコミュニケーション場面の紹介に徹しているのである。

 しかし、それではこれが普通の英語で行なわれるコミュニケーションかと醤 えば、現実0コミュニケーション場面と比べた場合、やはりかなり特異なケー スであることは否めない。出演者間のコミュニケーションの部分では常に英語 と日本語が交互に現れるが、バイリンガル話者のコミュニケーションであって も、これほどの言語コードの切り替えは通常は考えられない。しかも、コード 切り替えは訳のためになされているのである。それは切り替えが視聴者を意識

した教育的見地からなされていることを意味する。そこで、次に教育的視点に

立って考えてみたい。

4.コミュニケーション能力育成の場としての番組

前項で見たように、学習者である視聴者は英語を聞くやいなやかなり忠実な 臼本語訳を聞く形になっている。従って英語が聞き取れなくても、意味を考え

(172)  ヱU

(17)

る必要はない。必要がないというより、考える問は与えられていないのである。

間髪を入れず日本語で意味があたえられる。言語コードが英語だけになってい る部分は映画とスキットだが、映画の場合は字幕が同時に与えられ、スキット の場合は前もってテキストの中で日本語訳が与えられているので、番組全体が 対訳付きと言ってよい。こういった場合どうしても意味内容の伝達、つまり、

真のコミュニケーションは日本語にたよることになる。英語はモデルとして提 示されるだけである。言語を車にたとえれば、昔の文法対訳法ではエンジンの 構造が文法説明という形で詳しく解説され、今は走っている様子が映し出され るようなものであろうか。学習者にしてみれば、見ているだけで試運転させて

もらえないことはどちらも同じである。

 次に、外国語との接触とその言語の習得について考えてみたい。接触が習得 につながる過程を解明するには、まず第一に対象書語との接触の量と質の検討、

そして第二に接触から得られるインプット(学習者が学ぶためのデータにでき る言語)と学習者との関係を見直す必要がある。そこで番組を見ると、英語と の接触量はかなり限られていると言わざるを得ない。ただし、量だけ多くても 意味を持たない接触もある。一日申、ある言語が流れる中に置かれ℃いたとし ても、つまり、接触量が大であっても、インプットとしては小さい場合である。

例えば、日本人の若者などが連日英語の放送を流しっぱなしにしていても、意 識的に聴かない限り、英語の運用能力はおろか、英語に関する知識も畜積され ないのが良い例である。聞こえてくる言語が速すぎたり、難しすぎたりすれば 学習者が得るものは限られる。いわゆる「さっぱりわからない」「状況すらつ かめない」といった場合にはほとんどのインプットは無駄に流れていくことに なる。有効なインプットとは、学習者が現在持っている外国語能力のやや上と いうことになる。S. D.クラッシェンがiRput hypothesisで提唱するところ

   11)

である。その点から番組を見てみると、英語だけに限って言えば、スキットに 現れた以外の英語はこの番組の視聴者のレベルとはかけ離れているのではな いかという気もしないではない。つまり、対訳の利用があるために、英語自体 の難易度に神経質にならない点は、従来の文法対訳法(初級文法を終えた後は いきなり古典を読ませるといった伝統)にも通じる。

 次に、テレビやラジオのインプットと、ある状況の中で直接話しかけられる 形のインプットとの間の差について考えたい。まず、インプットはインターア

112  (171)

(18)

クション(相互作用)があってこそ学習者に取り入れられると考えてよい。学 習者と対象言語を運用する人間とのインターアクション、学習者とその言語が 用いられる社会とのインターアクションの質と量が言語の習得に決定的な役割 を果たすのである。今回の番組に関しては、学習者である視聴者に要求されて        12>

いることは、ただ傍観者として黙って画面を見詰めていることであった。入工 的であるにしろ、画面と視聴者との間にインターアクションを作り出す姿勢が あっても良いのではないか。

 例えば、番組のスキットの中から気まずい沈黙が流れるシーンを例にとって 考えてみたい。これは日本人男性乗客が飛行機のとなりにすわったアメリカ人 女性乗客に話しかけられず固くなったまますわっているシーンである。テキス

トでは以下のようになっており、実際のスキットもその通りに進む。

一一O略一

1. Stewardess

2.Susan

3、 Stewardess

4. Satoshi

5. Stewardess

:Excuse me, W◎uld you hke something to driRk?

: Ah_yes. Do you have orange juice?

: Yes, we d◎. How about you, sir?

: Oh,1 d正ike some c◎ffee, please。

:  ()fcourse.

(日本人の乗客が話しかけられず固くなってすわっている。スチュワーデスが

飲み物を用意する問、気まずい沈黙が流れる。)

      Here you are.

6. Susan&Satoshi:Thank yQu.  一石麦暗一

 スキットでは日本人男性がうまくIl火が切れない様子を見せるために、長い 沈黙の時間が流される。その間視聴者はぼんやり画面を眺めているだけである。

番組と視聴者との間にインターアクションが起こるとは考えがたい。もしアメ リカ流会話術では乗り物の席でとなりあった同士気まずい沈黙は避けるものだ と教えたいのであれば、以下のような練習を考えてみてはどうだろうか。

(5の画面で)

L何だか気まずい雰囲気ですね。ここはSatosbiさんになったつもりで、現

(170)   ZZ3

(19)

状打開をはかってみましょう。Susanさんにちょっと英語で話しかけてみまし

ょう。(ポーズ 視聴者は画面を見つつ話しかけてみる)

2.さて、アメリカ入女性のRisaさん(教師1)だったらどう話しかけるで しょうか。Risaさんはどんな言い方をすると思いますか。(ポーズ 視聴者は Risaが話しかけようとしている画面を見つつRisaの口火の切り方を想像して

醤ってみる)

3.Risaのモデル例を出す

4.あなたの話しかけ方と同じでしたか。違いましたか。同じ理由はなぜでし ょう。違う理由はなぜでしょう。(視聴者は自分とRisaとの違いの原因を考

え、英語で表現してみる)

5.次にアメリカ人男性のArthurさん(教師2)が話しかけます。どう言う

と思いますか。(ポーズ)

6.Arthurのモデル例を出す

7.どうしてArthurさんとRisaさんは話しかけ方が違うのでしょう。説明して

ください…

 ここでは、多様な運用を示しているだけではない。視聴者は英語を使って、

まず行動してみる。次に、アメリカ人の行動例を見る。自分の行動例との違い を考える。そして、自分の考えを英語で表現する。つまり、あらかじめ正答を 与えられるのではなく、「ある状況で行動する→その文化では誤解を招く点に 気付かされる→自分の行動パターンを作り出す」という異文化コミュニケーシ ョンの方策を取り入れようとしているのである。また、英語を道具として使っ て、自分の考えを表出する過程も組み込まれる。実際の社会では誤解を招くこ とがこわくてなかなか踏み出せない異文化の中の言語行動を、安心してやって みることが出来る、そして、教師からのフィードバックがある、それがコミュ ニケーション能力育成を意図した授業の形ではないだろうか。たとえテレビ番 組であっても語学授業の使命を忘れるべきではないと思う。視聴者とインター アクションを持ちつつ番組は進行していき、必要ならば指示や質問に日本語が 使われることも構わない。母語や媒介語の使用は絶対的に排斥されるべきもの ではなく、むしろ成人学習者で母語の一一5kしている集団などの場合有効に使わ れるべきである。ただ、視聴者は英語で答え、英語で自分の考えを表現してみ ることを基本とする。そこで意図されていることは、横に先生が座って車をち

Zl「4   (169)

(20)

よっと動かしてみる過程である。ただ車の内部構造を教わったり、走っている 所を見るだけでは、よほど積極的であるか必要性に迫られているかする学習者 でない限り、自分で車を動かしてみることはしないだろう。異文化コミュニケ

ーションの教育では知識だけでは不十分である。普通の教室であればra・一一ルプ

レイ、シミュレーション等、実際に行動し、感情を伴うような活動が持たれる

べきである。

 最後に、2の項の第三点、教室外での学習活動およびコミュニケt・・M…ション活

動との関連性についてひとこと述べたい。この番組ではインプットの提供に徹

し、学習のプロセスも言語表出も学習者まかせの方針をとっている。時間的制 約を考えると、情報提供に追われる気持ちもわからないではないが、せめて学 習のプロセスに関する指針ぐらいは与えられても良いのではないだろうか。そ れがなければ、洋画を見せ、英語のディスクジョッキーを聞かせるのと大差な いからである。この点については、次回にさらに考えてみたい。

おわりに

 今回は、ひとつの英会話番組の、それも1回の放映分しか取り上げることが 出来なかった。極めて不十分な取り上げ方である。言うまでもないことだが、

この小論の目指したところは、特定の語学番組に評価を下すことではない。ま た、特定の教授法に関して評価を下すものでもない。異文化コミュニケーショ ンの見地から外国語教育を考え、ひとつの教育例の分析を試みたものである。

 以下に、今回取り上げた番組と日本における伝統的な外国語教授法との共通

点を整理しておきたい。

1.対訳法を用いている。従って英語のレベルについてはそれほど厳密ではな く、内容的にまとまったものが盛り込める。

2 .対象言語に関する知識を与えることに主眼を置き、実際にコミュニケーシ ョンを持つ過程は学習者にまかせる。

3.モデル教材がひとつ与えられ、モデルの理解と暗記が求められている。

 正答を学習者が覚えるといった方法は、日本の教育に多く見られるものであ る。すなわち、英文学書を左手に、チョークを右手に持った謹厳な教師が読み

(ユ68)  U5

(21)

書きを強調した時代から、芸達者な明るい人々と現代アメリカの代表的なポッ プカルチャーを紹介するビデオが聞き話すことを強調する形に変わったとして も、底にある教育観に共通するものを見出すことが出来る。これが今までの日 本人の平均的な外国語教育観の中核をなしているのではないだろうか。そして 当然、日本語教育にもその影響は色濃く出ている。これについても次回に考え

たい。

 最後に断っておきたいのは、コミュニケーションの面からは、あまり有意味 とは言えない点も、他の面から光をあてれば優れた面を持つということである。

今回の番組に例をとれば、出演者の二重雷語能力のすばらしさは、視聴者にあ こがれを持たせ、強い動機付けとなる可能性が十分にある。最新映画のシーン や映画スターのサイン、米国の風景写真等で米国文化に関する知識が増すこと も、明るい笑顔で視聴者の気持ちがなごむことも語学学習に良い影響を与える。

番組全体に流れる軽快なテンポは耳に残り、英語を表出する時点で役に立つか もしれない。時代にマッチした軽快さ・明るさは視聴者をとらえ、番組視聴を 続ける気持ちにさせるかもしれない。いずれも教育面から見て重要な要素であ

り、その点からは良質な番組だと言える。それは、かつての英文学・フランス 文学などの名講義が多くの学生を魅了し、彼等を語学の学習にかきたて、優れ た外国語の使い手を生み出したことにも通じる。しかし、時代が変わり、大量 の入間が異文化コミュニケーションの必要な環境に置かれる今、外国語授業が 動機付けだけに終わっては不十分であろう。「教養としての外国語教育」の使 命を持つ講座は別として、一般的な外国語授業、特に第二言語教育では学習者 が効率良くコミュニケーション能力を身につけるために教育の方法がどうある べきかが研究され、実践されるべきである。コミュニケーション能力育成を意 図するならば、従来の日本人の外国語教育観を反映するような教育は再考され

るべきであろう。

1)オブライエン、」.「米国の日本語教育事情」『日本語教育61号』1987.3 日本語教

育学会P.3

2)中西一弘「朗読と国語教育」『日本語学』1987.12 明治書院P.4

3)同上P.5

4)本名信行「寡黙と多弁」『言語7』1988.7 大修館書店 PP.61−62

ZZ6   (167)

(22)

5>言うまでもないことだが「学習者の文化を尊重する」という考えは、徒に教師が学  習者に迎合したり、来日した外国人が日本の風俗・習慣に従わないことを奨励するも  のではない。基本的にはある期問生活する社会の価値体系や生活習慣は尊重されるべ  きである。しかし、異文化の中に生活しているからといって、学習者の人格の中核を  なすもの、立場の中心をなすものを侵すような教育は避けられるべきである。

6)山口喜一郎『外国語としての我が国語教授法』昭和8年3月発行 新高堂書店 (『EI  本語教授法基本文献』 復刻版 1988 冬至書房)をはじめとして、『日本語教授法基  本文献』全5冊および『日本語』全7冊に日本語教育上興味深い論争が繰り広げられ  ている。また、日本語教育が政治に翻弄されがちな現実を突きつけてくる点からも、

 自戒を持って読まれるべき文献集である。

7>伊藤es・一一・『英語教授法のすべて』1984.3大修館書店 P。4

8) Krashen, S. D. Principies and Practice in Second Language Acquisition Pergamon

 Pressユ982第1章

9)『NHKテレビ英語会話1 4月号』 1990.4 日本放送協会 P.3

10>同上 P.4

11)Krashen, S. D.同上

12)テキストを見るとTake・offというコーナーが視聴者にやらせてみる部分に思えるが、

 番組ではモデル会話を示すに留まっている。

(166)   217

参照

関連したドキュメント

③ ②で学習した項目を実際のコミュニケーション場面で運用できるようにする練習応用練 習・運用練習」

 発表では作文教育とそれの実践報告がかなりのウエイトを占めているよ

日本語教育に携わる中で、日本語学習者(以下、学習者)から「 A と B

注5 各証明書は,日本語又は英語で書かれているものを有効書類とします。それ以外の言語で書

早稲田大学 日本語教 育研究... 早稲田大学

高等教育機関の日本語教育に関しては、まず、その代表となる「ドイツ語圏大学日本語 教育研究会( Japanisch an Hochschulen :以下 JaH ) 」 2 を紹介する。

その結果、 「ことばの力」の付く場とは、実は外(日本語教室外)の世界なのではないだろ

 さて,日本語として定着しつつある「ポスト真実」の原語は,英語の 'post- truth' である。この語が英語で市民権を得ることになったのは,2016年