ニーチェにおける「両義的思考」
著者 砂原 陽一
雑誌名 金沢大学文学部論集. 行動科学・哲学篇
巻 27
ページ 135‑155
発行年 2007‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/2297/3851
金沢大学文学部論集行動科学・哲学篇 第27号2007年135-155
ニーチェにおけるく両義的思考>
砂原陽一 AmbiguityinNietzsche
YOichiSUNAHARA
ハイデッガーのニーチェ論考における深く行き届いた解釈は、読者を魅了してしまうだ けでなく、ニーチェ読解に呪縛的方向を与えるといってよいほど、説得力をもっている。
ハイデッガーのく存在>を思索する視圏からすると、「力への意志」は存在者を統宰する存 在として捉えられ、近世主観主義を極限まで推し進めた「形而上学の完成者」と看破され る。しかしニーチェ自身は、ハンマーをもって伝統的形而上学を打ち壊す破壊者を自認し ていたのではなかったのか。われわれは、ハイデッガーの解釈を検討しつつもその呪縛に 捕らわれることなく、われわれにとっての「ニーチェ」を浮き彫りにすることを試みる。
そのためには、「存在の歴運」というハイデッガーの思索の視圏を離れて、ニーチェが本当 のところ哲学の真理性ということでもって、何を考えていたのか、あるいは伝統的形而上 学の何を破壊しようとしていたのかを捉える必要がある。われわれはこの小論で結論づけ ることは、実はニーチェ哲学の核心というものがもしあるとすれば、それは従来の哲学の 問題なるものが深くしかも必然的にく誤謬>に根づいていることの洞察である。ニーチェ は道徳を批判して「善悪の彼岸」に立つと同時に、哲学を批判して哲学的問題の彼岸に立 ちつつその立所を自ら壊すのである。ニーチェにおいて創造への道と破壊への道は実のと ころ、同じ事柄の両面なのである。「哲学の彼岸」に立つニーチェは一筋縄ではいかない。
この小論は、それを「二重の思考」を挺子にするニーチェとして明らかにする。ニーチェ が「形而上学の破壊者」たる真の所以は、理想主義の二世界説を批判したこと以上に、そ の思考のスタイルにあると考えうるからである。
L哲学がおよそ哲学でありうるのは、不抜で堅固な原理を得るべく苦難と労苦に満ちた道 を歩むことであろう。道が苦難に満ちているのは、至るべき最終的な真理を覆う様々の誤 謬を一つ一つ排除していかなければならないからである。だが驚くべきことにニーチェは、
原理となるような真理などないというのである。するとニーチェには、歩むべき哲学の道 は存在しないということになるのか。そうではない。ニーチェの苦闘は、真理の存在を自 明なものとして信奉し尊崇する哲学者たちの能天気さへのいらだちを伴った批判にある。
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それゆえにニーチェの苦難の道には終局がない。もしあるとしても、それはいわば一切が 無物であるという地点であろうし、その終局は新たな出発でもある。真理が存在しないと は一体いかなるこなのか。
ニーチェは「真理と誤謬の価値」という表題をもつ遺稿覚書で、次のように激高の言葉 を放っている。「プラトン主義は、「現実」という概念をひっくり返して次のように主張す る。「プラトニズムは「現実」という概念をひっくり返し、「君たちが現実と思っているの は、一つの誤謬である。われわれはくイデア>に近づけば近づくほど、<それだけ一層>
真理に近づくのだ」と。-おわかりであろうか?これは最大の改名だった。これがキリスト 教に採用されたところから、この驚くべき事柄の真相をわれわれは見落としたのである。
プラトンは根本においてみずから芸人として存在よりも仮象を好んだのである。つまり真 理よりも嘘と空想に優先権を与えたのだ!目の前にあるものよりも非現実的なものに!(1886 年末-1887年春、7[二]VIII1,p261)」
この覚書は、存在と仮象、真理と虚構の転倒が問題になっているのだが、ここでの見か けの分かり易さは、かえって分かりにくさを表している。キリスト教徒が、その時まで禁 欲的かつ敬虐的に生き、!悔い改め、福音を唱えることによって死後にそこでの永遠の浄福 が約束される「神の国」とプラトンの「イデア界」が、同じ過ちを犯している点で根を同 じくするというのである。ニーチェは、われわれがそこに足を置いている感性的現実を「大 地」と呼び、それへの忠実を訴える。だがプラトンでは、感覚される事物はそれぞれが婆 や形を持っているとはいえ、本来の本質的姿が歪められ、損なわれたものとしての地位し か持たせられていない。プラトンの「国家」における「洞窟の比楡」が、洞窟内の奥の壁 面に写る影像をそれとも思わないで信瀝し、実はそれらがイデアの歪められた形姿にすぎ ないものであることに気づかない囚人の知の未自覚な段階を語っている。キリスト教では、
その未自覚の段階が「彼岸」に対しての「此岸」にあたる。同じ過ちとは、「イデア界」と
「神の国」という彼岸がいずれも嘘と空想の産物であるにもかかわらず、確固とした実在 を与えていることである。ニーチェがそこに、一切の変転や生成がなく、永遠に恒存的で 自己同一的な存在を真理であり最高の価値とする思想の伏在を洞察し、その転換の表明が 上述の遺稿の言葉に外ならない。するとニーチェの「最高の価値の価値転換」は、プラト ン的キリスト教的二世界論を生成の-世界論へと解消し、いわば洞窟内の囚人の立場をよ しとするものだけなのか。われわれは、「現実」と「イデア」、「現世」と「神の国」の転倒 を非難するニーチェの激しい口吻から容易にそうした解釈傾向に誘われる。ニーチェは、
目の前にある感性的現実がそのまま真理だというのか。この疑問を解決するためには先ず、
「存在よりも仮象を好んだ」という言葉の真の意味が捉えられなければならない。
「華やぐ知恵」343のアフォリズムで最初に登場し、『ツアラトウストラはこう語った」
第一部の序説で、森の聖者との別れ際にツアラトウストラがつぶやいた「神は死せり」の
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言葉は、キリスト教のみならず、最高の価値を持たせられていた超感性的世界がもはや無 効であることの宣言である。この宣言はまた、プラトン主義として括られる一切の事象の 根拠を超(メタ)感`性的現実に置く形而上学の終焉の告知でもある。ニーチェからすると、形 而上学が依って立つ超感`性的世界は、現実に耐えられない人間の弱さによって提造された 元々<無い>虚構空間であるがゆえに、形而上学は既にく無>を信奉するニヒリズムなの である。ニーチェはいう。「人間はこの世界を誹誇し、汚辱しうるために、一つの世界を提 造する。事実、人間はいつも無へと手を差し伸べ、無をく神>に、<真理>にでっちあげ、
そのたびごとにこの世界の存在の審判者や断罪者に仕立てあげる。」(1888年春、14[一三 四]、Vm3,p、110)つまり超感性的世界がく無>であるのは、この世の現実がそれ自体では なんの価値もないものとする最大限の否定の原理となっているからである。われわれは、
形而上学に深く浸透しているこの否定の原理の下に先の言葉の意味を捉える必要がある。
ここで先ず、「神は死せり」をめぐるく無>と感性的現実の関係を改めて考えるために、ハ イデッガーの解釈を検討しておくことは無駄ではない。
ハイデッガーは、ニーチェの言葉「神は死せり」は、形而上学、すなわちプラトン主義 に対する反対運動の表明であるにしても、この反対運動にはなお形而上学の残津が見出さ れると洞察する。なぜなのか。ハイデッガーは言う。「しかしながらニーチェ自身の哲学は、
単なる反対運動としては、すべてのく反・・・>と同様に、反対運動の攻撃する相手の本 質の中に必然的に囚われたままである。形而上学に対するニーチェの反対運動は、形而上 学の単なる裏返しとして、逃げ道のないほど形而上学に巻き込まれている。」(')ハイデッガ ーのいうニーチェの形而上学への巻き込まれ方は、ニーチェが二世界論を攻撃してもなお、
彼自身気づかない形で二世界論に立っているということではない。この点で「神は死せり」
というニーチェの言葉が、形而上学を破壊する衝迫力を持ちえていることに疑う余地はな い。ハイデッガーが神を殺害したニーチェのうちに見て取るものは、存在者を根拠づける 存在を思索する彼独自の哲学の視角から初めて露になってくる筋合いのものである。この 世を背後で支え、あるいは人々の生きて在ることの意味を与えてきたイデアや神といった 超越的絶対者が心理的な幻想であることが暴露された暁にも世界は残るのだが、ただしそ の世界は、最高かつ絶対的価値の保証を失って虚無へと転落した世界である。虚無への転 落とは、神に代表される超越者という支えを失って、世界における善悪の基準や生きるこ との意味や価値や方向がもはや見つからない事態に直面させられることである。けれども
「神は死せり」の言葉は、従来の形而上学に対する攻撃と破壊が同時に「それにもかかわ
らず(trotzdem)」価値を喪失した世界を肯定し、そこから「生」の条件である新しい価値 の創造に反転する逆転の論理に裏打ちされている。ニーチェは、もはや超越的な外部に拠 らずに新しく価値を定立し、それを生きることの決定的な尺度とすることを「完成された ニヒリズム」と呼ぶ。その際、新しい価値定立が拠るものが、「生」の維持と昂揚を本質的
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な働きとして「生」そのものをなしている「力への意志」である。(2)
ハイデッガーのニーチェ解釈の根は、「力への意志」を価値定立の原理に切り詰めている ことにある。ハイデッガーからすると、この原理は形而上学的原理にしか見えず、それゆ えに「ニーチェの究極の哲学は、力への意志の形而上学として特徴づけられる。」(3)と言い 切る。あまつさえハイデッガーは、近世哲学を通覧し、真理をコギトの確信だとするデカ ルトを経て、その精練の果てにニーチェの「力への意志」が森羅万象を括るく存在>とな っていることを見届けた結果、そこに近世主観主義の完成を見る。それのみならずハイデ ッガーは、ニーチェがこれまでの真、善、美といった伝統的価値を転換し、「力への意志」
に基づく新しい価値を定立することこそニヒリズムの克服の唯一の道としたにもかかわら ず、実はそれ自体がニヒリズムだという。ニーチェのプラトン主義ならびにキリスト教の 二世界論の転倒は、空転しているというのである。これはいかなることなのか。ハイデッ ガーからすると、ニーチェが、転換されるべき超感性的世界の神を最高の価値だとしてし まったことがそもそも、<存在>そのものである神を既めることに外ならない。ニーチェ が、ニヒリズムの克服を「最高の価値の価値転換」という形で、つまり価値の軸で考える 限り、価値とはまったく別の次元で思索されるべきく存在>そのものから遠ざかる結果を 招いている。従って価値の思考を原理にまで高めた「力への意志」の哲学は、<存在>を 価値の影に置き去りにしてしまった。それゆえにニーチェの価値思想は、伝統的形而上学 同様、<存在>を忘却してしまっているニヒリズムだとされる。ニーチェは神を殺害した つもりでいるけれども、実際は神ならぬ別のものを殺害したのであり、その見返りに殺害 はニーチェ自身気づかないもう一つの重大事を犯している。価値を軸にして思考すること がそもそも、<存在>を全面的に取り除く「根本的な殺害」(4)だとされるのである。ハイデ ッガーはいう。「存在そのものに向かって考えると、一切を諸価値に従って考える思惟がニ ヒリズムであるとすれば、ニヒリズムとは最高の諸価値の価値喪失であるというニーチェ のニヒリズムについての経験ですら、すでに一つのニヒリズム的な経験なのである。」(5)
ニーチェの言葉「神は死せり」についてのハイデッガーの解読は、確かに読む者をその 透徹さと深さをもって説得する。だがその解読は、「形而上学は、存在者そのものの真理の 歴史として、存在それ自身の命運から出来している。」(6)として、徹底的にく存在>の歴史 からなされている。そうした視座からすると、神という最高の価値に狙いを定め、遂にそ の価値を喪失させるニーチェもまた、ニヒリズムを経験しながらも、<存在>の看過とい うニヒリズムの本質をはからずも具現化していることも宜成ることである。だがこうした く存在>の歴運というハイデッガー独自の思索の魅力と強力さはともかく、ニーチェが伝 統的形而上学の核である二世界論の破砕というニヒリズムの経験を経たことは、確かであ り、ハイデッガーもそれを認めるのに吝かではない。ただこの破砕の仕方が彼にとってや はり、プラトン以来の西洋哲学に一貫して認められるく存在>忘却の一つの典型であり、
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しかも完成された典型なのである。とはいえわれわれは、ハイデッガーの視座に立たない。
われわれは、ニーチェがく存在>を露呈する道に立っていないからといって、その道に立 つことに不可欠なニヒリズムの経験、つまり超感`性的世界の破砕を無効にしないと考える のである。さらにわれわれは、ハイデッガーがニーチェのうちに見るく存在>忘却として のニヒリズム、それと相まった「形而上学の完成」は、「力への意志」を世界原理と捉える 誤った解釈によるものであると考える。
Ⅱさて先に引用した遺稿覚書のニーチェのプラトン批判の言葉、「プラトンは存在よりも仮 象を好んだ」の解釈である。ニーチェのプラトン的、キリスト教的二世界論の破砕は、彼 独自の真理観と密接に連動している。とりわけプラトンにおいては、囚人が縛めを解かれ、
後ろを振り向き、洞窟の入り口へと続く道を歩くことによって、洞窟の奥の壁に写る様々 のものが燈火を原因とする「仮象」であったことに気づかされる。囚人は最終的に洞窟の 外へ出、眩しさによる激しい目の痛みに耐えながら、洞窟の内のみならず外の森羅万象の 究極的根拠が太陽であることに刮目する。プラトンにとって真理への道は、太陽に比せら れるイデアのイデアである「善のイデア」へと魂を転回させることである。こうしたプラ トンのイデアへの道、同じことだが究極の真理への道の考えには、修練を経た上でのこと だとしても、最終的に到達しうることの明るい希望と楽観さがある。イデアは、ニーチェ にとって、変化して何かに成ることがなく、永遠にそれ自体の同一性を保つという意味で の「存在」である。とはいえ、歴史を統宰し、隠れるという仕方でしか己を現わさない独 特の現出様式をもつハイデガーのく存在>とは区別されなければならない。ニーチェは「存 在」と「生成」を対立させる。とはいえ「生成」がまったく存在を欠如している虚無だと いう意味ではなく、「ある」と術語づけうる自己同一性、固定』性の性格を本来的に有しない のである。したがってニーチェの超感性的世界が持つ最高の価値の価値転換は先ず、そう した生成の世界に向けてなされることになる。それは永遠不動の存在からすると、虚偽に すぎない生成の世界に時間や移行のリアリテイを取り戻すことである。「ツアラトウストラ はこう語った」では両世界の関係が次のように語られる。「-なる者寸全なる者、不動なる 者、充足せる者、不滅なる者というようなことを言う、一切のこうした教えを、わたしは 悪と呼び、人間憎悪と呼ぶ1すべての過ぎ行かざる者、--それこそ比楡にすぎない1詩人た ちは嘘をつきすぎる。‐--しかし、時間と生成については、最上の比楡をもって語られなけ ればならない。それらの比楡は、あらゆる移ろい行く地上のものの賛美であり、是認であ らねばならない。(VII1,p」06「至福の島々で」)」「存在」から「生成」へのプラトン主義 の逆転は、ニーチェにとって、同時に真の世界と仮象の世界の逆転でもある。
ところでわれわれにとっての問題は、この逆転の内実が位置の取替え、つまり価値の高 かったものを低く、低かったものを高くする単なる入れ替えを意味するだけのものであり、
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対立する二世界をなお残したままの遂行なのかということである。そうだとするならば、
形而上学の破壊を敢行するニーチェにしても、その志とは裏腹に相変わらず二元的思考に 陥ったままということになろう。はたしてそうなのか。この問題の解決のためには先ず、
ニーチェの「仮象(Schein)」という言葉使いに注意が払われるべきである。ニーチェは「仮 象」に二つの意味を持たせている。懸案の「プラトンは存在よりも仮象を好んだ。」の「仮 象」は、虚偽や提造物という意味である。したがって「存在」もそれとの関わりでもって 解釈されるべきであるならば、その「存在」は、提造されたものではないもの、つまり「目 の前にあるもの」以上の意味を持たせられていない。それはニーチェが「生成」と対立さ せる「存在」ではない。「仮象を好んだ」にのみ強調の活字が当てられているのが、その理 由である。ニーチェがプラトンに対して非難するのは、「仮象」が「存在」にすり替えられ てしまったことである。先の遺稿覚書に続く次の言葉が、その事情を語っている。「ところ が彼は、仮象の価値を深く確信したために、仮象に「存在」、「原因」、「善`性」、真理といっ た属`性を、要するに、人が価値を付与していたその他一切の物を付与したのである。」結局、
イデアである「存在」が真理であるのは、元々在りもしなかったものを提造した結果、「存 在」するという幻想を抱かせたということなのである。さらに「プラトンは、存在よりも 仮象を好んだ」の言葉は、原文で:alsoに導かれて「真理よりも嘘と空想に優先権を与えた」
に引き継がれている。つまり二つの語句は対応している。してみると、目の前の存在する 物が真理とみなされうることになるが、本当のところニーチェは、そう考えているのか。
この問題の解決のためには、ニーチェが「仮象」に与えているもう一つの意味を検討する 必要がある。
ニーチェは、虚偽しての「仮象」とは別の意味をもつ「仮象」を挙げている。それは「存 在」と対立させられる感性的現実を示す言葉である。ニーチェは神を殺害して初めて、こ の「仮象」に積極的意義を与えることになる筈なのだが、事はそう単純ではない。なぜな らニーチェは、これまで真理とされてきた「存在」の虚偽を暴いた結果、今度は「生成」
が真理の身分を獲得し、あるいはプラトンが「仮象」として既めた感`性的現実がそのまま 真の世界になり、実のところ洞窟内の囚人が真理を捉えているなどと、そう短絡的に考え ていないからである。ニーチェが撃つのはそうした二分法的な思考なのである。渇仰され てきた「存在」の真理が実は排除されるべき虚構でしかなく、排除の後に残った対関係の 一方である「仮象」の感性的現実が唯一、真理の存立する場に化するとしたら、それはた だ虚構と現実の関係的区別を保持したままに両者を倒立させただけにすぎないであろう。
そこにはおよそ本物の哲学に本質的な薄皮を剥ぐような慎重さ、刃身を歩くような緊張が ない。ニーチェが形而上学を破壊する所以は、そうした区別的二元性そのものを無きもの にすることにあるのだ。それは「仮象」にまったく新しい意義を担わせることに外ならな
い。-140-
Ⅲ「偶像の黄昏」の中の「いかにして「真の世界」がついに作り話になったか」という章 題をもつ箇所の重要な言葉が注目されるべきである。「真の世界をわれわれは廃絶してしま ったのだ。ではいかなる世界が残っているのか?ひょっとして仮象の世界が残っているので
|ま?そんなばかな
の~でYT
」]LLユーLZ且L」ニーチェは明確に、二つの世界の関係の前提となる区別そのものの廃棄のみ ならず、むしろ区別のさらなる前提である二元的思考とは別の思考、別の論理を宣言して いる。ハイデッガーは、いみじくもその特異の思考法を「ニーチェの真理概念における独 特の両義I性」(7)と捉える。われわれはすでに、ニーチェが「仮象」の概念に二つの意味を持 たせていることを指摘したけれども、プラトン主義を逆転してそれこそが「真の世界」だ とされた「仮象」の方も二重の意味を持たせられている。その一つは「存在」と対関係に ある「仮象」である。それは永遠かつ不動の世界に対する感性的現実の世界であるのだが、
それも共に廃絶されるというニーチェの言葉の真意は、文字通り消滅して無にI帯するとい うことではありえない。廃絶は、「存在」と対立する限りでの「仮象」というレッテルを失 うだけのことであって、時間のうちにあるこの感`性的現実が消滅するわけではない。知覚 世界はわれわれに対してそのまま現前する。けれどもこの感性的現実はいま一つの意味の
「仮象」を担わされることになる。これはいかなることなのか。
「「仮象性」=特殊な作用=反作用=行為」という標題をもつ遺稿覚書が「仮象の世界の廃 絶」に関する問題に重要な示唆を与えてくれる。
「仮象の世界、すなわち価値に従って見られ、整えられ、選ばれた世界ということ。価 値に従ってとは、この場合、動物界の或る特定の種属の維持と力の増大に関して有益だと いう観点に従って、ということである.それゆえ、遠近法的なものが「仮象」の性格を与 えるのだ!遠近法的なものが取り除かれても、なお一つの世界が残っているがごとく!そ れによって、組対性そのものが取り除かれてしまうだろう、それは--(以下欠落)あらゆ る勢力の中心は、残りのもの全体に対してその遠近法を、すなわちそのきわめて特定の価 値づけ、その作用の仕方、その抵抗の仕方を持っている。それゆえ「仮象の世界」は、一 つの中心から発して、世界に働きかける或る特殊な種類の作用に還元される。いまやそれ 以外の種類の作用はまったくないことになる。そして「世界」とは、ただこうした諸作用 の全体的戯れを表す言葉にすぎない。
実在`陸はまさしく、この個々人の全体に対する個別的なる作用と反作用に存する.・・・
ここでは1厘薑Lについて語る權正11はひとかけらも残っていない・・・・反応する特殊な仕方 が反応の唯一の仕方である。われわれはいったいどれほど多くの、またどのような種類の 仕方があるのかを知らない。なぜなら、「別の」、「真の」、本質的な存在などないからであ る、一一そういったもので表現されるのは、作用も反作用もない世界ということである
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う・・・・仮象の世界と真の世界の対立は、「世界」と「無」の対立に還元される--(1888 年春、14[一八四]、Vm3,pl63)」
ここでニーチェは、二分法とはまったく異なる思考の仕方をとっている。おそらく人間 に代表される動物界の特定の種属以外の動物にとっては、可能性としては没価値的なそれ 自体としての世界が現前していることはありうる。その場合にのみ、世界は「仮象」では なく、権利上「あるがままの」世界であろう。もっともここでニーチェは、「特定の種属の 動物」ということで、従来からの主張を一貫させていない。というのも、アメーバのよう な原形生物が栄養の摂取と同化のために偽足を伸ばすことも「力への意志」に発するとし ている以上、その環界も遠近法抜きの、つまり価値と関わらない「仮象」というわけには いかないからである。(8)もし「仮象」をもたない生物があるとしたら、それは僅かに植物 のみであろう。実際ニーチェは、「人間的、余りに人間的I』のある箇所で、「植物にとって は、通常万物は静止していて永遠であり、どんな事物も自己同一である。(Ⅳ2,p35)」と 述べているのである。ともあれ世界の中で事物や他者と関わって生きざるをえないわれわ れ人間は、生体の維持と高まりの条件の定立である価値に応じてそれらを着色している。
つまり人間は、価値の観点である生の遠近法を必然的に具えている以上、世界現出は、常 に既に「あるがまま」ならぬ「仮象」だというのである。それはとりもなおさず、われわ れにとって遠近法をはずした世界現出はありえないことを意味する。それ以外の世界はま さに「無」なのである。ここには形而上学に本質的な二分法は存在しない。あるいは、そ れと対立してこそ「仮象」という言葉が意味をもちうるものが「無」となった今、そうで しかあり得ない形で現前している世界について「真」とか「仮象」といった言い方それ自 体が既に無意味となる。ニーチェが「ここでは仮象について語る権利はひとかけらも残っ ていない」と言い切るのも宜成ることである。
だがそれにしても、生の維持と力の高まりに即応してそれぞれの生体に現出する遠近法 的展望のいわば相対性の世界において、そこで真理を語ることはもはや許されないのか。
もし「真なる世界」を無化するあまり、遠近法的現出世界の唯一性のみを強調するならば、
原形生物の環界とその中で様々の文明や文化の構築の労苦に力をそそぐ人間世界との区別 が判然としなくなるであろう。人間の世界には、遠近法的展望が必然であるだけではなく、
その下の「実在」における「真理」が要請されるのでなければならない。ニーチェが「特 定の種属の維持」とのみいわないで「力の増大」を並べるのは、原生生物には生体の維持 による遠近法があっても、「力の増大」に不可欠の「真理」を持ちえないからである。「力 の増大」のためには、それを足がかりとして更なる増大が計られる固定的なものが必要で ある。だがそうだとしても、不動の、固定的、持続的存在は、廃棄されたのでなかったの か。確認されるべきことは、ニーチェが破棄したのは、われわれの「生」から独立して別 の世界に存在するとされてきた「真理」だということである。ニーチェは、「生」から発す
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るつまり遠近法における「真理」のあり方を改めて考えているのである。
固定的でない真理、明日にも変わってしまう真理は、真理の名に値しないどころか、普 通間違いであるとか誤謬であると指摘されて撤回を突きつけられる。ニーチェもこうした 一般的見解を否定しない。けれどもここでもニーチェの思考は、両義`性をもって動く。真 理は同時に誤謬であるという思考がそれである。生体の利益という遠近法の下での諸事物 は、混じり合わずにそれぞれが判明な認識の対象となる。つまり混然とした未分割な生成 する全体が、「生」の遠近法から展望されたときに既に個々の物体に区別されているのであ る。一つの全体からのこの区別が精徴になり、物体の明瞭度が増せば増すほど、それを足 がかりとする知性的認識はその射程を広げる。生体の利益は個別化の原理に貫かれている。
(9)ニーチェは、この個別化の原理つまり生成する全体の固定化が全体からの離反と疎外で ある以上、生成への不適合という意味でそれを「誤謬」という。実際ニーチェは、「華やぐ 知恵」アフォリズム110で、次のように述べている。
「認鐡2浬1厘---知性が、恐ろしいほどの長い時間を費やして生み出したものは、誤謬以 外の何物でもなかった。それらの誤謬の中の若干のものは、有益で、種を保持するもので あった。そうしたものに出くわしたか、あるいは祖先からそれらを受け継いだ者は、自己 および子孫のために、大きな運をもって闘争を闘った。そうした類いの、どこまでも受け 継がれていき、ついには殆ど人間という種の基本的状態なったところの誤った信仰箇条と いうのは、例えば次のようなものである。すなわち、持続する事物が存在すること、等し い事物が存在すること、事物・物質・物体が存在すること、事物はその見えるところのも のであること-。(V2,pl47)」
認識は、固定的な事物を当てにしながら、事物がそこから分節した生成し無常である世 界に妥当しないのである。固定化するという行為が既に原理的偽造なのである。したがっ て認識は既に生成への不適合である以上に、歪曲である。「認識とは、現実の出来事がわれ われに作用する力の側とわれわれの形成する力の側の両方で途方もなく単純化され、その
結果似たような同じものが存在するかのように思わせることによってi塾鐘を可能にするこ
とである。 重多様卸 ? ,
。つまり、生はこような歪曲装置によってのみ可能
硯
なのである。(1885年、4月-6月、34[二五二]Vm,p226)」
人間は、知性的存在者として様々の事物を認識しながら生きる。だがニーチェの言う通 り、事物認識が既に誤謬であり歪曲であるにしても、なぜ「誤謬」と「真理」が等値され うるのか。元来、「誤謬」と「真理」は対立概念ではなかったのか。だがニーチェからする と、両者の対立は、「生」の遠近法の埒外でしか成り立ちえないのである。次の遺稿覚書が、
「仮象」の世界においては、両者が-つのことであることを示している。
「「真理」。それはわたしの思考法の内部では必ずしも誤謬の反対を示すのではなく、も
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つとも基本的な事態において様々の誤謬相互の位置を示すにすぎない。例えば、他のもの よりも古くて深いものは、われわれのような生物がそれなしには生きられない限り、おそ らくその上根絶しがたい。他の誤謬は生存条件としてはそれほど専制を行うのではなく、
むしろそのような「借主」と比べれば、片付けられ「論駁」されうるというわけである。
論駁されがたい-つの仮定、--それはなぜそれゆえ既に夏型であるとされているのか?この 命題はおそらく、自らの限界を事物の限界とみなす論理学者を'債'慨させるであろう。しか し、わたしが既に長いあいだ戦闘を言明してきたのはこういう論理学者一楽観主義なのだ。
(1885年6-7月38[四]、VII3,p326)」
ニーチェは、真理の非存在と無用を宣言しているのではない。むしろ真理は、人間が生 きるために無くてはならないものでさえある。なぜなら、われわれが生きるためには、固 定的で同一性を失わない事物をそれとして認識し、受容れるにせよ回避するにせよ、それ に依って行動を起こさざるをえないからである。つまり「それなしには生きられない」わ けである。その際、逃げ去らず、他と混じり合わない事物がさしあたっての「真理」とみ なされる。それにまた事物のみならず、われわれの生存に都合のよいもの、力を高めるも の、重大な阻害とならない事柄も「真理」とみなされる。ニーチェからすると、「真理」は、
「生」の利益のために最も強力に解釈された「みなし真理」なのであり、したがって「生」
の維持、高まりを離れた真理自体なるものは存在しないわけである。さしあたって「みな された真理」は、揮沌である生成の無垢から固定化的に離反したものであるがゆえに、そ れはひとつの誤謬の位置を占めざるをえない。「みなされた真理」が誤謬であることのもう 一つの意味は、それがそのつど「思いなされたもの」である以上、普遍性や永遠性をもち えず、「生」にとってのさらなる有益'性に発する「思いなし」に取って替わられ、常に訂正 にさらされざるをえないことである。真理は、誤謬から誤謬へと歴史の中で生成するもの なのである。
遠近法の下での真理は、生存に不可欠のそのつどの誤謬であるのだが、ニーチェはこの
「思いなし」あるいは解釈を「信仰」とも呼ぶ。遺稿覚書を二つ挙げよう。
「信仰とはなに唾?それはいかにして生じるのか?あらゆる信仰は、真なりと思うことで ある。ニヒリズムの最も極端な形は次のような洞察、すなわち真の世界なるものはまった
、塗らゆこ信仰、あらゆる真なりという思いは必然的に誤りである、
<存在しないがゆえに
という洞察であろう。したがって真の世界とは一つの遠近法的仮象であり、そもそもの由 来は(われわれが、より狭い、縮小され単純化された世界を絶えず必要としているかぎりで)
われわれの内にある。一一われわれが、没落することなしにどの程度まで仮象’陸を、つまり 嘘の必然性を自分に容認するこができるということこそが、力の尺度であるということ。
そのかぎりにおいて言えるこ とだが 真の世界の否認としての、存在の否認としてのニヒ リズムは、一つの神的な,思考法かもしれない
(1887年秋、9[四一]VIII2,pl8)」
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「判断、それは「かくかくしかじかのものがそうである」という信仰にすぎない。・・・
(中略)・・・「ある事柄がそれほど強く信じられているとしても、そのうちに真理の尺度が あるわけではない。」しかし真理とは何であろうか?ひょっとして一種の信仰であってそれ が生存条件になったのではなかろうか?そうとすればもちろん強さは尺度となるであろう。
例えば因果性に関して。(1885年、8月-9月、40[十五]VⅡ3,p366-7)」
ニーチェは、キリスト教の神信仰とはまったく別の信仰を呈示している。それはまった く別である以上に、むしろ誤謬の両義`性を軸にして正反対の方向にあるといってよい。ニ ーチェ独特の論理と言えるものがあるとすれば、それは一つの概念について片方で伝統的 形而上学を撃ち、片方で「生」にとっての価値思想を打ち出す両義的思考である。ニーチ ェは、「真なりと信じること」の「信じる(Glauben)」も両義的に捉えている。伝統的に真 理とされてきたものは、デカルトにおいて典型が見出されるように、一切の虚偽や誤謬を 斥けて、1懐疑の渦巻きの中で唯一のアルキメデス点としての揺るぎのない存在の確実性で あった。それゆえに真理は誤謬ときっぱりと対立させられる。いったん確立した真理は、
すべての学問が依って立つ根本的土台としてもはや疑う余地のない形で信じられる。超感 '性的世界のイデアであろうと、「考えるわれ」であろうとその澄明な真理』性は、哲学者達に よって'懐疑と対比的に信じられた。その意味で、真理と信仰とは、等号で結ばれるといっ てよい。だが、真理が生の維持=成長の条件の表現としての価値評価だとするニーチェの見 解からすると、従来の不動の真理は、<そう信じること>と対立することになる。真理へ の信仰は、それも生の利益からするくそう信じること>によって相対化される。真の意味 で真理に対立するのは、信仰なのである。この信仰は、単なる観念的な「思いなし」では ない。人間の「生」の初期段階から、行為の試行錯誤が繰り返された結果、有効`性の確認 によってその行為が目的に適った唯一の手段であるとして血肉化(Emverleibung)される。
信仰は有機体の生理に深く根を下ろしているものなのだ。「華やぐ知恵」アフォリズム111 でニーチェは次のように述べる。「人々は真理をもってしては生きていけないように見えた。
われわれの有機体はその反対むきに整えられていた。すべてのその高級な機能、感官の知 覚ならびにあらゆる種類の感覚一般は、かの太古以来血肉化された根本的誤謬をもって活 動した。(V2,pl47)」信仰とは、血肉化された根本的誤謬の使用に外ならないのである。
ニーチェが形而上学の破壊者であることの所以は、二世界論の消去を通常の論理とはま
ったく別の両義的思考をもってなしたことである。伝統的真理観にあっては、デカルトに 典型が見出せるように、心の世界と物の世界、主観と客観、要するに内面と外界の両者の 存在を自明とする。そこから発する伝統的真理観では、外界を映し出す意識の「内面」に おける観念などの表象と外界の事物の一致こそ真理とされてきた。あるいはその一致の根
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拠をめぐるアポリアに挑む様々のI懐疑論が輩出したのも、哲学史の周知の知識である。そ の核にあるのは、主観と客観を二項対立させ、表象内の観念や判断にそれら二項を媒介さ せて認識問題の真理性を問ういわゆる表象主義である。真理を「真なりと信じること」と するニーチェの見解は表象主義をきっぱりと斥ける。というのも信じられた真理が信じる ことの基にある生の動I性から発源したものである以上、認識問題の前提となる二項対立は 既に、両者の本質根拠である一体のものから離反したところで作り出されたものである.
ハイデッガーはこの事態を次のように正当に言い当てる。「われわれは、両者を分離したり、
別個に出会ったりしようとしてはならない。認識は、それぞれ独立に存在している二つの 河岸をいつか遅ればせに結合するような橋のようなものではなく、みずから流れつつ、そ もそも両岸を創造し、そしていかなる橋がなしうるよりも一層根源的に、その両岸を向か い合わせるのである。」(IC)両岸の創造は、生そのものである「力への意志」が措定する絶 えず変化する遠近法に歩調を合わせることに外ならない。真理の認識は、力感情の上昇の うちにある以上、この力感情が低落したときにはただちに、「力への意志」は真理の信仰を 放棄しなければならない。ミュラー・ラウターはここに両義性を見、「信じることをやめる 覚'悟を同時にもちながら信じるということは、新しい真理の果たすべきことである('1)。」と
いう。Ⅳミュラー・ラウターは「新しい真理」という。ニーチェは、「生」の利益に基づく信仰 を生きる上での必然的なものとしているからといって、誤謬信仰をそのまま容認している わけではない。ニーチェは、信仰である「みなし真理」という誤謬とは別の形の、つまり 誤謬を含まない真理を提示しているのである。それは丁度ベルクソンが、「物質と記1億」第 一章で展開している、生体の利益を関数として遠近法を切り拓く行動主義的知覚論を後に 相対化し、「物を自分のためにではなく物のために見る」('2)芸術家の世界観照の賞揚に比せ られる。それにしてもいったい誤謬ではない真理、あるいはまた誤謬として有機体の生理 に血肉化されていないものなどありうることなのか。
われわれは既に、ニーチェにおいて真理は誤謬とではなく、信仰と対立することを見た。
それでは信じられた真理、同じことだが誤謬でしかない真理と何が対立するのだろうか。
それは、そこから離反したために誤謬となってしまった「絶対的流転(V2,11[一六二])」
としての生成である。ハイデッガーはそう解釈し、真理の本質を生にとっての誤謬とする ニーチェの見解には、「現実との調和、すなわち生成する揮沌との調和の意味での真理が考 えられている。」(13)と述べる。要するに、誤謬としての真理が生成と流動の固定化である 以上、固定化がまだなされていないそうした動的地平には誤謬がまだ発生せず、従ってそ れとの一致において真理が語れるわけである。確かにニーチェの遺稿には、ハイデッガー が注目するような認識の発生論的記述が見られる。例えば「超越としての力への意志」と
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いう章題をもつ「「認識する」のではなく、図式化するのであり、揮沌に対して、われわれ の実践的要求が満足するような規則性と形式を課するのである。(1888年春、14[一五二]
Vm3,plZ5)」の覚書は、一見カントの超越論的認識論そのものであるかのようである。こ の覚書から読み取れることは、あたかも実践的要求に発する遠近法的展望の下に現出する 仮象という唯一の世界に先立つ揮沌の実在である。実際ハイデッガーは、この覚書を重要 視し、揮沌から真理よりも高いとされる芸術に至るいわば目的論的行程を描いてみせる。
われわれは先に、仮象のもつ二つの意味を指摘したが、彼によると仮象はさらにもう一つ の意味をもつ。それは揮沌に形象を与える芸術的聖化という意味での仮象であり、それこ そが誤謬としての真理よりもいっそう高い価値なのである。したがってハイデッガーは、
信じられる「誤謬としての真理」とは別に、揮沌は芸術によって仮象として聖化され、そ の起点となる「揮沌への同化」を真理の本質と捉える。けれどもハイデッガーは、これら 二つの真理と庫沌の芸術的聖化の三者が、本質において-つであるとしながらも、それら の関係の仕方を必ずしも閏明にしているとはいえない。次の文を引用してみよう。
「存立確保とは何であるのか。それは単に、認識における揮沌の固定化だけでなく、
また芸術における聖化だけでもなくて、同時にその両者なのである。しかるにその両者は、
本質において-つであり、すなわち人間的生を揮沌のうちに同化帰入すること、すなわち 相等化く6,uoZのOLと>なのである。この同化とは、客観的に存在するものへの模倣
的、再現的に合致することではなく、Lなのである。」('4)
ニーチェは本当に、揮沌への同化としての真理を考えていたのだろうか。われわれのこ れまでのニーチェにおける確認は、遠近法的展望を離れては世界の現出がく無>であると いうことであった。そうである以上、生の動性である生成が結局、遠近法的展望の下での 仮象に繰り込まれるにしても、それ以前にそれへの同化が命令される揮沌そのものをいか にして考えたらよいのか。そう考えるのも遠近法的展望の下でではないのか。ニーチェは むしろ、誤謬としての真理なしには生きられない仮象の世界の真当さを、以下の覚書がは
っきりと示している。「「仮象性」とは、われわれの実践曲本能がそこで活動する-つの整えられ単純化された 世界である。この世界はわれわれにとって完全にぴったりしたものだ、ということは、わ れわれはそこに生きる、生きることができる。そのわれわれにとって真理性の証明は.・・・
--みずからその中で生きるというわれわれの条件を取り除かれた世界、われわれがわれ
われの存在、われわれの論理、心理的先入見に制約していなかった世界、そのような世界
「それ自体」なるものは実存し型△。(1888年春、14[九三])Vm3,p63)」
われわれは既に、祖先のうちに血肉化してしまっている「根本的誤謬」を継承し、それ をもって世界認識をおこなっている。そうである以上、仮象の世界に生きるわれわれは、
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生きること、強いては認識のうちにも歪曲されて織り込まれている庫沌である生成を認識 をもって捉えるすべはない。ニーチェは、『華やぐ知恵」110の最後の文で次のように述べ ている。「思想家、一一それはいまでは、真理への衝動もまた生を保持する力であることが :fIL1Elした後で、真理への衝動と、例の生を保持する誤謬とが彼らの最初の争闘を営んでい る存在のことである。この争闘の重要さに較べればその他一切のものは、どうでもいいよ うなものだ。生の条件についての最後の問いがここに提起されている。そして実験をもっ てこの問いに対して答えるべき最初の試みがここになされる。真理はどこまでかの血肉化 に耐えるか?これこそ問題であり、実験なのだ。(V2,pl49)」
ニーチェはここで、真理への衝動と根本的誤謬との闘い、あるいは誤謬の血肉化への抵 抗を「どこまで耐えるか」という言葉で締めくくっている。「どこまで(inwieweit)」とい う程度の問いは、耐えねばならないものの消滅があり得ないことを意味する。換言すると、
誤謬をもって生きざるをえないわれわれにとって、ハイデッガーがそれへの帰入同化をい う誤謬発生以前の揮沌は、知られえないカント的「物自体」あるいはユートピアというこ とになる。そうなのだろうか。確かに揮沌そのものは、認識の対象にはなりえない。けれ ども他方でニーチェは、「揮沌の図式化」を言っている。つまりわれわれのうちでなんらか の仕方でその活動が営まれているわけであり、従ってその営みは認識とは別の形で知られ
うるのである。いかなる形でか。
生きるうえで誤謬は不可欠であるにしても、伝統やイドラと化している誤謬と生成から 新たに汲み出された誤謬とは、断じて区別されるのでなければならない。それは同時に新 しい思考法への誘いとなるであろう。そのためにもわれわれは、「揮沌の図式化」の過程を 改めて知ることこそが、ニーチェのいう実験に方向を与えうると思う。
真理への衝動と誤謬の血肉化との争闘、揮沌とその図式化、そうした両者のせめぎ合い や拮抗は、意識のレヴェルで生じ、意識の態度いかんによって解決が図られるものではな い。それは、「力への意志」に外ならない世界実相を-つの形で実現している「身体」のう ちに起こっていることなのだ。ニーチェの新しい思考法は、意識の哲学に対する身体の優 位から発出している。ニーチェは、ある遺稿覚書で、快の意識と不快の回避の意趣が行動 の動機だとする数千年にわたる主張の転倒性を批判し、それは既に身体のうちに始まって いるプロセスの結果にすぎないと言う。「現象論を誤った場所に求めてはならない。われわ れが有名な「内官」で観察するこの内的世界ほど現象的な、(あるいはもっとはっきり言え ば1』lkmii旦旦なものはない。・・・中略・・・要約。‐---意識される一切は最終現象であり、結 論なのであって、--何事も引き起こさない(何の原因でもない)--(1888年春、14[一五二]
Vm3,p、125-6)」欺臓から解放された身体のうちに始まっているプロセスは、意識下の心理 生理的過程にとどまらない哲学的思考法の新しいモデルを提供している。そうだとするな らば、ニーチェがいう身体とは、本当のところいかなるものなのか。身体と生成の世界の
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「庫沌」とは、どう関わるのか。
「ツアラトウストラ」の「身体の軽蔑者」の章で、ニーチェは、身体に優先的な意味を 与えることを宣言する。「身体はひとつの大きな理性だ。ひとつの意味をもった多様である。
戦争であり平和である。畜群であり牧者である。あなたが「精神」と呼んでいる小さな理 I性も、あなたの身体の道具なのだ。わが兄弟よ。あなたの大きな理性の小さな道具であり 玩具なのだ。(Vll,P35)」この章は、すぐ前の「背後の世界を説く者」の章を受けており、
従って身体の優先性は、見かけの上では、肉体の欲動の誘惑に晒されざるをえない現世よ りも神の国での清浄な魂の生活を優越させるキリスト教批判に基づいている。けれども身 体を「本物の「おのれ」(jbjdp36)」とし、それが「わたし」という意識的自我の支配者 であり、「知られざる賢者(j6jd.p36)」とするニーチェの見解は、デカルトのコギトであ れ、カントの超越論的主観性であれ、なによりも意識を唯一の理性的存在者とする近世主 観主義の批判を射程に収めている。とはいえ、この見解が意識と身体の優先順位を転倒さ せただけのものであるならば、両者の区別を維持したままの枠の中だけの話となる。ニー チェが身体に座を置くことの意味は、そうした区別をなくするべく身体を様々の力が拮抗 する多様性の場とすることに外ならない。それゆえニーチェがいう身体は、医学や解剖学 が扱う客観的身体ではありえない。それは意識の「わたし」を支配し、生成の世界を通過 させると同時に以表する身体である。次の遺稿覚書は、「戦争と平和が拮抗する多様性」の 場である身体が、「新しい真理」の可能`性をもつことを告げている。
「まさに人間の意識がこれほど長い間有機的発展の最高の段階、この世のすべてのもの のうちで最も驚嘆に価するもの、そればかりか、いわばそれらの清華であり、目標である とみなされてきたことを、われわれは軽率なことと考える。むしろもっと驚嘆に価するこ とは皇2座の方なのだ。人間の身佳がどのようにして可能になったかということ、生命体の これほど恐るべき統合物が、しかもそれぞれが臣従し、しかもある意味では逆に命令し、
自らの意志で行動しつつ、全体として生き、成長し、そしてしばらくの間存在し続けると いうことは、どんなに驚いても驚ききれないことなのである。--しかもこのことは明らか に意識によるわけではないのだ!意識はこの「奇跡中の奇跡」のためにまさにひとつの「道 具」にすぎず、それ以上のものではないのだ-胃袋がそのための道具であるのと同じなの だ。多様な生命体のこのめざましき結合、高級な活動と低級な活動のこの秩序と配列、こ の何千もの服従、それも決して盲目的でも、機械的でもなく、選別的で、賢明で、気配り
に満ちて、抵抗さえする服従-この「身体」という全体現象は知的な度合いからいってもわれわれの意識や「精神」、われわれの意識的な思考や感情よりも、丁度代数学が九九より も優れているのと同様に、優れているのである。(1885年6月-7月、37[四]VⅡ3,p302-3)」
われわれは、血肉化された根本誤謬の系譜をたどり、「身体という全体現象」、すなわち
「それぞれの個別的本質を肯定することによって、思わず知らずに(unwillkurlich)全体を
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肯定する生命的本質の多様性(1884年夏-秋27[二七]VII2,p282)」から様々の虚構が発 生してきたのを見届けることによって、いかに意識が変転する「多様,性」(Vielheit)をアト ム化的に整理して「自我」、「因果性」等の偽造概念を提造してきたかを知ることになる。('5)
とはいえ意識的な思考に対する身体の優先は、単に基礎付けの順位の問題であるだけでは ない。確かにニーチェには、身体の生理的機能を過大に評価する傾向が見られる。例えば
「判断される
(1885年8月-9月、40
[一五]VII3,p367)」の覚書の言葉がそうである。身体の優位がこれだけのことしか意味 しないのであれば、ニーチェの哲学は本能主義の-変奏にすぎない。そうではないのであ る。われわれは先に、ニーチェの認識について、認識という流れこそが知るものと知られ るものの両岸を作るのだというハイデッガーの解釈を引照した。これはそのまま生と現実 の世界の両岸を作るものが身体という全体現象なのだと言い換えることができる。ニーチ ェはこの全体現象を「繊細な結合と媒介の体系、しかも生きた媒介者(VII3,p303)」とも 規定しているが、これは生命体と知性との統合を意味するだけでなく、固体化の論理にか かる以前の生成の世界との通底を指さす言葉である。「身体を手引きとして」という章題を もつ遺稿覚書がわれわれの解釈を傍証する。「人間の身体とは、そこにすべての有機的生成 の最も古い過去と最も新しい過去が生き生きと生命力をもっているようなものであり、ま たそれを通じて、さらにそれを越えて-つの恐ろしいほど聴きとれない流れが流れている ように見える。(1885年6月-7月、36[三五])VⅡ3,pZ89)」ニーチェは「一つの恐ろしい ほど聴き取れない流れ(emungeheurerunhorbarerStrom)」という。これが身体の生を貫い て流れている。生成の世界の揮沌が、その-小部分として身体という全体現象の揮沌に現 われて、われわれはそれを様々の感覚や情動やなにかしらの気分という形で感得する。そ のことは世界の揮沌と身体の感覚領域の揮沌が同質かつ同型であることを意味する。ニー チェのいう潭沌は、無秩序の混乱を意味せず、そこには或る構造がある。それはいかなる 構造なのか。われわれはこの構造を明らかにすることこそ、形而上学の破壊者としてのニ ーチェの面目を示すことであると思う。さらにまたわれわれは、ニーチェ特有の両義的思 考の根が、真理への衝動と血肉化された根本誤謬との「耐え抜かるべき」拮抗にあり、し かもその拮抗は「身体という全体現象」においてのことなのだと考える。「抵抗の度合いと それを圧倒する優勢の度合い-すべての出来事において問題なのはこのことである。(14
[七九]Vm3,p79)」したがって、生成の流れの揮沌構造にもまた、両義'|生の思考を基礎 づけるものが洞察されることになる。とはいえニーチェの両義性は、メルロ・ポンティの いう身体が「見るもの-見えるもの(voyant-visible)」であることのそれではなく、「身体と いう全体現象」における「力の量子(Machtquanten)」のせめぎあいの謂いである。
Vニーチェの事象に対する自らの視座についての意識は、無頓着といってよいほど確定さ
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れていない。ニーチェは、『ツアラトウストラ」以降、「力への意志」が切り拓く遠近法の うちに身を置いて価値思想を繧々記述する立場の外に出て、「力への意志」同士の諸力の作 用の闘いといういわば一種のモナドロジーを傭撤するかのようである。('6)この視座の下で、
「力への意志」は一見、一種の世界原理に化しているかのようである。実際ハイデッガー はそうした見方をとり、ニーチェと伝統的形而上学の関わりをめぐる解釈根拠に据えてい る。('7)確かに、ニーチェ自身の語り方のうちにそうした解釈を誘うものがあることも事実 である。クレーナー版の最後に配置されてハイデッガーの引用で有名な遺稿覚書は、その ことを明確に示している。「--この世界は力への意志であり--それ以外のなにものでもない のだ!そして君たち自身もこの力への意志なのであり---それ以外のなにものでもないの だ!(1885年6月-7月、38[一二]、VⅡ3,p339)」もしただ一つの「力への意志」が発生 点となって、身体から軍団、社会組織、国家そして民族にまで至る位階秩序を構成するの であるならば、ニーチェの世界の捉え方は形而上学者のそれであろう。実際、ハイデッガ ーがニーチェを近世形而上学の完成者と洞察するのも、「力への意志」を世界原理とした面 に多く光りを当てたがゆえにである。はたして「力への意志」は、存在者を根拠づけなが らそこから存在論的差異といった形でそれとは根本的に区別される存在という-なるもの なのか。
ミュラー・ラウターは、ニーチェのテクストを精査し、単数不定冠詞つきのeinWillezur Macht、単数定冠詞つきのderWillezurMacht、冠詞のないWillezurMachtが共存して頻出 することに注目する。ラウターは「derWillezurMachtとは、互いに闘争し合う諸力(Krafte)
の数多性(Vielheit)である。」('8)と解釈する。それにもとづき彼は、「力への意志」の数多 '性を証することによってハイデッガーの解釈を斥け、次のように述べる。「ニーチェがその つど一つの力への意志と名づけているものは、現実的には多くの力への意志の敵対的戯れ にして戯れあいである。」(',)つまり現事実的なものとは別の存在論的一者なる原理などな く、 ̄なるものを語れるとしたら、それは諸力の量子(Machtquanta)の中の唯一の質につ いてなのである。事実ニーチェは、「力の量子、機会論の批判」という小見出しをもつ遺稿 覚書で次のように述べている。「力の量子は、それが働きかける作用と、それに抵抗する作 用によって表示される。どちらにも無関係だという場所はない。それはそれ自体として考 えられなくはないけれども、ない。力の量子は本質的に暴力を加える意志と、それに対し て自己を護ろうとする意志である。それは自己保存ではない。どのアトムも存在全体に向
かって働きかけている、-この力への意志の照射がないものと考えられるならば、アトムもないものと考えられる。このゆえに私はそれを「力への意志」なる量子と呼ぶのである。
(1888年春、14[七九])」。
生成する世界の揮沌の構造は、多くの力の量子の敵対的戯れであり、他方でその揮沌が
貫流している人間の身体もまた、無数の力の量子を自己のうちに有機組織している-つの
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力の量子である。「われわれの身体を構成するあれら最小の生命体(より正しく言えば、最 良の比楡としてわれわれが「身体」と名づけているものは、これらの作用連関である)もま た・・・われわれにとっては霊魂-アトムなどではなく、むしろ成長し、闘い、自己増殖し、
死滅していくものである。だからその数は不安定に変化する。(37[四])VII3,p303)」
したがって、認識論が前提する意識と対象という異質な二つのものの相関は、実際には 身体もその-つである生成の世界の「力の量子」同士の敵対的せめぎあいという一つの事 象のうちでの差異関係なのである。生と現実世界の関係は、意識と対象、内面と外界とい う形で予め質の違いが決定されているもの同士の二項対立ではないのでである。実際には、
それ自身多くの力の量子の一つである身体と他の力の量子との敵対のうちでの量の差異で ある。だがニーチェには、「すべての量は質の表示ではなかろうか?」(1885年秋-1886年秋、
2[一五七]VIII1,pl40-141)と、多くの「力の量子」に共通の質を単一の基礎的原理とす るような発言もみられる。そこからわれわれは軽率に、ニーチェの一貫'性の欠如をあげつ らうべきではない。なぜなら、先の発言に引き続いて「両者は共存している」と括られて いるからである。「力の量子」の質は、量にまったく関わらない質、ベルクソンのいう質で はないのである。したがって、「力の量子」の質は、様々に異なる量の多様性のうちにのみ、
同じことだが量と相関してのみ存在するのである。だがその場合の量は、同一の単位の加 算された大きさとしての抽象的概念ではない。したがって量の差異は、単に同一のものの 大小関係に決して還元されないのである。ニーチェは或る遺稿覚書で次のように述べる「わ れわれが単なる量の差異をなにか量とは根本的に異なったものとして、つまり相互にもは や還元されえない質として感覚することを妨げるものは、なにもない。」(1885年秋-1886 年秋、6[一四]Vm1,p244)ジル・ドウルーズは、これについて正当にも次のように言う。
「質は量と区別されるが、それはたんに、質が量における同等化不可能なもの、量的差異 における廃棄不可能なものであるからにすぎない。したがって、量的差異は或る意味では 量の還元不可能な境位であり、別の意味では量そのもへの還元が不可能な境位である。質 は、量的差異以外のなにものでもなく、関係しているそれぞれの力において量の差異に対 応している。」(20)つまりこのことは、「力の量子」の量の差異が「支配-被支配」、それと同 時に生じる質の差異として「能動-反動」と言われるものを生むことを意味する。この量の 差異=質の差異を支え、原理として根拠づける超越物は存在しない。
ニーチェは、「力への意志」を世界原理にしているのではなく、それをもって遠近法の下 に現出する仮象の世界の系譜学を行っているのである。ドウルーズの言葉を借りると、「系 譜学的とは、差異的かつ発生論的ということである。」(21)しかし「力の量子」の敵対的戯 れ、或いは同じことだが量的差異の発生である「力への意志」において、遠近法を語るこ とは許されないのか。カウルバッハなどは、遠近法を「方法的使用」(22)と捉え、「遠近法は、
それが主張され選ばれ欲せられるその現在において、自らの機能を遂行することによって、
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