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「奥の細道」の旅の連句と「軽み」

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Academic year: 2021

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(1)

﹁奥の細道﹂の旅の連句と﹁軽み﹂

齋 藤孝

 元禄二年春︑芭蕉は﹁奥の細道﹂の旅に出た︒九月︑大垣に至るまでの間︑十八ほどの連句を巻いている︵半歌仙以上

のもの︒歌仙は十四︶︒

 同伴の曾良は別として︑初めて出会ったその土地くの人々と︑どう︑連句の座を成り立たせ︑巻々を作り上げていっ

たのだろう︒初対面の人々や︑談林などの旧来の手法になじんだ人を︑どうまとめあげて行ったのだろう︒

 次に︑﹁奥の細道﹂の旅に出るまでの芭蕉の作風は

  ・貞門

  ・談林      ・

  ・天和調

  ・そして蕉風の第一段階としての﹁冬の日﹂調︵貞享元年ころから︶

と変化した︒芭蕉が旅に出るころ︑芭蕉を含め俳壇は︑①﹁疎句﹂化の傾向②﹁景気﹂で付ける事が行われ出していた︒

一37一

(2)

﹁奥の細道﹂の旅での作風はどのようであり︑どう変化したのか︒

それらの事を︑この時の連句やその各句に現れた特徴を通じて分析してみたい︒

﹁奥の細道﹂の旅での連句を︑付句が前句に対してどの様に︵又はどんな点に注目して︶付けられたかを幾つかのパター

ンに分けて考えてみる︵芭蕉自身だけのものというわけではなく︑他の連衆のものも区別なく含めて︶︒

初対面や不慣れな人々に句を付けてもらい巻き上げる時の手法も含めて︑幾つかの型が考えられる︒列挙してみる︒

         ︵注⁝⁝以下の振り仮名は︑﹃新編 芭蕉大成﹄による︶

 A 詞付けによるもの

  18  去年の畑に牛募芽を出す      曾良   ︵﹁涼しさを﹂︶

     かはつ  19 蛙寝て胡蝶に夢を借りぬらん      芭蕉

       畠←蝶   ︵﹃類船集﹄︶

一38一

B 御当地句

     ︵発句の︑挨拶としてのものではなく︑平句の所で用いたもの︶

 句の発想の手がかりとして︑みちのくの歌枕や地名などを使い︑読み込む︒

い地名や故事などを使って句を成り立たせる手法︒ 自分たちの住んでいる周りにある名の高

(3)

10

−qδ39臼

3りδ      とどろき盗人こハき廿六の里      翠桃   ︵﹁まぐさおふ﹂︶     とfろくの里⁝⁝日光と羽黒の問にこの地がある︒︵﹃芭蕉連句抄第七篇﹄︶

酒盛ハ軍を送る関に来て        はせを  ︵﹁風流の﹂︶

     この歌仙は芭蕉が白河の関を越えての︑最初のもの︒義経の故事がある︒

殺生石の下走る水      等躬

     那須温泉 殺生石

華遠き馬に遊行を導て         そら

     殺生石の近くには︑西行ゆかりの遊行柳があり︵﹃芭蕉連句抄 第七篇﹄︶

C 気色を付ける︒

ウ臼り0

ワ︼4﹂         とふ落武者の明日の道問草枕

 森の透間に千木の片削ぎ

32  米磨ぎ散す滝の白浪

33 籏の手の雲かと見えて翻リ

翅翠輪桃 曾二良寸

(「ワぐさおふ﹂︶

D 疎句であるが︑うつり・匂ひなどに比較して簡単に付けられる﹁其人﹂

 6  馬市暮れて駒迎へせん        筆    ︵﹁御尋に﹂︶ ﹁其場﹂﹁観相﹂﹁面影﹂などで続ける︒

一39一

(4)

7 8

9

す・けたる父が弓矢を取り伝

        其人

 筆試みて判を定る

        其人

    み き梅かざす三寸も優しき唐瓶子

        其場

風流

曾良

﹁其人﹂﹁其場﹂などの七名八体への理論化は︑後の︑支考によるものだが︑支考が独自に思いついたのではなく︑芭蕉

のその時々の話をうけ︑去来にも聞いてまとめ上げていったらしい︒

 芭蕉自身の指導でも

①﹁ 綾のねまきにうつる日の影

   泣く泣くも小さき草鮭もとめかね      去来

   この前出でて︑座中暫く付けあぐみたり︒先師曰く⁝⁝よき上膓の旅なるべし⁝⁝やがてこの句を付く︒ ﹂

       ︵﹃去来抄﹄︶

  と言う具合に︑句の見立を︑具体的に指導している︒

②間接的な証言になるが﹃岡崎日記﹄の中に次のような記述がある︒

  ﹁七名の事は蕉門の作に而︑先師︵去来のこと︶より伝へたるなり︒八体といふものは支考があつめたる也︒しかし

  其人の其場の観相の面影のといふ事は︑古翁︵芭蕉のこと︶の常に仰られし事とそ︒先師なども附合の時に望︵臨︶

  みては︑袈は其人にて附よ︒其場にて附よ︑など申されしなり︒﹂ ︵﹃岡崎日記と研究﹄︶

一40一

(5)

  ︵﹃岡崎日記﹄は︑京の岡崎に隠棲する去来門空阿の談話を︑朝廷勤仕の武士で本国出雲の百羅坊茂竹が筆録したと

  ころを主な内容とするもので︑芭蕉・去来・支考等に関する資料に富む︒宝暦八年の筆録︑明和元年の書写である︒

  ﹃芭蕉と蕉門俳人﹄大礒 義雄︶

 この様に︑﹁其人﹂・﹁其場﹂などは芭蕉の用語であったらしい︒

E ﹁うつり﹂の手法︒

F ﹁軽い人事﹂句・﹁軽い日常﹂の句も見られる︒︵この点の詳細は後述︶

 これは︑日常の体験・見聞をそのまま句にする手法︒

 今取り上げている連句群中に︑次の様な等類の句がある︒

22 32

 この等類の句がゆるされたのは︑

 も良いとした︑

G 今まで強調された事はないが︑

 の細道﹂の連句を読んでいて︑特に﹁音﹂というものに意識をむけると﹁ハッ﹂とするような新鮮な句がいくつかあっ

 た︒ 青きいちごをこぼす椎の葉      翠桃   ︵﹁まぐさおふ﹂︶

いちごを折て我まうけ草       等躬   ︵﹁風流の﹂︶

       ☆

岸に蛍を繋ぐ舟杭      一栄   ︵﹁五月雨を﹂︶

川舟の綱に蛍を引立て       曾良   ︵﹁有難や﹂︶

      ①詠んだ土地や連衆が違うこと︑②句を作る場合Fの手法の日常経験・見聞だけで

   という事だろう︒

      ﹁景気﹂の句︵眼︶に対して﹁音付け﹂︵耳︶というのも存在するのではないか︒﹁奥

一41一

(6)

2 6

1

9 8 4 4

町中を行川音の月

びくにかじかの声生かすなり

願書を読める暁の声

あるほどに春を知らする鳥の声

乗合待てば明六の鐘 はせを 芭蕉 芭蕉 素蘭

 素蘭

 ︵例えば︑     薄明かりの中で船を待つ行為の方へではなく︑

  鐘の音に意識をあわせて︶

以上の様なA〜Gの視点にその他﹁時節﹂・﹁時分﹂なども加えて︑連句を︑旅立ちから順に追って行く︒

    三

旅の初めの頃の歌仙で見る︒

 三月二十七日江戸を出て四月二十四日須賀川でのもの︒

(「ワぐさおふ﹂︶

入﹁風流の﹂︶

(「Bれ家や﹂︶

(「Bれ家や﹂︶

(「Bれ家や﹂︶

     かすかな鐘の音が辺りの世界をおおう︑その  42

(7)

3 2 1

8 7 6 5 4

隠れ家や目だ・ぬ花を軒の栗     芭蕉

       客の挨拶

 まれに蛍のとまる露艸      栗斎

       主人の答礼

切崩す山の井の名は有ふれて     等躬

       御当地句      山の井⁝⁝﹁安積香山影さへ見えゆる山の井の﹂︵﹃万葉集﹄︶

       曾良の﹃随行日記﹄の五月朔日の条に﹁日出ノ比宿ヲ出︑壱里半来テ︑ヒハタノ宿馬次也︒

        町はつれ五六丁程過てあさか山有﹂

 畔伝ひする石の棚橋        曾良

        其場

把ねたる真柴に月の暮か・り     等雲

        景気・其場       ふせや 秋知りがほの倭屋離れず     須竿

        表現不足の句

梓弓矢の羽の露を乾かせて      素蘭

        其人

 願書を読める暁の声        芭蕉

        見立て替えで悌の付け︑ 音付け

この様な具合で始まる︒付け方の具合や連句全体の感じは︑ここだけでなく︑﹁奥の細道﹂の旅の問の連句全体に通じる︒

一43一

(8)

その特徴を挙げて見ると

1 芭蕉はまず丁寧な挨拶をする︒

2 句の内容が御当地の話題でかまわない︒身近な体験︑見聞だけでもよい︒

3 其人・其場などの簡単な疎句など︒

4 時に詞付けや悌付け

  などで続けている︒

5 そして︑各地で巻かれた連句のその各々が︑その巻全体を通してすばらしい出来である︑というものは︑なかなか

ない︒6 しかし︑旅の終り頃になると︑他のものと画然と区別できる二つの歌仙がある︒山中三吟の﹁馬借りて﹂歌仙と︑

大垣での﹁はやう咲﹂歌仙である︒この歌仙が﹃ひさご﹄﹃猿蓑﹄の新境地につながって行く︒

 ﹃許六 去来 俳譜問答﹄に次の様な記述がある︒

 ﹁故翁奥羽の行脚より都へ越えたまひける︑当門のはい譜すでに一変す︒我ともがら笈を幻住篭にになひ︑杖を落柿舎に

受て︑署そのおもむきを得たり︒瓢・さるみの是也︒その後またひとつの新風を起さる︒炭俵・続猿蓑なり︒﹂

 ﹁奥の細道﹂の旅で︑何が︑どの様に︑一変したのか?

 蕉風三変のうちの第二番目が﹁さるみの風﹂である︒そこでは︑日常的世界を句にとりあげ︑その付句の方法は﹁うつ

り︑ひびき︑にほひ︑位を以て付くる﹂︵﹃去来抄﹄︶がよしとされた︒その付け方の例が﹁奥の細道﹂の連句の中に散見で

一44一

(9)

き︑その方法を意識的・積極的に追及し︑

上で﹁猿蓑﹂へつながって行く︒

321

4

6 5

8 7

 この件について︑

意義は単に佳句が多いとか︑ 主にその方法で巻き上げたのが﹁馬借りて﹂歌仙である︒この歌仙が付け方の

馬借りて燕追行別れかな       北枝

 花野乱る・山の曲め       曾良

月よしと相撲に袴踏ぬぎて      翁

      勢い

 鞘走りしをやがて止めけり     北枝

      勢い

せいえん  うそ青淵に獺の飛込水の音        曾良

      響    こ 柴刈り倒かす峰の笹道       翁

       響      すげ霰降左の山ハ菅の寺        北枝

       景気  うつり

 遊女四五人田舎渡らひ       曾良

      寺の気分を生かして

   阿部正美は﹁細道の旅に於ける最大の収穫は︑やはり山中での燕歌仙だつたやうである︒この一巻の

      連衆の足並みがよく揃って︑四季や神祇釈教恋無常の配合がうまく行ってゐるといふだけに

一45一

(10)

止まらない︒実際の作例に就いて見て来たやうに︑﹁匂ひ﹂﹁移り﹂﹁響き﹂﹁位﹂﹁悌﹂といった蕉風独自の付合技法の典型

が確立されたのが︑この歌仙であった︒﹂︵﹃芭蕉俳譜の展望﹄︶と指摘している︒

 石川真弘は﹁﹃山中三吟﹄をめぐって﹂の中で︑﹁翁直しの一巻を一覧して初めに気付くことは︑芭蕉の指南の中心が︑

余情に基づく付句の工夫に置かれていることである﹂と指摘しているが︑この点についての充分な掘り下げは行っていな

い︒ 多くの人が︑この﹁馬借りて﹂歌仙が﹁奥の細道﹂の連句の中で︑最上のものである︑と言いながらもその手法が﹃猿

蓑﹄へつながる画期的な作であるとの強調はない︒阿部の指摘も以上だけである︒

 この歌仙をていねいに分析することにより︑芭蕉の付け方についての理論︵特に余情付けの︶をより明確に出来ると思

う︒その手法について今まで

  先師曰く﹁うつり・ひびき・にほひ・位を以て付くる﹂

  去来曰く﹁うつり・響・匂ひは付けやうのあんばいなり︒面影は付けやうの事なり﹂

  去来曰く﹁⁝⁝前句のうつり・匂ひ・響なくしては⁝⁝﹂

      ︵﹃去来抄﹄︶

という具合に﹁うつり・ひびき・匂ひ﹂と一セットになって表現されてきた︒

  又︑﹃三冊子﹄では

  師の曰く﹁付といふ筋は︑匂ひ・響・悌・移り・推量などと︑形なきより起る所なり︒⁝⁝﹂と言明されている︒

 これらをどう考えるか︒又︑その一つ一つ︑例えば﹁うつり﹂について去来・土芳等が句を挙げて説明しているが例句

が少ない︒この山中三吟のいくつかを新たな例として加えることが出来ると思う︒理論深化の一助になるだろう︒

しかし今は以上の指摘だけにとどめる︒

一46一

(11)

 画期的である歌仙の二つ目に入る︒今度の主題は﹁軽み﹂である︒﹁軽み﹂が強調され︑又︑その成果がはっきりし出し

た時期について﹃俳譜問答﹄では﹁炭俵︑続猿蓑﹂からと言う様にも読める︒全面的にはその頃からかも知れないが︵そ

して芭蕉の︑生涯の後になればなるほど強調されてくるが︶﹁軽み﹂への注目・試行についてはそれ以前からだったろう︒

﹃三冊子﹄の中に

    木のもとは汁も鱈もさくら哉

  この句の時︑師の曰く﹁花見の句の︑かかりを少し心得て︑軽みをしたり﹂となり︒

という記述がある︒﹁奥の細道﹂の旅︵秋まで︶の翌年︑元禄三年春の歌仙の発句についての言明である︒この三年春の半

年前の旅の間︑﹁軽み﹂は全く意識になく︑三年春になって︑突然考え出したというのでもないだろう︒尾形仇は﹁かるみ﹂

(『o文学大辞典﹄︶の中で

一47一

三次に及ぶ深化の過程をたどる︒第一次は︑天和︵一六八一〜八四︶以来の模索の果てに自然をもって人生を象徴す

る蕉風様式の確立を見た﹃おくのほそ道﹄の旅中︑﹁古び﹂の自覚の中から胚胎︑山中三吟添削中の﹁重し﹂の評語が

示すように︑過剰な表現の抑制による渋滞感の打破が図られた︒第二次は﹃ひさご﹄﹃猿蓑﹄期で⁝⁝

とその初めの時期を﹁奥の細道﹂の旅中とする︒そしてそれが現れる歌仙を山中三吟と見る︒

 しかし﹁軽み﹂の成果は山中三吟ではなく︑すぐ後の﹁はやう咲﹂からであると思われる︒山中三吟の中心点は違う︵前

(12)

述︶︒ ﹁軽み﹂の句の特徴を︑

  ﹁平俗な日常生活の中に詩を求め︑それを日常のことばで表現しようとする﹂︵尾形彷      さけとしたうえで︑﹁はやう咲﹂歌仙の検討に入る︒

321

5 4

6

09871 けづり鰹に精進落たり 二人目の妻に心や解ぬらん  年を忘れて裳かぶりぬ       ふすま 足の裏なでて眠をす・めけり      軽い人事  なほをかしくも文を狂はす        ぶん      軽い人事  軽い日常 酒飲の癖に障子を明たがり        あけ      景気  其場  雲薄くと山の重り  文鳥      詞付け   月⁝⁝鶉︵類船集︶ 新畠去年の鶉の喘出して  路通 しんばたけこ ぞ  心浮きたつ宵月の露 左柳 はやう咲九日も近し宿の菊 芭蕉    さけくにち

越人

如行残木此荊

香因筋口

﹁かるみ﹂﹃芭蕉の本 第七巻﹄︶

一48一

(13)

11

ーワ臼      やいととかくして灸する座をのがれ出

 書物のうちの虫払ひ捨  曾良

 斜嶺︵以上 一巡︶

 この歌仙に見えるいくつかの特徴点を考えてみる︒

1 ﹁奥の細道﹂の旅の連句中の画期的な作ではあるが︑うつり・ひびき・にほひに心を配った﹁馬借りて﹂歌仙とは︑全

  く全体の雰囲気が異なる︒

  ﹁馬借りて﹂は余情付けの付け方に心の焦点を合わせており﹁はやう咲﹂はその点への執着はない︒﹁軽み﹂という点

  から見ると﹁馬借りて﹂には﹁古い﹂﹁重い﹂句が多い︒

2 ﹁平俗な日常生活の中に詩を求め︑それを日常のことばで表現しようとする﹂が︑そのまま当てはまる歌仙である︒物

  語的な話で続く所もあるが︑その一つ一つの場面が日常的である︵7〜15句のところなど︶︒

3 ﹁軽さ﹂が一句や二句に現れているのではなく︑連句全体に当てはまる︒︵歌仙の基本姿勢・心の重点が﹁軽み﹂に置

  かれている︒それを焦点に各句が作られている︶︒この﹁全体﹂を﹁軽み﹂で統一したという点にこの歌仙の特徴があ

  る︒4 その事とも関連するが︑全体から受ける印象がすっきりしている︵ゴテゴテした句群⁝⁝ある事でそれなりに展開し

  た句群⁝⁝が︑全体としてはバラバラに︑散漫に存在するというのではなく︶︒これは連衆の意向もそろっているし又

  宗匠として芭蕉も一貫した観点を持って捌いている様に思える︒

5 疎句付けがほとんどである︒そして付句は︑前句の︑﹁全体へ﹂﹁軽いa常﹂﹁軽い人事﹂で付けていると言える句が多

  い︒

一49一

(14)

6

名吟と言われるものや

メージの句もない︒ ﹁スッと立った句﹂に該当する句はないが一句一句それなりの出来である︒忌避したい様なイ

 改めて﹁はやう咲﹂歌仙全体から受ける印象を繰り返して見てみると︑本格的︑

仙とされる﹁紫陽花や﹂歌仙 ︵芭蕉にとって︶最終的な﹁軽み﹂の歌

1

あじさゐ紫陽花や藪を小庭の別座敷

   あまあひ よき雨間に作る茶俵

ついたち朔に鯛の子売の声聞て

 で か ご      おき 出駕籠の相手誘ふ起く

かんくと有明寒き霜柱

 ほた 禍掘かけて今日も又来る     こた住憂て住持堪へぬ破れ寺

 どうくと鳴浜風の音

   八桃杉子芭 風珊蕉桑隣風珊蕉

一50一

から受ける印象と大差ないまでになっている︒

!、

芭蕉は︑﹁奥の細道﹂の旅中︑﹁軽み﹂という観点の重要さに気づき出し︑大垣での歌仙がその成果となった︒旅の途中

(15)

まで︑芭蕉自身には︑﹁軽み﹂への意識がなく︑句もないように見受けられる︒﹁軽み﹂への志向の変化は急激である︒︵﹁う

つり﹂などについてはもっと早くから所々で試みている︶︒

 自分自身の句で︑積極的に﹁軽み﹂を追求し出したのは︑旅も終りに近い小松での﹁あなむざんやな﹂三吟歌仙である︒

芭蕉の句だけを抜き出してみる︒

1

 まだ︑字余り︵謡曲の詞章の利用による︶

古典をふまえた句︑

 この﹁軽み﹂ あなむざんやな冑の下のきりぐす しばし住べき屋敷見立る遣水や二日流る・煤の色 世に使はれて僧のなまめく柴の戸ハ納豆た・く頃静也 寄せて舟貸す月の川端薮入の嫁や送らむ今日の雨      しあはせ 続けて勝ちし囲碁の仕合しらくと明る夜明の犬の声 本家の早苗もらふ百姓やや良寒く行バ筑紫の船に酔   いつか 杉菜一荷を分ける里人      や悌を使ったらしい古さは残るものの︑それまでの旅中の句にあった掛詞︑   寓話︑そして﹁舎利﹂などのキツイ表現が消えている︒良い意味での俗談平話への傾斜が見える︒

 への﹁気付き﹂は︑旅中各地での連衆の﹁句振り﹂︵拙い︑身の回りの句など︶を︑拙いものとして切り捨

一51一

(16)

てるのではなくて︑俳譜の現況を打破する一助として︑外形はその連衆のものと同じながら︑同じような表現の中に︑新

しい意味・意義を読み込むなど︑真摯に捉え直すことによって生じたのかもしれない︒︵芭蕉の最終的な意識は﹁今思ふ体

は浅き砂川を見るごとく︑句の形・付心ともに軽きなり﹂﹃別座敷  子珊序﹄となる︶︒

 この様に歌枕を巡りながらの旅中︑色々な付け方の模索・試行の中で︑﹁余情付け﹂での成果︵﹁馬借りて﹂︶と︑﹁軽み﹂

という﹁方法﹂での成果︵﹁はやう咲﹂︶をあげることが出来た︒︵この段階では﹁軽み﹂はまだ﹁方法﹂の面が強いと思う

が︶︒芭蕉はここに︑これまでの﹁古い姿﹂﹁重み﹂を抜け出す展望を見出した︒

 ﹁故翁奥羽の行脚より都へ越えたまひける︑当門のはい譜すでに一変す﹂となるのである︒

参考文献尾形彷他

尾形仇石川真弘

大磯義雄

大磯義雄

阿部正美阿部正美

奥田勲他 ﹃新編 芭蕉大成﹄  三省堂﹁かるみ﹂ ﹃芭蕉の本 第七巻﹄ 角川書店「「R中三吟﹄をめぐって知ご ﹃國文學﹄ 昭和54年10月号  學燈社﹃岡崎日記と研究﹄ 未刊国文資料刊行会﹃芭蕉と焦門俳人﹄  八木書店﹃芭蕉連句抄 第七篇﹄  明治書院﹃芭蕉俳譜の展望﹄  明治書院

﹁去来抄﹂﹁三冊子﹂  ﹃連歌論集 能楽論集 俳論集﹄ 新編日本古典文学全集88 小学館

一52一

︵博士後期課程二年︶

参照

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