ユ5
森鷗外における西洋と東洋の出会い
―主として彼の教育思想について―
増 田 史 郎 亮
,序
鴎外が軍医であり,文学者であった事は周知の通りであるが,彼は又その期間が短いに せよ教育者でもあった。私立東亜医学校,軍医学校,東京美術学校,慶応義塾大学で教鞭
を執ったのがそれであり,慶大では一時,文学科の顧問となり,同科の刷新にも与った事 がある。更に彼は文部省の文芸委員,美術審査委員,臨時国語調査会長を勤め,帝室博物 館総長,図書頭,帝国美術院長なども歴任している。そのためであろうか,彼がものした
教育関係の論文,図書,教科書の類は割合に多い。 「教を温くるに衛生の道を忌む事」,「
謹軍衛生教程」,「大学の自由を論ず」,「日本小学校の机楊」,「普通教育の軍人精神に及ぼ す影響」,「洋学の盛衰を論ず」等々である。尚,戦後,岩波版の全集で初めて発表された 「観潮録」中には彼の教育に関する興味あるメモも記載されている。
勿論鴎外の場合,その生活のウエイトが軍医,文学者に置かれていた事は言う迄もない が,教育者的側面もあった事は見落してはならぬであろう。従来,鴎外研究とし言えばそ
の医者出面,文学者的面に触れたものが殆んどで,管見によればそれ以外では思想家とし ての面にふれたものが若干ある(小泉信三,向坂逸郎,生松敬三諸氏等の論文)程度に止 まるようである。本稿ではかかる意味を含んで,ややもすれば見落されがちであった彼の 教育(者)的側面,ここでは特に教育思想的側面をとりあげ,之を紹介し,同時代のそれ の中で・位置ずけ検討してみたいと思う。
1.
筆者は本稿では説明の都合上,次のような要領でそれを試みたいと思う。彼の生涯の時 期的区分も諸家の意見によって種々異るが(木下杢太郎,成瀬正勝,生松敬三,馬場久治 諸氏等),私は生松敬三氏の見解に大体従い乍ら,後述の如き幾つかの時;期に分ち,それぞ
れの時期に於ける主として彼の教育的側面,特に教育思想的側面と,それを押出してくる諸 背景,諸事情とを併せて述べてみたいと思う。教育思想には一般思想を含み,或はそれと相 重なる面も当然あるので,必要な限りそれにも触れる積りである。彼に限らず,多くの明 治人はそうであるが,儒教的教養の中で育ち,更に西洋近代の教養をも受け,この二つのか らみ合いという事が鵬外の場合も例外なく起るので,儒教的教育,教養と西洋近代的それと が彼に於てどういう形で出て来,出会ったか,そのからみ合い,葛藤が如何にして彼の教 育に対するオピニオンを形成するに至るのであるかといった問題にも触れる積りである。
論者或は言うかも知れない,鴎外は軍医,文人として知名であるかも知れぬが,教育史上 姿を現わさぬし,教育思想界,実際界にも影響を及ぼした痕跡はない,無意味でないかと。
又仮令教育思想が見られたとしもてそれは彼のディレッタンチズムによるかアクセサリ ーとしてではなかったかと。成程彼は教育史に姿を現わしていぬし,影響を及ぼしていぬ 事は論者の言う通りであろう。然しそれだからと言って鵬外を問題とする事が必ずしも無
意味とも言えまい。本稿を指してそういうのではなく,一般的意味も含めてそう言うので あるが,それは従来の教育史が無意識的にか,意識的にか見落した面もあろうし,場合に よればその見落した事自体が問題となる事もあろう。何れにせよ見落された面があれば取.
上ぐべきであろう。
影響もなくはなかった。彼は医学,殊に軍医学界や文学界を主なる舞台として活躍したの でそれらを除く世界,詰り一般界,教育界での影響を望むべくもなかったのは蓋し止むを 得ぬ事であったろう。彼がとりあげた問題は単なるアクセサリーとしてでもなく,ディレ ッタンチズムからでもなく真剣な態度でとりあげた,彼にとっては重大な問題であった。
何れにせよ,彼の場合,軍医,文人としての面が教育者としての側面を覆い過ぎていた 点を若干掘り起すという意味と,典型的明治の知識入の代表として,古い儒教的思想,教 育と新しい西洋の思想,教育の出会いがティピカルに表現された典型として,又近代日本 の代表的具現者,反映者としての意味から,彼をとりあげてみたいのである。鴎外一典型 弁知輿入といえば,漱石との対比を誰しも思いつくであろう。本稿でもその必要を感ずる が,残念乍ら種々の点でその余裕がないので此の点は別の機会に譲る事とする。
2.
独逸留学迄の修業時代。この時代は断る迄もなく,彼の修業時代であり,教育者的側面 が見出せぬのは勿論,教育思想を発表している向きもないのであるが,後年のそう言った 面の素地をこ\で培ったといった点で無視出来ぬ意味がある。その意味で彼が如何なる人
間形成をうけ,如何なる教養を積んだかをここでは述べてみたい。
鴎外は文久二年,石見国(島根県)津和野に典医の長男として生まれた。以上の事から 我々は次の諸点に注意せねばなるまい。第一,幕末と言えば,周知のように対内,対外的 に経済的,政治的,思想的諸矛盾が相重なり,尊王,穣夷,倒幕,開国に明け暮れしつ・
っ,維新に向って推移して行った激動の時代であるが,彼がそういう維新前の物情騒然た るさ中に弧々の声を挙げた事である。この頃に彼の如く生を享けた者と,青年形成期を迎 えた者とでは同じ騒然たる世相でもそれぞれの人間形成の上でその持つ意味は大いに懸隔 を生ずるであろう。というは後者に於ては前途に冒険と勇気の世界が待構えていたのに対 し,前者に於ては勇気も冒険も要しない,後者の踏み慣らした(麗々としたものでないと しても)道を歩めば,立身出世の出来る道が前途に開けているからである(1)。
第二,津和野という四万三千石の一小藩に生れたという事である。元来同藩は吉見頼行 以来,領内耕地に恵まれなかった為,歴代藩主殖産興業に意を用いたとの事であるが,二 代目亀井外政は特に摺り,中でも鴎外の祖父,父が仕えた最後の藩主亀井弦監の如きは名 君と称せられ,内に於ては藩政を補強し,藩校養老館を中心に学問の興隆,入物の養成に意 を用い,外に対しては国防の為,数万両を献じ,維新に際しては他藩に先んじて版籍奉還 を行ったと言われる(2)。かかるダイナミックな雰囲気の中に彼があったという事は銘記す
べきであろう。以上の情況で同藩も他藩と同様,相当世情に対し動揺しつつあった事は事 実として否定出来ぬとしても,その揺れの振幅は大藩に比べ,小藩であっただけに割に小
さかったと考えていいのではあるまいか。この事も併せ含まねばなるまい。
尤も津和野の町は小藩とは言え,その中心地で耕地もよく開け,物資の集散地として藩 の経済的中心でもあった(3)。彼がこの城下町に生れたという事も彼の入聞形成を考える場 合無視出来ぬ要素となろう。「私が十四,五才の時」,「ウイタ,セクスアリス」で鴎外は野
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猪の荒れ廻る津和野の城下町の冬の情況などを活写しているが,その描き方は馬場久治氏.
によるとアポロ的で,光が充ち溢れた明るく朗らかなものであったと評される(4)。
第三,医者の家に生れたというである。当時の風習として医者の家に藩中の者が養子,
嫁に行くのを嫌うといった傾向があったらしい。詰り医者の家というのは士族は士族でも,
一一崧チ別な家であった。そのせいか鴎外の祖父も父も養子として森家に迎えられた人であ った。鴎外は後年,自分の家には祖父から母を通じて「一種の気位の高い,冷眼に世間を視 る風と平素力を養っておいて,折あったら立身出世もしょうと言ふ志とが伝はっていた」
と言うが(5),この事は次のように説明出来よう。祖父玄仙(白仙)が気位高く,冷眼に.
世間を見たというのは,士族ではあっても一種特別な眼で見られた家業に投じた事に由来 する態度であろう。世間に特別視される事に対する補償作用的意味もあろうし,医業に対 するプライドもあろう。折もあったら出身出世しょうというのは上述の補償作用的意味が1 そういう形に現われたと考える事も出来るが,一つには森家が格の低い奥勤めの家で,そ のままであったら生涯微禄に甘んぜねばならぬ運命下にあったからであろう(6)。とも角,
医家という一種特別な家に彼が生れついた事によって,先言つたような気位高く,世を冷眼 に見,折あったら立身出世しようという祖父以来の里家の伝統は彼が長男であり,秀才で あっただけにこれが亦彼の人間形成上,一層大きな意味を持ったと考えてよいであろう。
私は気位の高い,冷眼に云々といった言葉は彼の祖父を語り,母も語り,同時に彼自身を も語っている意味ある言葉だと解したい。冷眼に世間を見るというのは後述の彼の生活態・
度,傍観に共通する面があろう。又医者の家であったが故に他の士族の家ででもあれば這 入って来たであろう外界の大なり小なりの刺戟,動揺もこの家には這入らなかっただろう 事も種々の意味で考えて置く心要があろう。
第四は彼が長男として生まれた事である。これは次のような意味を持とう。言う迄もな く当時は男系嫡子中心主義の時代下であったが,妹,小金井喜美子が言うように彼は長男 として,非常に大切にされ,特別な扱いを受けた。それは諸家の指摘する如く,六人兄弟 の歓迎されざる末弟として生れ,里子から養子へ,再び実家に戻るという漱石の不幸な生 い立ち①,と比べると大きな違いがあった。それだけに彼は家入の期待,要求を言わば一 身に担った形でそれに答えねばならなかったが,事実又秀才である彼はそれに充分答え得
る人でもあった(8)。
所で鴎外を育てた家入は祖父母,父母であるが,中でも彼の人間形成に大きな影を落した のは母であった。それは鴎外ならずとも一般的意味でもそうであるが,後述するような特殊 な意味でもそうであった。彼の祖父に就いては前言したので繰返さないが,先に言い落した 事をここで付加えると,漢学の素養もあり,それで門戸を張って行けた人でもあるらしい。
鴎外の文芸趣味はこの入からも伝えられたと見てよかろう。祖母は学者肌の夫を助けて,
無財産となっていた小家を興した気象者だと言われる。この間に生れたのが母峰子であっ た。一人娘, 「家つき娘であり,思うままに家政を処理し,子供の教育に当ったものと考 えられる」(9)。理解ある彼の祖父ですら「女子は家事裁縫さへ出来れば文字など知るに及 ばぬ」と言ったという家の中にあって,尤もそれは一般の風潮でもあったが,彼女は鴎外 に教える為に伊呂波から始めて四書が読めるに至る迄自ら非常な苦心をして勉学に励んだ という。鴎外成長後は彼の書いた小説のみならず,論文,謙訳物までも眼を通したというか ら,典型的な賢母,賢女であったと言える⑳。世故に疎く,名利の念の薄い鴎外の父を助
け,巧に操って一家の興隆を願ったという勝気な彼女は文字通り,彼一家の支柱であった
㊨母峰子は鴎外の死去六年前迄生きたが,彼女は鴎外の言わば全生涯に亘って庇護,激励 し,彼の家の中では最も影響が深く,長かった入だと見倣して誤りではあるまい。その間 祖父から母に伝え られたという例の高くとまって冷眼に云々という志も更に母から鴎外に 伝えられた。郭外も母を深く愛し,絶対服従であったと言うから,その影響の深さ加減も 言うに及ぶまい。母が例え賢女であり鴎外が俊秀であったにせよ,また鵬外が俊才であれ 1ばある程,彼が生涯,母に対し絶対服従をし通したという点は種々の意味に於て私は決し
て軽々に見過してはならぬ所であろうと思う。後述する儒,国学の影響を此処にも見る事
:が出来るように私は考える。養子に迎えられた父静泰(静男)は筆名心に燃えた母峰子と は反対の世故に疎い,名利に淡泊な人であった。玄仙が詩歌,俳句の本を旙いたのに対し,
静泰は医書の外持も読まない流儀の人であったようである。茶,盆栽を趣味とし,「カズ イスチカ」によると「詰らない日常の事にも全幅の精神を傾注する」「有道者の面目に近 い」とも評すべき入であったらしい。更に「カズィスチカ」の示す所では,鴎外の眼には 当初この父の生活は町医者の誠に詰らない平凡な生活として写ったらしい。家庭に君臨す る(鴎外の)母の強い性格,旺盛な功名心の下にあれば尚更の事であろう。然し鴎外も後 年,その平凡に見える生活の中に意義を認め(実は先に掲げた有道者に云々という前後の
引用ケ所はそれなのであるが),かかる父の生活態度は彼の「壮年以後勤めて学ぼうとした もののよう」であった(11)。然しそれにしても母の強い性格等と比較して見た場合,父から 彼に向って働きかけて来る力には母の場合よりは力弱いものがあったのではあるまいか。
彼が慶応二年,数え年六才で私塾で学び始め,明治十年,十才の時藩校養老館が廃止さ れる迄学んだものは私塾で論語,孟子,和蘭陀文典(之は室良悦より),藩校で四書,五経,
:家庭で四書復読(母より),和蘭陀文典,英語(父より)で,その殆んどは儒教の古典教育 であった。無論和蘭警語,英語を教わっている点は若干注目を惹くが,之は彼の家業の特異 性,将来医家たるの準備教育から来ていよう。尤も,そうでなくても幕末には一般的にそ
ういう傾向はよく見られた。然しそういう点を含んでも彼が十才迄受けた教育は儒教的古 典教育がその主流をなした。彼は後年(後で述べる),断る論文の中で精神発育史の中で 最:も害毒を流し易いのは少者に向ってなされる古語,古文法の巻斗である,我邦の漢文,
和文の如きもそれであると述べ吻,この種の教育を排撃しているが,爾後の彼の教育,教 養を考えた場合,彼がそれによって精神的営養分を吸い上げ,それで育てられた事は否み難 い明らかな事実であり,又それは彼の精神に大きな痕跡を残したのではあるまいか⑬。生 松氏の指摘にあるように彼は後年の「妄想」で独逸留学時代に学んだ西洋の近代自然科学,
医学を目して「少壮時代に心の田地に卸された種子は容易に根を絶つ事は出来ない」と言 っているが,その言葉は彼の受けた西洋学にそのように当霰まると同時に,又最も可塑性 に富む幼時からの古典学にもそのままに適合するのではなかろうか⑭。彼が意識する以上 に,又我々が評価する以上にこの儒教古典学の彼に対する影響は意外に根深いのではなか 一ろうか。それはともかく,かかる言わば西洋と東洋の出合いは鴎外に限らず,明治知識入 の抱えていた共通の問題,悩みであるが,文字通り学,和漢洋に亘った漱石,鴎外の如き 場合にはそれがより深刻に展開せられたと言うべきであろうか。
彼の藩校に於ける成績が抜群であった事は勿論である。それは彼の優れた能力に加えて 例の母の絶えざる激励と援護があったからであろう。彼はこれで例の期待に答え得る人物
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である事を先ず証明した。
尚,藩校養老館と言えば付加えておかねばならぬ事が一つある。私は先に平等が藩学で 学んだ教養は若干の洋学と特に儒学である旨述べたが,実はこの養老館は既述した最後の 藩主亀井蝕監の手によって平田篤胤門下の大国隆正,福羽美辞(両人共に津和野人),岡熊臣一
(石見国入)を用いて極めて国学色豊かなものに改革されていた。時人之を津和野本学と 言ったらしいが⑯,岸本町平氏の「近世神道教育史」には大国隆正の家塾は全国的流れの 一環として取り上げられて居り㈹,それらより察して津和野本学なるものは全国的にも名 の通ったものの一つであったようである。この事を断っておかねばなるまい。鴎外が学ん だのはこの大改革以後で,恐らくこの面の感化が多感な鴎外少年にも及んだかと考えられ る。生下竪はこの点を「国学風の感化がどの程度と明白に指摘出来ぬにしても,やはり可 成り痕跡をとどめたものであった事は確かであるように思われる」と述べているが⑰,
筆者もこの考えに賛成である。
藩校廃止の翌明治五年,父静男は藩主の侍医として東京に移住する事となったが,鴎外 も伴われて上京した。彼は一時,西田邸に寄寓してドイツ語を学ぶべく本郷の進文学舎に 通った。同学舎で独語を学んだのは東京医学校に入学する準備のためであった。西周の所
に一時寄留したのは同郷の大先輩でもあり,西家の家業が同じ典医であり,又その上親戚 の間柄でもあったかららしい。所で生松氏は彼が「西周伝」を書いているのを除くと西周 に関して言及したものが予想外に少いのは興味深いと指摘しているが,筆者も不思議に思 う。鴎外は西夫人の歌集の序に「周ぬしの教導を受けし事多く,操行は夫人升子の君の訓 戒を蒙りぬる事数々なり」と言ってい乍ら,その教導については殆んど言及せず,唯僅か に或る講演で「どうも先生の教育は余程妙だと思った」とだけ言っている⑱。それは矢張 り唐木順三,生松敬三両氏の指摘するような両者の気質や世代,時代の相違から発生する ものだろうか。
鵬外は以上の過程を経て明治七年,東京医学校予科に入学し,十年東京大学医学部と改 称された同校の本科に進み,十四年最:年少者(二十才)として,同校を卒業した。
響町がいた頃の医学部の総理は池田興野,総理心得は長与専門,教授はかのべルツを始め 皆ドイツ人であった。彼はここで洋学一自然科学的医学と本格的接触をした事になる。学生 時代如何なる生活を行い,どんな教養を積んだかは「ヰタ」「雁」に明らかである。前述の如く 彼は医学生の中,最年少であったが,明敏で学課もよく出来,好感も持たれたようである。
勉強も一向苦にならず,ノートも彼一流の要領のよさで凡帳面に整理した。貸本屋より 馬琴,京伝,春水,貞丈雑記を借り,友達からは晴雪楼詩鋤,本朝虞初新誌等漢文漢籍を借
り,愛読書は花月新誌であったという。漢詩,漢文も作り,時には寄席にも通ったらしい。
以上のように段々見て来ると幼時より彼を培って来たものの中で和漢的教養の占めるウ エイトが大きい事は否定出来ないようである。何度も繰返した如く,幼時からの環境が蘭 医の子であるという,普通とは一種異った環境で,あったし,幼い頃から英,蘭,独語に触 れ,更に東大入学後は医学を専攻しているので決して所謂和漢学一辺倒ではないにして
も,和漢学の占めた位置は予想外に大きいのではないだろうか。馬場氏は小説作法上,表 現型,この頃読んだ人情本,読み本の類からは鵬外は余り影響を受けていないと言いつつ,
一方,漢詩漢文からの影響は大であったと言うが(19,私はこのように二者に分ける迄もな く,和漢共に大きな影響を及ぼしたのでないかと見る。而もそれは表現上ばかりでなく思
聖上でもそうであったのでないかとすら考える。
鴎外は卒業の成績は余り芳ばしくなかったらしい⑳。卒業後列ケ恥して軍医となったが,
その間葉のようないきさつがあった由である。卒業後,彼は操触界或は政治界に進みたかっ たらしい。生松蝉はこれを民権運動等の影響であろうと見ている⑳。然し,余財もなく,
祖父も老境に入り,収入を直ちに得ねばならず,母親にも止められ,家入の希望も入れて陸 軍軍医となるに至ったもののようである。文部省派遣の留学生も期待したらしいが,上述 のような成績のためそれは断念し,今度はその洋行の望みを陸軍に托して軍医になったら しい。彼としては不満足乍らも自己の要求を若干充し,而も家人,殊に賢母の期待にも答 えられるからという所であったろう。私はここでも例の折もあったら出世しようという線 が働いていたのを撫ぜざるをえない。鴫外はそれを政治の方面で著そうとしたが,母はそ れを家業たる医者の道で危険なく安全に進ませようとしたので,親孝行の彼は家入,母の 意向に沿い乍ら自己の要求を引込め,然し母の要望の中で自己の意向を若干でも生かそう としたと私は見たい。洋行の望みは直ぐには果されず,それ迄彼は陸軍軍医副として私立 東亜医学校で講義し,又軍医,看年長に軍陣衛生を講じた。彼が物を教えた最:初である。
その詳細は判らないが,本稿に干てはこの事は無視出来まい。所でこの衛生学を彼が専攻 し たという事について唐木,翠松両氏は,それが医学の中で最も政治性の強いものであっ 売からだろう,充されなかった政治的野心をそれで充たそうとしたのではないかと指摘し ているが働,或はそうでもあろうか。
.3.
待望の洋行を実現したのは,それより二年後の明治十七年,民権運動の激化の後の事であ った。彼はそれを弾圧する権力の側から,軍備拡張に努めつつある陸軍から派遣されたの である㈱。彼を迎えた独逸はヰルヘルムー世治下で,資本主義化,工業化が著しく進み国 民的統一を達成した帝政独逸の黄金時代であり,後進国日本の理想的モデルであった。彼 は日本国家より身分と勉学の保障を得,先輩国ドイソからは好意と指導を得る事が出来 た。留学中の彼の生活は三つの方面から眺められる。一つは伯林駐在公使青木周蔵の忠告 によって行った欧洲人の思想,生活の見聞であった㈲。彼は東大でのヨーロッパ文化への いわば洗礼を受け,言わば彼地文化への処女性を失っていたので,余裕を以て彼等の文化 を見る事が出来,彼等の文化の歴史家,伝統性を彼の鋭敏な感覚で学びとったようであ
る㈱。彼の言葉によると彼は先には「勉強する子供」学校生徒であったが,此処では「勉強 する官吏」,留学生であった⑳。ホフマン,ペソテンコオフエル,コッホという良師にも恵 まれ,よく勉強した。「天晴衛生学を研究して試験室の中で大発明でも致そうと思ってい た」という㈱。明治人らしくもあり,且つ鵬外らしくもある。彼が医学を通して学んだの 1は「欧洲医学の受売と買出し」は不可であり㈲,自力のアルバイトで成果を生み出すという 事であり,もう研究の成果を教わる時期ではなく,研究そのものを教わる時であるという事 であった㈹。そしてその研究の方法は「実験と観察」によらねばならぬというのである㈱。
既に或る程度彼は東大で独逸摩羅教師によってその事は学んでもいたのだと私は思う。然 しそれに拍車をかけ,明確に又深くその事を認識したのはこの留学によってではなかった ろうか。そしてそれは彼の言葉によれば,上述の如く若い彼の心の田地に種子を卸し抜き がたい痕跡を残したのであった。医学,衛生学の研究業績も多く,その殆んどはドイツ雑誌 に発表したが,その中に,日本の旧習必ずしも不可ならずという保守的論文もものし(こ\
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1こ彼の現実的,合理的改良の考え方が出ている)⑳又独米人の誤れる日本観を正す愛国的論 文も書き(明治人通有の事であろうが,ここに儒,国学の影響も見られはすまいか)㈱,
更には日本の近代化を浅薄,模倣と難じたナウマンの論文に対して,西洋を日本近代化の模 範としたのは止むを得ぬ事であり,日本は可能性をもった子供の如きもので好意ある批判
者は日本の成長をこそ温く見守るべきであるという日本擁護の論文を書いた事は忘れてな らない圃。然しこんなエクザクトな学問も結局の所,彼の「心の飢」を充さなかった圃。
鴎外は専門の医学研究以外に文学,哲学,芸術の研究も怠らなかった。医学以外に文学,
芸術に親しみを持ったのはこの時に限らず,東大在学中もそうであったのでこれもその延 長と考えるべきも(尤もそれが日本的なものからヨーロソバ的なものに変った事は忘れて ならない),一方では上記の心の飢えを自然科学でも得られず,又生松氏の説く所では当 時彼の身辺に不快な事も起ってもいたらしく圃,それらの事が相侯って彼を駆って医学域 外の事に赴かしめたのではなかろうか。ソフオクレエス,オイリピデエス,ゲーテの文学作 為を読み,ハルトマソ,スチルネル,シヨーペンハウエルの哲学を読んだ。然しこれらも 結局彼の心の空虚を充さなかった。これを彼は次のように説明する,道行く人を辻に立っ て冷淡に見るように彼等を見,度々帽を脱いだが,どの人にも付いて行こうとは思わなか ったと。又多くの師には逢ったが,一人の主に逢わなかった,「どんなに巧に組み立てた 形而上学でも一篇の仔情詩に等しいものだという事を知った」からであるとも之を表現す る㈹。彼の言わば傍観者的とも言うべきこの態度は(父祖伝来か,又々の素質に本来ある のか,その辺の一部事情は前に説明した)この後も見られた事は言う迄もない(尤も後の 時代のそれは若干質的に異る)。
以上の如くして彼は医学にも文学,哲学にも心の空虚を充されず,心の勤揺を抱きつつ 日本に帰って来た。以上の意味で留学生活は西洋新知識を吸収しつつも,それ以前の日本 での生活に反省を加えた時代でもあるが,また後述の如くそれで以てこの次の時代の準備 をなした時代でもあった。
4.
次は帰朝した後,日清戦争に参加する迄の時期である。この期は彼の教育に関した論文 が現われた時でもあるが,唐木,生初両氏の口吻を以てするならば前の準備時代を経て,
戦面的啓蒙活動が華々しく展開された時期であった㈱。
帰朝後,彼は陸軍大学校教官,軍医学校教官に任ぜられたが,日清戦争の前年には軍医 学校長になった。一方,東京美術学校美術解剖学講師,慶応義塾大学審美学講師も歴任し た。私生活の面では彼を追って来た独逸女性エリスとの問題,その落着後の西周の仲立に よる海軍中将赤松則良男の娘,登志子との結婚問題(これは翌年種々の原因で不幸な結果 に終った),長男の誕生があった。この結婚が全くの親任せであった事は逸すべきであ るまい。
憂愁の心を抱いて帰朝した彼は「失望を以て故郷の人に迎えられた。」普通の洋行帰り のようにその布達を喜ばすような新しい手品を取出す事もなく,却って「人の改良してい
.る,あらゆる方面に向って…・・…本の杢阿弥説を唱えた」程であったからである。そう いう事で彼は「保守党の仲間に逐ひ込まれ」いわゆる「洋行帰りの保守主義者」となった
く38)。
彼が帰朝した明治二十年代初頭はいわゆる条約改正をめざしての鹿鳴館(欧化主義)時代
であった。この時代は例の明治初年の文明開化時代を所謂欧化主義の第一波とすれば,そ の第二波とも言うべく,それは「明治政府が明治革命当時とったところの欧化主義のよう に,決して一本気なものではなく」「条約改正の為に出来るだけ表面を日本が近代化したよ.
うに見せようというので」「むしろタクチックな意味が強かった」事は丸山真男氏の指摘し た所であるが,洋学,開明派と保守,反動派が激突した時代であった。大倉喜八郎は当時一 の回想として鹿鳴館時代は保守派が出るかと思うと進歩派も出るといった奇妙な時代であ ったという(41)。
上述の如く彼は種々の改良説に対し「本の杢阿弥説を唱へ」「保守党の仲間に逐ひ込まれ,
た」歓迎されぬ「洋行帰りの保守主義者」と自らは言ったが,歓迎されぬ訳でなく,その保 守派の側に迎えられたかの如くであった。彼は「洋行帰りの保守主義者は後には別な動機で 流行し出したが,元祖は自分であったかも知れない」とも言う。但し彼が洋行帰りの新知識 であり,日本の事,西洋の事をよく検討,反省した上での保守主義派で,単なる反動的それで なかった事は留意すべきであろう(42)。欧洲の新知識を満載し,憂愁の心を抱いて帰って来 た彼がその轡曝したものを吐出す時期に正に際会していたと言うべきであろう。在独中,
既に彼は「福沢ノ政学二於ケル如ク日本ニテ働カバ其利大ナラン」と考えていたが(39),
事実,彼は帰朝後戦斗的とも言うべき態度で目覚ましく,烈しい啓蒙活動を開始した。
目覚ましい活動は文学の世界でも見られた。ハルトマソを中心に,その前後の美学を批:
評の標準として,文学界「蕩清」の事業に乗出さんとした。「柵草紙」の発刊がその一つで あるが,中でも坪内適遙との間に捲起した所謂「没理想論争」がその顕著なものであっ た。それは周知の如く褒財に迄亘らぬ没理想の態度が批評家の態度であらねばならぬとす る適遙と,批評は飽迄理想,審美的観念を規準とする評価,褒財であらねばならぬとする 郭外との論戦であったが,それは今日の批評家からは論争の態をなしていぬと評される程 のものでしかなかったとしても(42),これが当時文学界に及ぼした刺戟と影響は甚だしい ものがあったようである。此の種の論争は聖母との間だけではなかった事は周知の通りで
ある。
医学の面の啓蒙的活動は一層戦斗的,徹底的であった。文学(芸術)と医学(科学)の二.
っの世界の質的相異にもよろうし,又彼の専門が医学にあったという事にもよろう(43)。
上述の如く,彼は西洋医学研究の成果の受売と買出しは止めてこのForshungという言葉 の正確な訳語すらもないこの国で,研究そのものを,近代的実験的医学を確立する事を夙 に留学中に目指していたのであるが,帰朝後彼はその目標達成に全力を投入したのであっ た。尤も上述の如く激職にも就き,東京下校,慶大にも出講して多忙であった為,その研 究そのものは出来なかったが,「医事新論」「衛生療病志」などの雑誌の刊行によってその 趣旨の啓蒙活動を果敢に行った次第である。彼の当時の活動状態を窺うに是る二,三の例 を挙げてみると,日本医学の将来は欧米医学でも日本医学でもなく,国際医学を目指すべ きで,それに至る「道は一一あるのみ。日く研究是なり」といった彼の言葉(45),所謂「統 計論論争」で論敵の科学的研究方法の認識不足を説き, 「実験的帰納法」「統計的帰納法」
の意義の別を説明したのなどそれであり(46),又「我輩の聖人をして読書家,翻訳家,伝 習者,受売人ならしめず,これをして討究家とならしむるに在り」と述べた「医事新論」の 発刊趣旨(47),日本医学界に対する,それが知識の交換授受機関であっても近代的実験的1
医学の推競機関ではないという批判もそうである(48)・明治二六年には先の「没理想論争」
森鵬外における西洋と東洋の出会い(増田) 23
にも比すべき「傍観機関」論争という大論争なるものが起った。医学界に政治的策動を行っ
『て学問を学者の手から取上げようとする諸運動を指して「反動」,これを支持する「医海新
・報」を「反動機関」,日本医学会を「反動祭」と名付け,之に対し自己を「傍観者」,その よる「衛生療病志」を「傍観機関」と命名し,前三者を後者二が近代医学発展のために「
客観的主導からあく迄公正な主張をなす」というのが所謂「傍観機関」論争というもので あった㈲。ここで「傍観者」というのは先に述べたそれとは連なるが,後で「あそび」
「諦念」と共に言われるそれとは若干質的に異るものであった事は注意すべきであろう。
唯此処で注意すべきは本来,政界,操触界を目指してもいた彼が,政治を避け,戦斗的 啓蒙を医学,文学,詰り,学問と芸術に限ったという事である。極言すれば「安全地帯から
の啓蒙」であったとも言えよう㈲。彼がかく政治を避けたのは,独逸,日本に於ける言論弾 圧の見聞,動画ではあっても基本は彼が権力側の軍法であったという事,又彼一流の賢明さ
によるものであろう。内に轡漉したものを持ち,政治を避けるとなると勢い専門の医学,
文学に行かざるをえず,行けばそれがシャープなものになるといった所ではなかったろう か㈲。この点から言うと,この期から出現する教育の面は事の性質から,又論敵もいない 情況であったので,それは医学,文学の音程は激烈な形はとらなかった。然し基本的に底 流として流れている自己が開拓者的重任を帯びているという意識をもった啓蒙的精神はこ の面にも共通して強く流れていると思う。
所で此期に現われる彼の教育思想は次の如きものであった。以上の医学に近代的実験的 方法と導入せんとした事にしてからが既に彼の医学又は科学教育思想上の大きな功績と見 る事が出来るが,先ず医学教育に関する事から触れると, 「日本医育論」「日本画育論補 遺」「再び日本の医育を論ず」で彼が酔泣の熟処,帝国大学の医科大学,高等中学の医学部,
私立の医学部の現状を詳細に分析し,医学界に於ける理論,実際の分離,医育の未整序の
』状況を鋭く批判してこれが糺正策を提言しているのを見ねばなるまい。更に「陸軍衛生教 程(誘導編)コを陸軍軍医学校から出版し,「兄妄談」で独逸軍制を紹介し,「英国軍医制度」
一なる論文も執筆している事も付加えねばならない。筆者の専門でもないので明白に言い切 れないが,「日本医学史」の衛生学,軍陣医学の項を見ると働,これらが軍陣医学に大きな 意味を持ち,医学教育の整序化,理論,実際の統合に大きな意義を持ったろうという事は 言えると思う。特に彼が繰返し唱えた実験と観察という科学的法方の強調は恐らく医学教 育のみならず科学教育に大きな一回忌投じたものではなかっただろうか。
この期には次の如き注目すべき論文もものした。一つは「教を授くるに衛生の道を履む 事」である。その要旨は次の通りである。教育の目的は個人の性能を充分に発揮せしめ,将来の 文化推進に与らしめるにあり,学校の目的は細(専門),大(普通)の知識を授け,一個人の才能をして 不遍発達せしめるにある。教師はその為被教育者の天性を知り,知的発育の方向をを知る為に生物学,
生理学を知らねばならない。所で先に挙げた児童の個性伸長の観点から現在の学校を見るとその障磯を なしている事が明白である。列挙すると次のとおりである。一,誤った授業法(生徒の現況に適せず,
快味に添わず云々)をして生徒の心を破損している。二,学校を馴獣園と見徹し暗記暗講という背天の方
−法を強いている。三,幼児は普通教育を専らにすべき時期であるのに将来専門学校,大学で受ける如き職 業教育的事柄をも教えられている。四,学校は厳格な教授法を施す場所だという謬見をもっている教師 もいる。ロック,ダーウィン,プライエルもそう言う方法は問題だと言っているではないか。五,学校を 学問,学術の場と考えず,資格,学歴,卒業証明書獲得の場所と考えている弊もある。六,体育の蔑視。七,
一級生徒増加による教師の負担過重。八,生徒の負担過重の問題。これは一八八三年,ローリンゼルがロッ ク,ルソー,ペスタロッチ,バゼド円環の説に基いてプロイセンのギムナジウムの生徒の負担過重を攻 撃したのに端を発するが,逆に生徒に過重な負担をおしつけた誤った教育的改革その後独,仏でなされて いるのは見過せぬ。例えば独逸のエルサス,午睡トリンゲン知事のマイントイフエルの一八八三年の学制 改革,プロイセン文相ゴスラーの一八八四年の告文,仏蘭西のラノオが一八八六年にパリー医学士会院に 提出した意見の如きがそれである。九,この過担の源は教科と教法が誤っているからである。十,最も害毒 を流しているのは幼少年者に古語,古文法の暗記を強いている事,之は洋の東西を問わぬが,それを非難 する学者は日本には少いがスペンサー,ヴィルヒョウ等西洋には多い。十一,学科課程も秩序がない。ここ で鵡外はその糺正案を出している。簡単に紹介すると,どの知識を得るにも要用な,正確な国語,日常の読 み書き,算法の根基,簡単な画法(物を知らしめる為),音楽の楽符を基礎に授け,次いで人たるに必要な 自然,生物,理化,史,誤診,道徳を身近い所から教えて行く,というものであった。そして多識より 精識を,暗説は会得したことに限り,而もそれに限界をつけよとも言い,やり方次第で児童も自ら学を 好むものであり,児童は「宜しく自ら憶うべくして師をして己に代って考えしめ」,その結果をのみ珍く べきでないとも言っている。十二,宿題の問題,之もその性質によっては害毒を流す事が明白である。
宿題の時間の統計的研究では相当長時間に亘るものもある。十三,課業の時間も問題であるが,殊にそ こで問題になるのは午后の課業,又休みの時間の事であろう。この詳細は略する。十四,思料の結果.
でなく暗涌の結果を適う如き試験。十五,師たるものの資格上,心身の衛生的知識が不足しているので ないか。十六,受業者の健康を忘れている面がないか。体操,遊戯,手工が軽視されているのでないか。
以上の論文を発表したのは「衛生新誌」上,明治二二年から三年に亘ってであった。その頃 の我国というと,ペスタロツチの開発教授,スペンサーの実証主義等を含んで,英米功利 主義,自由主義教育思想の輸入流行の後を受けてヘルバルト主義流行の時であり,又独逸 学歓迎のの時にもさしかかっていた。かかる中に彼の見解はどう意味を持つであろうか。
彼の先の見解は注に挙げてあるだけでも原書独五冊,仏二冊で独逸色が圧倒的であり,私見.
によれば殊に負担過重の問題にウィルヘルム三世時代の独逸国内外の医師界,教育界に大.
きな反響を呼んだ医師ローリンゼルの見解,実践岡に示唆されたのではないかと考える。
それで彼の見解は独逸から出ているとしてもヘルバルトから出ていない異色さを持つこと は否めまい。それのみでない,彼の留学中の見聞,幼少時の体験の反省もその背景となろ う。とも角,医学者らしい見解であり,その面で余りに医学的だという一部の限界も有する が,主として負担過重の観点からではあるが,児童中心的考えを出している事は注目され てよかろう。尤もそれは先のペスタロッチ主義流行の際々に唱道されていたといえなくも あるまい。それにしても多くの原書,西洋新知識に依り乍ら児童中心の原則を中心に多く の学校教育の欠陥を衝いた点は誠に時宜に昇った事ではなかっただろうか。但し彼の発表 した雑誌は医学誌でその反響が見られなかった事は止むを得ぬ仕儀であった。
もう一つの論文は「大学の自由を論ず」である。彼は在山中,「日本大学ヲFreiheit/
Statteト為ス事独逸ノ如クシ云々」といっているので既にその腹案はあったものとも考え られる岡。この論文は短文乍ら実に要領よく中世に由来する大学の自由の歴史を紹介し,
仏,英,独諸大学のあり方の特色にも勿論言及し,結論として,「独り独逸の大学は同じく政:
府の保護を受け,之が為め関渉せらるる所なきに非ずと錐も,英吉利の保守,仏蘭西の革、
命との間に立て,能く内部の自由を維持したり」,「聴講自由の校外生活の自由とは大学の 自由の真相にして,大学自由は真成の男子,真成の学者を養成する最良陶汰法なり。之を 備ふるものは誰ぞ。早く独逸大学あるのみ」と述べている。この述べ方に若干の疑問を感
森鴎外における西洋と東洋の出会い(増田) 25
ずる向きがなくはないが,短文乍らこれ程装った論文は当時としては珍らしいのではある まいか。独逸諸大学を最:良といったのは独留学の彼としては当然でもあろうし,よく理解 した上での体験に基いた発言でもあるが,尚この頃は独逸を模範国ともした時世でもあっ たのでその事は余り珍らしくもなかったろうが,大学の自由の観念自体に対しては貴重な 啓蒙であったのでないかと思われる。家永三郎氏㈲や筆者によると,大学の自由,自治を 紹介した文献,文書を古くから挙げて行くと明治五年加藤弘之訳ブルンチユリー「国法汎.
論」,六年「泰西勧善訓蒙」,文部省「理事功程」㈹,一四年東京大学職制,事務章程,一九 年帝国大学令,二六年勅令第八三号等で,絶無ではなく,その認識も必ずしも低調であっ たともいえまい。然しそれにしてこれ程簡にして要を得た文書も得難かったのではあるま一 いか。尤も当時大学の自治は余り要求もされず又問題にならぬ状況下ではあり,これ又,
医学誌に掲載されて実質的に反響が見られなかった事はいう迄もない。
尚東京美術学校,慶応大学での教師生活の事は美術解剖学,美学をそれぞれ講義したと いう以外の事は判らない。彼の教育思想で両学校で行った教育,講義の体験,或は講義の 種本としたハルトマソ等の美学そのものから得られたものもあろうが,之は推測の域を出、
ず,明白な事は判らない。
5.
次は日清,日露両戦争に亘る時期である。日清戦争に参加した四年後,文事に耽って官 事を蔑ろにしたといった理由で左遷されて小倉に行き(為に美校,慶大は辞任した),二年 後,再び東京に返り咲いて第一師団軍医部長となり,日露戦争に参加したというのがこの 間の履歴のあらましである。私生活では判事荒木博臣の長女しげとの再婚,長女の出生が あった。以上の事からも推察されるが,先の啓蒙の戦御調姿勢は戦争と左遷の為失われ る。事実,文壇だけからいっても既に紅露適鶴の時代は過ぎていた働。而も前述の左遷と いう不遇時代も小倉時代で迎え,精神的危機を経験した彼は「静まりかえって」勉強しつ つ,諦念の生活態度を次第に形成して行った鮒。この意味でこの時期は前の華々しい啓蒙.
活動時代の後を承けて,それが沈静反省された時代であり,やがて次の四十年代以降の活一 年半向っての準備時代でもあったと見る事が出来よう。
諦念といえば,先にも傍観と共に述べた事があるが,此期のそれは以前のものとは異っ ていた。というのは次のような事が考えられるからである。若い時代の彼ならば家や母や 社会の為に自己の希望を断念し,諦念せねばならぬ事があっても,外部的活動にそれを吐 出す事が出来た・然し小倉時代の彼にはそれをしようにもその吐け口はなかった。僅に漢 学,網掛,仏,露,梵語などを勉強する事によって慰する事は出来た。彼は一方ではそういう 勉強によってそれをまぎらわせ乍ら,他方追・)詰められた者の出口のない一つの極限状況 に立っての覚悟をせざるを得なかった。彼がこの時期,諦念という安心立命の境地に辿り ついたのは以上の事情に基くものであろう㈲。尤もそうはいってもこれ以後の彼が諦念に 徹し切ったとは無論言い切れない。「心頭語」などにそれが散見されると生松明は指摘す る。因みにこの「心頭語」等は家永,生松両氏によると鴎外に残されていた東洋が,西洋一 近代を装った衣裳の中からはしなくもその姿を現わした典型例だとも評されるが㈲,私も その見解には賛成である。私が鴎外に儒,国学の影響があったと述べた証拠の一・つはここ にあると言ってもいい。然しそれは隠微に近代的装いを帯び乍ら慎重に述べられているの でそれを明白に摘出する事が困難である事は言うまでもない。
所でこの期には二度も戦争に参加しているが,彼が戦争を如何に考えたかも重大な問題 となろう。尤もそうは言っても,文人,医者ではあっても彼は軍人であり,戦争を本務と する軍人としてはそれが当然でもあろうが,戦争に対しては些かの疑念もなかったし,内
:村鑑三,幸徳秋水らの非戦論,反戦論に対しても何等の反応も示さなかったようである㈹。
倍,私は先に,彼の啓蒙活動の事に言及したが,其処で私が言おうとしたのは啓蒙に於け る戦斗的姿勢の消失についてであって,啓蒙活動一般のそれについてではなかった。彼の啓 蒙的精神は此処でも一貫して流れていたと言わねばならぬ。美学論,人種論,倫理降等,
数多くの論著がそれである。私がこれから述べる教育関係の講義,論文著述もその一環と 考えてよい。殊に小倉時代には福岡県教育会支部で倫理学の講義,後述の「普通教育云々
」という講演も行って居り,所謂社会教育の一端を担ったとも言えた。人種論も実は東京 高師,早稲田大学で講義したものであった。
以上を背景にして彼の教育思想を窺ってみよう。「日本小学校の机楊」なる執筆年代不明 の論文があるが,明治二五年,二九年の語が出ているので便宜的にこの期に入れた㈹。この
論文は標題の如く,医学的に日本小学校の机,椅子の問題を論じたものである。「女子と美 術教育」という短文もある。これは趣味の問題は女子のみでなく男子の問題であり,学校教 育のみでなく家庭教育の問題でもあると言い,児童雑誌の利用にも言及し「普通教育に加う
・べき芸術的要素の事」,「似て非なる所謂美術学校の事」,「歌のお師匠さん,茶の湯のお師匠 さんに並び立っている日本絵のお師匠さんの事」,「真の絵画彫刻などを女子に早くる事」も 澗題にしている㈹。「小倉日記」に津下正高なる人物から小学三,四年の日課・,夜学の時間数 を間合せて来たのに対してそのそれぞれの最:上限を答えたのは前記の負担過重の問題に照
応することであろう㈹。
「衛生新篇」の「生育」(この篇は明治二八年若に掲載されたらしい)の部の育児,学校,
課程の節は教育に関係する箇所である。この中,課程は先の「教を塞くるに衛生の道を履む 事」と殆んど重複し,学校の中の机に関する事は前記の日本小学校の机楊と重なる㈲。そ れ以外は育児,小児病,幼稚園,孤児院,棄児院,学校衛生に就いて実に詳細な記述がな されているが統計,参考文献も移しく挙げられている。鴎外らしく緻密を極め,単なる軍 医でなく,寧ろ学校衛生学者とも言うべき面を出しているとも見るべきであろう。上記の
:美術教育関係の短文は文人としての鴎外らしさを見せた評論でそれなりの意味を持つが,
それ以外の論著,書翰は衛生学者,学校衛生学者の側面を見せたものでその面での大きな 意味を持ったと考えられる。
上述の「普通教育の軍人精神に及ぼす影響」は講演であるが,その要旨は次の通りであ .る。我国は徴兵制を布いて居り,普通教育を受けた者が兵役に服するので,普通教育の軍入精神に及
ぼす影響は石外題すべき価値がない訳でない。然しここで言う影響は殊更に普通教育に或る傾向を与えて 之に軍人教育の用を為さしめるという意味でない。昔・ギリシャ●スパルタにリクルゴス法と称する 幼童を戦争向けに教育する方法があったが.此の如き事は今日社会の許す所でないし,私の所謂影響も 之に反する。正当な普通国民教育は軍人たるに十分な結果をもたらすものである。一体普通教育は比較的 新しい教育法で,其の実施の為には学校の設が必要である。それは一七世紀に冠り,コメニュースが始 めてその書を著した。コメニュースも此法を以て富国強兵の基としたが,後の独逸のフィヒテもそうで ある。最近の英国のジョン・ラッセルも家庭,殊に学佼でなければ性格の形成は行われないと言ってい る。軍人精神ば性格の強固に待つ所がある事は後述の通りであるが,軍人精神の二野が普通学校に在る :事は愈々明白であると言うべきであろう。先ず教育の各部門を分説した後,軍入精神との関係を述べよ
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う。教育は大別すると体育と心育から成り,心育は更に細別して知育,情育,徳育の三となろう。体育 も大切だが,ここでは心育を中心に述べてみよう。知識は外界の刺戟を官能により感受する事によって 得られるが,その感受には知覚,感覚という二種の形式がある。知覚は心の快,苦を感ずる事なく中和 の状態であるが,感覚は之に反し心が快,苦を感じ感動する。知覚によって知育が発生し,感覚によっ て情育,徳育が発生する。一,知育。知覚は対象に触れると心気,写象を作り,その明白なものを観照と 言うが,普通教育は生徒をして対象毎に此観照あらしめんとするのである。彼のフランシス,ベーコン は観照を以て教育の基とした鼻祖であり,ペスタロツチも亦然りであった。観照の長く留ったものを証 憶と言うが,之によって曽て感受したものの再現が出来る。教育上の復習はこの再現に基く。人の思惟 は写象を以て材料としているが,人々は種々の写象を綜合し抽象して概念観念を作る。だから心は再 現するだけでなく,創造も行う。概念は言語で表わし,言語は文字で表わす。言語と文字は古来教育の 対象である。今,教育学上,形式教育(陶冶)と物質教育(実質陶冶の意であろう)の対立があり,そ れはニーマイエルの立てた別であるが,観照より概念を得しめる教育を形式教育とし,対象そのものを 得しめるそれを物質教育と言っている。普通教育の要は前者にあって,後者にはない。以上の感受,
再現,創作は皆知に属し,その対象は真である。教育の此作用の中に入って来るものが知育で,知育は一 鞭んど学校教育の全体を占める。二.情欲。上述の如く国育は感覚,苦楽という感受形式に依存する。
感覚の作る心象が永続すると情調となり,それが種々合して情操となり,それが感情の源となる・感情 の妄りに発しないのを情操不動と言う。古来教育上この面の教育を軽視したが,それを欠如すると同情 心,美的理解力を歓く事となる。三.徳育。徳育も亦感覚に依る・感覚は一面主観上に情を生ぜしめ,
一面客観上に外に向ってその結果を表わそうするのである。この間一々の対象に向って我々は一種の評 価を試みているのである。自己に楽,又は成功に伴う満足感を与えるものが有価値となり,此評価が正当 な時は標準を得る事が出来る。諸評価の全体は世界観をなすのである。心が価値ありとして求めると意 志となり,それを遂行すると行為となる。生徒が教師に対するや教師は標準を擬人化したものとなる。
このように教師其他標準を代表した長上に従い,若くは擬人でない客観上の標準に従うのを責任又は義 務と言う。此の適従する所のもので内に存在し主観上標準となる時は之を良心と言う。此の如く標準に 従って行うのを徳行とし,其の行う所の方向の終始不易なのを性格と名付ける。軍人の性格の事は後に 言うが,以上のような評価作用は徳の作用で其の対象を善とする。之を養成するものは徳育である。
次に軍士精神を知情徳三方面に分ち,それらと普通教育が如何に関係するかを考えてみよう。一.知の 作用。イ,軍人は写象の明瞭であ6事が必要である。ロ,局面観と言う者がある。ハ,地形観と言う者 がある。普通教育の学科中に地理があるが,これを適宜利用すれば他年前記の地形観を形成するのに有 利になるだろう。とも角,この地理科を始めとして普通国民教育は軍事上有用無用の点より見ても形式 教育即ち正当な観照教育に重点を置かねばならない。二.情の作用。イ,軍人は情操不動である必要が ある。ロ,常住智は情操と相侯って軍人の用を為すものである。以上の事から普通教育では生徒の情操 不動を馴致せねばならぬ。情操不動は写象の明瞭な事から来るので根本的には観照教育の徹底を図らね
ばならなくなる。生徒をして烈しい喜怒哀楽の感情を発せしめてならず,賞罰も劇しい感動を与える如 きものは避け,小説類も高尚で簡易な詩趣を備えたものを選択して与え,読書も乱読を避けしめねばな らぬ。というのはそれらは写象の不明瞭を招来するからである。三.徳の作用。イ,寡欲。ロ,服従。
ハ,勇。二,強固な性格は軍人に必要な徳性である。要は軍人精神の理想像は軍人勅諭にある。以上 の点から普通教育では児童の貯蓄,金銭所持に注意をし,彼等の名誉心を育て,校紀を厳にし,服従,
責任,良心,強固な性格を養成する必要がある。以上軍人精神を述べつつそれを発揮するに相応しい普 通国民教育の方法を述べたが,この方法は実は一に教員の行動にかかっている。教員は物質上,形式 上正確な教を布かねばならず,生徒の模範にならねばならぬ。露のトルストイ伯の創立せる小学校や・
彼の教育理論では教育上の法令,校紀の不要を実践し論じているが,教師の情操,徳行如何ではそうも なろう。但し,教員が生徒の模範であるために,は中等以上の生活が出来るよう待遇改善を図らねばな
らぬ。
以上の講演は明治三三年になされた。その頃の我国教育界はというと,先のヘルバルト主 義が凋落の兆を見せ,それに代ってウイルマン,シユライエルマツヘル,ベルデマン,ナ トルプ等が社会的教育学或は国家社会主義的なそれの装いを以て紹介され,又活動主義,
統合主義の教授法も唱道され始めた時代であった。この点からするとここでも彼の教育論 が異色的なものであった事が推察される。上述の彼の教育論からもそれが明白に看取され るが,それの背景を考えた場合もそのように感ぜざるを得ない。これ迄の彼の教育論陣,
最も纒つたものと考えられる以上の論も,その系譜は筆者には必ずしも明白でないが,恐 らく留学以来の広い見聞。知識によるものであろうし,明白にいえぬが殊にハルト マン等 の美学,シヨーペンハウエルの哲学,パウルゼン等の倫理学(この前後に同じ教育会で倫
理学の講演を再度に亘り行っている)等が背景になってもいようか。以上は推察の域を出 ないが,何れにせよ彼の教育論が特異なものであったと見て大過ないのでないかと思う。
以上は当時の教育界の思潮と彼の違う点を主として述べたが,そういう彼も次の三点で は同時代の思潮と余り変らなかったのでないかと思われる。論中,彼は「知育は殆んど学 校教育の全体を占す」と述べ,形式陶冶,実質陶冶の対立を論じて形式陶冶を可としてい るが1この点については(異論も生ずるであろうが,その当否は此処では問題にしない。
これも含め全般に亘り彼の説を批評する事は今暫く措きたい。本稿では部分的にせよ全般 的にせよ,彼をとりあげる場合は教育界での中で位置ずける場合に限る。彼を批評する場 合もその意味に於てである)彼も当時の教育界の考え方の趨勢を彼流に反映したものであ ろう。これが第一の点である。第二は地中に軍事色が色濃く出ているという点についてであ る。上記の如く,彼は講演の冒頭で普通教育が軍入精神に及ぼす影響を論ずるのであって その逆を考えるのでないといい,大体その趣旨に沿って論じてはいるが,総体的,結果的 に見た場合逆に軍入精神に適合した普通教育を強調している傾向は覆い難いようである。
彼の意図にも拘らず,その論は逆の方向に向けられたという矛盾を感じなくはない。この 点は日清,日露両戦争の谷間にあった我が国教育の現場に以てそういう軍事的色彩が濃厚 にあり,それを鴎外がそれなりに反映したからではないかと考えられる。因みに彼自身に 即していえば,彼は両戦争の谷間にあって,軍人であり,旦つ戦争を一度経験しただけに尚
:更この面を反映したと見られるが,この点は彼の一般教育論としては今迄に見られなかっ 九事である点は注目すべきであろう。従来底流として恐らくあったものが,一般の背景に押 され乍ら機会を得て表面に出て来たものであろうが,それが一般教育論の中に迄押出され て来た事は逸すべきであるまい。そして之は後述の大正時代に見られる彼の立場に引継が
:れて行った。第三の点は論中の軍人精神,特に情,徳の作用を説いた箇所に儒教的典拠を 挙げただけでなく,儒教的徳目に類似したそれを挙げ,而も儒教的説き方をしている事で
ある(説明の都合上,上記の説明の箇所ではこの点は省いた。)尤もここの所は軍艦精神 を説くのに儒教的エレメントを一時借りたので,それで以て軍人精神を説こうとしたので 1はないと解釈出来なくはない。或る部分はそうであろうが,然し筆者には或る部分には儒 教的色彩が濃く漂っているのをどうしても否定する事が出来ぬように思う。この第三の点
も亦,一般にそういう風潮があり,それを蝉吟に反映したものと見る事が出来よう。筆者 が先に彼に儒教的色彩の残存がある云々といったのは一つには此の辺の事も指していると
いう事を序でに付け加えねばなるまい。
以上の一面,教育界の潮流に樟さしたら,他面特色ある教育論が現場の教師に向ってな
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なされたのである。かかる経験は彼としては始めてであり,その意味でも興味をそそるも のがあるが,とも角,倫理学関係の講演二回と合せ,三回もの社会教育の一端を担う仕事 を彼がした事は前述の如く種々の意味に於て意義があったと思われる。但しその講演が地 方の一部の教師に向ってなされたものであるという点は忘れてならない。
次いで彼は「洋学の盛衰を論ず」という注目すべき講演を行った。彼は大要次のように論 1)た。我国に於ける洋学伝来の様相を見ると三つの段階を経ているのではないか。 その第一は彼に道 ノ徳,宗教の観るべきものなしとし,彼の諸種の技術面の優秀さに驚嘆して専らそれのみを取入れた時代で あり,第二は漸く彼の宗教,哲学を知り,その面から在来の儒,仏を批判した時代,彼の長は技術のみな
らず精神上にもあるという事を自覚して,唯彼等を模倣し崇拝して可なりと考えた洋学全盛の時代であ り,第三は模倣崇拝が漸く陳腐となり衰退の兆しを見せて来た現代である。ここで問題にするのは第三
・の現代に於ける衰退の現象である。それの現象は語学力の低下,外人教師の減少,洋学無用論,洋行無 用論議に明白であるが,その原因は明治文教隆盛の末,学者が漸次自信力をつけて来たものによるもの 二だろう。然し果して世人の考える程それは本当に自信力がついて来たと見るべきであろうか。ベルツは 最近,東大で学問は有機体,生物の如きものでそれを育て生長させるには一種特異な雰囲気がなければ ならぬと演説したが(ベルツの日記,第一部下,岩波文庫),我が国にはそういう雰囲気はあるだろうか,
未だ我が国の学界,教育界には西洋学問の成果をとり込むのに汲々として自己の力で学問そのものをや るという点に欠ける所がありはせぬか,ここで自信というのは本当の目信でなくて単なる自惚ではない のか,真に学問を伸ばし研究が出来ると言う体制になって始めて洋学,洋行不要論が唱えられて然るべ きである。逆説的に言えば日本の進歩は西洋の模倣を専らにすべしとすら言うべきであろう。
以上の講演は東京に返り咲くのが判明した上で小倉僧行社で軍人を相手になされたもの である。その点で又もやこの講演もその影響の及んだ範囲は一部の軍入という憎く限られ た人々になるが,その内容は注目すべきものを含んでいたと見るべきであろう。筆者の見る 所では簡にして要を得,実に二二に当った傾聴すべき言葉であり,その聴衆は仮令一部の 人々であったにせよ,大きな意義を持ったと見てよいのではあるまいか。彼が東京返り咲 きを知った上での講演ではあり,講演の中に抱負を持ち意気軒昂たる彼を感ずるのは読む 筆者の心のせいであろうか。少くも此処には留学中,又は其後の戦斗的啓蒙の立場の再現
というか,それへの痴りが感じられてならない。
6,最:後は明治四十年代以降,大正十一年残する迄の完成,晩年の時代である。この時期は前 代を受けて,それが完成し,次いで沈静して行った時代であった。この時期には陸軍軍医総 監,陸軍省医務局長ともなって軍医としては最:高峰迄行き,文字通り軍医での立身出世が 実現出来たが,その他文部省の教科書用図書委員,文芸委員会委員,美術審査会委員,臨時国 語調査会長にも任命され,予備役編入後は帝室博:物館長,図書頭,帝国美術院長をも歴任し た。又慶応義塾大学文学部顧問となって同科の刷新にも与り,国民美術協会理事,日本美 術協会評議員ともなった。私生活では子供達の学校入学が大学から小学校に迄亘って次4
に起った事が目立った。次女,三男の誕生も見た。
木下杢太郎氏は明治四二年から大正六年迄を彼の「豊熟の時代」と名付け,鴎外にその 時代を現出せしめた諸動因として一,夏目漱石の文壇登場,二,自然主義の興隆,三,雑誌
「昂」の創刊,四,雑誌「歌舞伎」の出現,五,鴎外が軍医最高の地位に上ったという事 の五つを挙げているが鉤,正しくその通りであったと考えられる。そしてその豊熟的状態 が又彼をして旺盛な創作活動を再開せしめる事ともなった。それは驚異的な程多産なもの
ですらあったと言える。一安挙げる事が出来ない程の創作が生み出された。