広域経済システムとウデへの狩猟
著者 佐々木 史郎
雑誌名 社会人類学年報
巻 23
ページ 1‑28
発行年 1997‑10‑30
URL http://hdl.handle.net/10502/5532
広 域 経 済 シ ステ ム と ウ デ へ の狩 猟
佐 々 木 史 郎
一 序
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かつて﹁狩猟採集経済﹂といえば︑閉鎖的︑自給自足的な最低︑原初の経済形態とされてきた︒経済学や人類学の学術用語としても長らくそのような意味で使われてきたし︑現在でも一般的にはそのような意味で使われることが多いだろう︒
確かに農耕が始まるまで︑人類は動物を狩り(あるいは魚を捕り)︑植物を採集することで食料を得ていたのであり︑それが
経済活動の中心ではあっただろう︒そのような形態の経済活動は農耕を主体とする経済形態の広がりによって急速にせば
められ︑約一万年前までは一〇〇%が狩猟採集民であったものが︑西暦一五〇〇年頃には人類の人口の一%になり︑一九
七二年には○・○〇一%にまで下がってしまった︒しかも一五〇〇年までは面で分布していたものが︑現在は点でしかそ
の分布を表せない[U田9巳U国くo雷お謬"崖︒
近代︑現代の狩猟に関する研究は古い時代の状況を再現するための手段として︑考古学と結びつくことが多かった︒農
耕以前の遺跡を研究する考古学者は︑その社会︑文化を復原するためにしばしば自ら現在の狩猟採集民を調査したり︑関
係する資料を多く援用してきた︒彼らは現在の狩猟採集民たちの狩猟方法︑資源管理︑社会組織︑居住形態などを遺跡や
遺物と比較しながら︑土の中に残らない部分も含めた古い時代の社会︑文化を復原しようとしてきたのである︒しかし︑
そこにはかつての﹁進化論﹂あるいは経済形態の﹁発展段階論﹂のにおいが濃厚に感じられるケースが多かった︒例えば
狩猟漁携採集が主要な生業だとされてきた日本の縄文文化の場合でも︑土器の形式や文様の比較による文化圏のような議
論は生じても︑その経済形態や社会構造は原初的なもので︑しかも閉鎖的︑自給的であるという考え方が主流だった︒
近代︑現代の狩猟採集民に関する研究についても︑彼らを閉じた経済体系の中において分析することが多かった︒﹃マン・
ザ・ハンター﹄でリーとデ・ヴォアが指摘したように︑﹁更新世の経済を厳密に守っている人々︑つまり︑金属も火器も犬
も狩猟民以外の人々との接触も持たない人々﹂[い田磐αU国くo菊国H留O帥日出が﹁理想的な狩猟採集民﹂であるとする考
え方に立てば︑必然的に狩猟採集民は閉鎖的︑自給的な社会経済システムの中で生きていることを前提にすることになる︒
しかし︑すでにリーとデ・ヴォアも認めるように︑現在では(マン・ザ・ハンターのシンポジウムが行われた一九六六年の段階
で既に)完全に更新世(つまり旧石器時代)の頃の人々と全く同じ自然︑社会環境に暮らす人々は︑ゼロとはいわないまでも︑
皆無に等しい︒したがって︑現実問題として︑そのような﹁理想的な狩猟採集民﹂(あるいは﹁純粋な狩猟採集民﹂)を研究す
ることは不可能である︒
しかし︑非狩猟採集民との接触︑あるいは濃厚な交流をもちながら︑もっぱら狩猟採集活動で生きてきた人々を︑この
ような消極的な理由からのみ研究対象にすることが︑はたして妥当なのだろうかという疑問を私は抱いている︒﹁純粋な狩
猟採集民﹂の研究をめざす人々は︑その代替として非狩猟採集民との交流をもち︑狩猟採集産品以外のものも口にする人々
を研究するのであるが︑もっと積極的な理由から︑そのような人々に関する研究も﹁狩猟採集民研究﹂の一分野として入
れるべきではないだろうか︒
資本主義のような広域にひろがる経済システムに巻き込まれたり︑国民国家の一員とされたりなど︑周囲の非狩猟採集
民との接触︑交流︑働きかけを通じてその狩猟採集的だった社会や文化を変容させつつある人々を﹁狩猟採集民﹂として
積極的に研究対象とすることができるという考え方は︑例えば︑ピーターソンと松山利夫が編集した§詞09§§oミ
広域経済 システム とウデへの狩猟
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‑隷§§§叙○ぎ亮軌鑓凄奏誘(H㊤ΦH)やスチュアート・ヘンリーが編集した﹃採集狩猟民の現在‑生業文化の変容と再生﹄(一九九六年)の中で打ち出されている[℃胃男ω〇三6箪二山①"スチュアート 一九九六a"三ー一〇"一九九六b二
二六1一二七]︒そこではオーストラリア︑アフリカ︑インド︑北アメリカなどににかろうじて残された現代の狩猟採集民︑
あるいは資本主義的な経済システムの浸透によって一九世紀以来急激な変容を余儀なくされた元狩猟採集民たちの社会︑
経済︑文化の現状を分析しているが︑その立場はもちろん︑現在の彼らの社会が孤立したものではなく︑広域の社会経済
システムの一部であることを前提としている︒これらの著作でとりあげられた諸問題は現代の狩猟採集民(あるは近い祖先
が狩猟採集で生きていた人々)の現状を分析する際には避けて通れない基本的な問題である︒
しかし︑世界中の狩猟採集民が資本主義と出会うまで広域の経済システムと出会ったことがなかったというわけではな
い︒また︑近代国民国家に支配されるまで︑国家の支配を受けたことがないというわけでもない︒少なからぬ人々が︑ヨー
ロッパ人と出会う前に︑すでに前近代的︑非資本主義的ではあるが広域にひろがる国家や社会経済システムに出会い︑巻
き込まれ︑それに適応するために自らの社会︑文化を変容させてきた︒もちろん狩猟採集活動のあり方も変化させた︒
例えば︑王朝時代の中国のような巨大帝国は自らの周囲に広大な経済圏を形成する︒それにはさまざまな人々が巻き込
まれているが︑その中には当然狩猟採集民も含まれる︒彼らは狩猟採集産品をもって帝国の広域経済システムに参画し︑
帝国がもたらす豊かな物資の恩恵を受けていた︒それによって狩猟採集民であることをやめる人々もいたが︑他方では農
耕や牧畜に手を出さず︑あるいは以前していたのをやめてまで︑狩猟採集に専念する人々までいた︒前記の﹁純粋な狩猟
採集民﹂の定義によれば︑狩猟採集産品以外のものを多く口にしたり手にする彼らはもはや﹁狩猟採集民﹂とは呼べない
ことになる︒しかし︑ヨーロッパ人が近代という時代をもたらすまで︑彼らが狩猟採集活動を最も重要な生業として︑あ
るいは専業として生きてきたこともまた事実なのである︒
﹁近代的﹂︑﹁前近代的﹂を問わず︑広域の政治経済システムに巻き込まれた狩猟採集民は︑狩猟採集という活動の中で
も特に商業的な狩猟採集︑つまり︑外部世界の物資と交換可能なもの︑あるいは換金作物を得るための活動を発達させ︑
実生活でもそれに大きく依存してきた︒それは外部世界との交渉があれば必然的に生じる現象である︒しかし︑﹁広域経済
システム﹂とはいっても︑地域や時代によってその内容は様々であり︑それに参入する狩猟採集民の参入戦略もそれによっ
て当然異なる︒
本稿では紙幅の関係で﹁広域経済システム﹂の定義を細かく議論することはできないが︑暫定的に︑圧倒的な生産力を
誇る国家あるいは地域が︑周辺にその経済的な影響力を拡げた際に形成される一つの圏を支える経済機構としておこう︒
本稿では広域経済システムの例として王朝中国の朝貢を柱とした前近代的なシステム︑ソ連時代の社会主義的な経済シス
テム︑そして一九世紀以来西ヨーロッパとアメリカ合衆国によって世界中に拡大された資本主義を柱とした経済システム
を扱うことになるが︑いずれも圧倒的な生産力を誇る国または地域がその中核にあり︑かつそこを中心として形成される
経済圏が地球の陸地の数分の一という広大な地域に広がっている︒私の本稿での論点は︑この三つの広域経済システムが
時代毎に交替するということを経験した︑狩猟採集活動を専業とし︑自分たちのアイデンティティの基盤と捉えてきた一
つの民族集団が︑それぞれのシステムに対していかなる戦略を持って参入しようとしたのか︑そして彼らがシステムの側
からどのような反応を受け︑それによって彼らの経済生活がいかに変化していったのかというところにある︒そして︑両
者の相互関係の変化を時代を追って見ることで︑広域経済システムにおける狩猟採集活動の可能性と限界を明らかにして
いく︒ 本稿ではシベリア︑ロシア極東の﹁狩猟採集民族﹂といわれてきたウデへと呼ばれる人々を中心に上記の論点について
論じていく︒彼らに関しては私自身が一九九二年︑九五年︑九六年と三回にわたって狩猟慣習に関する調査を行った︒調
査期間は三度とも二週間強と非常に短かったが︑インフォーマントに恵まれたことと︑彼らに対する集中的な聞き取り調 査ができたことにより︑期間の割には非常に多くの情報を得ることができた︒本稿ではその時に収集されたデータと中国
とロシアに残されている歴史文献と民族誌データなどを分析材料とする︒なお︑本稿は紙幅の関係で十分な議論ができな
いため︑予稿的なもので終わる予定である︒
広域経済 システム とウデへの狩猟
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ニ ウデへ概略ウデへ(ロシア語では首器録量)は日本海を挾んでちょうど日本の対岸に当たるロシア沿海地方(婁§§睡)
のシホテ・アリン山脈の中で暮らす人々である︒その居住地はウスリー江の右岸に注ぐ支流の奥と日本海に注ぐ河川の流
域と河口周辺で︑今世紀初頭までは家族や親族︑あるいは氏族(バラ)単位でキャンプを作り︑猟場や漁場を使いながら︑
現在の沿海地方からハバロフスク州南部にかけての地帯に広く分布していた︒しかし︑今日ではホル川流域のグワシュギ
(﹁ぎ§)︑ビキン川流域のクラースヌィ・ヤール(誉量魯)︑サマルガ川流域のアグズ(卜超)などいくつかの村 の落に固まっているに過ぎない︒それは︑一九世紀後半以来ロシア︑中国︑朝鮮方面からの移民が大量に流入して︑森林と
河川を開発してしまったことと︑旧ソ連の集団化・集住化政策のためである︒
人口は一九八九年の統計によれば一九〇二人であるが︑そのうち固有言語(ツングース系の言語のひとつであるウデへ語)
を母語とするものは二四%程度に過ぎない︒自由に操れるのは七〇代︑八〇代の老人たちで︑六〇代で既にロシア語の方
が楽になっている︒四〇︑五〇代ではいくつかの語彙を知っている程度であり︑三〇代以下ではもはや語彙すら残されて
いない︒若年世代はロシア語のみで生活している︒かなり強力な言語保存政策を実施しない限り﹁ウデへ語﹂は死語にな
る可能性が高い︒狩猟方法に関しても︑一九二〇年代まではしばしば見られ︑民族誌に記されてきたような方法は︑数少
ない故老をのぞいてはほとんど忘れられ︑全ロシア共通の道具や方法が普及している︒ただし︑個別には意識︑無意識に
かかわらず︑古い方法が生きているケースもある︒
ウデへに関する人類学的あるいは民族学的な調査研究は少なくない︒既に一九世紀には∬.シュレンク︑P・K・マー
ク︑C・H・ブライロフスキーが調査報告を残し︑今世紀にはいるとB・K・アルセーニエフ︑H・A・ロパーチン︑F・
アルベルト︑・D・A・セム︑B・r・ラリキン︑最近ではA・スタルツェフ︑B・B・ポドマスキンなどが調査報告や研
究論文を残している︒それだけに彼らに関する民族誌的な情報はかなりの蓄積がなされているはずである(ただしその大部
分がロシア語︑稀にドイツ語で書かれているために︑日本の狩猟採集研究者の間ではほとんど知られていない)︒しかし︑ウデへだ