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大学院制度創出の理念と異文化接触に関する考察

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大学院制度創出の理念と異文化接触に関する考察

    The Creation of the Graduate School in the United States:

        D.C.ギルマンの事例を中心に

An Analysis of the Daniel Gilman s Cross−cultural Interface

渡辺かよ子(Watanabe, Kayoko)

 Daniel Gilman, the president of Johns Hopkins University, created the American Type of University @through selecting the models of European universities. Gilman s idea of the new type of university had been nurtured in his cross−cultural interface of his former

careers. Gilman integrated liberal education with the idea of research by claiming mental discipline.

1.はじめに

 本稿は、大学のモデル移植1)の視点から、アメリカ合衆国における本格的な大学院制度の創 始として著名なジョンズホプキンス大学の初代学長、ダニエル・C・ギルマン(Daniel Coit Gilman,1831.7.6−1908.10.13)の生涯における異文化体験とその大学院構想における外国 からの影響を分析し、アメリカ合衆国独自の制度として確立された大学院とその理念が、異文 化のいかなる選択的受容を経て創出されてきたのかの一端を明らかにしようとするものであ

る。

 アメリカ合衆国の高等教育史における大学院制度の創出は、研究を主体とするドイツ大学モ デルの受容の結実として位置づけられ、より具体的には研究遂行と研究者の養成に方法論的改 良を加えたものと見なされている2)。二十世紀にアメリカ合衆国を、それまでのドイツに代わ る世界の学問の中心たらしめるのに決定的な役割をはたした大学院制度は、世界各国の高等教 育制度に多大な影響を及ぼし、今日の日本もその例外ではない3)。大学院とはどのような経緯 で構想され、制度化されたのか。学部教育とは異なる大学院の教育理念とは何であったのか。

本稿は「アメリカ合衆国型大学の創始者」4)「アメリカ合衆国大学院の守護聖」5)として今日 の大学論にも多大な影響力を保持している6)ギルマンの大学院構想に見られる異文化接触とそ の教育理念に考察の焦点を絞り、これらの問いにこたえたい。

 ジョンズホプキンス大学は、メリーランド州ボルチモアの富裕な商人ジョンズ・ホプキンス

(Johns Hopkins,1795−1873)の遺志により1876年に創設された7)が、設立のために組織された

理事会やその助言にあたった当時の主要大学の学長の間には、研究を主目的とする大学院の構

想はほとんど見られなかった。初代学長に就任したギルマンは、この新たな大学に研究を主眼

(2)

とする大学院を設置することを構想し、それを断行した。ギルマンは、アメリカ大学史におい て画期的な奨学生制度(フェロー)の採用8}、学問の自由(アカデミック・フリーダム)の強 調と学位制度の整備9)、非常勤講師制度の確立1°}、学術雑誌の発行11)等により研究者の組織的 養成を遂行し、公開講座等による大学拡張運動を通じて地域社会にも積極的に貢献しだ2)。

 ギルマンに関しては、これまで多くの同時代人によってその偉業が称えられ13)、複数の伝記 も出版されている14}。アメリカ合衆国高等教育史の中の大学院に関する研究15)やギルマン自身 を考察の対象とする研究16)においては、ギルマンの大学院構想は、単なるドイツ大学の模倣で ない、従来の伝統的カレッジと研究主導のユニバーシティーとの折衷による独自の制度の創出 として特徴づけられ、これらの成果は日本でも紹介され17}、日本へのジョンズホプキンス大学 の影響も明らかにされつつある18)。しかしながら、これらのギルマンに関する折衷主義という 評価はほとんどの場合、ドイッ大学を範とする大学院と旧来のイギリスを範とするカレッジの 伝統に従う学部段階の学生の両方の教育を行う大学(=ユニバーシティー)という制度や機能 面からなされるにとどまり、大学院制度が具体的にギルマンのいかなる異文化接触と外国モデ ルの取捨選択を経て折衷され、「アメリカ合衆国型大学」の理念が構想されたのかはほとんど 明らかにされていない。

 これらの不備を補う一助として本稿は、ギルマンの大学院構想がその経歴とどのように関わ り、実際的モデル選択においていかなる異文化体験に触発されて形成されたのか、地理学者で あったギルマンに対するドイッ大学の具体的影響とドイッ以外の国からの影響はどの程度あっ たのか等の諸点について、ジョンズホプキンス大学図書館スペシャルコレクション部所蔵

Daniel Coit Gilman PapersのSeries 5:Publication by Gilmanならびに、 Series 2:Notebooks

(1852−1900)などの分析を通じて明らかにしたい。

2.ギルマンの経歴に見られる異文化接触

 ジョンズホプキンス大学初代学長としての25年間(1876−1901)を中心とする77年にわたる ギルマンの生涯は、アメリカ合衆国の急速な「発展」「拡大」の時代であった。南北戦争、大 陸横断鉄道の完成やフロンティアの消滅、関税率の引上げによる産業資本の発展、「新しい」

移民の増大、カーネギーやロックフェラーなどの巨大産業が形成されるまさに経済的拡大成長 の時代であった。そのような時代にあって、前任校であるカリフォルニア大学学長に就任する 1872年には目指す大学像がほぼ完成しているといわれるギルマンが19)、大学院を構想する直接 体験的な基礎となったのは、イェール大学等で自らが受けた伝統的カレッジ教育(1848−1853)

での失望2°)、ペテルスブルクのアメリカ大使館の書記官としての体験(1853−1855)、帰国後の イェール大学の図書館員(1856−1865)、シェフイールド科学学校の地理学教授(1863−1872)、

ニューヘブンのacting school visitor(1856−1860)、コネチカット州教育委員会のsecretary

(1865−1867)としての活動があった。

 ギルマンの大学院構想を可能にした異文化体験とは、カレッジ卒業直後の1853年に親友ホワ

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イト(Andrew Dickson White)と共にペテルスブルクのアメリカ大使館の書記官としてヨーロ ッパに渡り、そこで諸国の教育制度を見聞しながらベルリン大学で学んだことであった。ギル マンはマンチェスターのNational Public School協会の1853年大会で「アメリカのコモンス クールの教育」と題された演説を行ったり、ロシアの技術学校、帝国図書館、病院、教育施設 等の視察をしたり、またベルリンやパリでは人々の生活ぶりを詳細に観察している。当時まだ 将来の指針が定まっていなかった青年ギルマンが家族に書き送った手紙には、例えばお茶の習 慣の違いなど日常的な細々とした異文化体験と将来をいかに有意義に生きるかの苦悶が綴ら れ、ドイツ等の大学制度そのものに関する評価はほとんど記されていない2D。しかしながらこ の時期の異文化体験と資料収集は、帰国後の実に詳細なヨーロッパの教育制度の分析報告とそ こから学んだ自国の教育制度改革の提唱に転換されている22}。

 1854年から翌年にかけての冬には、ギルマンはベルリン大学でアフリカ探検家バルト

(Heinrich Barth)の指導を受け、ドイッの大学生活を体験している。このようなギルマンのド イツ大学での経験は、ドイッの学問のアメリカ合衆国への影響の歴史における第二世代にあた る。ギルマンを含む多数のドイッへのアメリカ人留学生の第二世代は、1815年から1840年代に かけて言語学を中心にドイッの大学で学んだ。ドイツの大学での研究の成果が自らの信仰と矛 盾することを危惧した第一世代とは異なり、この世代は学問の専門分化がより進んだ1840年末 から学問研究を行った。第二世代はドイッ大学での経験と学問の諸要素を自らの経歴形成にい わば職業として選択的に摂取しas)、彼等のうちから後のユニバーシティーの時代の著名な学長 が多数生み出され、アメリカ高等教育における専門主義(professionalism)の文化の興隆が促 されたという2 )。      ・

 これらのドイッへのアメリカ人留学生の第二世代の一人であったギルマンだけがなぜ大学院 という制度を構想することが可能であったのかについては、彼自身の信念や性格特徴に帰され ているが25)、大学のモデル移行の視点から見ると、その構想を形成してきたギルマン自身の経 歴における異文化接触を分析してみる必要があると思われる。ギルマンの大学院構想は学長就 任以前の経歴における実際的活動を通じて形成され、そこでの異文化との出会いなしには大学 院構想は生み出されなかったであろうからである。

 大学院構想を可能にしたギルマンの経歴に見られる異文化接触には、以下で詳述するような 地理学者として受けたドイッからの影響、ヨーロッパ見聞を通じての図書館の重要性の認知と 帰国後の司書としての経験、ヨーロッパ見聞に触発された科学技術教育の全制度的構想と自ら の教育実践活動があった。

1)地理学者としてのギルマン

 ギルマンが専攻した学問は地理学であり、地理学においても科学性の確立を目指す革新運動

の中心はドイツであった。地理学者としてのギルマンは顕著な学問的業績を残しているわけで

はないが、シェフィールド科学学校でのアメリカ合衆国初の地理学教授等として後世の地理学

の進歩に多大な貢献をなした人物とされている26)。地理学者としてのギルマンにとってドイッ

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の大学からの影響とは、ドイツ地理学の学問観であった。

 ギルマンの学問観に最も大きな影響を与えているのは、「近代地理学の父」として並び称せ られるフンボルト(Alexander von Humboldt)とリッター(Carl Ritter)である。一般に近代

ドイッ大学理念の代弁者として語られるのはヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt)であるが、地理学者であったギルマンがフンボルトという場合は、その弟の 地理学者・探検博物学者であり気候学や海洋学の創始者としても知られるアレクサンダーをさ

した。フンボルトによって明示されリッターによって定式化されつつあった近代地理学は、地 表に展開する多様な現象をその相互関係に着目して考察すること、ならびに広域的視野から地 表における分布の原因と一般性・法則性を明らかにすることを目指した27}。

 ギルマンは探検や計測によって実際の地球を考察したフンボルトと、事象の相互関係と歴史 性を重視し文献研究の手法をとったリッターの実証的学問観を、両者の精神をアメリカ合衆国 にもたらした自らの師であるギョー(Arnold Henry Guyot)の地理学の教授法と共に学んだ28)。

ギルマンは、地理学におけるフィールドワークを重んじ、一次資料を駆使した科学的で精密な 地図制作と地表の現象に歴史的検討を行うことの重要性を説いた29)。ここには従来の思索や解 釈を中心とする古典的学問研究とは根本的に異なる、未知なるものへの実証的探求精神が表出

されている。

 地理学者としてのギルマンは、学問知識も未知なるものものも含めて全体地図として体系的 に把握していたように思われる。このような地理学的視点があったからこそ、ジョンズホプキ ンス大学の開学時には物議をかもした進化論者バクスリ(Thomas H. Huxley)を講演に招 き3°)、自らの信仰は堅持しつつ進化論に親しみ、また学問の自由を尊重することと進化論や諸 宗教間の葛藤を回避することによって、寛容の精神をあらゆる種類の知識に貫く大学院制度を 構想しそれを実現することができたのではなかろうか。

2)図書館員としてのギルマン

 知識の生産のための管理運営制度として大学院を構想するにあたり、ギルマンが外国の図書 館を見聞し、また自国で大学の図書館員として実際の図書館の運営に携っていたことは極めて 重要であったと思われる。図書館は実験室とならんで近代的学問研究の推進に不可欠の施設で あった。このことは当時ドイッの諸大学の中でも、アメリカに最も大きな影響力をもったゲッ ティンゲン大学の歴史においても明らかであり、ギルマン自身もその学術研究組織や教授方法、

図書館を高く評価していた31)。

 カレッジ在学中からニューヨーク商事図書館の目録作りに携り、1853年の図書館員大会にも 参加していたギルマンは、渡欧前から司書にはカレッジ以上の専門教育が必要であることを説 き、ヨーロッパで様々な図書館を視察している32)。帰国後に記されたフランスの高等専門諸学 校に関する詳細な論評では、ギルマンは、大学、コレージュ・ド・フランス等に続いて、高等 専門学校の第一にパリの帝国古文書学校(Ecole de Chartes)での司書教育をその入学用件、

授業料、奨学金なども含めて詳しく紹介している33)。また1856年から1865年までイェール大学

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図書館の司書として実務に携わっていた。

 当時のカレッジでの教授法はテキストの講読と暗唱、講義が主流であり、古典を中心とする 教育活動には幅広い参考文献を用いた学習は要求されていなかった。そのため図書館はカレッ ジの教育活動として利用されることは少なく、教授個人の蔵書の補助あるいは博物館的な機能 にとどまっていた。また1870年代後半までは、司書と教授の明確な区分はなく、ギルマン自身 もその例外ではなかった。両職を含めて、依然、専門職制度は成立しておらず、当時の大学教 授は教授活動以外に、図書館員や秘書や守衛等の業務も行っていた34}。イェール大学の場合、

貸し出しは教授団には無料であるが、3・4年生には一冊ごとに6から12セントの有料であり、

それ以外の者への図書の貸し出しには特別許可が必要であった。また、開館時間も平日は5時 間に限られていた。ギルマンは開館時間の延長、図書や利用者の健康を害する湿気対策、暖房 設備、静かな学習室、公に利用可能なカタログ作り、そのための事務補佐員の私費による雇用、

蔵書の充実などに努めたが、大学側に理解が得られず、辞職した35)。

 ジョンズホプキンス大学設立に際して、ギルマンは図書館の充実と開館時間の延長を行い36)、

学術雑誌の発行を推進した。また合衆国で初めてのボルチモア地域の雑誌リストを作成し、1882 年から翌年にかけてはアメリカ図書館協会の副会長も勤めた。ギルマンは図書館を「大学の心 臓」として位置づけ、繰り返し教育や研究における大学図書館の重要性を論じている37}。この ようなギルマンによる知識の需給システムとしての図書館の重視は、大学での研究活動のみな らず、大学拡張運動と繋がる配慮に満ちた公立図書館の促進38)や大学と学会との連携39)にも共 通するものであった。このことは、前述の地理学的見地から研究活動の条件整備とその成果の 蓄積およびその社会一般を含めた活用といういわば知識の循環を体系的にとらえ、それをさら に効率的な体系に促進していこうとする関心からなされたといえる。ギルマンが研究と研究者 養成を効率的に行う新しい大学院大学を構想しえたのも、このような司書としての実務経験が あったからであり、その経験をさらに知識そのものの生産を行う大学院制度に適用したといえ

る。

3)科学技術教育の推進者としてのギルマン

 人間の知識を含むあらゆる社会事象を相互に連関したシステムとしてとらえた地理学者とし て、また人類の有する知識の保全活用の実務に携わった司書としてのギルマン経歴は、より直 接的な社会改革への意図的関与としての教育活動に繋がっていた。ギルマンは、科学技術教育 のための、初等教育段階から高等教育段階に至る、効率的で包括的な学校制度の確立を推進し

た。

 ギルマンがヨーロッパ滞在中から一貫して主張していたのが、合衆国における科学技術教育

の遅れであった。この主張は大使館の書記官という立場から観察されたこともあって、祖国の

繁栄を願うナショナリズムに基づいていた。ギルマンはヨーロッパ各国の科学技術学校、とり

わけフランスの科学技術学校の制度と実態を詳細に調査し、それらとの比較から合衆国での科

学技術教育の促進の必要性を説いた4°)。イェール大学のシェフィールド科学学校に設立草案作

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成の段階から関わったギルマンは、1863年からはそこの地理学の教授となり4】)、アメリカ合衆 国内の科学教育の状況を調査しつつ、様々な機会をとらえて専門的科学技術教育の重要性を説

いた42}。

 ギルマンの教育活動は、高等教育のみならず教育制度全般にも及んでいた。1856年からコネ チカット州ニューヘブンのacting school visitorとなったギルマンは、ドイツの例などを参考

にしながらコモンスクールにおける学年制の採用43)、効率的な教育制度の確立44)、筆記試験の 導入45)、学習指導要領の作成の必要性の唱導とその実例の提示46)などを行った。また初等段階 における科学教育や技術手工教育の重要性も説いている47)。これらのギルマンの教育論の基調 になっていたのは、将来の職業に向けての訓練という考えであり、このことは大学院での専門 的学問研究の意義にも貫かれていた。大学院制度は単に高度な科学的研究の遂行のための機関 として創出されたものではなく、合衆国における合理的で効率的な全教育制度の改革に基礎づ けられたものとして、志向されていたのであった。

3.異文化の選択的受容による大学院制度の創出

 以上のようなギルマンの経歴に見られる諸特徴、すなわち地理学的見地、図書館の重視、教 育制度全般の効率化と科学技術教育の推進に基礎づけられた大学院制度そのものは、どのよう に外国のモデルを受容しながら生み出されてきたのであろうか。ギルマンは、ひとつの大学の 創設には「理念、理念を実現するための資本、明確な計画、補助者となる有能なスタッフ、図 書と機器、学生」48}が必要であるとしてジョンズホプキンス大学の場合の説明をしているが、

ジョンズホプキンス大学の体制そのものは暫定的な試行を繰り返しながら次第に確立されてき たという49)。以下においては、「合衆国におけるドイッをモデルにしたユニバーシティーとい

う夢の初めての実現」5°)、「ボルチモアのゲッティンゲン」5Dといわれるジョンズホプキンス 大学創設に見られる外国モデルの選択的受容を分析する。

1)国内的伝統的カレッジの継承とイギリス大学理念の解釈

 ギルマンの大学院構想では、まず合衆国内の伝統的カレッジとヴァージニア大学52)の例が検 討された。ギルマンは当時を、植民地時代のイギリスのカレッジを踏襲した時代、専門職教育 が開始された時代、科学学校の創設の時代に次ぐ、アメリカ合衆国の高等教育史の第四期とし て位置づけ、それまでの高等教育機関の状況を分析すると共に、ジェファソンによって設立さ れ、科学教育と選択制の導入を試みたヴァージニア大学の設立を「最も大胆な革新であり最も 影響力を及ぼしたもの」53)としている。

 さらに注目すべきは、ギルマンの大学院構想がアメリカの伝統的カレッジの原形であるイギ

リスの教養教育を積極的に評価していることである。ギルマンは19世紀中頃の自由教育擁護の

代表者ニューマンOohn Henry Newman,180H890)の論じた知識の獲得の自己目的化と知

的卓越性をめざす自由教育の主張を、学問の自由と解放を象徴するものであるとし、ニューマ

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ンによるliberal cultureの擁護を高く評価したω。

 ギルマンは当時のイギリスの大学に関する委員会による諸報告や、大学を学問の中心たらし め専門職業階層を養成すべきことを唱えたパッティソン(Mark Pattison)やアーノルド

(Matthew Arnold)らの大学に関する論評も、大学院を創設する際に示唆に富んでいたと述 べている。またジョンズホプキンス大学の名声を高めたフェロー制度も、ドイツの私講師制度 と共にイギリスから学んだと述べ、イギリスでの工学を中心とする高度な専門職教育にも注目

している55)。

 ここに見られるのは、ギルマンが自国とその原形になったイギリスの大学改革論の動向を多 面的に検討し、それらを積極的に自らの大学院構想に生かしていたことである。とりわけ今日

「ますます重要になりつつあるドイッの研究大学の意義を軽視するもの」56)と見なされている ニューマンの自由教育の意義を高く評価していることは、驚くべき折衷主義であったといえ

る。

2)ドイツの大学と中等教育制度の詳細な検討

 以上でも断片的にみられたように、ギルマンは確かにドイッの大学や教育制度から大きな影 響を受けていた。しかしながら、ドイッの例をそのままアメリカ合衆国に適用してはならず、

その欠点を十分承知しながら自らの環境に適した大学や教育制度を創出しなければならないこ とを繰り返し説き、また自らがそうしてきた。ギルマンの大学院構想において、ドイツ大学や 教育制度からの影響とは何であったのだろうか。

 ジョンズホプキンス大学の構想計画において、ギルマンは当時のドイッの大学改革を論じた 多数の評論を丁寧に検討していた。現存するギルマンの当時のノートには、教育に関するドイ ツ語のパンフレットが克明な該当頁と共に英語に抄訳されている。それらはフォン・サイベル

『ドイツ大学:その結果と必要』(1868/1874年の二つの講義)、ラットマン『実科ギムナジウ ムの再編成』と『ギムナジウムの改革』、ラース『ギムナジウムと実科学校:プロシャ教育法 を参照しながら歴史的批判的に再検討された古くからの問題』、ホフマン『新しいドイツ帝国 における大学:1871年11月4日にエルランゲン大学でなされた演説』、「R.マイヤーの『ドイ ッ大学の発展』に関するThe Rhenish Journal of Education」、ガレンカンプ『中等教育機関 とりわけ実科学校の改革』、フィッシャー『学術研究とその目的』、ボーニッツ『我々の中等学 校における改革の問題』(1875年のプロシャ年鑑から)、L.マイヤー『アカデミーか大学か?』、

ラング『実科学校の改革のための努力』である57}。これらは1868年から1875年にかけて歴史学者、

言語学者、哲学者、教育者、神学者、化学者等によって記されSS)、これらの出版時期とギルマ ンの就任演説でのドイツの教育制度への見解の内容と一致することから判断して、これらの ノートはギルマンの大学院構想にとって極めて重要な意義を持つものと思われる。これらの ノートに見られる訳出の精度と、それに括弧付きで記されたギルマン自身の見解は、ジョンズ ホプキンス大学の具体的構想において、ギルマンがドイッの大学や教育制度から何を学ぼうと

していたかを示している。

(8)

 これらのノートの分析から次の諸点が明らかになった。まず第一にギルマンはドイツの中等 教育とりわけ従来のギムナジウム教育への批判、ならびに実科学校と大学の接続問題を詳細に 検討していたことがある。当時、ドイッにおいては実科学校とギムナジウムをめぐる中等教育 制度の問題は切実をきわめていた59)。ギルマンによるこれらの抄訳のうち半数以上が直接この 問題を論じ、また大学と題された抄訳もこの問題に触れていた。ギルマンは各論者のギムナジ ウム教育への批判、とりわけそのギリシャ語やラテン語の教育的価値やその方法に対する見解 を相互の文献を比較検討しながら抄訳を進めている。このことは、従来の合衆国のカレッジが ギムナジウムのレベルにあるという現実に基づいて、それに接続するより上級段階の大学院を ドイッの大学に相当するものとして構想していたことを示している。また古典を中心とするギ ムナジウムではなく、自然科学と現代語を主体とする実科学校を支持する議論から多くが学ば れていたことは、外国の教育制度の選択的摂取を例示している。

 第二に、ドイッ大学を外国の大学との比較を視野にいれながら、全体文化における大学の役 割と学生の教育訓練の在り方や教養の問題を検討していたことがある。このことは、サイベル がフランスやイギリスの大学との比較からドイッ大学を単なる学習施設ではなく学問のワーク ショップであるとし、大学はギムナジウムで培われた精神の一般的訓練と一般的思考能力に基 づいてそれを深め、一つの専門学問分野に集中させるとしていることへの注目や、工科大学の 化学教授であったL.マイヤーらのギムナジウムと実科学校の卒業生の間にみられる性向の違 いの検討への着目、またギムナジウムの文献学者養成の準備教育的な古典語教育法に対するラ

ットマンの批判への注目などにも示されている。

 第三に、ギルマンは、アカデミック・フリーダムの問題を学生の側から検討していた。この ことは、学生の学問的・精神的成熟をアカデミック・フリーダムの基本前提として説き、「パ ンのための学問」とは異なる純粋な興味に基づく学徒の使命を擁護しているフィッシャーの「学 問研究とその目的」という教授就任演説のとりわけ詳細な抄訳に示されている。

 さらにまたギルマンが当時の学問研究の専門分化が加速度的に進みつつあったドイツ大学の

「学問の乱用」の渦中にあって、自然科学者の中で「唯一人、大学が一般教育の責任を負って いることを警告していた」6°)L.マイヤーに着目していたことは、教育機関としての大学院の在

り方への配慮という視点から重要な意義があると思われる。

3)フランス等からの影響

 以上検討してきたように、ドイツの大学および教育制度に関わる議論はギルマンに多大な影 響を及ぼしていた。しかしながら、その一方でギルマンは、フランスやロシアの高等教育制度 を精査し、各国の科学教育制度に精通していた。ギルマンはフランスの高等教育段階の科学技 術教育をその水準の高さと学校数と多様性を激賞している61)。

 これらの教育制度の検討が具体的な大学院制度にいかに関係づけられているかをみると、そ

の第一にあげられるのが、コレージュ・ド・フランスである。ジョンズホプキンス大学は、研

究を主体としながらもそれは社会から隔離された「象牙の塔」を目指すものではなく、他機関

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の学者や地域に開かれた相互交流を重視していた。そのため創立当初からさかんに公開講義を 行い、非常勤講師制度によって著名な学者を招いて豊かな研究教育の機会を提供していた。こ のような制度は、コレージュ・ド・フランスから影響を受けたものであるとギルマンは述べて

いる62}。

 さらに、ギルマンが国内の大学のうちで最も大きな影響を受けたバージニア大学がフランス の大学から多大な影響を受け63)、ギルマンがそれについて言及していることを考えると、フラ ンスの大学のアメリカ大学院の創出に果たした役割は、これまで理解されている以上に大きい のではないかと思われる。

4.教育と研究の統合としての大学院 ギルマンの大学教育論

 以上のように、ギルマンはドイッのみならず、ヨーロッパの諸国の教育制度を精査し、自国 に適した制度として大学院を構想していた。しかしながら、19世紀後半の急速な科学の発展の 時代にあって、学問研究の専門分化は必至の情勢になっていた中で、個々の学生や研究者の人 格形成を目指す教育と、学問の発展そのものを目的とする「研究のための研究」ははたして結 合することが可能なのであろうか。ギルマンが行った教育機関としての本格的な大学院制度の 創出は、いかにこの問題に対処し、旧来のカレッジの自由教育の理念と大学院での研究を結び つけたのであろうか。

 ギルマンは大学を「それより下級の学校で自由に学ぶ準備を施された青年のための上級の特 別な教育の場」M}、「知識の促進と普及のための基礎づけ」「あらゆる種類の学術や科学を進歩

させ、生活のすべての知的職業のために学者として若い人々を訓練するために組織された諸機 関の集り」65)などと、定義している。また大学は、「研究の自由、教育の義務、注意深い学位 の授与」66}を通じて、「知識の進歩、人間文化や英知の保持・洗練、知識の普及」67)という社 会的機能を果たすものとされた。大学とアカデミーの違いについては、両者ともに研究を行う 点においては同様であるが、大学においては教育が必要不可欠の本質であるという。

 研究の目的については、人間の福祉の増進と人間の解放というきわめて現実主義的な見解を 示した。「これら全ての研究の目的は、今日我々を縛り付けている足枷がいかに形成されたか、

またどんな方法でそれが断ち切られねばならないかを示すことによって近代社会の進歩を促 し、同時に自由がどこにでもある、しかもその自由が『法によって維持されている』社会の理 想を作りあげることである。」°S)研究と実践の関係については、相互依存的であるとし、「全て の人が語っている科学の多様な応用は、大学が行っている抽象的な研究があってこそ可能であ る」69)とした。ギルマンは研究生活における交友の重要性を強調した7°)。

 高等教育を「港の灯台」になぞらえるギルマンは、大学と公教育の関係について、「大学は

教育的経験の自然の保存機関であり、公教育の指導的機関と見なされるべきである。社会のよ

りよい状態においては、その世代の学識者が初等教育制度に責任をもち、終点のみならず研究

生活のすべての段階において助言を与えることができるような手段が発見されるであろう。」71)

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としている。

 教育機関としての大学の保持すべき原則として強調されたのが、教師と学生双方の自由であ った。学問の自由に関する二大原則についてギルマンは次のように述べている。「もし我々が 大学を保持しようとするならば、大いなる自由が教師と学生の両方に与えられなければならな い。このことは一方で指導者によって用いられる方法の自由と、他方で学生によって選択され る教育課程の自由を含んでいる。…学生の入学を統制する法則は、彼等がこの特権を得るまで に、すぐれた教師による長期の準備訓練と、体系的で努力を要する持続的な基礎知識の取得に よって成熟していなければならないということである。そして第二の法則、すなわち教授の職 務を統制するそれは、真理と正義の発見と促進に対する己をむなしくした献身、そして最も偉 大な教師のごとく、人類の福祉を促進するために、他の全てのことで世に認められようとする

ことを断念することである。」72)

 外国や自国の他の機関の例を調査しながら、それをそのまま模倣することなく、ギルマンは、

土地柄、地理的位置、下級学校の状況、時代と社会の需要に対応して、柔軟に独自の組織と原 則を模索した。ギルマンが開学にあたって示した12点の合意、とくにその長期的視点からの漸 進主義と、自由を旨とする包括性は、示唆に富むものであると思われる。「1.全ての学問は促 進されるに値する。2.宗教と科学は互いを恐れる必要がない。3.長期的見地にたった実用性は 直接的なそれと全く同等の価値がある。4.どんな大学も全ての学問分野を存分に奨励すること はできないので、選択がその問題に精通した教育行政家によってなされねばならない。5.学生 個人は学問の全ての分野を学ぶことはできず、彼等の相談にのるために任命された指導者の下 で学科の選択が許可される。有能な教授もまたルーティンに支配されることはできない。6.最 良の学者はほぼ例外なく広い自由学芸教養の基礎の上に特殊な業績を築いている。7.最良の教 師は普通、自由で有能に精力的に、図書館や実験室で創造的な研究を行う。8.最良の研究者は 普通、同僚からの刺激、生徒からの激励、社会からの注目を浴びながら、指導の任にもついて いる。9.大学は名誉を与える事は控え、利点を惜しみ無く与えるべきである。10.大学は一日 にして成らず、ゆっくりと発展するものである。11.大学の目的は人格を発展させること、人 物を作ることにある。もし大学が街学者や単なる職人、狡猜な誰弁家、うぬぼれた実践家を生 み出したならその目的が取違えられている。その目的は生徒に知識を伝達することよりも、む しろ学問への意欲をかきたて、研究方法の見本を示し、実力の伸長をはかり、判断力を強化し、

知的および道徳的能力の養成をはかることにある。大学は、社会奉仕のために、どのような仕 事や思想についても、賢明で思慮深く進歩的な指導者になるような学生階級を教育すべきであ る。12.大学は容易に型にはまりやすい。ほとんどすべての時代は新しい出発を必要とする。」73)

 以上のようなギルマンの大学および大学院に関する思想において注目すべきは、当時「専門 分化がリーダーシップをとり、フンボルトが亡くなる以前から一般的な学問の時代は過ぎ去り、

新しい時代がまさしく進行しつつあった」74)という状況にあって、いかにして大学および教育 全般の目的である人格形成が可能であると見なされていたかという点である。

 ギルマンは、従来の自由教育とそれを担ってきた伝統的カレッジの役割を十分に評価し、大

(11)

学院での研究生活の基礎としてその重要性を認識していた。「…大学はカレッジを含むか、あ るいはそれに基礎をおかなければならない。このことは、学生が知的自由に適するまでに、厳 しい長期にわたる知的訓練を受けなければならないということを意味している。」75)「語学と 科学的教養の基礎、ならびに倫理学と政治学の諸原則を習得してはじめて、学生の精神的道徳 的性格が大学での生活のために十分成熟するであろう。」76}

 ギルマンは従来の伝統的カレッジでの自由教育そのものに高い価値を認めるとともに、時代 の必要に応じて科学教育や手工を自由教育に導入することを熱心に提唱していた。「生活物資 の獲得には関与しないが、人間の能力のすべてを発展させ、外的状況や制限、必要が何であれ、

有用性と楽しみに精神を準備させる」自由教育に最も有用な進歩は、「すべての生徒が科学の 何がしかを知り、さらにこの知識が、これまでのようなもっぱら自然についての書物による間 接的学習によるのではなく、少なくとも部分的には自然に直接的に触れることによって獲得さ れねばならない、という教義」の確立であるという77)。自由教育によって目指されるべきもの とは、健全で活動的な身体、よき精神的習慣、有用な知識の保持、文学・音楽・芸術の愛好、

自然を愛すること、生活上の労働と遊びの適性、人間の魂(観念性)の保護、であるという78)。

 ギルマンによれば「探求による指導」を基調とする大学での教育は、自由教育の後期、それ も人格形成がほぼ完成された段階に位置づけられるものであり、それは研究に励む優れた研究 者からの感化を中心とするものであるとされた79)。このようなギルマンの教育観の根幹になっ ていたのが、旧来の伝統的カレッジにおけるmental disciplineという能力観であった。「…私 はここで次のような古い考えを繰り返したい。知的生活を送ろうとしている青年は、それを教 えることが出来る人から長期にわたるmental disciplineを受けなければならないと。」8°)

 またこのような観点から、研究者の需要と供給についても、次のように述べることができた のである。「今や常に需要があって常に報酬が得られる教育的に交換可能な質の替りに、彼等(学 生)はある限定された分野での特殊な業績を示すPh. D.として社会に出、彼等が提供できる

ものに需要がないことを知って悲嘆に暮れている。私はわが国の大学での研究の潮流が未熟で

過度な専門分化に向かっているというのであれば、そこを航海している多くの大学関係者は岩

にぶつかって難破するように運命づけられていると言うのに吝かではない。…わが国において

二、三年後に需要のない非常に特殊な知識を身につけた人間が多数出現するのは不幸なことで

あろう。…一方でもし学部以上の段階で学ぶことが、知識を増すのと同じくらい学生の能力を

広げたなら、もし彼が彼が知っている事柄を伝える技術を身につけたなら、もし彼がバランス

感覚を養い自身が研究している主題を正しく展望したなら、もし彼が最高の知識を窮めようと

するのと同様その基礎を強化するなら、彼は生活の義務のための長期化された準備によって得

るところはあっても失うものはないであろう。…全ての人の第一の任務は自身のパンを稼ぐこ

とであるはずである。もしこのことさえわかっていれば、彼は自身の甘美な意志で牧場や森を

彷復うことが許されるのである。」8])

(12)

5.おわりに

 以上の分析で明らかになったことは、ヨーロッパ滞在での異文化接触を起点に、ギルマンの 大学院構想が、その地理学者としての実証主義的志向、図書館員としての知識の運営管理と利 用促進、教育者および教育行政家としての教育制度全体における科学技術教育の推進という経 歴の中で創出されてきたということである。また具体的な大学院構想計画にあっては、多様な 外国の制度が取捨選択されながら、「アメリカ合衆国型大学」としての大学院制度が構想され ていたことが判明した。

 また、ギルマンが構想したカレッジと大学院からなる大学制度においては、前者は後者の基 礎教育とみなされ、両者は伝統的自由教育の核心をなしていたmental disciplineという能力観 によって結合されていた。この点において研究および専門教育と自由教育は統合され、大学で の研究の目的はなお人格形成にあるとギルマンは唱えることができたのであった。そしてここ に、ドイツ流の観念論的な「学問による教養(人間形成)」とは異なる、アメリカ合衆国的な 訓練を中心とする大学院教育の思想的基盤が見いだせるのではなかろうか。

 従来、ジョンズホプキンス大学はドイッ大学をモデルとするアメリカ合衆国での大学院制度 の創出として理解されてきているが、これはきわめて誤解を招きやすい一面的理解となる危険 性を多分に含んでいるように思われる。なぜならば、本格的な大学院制度の創始としてのジョ ンズホプキンス大学は、実際には多様な外国の制度、とりわけフランスの専門分化した科学技 術教育制度に直接間接に触発されながら創設され、しかも伝統的なドイッ大学制度の基盤を支

えた旧態依然たる古典語学習を中心とするギムナジウムではなく、実科学校と大学・工科大学 との関連から大学院という制度が構想計画されていたからである。このようなきわめて多様な 外国の制度の選択的受容と、mental disciplineという能力観による研究および専門教育と伝統 的自由教育の結合にこそ、やがてドイッ大学を凌ぐに至るアメリカ合衆国の大学院の教育制度

として強みの原点があったのではなかろうか。

      注

1)Ashby, E.,The Future of the Nineteenth Century ldeal of a University, Minervα, VoL6, No.L l967.等 参照。

2) Paulsen F., The Germαn Universities:Their Chαracter and Historicαt Development(Translated by Perry,

E.D.)、New York, Maclnlan and Co.,1895. p.15. Metzger, W.P.,Academic Freedom in the age of the University, New York, Columbia University Press,1955、 pp.95−109.(W.P.メッガー(新川健三郎・

岩野一郎訳)『学問の自由の歴史ll』東京大学出版会1980年508−522頁)等。

3)日本の大学院については伊藤彰浩「日本の大学院の歴史」市川昭午・喜多村和之編著『現代の大学院教育』

玉川大学出版部1995年等を参照。

4) Flexner, A.,Daniel Coit Gilmαn:Creator of the Americαn Type Of University, New York, Harcourt, Brace and Company,1946.

5)Hollis, E. V., Towaγd∬mψroving Ph .D. Program, Wachington, D.C. , American Council on Education,

1945,p. 14、

(13)

6)Pelikan, J.,The Idea of the University, Yale University Press,1992, p.72,0.ペリカン(田口孝夫訳『大  学とは何か』法政大学出版局1996年106頁)

7)ジョンズホプキンス大学の歴史については、French,」.C.,AHistory Of the University Founded by Johns  Hopleins,Baltimore,The Johns Hopkins Press、1946. Hawkins,H.,Pioneer:AHistory of the/ohns Hopleins Uni−

 versity,1874−1889, Ithaca, Cornell Univ. Press,1960.

8)フェロー制度(大学院奨学生)は「将来性のある研究者に好ましい環境でさらなる研究を行う機会を与え、

 また同様に人文科学や自然科学の探求の道を歩みたいと思っている者にそれに従事する機会を与える」ため  に創設され、古典文献学、文学、歴史、倫理学及び形而上学、政治学、数学、工学、物理学、化学、博物学  の学科で秀でた大学院生20人に年間500ドルの奨学金を与えた。フェローは研究に専念し、学年の終りに論文  の経過報告、研究の完成、講義等による成果の証明が義務づけられた。応募要件はすぐれた一般教育を身に  つけ、専攻分野に明確な方向性を持つ者とされた。第一回は、応募者152名から20名が採用された。French,

 op. cit., p. 44.

9)ジョンズホプキンス大学の定めたPh.D.の要件は、その後のアメリカ合衆国の大学院の基準となった。そ  れらは1)2年以上前に学士号を認定された機関で取得していること。2)専攻科目とそれに関連した副専攻科  目。3)1年以上大学周辺に居住すること。4)論文試験の要件:指導教員から認められた研究テーマであること、

 論文完成に一年以上要すること、論文は当該分野の習熟、独創性、研究結果を明確に論理的に適切な言語で  表現できる能力を証明するものであること。5)教授会メンバーを中心とする試問委員への付託。6)ラテン語、

 フランス語、ドイツ語の習得(少なくともそれらの文献を容易に読めること)。7)科学的研究方法への精通。8)

 常勤教授以外のすぐれた学者の時に応じた試験や論文審査への参加。

10)非常勤講師制度については、概ね3年で契約更新され、講義テーマは自由で学問的に窮められた水準であ  ることとされ、受講生は50人から100人ぐらいあった。ギルマンの招膀した講師は26年間に300人以上にのぼっ  た。この制度は教授陣を強化し、学生の転学を防いだとされる。Ibid.,pp.184−192、

11)専門学術雑誌の発行の起源はヨーロッパ、とりわけドイッとイギリスとされ、ギルマンは「ヨーロッパ大  陸にいた時、私は大学教授が独創的な研究を行うように奨励することと、彼等が到達した結果の発表のため  の手段を提供することの重要性に常に注目させられてきた」と述べている。Gilman, D.C.,1906, p. ll5.

 学術雑誌名と発行年は次のとおり。The・American/o rnal of Mαthmatics,1878、The Ameγicαn Chemical Jour−

 nal, 1879.  American Joumal of Philology, 1880. ∫ournal(ゾPhysiology, 1881.  /ohns Hopleins (ノniversity Stu−

 dies in Historicα1 and Potiticat Science、1882. Modern Language Notes,1886. Circulars,1879.(1912年から  Johns Hopkins Alumni Magazineに)  Contributions to Assyriotogyα,id Compαrative Pemitic Phitotogy,1889.

12) French, op.cit. Hawkins, op.cit.

13) Cordasco. F.,  lntroduction,  in Gilman, D. C., University Problems in the United∫tates, New  York, Johnson Reprint Corporation,1971 (1898) , pp. v−xxx.

14) Franklin, F., The Life qf Daniel Coit Gilmαn, New York, Dodd, Mead and Company,1910. Flexner,

 op. cit.

15)Ryan, W.C.,Studies in Early Graduate Education, The Carnegie Fot ndation For the A bvancement of  Teaching, Butletin〜Vo.30、1939,pp.15−46. Kerr, C.、The Uses qf University, Cambridge, Harvard Uni−

 versity Press,1982(1963).pp.9−18. Veysey, L. R., The Emergence(リf the Americanこノniversity, Chicago,

 The Univ. of Chicago Press,1965, pp.158−164. Brubacher, J. S.&Rudy, W.,Higher Educαtion in  TraiTsitioii、 New York, Harper&Row Publishers,1968. pp.175−201. etc.

16) Ouellette, V.A.,Daniel Coit Gitman s Adminisration of University Of Cαliforniα, Ph.D. Dissertation, Stan−

 ford Univ.,1952. Cordasco, F. M., The Role of Daniel Coit Gilmαn in American Graduate Educαtion,

 Ed.D. Dissertation, New York Univ.,1959. Eichlin, A. S.、AHistoγicat A ua lysis Of the Feltowships Prog・

 rαmst the Johns存oρ々i,τs University 1876・1889:Dαniel Gitmαn  s Uniq e Contribt tion, Ph.D.Dissertation、

(14)

 Loyola Univ. of Chicago,1976. Cordasco, F.,Daniel Coit Gitman and the Protean 1)h. D., Leiden, E.J.

 Brill,1960.

17)仙波克也「19世紀後半のアメリカの大学院教育制度の展開」『福岡教育大学紀要IV』23号1973年。高木英明「ア  メリカにおける大学院教育の制度化:その歴史的背景」国立教育研究所『特別研究大学院の研究一その2』1979  年。潮木守一『大学と社会』第一法規1982年。橋本毅彦「世紀転換期アメリカにおける科学技術と大学」成  定薫他編著『科学見直し叢書2制度としての科学:科学の社会学』木鐸社1989年。早川操「19世紀末アメリ  カ研究大学におけるPh. D.プログラムの成立とその研究能力観」『アメリカ高等教育における能力観と制度

.変革とに関する史的研究』アメリカ教育史研究会1991年。羽田積男「ダニエル・ギルマンとアメリカ型大学」『教  育学雑誌」29号1995年等。

18)田中征男「大学拡張運動の歴史的研究」野間教育研究所紀要30集1978年184−195頁、太田雅夫「米国におけ  る帝国憲法発布記念祝賀会:ジョンズ・ホプキンス大学と家永豊吉」『研究紀要』(桃山学院大学教育研究所)

 4号1995年。

19)Gilmanのカリフフォル大学学長就任演説には、その4年後のジョンズホプキンス大学の創設の基本理念の  ほとんどがすでに表明されていた。Gilman, D.C.,The Johns Hopkins University in its Beginning:An In−

 augural Address, Baltimore,1876, in Gilman, University Problems in the United States. , op.cit.,pp.1−41.

 Gilman, D. C.,The University of California in its Infancy:Inauguration of the President of the Uni−

 versity, Oakland, 1872, in lbid., pp.153−185.

20)1850年代当時のカレッジと自らの体験をギルマンは次のように述べている。「当時この国においては、より  上級の専門職に関係しない学問を学ぶ機会が不足していた。伝統的カレッジでは、一定のgraduate、課程に少  数の学生が在籍してはいたが、教師はほとんどの場合undergraduateの指導に忙殺され、指導を必要とした  graduate課程の少数の学生にほとんど時間をさくことができなかった。おそらく私自身の経験も例外ではな  いであろう。」 Gilman, D.C.,The Launching of a University, in The Lαunching()faUniversity and Other  Papers:ASheaf of Rememberances, New York,Dodd, Mead&Cornpany,1906, pp.8−9.

21) Franklin, op. cit. pp.15−38. Gilman, D.C.,Letters from Russiαduring the Criminαl Wαr, Reprinted  from the The Yale Review, April 1916, Gilman Papers Ser.5, Box 5.2、 The Johns Hopkins University,

 The Milton S. Eisenhower Library, Special Collections.以下Gilman PapersについてはGPと略記するが史  料番号は未整備で統一されていない。

22) Gilman, D.C.,Scientific Schools in Europe, Henry Barnard s AmericanJournal qf Educαtion, vol.L  1856,pp.315−328. Gilman, D.C.,Educational Movements and Statistics:Russia,lbid.,pp.381−385. GiL  man, D.C.,Prussia、 Saxony, and Austria、 Ibid.,pp.402−405. Gilman, D.C.,The Higher Special Schools  of Science and Literature in France, Ibid.,vol.2,1856, pp.93−102. Gnman, D.C.,Scientific Education the  Want qf Cσititeticut, Transactions of Conn. Agricult. Soc.1856 (GP, Box 5.3a).etc..

23) Diehl, C.,Americans and German Scholarship 1770−1870, New Haven, Yale Univ. Press,1978.

24) Bledstein, B.J., The Culture of Professionalism:The Middle Ctass and the Development()f∫Higher Edμcαtian in  Atnerica, New York, W.W. Norton&Company,1978.

25)Rudy, W.,Eliot and Gilman:The History of an Acadernic Friendship, Teacher College Record,

 Vol.54, No.6, March1953. etc.

26)地理学者としてのギルマンについては、Wright, J.K.,Daniel Coit Gilman, Geographer and Historian,

 The Geographical 1〜eview, 51,July 1961, PP. 381 399・

27)手塚章編『地理学の古典』古今書院1991年8−156頁参照。

28) Gilman, D.C.,Humboldt, Ritter, and New Geography, The New Englander, May l860. Gilman,

 D.C.,Carl Ritter, The North American Review, No.CCIII, April 1864,pp.498−519.等。ベルリンでフンボ

 ルトと野外調査を行いリッターの指導も受けていたスイス人ギヨーは、1848年からアメリカに移住した。

(15)

  Guyot, A.R.,Dictionary of American Biography, Vol. IV, New York, Charles Scribner s Sons,

  1931(1959), pp.63−64.

29)Wright, op. cit.,pp.384−390. Gilman, D.,On the Study of Geography, Attantic Monthly, June

  1891, pp. 815−820.

30)バクスリの開学記念講演はHuxley, T.H.,American Addresses u・ith a Lecture on the Study Of Biology, Lon−

  don. Macmillan and co.1877, pp.97−127.(佐伯正一・栗田修『世界教育学選集36バクスリ』明治図書1966   年143−162頁)

31)Gilman・D・C・,D・w・・f・U・i・ersity,1882, i・Th・・L・un・hi・g・・f・U・iversity・nd・Other・P。pers,。P.cit.

  p.275.

32)図書館員としてのギルマンについては、Young, A.P.,Daniel Coit Gilman in the Formative Period of   American Librarianship, The Library Quarterly, VoL 45. No.2, April 1975, pp.117−140.川崎良孝「訳注   [251]」ジェシー・H・シェラー『パブリック・ライブラリーの成立』日本図書館協会1988年355頁。

33) Gilman, D.C.,The Higher Special Schools of Science and Literature in France, op.cit.,p.97.

34) Shiflett, O. L.. Origins OfAmericαn Libγarianship, Norwood, Ablex Publishing Corporation,1981,

  pp.1−55.

35) Franklin, oP. cit.,PP.53−54,75−79.

36)ジョンズホプキンス大学の図書館は、日曜以外朝9時から夜10時まで開館していた。Johns HoPleins Uni−

  versity Circulars, No.2, Jan.1880, p.14.

37) Gilman, D.C.,Relations of Yale to Science,1901, in The Laμnching Ofa[ノniversityαnd Other Papers,

  op. cit.,p.187. Gilman, D.C.,Books and Politics:An Address on the Completion of a New Library   Building at Princeton University,1898, in Ibid.,p.195、

38) Gilman, D.C.,Development of the Pttbic Lゴbπこτ戸,τAmerica:An Adress Delivered at the()Pening of theα輪∫〜

  University Libra?y, Oct. 7.1891, Ithaca, Published by the Univ.,1891 (GP, Box 5.1−11).

39) Gilman, D.C.,The Alliance of Universities and the Learned Societies, Celebration of the Hundredth   Anniversary of the Incorporation, Proceedings of the American Phitosophical Society, Vol. X W, March 15,

  1880,pp.536−−540.

40)Gilman, D.C.,Scientific School in Europe, op.cit.,pp.315−328.

41)Chitte・den、 R.H. Hi・t・ry・・f・th・ Sh・ffi・td・S・i・ntific S・h・・t・f}fat・ U・iversity・1846−1922. V。L1. N,w H、。en,

  Yale University Press,1928,pp.84−86.

42) Gilman, D.C.,Our National Schools of Science, The North Amerivan 1〜eview, Oct.1867. Gilman、

  D・C・・On the GrOtvth of American Colteges Theirノ)resent Tendency to the Stud夕of Science, An Address Delivered   at the Dedication Of the∫ibtey Cottege qf the Cornetl〔ノniversi・ty,ノtine 21,1871,Ithaca, Univ. Press (GP, Box   5.3−h). Gilman, D.C..Report on the Natioual Schools of Science, Reprinted from the Report of the United   States Commissioner of Education for 1871 (GP,Box 5.31).

43) Gilman, D.C.,The Idea of a Graded School, Conneticμt Common School/ournal. Feb.1859 (GP, Box

  5.3−1f).       .

44)Gilman, D.C.,What Sort of Schools Ought the State to Keep?, New Englander, Jan.1868.

45) Franklin, oP. cit.,P.52.

46) Gilman, D.C..Suggestions respectingαCourse of Study for Chitdren between the ages Of six and twetve yeα「s・

  AnAddress Detivered in New Haven, February 4,1860 before the Common−schoot Visitors qf the County and the   Common−sciml teschers of the cily (GP, Box5.3h).

47) Gilman、 D.C.,Scientific Education the Want of Conneticut, Transactions of Conn. Agricult. Soc.1856

  (GP. Ser.5, Box 5.3a).

(16)

48) Gilman, D.C.,The Launching of a University, in The Launching OfαUniversity and Other Papers,

 OP.cit., P.9.

49) Ibid., p.49.

50) Shiflett, op.cit. P.84.

51)Metzger, op.cit.,p.103.(前掲新川・岩野訳516頁)

52)ヴァージニア大学についてはBruce, P.A.,History Of the University(Of Virginia 1819−1919, vot.1, New   York, The Macmillan Company,1920.内海隆「バージニア大学の理念とジェファーソン」前掲『アメリカ   高等教育における能力観と制度変革とに関する史的研究』等。

53) Gilman, D.C.,The Characteristics of a University,1886, in Launching Of a Universityαnd Other Papers,

 op.cit.、 p. 84.

54) Gilman, The Launching of a University, in Ibid.,p.9.

55) Ibid..Gilman, D.C.,The Johns Hopkins University in its Beginrling:An Inaugural Address, Balti−

  more,1876, in Gilman, University Problems in the United∫tates, op.cit.,p.29. Gilman, D.C.,The Char−

  acteristics of a University,1886, in Ibid.,p.99.

56) Brubacher, J.S.,On the Philosophy〔)f Higher Edμcαtion, Revised Edition, San Francisco, Jossey−Bass   Publishers, 1982, p.137.

57) GP Ser.2 Notebooks (1852−1900).

58) Atlgemeine Deutche Biographie,12Bαnd, Leipzig, Verlag von Duncker&Humblot,1880、 ss.631−634.

  Ibid. Nachtraege bis 1899,47 Band,1903, ss.99−105. Ibid.,51 Band,1906, ss.597−602. Ibid.,54   Band,1908, ss.645−667. Neue De tsche Biogrαphie,5Band, Berlin,Duncker&Humblot,1960、 s.199.

  Ibid.,17 Band,1993、 ss.304−306.

59) Kraul, M.,Das Deusche Gpmuasium 1780・1980, Frankfurt am Main, Suhrkamp Verlag,1984.(M.クラ   ウル(望田幸男他訳)『ドイッ・ギムナジウム200年史:エリート養成の社会史』ミネルヴァ書房1986年71−99

  頁)

60) Lilge, F., The Abuse of Leaming:The Faituγe of the Germαn University, New York, Octagon Books,

  1975, pp. 66−69.

61) Gilman, D.C., The Higher Speciα1∫cんools Of Scienceαnd Literature in France, oP・cit.

62) Gilman, D.C.,The Launching of a University, in The Launching ofαUniversity and Otheγ Papers,

  op.cit., P.61.

63) Bruce, oP. cit.,PP.55−65.

64) Gilman, D.C.,The Johns Hopkins University in its Beginning:An inaugural address, Baltimore、 Feb.

  22,1876,in Gilrnan,1898 (1971),p.13.

65) Gilman, D.C.,University of California in its Infancy:Inauguration of the President of the University,

  Oakland 1872, Ibid., p. 156.

66) Gilman,1876, Ibid.,p.13.

67) Gilman, The Utility of Universities:An Anniversary Discourse, Feb.22,1885,in Ibid.,pp.57−58.

68) Ibid.,pp. 62−63.

69) Ibid., p. 70.

70) Gilman、 D.C.,The Characteristics of a University:An Address Before the Phi Beta Kappa Society of   Harvard University, July l、1886, in Ibid.,pp.93−94.

71) Ibid., p. 92.

72) Gilman,1876, in Ibid.,p.33.

73) lbid., pp. 18−20.

(17)

  74)Gilman, D.C.,The Sheffield Scientific School of Yale University, New Haven;ASemi−Centennial Dis−

   course, 1847−97, 0ctober 28, 1897, in Ibid., P. 122.

  75) Gilman, D.C.,The Idea of the University, The∧Joγth American Revietv, Vol.133, No.299,0ct.1881,

   p.357.

  76) Ibid., p. 358.

  77) Gilman, Manual Training as a Part of a Liberal Education, from an unidentified publication, dated    l893 Chicago, (GP, Box 5.3−1).

  78)Gilman、 D.C.,An Address to the Woman s College of Baltimore;What may be Secured by a Liberal   Education?, Reprinted from The Christiαn UniOn, dated 1888 (GP, Box 5.3−h).

  79) Gilman,1881,0p. cit.、p.360.

  80) Gilman, D.C.,Dawn of a University, in Gilman,1906,0p.cit.,p.260.

  81) Gilman,1886, in Gilman,1898,0p.cit.,pp.104−105.

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