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高麗神社と高来神社

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(1)

高麗神社と高来神社

タイトル(英) A study of the Koma (高麗) Shrine and the Takaku (高来) Shrine

著者 糟谷, 政和

雑誌名 茨城大学人文社会科学部紀要. 人文コミュニケーシ

ョン学論集

号 2

ページ 31‑39

発行年 2018‑03

URL http://hdl.handle.net/10109/13517

(2)

『人文コミュニケーション学論集』2, pp. 31-39. © 2018茨城大学人文社会科学部(人文社会科学部紀要)

  糟谷 政和

要旨

 日韓文化交流史における渡来人の存在を現在の私たちに示してくれものとして、渡来人関 連の神社がある。関東地方では、高麗神社(埼玉県日高市)と高来神社(神奈川県大磯町)

がよくとりあげられる。しかし、二つの神社の由来は、古くから定まったものではなく、特 に近代日本社会の変動に神社自体も大きく影響を受けその由来の説明も変化してきた点を指 摘した。さらに今後検討すべき神社として日向神社(白髭神社)(神奈川県伊勢原市)を紹 介した。

1

.はじめに

 筆者は、これまで日韓(朝)文化交流を歴史教育の場で扱う際の教材として、特に “地域 の中の朝鮮” を学ぶための教材研究に努めてきている。この点から、古代における日韓(朝)

文化交流の可視的な教材として現存する高麗神社(埼玉県日高市)と高来神社(神奈川県大 磯町)についてその歴史研究の教材としての意義について検討した(注1

 その検討の結果は、高麗神社と高来神社の状況は全く対照的であった。高麗(高句麗)と の関係性を積極的に受け入れ、かつ神社自ら積極的に発信している高麗神社。一方高麗(コ マ・コウライ)という名称を神社名から外し(

1897

[

明治

30]

)、同音の「高来」を使い、

かつ「コウライ」と読むのではなく、「タカク」として、高麗(高句麗)との関係性を積極 的に消そうとしているかにみえる高来神社(注2)

 改めて二つの神社の最近の姿とその歴史を考える。

2

.高麗(高句麗)との深い関係性を発信する現在の高こ ま麗神社(埼玉県日高市)

 埼玉県日高市の高麗神社は、昨年

2016

年が高麗郡建郡

1300

年ということで高麗神社と高 麗(高句麗)との深い関係を前面に押し出し、高麗神社はもちろん、日高市役所、日高市民 が一緒になって各種イベントで盛り上げ、

2016

5

21

日と

22

日に「高麗郡建郡

1300

年記 念祭」(会場:日高市ひだかアリーナとその周辺)を挙行した。

(3)

32

糟谷 政和

 これまで高麗神社の年中行事は、高麗神社社務所発行の冊子『高麗神社と高麗郷』(

2008

11

14

日取得)によれば次のようであった。

 ・元旦祭 

1

1

・祈念祭 

2

23

 ・桜祭  

4

月第

2

日曜日(獅子舞) ・例大祭 

10

19

日(獅子舞)

 ・大祓  

12

31

 しかし

2016

年の行事は大きく変化していた。高麗神社社務所発行の情報チラシ「

2016

高麗郡

1300

年祭 平成

28

年春版」によれば、「高麗郡

1300

年祭」の

2016

年の高麗神社主催 の行事は、次のように、従来の年中行事の内容をはるかにこえる、かつ日韓(朝)文化交流 にとどまらない、実に多彩な内容であったことがわかる。

1

月の古代装束絵巻 

2

日(土)〜

9

/10

日(日)・

11

日(祝・月)

―高句麗・飛鳥・平城京から蘇る美の祝祭―

1

月の巫女舞 

10

日(日)・

11

日(祝・月)・

17

日(日)・

24

日(日)

・開運! 高麗鍋まつり 

2

7

日(日)

・祓詞浄書体験 

3

13

(日)

・桜祭 

4

3

日(日) 巫女舞・獅子舞(高麗神社氏子会)

・若光祭 

5

15

日(日) 若光神輿渡御(子どもみこし)、昔あそび

・高麗郡建郡記念神恩感謝祭 

5

16

日(日)

・祝賀祭開運ミュージカル「つむぐこまひと」上演 

5

21

日(土)  

・奉祝祭 

5

22

日(日)

・遠州茶道茶会 川越献茶会 

6

11

日(土)

・夏越の大祓式 

6

26

日(日)

・展示会―高麗神社の御造営―

9

17

日(土)〜

22

日(祝・木)

・芸能祭―モンゴル馬頭琴・狂言 

9

18

日(日)

・鎮守の杜の音楽祭 

9

19

日(祝・月) 韓国国楽(予定)・高麗照燿

・古代装束絵巻―思い出の赤 曼珠沙華― 

9

22

日(祝・木)

・文化祭 

9

25

日―南部神楽・サムルノリ・よさこい・テコンドー演武・合気道演武

・例大祭 

10

19

日(日) 祭典、獅子舞、付祭り

・シオレマダン 

10

23

日(日)〈主催:在日本大韓民国民団埼玉県地方本部〉

・古代装束絵巻―高句麗・飛鳥・平城京から蘇る美の祝祭― 

10

30

日(日)

1300

年祭フィナーレを彩る集大成! 

・菊花展 

11

1

日(火)〜

10

日(木)予定 (主催:日高市菊花愛好会)  

・キムジャン祭 

11

20

日(日)

(4)

・年越の大祓式 

12

30

日(金)

 このように高麗神社は

2016

年に高麗郡建郡

1300

年を記念する多様なイベントを行ったが、

この傾向は翌年

2017

年にも受け継がれてゆく。高麗神社社務所発行の情報チラシ「高麗神 社平成

29

年春版」によれば、

2017

年の高麗神社の行事予定は

2016

年同様に多彩であり、集 客のための工夫がされている。この予定行事については高麗神社

HP

でも随時発信されてい るのでご覧いただきたい。

 さらに高麗神社は「高麗建郡千三百年記念事業」として史料集を刊行している。これまで に刊行されたのは、『高麗神社・高麗家文書目録』(

2006

年刊)、『武蔵国入間郡森戸村本山 修験 大徳院日記』(

2010

年刊)、『高麗神社史料集 第一巻』(

2012

年刊)、『高麗神社史料 集 第二巻』(

2013

年刊)、『高麗神社史料集 第三巻』(

2016

年刊)である。

また埼玉県立歴史と民俗の博物館において、

2016

7

16

日から

8

31

日まで、特別展「高 麗郡

1300

年―物と語り―」が開催された。同時に同展の解説図録『特別展 高麗郡

1300

―物と語り―』が同博物館から

2016

7

16

日に発行された。

 このように、高麗神社は高麗(高句麗)との深い関係性を自ら発信していることがわかる。

3

.高麗(高句麗)との関係性に複雑な背景がある高たか神社(神奈川県中郡大磯町)

 大磯町の高来神社は、神皇産霊尊、瓊瓊杵尊、応神天皇、神功皇后を祭神とする。そし て大磯町観光協会作成の「大磯観光ガイドマップ」によれば、

2017

年現在、高来神社が関 係するお祭りとしては、高麗寺祭(

4

月第

3

金曜日〜日曜日の

3

日間、高来神社を中心に、勇 壮な山神輿や植木市で賑わう)、御船祭(

7

月第

3

土曜日、日曜日)があるという。

 すでに見たように、現在の高来神社は、

1897

年以降にそれまでの高麗神社という社名を 高来神社に変更して、高麗との関係を自ら表明しなくなったのである。

 高来神社の由来について記すものとしては、神仏習合の高麗寺の縁起である天正

19

12

月に定海が編纂した「高麗寺一山建立記」は神功皇后三韓征伐神話、武内宿禰の進言、行基霊 木薬師彫刻説話等々を含めた由来が書かれている(注3。この史料も根拠となり、大磯町の高 来神社の祭神が現在見るように、神皇産霊尊、瓊瓊杵尊、応神天皇、神功皇后となってゆく。

 さらに明治維新による神仏分離による高来神社の混乱、日本による朝鮮植民地支配時期に おける「内鮮一体」の証拠として取り上げられた高来神社、そして第

2

次世界大戦後の高来 神社の姿がある。 

 この高来神社についてはさまざまなことが言われてきているが、そのいくつかを紹介する と以下のようである。

 ①神功皇后伝説の三韓征伐による高句麗の神を崇め、大磯の高麗権現として祀ったとする

(5)

34

糟谷 政和

説(『箱根山縁起(注4)』)。

 ②天正

19

12

月定海編纂の「高麗寺一山建立記」における説(前出)。

 ③

668

年の高句麗滅亡後に日本に逃れて来た高句麗人たちが東海を船で進み、相模国の大 磯に上陸した。その中に後に高麗王となる若光がいた。霊亀

2

年(

716

)に東国各国に いた高句麗人

1799

人を武蔵国に集め、高麗郡を創建したが、その時に中心になったのは、

大磯にいた若光であったとする説。これは、

1931

年(昭和

6

)に、埼玉県の高麗神社社 務所の出版物『高麗郷由来』(高麗明津氏)で出された説で、高麗王若光は大磯町に上 陸し、後に高麗郡創建の中心人物として武蔵国高麗郡へ移ってきたとされ、かつ大磯の 祭礼(御船祭り)の内容からもわかるとされた(注5)

 ④

2017

年現在、大磯の「高来神社」周辺を現地見学すると、「高来」という名称は、当該

神社の境内にいくつか存在するだけであり、神社周辺には依然として、「高麗(こま、

koma

)」のままである。その例として、大磯町(神奈川県中郡)の「地形図」(承認番号:

平成

23

関公第

36

号)を見ても、町名表示として、高来神社南側に「高麗一丁目」「高 麗二丁目」があり、高来神社東側を流れる花水川東岸に「高麗三丁目」がある(注6)。  ⑤さらに大磯町の地誌や大磯町史やある時期までの大磯町の小学校社会科副読本『おおい

そ』そして日韓関係史関係の本などには、古代の大磯は高句麗人により高い文化を持っ ていたことが横穴式古墳や出土品からわかることを述べており、そのことから読む者に 大磯の地に、高麗(=高句麗)という地名がいろいろと残っているのだと思わせること になる(注7)

 ⑥大磯の東側にそびえる

160m

程の高麗山の麓にある「高来神社」ではあるが、

1897

年(明

30

年)以前の名称は、高麗明神や高麗権現や高麗宮や高麗神社であり、現在の高来 神社という名称には違和感がある。 

4

.高麗王若光と大磯

 現在、ひとつの考え方として高麗王若光が大磯へ上陸し、その地の人々が信仰の対象とし た高麗明神・高麗権現が高麗山に祀られたとする。その後、霊亀

2

年(

716

)に関東

7

カ国に いた高句麗から来た人々とともに、若光は人々とともに武蔵国に創設された高麗郡に移った とされている。

 このような理解は、

2016

年に「高麗郡建郡

1300

年」を迎えて一層強調されることになる。

そのような主張を背景として、

2016

年に「高麗郷ウォーク」として大磯町の高来神社を出 発して日高市の高麗神社までの道を辿るイベントがあり、今年

2017

9

27

日〜

30

日の

4

日 間同様に実施された。

 ここに見るような高麗王若光が大磯に上陸したという理解は、どのようにして成立するの

(6)

だろうか。

 現在、ひとつの考え方として神奈川県中郡大磯町の高来神社は若光の上陸地であり、また 埼玉県日高市の高麗神社はその若光の終焉の地であるとされている。そして若光の直系の子 孫である高麗文康氏が

60

代目宮司をつとめている(注8)

 すでに見たように、同じように、朝鮮植民地支配期には「内鮮一体」の観点から高来神社 と高麗神社を結びつける見解がみられた(注9)

 高麗神社は「高麗家系図」に基づき、高句麗からの渡来人である高麗王若光の直系により 高麗王若光を祀る神社として守られてきたとされる。その後、康治

2

年(

1143

)以降修験道 となり、明治維新まで修験道の寺院であった。

 明治維新の神仏分離をうけて成立した高麗神社は、『続日本紀』の記述(前述したように、

東国

7

ヵ国の高麗人

1779

人を移動させて武蔵国に高麗郡を創ったこと)を根拠にして、高麗 王若光を祀る高麗神社、その高麗神社の宮司は高麗王若光直系が代々勤めてきたとしてきた。

その高麗王若光の来歴を推測も含めて膨らませて、ついに大磯上陸という物語を完成させた のである。

 その物語は、

1931

年に高麗神社社務所で発行した高麗神社第

58

代宮司高麗明津氏編著の

『高麗郷由来』の中で紹介された。(同書、

3-4

頁。なお引用文は同書第

3

版によった。さらに 旧字は俗字にしてある。)

  傳説によれば、若光の故國を去るや一路東海を指し遠江灘より更に東して伊豆の海を過 ぎり、相模湾に入つて大磯に上陸した。さうして邸宅を化粧坂から花水橋に至る大磯村 高麗の地に営んで、其処に留まり住んだが、間も無く我が朝廷より従五位下に叙せられ、

次いで大宝三年には王の姓を賜はつた。ここに謂ふ「姓」は、鎌足に於ける藤原、秀吉 に於ける豊臣等の謂はゆる苗字とは其の性質を異にし、臣、連、朝臣、真人と同じ謂は ゆるかばねの姓であつて、若光が高句麗王族なるが故に、特に王の姓を賜はつたものと 思われる。「こきし」は王を意味する朝鮮語である。さるほどに若光が王の姓を賜はつ てから十三年目の霊亀二年丙辰に至り、駿、甲、相、両総、常、野、七国在住の高句麗 人に対して、武蔵野の一部を賜ふ旨の優詔が降つた。同時に若光の高麗の郡令に任ぜら れたので、やがて大磯を去つて武蔵高麗郡に赴いたが、その後も大磯の国人等は、長く 王の徳を慕い、中峯の顛に高来神社上の宮を斎き、又その麓には下の宮を建てて高麗王 の霊を祀つた。そして隔年七月の大祭には、飾船二艘を沖に出して、鰒採りに鰒を採 らしめ、それを船中で調理して神前に供へ、舟子たちは祝歌を唱へて式を執り行ひ、王 の高徳を欽仰したといふことである。舟子の唱へる祝歌は次の如きものであつた。

   〽抑〻権現丸の由来を悉く尋ぬれば、応神天皇の十六代の御時より、俄に海上騒がし く、海の者共怪しみて、遙かに沖を見てあれば、唐舟急ぎ八の帆を上げ、大磯の方へ 棹をとり、走り寄るよと見るうちに、程なく汀に船は着き、浦の漁船漕ぎ寄せて、か

(7)

36

糟谷 政和

の船の中よりも、翁一人立ち出でて、櫓に登り声をあげ、汝等それにてよく聞けよ、

われは日本の者にあらず、諸越の高麗国の守護なるが、邪慳な国を逃れ来て、大日本 に志し、汝等帰依する者ならば、大磯浦の守護となり、子孫繁昌と守るべし。あらあ りがたやと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上らせ給ふ。御代より権現様を載 せ奉りし船なれば、権現丸とはこれをいふなれよ。ソウリヤヤンヤイヤン。

   高麗王は今もなほ大磯の里人に崇敬され、高来神社の祭典は、古式によつて盛大に行 はれて居るのである。

 この

1931

年に初版が出た『高麗郷由来』では高麗王若光の上陸地点が大磯であること、

現在も続く高来神社の祭礼である御船祭の権現丸に乗った翁が若光であり、この祭りこそ若 光が上陸した時の様子を再現したものであると主張している。

 しかしこの祝歌については別の理解も可能である。

1907

年に出版された河田熊著『大磯誌』

(冨山房、

1907

年)という本がある。この本に「高来神社」に関する項があるが、権現丸の 船歌は、内容が『高麗郷由来』とほぼ同じであるが、鳥居前の歌を紹介した後に、「此祭は。

神功皇后征韓帰帆の儀に象ると云。」(同、

43

葉)とある。この指摘からも明らかなように 高麗王若光が大磯に上陸したとする物語の背後には神功皇后征韓伝説が前提となっているの であり、注意する必要があると言える。

 さらに注目すべきは、高麗神社第

59

代宮司の高麗澄雄氏(

72

)が次のように語っている ことである(『アサヒグラフ別冊 関東学発見』通巻

4086

号、朝日新聞社、

2000

6

25

日 発行、

126

頁)。

   『続日本紀』には「従五位下高麗若光に王の姓を賜ふ」との記述があります。その若 光が高麗家の始祖にあたるわけですが、若光がこのとき東国に来ていた、とは考えられ ません。少なくともその時点で、都か、いまの滋賀県あたりにいたのでなければ、正史 にその名前が記されることはなかったでしょう。

 さらに高麗澄雄氏は次のようにも語っている。

   高麗神社で配布している小冊子『高麗神社と高麗郷』は現在流布している渡来人の歴 史のひとつの典拠となっています。これは父(五八代・高麗明津)の書いたものを広告 代理店の博報堂に勤めていたおじ(高麗芳野)が引き継いで完成させたものです。

   たとえばこのなかに若光が大磯に上陸したとのくだりがあります。病気になったおじ を見舞いにいったとき、このことについて問いただすと、「小説のつもりで書いた」と、

もともと小説家志望だったおじは言うのです。それがもったもらしい史実として定着し ていったものだから、こっちはおかしくってしょうがないですよ。

(8)

   「若光の故国を去って我が国に投化するや、一路東国を指し、遠江灘より更に伊豆の海を過 ぎり相模湾に入って大磯に上陸した」

 関係者のこのような思いから書かれた『高麗郷由来』(重版名『高麗神社と高麗郷』)中の 高麗王若光の大磯上陸とその大磯から武蔵国高麗郡への移動は、「渡来人の歴史のひとつの 典拠」なっているだけに、改めてその史料的妥当性について明らかにしてゆく必要があると 言えそうである。

5

.日向神社(白髭神社)と高麗王若光

 これまで、高麗神社と高来神社について見てきたが、さらに高麗王若光を祭神とする神社 として神奈川県伊勢原市にある日向神社(白髭神社)がある。その近くには関係の深い日向 薬師がある。その日向神社境内にある説明板の説明文には次のような文章がある。(

2017

6

23

日に筆者が確認)

  日向(ひなた)神社は、

8

世紀に日向薬師を開いた行基に協力を惜しまなかった渡来人、

高麗王若光(こまおうじゃっこう)を讃えて創建され、長い間、白髭神社として知られ、

新編相模国風土記稿、皇国地誌などに記載されている古い神社です。呼び方が日向神社 に変わりましたのは、昭和

8

年(

1933

)で、国が全国の神社資格を調べて整理、無資格 を村社として格上げして村から祭祀料を出す制度にしたことによります。(以下略)

  

 この文章から、日向神社(白髭神社)は、「

8

世紀に日向薬師を開いた行基に協力を惜しま なかった渡来人、高麗王若光(こまおうじゃっこう)を讃えて創建され」たとされているこ とがわかる(高麗王は ʻこまこきしʼ が正しいが)。

 この日向神社について『史跡と文化財のまち いせはら』(神奈川県伊勢原市教育委員会 編集発行、初版

2001

年)には次のように書いてある(引用文は

2014

3

版によった)。

  

  日向神社(白髯神社)

   日向薬師の旧参道入口には、日向の鎮守日向神社がある。御神体は「白髯明神」と 呼ばれる神で、長いあごひげをたくわえ、異国の冠をつけた木像の姿で祀られている。

   天智

7

年(六六八)、朝鮮半島北部にあった高句麗は唐に滅ぼされ、高麗王若光に率 いられた一団は海を渡って日本へと亡命、大磯の浜に上陸し、唐ヶ原(大磯町と平塚市 にこの名が残っている)に居住した。当時、渡来した人々は高い文化をもっていたので、

このあたりには早くから高度な大陸文化がひらけることとなった。

(9)

38

糟谷 政和

   この高麗王若光こそが白髯明神である。その名は、若光が美しい白髯の持ち主であっ たことからつけられたと伝えられている。また、日向薬師霊山寺の開創にまつわる話の 中で、行基に霊木を与えたのも白髯明神である。

   『続日本紀』巻七に、

   「霊亀二年(七一六)五月、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七か国の高 麗人千七百九十九人を武蔵国に遷し、高麗郡を置く」

  とある。このとき、高麗王若光は新たに設けられた武蔵国高麗郡の大領に任ぜられて移 り住み、そこで没した。今では埼玉県日高市の高麗神社に祀られている。

 それでは日向神社の祭神について神奈川県神社庁の見解はどのようになっているだろうか。

神奈川県神社庁編集・発行『神奈川県神社誌』(

1981

年)の「日向神社(白鬚神社)」の項 には、日向神社祭神が「高麗王若光」、境内社「熊野権現社」としており、神社の由緒沿革 は次のようになっている(同書、

358

頁)。

   祭神は高麗(今の北朝鮮)の王族若光で、新羅・百済の両国に滅亡された時一族を率 い日本に亡命、大磯港に上陸し花水川渋田川を上り日向におちついたという。

   毎年七月十八日大磯町高来神社の祭礼に権現丸と明神丸の漁船が海に出る海上祭に第 十五代応神天皇の御代に権現丸に突如白鬚の老翁が現われ、若光と称し、高麗大権現と して現在高来神社の合祀されている。若光は元正天皇の霊亀元年名僧行基が日向山に止 まり、良材を求めて薬師仏三像を造ろうとしたが良材なく、この若光が数尺の香木を行 基に与え薬師像を造らし、国宝日向薬師寺建立功労あり、その参道に神社を建立した。

   若光の没後子の勝楽の子弘仁は埼玉県日高町の高麗神社の脇に勝楽寺を建立、祖父若 光を弔った。境内に若光の墓がある。

   若光は朝廷の信任篤く、文武天皇の文宝三年従五位と五姓を賜わった。現在の社殿は 桜町天皇延享二年(一七四五)の創建で、本殿には若光と熊野権現の二体の神像が安置 されている。社格は旧村社である。

 さらに基本的な史料として天保

10

年(

1832

)に成立した『新編相模国風土記稿』巻

51

村里部、大住郡巻

10

の記述を紹介したい。なお引用は雄山閣再版(

1958

年)によった。旧 字は俗字にしてある。

 「熊野白髭神社合社」の項につぎのようにある。

  村の鎮守なり、神体共に木像長各一尺四寸八尺日向薬師を本地仏とせり、霊亀二年二月行基日向山に 登り、薬師像を彫刻せんとする時、此二神出現して基に霊木を与ふ、依りて爰に祀れる 由、薬師縁起に見えるたり其文薬師堂條に出す

(10)

  「薬師堂」の項につぎのようにある。

  霊亀二年二月行基薬師の告に依て当山に登り、薬師の像を彫刻して安置せんと欲す、時 に熊野白髭の二神出現して基に霊木を与ふ、則是を以て像を作りて安置す、此事叡聞に 及びしかば則詔を下し、堂宇造営ありて勅願寺とせらる。

 以上、日向神社(白髭神社)の祭神を高麗王若光とする記述やその根拠となる史料をあげ てみたが、なお詳細な検討は今後の課題である。

1 拙稿「高麗神社(埼玉県日高市)を訪ねて―“地域の中の朝鮮” を学ぶための教材研究―」『茨城 大学人文学部紀要コミュニケーション学科論集』第6号、19997月。同「高麗神社(埼玉県日高 市)再訪―朝鮮植民地支配の残影―」『茨城大学人文学部紀要コミュニケーション学科論集』第13 号、20033月。同「高麗神社・聖天院(埼玉県日高市について―“地域の中の朝鮮” を学ぶため の教材研究―」『茨城大学人文学部紀要コミュニケーション学科論集』第17号、20053月。『茨城 大学人文学部紀要コミュニケーション学科論集』第11号、20023月。同「高来神社(神奈川県中 郡大磯町)再考―高来(たかく・こうらい)と高麗(こま・こうらい)の混在について」『茨城大 学人文学部紀要コミュニケーション学科論集』第14号、20039月。

2 拙稿前掲論文「高来神社(神奈川県中郡大磯町)再考―高来(たかく・こうらい)と高麗(こま・

こうらい)の混在について」『茨城大学人文学部紀要コミュニケーション学科論集』第14号、2003 9月。

3 『大磯町史1 資料編 古代・中世・近世(1)』大磯町編集・発行、2006年、304-306頁。

4 『新編相模国風土記稿』巻41、村里部、淘綾郡巻3の高麗寺村の「高麗権現社」の項で、「高麗権現社」

は「神功皇后三韓を征せし頃高麗の神を当所に勧進ありしと伝へ(以下略)」とまとめられている。

さらに『箱根神社大系上巻』(箱根神社々務所、1930年。なお同書は各著出版から1980年に復刻さ れている。)に収録されている(同、11-17頁)。

5 高麗明津『高麗郷由来』高麗神社社務所、1931年初版。

6 注(2)と同じ。

7 大磯町教育委員会著『おおいそ』大磯町教育委員会発行、1972年。その後改訂されて書名/内容が 変わった。2016年には、大磯町教育研究所社会科副読本改訂部会編『わたしたちの大磯』[平成

28年度第4版再々改訂版](大磯町教育研究所発行、2016年)となった。

8 高麗文康氏は、高麗王若光が大磯に上陸し、後に高麗郡へ移動したとする考え方を踏えて、歴史 ロマン小説『陽光の剣 高麗王若光物語』(幹書房、2013年)を刊行した。さらに高麗文康協力・

監修、比古地朔弥まんが『まんが高麗王若光物語』(埼玉新聞社、2016年)がある。

9 『朝鮮の國名に因める名詞考』朝鮮総督府中枢院調査課編、朝鮮総督府中枢院発行、1940年、

17-19頁。

参照

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