J.ロビンソンにたいするR.L.ミークの批判の有効性 について : マルクス経済学からケインズ経済学へ の接近に関する考察(1)
その他のタイトル On Some Approaches from Marxian Economics to Keynsian Economics : I. Effectivity of R. L.
Meek's critique to J. Robinson
著者 鶴嶋 雪嶺
雑誌名 關西大學經済論集
巻 7
号 8
ページ 787‑800
発行年 1958‑04‑10
URL http://hdl.handle.net/10112/15635
L . M e e k
は
し が き
J
﹁ケインズとマル
六
の関係を見出そうとするものではなく︑ケインズなどにたいし
鶴
嶋
ー マ ル ク ス 経 済 学 か ら ケ イ ン ズ 経 済 学 へ の 接 近 に 関 す る 考 察 山
1
本 小 論 は
︑ R . L
・ミークの近業﹃労佑価値説研究﹄
( R
o n
a l
d
S t
u d
i e
s
i n T h e
L a
b o
u r
T
h e
o r
y
o f V a l u e , L o n d o n
1 9 5 6 ) の検吟四を中̲心にして︑ケインズ対マルクスとい
う問題の︱つにたいするささやかな考察を試みたものである︒
ミークの労仇価値説研究は︑ミーク自身その序文に明記して
い る よ う に ︑
J
・ロビンソンとの論争を契機にして書かれたも
の で あ る
︒
J
・ロビンソンは周知のようは︑
クス﹂の関係がさかんに問題とされる理由を︑ケインズが正統
派の均衡理論に対抗する立場をとったときにはじめて近代経済 学者がマルクスと議論をたたかわせる共通の場を得たといつて
( 1 )
いるポスト・ケインジアンの代表的存在である︒ミークはこの
本 に よ っ て ︑
がしばしば問題とされたので︑非マルクス主義者にたいしても
少くともマルクス主義者が何をつかもうとしているかを知らせ
ることのできる両経済学間のかけ橋をかけようと意図したので
( 2 ) ( 3 )
あった︒ファン・フンや
S・アレキサンダーなどのようにケイ
ンズ経済学とマルクス経済学との間に補充の関係あるいは近縁
てマルクスの正当性あるいは有助性を示そうとするものではあ
るが︑アーロノヴィッツやヴォローディンなどのようにケイン
J
・ロピンソンにたいする
R . L
・ミークの批判の有効性について︵鶴嶋︶ ロビンソンとの論争において労佑価値説の有効性
R . L
ミークの批判の有効性について
ロ ビ ン ソ ン に た い す る
雪
嶺
ン も
︑
マルクス経済学に優れた面のあることを認めている︒た いて︑アカデミックな経済学者によって提起された問題を解く
( 6 )
ことのなかに存在すると思われる﹂といつているのである︒と
ころで︑この資本主義的恐慌と経済発展の問題では︑ロビンソ
だ︑ロビンソンなどは︑これと労仇価値説との結びつきを認め︱
( 6 )
ず︑労佑価値説が無用の長物であるとするのである︒したがつ くしにとつては︑経済学の進歩の希望は︑ マルクスの方法を用 意を資本主義的恐慌と経済発展の問題にむけているので︑わた るものである︒そして︑ [アカデミックな経済学者が彼等の注
そのために︑まず︑ ロビンソンなどの動態経済学がケインズ
J・ロピンソンにたいする
R.L
・ミークの批判の有効性について︵鶴嶋︶
ズ経済学を単に独占資本のイデオローグとしてすましてしまつ
たり︑あるいは﹃資本論﹄や﹃経験批判論﹄がすでにこれらを
も論破してしまつているといった粗雑な批判を行おうとするの
いなかったことを認めるジョン・イートンはその最もよい例で
( 5 )
あろう︒ミークも︑ロビンソンなどにたいして︑あくまでも経
済理論のデメンジョンで論理主義的に批判しようと意図してい て︑労佑価値説の有効性をロビンソンなどにも説得しようとす るミークの意図は︑労仇価値説を基礎にすることによって恐慌 や経済発展などの資本主義経済の諸現象が最も明瞭に理解でき ること︑この労仇価値説ぬきでなされる資本主義恐慌や経済発 展の解明がどのような限界をもつものであるかを明示すること によってはたされなければならない︒ところが︑本書において の方法を用いて解明する試みはなされていない︒ロビンソンな どのマルクス批判がどのような限界ないし欠陥をもつかさえ充 分に示されていない︒両経済学間のかけ橋というミークの意図
は︑ただ彼の夢を明らかにしただけで︑具体的に理論として展開
されることなく終ったのである︒このミークの夢みたかけ橋が
なぜ現実化されなかったのか︒そのプランにはどのようなそご
があったのか︒このことを追究するのが本小論の目的である︒
の理論を基礎にしてどのように展開したかを一瞥する︒ハロッ
ド︑カルドア︑ロビンソンについて︑ケインズが人口と技術を
独立変数として取扱ったことにたいする検討が︑いかに古典学
派分配論にたいする反省を媒介にして行われたかをみておくこ はじめている︒自らのケインズ批判が目標にちつともあたって は︑このロビンソンなどによって提起された諸問題をマルクス たいする反省は︑マルクス経済学者の間でも最近かなり行われ ないままに的外れのイデオローギー的批判を行ってきたことに ではない︒ケインズ経済学にたいしてその内容を十分に理解し
六
とが︑ミークのロビンソン批判の挫折した原因を知るために必
要だと考えたからである︒ロビンソンの理論が︑ケインズを基
礎にし古典学派およびマルクスの経済学を振返ることによって
作り出されたものであることを理解し︑そのような方法の弱点
れえたと考えるからである︒そして︑ミークのロビンソンヘの
解答を一瞥した後に︑その解答の不明瞭さとミークの﹁ケイー
註
( 1 )
J .
R o
b i
n s
o n
, '
M a
r x
o n U n
e m
p l
o y
m e
n t
' ,
c E
o n
o m
i c
J o u r n a l ,
J
u n
e
︑S e
p t .
1 9
4 1
( 2 ) F a n
g ,
Hung,'Mr•
K e
y n
e s
n a d M a r x i n t h e o r y
o f
c a p i t a l
a c
c u
m u
l a
t i
o n
,
m o n e y a n d i n t e r e s t r a t e
' ,
R e
v i
e w
o f E
c o
n o
m i
c S t u d i e s , O c t . 1 9 4 9 .
玉井竜象
訳編﹃ケインズ経済学批判﹄所収︒なお﹁マルクスと
ケインズ﹂に関する諸説の評価については宮崎義一
﹁ケインズとマルクス﹂︵﹁経済学説全集﹄︶︒参照
( 3 )
5 :
5 .
Alexander,'Mr•
K e
y n
e s
a n d M
r .
M a r x ' ,
R e
v i
e w
o f
E c
o n
o m
i c
5 t u d i e s F e , d .
1 9
4 9
( 4 )
K .
A a
r o
n o
v i
t c
h ,
' R
e v
i e
w s
"
M a r x a g a i n s t K e y n e s ' ,
T h e M o d e r n Q u r t e r l y , S u m m e r 1 9 5 1 . W . S .
W o
l o
d i
n ,
K e
y n
e s
, e i n I d e o l o g e
d e
s M o n o p . o l k a p i t a l s
ヴォローデイン﹃ケインズ批判﹄
( 5 )
ジョン・イートン﹁マルクス主義経済理論の論問題﹂
︵長洲ご一編﹁現代資本主義とマルクス経済学﹄大
月書店所収︶
( 6 )
R .
L . M
e e
k ,
" S t u d i e s
i n
T h e
L a
b o
u r
T
h e
o r
y o f
V a
l u
e '
L o
n d
o n
, 1 9 5 6 . p . 2 3 8 ( 7 )
ロビンソンのこのような業績としては
' M
a r
x o n
U n
e m
p l
o y
m e
n t
' ,
An
E s
s a
y o n M
a r
x i
a n
E c
o n
o m
i c
s ,
L o
n d
o n
,
1 9 4 2
; ' T h e L
a b
o u
r
T h
e o
r y
o f V a l u e ' ,
E c
o n
o m
i c
T o u r n a l ,
T i
m e
l 9
5 0
;
"
T h e
R a
t e
o f I n t e r e s t
" ,
︑ I o n
d o
n ,
1 9
5 2
; O n R e , R
e d
d i
n g
M a r x
̀
C a
m b
r i
d g
e
̀ 1 9 5
3
など
が右
2名
であ
る︒
J・・ロピンソンにたいする
R . L
・ミークの批判の有効性について︵鶴嶋︶
であ
る︒
ビンソンにたいする明快な解答のための足懸りを探したつもり ズ革命﹂と﹁限界革命﹂にたいする評価との関係を検討し︑ロ ないし欠陥を明らかにするときにこそ︑最も有効な批判がなさ
六 ︱
りかえることによって︑経済成長理論の新しい展開を意図した ︐ぃ.つれもケインズの理論を基礎にしながら旧古典派経済学をふ ド
ア︑
ロビンソンなどぃ.つれもそうである︒これらの人達は︑ で︑古典学派分配論への反省が行われている︒ハロッド︑カル 短期静学から長期動学へと新しい理論的展開がなされる過程
I
動態経済学の展開と古典学派分 配論にたいする反省
る︒リカードにおいては︑所得分配関係の変化が長期経済変動 動学の基礎におくという意図そのものを放棄したようにみえ考えを支える有力な証拠であると考えた︒とくに人口増加は経 経済学に求めた︒ハロッドによれば︑古典経済学は静態的要素と動態的要素を保底等しい割合で含んでいた︒ところが︑この動態的要素は︑今日の新しい経済学のうちには遺算として残らなかった︒それは静態分析が限界概念と数学的表現によって洗練され完成されたために︑動態分析が失われたからであるとい
( 1 )
うのである︒そして︑リカードの経済発展理論をきわめて高く
評価し︑それと対比しながら︑ハロッド自らの動学の展開を試
みるのである︒しかし︑ハロッドは︑リカードの経済発展理論
の分配論をハロッド自らの動学の基底におこうとはしなかつ
た︒ハロッドが彼の動学の基礎においたのは︑ケインズ的な貯
蓄︑投資理論であった︒リカードの分配論を支える原理は︑収
穫逓減の法則とマルサス的人口法則の二つである︒
は︑この二つの原理をともに放棄することによって︑分配論を
済成長の条件であると同時に︑その結果である︒そのことは︑ とかというようなものではなく︑社会過程の所産であるという
ハロ
ッド
う二つの要因が人間活動とはまったく不依存的な気候とか季節 それ自体が︑趨勢の背後に横たわる人口増加と技術的進歩とい 的性格であることをあらためて力説したが︑なおこのリカード
がら
も︑
る︒また︑ひとしく人口と技術とを長期変数としてとりあげな
( 2 )
ハロッドは︑ケインズの﹁人口逓減の経済的結果﹂に
おけると同様に︑これらを外在的な独立変数として取扱った︒
これらは︑古典経済学においては︑むしろ内在的な従属変数と
なっていたものである︒これらの点におけるハロッドの古典経
人口と技術を独立変数として想定することにたいする反省
( 3 )
は︑カルドアによってなされている︒カルドアは︑異った社会
が異った成長率をもっているというきわめて顕著な歴史的事実 を高く評価し︑それを支えている支柱がリカード分配論の動学
こと
にな
った
︒
所得の分配を決定する諸力は与えられたものと想定されてい
まず
︑
ハロッドは︑その動態論の想源をリカードなどの古典
ので
ある
︒
つては︑ケインズの﹃一般理論﹄におけると同じように︑国民
済学からの離反は︑はたして十分正当化されるかどうか︒この
ような反省が︑また︑経済成長論の展開の過程で取上げられる の方向を規定することになっていた︒ところが︑ハロッドにあ J・ロピンソンにたいする
R.L
・ミークの批判の有効性について︵鶴嶋︶
六四
る︒では︑人間社会において経済成長率を規定する究極的な要
因は何であるか︒それは︑危険負担と営利にたいする人間の態
の関心と精力を営利に集中する近代企業者は︑明らかに資本主
義社会の所産であった︒しかし︑近代資本主義の生成は︑個人
の自我に表現を与える手段を危険負担と営利のうちに見出そう 動如何によって引上げることも︑また引下げることも可能であるということである︒このように考えることによって︑ハロッ率を越える度合が大きければ大きいほど︑適正成長率を自己の
方向へ曲げる度合がますます大きくなるであろうというように
̀ '
表現することができるのである︒カルドアは︑この自然成長率
J・ロピンソンにたいする
R.L
・ミークの批判の有効性について︵鶴嶋︶ ことはできない︒長期にわたって高い発展率を示す経済は︑予
六五
と適正成長率との相互依存の可能性を︑ケインズ派の分配論を とする精神的態度が高まったことの結果として以外に説明する 率と自然成長率との間の離反の問題は︑適正成長率が自然成長 度のうちに見出されなければならない︒きわめて投機的で︑そドが経済の長期趨勢を規定するものとして重要視した適正成長 かったのであって︑発展の初発的な原因ではなかったのであの理論的な極大値によって決定されるのではなく︑企業者の行 増加の巨大な流れは︑それ自体社会的諸力の産物にほかならな マルサス的な状態についてばかりでなく︑人口増加が経済成長の受動的な結果であるようなばあいにも︑急速な経済成長による深刻な労仇不足が人口増加を直接剌激するようなばあいにもあてはまる︒同じことは技術的進歩についてもいうことができな所産であるが︑その出現と頻度とは多分に環境の所産であ
る︒近代資本主義の発展と結びつく加速度的な技術的進歩は︑
本質的には︑社会の内在的な諸力の産物であった︒資本主義の 想が過度に楽観的であるほど明る<︑高くかつ増加してゆく利潤が将来にまで続くものと考えられて︑過度の拡張となるような堅実でない計画が急いで採用されるというような経済であり︑成長率の低い経済は︑企業者が堅実で用心深く︑そのときん︑長期経済成長は単純に企業者の冒険的態度の度合だけの問題ではない︒常に極大可能な貯蓄率や拡大可能な人口増加率や拡大可能な技術的進歩が存在するという意味において︑限定的
な条件は存在する︒しかし︑重要な点は︑与えられた社会︑与
えられた時代におけるこれら三つの変数の実際の値は︑それら 発展にともない︑またその発展を可能にした技術的進歩と人口 る︒新しい着想は︑それ自体としてみれば︑人間頭脳の自発的どきの事態に対して緩慢にしか反応しない経済である︒もちろ
792
J・ロピンソンにたいする
R.L
・ミークの批判の有効性について︵鶴嶋︶
数理論を分配論の側面からみ直して︑これをマルクスの分配論
と対比させるなかで、それを試みているのである。•
周知のように︑ケインズは分配論を展開したことがない︒む
ものを含んでいるのである︒乗数理論がそれである︒乗数理論
いには産出高および雇用水準決定の理論となり︑産出高および
雇用が与えられているばあいには物価と賃金の関係の決定に適
用することができる︒乗数理論のこれら二つの使用は両立し難
て認識するならばこの二面的使用が可能となると考えたのであ
ルクス︑限界学派について比較検討した後にケインズ派分配論
の展開に移つている︒カルドアは投資の変化が所得分配関係を
変化させることを通じて貯蓄を変化させ、貯蓄•投資の均衡を
回復させるという乗数理論の一面を明らかにし︑これと関連し る︒そして︑まずこれまでの代表的な分配論を︑リカードやマ いものではない︒一方を短期理論として︑他方を長期理論とし
とされるか
(C
)
︑第二に生産の拡張率を左右する需要の成長
一 に︑
一定景の生産額を拡張するためにどれだけの投資が必要 ハロッドの成長率の定式によれば︑ 係な独立変数として扱われるというケインズ的仮説に往かなら は︑物価と賃金の関係すなわち分配関係が与えられているばあ の問題にたいするよりは︑むしろ分配の問題にあてはまりうる カルドアによると︑ケインズの分析用具は生産の一般的な水準 の伸縮性の巾を示すことによって経済成長の型を示唆したのである︒カルドアのこのケインズ派分配論の展開による動態理論でいる︒すなわち︑簡単化のため労仇者はその所得を全部消費
p 1
すると仮定すれば、分配率の決定式は簡単に~111
ーc·
という定式で示される︒この式は
I I I ( 1
Y
p C ) │
というI
投資貯蓄の均等式から導かれる︒ここにP
は利
潤︑
Y
は所
得︑
ーは投資を示し︑Cは資本家の消費性向を表す︒この定式に含
まれている考え方は︑投資率
I‑
Y
が︑消費性向の変化に無関
ない︒ところで投資率は︑
b Y
生産の拡張率
G
( = ‑ v ‑ )
と資本係数Cに依存する︒すなわち
=G‑C
である︒かくて上記二式から︑利潤分配率P‑
Y
I
は︑次の三つのものに依存して決定されることがしられる︒第
率
(G
)
にたいして︑企業がいだ<期待︑そして︑第三に企業 しろ︑分配要素を価格現象として扱うものであった︒しかし︑発展の試みは︑すぐれてマルクス経済学との対決の要素を含ん 互依存の可能性を明らかにすると同時に︑利潤率および賃金率 展開することによって明らかにしている︒彼は︑ケインズの乗て︑ハロッドの理論を批判し︑自然成長率と適正成長率との相
六六
た︒生産を機械化するための技術的機会が豊富であればあるほ
J・ロピンソソにたいする
R.L
・ミークの批判の有効性について︵鶴嶋︶ ど︑資本蓄積率が人口増加に比ぺて緩慢であればある低ど︑競
六七
同様に︑収穫逓減の法則もマルサス法則も長期動学の基礎から 革新に希望を託している︒ロビンソンにおいては︑ハロッドと
して
︑
この
論文
で︑
次のような予備的な結論を導き出していものの作用を阻止し︑利潤率低下を阻止するものとして技術的 的諸力の従属変数と考えられるばあいについてのぺている︒そ率の騰貴と利潤率の低下を導き出し︑この収穫逓減の法則その 数と資本の理論﹂で︑技術的進歩がハロッドのいうように﹁天からの慈雨﹂として把えられるべきものではなく︑経済の内在のであった︒リカードのばあいには︑収穫逓減の法則から賃金 的な社会︑および進歩率の後退しつつある社会を区別していた 途﹂にたいする書評のなかで批判している︒そして︑
﹁生
産函
のとして把えていることにたいして︑直接に﹃動態経済学への
ロビ
ンソ
ンは
︑
ハロッドが自然成長率を自然に与えられたも 考えているようである︒このカルドアのマルクス経済学との対ンによって最もよく発揮される︒かわらず利潤率が高く維持されているばあいには賃金率はきわめて低い︒このようなロビンソンの資本蓄積論は︑われわれに
スミスとリカードの理論を思い出させる︒スミスは﹃国富論﹄
第三篇において︑同様な観点から︑進歩率の急速な社会︑定常 決のななかで動態経済学を発展させようとする試みはロビンソえて上昇しつつあるばあいであって︑技術的進歩の停滞にもか 潤がその残余として決定されるという考方への批判を試みたと わち賃金がまず生存のための替低賃金で決定され︑それから利 式によって示されるモデルによってマルクス学派の分配論すな よるケインズ分配定式からの結論である︒カルドアは︑上記 ば︑賃金はその残余として決まつてくる︒これが︑カルドアに か
くて
︑
この三つに依存して利潤の分け前が決定されるなら の投資支出を左右する資本家の消費性向
( C )
がそれである︒
利潤率は高く︑実質賃金は低い︒競争の度合と人口増加率とが
与えられていると︑・長期にわたる利潤率の傾向は︑技術的進歩
と資本蓄積率の相互関係に依存する︒繁栄的な資本主義経済
は︑急速な技術的進歩にもかかわらず利潤率が低下しつつある
ばあいであり︑悲惨なのは︑技術的進歩の停滞にもかかわらず
利潤率が高いばあいである︒急速な技術的進歩にもかかわらず
利潤率が低下しつつあるばあいは︑賃金率が技術的進歩率を超 争力︵労佑者の団体交渉力をも含めて︶が弱ければ弱いほど︑
794 あ る
︒
ことをはつきりとみつめてロビンソン批判を行わなければなら からさらにはマルクス経済を振返りながら行われたのである︒ を目指して努力を重ねてきたことは︑わが国でもよく知られた マルクス的失業の発生を説明することのできる近代理論の樹立 た上でもなお成立するマルクス的失業の範嗜を発見して以来︑
J・ロピンソンにたいする
R.
L.
︑ークの批判の有効性について︵鶴嶋︶
排除されている︒しかし︑経済発展の将来への望みを技術的革
新に託していることには共通のものがみられる︒ロビンソンの
資本蓄積論は︑しかしながら︑単に古典学派をふりかえること
ると公言するくらいのマルクス経済学にたいする検討があるの
である︒一九四
0年代のはじめに︑その独特の﹃資本論﹄研究
によって︑ケインズ的失業概念の仕かに︑セイの販路説を認め
事実である︒このように︑経済成長論の展開は︑古典派経済学
ロビンソンはその流れの一つの頂点に位する︒ミークは︑この
なかった︒的をみつめなければ矢ほ的にあたらない︒両経済学
間のかけ橋を夢みたミークの意図の挫折は︑ここから始るので
註 (1)
R.F•
H a r r o d , T o w i i r d s a
D y n a m i c E c o n o m i c s ,
ス主義者よりも一層十分にマルクスを理解しているつもりであ によって得られたのではない︒彼女のばあいには︑自らマルク
六八
1 9 4 9 , p l 5 f f .
i
扁雄洒長太郎︑鈴木諒一共著﹃動態経済 学説﹄一九頁以下
( 2 ) J.M•
K e y n e s ,
^ ^
S o m e E c o n o m i c C o n c e q u e n c e s f o
a
D e c l i n i n g P o p u l a t i o n "
E c o n o m i c R e v i e w ,
A p r . 1 9 3 7 (3)N•
K a l d o r ,
^
'
E c o n o m i c G r o w t h a n d C y c l i c a l F l n c t u a t i o n s , "
E c o n o m i c J o u r n a l ,
M a r c h 1 9 5 4 . (4)N•
K a l d o r ,
"
A l t e r n a t i v e T h e o r i e s o f E c o n o m i c S t u d i e s ,
"
1 9 5 5
ー
5 6
, V o l . X X I I I
( 2 ) ,
N
o . 6 1
( 5 ) J . R o b i n s o n ,
"
T h e P r o d u c t i o n F u n c t i o n a n d h t e T h e o r y f o C a p i t a l "
R , e v i e w o f E c o n o m i c S t u d i e i ! , 1 9 5 3
‑ 5 4 , V o l X . X I (
2 ) ,
N o . 3 5 .
なおロピンソンの近
著 ﹃ 資 本 蓄 積 論 ﹄ A c c u m u l a t i o n o f C a p i t a l , L o n d o n , 1 9 5 1
は︑この論文でのべていることを中核に集大
成したものといわれている︒なお以上ハロッド︑カ
ルドア︑ロピンソンという展開の評価については︑
岸本誠次郎︑塩谷九十九︑吉田義三氏の諸論文を参
ミークのロビンソン批判
照 ︒
説を否定する経済学者を批判した﹁マルクス労佑価値説﹂
T h e
( 1 )
C r i t i q u e o f T h e M a r x i a n L~bour
T h e o r y
に お い て で あ る ︒ ミークがロビンソンを直接の対象にしているのは︑労佑価値
ークスは︑いかに相対価格が決定されるかを示す理論からはじめ
ることが必要であると考えていた︒彼等の見方が巨視的であっ このような断定だけでは︑すでにみたようにケインズの巨視
的分析を基礎にしながら古典学派分配論への反省を媒介にして
J・ロビンソンにたいする
R.L
・ミークの批判の有効性について︵鶴嶋︶ はなくなるものでも無視できるものでもない︒リカードとマル る︒しかし︑リカードとマルクスの問題においては︑相対価格
六九
理論を展開させてきた動態経済学者への説得的な解答とはなら ればならない︒
なか
った
︒
ケインズの問題においては︑相対価格は無視され 産出斌が︑賃金︑地代︑利潤に分配されることには関心をもた する問題に関心をもった︒しかし︑少くとも直接には︑この総 た︒ケインズはロビンソンのいうように︑産出量全体を決定 ストの価値の概念を誤解したものである︒マルクスの価値の概 ロビンソンがマルクスの価値の概念を誤解してい ロビンソンは︑マルクス価値論をまったくドグマ的なもので ここでロビンソンなどケインジアンにたいして語られているのは次のようなことである︒あ
り︑
マルクスの価値論と価格論とを和解させようとする努力
はまったく形式的であり︑平均と総量との間を行ったりきたり
しているものにすぎないといつているが︑これはまず︑
マル
キ
念は︑計算の単位を提供するものではなく︑いかに交換の比率
が決定されるかを示す理論にたいして基礎を提供するものであ
しか
し︑
る︒第二に︑ケインズは正当にも微視から巨視へと問題を返し
はし
たが
︑
リカードの問題にまでたちかえらなかつ
る ︒ るのである︒ところで︑第一の指摘点にたいしては価値から価 配論を欠いているために不充分であるということとをあげてい るということと︑ケインズの巨視的分析が価値論にもとずく分 いもなくマルキストがなげいていることの︱つなのである︒ のなかではたす役割をまった<誤解している事実こそ︑うたが のことをみているようには思われず︑価値論がマルクスの体系 な意味における価値論が必要であると考えた︒ロビンソンがこ たので︑分配の問題を解決できるようになるためにほ︑伝続的
( 2 )
格への転化の問題などについてかなり詳細に論じている︒しか
し︑第二の点については︑ただ次のように断言するだけであ
もしも︑価値と分配の理論を望むならば︑大まかな事実や
単純な考察が示す表面的な一般化で満足できず︑これらの
事実をより深くより根本的な理由で説明しようと試みなけ す
なわ
ち︑
796
J
・ロピンソンにたいする
R.L
・ミークの批判の有効性について︵鶴嶋︶
ない︒ミークにとつては︑リカードの分配論からさらにマルク
スの再生産論およびこれにもとづくローザ・ルクセンプルグの
( 3 )
資本蓄積論を振返ったロビンソンが︑価値や剰余価値は経験的
析する理論のロースを捨ててしまったのだということを示さな
たのである︒また︑ここでミークがのべているようなケインズ
にたいする批判は︑そのままではロビンソンなどの動態経済学
者にはあてはまらないのである︒たしかに︑ケインズは︑ミー
︑クも指摘するように︑分配論を価格論に解消し︑少くとも直接
には産出量が賃金・利潤・地代にいかに分配されるかについて
はのべていなかった︒しかし︑この分配論こそ︑短期静学から
長期動学へと新しい理論的展開がなされる過程で︑再びクロー
ズ・アップされたものだからである︒この分配論への反省を媒
介にした動態経済学の意義を認識するとき︑巨視的分析には価
値論にもとずく分配論が必要であるという指摘から︑さらに一 クなりの断定をあびせるだけで︑説得的な証明を欠いてしまつ いままで終つている︒ロビンソンにたいする批判は︑ただ︑ー
﹁経済思想史におけるケインズの位置﹂は︑﹁ケインズ革命﹂ の評価についてみよう︒ ﹁経済思想史における ミークの分配論とが対置され︑価値論にもとづく分配論がどれ 低ど巨視的分析をすぐれたものにするかが明示されなければな らないということが︑おのずから課題として把握されたことで が結実しないままで終るにいたった穎きの石は︑短期静学から 長期動学への展開の過程でなされた努力を無視したところにあ ったのであるが︑このミークの過ちは︑ミークのケインズ経済 の評価そのものに由来しているのではなかろうか︒ミークは︑ 一 体 ︑
J.S
・ミル以降の近代経済理論にたいしてどのように
評価していたのであろうか︒ミークの﹁限界革命﹂と﹁ケイン
( 4 )
﹁﹃限界革命﹄とその結果﹂およ
びモダン・クォータリーに掲載された
( 5 )
ケインズの位置﹂にのべられている︒まず︑ ければならなかったはずである︒この指摘は具体的に果されな
﹁ ケ イ ン ズ 革 命 ﹂
の限界を明らかにしようとしたものである︒
そこでは︑まず︑セイの販路説とケインズとの関係がとりあ ズ革命﹂にたいする評価は︑ このように︑ミークのケインジァの巨視的分析にたいする批判
であるるといつて価値論を切捨てたときに︑実は経済発展を分あろう︒ に把握できるものでなく︑このようなものを論ずるのは無意味 歩踏み込んで︑動態経済学の古典派分配論にたいする反省と︑
七〇
区別を無視したが︑これにたいしてミークはマルクスにしたが
関心をもつ経済学とこの洞察のできない経済学とこそが俊別さ
の体系のなかでは︑資本蓄積があまり急速に進むと商品の一般
的過剰をひきおこすかもしれないという地主などの不生産的消
てお
り︑
費者の代弁者たちにたいして非常に有効な回答として用いられ
︱つの進歩的な役割を果していた︒それに反して︑資
本主義の全般的危機の段階におけるビグーの理論にあっては︑
一般的過剰生産が論理的に起り得ないことを強調する販路説
﹁リカード後の経済学
者たちによるセイ法則の容認は︑資本主義的恐慌の性質に含ま
れる秘密の解明に︑かれらが失敗した根本的な理由のうちのご
く一小部分にすぎない︒その失敗は︑結局のところ︑正統派の
経済理論がいまや生産者間の社会的諸関係を捨象したという事 接近していた﹂といつて︑たんにセイ法則をしりぞけるだけでは︑近代の経済思想の癒疾をいやすものではなく︑て︑販路説を排して有効需要説に基くケインズの理論も︑それ
また︑ケインズの関心が与えられた所得の最適配分に向けら
れずに所得の運動の諸原因を探究することにむけられたことか
たいして︑ミークは︑古典学派の蓄積論が長期を問題にしてい
総所得量の函数として表わされ︑リカードが彼の出発点と考え
その類似点よりは相違点の方が一層重要であるとする︒
このようにマルクスの方法にしたがつてケインズを古典学派
および新古典学派と対比してきた︑ミークは︑ケインズを古典学
J
・ロピッソンにたいするR•L
・ミークの批判の有効性について(鶴嶋) 実によるものであった︒リカードは︑セイ法則を容認したけれ七
つて﹁ケインズ革命﹂の限界をより明らかにしようとするので 派の労仇価値説を継承し完成したマルクスと対比することによ を果していることを指摘する︒そして︑ようとしていた階級的区別はほとんど完全に捨象されていて は︑明らかに資本主義の根本的矛盾を蔽いかくす反動的な役割 ているばかりでなく︑ケインズにあっては︑貯蓄は社会全体の るのにたいしてケインズは短期を取扱っており︑ねらいが異つ ら新古典学派から古典学派への逆転とするケインズヘの評価に れなければならないと強調する︒そして︑販路説は︑リカードというのである︒ までの経済学に革命をもたらしたというには多くの限界をもっ つて︑プルジョア的生産関係の内的関連の解明に︑第一義的な ビグーとを一括して把え︑古典学派といわゆる俗流経済学との げられている︒ケインズはセイの法則を基準にしてリカードと
したがつ ども︑大部分の新古典派の経済学者たちよりもはるかに現実に
798
に剰余価値率をひきあげようとする資本家側の意図と結びつい
つまり︑ケインズをマルクスと対比させることによって︑ミ 資本蓄積の増大が一般に資本の有機的構成の増大と結びついて決定するものではないと主張し︑それら要因の影響の性質は特 J・ロピソソンにたいするR.L・ミークの批判の有効性について︵鶴嶋︶
ある︒ここでは︑ケインズが有効需要に基いて景気循環の問題
に関心を示したことに焦点が置かれる︒ミークは︑
する鍵であることをともに十分理解していたことにあり︑両者
の間の最も重要な相違はこの投資の変動の背後によこたわるカ
がその分岐点をなすと考える︒そして︑その相異を次のように
いは︑もっぱら有効需要の変動という表現でなされた︒シュン
'ペーターがケインズの体系においては設備の新設や変化に附随
は︑生産技術︑ マルクスと
工場設備の大きさなどを一定のままと想定し
た︒これにたいしてマルクスは︑利潤率に生じる長期的変化は︑
考えられるという技術的変化の分野と︑資本蓄積の増大が一般
て考えられる二つの主要な社会的階級間の関係の分野と︑この
二つの分野の変動傾向の衝突の結果決定されるものであると考 クスとケインズの相異は本質的につぎの点にある︒すなわちマルクスは恐慌を資本主義的生産様式に固有な矛盾という表現で説明するのに︑ケイスズは生産様式を単に与えられた一要因として取扱つている︒もし社会的構造︑現存の技術︑競争の程度消費性向︑資本の限界効率および利子率︶は従属変数︵雇傭批と国民所得︶を決定するであろう︒もちろんケインズも所与と考えられた諸要因が事実上たしかに独立変数に影響を与えることを認めている︒しかしかれはその諸要因が独立変数を完全に殊のばあいを除いて研究される必要はないという仮定のもとに議論を進めている︒他方︑マルクスにとつては︑この方面の探
究こそまさに決定的な重要性をもつことは明瞭である︒ 象は考察以外におかれるのであるといったように︑ケインズ するすべての現象すなわち資本主義的経済過程の中心をなす現 などが与えられたものとされるならば︑そのときは独立変数︵ 説明する︒利潤率の運動の決定要因にかんするケインズの取扱 について非常に異なった説明を与えていることであり︑利潤率 みはどのようなものでも批判したことであろう︒要するにマル の矛盾の分析から出発しないで景気循環を説明しようとする試 ケインズとの最も重要な接触点は投資の変動が景気循環を理解高度の増殖という資本主義的生産様式の直接の目的とのあいだ 生産諸力を絶対的に発展させるという資本価値の維持とその最 えている︒そして︑資本主義的生産様式の根本的矛盾すなわち
七
799
しようと試みているのにたいして︑ロビンソンにたいしては︑
ほかならぬケインズの理論が現存の技術などを所与と考えてい
ることにたいする反省の過程で動態経済学が展開されてきたこ
J・ロピンソンにたいする
R.L
・ミークの批判の有効性について︵鶴嶋︶ れなかった限界を指摘してこれに対するマルクスの分析を対置
七
摘するように価値論に基く分配論を導入する方法と︑どちらが いしてはせつかく恐慌を確認しながらも短期分析の枠を越えき 充分に分析できないという指摘に程遠いのは当然である︒ケインズとロビンソンにたいして共通しているのは︑古典学派と俗流経済学とに区別するマルクスの基準に照して両者をともに後者に属させていることである︒異つているのはケインズにた るときに︑人口増加と技術的進歩という二要因が社会過程の所産であると考えこのことを明らかにしようとしたカルドアやロビンソンの試みが注目されなければならないのである︒そして︑これにたいしてマルクス経済学からの試みが対置されなければならないのである︒こうすることによって︑はたして︑ケインズの巨視的分析が︑動態経済学によるばあいとミークの指 点を考慮しながら短期静態学から長期動態学へという展開をみ おけるケインズの位置﹂で指摘された﹁ケインズ革命﹂の限界 視的分析が価値論にもとずく分配論をかくために経済発展を 明らかにならない︒このミークの弱さは︑ケインズとロビンソンにたいする態度の違いとなって現われる︒ケイスジァンの巨 る必要はないという仮定のもとに議論を進め-•いる。他方マルクスにとつては︑この方面の探究こそまさに決定的な重要性をもつことは明瞭である」と語られていた。•この「経済思想史に れまでの微視的視野から巨視的視野への展開をはかったのかはし︑それら要因の影響の性質は特殊のばあいを除いて研究され このような﹁ケインズ革命﹂の評価では︑なぜケインズがそ
ある
︒
てしまうことになったという限界を明らかにしようとしたので !クは︑せつかくそれ以前の近代経済理論と異なって恐慌を確認したケインズも︑資本主義的生産関係の内的関連の解明に︑第一義的な関心をもたなかったために︑結局短期分析に終始し
﹁か
れは
とが無視されてしまい︑したがつてロビンソン等の努力にたい
してマルクス経済学の努力が対置されることなく終つているこ
とである︒ケインズにたいしては︑マルクスが対直されて︑ケ
インズも現存の技術などの所与と考えられた諸要因が事実上た
しかに独立変数に影響を与えることを認めていろが︑
その諸要因が独立変数を完全に決定するものではないと主張
J
・ロビンソンにたいするR.L・ミークの批判の有効性について︵鶴嶋︶
ィンズとロビンソンとにたいする︑ミークの接近の方法の違い が︑ミークのロビンソン批判の展開を挫折させたということが
で き よ う ︒
註
(1
)
S t u d i e s ,
p
2 3
9 f
f
(2
)
S t u d i e s ,
C
h a
p .
5 ,
K
a r
l M a r x s ' T h e o r y o f
V a
l u
e
( 1 1 )
,
p . 1 5 7 f
f ,
なお して彼の^•
S o m e n
o t
e s
o n
t h
e
t r
a n
s f
o r
m a
t i
o n
p r
o b
l e
m "
,
T h e E
c o
m i
c J o u r n a l
︑ マ
f a r c h
1 9
5 6
が本︸
り︑この問題に関して︑︑︑ークを紹介されたものに松
尾博﹁価値の価格への転形﹂︵﹃彦根経済論叢﹄三
四号がある︒
(3
)
R o
s a
L u
x e
m b
u r
g ,
i D e A
k k
u m
u l
a t
i o
n d
e s
K a p i t a l s ,
1912ロピンソンのローザにたいする関心の強さは︑
このローザの﹃資本菩旅論﹄の英語版への彼女の序
文となっている︒
( 4 ) T h e " M a r
g i
n a
l
R e
v o
l u
t i
o n
"
a n d i t s
A f
t e
r m
a t
h ,
S t u d i e s . C h a p
7 .
p . 4 2 3 f f .
(5
)
R . L . M
e e
k ,
"
T h e P
l a
c e
o f K
e y
n e
s i n t
h e
H i s t o r y o f E
c o
n o
m i
c T
h o
u g
h t
"
,
T h e M o d e r n Q
u a
r t
e r
y
̀
w i n t e r ,
1 9
5 0
5
1 .
より大きな発展をもたらすかが明らかになることであるう︒ケ
七四