• 検索結果がありません。

『宗教研究』155号

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『宗教研究』155号"

Copied!
130
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

――目次――

1,

狛犬論考, 竹岡勝也, A Treatise on “Koma-inu“, Katsuya TAKEOKA, pp.1-13.

2,

原始仏教における禅定の問題(中), 武内義範, On the Jhana of Early Buddhism (continued), Yoshinori

TAKEUCHI, pp.14-25.

3,

倫理概念の仏教的分析:善, 佐々木現順, The Survey of The linguistical analysis of an ethical concept:

in view of the Buddhist Philosophy, Genjun SASAKI, pp.26-47.

4,

ゲーテの宗教思想:西東詩集を中心に, 岸田貫一郎, Religious Thought in Goethe’s Divan, Kan’ichirō

KISHIDA, pp.48-64.

5,

キリスト教の日本的文化変容, 田北耕也, Acculturation of Christianity in Japan, Kōya TAGITA,

pp.65-88.

6,

「究竟一乗宝性論」の構造と原型, 高崎直道, Textual Structure of the Ratnagotravibhaga (Uttaratantra)

and the Supposed Form of its Orginal Text, Jikid

ō TAKASAKI, pp.14-33.

(2)

繍 4 も す 引 依 そ て に 最 下 至 る い つ の

居村切

用 ・ 今 然 煮 て て 発 る し

か諸

狛 訳 げ も 幾

我見

嘗 が じ 々 で 8 の つ 回 る つ 紳 な に

は ら れ 。 他 の 議 係 は 前 極 こ に 神 は 件 に に 神 に

る す の つ で て は

日が

い つ つ の

子 の る 后 。 解宜 な 共 に の 大宝は の そ

即釈

)い に 対

彩め

非御

の ち が こ 挺 し の 形 な 細 説 一 行 の 生 て

何の

狛犬の 狛 りと 韓を 明に つは はれ 問題

し、

大論

(3)

な 根 誇 大 も を 支 ふ ガ に

現 る 又

し け し 正 寛

い遺

な し ろ 獅

頭つ

秘 た る 時 に の ふ

憾い

ぽ か 子 の は を

専有

玉 そ

捻子

た説

国な

せ 千 枚 ん

の 郷 と 倒 る

矢来

帆 経 あ く " と ・ C て 試 張 を を 律 る 保 こ こ は 兄

等唐

が に み り 説 な 異 。 留 の ろ

狛で

て 注 明 し 相 さ 場 で 犬 あ 引 か め 木 唐 目 し て 第 れ 合 あ と る れ る る さ た 籍 六 な に り 呼 と の ち 雀 及 け 於 、 ぽ 詮 そ の

で る の 手 び れ て 確 れ く

あ も と の 珠 は も か た も て 則 る の も 門 林 な 現 に も の こ 天 が あ 見 前 第 ら に 狛 の が の 武 る る を 百 な

獅大

だ あ

揚后

我 と 事 退 十 い 子 の と る 合 が 固 い が 散 八 が の 形 ぃ に は 出 せ に

形態

ふ そ に ば 子 獅 捻 れ 釆 し も て な る め 列 吹 に 取 蓮 る る で の 本 の 獅 子 玉 を は け 6 周 天 つ 想 あ 国 ほ 座 れ 共 こ せ 張 て せ る ば れ ば に り 牙は に と り は な そ

居し。

るめ

兄 矢 振

気管

先 ら め

れ面

来 狛 る 像 り

一 一 辞 5

(4)

け な

陽石

田 6 面 バ の は た

か合

間 よ 。 を ] 時 歩 こ と つ の の り 然 一 ル 代 く こ

る 獅子の彫刻

ダ ガヤの石欄、

い 。石窟の前

だといはれて

あったらりか。

併しその形態からい

ふ なら

ぽ 、獅子窟の場合

の 如き・或は

ィ 大塔

南 門の

兄御的な意味も

なして外道を退

狛犬論考

一 一 一

376 一 一 "

書巻八所収・

であらう。これは国学 ほ 大学大場 磐雄 教授の御教示に依るものである。 来 詮の間にはあまり異論を見ないやうである。 づ 宮門の護り、御帳台の鎮子等に使用せられ、 事に 於て 、 少くとも 伝

(5)

た り 以 や る 居 頃 の 東 あ な らない。 て 居る例を見るので る 。即ち一 つは 塔婆、 次は 石窟、次は仏像の 、 東流 に伴って次第に 仏像に附随した獅子 知られたのは前漢の 二︶漢にも 臆 らされて 葉 だと ぃ はれて 居 於ける 武氏祠 の石綱 来るのは 矢 張り六朝 範囲も次第に広くな れるや う になって 来 魔除けの信仰を件 っ くであ る 彫 , 刻 といつ に置か 態であ 誕生し

獅子が置かれ

近して来て居る

今一つの関係

子が置かれる

初めて仏像が

目されなけれ

(6)

狛 犬

考 78 五

見る事が出来、矢 張 るのであるが、併し 是 を 取るに至ったのは 午 へ一︶ 大 左右に獅子と狛犬と

師子、 於レ 臼茸、 開レ

済から 伝 へられた 事 な つ つ 一 し か

は か て も 対 雛 つ た 和俊

で に る る

超人

の 支 あ き 。 と 元 口 陳 那 ろ で そ こ ば・等 墓 に ぅ 広 し ろ 恐 に や ほ 。 く て に ら 桃 明 焼 抗 元 か く の 器 除 有 未

か獅

果 の け さ 支 る 子 を 中 の

(7)

ユ " /." Ⅰ

は藤つ

ぽの御しつら

日かげの

づらに

く 事はこの時代の

、獅子と狛犬とは

想起されて来るもの

左衛門式にぼ﹁凡人

加へられて居る。

ぼ この

兄像

とは如何

る 中に、上端の

といふ説明が加へら

それは南方のもので

らう。そして狛犬の

れば

兄優

に就

接 な関係を持っ事は

争はれない。

3%

(8)

狛犬

論 考 セ ㏄

ふ 言葉があり、遺物

て て は な を 国 る ば如 伝へ て共 し 、同様の地位に置かれて来た所以であって 、 そし 列で や女 来て居る事を忘れてばならないであらう。 神社 荷 なる関係 られたもの 通の性格を - て 直接この ばなかった 那に 就 て見 に・就中祀 矢張

り我

なカ 対を 結合を導いたものは 矢 張り 左 唐楽、右高麗 楽 、 左に

に於 ︵ 二り

用し らく狛犬であって 、 たものと考へられる に 相対して据えられ 帳 の 前 等に据えられ を 示すものと見ら あるが、信西古楽図 に一角を戴く怪獣で

(9)

八 る 優秀な狛犬一休 へ四︶ を

女舞に退化して 来

が 、その反面狛犬の

のであらうかり自分

形態を取らなけれ ば

女舞に接近して来る

ない。異常な力を持

近を容易ならしめた

なくして、英姿 肛 その面貌に於て 、己

つて、僅かに角の痕 といふ状態へと移って来る。 る 。 矢 張り相対せる 本来印度や支那に 於 石 獅子はその良き 例 にこの 石 獅子の系統

ものであって

、実 統 のものであるが、 81

(10)

狛 犬

論考

九 3 ㏄

、海外から渡って

神 前に安置されるに 四

犬 が載って居るが、 そ の 一方にも 退 しき角がある。

福岡附近では飯盛神社

尊大張りこれである。 何れにするも狛犬の形態は後世著しく 獅 に 、獅子狛犬が独り狛犬に依って、代表せ ぽ その姿に 掩 いては獅子が狛犬を征服した と 考へられるのである。 ︵一︶古今著聞集 巻 十六 ュ条には﹁狛犬。大しや う じなどもてま ゐ 0

む字

津保 ・吹上︵上︶には﹁居丈三尺 は か 別 であるが、枕の場合は矢 張 ・ り 獅子狛犬で ︵三︶東北大学亀田教授の御教示に依ると、 正 かも知れない。

るが、名称に於ては、反対

象を呈して来な。換言すれ

日の状態に立ち至ったもの

枕の草子 巻五 、めでたきもの

なって居る。手淫保の場合は あるのを、 唯 狛犬と呼んだものであらう。

にも 兄術 的な意味があったの

らしい。とれも狛犬

(11)

紳祀

にばこれに先立

ともなって早く支那

ある。然ら

阿育王

先づ

阿育王の時代

れて居る。紀元前三

、アレキサンダー

あった。かくの如き

時代に興起した

ウソ

王朝であったために、

トと

0

均仙仙洋咄じ、

新に

置かれて居た。この

の中には

リヤ

やぺル

依って指摘されて

姿を現はして来た

には人面、或は鳥

獣はブダ

の石欄に

入れられて居るとい

るものではなくして・

西方に於て、獅子の彫

(12)

、 又 獅子が一つの 要 に 於て 、 已に ギソ シ ャ やス プインクスの 形 であった やう に、 矢張 絵画も出土して居る 事 国の人々と交渉して 居 り、

達しき力と

、 居るのであるが、然ら 。自分はこの問題に つて問題を次のや う に が 求められるであら う

獅子があり、ェヂ プ に 於て、自分の記憶 に 於けるスフインク ヂプト に於てば、 顔 是等のスフインクス スは 、第二 ニ ラ そ、ツ るが、 ヵル ナックの

狛犬論考

一一 3%

(13)

んで であ であ 狛犬 ︵ 一り ロに 如き もの 地 創造した心算であったのかも知れない。 に いふ する 獅子 ヂプ とし ら現 られ ツシ の 如き 霊能が 獅子 であらう。 窮 しろ って来たと見らる 国々に放して来れ 遥 しさを持つにし 獣 である。然るに とした自然のま ム を 求める必要はな に 於ては、却って 一一一 はれるその顔は 、 子 、これは ヱヂプ

性格からり ふな たものらしい。 る 。何故に彼等は か 。 ェヂプト の場 ぬ とを結び付け、 れた最高の存在を

S

(14)

大論

386

へ 祀 こ て 8 代 4 挺 狛 れ の に 生 天 る 政 一 し の 間

車っ

た 考 題 に に 二 "" 別, 一 三 で 求 結 っ は は め ぽ の 終 な ら れ 怪 っ い れ て 獣 た

ら 馴 の そ ん う

染形

の う か み の 略 名 。

深狛

を へ き 大 奥 て も る に 来 の 形 し る て 我

居 が 共 犯 6 市中 に 犬 の 々 人 は

での

類 実 あ 護 の に る り 文 木

て 栄 な れ 伸 ぇ 存 は 祀 る 在 我 の 国 と 目 前 々 な

のにを

納経。

る 北 ま 廻 . 遠 形 つ つ い 成 て て 昔 に 居 、 に 就 6 % 於

色 て に の 々 そ ま 処 暗 の で を

示起

到 異 が 元 建 に 与 が し し

か 。この間に

又 支那独自の

見られるが、 ものとなって居る。

を 見て意外な感に打たれた思ひ出がある。 五 も 多少 怪獣 牝 何れに

(15)

を兵建

し、清浄な身業

語業

をもつ生活を営み、

更に

諸根

はいり、四弾の

建を

次の仏弟子の詩がある。

漱い

・︶

雷雲のいゆきして

とどろく昔もす

まじく

のか

ょひ路雨

しげ

静けさ洞にた

ひとり

輝定

修するその人に

四四

%

武内義範

吊,

一四 田

(16)

われ や行 り、 まじ 比丘 い山 世俗 対し スノ 。 な い の 詩は素朴に 脾 定の楽しさを う たっただけで、

ない。けれども ぅ 。暗雲が深く山 ふ

無明の闇であ

てゐる。時々 すざ そのや う ななかで 上からぼ遥かに 高

ば 上にも下にも は 、日常的経験に て 丁度その様な仕方で、上に下に超越しつつ、

開くことであら

て ぼここでは論じ ︵﹁縁起 説に 於ける 相依性 の問題﹂参照︶。 一五 原始仏教に於ける禅定の問題︵中︶ 祀定 修するその人に 註二 いかなる幸や優るべき︵五二三︶ 素馨に 思かょ はせて 華 さき乱れとりどりに 草の花ぶさ色にほふ 川辺に心薄めつつ いかなる幸や優るべき︵五二一こ

388

(17)

工、 ノ

な 姿が前景に打ち出 後に簡潔

一寸語られてゐるだけであった。 花や木々の花のや ぅ 美しい所を選 は なけれ

のり

タカ桂

* あヨ

ヨお

サロ

ガ ︵田の

p. ダコ

ワ 竹口・ ・

円ゴ

ない。﹁そこに私は には豊かな牧場や耕地 と 頗る相似た性質があ るであらう。11身近かに河の流れが聞える。 なってしま

。彼の探 その流れに滑りて・ を 抱いてゐるところも

至るまでほ

心の探 とするのは、まさしく この意識の探求の道程についてである。 あら

9

及び

ケ毛

由告縛

389

(18)

。それぽかり る 。梵網経に よ れ 学者がなしたや ぅ 一セ 原始仏教に於ける禅定の問題︵中︶ でな ぽ、 に、

生じる高と楽が行きわ

を観るものには歓喜

梨を覚え、楽となる時、

る初碓に

達して住する。

が専一となり、

で、その身をみたし

周く

じる

喜と

楽とが行きわたらぬところがない。

令正智であって、全身

。彼は喜を超えた築を

ない。

悦と憂

とを共に滅した

みたして坐して

ゐ,る

ぬところがない。

帝籠

簗ぬ

戸ぉ巴

ので、本吉木楽で 捨念 清浄となった第四弾に の 全身何れのところも 純浄 な心が行きわたら が 生じ、歓喜したものには喜が生じ、喜を懐 心 が三昧に入る。彼は諸欲を去り不善 法 を離 彼は離から生ずる 喜と 楽とで、其の身をみた たらぬところがない。 詩軸 何 で、 定よ り生じる 喜と築 とのある第二 みたして、その全身何れのところも定から 生 に 楽を感受し 、 正しく諸聖人がっこれ捨にし 以て、その身をみたし 周 くみたして、その 全 3 ㏄

(19)

に 水を注いで 混

くに ::、比丘は 一八 391

ないであらう。しか

瞼 が仏陀の宗教生活

き 、強ちに看過する

読 もかかるものであ

そうな 祀定 であると

することはどく 稀れ

違 へた宗教的情熱に

猫 そのや う な目的と

それとしても四 % 説

、四弾 説 がその解釈

なり ぅ るのではある まいか。

われはこの経典が

れてゐる 比楡 を手掛 してゆくととにしょう。

(20)

最初の自由な充実 はす 例で説明して ゐ

念 的にさ う 考へて ゐ

い心身一如の浄化の

されてゐる。今はし 化の後の身心をひたしてゐる。 することを意味す

ぅか Ⅰ・と思ふ心の動 尋 ?w 侍の岸 岸曲 ︶と共に ﹁尋は粗なる働きを

き 継続せしめること

っ てから余韻がつ ビ づ J 0 ワミ ︶・ が内内ル H. づ ・︶ 0 ヰ︶ トド

られてゐ て 、さら

に 存し、第三・第四 原始仏教に於ける禅定の問題︵中︶ 一九 a% 離から生ずる 喜と築 とを 以 きわたらぬととろがない。

,その身をみたし

鮪 ぷ、ヨ

・ 2.M.

・ 卜

生じる 喜 と栗とが 行

(21)

二 O

巾皿 沖 せ :︶輸血でもこ

どめてゐる妄想とし

づくと言へよう。

3 ㏄

(22)

なく、西方か

、 而して紳は時

くみたし、 深泉

。その如くに比丘 は 定から生ずる 喜と築 とで、 その身をみたし じる 喜と 楽が行きわたらぬところがない。

の意 かもしれない

こと ム する。

てゐる名残りで 一一一 原始仏教に於ける禅定の問題︵中︶ あ 周 の 々 ら 約 4 初祀に 於て身心が安 築 はそれに比すると、 との区別がある。楽は で祀 淀君のつ ム まし ゃ 車幅であると彼等は考 熟練した揚屋の従僕 さとユーモアの如きも 世俗的な精神 に結 ぴっ の 地楡 は 一転してはる 訪れる。それらは心の頴 著 な感動であって 、 して、内省自覚せられる。 かに幽玄である。

(23)

冷水を以てみ冷され、

周 くみた

鏑 一一一一 ぅ とする。地楡 は、 ゐない。それは心が してとの泉を満して 0 周辺の地を ぅるほ たことから起つた。 た状態であり、 舐喜 つム、 而もそれを 全 へ、 猜 ・外向的な浮動 ゐる 。 冷水が何処に於て 時々疎雨を与へる と らの聖なる疎雨を浴 てめ て 、 神々との 閲 もつてゐることを意味するのであらうか。

(24)

の 全身は何れの と 3 ㏄ 一一一一一 原始仏教に於ける禅定の問題︵中︶ 比丘は喜なき築で、その身を ろがなり。 第三弾に於ては・恰も第二弾 は 離脱せしめられる。心は歓喜 れる。歓喜はどのや う な宗教的 いこと ム せられる 0 との第三弾 ふ のであるから、聖なる疎雨 は に 対する地楡では、その状態を る 。つまり第二 膵 の 深泉 といふ は渓 泉、即ち内なるもの ムなほ 最も深い内面︵ 深底 ︶がその水 生動的に一枚である。従って さ て 開花してゐる。歓喜を心の水 である。不動心は深い根を水底 れチ 巳め る。と目口ふか り は 、 花けⅠ も を生かしてゐる清浄な至福が 、 在しない如く、此処では第二弾の欺 喜 たその 扶態 が正智正念であるといは ない。正客正念の不動心の方が一層 葉 といったのと同じ状態に達すると ぃ ふ 意味をもたないのであらう。第三 % つた 青蓮華紅蓮華白蓮華にたとへて ゐ のといふ意味をもつのであらう。蓮華 張り、水面に花をつけるであらう。 のが最も表面にあらはれ、内外表裏は い 。紳の舷 雨 はこ ム では蓮華の花とし 括れることがあってもその基底は不動 れにも拘らずなほ最も深い楽にひたさ ゐる如く、存在のすべてを包みすべて されてゐるからである。

喜 なき楽であまねく行きわたらぬとこ

(25)

概念が影の如くに

自身を肯定する

反対村立を高く

祀の立場を適切にも

的な友

身滅昔

の狸婆

に比すべきもので

楡は

一転して高原の

三碑のこの蓮華の花

・せ

い ︵

との人は

、い

すム

めて白浄衣は秘

宗教的生命に生れ

。原始仏教に於て

あり、

定は慈悲の

二四

︵ 祀 ︶ し 、全身 何 い 。 簗 7

(26)

原始仏教に於ける禅定の問題︵中︶ 二五

8

を 頂きとす らはにする 如 ︵ 未 みま

(27)

は 一体倫理といふ こ

のかといふ問題であ

ないであらう。

といふ概念 は 漢訳 仏教の善の概念は必

日常的観念にか ム は

かどうかといふ問題 を 論究してみたい。 併 しそのことは 仏 いのであって、理性の

佐々木

現順

倫理概念の佛数曲分析

善,|

一一Ⅰ 、

a -

(28)

思想形態としてぼ宗教哲学 するとその倫理的概念は如 、、、 らない。後に次第に明らか 的 よりもむしろ倫理的性格 何なる位置にあるか或は如 になるや う に我々のたりさ 二セ 6 面 解 し 系 た 必 あ 実

と か と 的 と ろ へ あ れ 上

構へ

な ら な 基 と の ぼ る れ

孝成斤

と 崩 置 つ は 達 へ ら

排理と

し 壊 か た 仏 磨 る な は を 言 て 毘 ら を

何席

陀 々 A り た め 達

を 申

心 守 あ

教彰

の 暴

いが

と し

し は 問 ょ 何 か 象 概 る て 屡

題つ

毘 く に 念 。 何 々 も て 達 て な を こ

毘理

理、 作

庭睦

り 分 ム

達性牲

、 ら

仏性

単象践

、 言 は 践 は 仏 体 な が 自り ) は か 的 理 教 系 る 単使、 Ⅰ く 硬 性

理 教 的 れ よ の き し 践 の 軒 数 て つ 哲 歴 て 的 本

学理

め て 学

史打開

質 更 に る す で ねり

建心

を 止 も 。 る あ 必 て に 究 に 終 そ な る 然 ら 促 め 吉 上 れ ら 性

れが

て め せ と ぽ 然 の た さ

上背

れ う

あ 形 の 出 体 し が で 弓 00

(29)

二八

位置付けが自覚的

連関を保たしめる

譜を構成するものと考へることが出来る。

諸原始北阿毘達磨

に就

て先づ

考察す

るであらう。

することである。

へる。

甜忙ぺ

0 せ簿の梵語で

する部分である。

形容詞二の旺

Ed

げることが出来る。

弗 I

(30)

九 ㏄ 2

ⅡⅡ申せ 帥 コづ ︵ の で Ⅰ曲 り 0 が︶サ l ︵ Ⅰ︶ l

と 健康を尋ねた︶等がそれである。

巴卸ココ曲づ Ⅱ曲目 つ 1

︵自ら巧みであ 一義のの五目三と解してよい。 ず 或は木の︵ゴリ 屈 Ⅰ 古田川 ガ 民生 ぎ級ぁ玉オ 等に見えるものである

(31)

三 O の中に凡てふくまれ

してゆく。しかし、 開 であることに注意を向けれ ば ならない。

ひ 方をべⅠトリン

ロ 倒の田の臣がⅠめ

Ⅱ ゆ幅オ Ⅰ の

日 といふ補足的意味

引用してゐる。即ち 家系︶である。

二目口

笘挿

すの抽の づ囲

好し㌔ こム でいつ て

の ∼ 0 のの オ 二ロ の 意味 たる日刊 語の ガロの Pu の

ことに注意せね ばな

み なること︶ 、つり窩 n.

巧みなること︶以上

られる用語例がそれである。

その健康であり 無

てゐる。即ち

Rw

8

(32)

一一一一 倫理概念の仏教的分析

味は ついては後に論ずるであらう。 当 な仕方といふ意味ではない。 来、 其 れの内包す ド 7 人 び Ⅱ 俺ゴ 円仁体 る五

0 ぎ ㏄穏の Hp が日刊 に

味 Ⅰ目ガ 偉 ㏄ めロ の二 % ︶Ⅰ こ いふ 意味とを同一に取扱ってゐる。 ︶Ⅱ 曲セ 村田 の 0 臣曲 この

は オ目 ぬ曲ロ の目 5 曲コ一

も 引用してゐる。 此

用ひられてゐる。のす曲コ 卸 C づ ・ か ・ Ho. ド ガ沃田 び 臣レが幅 目ロ コづ曲 Ⅰ ぜ 忙のゆⅡ 甜 て ゐない。日刊 に於 の、 正しきものといふ意味である。

曲ま曲 ︵ ノ 圧のの ヨ曲ゴ 曲目

はたらく。故に私は

めガ 由の曲ロ碑 日づ沖 ︶のぽの 曲

とを修習する﹂とい

サリ Ⅰ 呂 Ⅰでは、 乙

(33)

の ロガ 曲下のプせつ 年のⅠ ム曲臣のガ 立文 Npnw の ヰ である。

杯 Ⅰはガサ 侍 W 、 日注兜と

p 、 毛 注ロ日がⅠの、毛色︶

の サンスクリットは リ

︵ デ口 をもつて以上の みたいと考へる。

、ぃ執 ㏄ 1, ぃ自白︶。彼は

如何にして結合するか ウイリヤ ム 、チルダー 釈を与へてゐない。

ゐる試みは興味の

しよう。 & ののⅠ・。の目方小田 f. 由 0 め 二 % の田の︵の何 % 偉ぬ曲 ∼ 曲 ︶ は め や う な形で伝へられてゐたであらうか。 。我々は今、其の

されて残ってゐるものである。

(34)

︶ と 望洋拾からⅢ 来

の曲

宙はづ

qo 甘 0@ ロロ 日 るものの如くである。

以上の づ の 色円 0 の

は 如何なる位置にあ るであらうか。

リクト のの ヰ 山元仁 卍弓

は 轟く日刊 の ガロの 日 いの意味内容にふく まれてゐるといふこと

ゐないと言ってゐる

べた如くである。

にあるか。

に 巨利 に 於て追加 せ

に 至った過程は づ の 臼 0

め ると考へる。 倫理概念の仏教的分析 一一一一一一

だけを持ちながら サ

。此の問題に対し 彼の言語学的操作に いふ 以上の窯守付︵ p 、 仰 6

(35)

す る

曲目一ガ一

がコ中日 曲 ヨ日 笛局

故に善もなく不善もな

構の形︵舌音こぼ

昔 この形は りぎ日 ・

色 のの & 、せ pq ︵ Em でも

は 同じである許りで

かく考へることが 許

巴 より出でたといふ ことは考へるに難くないであらう。

ひられてゐる例をあげよう。

べど、ぜび のの p で 卸つい田

ト八 Ⅰ︶。 ヒ丑 Ⅰ・ ゲし 玉ド 、 ︵ uF 円

ガロ のの∼の コ がせのの 円坤 曲目 甲

。善の身業、善の語 業 、善の意業である㌔

てゐる例も屡々 存 四 ㏄ 7

(36)

とである。の 宕 、母に出づる︵ 前朋 ︶ づ P ︶︶の年月ヰオ ゴ の づ 口ロ目打 が ︵︵ ゴ のコ ひ の斤目のの ト曲 倫理概念の仏教的分析 偶

に対し下

S 日品目 ど 0 ︵ヨリ ︵安穏ならざる義によって不善 三五 開の跡を阿毘達磨に於て見てみよう。

宙 に対する解明が とめることが出来ると考へる。

いふ 考察が与へられ 仏教に於て現はれてくる。 此 れは仏教 的 新し

共に伝統的意味の伝

諸の不善根を破りし

屈 F 日口口づ 曲 ヒ曲 コ曲ヨゲ

に 観じ・ 此 れは不善な

、とゲ招 。 旨 ・ ゲミ 、 お,いつ ・ 臣 " 富 め∼ 口 N 笠 之 0 片︵・ H の H 。 Ho めい し す の

むオ ド Ⅱ㏄Ⅱ りゴぃ鎚て に 数多く用ひられてゐる。

ひ コ カ wn ︵の由が片眉のひ ロゆ ・

0 ︶ 、せ 曲のの川口 9 のめせ曲コ 笘

8

(37)

る ::︶。 な きことである︶。 ととは善のことであ 状態、無罪の案の異 熟 である︶。

人トい田 ハ 耳目の 甘ツロ 仙丹︵Ⅱ片ハ ツ の 林ツロ ・

の 里曲から来、 た 言葉で て 、目口

ダ目

ちつ 0% : ゐる様に毛の∼ hp

おに

注 8 のみならず、 巴

㌣ 毛 0 毘のⅡの の の カツ甘、 坤 P Ⅰ曲中の旧 ハ の p. し 日生の

ド ︶にの 岸ガ オリベ㏄ 叶 0 の ひロ 豆田︵文士 早 についての 知 識 ︶とある。そこに 二 AG ︶に三種の奇を説 ㌧ 局 ゆめ 白 ∼ づ抜 日 トめ ㏄ 白 秋 ㌧のⅡの 日曲宝ゴがヨ の 甲 甘の曲り出・ ワ自 ㏄ ざ日 ㏄ののし年に言 ふ 。 ︵善巧とはその不利

9

(38)

四 倫理概念の仏教的分析 三セ 410 とは既に ヱ カー ヤ に 0% @ 山山 ぃ ・ 肚 いめ︶かり ハ Ⅲ 卍ヲ目り自か ︵㌧のⅡが 口 P ︵︵ぽ い Ⅰ ロつ曲 口口 の 様に言はれてゐる。 定義してゐるところ が 田のガロの 筏ロ の田。︵ 功 の 不善を言 ふ ︶。 のオ 。 匹りとけ Ⅰのみ山ⅡⅢ てめ るのを見る。 たる其の属性に関 してゐると 言 ふことが出来よう。

ろの属性であると 吾口 一種にまとめること 善きこと、巧みなことである て かに知る。それは

(39)

ぽ 不善に関してば、

熟を与へるものは 粗

てゐる。

寸ョ :・・︵無食 は善

、 韓貧 それ白身が善である乃至︶。

さういふ 業の根本

律法に根拠を持つと

て 法官 ゴの 日日とに

ことができるであろ

のことが明白になる。

Nqp ガ倒、 吋倒い つ つ曲 ザ ︵

三八

いふ 点である。 ることである︶ と

ゅ 0 に言はれる﹁三界の善なる 行 ﹂とは﹁ 布 施 ・持戒等の十種﹂ 及

やう な行為をいふの 遼磨 に 於ては一 % 此 ぢ, @

(40)

0 Ⅰ @ のの ロ の ガコ ︵︶ い の曲。 臣 ︶

重きをおいてゐる 様

によって作されてほ Ⅰ 2 三九 倫理概念の仏教的分析

此 れは ガ 由のが ロ の

ゐない。かか

して 悪 ︵ づ 川口の

既に述べたと

げられてゐる

い といふこと のガ仁 る 仕方 ︶の 遮 ころで のであ は 既に

村川色目 ヰツ山

ね た マ これ の 田沼まごので 善 とい 離 すべき悪法︵ 屈, い こ そ う れ

我 々 は , 思 、 想 史 観 Ⅲ 占 か ら 吹 の 点印 ち 封 ' Ⅱ 口 源 分

解、

歴 史 自り

思味 、 仏 教 自り 理 解 と い ふ Ⅲ 占 ヲり耳 ら 考 努 ¥ し て

的 意味或は語源 解

0 円化が行はれて ぃ くホ といふ問題に就 て 論及してみたい。 興 れである。

(41)

ば 住のか。市日トオ ぎ 時の ロ ののを示すつⅡの 力 Ⅹ で ありぬ

目はざ

㏄ 0 、ざ

なる。。 セの隼せ曲ガ 仁田 、ハ 悪から u 離れて 到, わ る。 云々 世ぃふ 仕方は 巴 利の分解を更に ニ円 わけである。

文法学上の伝統に ると言へる。

繍侍帥 ヴヴ 簿 ︶。或は草

釈 に共通してゐる と

点である。ところが い 。 ハ 6 し

ぎを日刊と同じく

析は我々の立場から ぬ る。

は絞

宙の意味に対 ぬ十づ ︶の 囲 臼杵 づ 川神 カリロ の 目 13 四 O

(42)

じく宅部Ⅹと見られ

肯定せしめる一つの

資料ともなるところのものである。

口の

Ⅱーの曲

コの坤

Ⅰロヰ

い の・

0

由 Ⅱ

舵コ

の で

0 圧曲由

0 臣の

によるのでないと

出来るであらう。

り Ⅰ

N.

㏄に

言ふ

ぃふ

意味である。

ハ 1

等の丈に於ては

異熟が意味されてゐる﹂と。

でも善である。

によって善といは

倫理概念の仏教的分析

四一

414

(43)

即ち 下 めき い の 目コ 曲に日く 般 的に﹁知識﹂といふ意味でも用ひられ ぅる 。

ガ 0 のが コ がの曲 目ヴゴ 同時 ゆ日

道を現前せしめる﹂

る 。

れが修道的意義を持っに至ったのである。 ぢ曲り 埼 とであるとするのがそれである。﹁ 慧 ﹂ も 仏教に限ってゐる のま mn のとある様に一

よって善であ 口 であⅠ ハ Ⅰ。慧は した義によって善である﹂と。

諸註釈に現 であった如く 、

景の上で思考 ことである。

られるに 至 巧 ︵ ガ 。のの ロロ が︶ ると丸 善巧と はれ プハ Ⅰ 毛ハ W 目 ︶ しうる った 。 をぽ慧 四二 15

(44)

倫理概念の仏教的分析 四 416 態 は 作 で れ

例っ

っ れ た あ

される。

ぃふ 点で

︶であっ

口ひ 変へら

分析によ

原語があ が 現象的

。起に入

がヴゴ 叫くが

の 如く 能

解されね

なる 状 0 片ⅡⅠ 属して ゐ 起とし、前に ひ 1 ひ卍 ︶ L し 。 二 u ﹁この 著は 相等の し 、 如 理作意をその

善を砕破するを味とし、清浄を起と 足処 とする。

(45)

られて

るのであら

即ち生成せられた

性を意味するものと考へられる。

善の相とし

したいと考へる。

果の状態を意味する

へられただけで

とい

、元来、起と

﹂である。欲せら

では、欲せられて

ると考へられよ

でもなく異熟の概

することは

タサ

或は起の内容と

れて来た。

即ち下め

目お目

円目

設けてゐる。

日く

17

(46)

の サ 述 べ か り 善 質 あ と、 す る と 「 の、

や意善

ょ 倫

。 善 を を 理 あ 、 な で と ぽ

法 。 を 。 て い 蓋 法 蓮 即 も ふ 善

は べ ち 善 の と 分 白 て

法書

は い 析 し の な な 特 と る で は い て 此 釈 の

い ン 5% 」 と て は 至 つ た と

い ふ 正 ぼ と

のみ

四五 を 述 の べ ん と し 共 定 、 性 )

構 /

ァ私

ッ昔あ

とが

置サき

タ先

Ⅰ 通 せ 、 な で タ 0 6 き Ⅰ に 性 で ん、 保 ち 口は も ん 418

(47)

の 概念を仏教 的 観点から分析してみた。

は 世俗的串 幅 の 根

ものではなく人聞 存 ふくむ妥当性を要請

へることによって 却

る 構造を持つとき 倫 拠を持つといふことになるであらう。 審ヴ ・にも出で、 く 用ひられるに至った。 zo. の ,ドの印卜 五 四 ムハ

らヲ

ロロ ロ年 ∼ e 片ロロロ c 0 目 日の Ⅰの 、の 片岸 ヰ ︶ローな

的 意味をそのまま 括

みであると ホ 幸穂 で 更 に 阿毘達磨になる

た 。 19

(48)

倫理概念の仏教的分析 四 セ

。 、 八 9 ︶ 目 ・ ロ w. ドソ 八 %

︵ 4 ︶の ユ ︵・口ま︵・ 0 ︵ 目力プ ・の・ 串 ・のの ︵ 7 り PR. 曲黛ぴ

︵ 8 ︶ り ・ま い 。 め ︵ トつ ︶ 目叩 のらのの 0 っ山ヴ田 ・ つ ・ ロのド ︵ れりロ ・ ぎ ・ 笘 Ⅱ ︵ m ︶ 目釧 ,の・ 相切 ︵ ぱ ︶ しプ の・ ゆム昧リ出 参照︶ Ⅱ く 0 ︶ べ A.20. の

︵中小笹 窩巴田 Ⅰ 色 ・ ミ いも 注ゃ ・ お hoo ︵ 巨 0 汀 参照︶

(49)

一八一四年七月、 グ一 間に ウィレマール夫人 マ ] スバ一 デンを訪れた。 は 常に重大な役割を果た 求は どこから生じたので 当時の ョ一 ロッ バ は フ 一国家の形態になって お り 、ダーテが重臣として Ⅱシャの強国の間に挟ま るところであった。フラ 九月まで ウ ィ︶スバー ヂン に逗留している つたグ一テは 、 翌 一八一五年五月、再び ウ ィ あるといわれている。グーテにおいて、放打 び 合せてみよう﹂︵ 託 1 ︶とするのであるが、この 欲 あろう の時期であった。その時のドイツ は 、まだ 統 くの王公国が激成し合っている状態であ 国 であった。プランス、 オ ] ストリア、 プ ないかにして保って行く加がグーテの腐心す

にそのフランス的自由からの自由を求めた

@

四束詩集を中心に

︶ ( ア ス .

口,早

良匹

ゲーテの宗教思想

四 八 42 Ⅰ

(50)

ゲーテの山木秋思想 四九 姥 2

東 お い

ぎ代

、 と 実 ] と い る 自 の テ 酉 て

日 ム T を 却 常 そ

れ対

る 侍

殊も西

る(

つ に と 人 彼 ま

浩浩

て 一 者 類 は れ を 極 そ の 川 ゴ 自り

来つ

たで、

年 根 の こ 不 断 に 0 が ダ一テ である。﹁革命前にはすべてが グーテは、ナポレオンの出現に期待した。 あった。﹁支配することはやさしい。統治 ょ 怒濤の革命的情感をもつ ダ一テは 、革命に 人間性を破壊しょうとする時あるいは抽象 命も戦争もすべて人間悪意の地獄図絵であ れは グーテにとっては、 ョ ]p ッバ を根源 ッパ 文化の危機を打開する途を見出すこと

要求に一変

㍗﹂と見る

レオンも単なる支配者でにじるすべてを憎む。疾風 ボ

性を認めながらも、それが

してグーテの眼には・

としかりっらなかった。

迫って来た。この

p

グーテの課題であったのである。

(51)

陽と

あり、

ね た 月 、暁の明星と ㌧。 宙 Ⅰ ロ ︵舛井なけ ハープ ィス の 捕

二八

0

ム 八年︶の

ている。ハープ

ィス

と恋

酌の少年と少

テと ハーフィス と

圧したナポレオンに 一 一 ) ︵ 5 ︶グンドルフ﹁ゲーテ﹂

マール。︵ゲーテ全集。ワイマール 版 0 ︶

︵ 3 ︶ ︵ 4 ︶ 西 哀詩集︵マイヤ l ・ 版 ︶。訳は茅野蒜々。 相即 柏 入する根源を 見ることなのである。 五 O

3

(52)

る歌

﹂が生れる。その

響こそ

グ一テの

﹁四束﹂なのである。

である。﹁

詑 2

︶それ故に

。こうして古典的

生涯を貫く

づ mn

にはない昂進への

もの﹂︵ 桂

4 ︶に己を投げ出す

断の流動である。

るのである。を

やがて西方そのものが深まり行くことである。

どなく流されること

らない。節度ある

リズ

特色を見ることがで

ゲーテの宗教思想

五一

4

(53)

五二

つて、一方的な浪漫

同 し、それを東方か 土性は浪漫派と一致す は 一なるものの緒にす 夢にすぎない。自然を

つた。 ダ一テの 一郎 そのま ム にさながらそ

ル即ルの 直観、 ル即打

である。

中に自分を見た。 ゲ

ら 理解して行こう。

つて立派な現象とし

と 信じた。﹂﹁晴れや

ぅ であるべきために は ・人は火をも 亦 このように清らかに克人し、

とは、古代の拝火教 に 対する畏敬の念は 、

る 物は悉く極度の勤勉 とを根拠とする﹂清純

5

(54)

﹂をこ ム 東方にも 見

奉仕﹂は政治的権力 若への隷従を意味しない。 上 なる太陽を敬い、

としての自己、人間

秩序がそのま 4 人間 恐 意を満たすための 源へ 努力しないところ

のぺ ルシャであ っ た 。

眼差が注がれてい

強く心をひかれてい ︵ 吐 甘 り 1 ︶

感じている漂泊の好

讐心 、仁慈、犠牲等﹂

ことが至高の道徳で この世の 、蓮の いの

が 彼らの生きている

すべき現実が 、 実は 五三 ゲーテの古木 教 思想

すべての自然を畏敬 す へ 斗キ 皿 5 ︶ ︵ お @6 ︶

火 教徒の道に深い共 426

(55)

五四

て、 生きている限り

ぴを求めて耽溺する

。彼は道徳的革新と

、 右のような ァ ラビ

という終末論的立場

把 まれるいわゆる 紳

どもに 祈 りながら、 ぴア ッ ラ ︶が汝等を救

四十三量八十九節︶

はない。 げ 血のつなが

く 結ぼれる協同体を

してクライシュ族の れる事件である。この

出来上ることになっ

れて、根木精神は現

るのである。言葉や 要 なのである。

見たダーテは西方

427

(56)

8 て 益 な 権

現さ

ゲ る の は し 日 の 思 「

マ目ヲ釈

叫 O ゴ叶 Ⅰ H フ Ⅱ 住侍 Ⅰ 0 Ⅰ の のオ の 巨

の ∼

目末 血 あ 作 そ く 臣の る 以 る

そ用

でで、

れす

五 ヤ

五 れ 目 ま 。 の 1版 て 覚 め そ 大 樹

行は努ぅ間

力し 性か

き た ダ が た を け 。 ) 昂

結ふ

を テ 進

末み喜

に ( に に は

の 危機克服の道をそこに探し出した。それは トは 堕落した歴史的宗教を、本来の原始性、 ほ 、ダーテ自身の内にそれと相通 う ものが 存 たが、ルタ一の宗教改革も紳との眞のつなが た キリスト教を内面から再生しょうとしたも い 。更にグーテが青年時代にクレツテンベル の 内面の心情において、直接・ 神 との交りを ぬ な生を生き抜こ う とする人間として前進を くものである。 マホメク の 実体を見出すために 生は人間性の解放であ っ としたのである。堕落し いると見なけれ ば ならな 教義の媒介を退けて自己 ものにも束縛されない 自 ても紳の働きとして自覚

(57)

て 認めること自体 は本 が 相互に流通し合 うと

たということができ Cq ・ づ 臣の コ Nm 、 己 Ⅰ︵ ロの ︵を観るグーテは 、 単に白 己 のみならず、すべて

であってしかもそれ は 、超越的なものの内在そのものに体ならぬ。

。両者は別でありな る な で は で Ⅰ 主

り )

に た 「 西 東 こ と 教 的 ] 自 い 精 西 テ 詩集 の @ ょぎ 理 解 の ナ, ヒ め の 註 解 論 文 」 「 尺 」

本 自 も 感 れ 自 に 風

が穏

(58)

観ることがそ いて昂進 し 行く の根源へ還るこ 彫塑的完成に安 から ダ一テの、 ゲ|

にお

自己

義の

な ・︶

時拾 テの 宗教思想 五セ 4 釦

に テ る テ / Ⅰ 験 自

ら が ] そ 流 で の ィ と る

ね最

テ れ 出 き 流

プす

C し

来 的自己において 在

・その神と流通し合う

(59)

C 自由の 0 ロのコ描 Ⅰ目口のの コ げ す圧 すののⅡ 死して生きよ ! ロ由由 ㎏ 由 ∼の守こ由ののトロの ゴ 田の す の㏄ ロのユ抽 ・ やがて夜の蛾 ょ お き へは灯にと び こんで 口オ

︵臣の

0 ゴヨ の︵︵宮ロ ロコ ㏄ づ円ヴ qp ロコ ︵ わが身を灼いてしま ふ の た

五八

東方

こと

のの

目 0 ダ㌧口目

ヨの

n

︵乱の田の

サ ののゴロの︵

生きものの切なさをわたしは

ふ の

に馳 ることにな

はできなかつ

でマリアシカと て行ったのであ って ル 四束 ガ の のである。そし の 境地に至る 迄

穏 Ⅰ

(60)

しご

のののの

曲トヴ

目口年ゼ

く のⅡ年正

下目

e

由 由ら

肘宙

口内ⅡⅠ。

この詩に現れた情念の激しさは、そのま

ワイマールに帰っている。それではダーテ

たであろうか。生命の躍動と愛慾の闇の中に

リズムに乗せざるを得なかつたであろう。

リアン

に対する愛は激しく波打たずにはい

における如く相手を犠牲にして前へ前へと

異なるものでばなかつたであろう。終りの

テを

我々は思い勝ちである。あらゆる煩悩を

勝ちである。しかし、それはむしろ生々

。自ら身を灼

火蛾の迷いと焦躁、灯の申

はできない。余りにも平起

・余りにも淡々

であろうか。そこには、全人格を投げ出す

思い上りと独りよがりの浅き生があるのみ

愛慾高潮の死において却って生きる底の大

ゲーテの宗教思想

この 摩可 不思議にふれぬかぎり いつでも人間は地上の夜の かなしい客人にすぎ ぬ , と呼ぶ間柄ではあ っ を 破ってまで身を退き 単 悟道に午給を保ち得てい ら 燃えたぎる情熱を詩の はなかつたにしても、 マ ものは、今までの恋愛体 燃焼の度合は何らそれら

淡 な行いすました ダ| を グーテの諦観として 仰 であるといわればならな の 生命に生き 壷 くすこと 実 、無明弁を脱している 綻を来す脆弱性をもちつ 燃焼、身を焔の中に投 ず ではなく、生を充実拡大 五九 433

(61)

上ハ O する、生の眞中に抱き収められたものである。

大な生命力の中に輝

ることではなく、 ま

けざるを得ないことなのである。 ︵ トミ 8 ︶ の富 す口つい オ 住戸 日の ︶ 隼ざ 木のⅡ㏄ 0 口。 さばれ見 よ 蝋燭を 、 分 つ ∼の臣のす田のロロロロの日色の づ のⅡ抽の オコ 滅びながら照らすぞかし。

なければならない。

ト 二 % 拍 0q げであり

大生命への苦行を見

ば 、硬化しよ う とす

むことは踏み切るこ

一回にわたるライン 族

道を見出すことがで

不断の﹁活動﹂であ る 紳を自覚すること、本来的自己に還ること、 ヰ珪 ︵Ⅰ︶口口Ⅰ し笘 0 ゴ,づ 0 ﹁の 宮 e ∼Ⅱゆめの ︵ 4 ︶Ⅰ ︵ 3 ︶ グソ トルフ﹁ゲーテ﹂

解と 論文﹂ | , 内由 口ま 荘 縛し 守ギ, ・︵マイヤー 坂 ︶ 生 あるものに内在す 433

(62)

434 ︶ Ⅱ 目 一

酉の大地にしっかと 踏 とにおいて直立する。

るグ一テの 現実生の

対立するものは対立の

おいて人間は自己の源

創造することであ っ

ゲーテの宗教思想

先 へ進むことは同時に自己の根源的な在り方、 きの中に 顧 わに働いて がその危機を超えて 先 原動力 は 、また本来 ある。それ故に 、そ 本来的自己に帰るこ る 内在神と一に成 っ 六一

0 局旨 い 。 ガ のりロロ︶ ︵ 6 ︶ グ ルドルフ﹁ゲーテ﹂ ︵ 7 ︶ 西 哀詩集︵マイヤー 版 ︶。 大 m 定 一調。

(63)

た一つの神秘主義的

面的に純化し行くこ

。たヤ、浄化される

下日キ孔の︶を

遊離した

胡念

い 0

この矛盾のま

にあっては詩を作

てこの

ガ即

T

巳い杖、

ることになる。

酉を貫く

祀は、

づダ笘抽ら

日の由の

,目

︵ 寺

自体の内に働く紳で

て由

Ⅰ づゴ曲俺

0 日の臣の冊

者としては汎神論者。

るであろう。

関わりがなくな

Ⅰ ノ 、 ・一一

5

(64)

ば 人 類 の 根

源 白 9 な @

の 開 発 と と 掃 か 根 ッ は の に に の す カ し す ら ら 源 の こ 打 席 は 自 覚

るで

なの

てるな逸に

誤い腕

おを

そ束

打た方

っ跡

に か 荷 っ 白 し い 臭 い に グ も ま で 鍛

錬 さ れ

る ま へ い 能 て で ら い 西 、 睨 苦 で の

上性

孤 あ 生 ぅ 束 片 皮 ,一 行 を

0

叙遁た事

コ つ

をりるの

と。

活諺の

"

東し

" た 山 径

逸走

傲 ん な 全

動の

の後

父 な に L

慢でつ休

を 境

覚跡の

一 げ よ に の い た を 続 地 と

形蛇

れ ぽ

な 明 る い 自 主 心 行 ろ い は が ら ぬ ら

か戦力の的

「英介

にく

ぅ難

いなに

や道

@ で 闘

が内

な い そ そ で い 残 の で あ 的 あ の 能、 働 は て て れ し あ

る跡

。 つ 436

(65)

( ( ( ) ) ) ) 岡西 コヱ

古義

き ・ ご

集帝ル

,マ

一日。

訳 の ヲロ の ガ 目 0 0 口口

失して行く時代であ

遣 する自覚の道を 、

は 彼の世紀の魂である。二三マ 一ソン ︶ ま ︵ 1 ︶ q. の︵Ⅱ ナりロ @ パ WOn ︵ ゴ m. p のⅠ 毛 0 の︵・ 0 の出ナ りゴ の

0 づゴ の目言 が 。 ガ 。ロロ 坤 ︶

ァ である。それにおい

由 であることを、 自

は エゴイズムによる 四 卸 7

(66)

用語のことなど

るものをも

位 におくものの

数杯ⅠはなⅢ

り Ⅰ

教会及び同教徒を指すこと慣用の通りであり、

明治以後のもの

438

キリスト教の日本的

耕地

(67)

︵ 古 拙 これを この所 数技術 ヘ キリス あるが、 部分は離 い 。それ しに ヵト 進展 は 、 心事とな る。逝去 されなけ 然るに に見る ミ 二口 民衆の中 料が問題 カト ソ 工 ⅩⅠ ヘノノ

活字を以て

0 日本の布

ある。

称するので

方 教会の大

数にすぎた

これを手放

の 東洋への

教 上の大関

るものであ

考し 、活用 れば ならない筈である。

ン 版の諸文書

ので、一般

まずその 費 である。

実現されるの

4

(68)

0 人に妥当すること が 、事実を以て示さなければならぬ。 信者少数であり、 七年に始まる禁教下に ・三十年の短 い 期間

、 ンタン史を四百年の 考察に入るのである。 年の長きに 亘 つて 不 ないし、また数 代 十数 重の目付役も、ついに 主観では平帯であり 得

民 であった。

限られ、人数も約

る 。 を 並べて住んでいる

卍 曲事実には同情 す べきものがあり、東方教会などの分離よりも、

イト の 或 者は、第十 ン では p 一マ典礼によ 六セ キリスト教の日本的文化変容 440

(69)

受けず、松縄 によ る超自然的恩寵にも恐らく 恵

白日の身であり得ることを知りながらである。

年 その年数。

ヱて

力下

な い

る 六八

し 復帰教会の不適応にば今は触れない。 まれなかったろ う 仏教徒として晴天 、何時でも カトソ だけで、しかも 約 わん よ り ぼ、 寧ろ 動物を拝むように し 動物を拝むので 一穂独特の宗教と ものがない。第二 。第四、祠が発展 。そして、土地柄 るのと 異り 、カト 復帰した信者たち コントラストを 以 44 Ⅰ

(70)

どは殆ど全部がその リシタン宗門 加 8%

された。作るという

自然の成行として 出 来 上った特異な文化現象である。 大学友宗教団体に

ことにつとめた。 潜

けた質問は、彼等の

。カトリク教は 、三

是非必要であり、 教

もが、殆どが 目 ︵ オ 0% 的なものが多分に保存 トリク者たちであった。

のま ム で彼等の紳

的 宗教ではなくて、 神秘的な存在に対するおぼ ろ げな承認に よ る 、

不明のま ム暗 唱して して、それ相当に∼ 示 数曲任務を果しているのである。 六九 キリスト教の日本的文化変容 442

(71)

セ O

ざる 紳 ﹂ を

大切な玄義の

ゆる﹁玄のま

言葉を 、ど

かなか困難で

云って驚くの

多かった。 ︵第四車︶

ことができ

その世界観、

らざるところ

ことにする。

役割を果し

眺め、次にそ

る 如く、殉教

を 考察しょう。

り 者 の て た 一 拝 0 点 行

支 っ ん 二 % 豆 甘井に く 日 。 風 、 で で 443

(72)

え 言葉とな 主窃け

る 。また﹁生月の十 釈を加えう ム 左に採 録する。 ル ・ 円札土て一汁 サウナ︵㌧。 | 1.. 仏 aog 三つにて ︶

お わ 出で︵不用︶

,ぽ一て ろも、で うす にてまします。 ひ一り よ一も 、またで

しまさず、 た Ⅰ んじょ ぅ 、どし @ 。 あるじ 月の人々と親しく

説明しょうとすると これをスラスラ と暗 のであった。三位一 諦の努力をつⅤけているのではない。 キリスト教の日本的文化変容 ヒ一 444

参照

関連したドキュメント

Section 4 will be devoted to approximation results which allow us to overcome the difficulties which arise on time derivatives while in Section 5, we look at, as an application of

In Section 3 using the method of level sets, we show integral inequalities comparing some weighted Sobolev norm of a function with a corresponding norm of its symmetric

The main purpose of the present paper is a development of the fibering method of Pohozaev [17] for the investigation of the inhomogeneous Neumann boundary value problems

This paper presents an investigation into the mechanics of this specific problem and develops an analytical approach that accounts for the effects of geometrical and material data on

The object of this paper is the uniqueness for a d -dimensional Fokker-Planck type equation with inhomogeneous (possibly degenerated) measurable not necessarily bounded

While conducting an experiment regarding fetal move- ments as a result of Pulsed Wave Doppler (PWD) ultrasound, [8] we encountered the severe artifacts in the acquired image2.

This difference inequality was introduced in [14] to study the existence of attractors for some nonlinear wave equations with nonlinear dissipation.. Some other applications to

Wro ´nski’s construction replaced by phase semantic completion. ASubL3, Crakow 06/11/06