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僑郷・閩南(びんなん)探訪記 ― 福建省鄭成功研究学術討論会(1982年7月)に出席して ―

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Title

僑郷・閩南(びんなん)探訪記 ― 福建省鄭成功研究学術討論会

(1982年7月)に出席して ―

Author(s)

市川, 信愛

Citation

東南アジア研究年報, (23), pp.55-86; 1982

Issue Date

1982-12-20

URL

http://hdl.handle.net/10069/26469

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

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僑郷・?南(びんなん)探訪記 55

僑郷・?南(びんなん)探訪記

一福建省鄭成功研究学術討論会(1982年7月)に出席して一

市 川 信 愛   目  次 1.プロ・ローダ 2.討論会とその概要  (1)出席者と提出論文  (2)鄭成功をめぐる問題視角 3.三郷・閾南  (1)東南アジア鋼喬と閾南  (2)肺門と猪仔輸出  (3)福建箒と華僑送金  (4)解放後の華僑問題 4.三竿旅行余聞  (1)討論会後の小旅行  (2)格差、差別政策(?)  (3)神仏の復活 5.エピローグ  在日華僑研究への導標

1.プロ・ローダ

 去る7月25日から8月1日まで1週間、中華人民共和国福建省,厘門大学で開催された 「福建省鄭成功研究学術討論会」に,外国人招待学者の1人として出席する機会を与えら れた。鄭成功研究については,全く門外漢にすぎない者が,正式の招待をうけ、それに応 じたのは,次のような若干の経緯があった。少々,弁明もかねて初めに申しのべておくこ とにしよう。(附表2∼3参照)  1982年1月,学生・教職員からなる第2回研究視察団(25名)の団長として厘門大学, 華僑博物館,鄭成功記念館を訪問し,交歓,交流を行った。その折,「鄭成功に関する国

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 56 際シンポジウム」が準備中であること,及び鄭成功記念館長の張宗給氏から,日本とりわ け鄭成功の生地長崎県平戸における鄭成功関係の史料がなく,その収集に協力してほしい 旨の依頼をうけた。その折,「若しシンポジウムに長崎大学から出席する機会がえられた ら,出来る限り集めて持参しましょう」と答えたのを覚えている。  これより先,1980年10月,福州市と長崎市との友好都市締結を記念して,第1回研究視 察団(20名)を組織し,福二市人民政府,福建師範大学を親善訪問したが,当時の具島学 長,本島市長のメッセージをたつさえていった。その中で,友好締結の一環として,学術 ・文化の交流をすすめることが述べられていた1注1)  これを契機に,福州大学(理工系,81年末訪問)より,長崎市を通じ,長崎大学との学 術・教育交流の申し込みが来,学内の国際交流委員会およびその下部組織である学術交流 専門委員会と,留学生専門委員会で検討が進められていた。一方,陰門大学南洋研究所と, 本学東南アジア研究所との間には,定期刊行物の交換が始まったが,その仲介をされたの は,福建省人民政府外事弁公室副主任,張克輝氏(厘門大学卒,台湾出身)が,1980年8 月長崎県小浜町で開かれた「在日福建同郷会全国大会」に,福建省帰国華僑連吟冷々長王 漢傑氏(フィリッピン引揚)を団長として来県されたとき,友好訪中の橋渡しを依頼した のと併せて,学術交流への契機をつくることをすすめられたのが,そもそもの始まりとい ってよいかも知れない。  5月中旬,文末に掲げる中,英文の正式招待状が舞い込んだとき,友人で京都大学人文 科学研究所教授尾崎雄二郎君より,今回の討論会の準備委員長であり厘門大学副校長傳衣 凌教授が,客員教授として同研究所に滞在中であることの知らせをうけた。そして,同研 究所小野和子講師も,外国人招待学者の1人であるという。  早速都合をつけて訪問した。温厚な人柄に早速引きつけられ,「明清期社会経済史」に 関する世界的権威の1人であることも忘れ,すっかり打ちとけてしまった。折角,日本に 滞在され,7月10日帰国まで残すところ幾ばくもないが,何とかして鄭成功の生地平戸を 訪問されるように熱心にすすめた。傳教授は,戦前(1920年代)日本留学された方である。  京都大学当局としては,旅行そのものには何ら支障はないが,そのための経費は準備し ていないという。「何とかします」と大見栄を切ったものの,少々困った。国立大学とい うところは,誠に小回りどころか融通のきかないところだ。  幸い,テレビ長崎と長崎県日中友好協会,および平戸市と佐世保市の4機関に応分の協 力をしてもらうことになった。テレビ長崎の林田社長,谷川専務にはことのほかお世話に なったし,長崎県国際協力企画室の田嘱託には通訳として終始同行してもらうことで1泊 2日の短い来訪が実現した。72才の傳教授と夫人は,予定外の旅行がことのほか嬉しか ったらしい。中国厘門下在中,何度かお会いする度にお礼をいわれた。尚,平戸市長山鹿 氏,佐世保市長桟氏のご配慮にも,感謝しなければならない。  加えて,長崎大学から小生のほかに,アシスタントとして佐原隆文君の随行を正式招待

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 僑郷・閏南(びんなん)探訪記      57 として中国側が認めて下さったこと,および当初は予期しなかった長崎市を紹介するため の原子爆弾の被災を記録した映画『予言』の上映を中国国内で初めて(学内に限定してで はあったが)許可していただいた配慮に,重ねて謝意を表す次第です。  ていせいこう 鄭・成功 Ch6ng Chヒδng−kung 1624∼62 中国,明末復興運動の中心人物。日本の平 戸生まれ。幼名福松,中国名森。團明f嚴。團大木。囲忠節。朱姓を賜わったので国姓爺として内外に名高 い。Coxinga, Koxinga, Koxinjaなど20種余のよび名がある。父は明人鄭芝竜,母は田川七左衛門の娘。 弟に次郎左衛門のほか,異腹の4弟がある。この4人の名が森以下,木火土金水の五行にちなんで命名さ れている。 7才のとき,父鄭芝竜の招きに応じて単身明にわたり(1630),私塾で学習,南安県(福建 省)学員生となり,南京(江蘇省)の大学に学び銭謙益に師事した(1644)。明が滅びて唐王朱孝鍵の知遇 をえ,国姓の朱を賜い,成功と改名,忠孝伯に封ぜられた(1645)。抗清復明の決意をいっそうかためたの は,父鄭芝竜の降清と,大陸に渡った母田川氏が安平城(福建省泉州)で自害してからのようである(1646)。 鄭芝竜の海上権をうけつぎ,連年大陸沿岸を経略,厘門・金門(福建省)をうばって根拠地とし(1650), のち厘門の中左所を思三州と改めた(1655)。当面の目的は,この本拠を中心として沿海各地に軍事・経済 上の外郭拠点を拡大し,大陸反攻に転ずるチャンスをつかむことであり,ことに有力な徴餉地方は,福建 の三州(二二)・興化(蒲田)・泉州(三江)・三州(竜漢),広東の潮州(潮安)・掲陽 漸江の温州(永 慕)・三州(臨海)であった。つねに「大信・大義を天下に示伸する」ことを主眼としていたから,その 名目も正供,二二,楽輸といっている。この沿海経略と並行して,いわゆる東洋・西洋・南洋をつらねる 貿易を行ない,直属の五大商や,五常五行にちなむ十二行などがあり,日本・琉球・台湾から七三・交趾 ・シャム・三二などにおよんだ。永明二朱由榔に表を奉り(1648),威遠回ついで三国公に封ぜられ,北 上して張三振とも連絡した(1649)。日本に対し数回にわたって援助を請うたが(1648,51,58,59,60), その効果はあまりあがらなかった。延平三王に封ぜられ(1653),まもなく清から二三公に封ずる条件で 招降されたがうけず(1654),永明三三三三からはさらに潮王に封ぜられた(1655)。三二芝竜によるあい つぐ清の招降を拒絶し(1656),ついに乾坤一才鄭の南京攻略を敢行したが(1658∼59),先行の張言言との 連絡もたえ,一敗地にまみれて三門にのがれ帰った。従軍した朱之喩が,日本投化を決意したのはこの直 後である。それでも清はなお鄭氏を攻めあぐみ,ついに沿海5省にわたる遷界令をしいたが(1661),こ の年2万5,000の将兵を率いてオランダ人の拠る台湾を攻略し,プロヴィンシアProvincia砦(赤嵌城, のち承天府),ゼーランディアZeelandia砦(台湾城,のち東都)をおとしいれた。いわゆる〈蘭人降伏 の図〉というのは,プロヴィンシア開城に関する談判の図で,最終的なオランダ人降伏の図ではない。バ タビアから救援部隊がきたり,清軍から応援の申し込みがあったりしたが,長官コイエットはついに軍門 にくだった。台湾解放の目的は,やはり抗清復明と大陸反攻のため,新たな基地を開拓するにあたった。 イタリア宣教師リッチRicci(李科羅)を呂宋招諭におもむかせたのも(1662),その強化策の1つであった が,たのむ永明王朱由榔は昆明で殺され,また厘門留守の長子鄭経の不義事件などもあり,志をとげないまま この年急死した。日本で彼に関心をあつめた時期は3回あった。すなわち近松門左衛門の〈国性爺合戦〉‡ 演前後,日清戦争前後,日華事変・大平洋戦争前後であった。中国でも清朝は彼を顕彰し、謹号をおくり, 建廟をゆるしたが,現在も民族英雄として,台湾でも大陸でも注目されている。西洋では日中朝3国にみ るような,特別の同情や弁護はないが,関係文献はかなり多い。(石原道博) 圏 楊英:従征実録.清代官書記明台湾鄭氏亡事.三三:閾海紀要,王先謙:東華録.江日昇:台湾外

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 58 記.除郵:小膜紀伝38.延平二王遺集.李朝実録,仁宗・孝宗・顕宗.台湾省文献委員会:鄭成功誕辰紀 念専号,文献専刊1−3,台湾市文献委員会:鄭成功史料専号,台南文化5−4.院畏錫:鄭成功史料合 刊,1957.華夷変態.川口町儒:台湾丁丁紀州.伊能嘉矩:台湾文化志,1928.幣原坦:南方文化へ建設 へ,1938.石原道博:鄭成功,1942.同:明末歩初日本琴師の研究,1945.同:鄭成功と朱墨水,台湾風 物4−8・9.同:鄭成功雑考,同4−10,5−1,5−4∼9,6−1.同:張憾言の江南北経略,同5−11・12,同 :脳性爺1959.F. Coyett:‘tVerwaerloosde Formosa,1675. L. Riess:Geschichte der Insel Formosa (Mittheilungen der Deutschen Gesellschaft tur Natur−und Vblkerkunde Ostasiens,1897). J. Campbe11 :Formosa under the Dutch,1903.

2.討論会とその概要

 (1)参加者と提出論文  鄭成功という,1人の歴史上の偉大な人物をめぐって,かくも盛大な研究と学術討論会 が,中国において,国際的な規模で開催されたことを知らない。鄭成功自体については, 既に多くの論著があり近松門左衛門の国姓爺合戦小説の主人公としてあまりにも有名であ る。だがいざその専門の学者,研究学となると,意外に少ないことが分かった。わが国の 招待学者は,小生は論外として,東北大学寺田隆信教授,北海道大学浜島敦俊助教授(と もに,中国留学中)の両氏は,わが国で明清期の社会経済史の進新の学究として知られて いるが,自らも述懐されていた如く,鄭成功の研究家ではない。  アメリカからは,3人の学者が来ていたが,宿舎が同じだったこともあって,いち早く 話し会う機会をえたが,いずれも鄭成功の研究家ではないと自己紹介された。以下の人た ちである。 Wright州立大学,遠回博士  南California州立大学, J. E. Wills博士  太平洋Lutheron大学, G. Guldin博士 がそれで,前2者は歴史学,Guldin氏は人類学者だった。遠清博士は,北京大学で客貝 教授として滞在中だから,外国からわざわざやって来たのは,日本からは長崎大学のわれ われ2人と,アメリカの2人だけだった。国際という名が敢えて附してない理由は,招待 客が日米両国に限られ,7名にとどまったためだったのかも知れない。前述した京都大学 の小野講師は,都合でみえなかった。  ところで,正式の招待をうけて出席した者は,国内外を含め121名であった。台湾へも 招待したが(人数不詳)誰も来なかったし,香港も中押大学からは遂に欠席された。  学会の性格は,勿論学術議論にあるにせよ,台湾解放を強く意識したものであることも 否定できないであろう。というのは,鄭成功が台湾の修復(解放)を果して,300年目の 1962年に,国内だけの第1回鄭成功研究学術討論会が,同じ厘門大学でもたらされたこと,

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 僑郷・閲南(びんなん)探訪記      59 文革期は中断され,今年は320年目を記念して第2回目が開催されたことからも類推され よう。  加えて,出席者の肩書きからも,かなり政治的意図ないし背景のあることがうかがわれ る。この会自体,開催校の砲門大学が主役ではなくて,福建省人民政府が主導したものだ ったことが,会の進むにつれて次第に明るくなった。 福建省邦成功研究学木う寸’沿会     遂靖名単  1。甲南{亭共福建省委)  2.伍丁丁{ 81  ” 》  3.程序( 璽1 睡 )  4.張替心{福建省人民政府,  5.黄明(宇共福建省平押侍邸,  6.明言凡{  51   ”  ,  7,王一平(福建省文教亦}  8.隊下五(中共福建省委宣侍鄙)  9,;林望中(福建省外亭亦) 10,    (福建省対台亦) 11.商並汎(信州写区政漕那]山回, 12.陪自脊(甲共平野市委, 13.王一士( 9’  ” ) 14.曽 鳴〔反1コ大学) 15.田昭武(11  ”) 16,徽凌(鱒  1圏》 17.置文 (甲共砂口市委) 18.林子奈(福建 社会科学院) 19.周立方(中共福建省委宣佳部理沁処) 20.刻学沸(福建社会科学院) 21.隊二二 福建姫萢大学拓史系) 22.李一旦 福建省文化局) 23,李瑞良 福建人民出版社) 24.方沢生1甲共戻f1市委宣侍部) 25.林立《便口市文化局, 26.王純流{眞肖市外亭亦) 27.梁敬生‘無口大学党委宣侍郡♪ 28。朱夏白毛反口大学台湾研究所) 29。幸旨振隼 便口大学雨洋研」究所) 30。隊詩接‘便月大学所史系) 31.何秀英{夏口大学外文系) 32,衰:清・美国Wright州大学) 33.威冬斯‘J;旦 wi■ls )         (特写南:加剰福尼.皿州大学) 34●ヨ鷺ゑく登(G.Guldi】ユ)        (美国太平洋LU七heraロ大学》 35.寺田隆信、日本床北大学) 36.中島敦俊(日本北海道大学, 37.市ノli信愛(日本長崎大学》 38.佐原隆文(日本長崎大学} 39.麸令嗣(香港香港大学》 40.学徳基(中国社会科学甲所史研究所) 41.泰美彪(中国社会科学院近代史研究所) 42.巧 壁(珊瑚甲央統餓郡五局朱薄墨》 43.何回修(中国社会科学院厨史研究所) 44.郭松叉( 鱒        ” 》・ 45.張小林(中国社会科学院近代史研究所} 46。沖辺齢(北京大学輝史糸) 47.秦宝尽(中国人民大学清史研究室, 48.昊胡馬(中国人民大学梢案系, 礎9.王僅翰(甲唄民族学院拓史系) 50,施朕朱(甲央民族学院民族高冷所) 51.許良国(甲央民族学院画.史系♪ 52.願 城(北京挿萢大学拓史系, 53。諸葛汁(茄史研究条志社》 ξ」4. 杜焼’言’(中国史研兇長震志裡) 55。赤双碧(光明日扱社) 56.陶誠(北京市122中学) 57・邦克属(南牙大学房史系) 58.王鋒全〔上海叛萢学院所史系, 59.刻伯涌(上海人民出版社》 60。六一坤(文江扱) 61.徐栃悉(中共湖北省委宣侍郡) 62.徐恒彬( 末省博物僧) 63.郭 皓(江酉社会科学院,

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60 84.懇懇悉(江西人民出放社, G5.余響河(香港、省妃念騒騒功委員会) 66.鍵盤干(福建艸萢大学所史系, 67.黄起{寮(  8”1  ) 68.林祥瑞(福建挿苑大学懇懇糸, 69.唐天莞《 70.林灰元{ 71.翁国難( 72.隊材田( ●量 墨画 虚 言‘ 11 闘 11 73.栃彦悉(福建;仕懸科学院) 74.ヌβ隼祥(福建省置物館) 75.張 熈〔福州頻萢寺科学校) 76.隊洒奈(泉州市文管会) 77.一雨臨く Io  ・・ ) ) ) ) ) 78.黄天柱{泉州海外交通史博物館) 78。邦景堂(泉州一三, 80.山畑章(山江地区文二会, 81.黄文英(・二二二二祷) 8Z.焦星五(展口市) 83.張宗治・く反二二成功記念循) 84.方文国(皮口市文素会♪ 85.   (甫安タ謡5ゐ6ζ功紀念=歪宣) 86.叶国氏(反口大学茄二二) 87.麻碧笙、反口大学房史系.台湾研究所) 88.庄ヵ訊(風口大学二三系ノ 89.昊:夙斌(反回大学南洋研究所) 90.隊在正(夏口大学台湾研究所) 91.蒋柄制(炭n大学二二系) 92.高文程《及『1大学尻史系, 93.林芙泉〔 94.物騒禎⊂ 95.林欝欝1( 96.懸章飽《 97.施佑青{ 8の ll I1 1躍 量9 闘 開 19 19 11 ) , ) ) , 98.那孔曜(炭口大学台鍵盤死所, 99.栃錦鯨〔麗「」大学拓.史系, 100.隊 …動く ”  m , 101っ豚凝立( ’1  ’1 , 102。李強〔彦〔口大学台湾研究所) 103.許・宏並(夏∫コ大学所史系, 104.際麹張{ ”   闘 ) 105.王歩征(福建日扱) 106.察清河(新素謡福建分社) 107. 108. 109. 110。 111。 {光明日扱福建潟者帖》 (中国新高社福建分社♪ く福建人民プー播屯台》 く椙建屯視台) ( ’1 脇 ) 112.蒋夷牧(福建二二制片ノー) II3.二三(福建人民出版社) ユ14.祝三二( ”   ” ) 115.岡ミ 志(二一編≒二三) 116.    (岳昌建i画扱) 117.:昊金專(反f]日面) ユ18.郭坤届(壷口人民 播屯台, 119.   (一口屯視台, 120.   史  聴  ♪ 121・傅柏翠(省紀念邦塵功委員会)

礎盤

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畢騰躍

・二麟

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 僑郷・閲南(びんなん)探訪記       61  このほかに,討論会開催の事務を担当する秘書処工作の秘書長に陳国強(厘門大学歴史 学・兼務)が当り,副秘書長焦星五(厘門市人民政府・兼)が就任し,秘書組7人,学術 組5人,対外連絡組3人,行政組12人の計24人の組織がつくられている。極めて周到な準 備体制であったことが知られるが,同時に,わが国の学術会議(国内・国際を問わず)に 比べ,極めで行政主導型の討論会であることの印象を強くもった。  尚学会のスケジュールは,7月25日外国人招待学者のみを厘門大学の招待所でレセプ ションのあと,厘門市内の華僑飯店でパーティがもたれた。翌26日から30日までが学会の 報告討論集会が開かれたが,何分,日中は,40度(摂氏)を越す猛暑の上,学者の大部分 は高齢者のため,早朝8時半から11時半までと,午後3時から6時まで,更に夜7時から 9時までという1日3回にわけて開催された。  発表された中国側の論文は,次に示すとおりだが,全省,全国から200編近い応募のあ ったもののうちから,50編にしぼったのだという。いずれも冊子(合本を含む)として, 招待された者全員に配布された。  総じて,政治的軍事的視点からの従来の研究に比べ,社会経済史的な研究業績が新らし い動向として評価されたが,これには,傳衣凌教授の影響が少くないとみてよいであろう。 欠落した分野では,宗教学的,イデオロギー的視点からの研究成果であった。 福建省三二功研究学未封・恰会    脱文二乗 ・’て

[『瞬響〕雛隻

2・〔申央民族学院〕 王勤翰 3、〔  啄   〕 祢艮国 4・(  旬   〕 施瑳;朱 5・【申国入民大学〕 泰宝埼 6・(  騨  〕呉奇行 7・(上海姉苑学院〕 王鋒全

8’〔覇蓼四四}徐撚

9、ξψ国註会科学院       強小林   斌吏鋳究所〕 ユ。、{撚夫学〕 祢大田 11、‘上海人民出版;註〕 12、〔 末省博物循⊃ 徐域,彬

13油京市122浅学〕陶城

14・(福建姫萢大学) 朱稚干 15、〔 16、〔 1ワ、〔 18、〔 19、〔 ” 鴨 。 〕 〕 〕 〕 〕 《邦成功和施蓼》 《清政府対台湾邦氏美系三三末》 《美子台湾竹刀政孜タ←亡之我見》 《拭野鄙成功静民族政策》 《郊成功創建天地会・悦贋疑》 《鄭氏在台湾酌屯塁政策》 《美干対郊成功和施褒曲坪粉》 《拓吏地坪研鄭克爽率台下清同題》 《恰鄙藷…》  《民族英雄邦成功泊桿エ租国忌土完三寸斗争》 刻伯溺 《郊成功身寒林夏社静美系》 黄六一  鱒 林祥瑞  o 唐天莞 《邦成功在 京活幼研究》 《捻郊成功在牧変台湾申静皐事才能》 《鄙成功躯荷夏台帥佑大並々》 《斌r沿郊成功的経沸思想》 《給施瑛菌三三功績》 《蛤帰燐功的愛国圭ヌ思想》 《恰鄭成功臥丁丁結杓及其他渉 《平成功治卑拭擦冷

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62 20、(      〕林庚元  鯖代申国人丁丁台湾瀞牙麦》 21、(  ●’   ⊃翁国珍 《殊球孕紺早期台湾文鞭事立蝉駄」嬬笹 22、(福建社会科牽院)   栃国界 《一r六五〇牟至r六六二隣郷戊功海外貿易額冷利潤額枯・;算        一身弊振孕先生商櫨, 調・〔   層  〕 傍渉添 《邦成功兵額与軍四阿趨》 24,、〔泉州下野研究会二隊酒末《鄭戊功焚青衣赴地点野幌説》 25、〔   ●   :黄天柱・彦湖泉・泰長渓《試坪邦握菌旧史功漣》 26、〔泉州一中〕郊景盤・隊換章《世嗣郊成功自象兵治中和用人》 27・〔福建長泰具政祢)黄文英《邦成功父子三次遭卑長泰初探》 28、(凌口大学〕傅衣凌《美干却成功班究酌若干同題》 29、〔 30・〔 31・〔 32、〔 33、〔 34、〔 35、( 36・〔 37、〔 38、〔 39、〔 40、〔 菊1、〔 42、〔 43、{ 脚 驚 騨 〕附子笙《美干四四功牧夏台湾二九不・同題》 〕 駈¶ 《鄭芝粛曲一生》

〕葵簸解櫛鰍貿撒系》

〕叶国床《訟《三二二二象》《二成二二〉及其作者静史規》 〕腺柾《清郊之阿静劾ξ嶢, 〕蒋畑判《美子民族直面鄭成功鹸旨旨阿題》

〕護菱《熾功在測擁嘉島》

〕襟《繍毎麟斌探》

  〕梅国螢《台湾和大防大’小租契二三系的比較研究》 ” 〕林仁川《邦氏海商資本帥果衰》 44、〔度口:大学⊃隊 45・( 46、( 虫7、〔 68、( 69、(度肩邦成功紀念循り張宗治、白文囮、活文貴《美子邦成功研究静几φ阿題》 60、(福建省榑物舘瀞φ下下《斌恰邦成功建立、呪固照門摂据地的斗争》 時〕〕顔章炮《恰台湾血清対海峡丙岸祭排酌二二} 鱒 〕施停青《有美郊成功抗清歯三二二二》 ● 〕 鱒 《有美施褒的弓イト阿題渉 闘 〕那孔昭《清政府対鄭氏集団菌招降政策及其影府冷 ’ 〕笏錦騰《拾邦成功身南朋宗室酌晶系一蕪蛤邦成功静忠君思想渉     勃《邦氏肘壷台湾放馬富田賦負担} 昌 ⊃品品立、隊在正、刃吼昭《鄙戊功坪{介的几季同題》 ● 〕隊孔立・李強《李’日成・多ぶ変、邦成功一一拓吏合力之一一例》 “ 〕隊国強《台湾高山下支持鄭成功牧:隻台湾》 鱒 〕 ・ 《却成功牧夏台湾曲囁語貢献》  以上の内容から推察されるように,学術討論会は,福建省をあげて準備され,ただ厘門 大学は会場となったのみという印象が強いものであった。勿論,準備委員長は,厘門大学 副校長の傳衣凌教授(歴史学)であり,主導的役割を果されたものと思うが,行政(とい っていいか,政治かも分らないが),の大きなバック,・アップがあったことは会の進むに つれて明らかとなった。社会主義国における学術的イベントの一つの性格,あり方を示す ように思われる。  大会の総括として,さきにもふれたが,慶門大学陳礼立教授は,閉会式において,概要

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 僑郷・閾南(びんなん)探訪記       63 次の3点にしめくくった。 ①本討論集会によせられた,鄭成功によせられた内外の論文は150編で,うち50編を記  念論文集に収録したが,その編集と印刷に当ったのは,埋門大学台湾研究所と,福建省  人民出版社であった。 ② 内容別ビ区分すると,従来の研究を継承し,深めたもの53%,新らしい領域を開拓し  たもの15%,新らしい視点,方法をとり入れたもの32%であった。 ③総じて,研究分野が,20年前の第1回討論会に比べ,広がりと深まりがみられ,一歩  前進した。とくに,鄭一族の抗清運動の研究がとりあげられたこと,鄭成功に関する経  済面での研究がとくに目立った。  ともあれ,討論会は途中台風に襲われたが「勝利の内」に終ったのである。  (2)鄭成功をめぐる問題視角  ところで,外国人招待学者は,それぞれの専門分野に引き写した鄭成功を論壇で展開し た。寺田教授は,わが国における鄭成功研究の歩みを,小説の領域(近松門左衛門)から 学問の領域に引きもどした転機をなした学者として,天保年間に活躍した守山町奨と,そ れを継ぐ平田貞幹(嘉永年間に活躍)とし,明治・大正期の幸田露伴らの研究をへて,今 日代表的な研究家として,元茨木大学教授石原道博氏の業績を高く評価された。  浜島助教授は,鄭成功に代表される17世紀商業資本の活躍の舞台となった,東アジアか ら東南アジアにかけての一大海上商圏構造を分析,併せて海商たちの守護神であった,娚 姐廟の分布が,彼等貿易商人の支配経済地域を画する点で,一つの指標となることにふれ られた。宗教学的視点からの問題提起がなかっただけに興味を引いたし,寺田教授は,中 国研究者の外国文献への関心の薄さを批判された。  両氏のあとを受ける形で,平戸を中心とする史料,碑文,文献の紹介を素材とする報告 を行ったが,スライドと8ミリ映画を併用したわれわれの報告は,特設された会場で,第 3日目の夜に準備された。  未公開の文献『平岡語録  鄭氏兵語』は前述守山奨によって,平戸藩主の特命をうけ て天保2年に編纂されたものだが,その内容のうち,幼少時の鄭成功(幼名福松)に関す る事項は,当時民間に伝わる口碑を記録したもので,通説と異なるいくつかの点があり, それなりに反響を呼んだ。例えば,彼の母が田川マツではなく伊東氏とすること,中国に 渡った年令を,7才でなく14才とすることのほか,出生にまつわる天変地異の諸現象を伝 えたことも紹介した。  同文書を,引き継いで碑文にした,平田貞幹が作った原文もまた,平戸の松浦史料博物 館に所蔵されたものを携えたので内容も簡単に紹介したし,碑文拓本をそえて贈呈した。  つづいて佐原君がスライドを使って,平戸と台南の鄭成功関係の史趾を紹介,更に続け て原爆記録映画「予言」の上映をし,大きな感銘を与えた。ただし,学内及び学会出席の 幹部に限られての観衆であった。8ミリ映画は,機械が合わず上映できなかうたが,学

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 64 会の後で,三州市へ立寄った際,福建省テレビ局でビデオにとりたいとの申し出があり, 快諾した。恐らく既に放映されたことと思う。  ともあれ,鄭成功をめぐる3人の日本側の報告は,問題の視点こそ異なるが,大きな齪 歯吾はなかった。アメリカ側3人についそは,部会が異なっていたので紹介を省くが,Wills 氏は,鄭成功没後も閲南地方で納税を鄭氏へ行った新らしい記録を紹介されたときいた。  ところで,鄭成功に対する評価と同時に,学問研究の視角が,今日の中国でどのように 今後展開するかについては,些しばらく時の経過を待つ必要があろう。ともあれ,私個人 としては,新らしい華僑研究の視角をさぐる好機であった。即ち華僑のルーツをどこに求 めるべきかについては,必ずしも意見・見解の一致をみていない。19世紀西洋植民地資本 の東侵=植民地経営に伴う労働力としての.苦力貿易(猪仔貿易)とみるものと,それより        (注2) 古く,中国海外貿易史の初期,10世紀以前に求めるものがある。だが,在日華僑について みるなら.ば  より正確には,長崎滞留中国人  ,1689年の唐館(別名,唐人屋敷と呼 ばれた)建設前後に求めるべきであろう。  即ち,「在地唐人」とよばれる中国人がそれで,長崎で貿易に従事していた中国商人とそ の平貝・船員たちが主流を占めた。だがそれ以外に,明津(17世紀初頭)満州族の中国征 服のさいに亡命した「明末遺臣」の子孫が少くなかった。が,前者が一定期間の滞留の後, 本国へ回流するのに比べ,後者は日本へ帰化し,日本人女性と結婚し,日本姓に改姓した        (注3) ため,唐僧以外長崎市での中国人社会は存在しなかったといわれる。  従って,在日華僑の研究にかかわることを企図した最近年になって,華僑を単に19世紀 の猪仔貿易以降に限定する従来の考え方に,一つの転機を感じ始めていた折でもあり,今 回の討論会出席は,それなりに有意義であったと思う。それは,厘門という土地柄が,鄭 成功に代表される明・清期の接点(17世紀)と,アヘン戦後の勃発に伴う列強下の清末期 (19世紀)という2つの転機において,いずれも重要な歴史的地位と役割を有したからに ほかならない。(附表1参照)  即ち,円滑は,歴史的には明らかに2つのピークをもつ。一つは,明・清両朝の転機に おける,鄭氏一族がここを拠点として活躍した時代であり,いま一つは,アヘン戦争前後 の帝国主義列強が中国へ食指をのばし,半植民地化への一つの拠点とした時期である。前 者は,民族的英雄台頭の場であり,後者は,民族的屈辱の象徴でもあった。  鄭一族は,前述したとおり1662年,台湾を略したあと大陸反攻を試み,一端1674年厘門 を奪回したため,イギリス人は追放され,商館は破壊された。  このような経験から,清朝はイギリスよりもポルトガル,オラシダとの通商を優先し, 厘門に代って広東を開港した。再び厘門が開港されるのは,アヘン戦争(1840∼1842)の 結果,5大港(広州,福州,寧波,上海,平門)の一つとして開港されるまで待たねばな らなかったが,それは表面上のことで,密出入国者,苦力らの海外進出はつづいていた。  19世紀末,第2のピークをむかえる平門港から,1852年,苦力が英領ギアナへ流送され

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 僑郷・閾南(びんなん)探訪記      65 たが,それは「浮地獄」の始りでもあった。このとき乗船した154人のうち,航海中69人 が船上で死亡,95人しか着かなかったという。同年の第2船(2隻)にも,657人中105人 が死亡するという悲劇とともに,料簡の新らしい時代の幕は切って落されたのである。  1847年から1874年までの27年(紀4半世紀)の間に,営門,広東,香港,マカオの4港 から輸出された苦力は50万にのぼると推定され,東南アジアのほか,キューバ,ペルー, チリ,サンドウィッチ諸島へ向けられた。その悲劇の総計は,表1∼2に示すとおりで死亡は 病死のみでなく,浜揚に反抗する自殺,飢餓,暴力による殺傷者が多く含まれている。(須 山卓『華僑経済史』近藤出版社,1972年,参照)         表一1 植民地奴隷制下の中国人苦力貿易  〈出港地別〉 出港年 出 港  地 忌数 乗船者数 上陸者数

航海中

?S者数 死亡率i%) 年 隻 人 人 人 人 1853 厘     門 2 811 647 164 70.3 1859 ホ ン コ ン 2 761 701 60 21.9 1860 ホ ン コ ン 6 1,964 1,940 24 7.15 1861 ホンコン・広東 9 2,852 2,751 101 28.99 1862 ホンコン・広東 c 門・汕 頭 7 2,690 2,588 102 27.07 1863 広     東 1 413 396 17 4.11 1864 広     東 1 519 509 10 1.19 1865 黄     哺 5 1,771 1,688 83 24.48 1866 厘 門・黄 捕 2 798 789 9 2.19 1874 黄     哺 1 385 387 1 0.25 1879 ホ ン コ ン 1 516 515 1 0.19 (注)前出須山卓著より 表一2 苦力貿易船死亡率(1850∼1856) 〈目的地別〉 年 度 目 的 地 人 数 船 数 死亡者 死亡率 1850 ペ  ル  一 740 2 247 33% 1852 パ ナ マ 300 1 72 24 1852 ギ ア ナ 811 3 164 20 1853 キューバ 700 2 104 15 1853 パ ナ マ 425 1 96 23 1854 ペ  ル  一 325 1 47 14 1856 〃 332 1 128 39 1856 キューバ 298 1 132 45 (注)二三伝著 半谷高雄訳『中国植民史』より引用。

3.僑郷・閲南

現今,東南アジアや世界の各地で活躍している華僑のふる里の一つは,閲南であり,そ のルーツは,苦難と悲劇に色どられたものであり,今日の華やかさの陰に,涙と汗と血こ んがにじんでいることを知らなければならない。「海辺の花園」といわれる美しい門門の 歴史には,東南アジア華僑輸出港という,悲惨な裏面史がかくされているのだ。

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 66  (1)東南アジア華僑と間南  五大常といわれる福建,広東,客家,潮回,海南出身者の,東南アジア各地への分布状 況は,表に示すとおりである。そのうち福建常が多い国は,フィリピン80%,インドネシ ア55%,が主流国で,シンガポール40%,マラヤ30%がそれにつぎ,タイ10%,南北ベト ナム8%,カンボジア6%では少数派に属する。        三一3 東南アジアにおける華僑郷幣の勢力分布(%)

     常

装ハ

福 建 広 東 客 家 潮 州 海 南 その他 タ     イ 10 8 10 60 10 2 マ  ラ  ヤ 30 26 22 11 9.5 2.5 シンガポール 40 18 1 23 一 18 インドネシア 55 15 20 10 『 フィ リ ピン 80 20

丁ベトナム

8 41 11 37 3 カ ンボジア 6 15 5 67 7 一 ビ   ル   マ 50 『 50       (注)1.黄天心『華僑経済問題』1963年より,ゴヂックは高い集中を示す。         2.インドシナ戦乱以降については,流動的で推計困難なためやや古いが          参考としてかかげた。  郷土とのつながり「幣」を重視したのは孫文で,彼は清末,注精衛をともなってシンガ ポールを訪れ,清朝の打倒とそのための援助を華僑に訴えたとき,上記五大誓のほかに三 江甜を加えて六回目したのに始まるとされる。そのベースには,地方別,二三,州別,県 別,村落別の土のつながりがあり,例えば多数の同郷人のいるところでは,常組織も省→ 州→県→村という狭い地区へと細分化される。反対に,少数派の国では,省レベルで一本 化する傾向が強い。  幕の特質の一つは,伺じ職業集団と表裏一体をなすことである。福建人の多く従事する のは,運送業,貿易商,金融,為替,自動車,自転車業,ゴム製品,製糖,製油業等の軽 工業であり,長崎では飲食,料亭が多く,勿論国により若干の異同がある。  また,同じ姓氏との関係もあり,マレーシアのペナンの福建甜は,楊,謝,林,邸,陳 の五大姓が中心となっている例がそれである。タイでは,蘇,陳,劉,薫,許姓の人が, 福建会館のリーダーの中で多い姓氏である。主として南タイ地方に住んでいる。  ブイリピンでは,福建蕎は多数派を占めるためかえってまとまりが悪く,逆に小数派の 広東誓が,セブ島(1980年春訪問)では,立派な会館を結成していた。  彼等は,言語別,出身地方別に団結したが,その結合集団を「甜」(ばん)と呼ぶ。彼 等の言語(方言ではない)を系統別に類別すると,福建=二三系と広東=専管系にて大別 れ,更に前者は,福二,厘門,弓頭の3つに,後者は広州と広西の2つに分かれる。更に 亜流ともいうべき言語が広西を除きそれぞれ2つづつに分かれるから,細分すると9つの 言語集団が形成される。しかし,東南アジアにあっては,言語のほかに地縁と職業上の結

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 僑郷・閾南(びんなん)探訪記       67 合から,福二幣,福建幣,(別名泉潭幣),海南需(慶州),潮州智,客家常,広東幣(広 府),広西幣の7つにグルーピングされている。その言語のツリーを示すと下図のおりで あり,更に地図に落すと,図2のごとくになる。 図一1華僑の言語と需 興化語 福州語 福寧語 潭州語一 閾語系 厘門語 泉州語 福f老語 汕頭語 潮州語 客家語 広州語 卑語系 広東語 広西語 福州甜 福建甜 海南蓄 潮州需 客家智 広東常 広西甜 図一2東南アジア華僑の出身地略図    クリづ       ロ       ノ   、,.!一…・∼.◎   ∫心  ,ノ    ニ!       ’ハ    君’ρ・●’し嚇   ,    〆     “《,!亀”   、鴨ノ f},㌔’   ㌔ し・C    ’メ    葱._ ∫一一ノ ・tブ   広酉省 し’て  覧、ノ’   鴛州半血

   /江丙バ

湖南省    1   .〆    芝        福娩省   ;k

細ll鼎煮

 齢難1’ 高州  L   浜門西1昏

鰯騨

rll瞭 剛11 1開1[川髄人 萎葦客察入

灘酬人

㎜瀾獺広東人

躍灘人

一・‘一…一・ネ境線  今日,福建省出身の華僑は,大別して福州人,閾南人および福清人の3系列で呼ばれる が,つまり,福建寄という場合は,福建省出身者(正確には福建系)を総称する場合と, 狭義の閲南地方(主として泉州,潭州,永春)の出身者を総括して言う場合とがあり,後 者が通称福建蕎である。前述したとおり,閲南人はその中心都市名を冠して,泉潭常また は泉潭永幣と自らを名のるのが普通である。  (2)厘門港と猪仔輸出  福建省は2千年前には漢族とは違う種族が住んでおり,長い海岸線をもっていた関係上, 他種族が反覆移住して,中国本土のうち,ここほど多くの人種が混交したところはなく, また,山岳地帯が多く,長い期間にわたる地方的孤立とも相まって,多種類の方言が行わ れている。こうした歴史的な背景と地理的な環境により,華僑の中でも,最も氏族的色彩 が濃く,郷党意識も強固なものがあるといわれる。  福建箒の故郷泉州港は,13世紀後半に元朝のフビライ汗に仕えたマルコ・ポーロが帰路 に立ち寄り,その股盛ぶりを見て,東方見聞録の中で次のように述べている。「泉州の港 にはあらゆるインド船が入港して,香料その他の高価な商品を運んでくる。この港には南 方のあらゆる商人が集まり,物品や宝石や真珠が驚くほど多くそこに輸入され,ここから 南方の各地方に送られている。この港は世界における2つの最大の貿易港の1つである」 と。  このように昔から海外との交易が盛んであったため,この地方は約1千年前から,徐々 に移民を海外に押し出し,その数は数百万人に達するといわれている。東南アジア華僑の 中の過半数は福建系で数が多いことからくる当然の結果かも知れぬが,海外で財をなした 華僑は福建系が最も多く,財力の点でも群を抜いており,東南アジア華僑中最有力である。

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68  ところで,福建の人たちは,何故東南アジアやその他の国々に出て,華僑と呼ばれるよ うになったのであろうか。その心境を歌った民謡が残っている。

 些些僑郷民謡

番郷若是直好謙

 許多人去几回旋

都是家郷環境逼

 隻身出門難関

 厘門(アモイ)市にある華僑資料館で展示され た資料の中に「閾南僑郷民謡」(閾南地方の華僑 の古里でうたわれている民衆の歌)の右の一句が 強く心を打った。  この大意はこうだ。  野蕃人の国(東南アジア)は出かけると金もう けができるらしい。 そこで沢山の人が,何回も出かけて行っては,帰ってきている。 これというのも故里閾南の生活環境が苦しいからなのだ。 図一3

厘肖市区交通圏

猪   礪 仔    鎗一“柴

輸頭

出     客這碍去      海山贋

円匙   糊鳳

職,  円陣山    路

難靹

郷7’雛雌’

薮縮1難拶

纏欝欝。。.

拶“鱗    ・Q・   ヲぢズイポ 跨   ,融・着醐▲

f鰻竃i洪山

 摺   例 瑚剛コー 鉄踏鵜享箪

一_Q_公鈴汽享踏竣旬奪祐 繍 鴻場 ㌃く◆陽さ     焔伽喝物謹 ◎一  ’【・齢ム      毒嶋  駒,・ぴ諭

  曙聖’f♂9

    崎踏山        8門一㌔

  論評

万石増水鹿

 五亀嶋

餌コ

 なでも

戯鶏

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 僑郷・閾南(びんなん)探訪記      69  いざ,単身で家を出て,困難をのりこえてみよう。  かくして,出かけていった華僑たちは,「猪仔」(ブタの子)とよばれ一種の人身売買と もいえる「契約移民」(前借金)でしばられて,厘門の港から東南アジアを中心とする世 界の各地に運ばれていった。歴史に残る「苦力貿易」がこれだ。その港の一角に,苦力・=都 町を輸出(?’)した拠点「猪下館旧祉」が残っている。幸い開門大学台湾研究所のスタッ フの厚意により,鼓浪嗅における猪仔輸出の三頭の趾を確認することができた。更に最近, 同研究所教授朱天順氏より,別掲のような『里門日報』のスクラップ(1982年4月,日 付不詳)が送られて来た。以下その訳文をかかげるが,洋行の訳注については,鎮西学院 ウエスレアン短大吉田講師にご協力いただいたことを附記する。(地図参照) 〈門門日報記事〉    華工血涙史の実証   三門略猪仔館”の遺趾  映画【海囚】は悲壮なる昔の出来ごとを映写して,観覧者の心をゆり動かした。その結 果多くの人達が……この歴史上の厘門の猪仔館のあった現地は,一体……何処だっただろ うか?……ということを知りたがっている。  阿片戦争後,西洋の侵略者は,中国で,下級労働者を掠め集めて,これを売りとばすと いう罪悪活動をなした。そしてその活動はこの厘門から開始したものである。1845年から 1853年までは厘門が中国下級労働者を恰も豚の子……同様に,かき集め販売する活動の中 心地であった。彼等が厘門に開設した猪仔館は,全部で4ケ所であった。即ち,イスパニ ヤ,ポルトガル,オランダ三国の駐厘領事,徳滴が開設された。(1)〔徳記洋行〕,英国駐厘 領事,柏克豪期が大株主であった②〔恰和洋行〕,それからアメリカ・フランス等の領事 が経営に参加していたところの(3)〔合記洋行〕と(4)〔瑞記洋行〕である郵注①∼②)  彼等,西洋の殖民者は,中国人の無頼の徒,浮浪者,現地のよたものを雇用し,誘引, 誘拐,劫掠などの罪悪手段を用いて中国人平民を「僅かに体を横たえられるだけの猪仔館」 に集中,脱衣させ烙印(焼判)した後,アメリカ,東南アジア各地の磧山,小作農地,未 開早島での苦役労働に従事させたのである。  声門の猪仔館4個所のうち遺趾の現存するのは,宇和洋行と徳記洋行である。恰和洋行 は,(慶門前面にある)鼓浪島の三等田(三つの丘の畑)にあったもの,そして海に接し て倉庫があるが,それが当時下級労働者を豚の子の如く閉じこめていたところである。 現在は,市の飼料公司の加工場となっている。次に現在鼓浪島の東南端に〔大徳記〕があ るが往年の徳記洋行のあとである。大徳記の名は,ここに徳記洋行があったことからして 大徳記と名づけられたものである。徳記洋行の猪仔館の建物そのものは,現在すっかりな くなっているが2本の門柱が残っている。2本の門柱は生証人として現在もなお旧位置に 立っている。  瑞記洋行と合記洋行については,現存の遺跡はない。但し考査したところによれば,瑞

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70 記洋行の大体の位置は,解放前の謙順行の所。現在の農光路地番75号の所である。  合記洋行の大体の位置は,小説〔小城春秋〕に出てくる……厘門牢獄急襲大事件の発生 地点度門監獄であって現在は厩門港消防大隊本部のところである。  これらの地点は100数年前厘門下級労働者が血涙し辛酸をなめた悲哀史の始まった所で ある。G水玲,質之)ペンネーム 國南自注在手誘美方rr領以r斯三民引当牙空盲没心国酒隔心的侵 的上人的

1難羅1灘凝滞1嚢羅lll難嚢灘妻、

杁的往衣照隠淋病用「一掴等一点克英一r領’垂込尺度的在年一,国争寛仔知心海

叢難灘西和的国趨繍野『 ll離難

睾青函襲畿 馴「“二丁棺”遺吐 品品賄駆笹

       在証,侠現猪。没因奈料一,丘洋徳的仔) 泪,臥目的》略所農順在一据元和 (訳注①) (訳注②) {  母線洋行(洋人経営時代の名)  謙順⑭行(洋人が去ってから㊧をとったもの  台湾には今も〔洋行〕がある タ トン 股東(出資者)(株主) 欝}は赤い紙に書いてあり・これ難といった・  以上がその全訳だが,日系の会社が一枚加わっていたのではないかとの疑問がないわけ ではない。今後の課題としたい。  ところで1920年代幽門港からの出入国者の戦前の統計があるので紹介しておこう。  1級商人7人,普通商人166人,小商人830人,他の職業4,509人,年金生活者190人,無 資力者800人,出稼ぎ労働者1,083人,流れ者453人,合計すると,8,038人が厘門港から上 陸した中国同胞であった。「商人」のみが,明確にランクされているのが面白い。  要するに華僑排出の要因は,第1は,いうまでもなく貧困であり,第2は,それを引き 起す社会不安一戦争か,土地制度等々であり,第3は,天災,地変であった。  それだけに,彼等は刻苦勉励して労働し,その蓄財の一部を貧しい郷土のために送金し つづけて来たのである。華僑送金は,今日も尚,形をかえて続いているのであり,台湾側 も中国本土側も,有力な開発原資として,積極的に送金,投資を呼びかけている。以下, 項を改めて考察しよう。  (3)福建幕と華僑送金  福建幣は比較的性情温和でよく労苦に耐え,商才にもたけているといわれる。主として

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 僑郷・閾南(びんなん)探訪記       71 貿易,商業の分配部門を中心とし,運輸,金融部門,輸出と商業網を結びつける第二次消 費財工業部門,更にはこれとつながるゴム,ヤシ栽培などの農業部門にも進出している。 前項にのべた如くアモイが華僑流出入港となったのは鄭成功の根拠地時代に基礎をきつい たためで鄭成功の台湾経営は華僑の東南アジア進出に大きな役割を果たした。  福建系華僑として著名なのは,1860年代のタイ国の現王朝プーマ4世時代,国王につい てタイ国第2の大金持になった丁丁潭である。彼は苦力としてペナンに渡り,何度もどん 底の生活に落ちこみながら,密貿易(繊維品にマスカット銃をひそませて船でタイへ運び, 帰りには錫,胡椒などの特産品を積込み,それをペナンの輸入仲介人に売るという方法) で大いに儲け,遂には,自己所有船による沿岸貿易で富を大きくした。その後,南タイの ラノンで莫大な埋蔵量の二二を発見して一擢千金の夢を実現したのである。  プーマ4世は彼の金力と行政的能力を高く買って「プラヤ」の称号を授与して貴族に列 し,ラノンの知事に任命した。また,彼は税徴収請負人でもあった。彼の子孫はほぼ完全 にタイ姓に同化して,現在はタイ姓のナ・ラノンを名乗っている。  シンガポールのゴム王とよばれた陳嘉庚もすでにのべた如く福建系である。彼は少年時 代にシンガポールへ渡ったのち,35才のときにパイナップル栽培用に買入れた500エーカ ーの山地にゴムの苗を植えたのが成功のキッカケとなった。  自動車産業の発達でタイヤ用のゴム需要がおこり,彼は時代の波にうまくのってゴム園 を経営するほか,ゴム製品工場をもつくり,タイヤ,ゴム靴,レインコートなどを製造し て東南アジアから中国本土,さらにカナダまで販路をひろげて全盛を謳歌した。最盛時に はゴム園16,000エーカー,工場使用人6,000人,各支店の数は80を数えたほどである。と ころが世界経済恐慌にさらされて遂に1933年には破産に追い込まれた。けれども,その後 もゴム業は続けられ,彼の死後は女婿の季光前が引きつぎ,依然としてシンガポールのゴ ム王として君臨している。  集美学園村を建設した陳嘉庚の場合は,一つの事業,開発投資であったが,大多数は, 家族,親戚のための生活費送金で,間接的に閾南の経済を潤してきたのである。従って, 彼等のふる里が,東南アジアを始めとする在外同胞に対する感謝を現わし,里帰りを歓迎 する様々な意志表示や,その送金をもとにして建てられた色々な施設に,「下郷」の名を 冠するものがあっても不可思議ではないのである。  表4は日中戦争の始る以前の華僑送金の統計である。厘門港において出入国の際の党換 券も含む,と脚注にあるが,当時厘門にあった主な銀行ないし金融機関は次の6つであ った。

  中国銀行  中興銀行 

拒}豊銀行

  安達銀行  華僑銀行 

拒}党 局

 20世紀の始めの30年間,いわゆる世界恐慌の時期にあたる訳だが,10年代までは横バイ ないし停滞傾向をたどるものの,20年代に入るころから急テンポで急増してい:翫若干の

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表一4厘門歴年華僑送金(元)

    (民国十六年一二十五年)       エ917 ∼ 1926 送 金 額 指 数 送 金 額 指 数 1905(1).. _ 13,900,000 100 1921・・ 44,000,000 233 1922・・ 27,900,000 148 1906・・    … 18,300,000 97 1923・・ 25,700,000 136 1907・・ 17,600,000 93 1924・・ 45,900,000 244 1908・・    … 17,800,000 94 1925・・… 45,000,000 237 1909…     … 20,000,000 106 1910・・    … 21600000  ,      , 114 1926・・ 66,000,000 349 1927(2),. 51800000  ,     , 274 1911・・   … 17,800,000 94 1928・・ 44,800,000 236 1912・・ 19,100,000 101 1929・・ 54,200,000 290 1913・・    … 17,600,000 88 1930・・ 60,000,000 318 1914・・ 17,200,000 86 1915・・ 18,500,000 98 1931(3).. 80,000,000 422 1932・・ 47,800,000 252 1916……… 15,000,000 79 1933・・    … 47,900,000 253 1917・・ 12,800,000 67 1934・・ 43,300,000 228 1918・・ 11,800,000 62 1935(4).. 51,230,760 271 1919…    … 18,900,000 100 1920・・ 19,200,000 102 1936(5).. 58,355,000 340 t 陳儀i『福建省統計年鑑』福建省政府秘書史統計室(1936)による インフレの進行を加味しても注目される。尚,地域別の送金額は,イギリス領マレー半島 が第1位で,オランダ領東インド(現インドネシア),フィリピン,ラングーン(ビルマ) の順になっている。いずれも孫文が「華僑は革命の母」と遊説した国々である。  万一,郷里で天災や戦乱が発生した場合,その郷土送金は一層活発となり増大する。日 本がかって,この一帯を占領していた1932年から1940年までの送金額を,当時の中国銀行 その他の公私の機関で調査したものを総合すれば,1932∼35年平均30億元前後だったも のが,36∼37年平均43億元,38年60億元,39年80億元,40年120億元と急上昇している。 それ以外に,重慶政府が発行した時局公債,(救国基金等)に対して,総額2億余万元の 90%が東南アジアの華僑によって消化され,抗日戦の有力な戦費となったのである。勿論, このほか個人的な献金も多く,前述の陳嘉庚は,1941年,ビルマ・ルート改善のため,200 万元を拠出したといわれる。(太和季出井『南方華僑論』,東亜新書として昭和18年満鉄広報 課より,中央公論社を通じて出版されたもの35∼37項参照)  (4)解放後の華僑問題  現在,福建省には,4市23県に27個の帰国華僑を中心として組織された単位組織があり, その上部団体として,福建省帰国華僑野選会があり,革命直後の1950年に結成された。文 革の時期には,解散同様の状況となったが,4人組が追放されてからは次第に活発となり,

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 僑郷・閾南(びんなん)探訪記      73 現在では,4つの現代化を支える有力な手段,現組として位置づけられている。  その代表的人物をあげると, 王漢傑  (中華全国帰国華僑聡合会副主席,福建省帰国華僑連合会主席) 陳仰僧  (福建省帰国華僑牛合会食秘書長) 張克輝  (福建省人民政府外事弁公室,副主任,帰国華僑事務の行政責任者) の3人で,王漢傑氏は,フィリピン華僑の引揚者で,国際的にも著名である。  現在も,ほぼそのままの組織といわれる聯誼会の傘下の単位名をあげると,次のとお りである。(※印は,町家の居住地区を示す) 福建省帰国華僑連聯誼会一→27個の単位の聯誼会が1950年代に結成

福州市

厘門市

泉州市

域州市

子江県

南安県

永春県

台山県

東山県

(注)       福清県        恵安県        甫田県

平一松香「轍一大厘

o講(水害あり,1956年)

{石獅,金井,安海,東石,西開,罪渓,馬甲,内杭,蓮塘,池店}隣一

洪禰一転鵬頭

      古田県        海澄県

 屏南県

 尤漢県

※沼安県

※尤岩県

※永定県

※連城県

客家混住県          純客家県          客家混住県 (一たん帰国した華僑の再出国傾向もある)  中華全国帰国華僑羽合外編『中華全国帰国華僑聡合会,成立大会特刊』(1956年10月) には,巻頭に陳嘉庚の開会の辞を読む写真がかかげられている。そのメッセージのタイ トルは,「台湾解放のため,祖国建設のため奮評しよう」となっている。  大会に参集したのは,南は海南島,北は黒竜江,東は沿海州,西は新彊にいたる国内各 地,および海外からは,東南アジア各地,朝鮮,日本,ヨーロッパ,アメリカ,オースト ラリア,フィリピンの各地方からである。  1950年代は,正に在外華僑の新中国誕生に対する関心と期待の高揚期であり,その現れ がこの聡合会の結成大会となって発現したものとみることができよう。だが,文革期に

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 74 は一転して,華僑およびその関係者は白眼視され,第1線から相ついで姿を消していった。  四人組が追放されて始めて,10年間にわたる冬の季節が終り,華僑とその関係者および 華僑研究についても陽の当る時期が帰ってきたのである。  そしていま,厘門市郊外の経済特区には,海外華僑里帰りのための新村が建設中である。 (注1) 詳しくは,長崎大学商業短期大学部・中国研究会『中国隅隅潮流・創刊号』(1981年8月)を     参照されたい。 (注2) 河部利夫教授(元東京外国語大学)は前者を代表,故須山卓教授(本年4月死去)は,後者の     代表といってよい。 (注3) 浜崎国雄『長崎異人街誌』昭和53年9月参照。

4.閾南旅行余録

(1)討論会後の旅行 討論会の終了後,委員会の厚意で日本人招待4人は,最南の古都めぐりを許された。そ      表一5  中国研修旅行・停留当初計画表〔中国国内18日間〕 日  時 地   点 交通工具 目  的  地 ・来  由 7.24 厘:  門 船 香港より7/23乗船・入境 25 26 27 厘門大学・歴史学系 鄭成功研究学術討論会組織 28 慶   門 委員会 29 「鄭成功研究学術討論会」出席 30 31 厘  門↓ 8. 1

@ 2

}潭   州   ↓ 火   車 湖里開発計画「経済特区」視察 @ (長崎県佐世保市との友好の一環として) 3 泉   州 気   車 華僑大学(教育・学術研究状況視察) (石 井) 泉州古船博物館・開元寺等文物視察 4  rO }泉 州→  福 州 気   車 洛陽橋・寺院・文物視察(沿道のみ) リ僑新村・農場(国営・人民公社) 華僑中学・病院等長崎華僑の郷里を訪ねる 6  7

}福州

気   車 長崎市・長崎県と友好関係にある福州人民政府福建 ネ人民政府表敬訪問 甲州大学・福建師範大学訪問,昨年末訪問時の謝意 を表明 8 福 州→ 飛 行 機 上海交通大学・昆虫研究所訪問(長崎大学から研修       「 9 上 海 生滞在),その他 ユ0 上 海→ @ 長 崎 飛 行 機 出  境 (注)駐日・中国大使館提出「外国人入貸出境申請書」添付

(22)

 僑郷・閾南(びんなん)探訪記      75 のスケジュールと略図を示すと,次のとおりである。厘門→野州→泉州・石井→領野→福 野のコースのうち,潭州と石井が初めての旅程だった。同行者として,厘門大学助手(重 語系)李強氏が終始一緒に行動し,誠心誠意便宜を計ってくれて有難かった。  まずアモイ(厘門,Hsia−mδn, Amoy)を簡単に紹介しておこう。  福建省南東部の港市で人口22万(市心のみ)。  アモイ島の南西岸に位置し,同省最大の漁港であるとともに,福州とならぶ大商港の一 つである。(もと小安県に属し,厘門島の西岸に鼓浪填と対置している)  宋・元時代から外国貿易港として栄えた潭州の門戸に当たり,また付近には金門島をは じめ小島が多いため,早くから海賊や密貿易者の根拠地であった。  泉州府同安県に属し,古くは島名を喜禾峨といい,一名を鷺江峨ともいった。  アモイの名は,明のはじめ1394年に,周回興が海賊取締りのためこの地にとりでを築き, 中左府禦千戸所をおいたときからおこったといわれる。梶井には,1650年鄭成功が,ここ を奪って思明州と改めていらい30年間,苧環一族の領地であった。  1680年完全に清の領有となってから,水師提督を駐在させ,のち泉州海防同知を,つい で興泉水道を駐在させた。鄭氏の領有時代からすでにイギリスやオランダの商船が出入り したが,アヘン戦争の結果1842年の南京条約によって5港の一つとして開港されてからは, 上海,ホンコン,台湾,南洋等を結ぶ中継貿易地として発展した。  当時の推定人口10万,中世において星明の西に位置する潭州,龍海か海上交通の要撃で あり,元時代世界最大の貿易港の一つとして遠く西方諸国に呪えた泉州が繁栄していたこ ろは,全く知られなかった。  アヘン戦争以降,急速に発展した新らしい港市である。  今は泉州,野州も衰え,そこの住民は主として南方へ華僑として移住するか,出稼ぎへ 出た。(推定500万 1914年調べ)台湾の安平,淡水の二港とは170哩の距離にあり,貿易 と交通が盛んに行われた。毎年この港を出入する人口は15万人目いわれた(1904年調べ)。  茶,紙,果実,海産物等を写出するほか,米穀,肥料,綿糸等を輸入し,貿易額は悪評 の半ばに達する。  南洋華僑⑳主要な出発港の一つであり,ことに台湾との関係は密接で,台湾居住の漢人 は,ほとんどここを経由した。対岸の鼓浪嗅(コロンス)は,1904年万国共同祖界として 開放されたところで,アモイとは対照的な美しい市街がみられる。  1913年両市街を含んで思明県がおかれたが,現在では県は廃止され,市街部へ省直轄の アモイ市となっている。  なお,大陸との連絡には,かってはわずかに対岸の嵩唄と潭州の江東橋とを結ぶ潭厘鉄道 しかなかったが,56年末,翫鞭線の鷹潭(ヨウタン)から省内を縦道して当地に達する鷹厘 鉄道が完成した。しかも,大陸側の集美学村の北端の嵩填との間には,アモイ海提が建設さ れた。これによって,直接の陸上交通が可能となった。(日比野丈夫『道光厘門誌』参照)。

(23)

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(24)

 僑郷・閾南(びんなん)探訪記      77  次に泉州(Ch廿an−Chou)についてふれよう。  福建省,晋江街区の四駅市。同置型の専署所在地。  人口約10万,泉州港の奥,晋江の左岸に位置する。  宋以前は,未だ「化外」の地域に入れられていた。  宋の太平天国年間における貿易品の主なものをあげると,埴瑠,象犀,珊瑚,乳香等南 海物産が重要な輸入品で,典型的な奢イ多時交易であった。  泉州の別名は,刺桐城(五代頃野幌効によって刺桐が植えられた)といい,その音訳が 泉州となったといり。  上流の南安県の方が歴史が古いが,718(開元61年)ここに晋江県がおかれ,同時に泉州 の馬所として地方行政の中心となった。  明・清では泉州府といい,民国では府を廃し遡江県を省に直属させたが,今日,市街部 は泉州市として晋江専区に属し,晋陽県は南方晋陽鎮に移っている。  付近の農産物の集荷地にすぎないが,かっては世界的な貿易港として栄えた。すでに唐 初からイスラム教が伝えられたという。アラビア商人も多く,イブン・ホルターズベー(ア ラビア人地理学者)の記録に,ジャーソフー(泉町)の名がみえる。  五代,王氏が福建に閲門をたて,のち留従効がここに拠って独立し,外国貿易を奨励し たため,北宋には益々隆盛をきわめ,1080(元祐工)市舶司(税関の一種)がおかれた。  南宋以降は,貿易額が広州をしのぎ,人口も50万に達し,海外発展の根拠地となった。 萎新(アラビア人ほか外国人の東国居留地)がおかれる。(国都海安の玄関口)  元代,マルコポーロ,イブン,バットゥーロらの本国への報告文書にはザイトン(Zayton Zaiton)としてその盛況を伝えている。当時,周囲約15kmの城壁がきつかれていたという。  明中葉から次第に衰退し,港口の堆砂による船航の不便のため,清代には福州,アモイ が開港され,台湾貿易のほか単なる地方港となった。一説には,泉州の衰退は和冠の掠奪 横行によるとされるが,むしろ自然条件による港湾機能の喪失の要因の方が大きかった。  遺跡には海外交通史的なものが多く,北野時代創建の中国最古のイスラム寺院,「清真寺」, 元代のバラモン教寺院,城外のアラビア人の墓石群,宋代輸出用に築窯された陶磁器窯跡 など前述鄭氏関係史跡も郊外にある。  (2)格差・差別政策(?)  中国旅行で直面する何ともいえない気持は外国人へ対する「特別の配慮」である。  旅行が許される範囲は,すべて許可された地区内に限られる点ではどこの国でも同じと いえないことはない。自由に外国人が旅行できるところを「開放地区」といい,その範囲 は年々拡げられつつある。例えば,ソ連邦が日本人に対する国内旅行制限をしているのに 対し,わが国でも,ソ連人への旅行については,いちいちチェックしている。ところが, 中国人に対しては,わが国の国内旅行に関する限り,全くといってよい位に旅行一立入り 地区の制限はなく,日本人と同じに自由である。それに比べると,中国国内旅行の制約は,

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