『ブリキの太鼓』に関する一考察
―ネグレクトされた子どもとしてのオスカル―
波多江 洋 介
1.はじめに
『ブリキの太鼓』とは、1959年にギュンター・グラスが発表した小説で あり、大人になった主人公のオスカルが精神病院の中で自らの半生を振り 返りつつ記したという体裁が取られている。
その小説の中でオスカルは3歳の誕生日に地下室の階段から墜落して、
身体的な成長が停止してしまったのだが、このことについて彼は「熟慮の はての墜落」と表現し、彼が意識的に選択したことになっている。しかし、
もしもオスカルを実在の人物だと仮定するのであれば、両親との間に親密 な関係を築くことができず、幼少期から母親の性的な言動に晒されていた オスカルの低身長は養育者からのネグレクトによって引き起こされた非器 質性の発育不全として理解することも可能である(注1)。
そこで、本論文では主人公のオスカルを実在の人物だと仮定し、彼と重
要な他者、特に異性との関係性を考察することによって、ネグレクトされ
た子どもの心理的な特徴について明らかにすることを目的とする。もちろ
ん、このような豊かな比喩に満ちた文学作品の登場人物を実在の人物と仮
定して、その心理を考察することに対して「不毛だ」との批判はあるだろ
う。しかし、こうした仮定を用いることで、表面的には冷静に醒めている
ように見える主人公の心の奥にある苦しみや悲しみ、そして、オスカルに
生じた変化の肯定的な意味を明らかにできるのではないかと筆者は考えて
いる。
2.アンナ
オスカルの対人関係を考察するにあたり、まず、オスカルとオスカルの 母方祖母であるアンナとの関係について考えることから始めたい。
オスカルの母方祖母であるアンナは“自然”や“大地”を象徴する人物 である。彼女は4着のスカートをかさね着する女性であり、 「四着をめぐっ て一定のシステムがあり、日ごとにスカートの順が変わっていく」のであっ たが、定期的に入れ替わる4枚のスカートとは自然の変化である四季を比 喩的に表しているのであろう。また、彼女は「ジャガイモ色のスカートが お気に入り」であり、 「その色が身にあっている」とのことであったが、ジャ ガイモ色とは大地の色を示すのだと思われる。さらに、彼女が最初に登場 した場面が畑の真ん中であったことも象徴的であり、彼女は自然と密着し つつ大地に根差した存在であったと考えられる。
このように“自然”や“大地”を象徴するアンナはオスカルにとって、
自分という存在を包む自然でもあり、自分という存在を支える大地でも あったと考えられる。オスカルの「祖母のスカートの下ほど、ぼくがカレ ンダーどおりにゆったりと暮らせるところは、どこにもない」という言葉 からは、「祖母のスカートの下」がオスカルにとって、安全で、安心でき る場であったことがうかがえる。また、自分の母親の死という危機的な状 況に直面した際に、オスカルは「4枚のスカートの中で眠り込」み、「可 哀そうなぼくの母の始まりのすぐそばにいて、(中略)じっとしていた」
のであるから、祖母のスカートの下が「安全な避難所」として、一定の役
割を果たしたことも確かなのであろう。遠藤(2017)は、「危機が生じた
際に逃げ込み保護を求める『安全な避難所』である」ことをアタッチメン
ト対象の機能の1つとして指摘しており、「安全な避難所」としての役割
を果たした祖母はオスカルにとってアタッチメント対象としての機能をあ る程度果たしたと考えられる(注2)。
祖母がアタッチメント対象としての機能を一定程度果たしたことは、オ スカルの成長・発達を促す要因となったと考えられる。遠藤(2018)は、
子どもが「親以外の他者と安定したアタッチメントを取り結ぶ」ことで、 「自 律性や自他に対する基本的信頼を十分に身につけうる」こと、また、「そ れらを土台に、生涯にわたるウェルビーイングや心理社会的適応を高く具 現しうる」ことを指摘している。以下に考察するようにアンナはアタッチ メント対象として十分機能したわけではなかったので、オスカルが「自律 性や自他に対する基本的信頼を十分に」獲得できたとは考えられないが、
たとえ不十分であったとしても、祖母がアタッチメント対象として一定程 度の機能を果たしたことは、オスカルの発達に対して肯定的な影響を与え、
さらには、オスカルがネグレクトされたことによる心の傷から回復する原 動力の一つになったと推測される。
さて、それではアンナがアタッチメント対象として十分に機能しなかっ たのはなぜであろうか。そのことには、アンナが他者との間に情緒的に親 密な関係を築くことが難しかったことが影響していると思われる。例えば、
アンナは、彼女がジャガイモ畑にいた時に、憲兵から逃げてきたコリヤイ
チェクをスカートの中に匿い、情緒的な関係を築くことなくすぐさま性的
な関係を持ったが、こうしたエピソードは彼女の他者との関係の持ち方の
特徴を明確に示している。また、夫(コリヤイチェク)が行方不明になっ
た時、アンナはすぐさま夫の兄と再婚したのだが、その理由は「コリヤイ
チェクの面々と縁を切りたくなかった」というものであった。つまり、コ
リヤイチェクとの結婚においてもその兄との再婚においてもアンナは結婚
相手との間に情緒的な関係を築いてはおらず、アンナは他者と情緒的な関
係を築くことに困難さを抱えていたと推測される。
したがって、アンナは自然や大地を象徴する存在である一方で他者とつ ながりを持つ際に情緒的に親密な関係を築くことができず、異性との関係 は性的な関係となるという傾向を持っていたと言えるだろう。その結果、
オスカルにとっての祖母の「スカートの下」はある程度の「安全な避難所」
としての役割を果たした一方で、やはりそこは「スカートの下」、つまり、
性的な意味を帯びた場でもあったのだと考えられる(注3)。
結果として、祖母の「スカートの下」はオスカルにとっての「安全な避 難所」としての役割を十分には果たさなかったし、祖母はオスカルの情緒 を受け止める人として十分には機能しなかった。オスカルは「スカートの 下」の心地よさを繰り返し強調したが、オスカルがそうせざるを得なかっ たのは、彼が「スカートの下」を過剰に理想化していたからだと捉えるこ とが適切であるように思われる。オスカルは、祖母の「スカートの下」に 入ることを拒否されたと感じたときに、 「(自分が祖父である)コリヤイチェ クに半分でも似ていたら(祖母は)逃げ場を提供したに違いない」と考え たが、祖母のスカートの下が祖母にとっての性的なパートナーのものであ ることを時に彼は感じ取り、祖母が孫である自分を情緒的に受け入れてく れるとは感じられていなかったのではないだろうか。
3.アグネス
他者と情緒的に親密な関係を持つことができずに異性と性的な関係を
持ってしまうという特徴はオスカルの母であるアグネスもアンナと同様に
持っていた。アグネスは、夫であるマツェラートと情緒的な関係を築くこ
とはできず、「結婚した初日から不倫に傾いて」おり、その後もいとこで
あるヤンとの不倫関係を継続したのだが、アグネスは夫との間に親密な関
係を築くことができなかった代わりとしてヤンとの性的な関係を求めたの
だと思われる。
こうしたアグネスの対人関係上の特徴が明確に表れたのが「聖金曜日」
に生じた事件においてである。この日、アグネス、マツェラート、ヤン、
オスカルの4人は突堤を歩いていて、沖仲仕が海から馬の頭を引き上げる 場面に出くわした。アグネスはこうした場面を目撃して嘔吐したが、彼女 の胸の中には不快感や恐怖感が渦巻いたのだと想像される。夫婦がこうし た危機的な状況に陥った際の対応に夫婦の関係性が明確に表れる傾向にあ ると思われるが、夫であるマツェラートの対応は「母(アグネス)のこと などまるできにとめて」おらず、 「声をあげて笑い」「へっちゃらのそぶり」
というものであった。つまり、マツェラートはそうしたアグネスの否定的 な感情に対する配慮を全くといってよいほど示しておらず、アグネスとマ ツェラートの関係が情緒的な親密さに欠けるものであったことがうかがえ る。一方、この時、ヤンは「片手を母(アグネス)のコートの折り返しか ら差し入れて」、これに対して、アグネスもまた「マツェラートの目に触 れない」ように、「ヤンのズボンのポケットに手を入れていた」のである から、夫から得られない情緒的な満足感の代わりとしてアグネスはヤンと の性的な関係、あるいは、ヤンから得られる性的な興奮を求めていたのだ と考えられる。
ただし、アグネスがこうした関係性に満足していたのかというと、決し てそうではなかったと思われる。海の中から引き揚げられた馬の頭、また、
馬の中から引き出されたウナギというのは、得体のはっきりしない気持ち
の悪いものという意味でアグネスにとっての性のイメージであったと推測
されるが、こうしたものに直面してアグネスが嘔吐したということはアグ
ネスが本質的には性というものに対して深い嫌悪感を抱いていたことを示
している。また、アグネスは死の直前に「母はボンヤリしていたが、つぎ
にはまるで一変した。とび起きて、ぼくをつかまえ、差し上げ、抱きしめ
て、ぼくに深い穴を見せてくれた。何ものによっても、どれほど大量の焼
いたり、煮たり、詰めたり、燻じた魚をもってしても埋めることのできな い穴である」という状態になったが、ここで母親が息子に見せた「深い穴」
とは、アグネスが抱えていた空虚感のことだと推測され、アグネスは異性 との性的な関係では埋めることのできない底なしの空虚感を抱いていたと 考えられる。さらに、アグネスは死んだ時に、「妊娠三か月」であったが、
自殺ともいえるような死に方の背景には、不倫を続けてきたことへの強い 罪悪感があったと思われる。
つまり、アグネスは性的な関係に対して否定的な感情を抱いていたにも 関わらず、他者と情緒的に親密な関係を築けなかったために、その代わり としての性的な関係を続けざるを得なかったのであろう。そうして、その 点にこそアグネスの苦しみの本質があったのだと思われる。
しかし、オスカルにとって、このような母親と浮気相手との関係に幼少 期から直面し、母親の中の性的な側面に直面せざるを得なかったことは、
心の傷となる体験だったに違いない。例えば、母親たちがトランプを行っ た際に、「(ヤンが)足の指先で母のスカートの裾を持ち上げ、(中略)股 のあいだをまさぐった」場面をテーブルの下で目撃し、「わが母に拍手を 送ろう」と書いているが、“拍手を送る”とは自らの傷つきから目を背け るための行為であり、本質的には、母親の“性”に直面して、ひどく動揺 していたのだと思われる。また、「母とヤンおじさんはほとんど毎木曜日、
(中略)部屋で会って、四十五分間にわたり奮闘する」のであり、その間、
オスカルはおもちゃ屋で母親の帰りを待たねばならなかったのだが、母親
を待つオスカルの心の中にはどれほどの惨めさが渦巻いていたであろう
か。さらに、父親の不在の間にヤンが母親を訪ねてきた際には、オスカル
は「そっと逃げ出す以外に、どんなすべがあっただろう」と感じ、「太鼓
をたたきながら家を出て、五月が原へと向かった」のだが、母親が不倫相
手と性的な関係を持つと察して、一人外に向かう少年の心の中は、耐え難
い孤独感があったのだと推測される。
そうして、このようなオスカルの動揺・惨めさ・孤独感などの否定的な 感情は誰にも理解されることがなかった。オスカルは「母もマツェラート という父も僕の異議や決心を理解したり、必要なら尊重する器官を持ち合 わせていないのだ。かくしてオスカルはひとりぼっちで理解されぬまま電 球の下にころがっていた」と述べているが、オスカルは家族の中に自分の 情緒を理解してくれる人を見つけることができず、つまり、家族の中に自 分の居場所を見つけることができずに、幼少期から切実な孤独感を抱かざ るをえなかったと考えられる(注4)。
したがって、自分の情緒を受け止めてくれなかった母親に対して、オス カルは無意識的には強い不満や怒りを抱えていたであろうが、オスカルが こうした感情を母親に対して直接表現することがなかったのは何故であろ うか。理由として考えられることの一つは、オスカルが母親を一人の独立 した人間として捉えることができなかったことである。オスカルは自分と 母親の関係について「ぼくは母の表紙の裏面だった」という言葉で表現し ているが、2人は1枚の紙の表と裏のように未分化であり、心理的な分離 がなされていなかったと考えられる。岩田(2001)が「母親表象が内在化 されると、その母親表象を支えとしながら母親からの分離/個体化が始ま る」と指摘しているように、子どもは親との適切な関係を持つことができ、
親を表象として内在化することによって、親から分離することが出来る。
その点、親との適切な関係を築くことのできなかったオスカルは母親から
分離することができず、母親を一人の独立した人間として捉えることは難
しかったであろう。考えられるもう一つの理由は、オスカルが母親の持つ
脆弱性を感じ取っていたから、というものである。すでに考察したように
アグネスは誰とも情緒的な関係を築くことができなかったし、そのことは
彼女に情緒的な不安定さや脆弱さをもたらしたため、繊細な面を持ってい
たオスカルは母親のそうした脆弱さを感じ取り、母親に対する攻撃性を表 現できなくなったと推測される。
幼少期のオスカルは自らの声によって建物などのガラスを破壊すること ができたのだが、こうした表現は、本来養育者に対して抱いていた攻撃性 を養育者に向けることができなかったために別の形で表現されたものと捉 えることが可能である。声でガラスを破壊できるという能力について、オ スカル自身は“特殊な能力を持っていた”と肯定的に捉えていたが、攻撃 性を受け止めてくれる人が存在しなかったために結果的にそのような形で しか表現できなかったという意味では、そこにオスカルの苦しさを読み取 ることもできるように思われる(注5)。
4.マリーア
マリーアとオスカルは同じアパートの住人であり、オスカルの母親の死 後にマツェラートがマリーアをお店に雇ったことを契機に親しくなった。
マリーアについて、オスカルは「名も知れぬ看護婦たちをべつにして、マ リーアこそオスカルの最初の恋だった」と述べているが、依存欲求の強かっ たオスカルが本質的にマリーアに求めたものは“母”であったと思われる
(注6)。つまり、オスカルがマリーアを「聖母マリアのような人」と呼ん でいたことに表れているように、オスカルはマリーアに、性的な側面を持 たない、そして、自分の甘えを受け止めてくれる母的な側面を求めたのだ と思われる。親しくなり始めた当初、2人の間には「マリーアが毎晩、ぼ くをベッドにつれていってくれるようになった。服をぬがせ、手足を洗い、
着替えを手伝い、寝る前におしっこを言い、 (中略)おしまいにやさしげな、
疲れの浮いた顔を近づけて毛布をかけてくれた」といったやりとりがあっ
たのだが、こうした母親と幼児のような関係こそオスカルが本質的に求め
ていたものであったと考えられる(注7)。
ところが、実際には、オスカルはマリーアとの間にすぐさま性的な関係 を求め始めた。もちろん、オスカルはこの時はすでに16歳であり、年齢か ら考えても、女性に対して性的な欲求を感じることは不思議なことではな かったが、オスカルが情緒的に親密な関係をほとんど築くことなく女性に 対して性的な関係を求めたことは、彼のパーソナリティー上の特徴として 指摘できるであろう。
しかし、性的な欲求を抱くことはオスカルに大きな混乱をもたらした。
例えば、オスカルとマリーアが海水浴に行った場面で、オスカルはマリー アの裸体を見て性的な興奮を感じたのだが、その時に生じたのは「怒り、
恥じらい、興奮、失望、さらに半ば滑稽、半ば苦痛」などであって、性的 な興奮と同時に様々な否定的な感情が生じて、オスカルが心理的に混乱し たことがうかがえる。また、オスカルはマリーアに抱き着いたものの、そ の後「もはやヴァニラではなく、アンズタケか、ほかの何か強烈なやつを 味わったとき、マリーアがヴァニラの後ろに隠していたこの大地の匂いが、
腐っていくヤン・ブロンスキーをぼくの額に釘づけにして、永久に空しさ の味を染めつけたとき、このときようやくぼくは離れた」と述べている。
ここでの「ヴァニラの後ろに隠していたこの大地の匂い」とは、マリーア の母的な側面の裏に隠れていた性的な側面だと思われるが、オスカルはそ うした側面に直面することで、「腐っていくヤン・ブロンスキー」に象徴 される罪悪感や「永久に空しさの味」と表現される空虚感を抱いたのだと 推測される(注8)。
つまり、オスカルは一方で情緒的に親密な関係の代りとしてマリーアと の性的な関係を強く求めていたが、実際に性的な欲求が高じ始めると、怒 り、罪悪感、空虚感などの否定的な感情が生起してひどく混乱したのだと 考えられる。
このような“情緒的な関係を築くことができず、その代わりとして性的
な関係を求めざるを得ないが、実際の性的な関係に対しては両価的な感情 を抱いている”というありようは、母親であるアグネスの対人関係そのも のであったとも言える。オスカルが他者と情緒的に親密な関係を築くこと なしに性的な関係を持とうとしたのは、誰とも親密な関係を築いたことの なかったオスカルには情緒的に親密な関係というものがそもそも理解でき なかったからかもしれないし、そうした関係を築くことに対する不安も あったのかもしれない。また、“性”というものに対する否定的な感情は、
性というものに振り回された母親に対する否定的な感情から来ているとも 捉えられるし、逆に、母親の性に対する否定的な感情に無意識的に同一化 したからだとも考えられる。しかし、いずれにしても、情緒的に親密な関 係を築く代わりに性的な関係を持つという意味においても性に対する両価 性という意味においても、母親であるアグネスと息子のオスカルは共通の 対人関係のパターンを持っていたと言える。
こうした点についてオスカル自身は「(母親であるアグネスは)ウナギ だけでなく、人生に十分で、とくに男たちに十分で、たぶんオスカルにも 十分で、そのうち、何であれ拒まなかったのに、突然、つつましくなり、
拒みはじめ、そしてブレンタウに葬られた。それを僕は受け継いでいるら しく、一方では何一つ拒みたくないのに、他方では何一つなしでもやって いける」と表現し、母親と自分の対人関係のパターンが類似していること を指摘している。「何一つ拒みたくない」とは、他者とのつながりを求め る切実な感情を示し、「何一つなしでもやっていける」とは他者とのつな がりに対する強い拒否感を示していると考えられ、母子共に他者とのつな がりを切実に求めつつも、他者と関係性を築くことに対する拒否感も強く、
結果的にその両価性の強さに苦しんだと言えるだろう。
こうした対人関係の困難さを解決するために、オスカルが頻繁に用いた
のが否認や投影などの防衛機制だと思われる(注9)。例えば、オスカル
は沸騰散という粉末の食べ物をめぐる性的なやりとりについて「小袋を取 り上げたのは、誰であろう、マリーアだった。それはたしかだ」とマリー アが先導したのだと主張する。しかし、後のマリーアとのやり取りをから 考えると(注10)、こうしたやりとりをマリーアが先導したという認識は オスカルの投影の結果だと推測される。あるいは、沸騰散という食べ物に 関するやり取りの中に性的な意味合いを読み取ったこと自体オスカルの投 影が働いた結果だと捉えることも可能である。また、マリーアの妊娠に関 して、オスカルは生まれてくる子供の父親は自分だと主張したのだが、こ うした認識はマツェラートとマリーアとの肯定的な関係を否認した結果と 言えるだろう。もちろん、こうした防衛機制はマリーアとの関係において のみ用いられていたわけではなく、3歳の誕生日に地下室の階段から墜落 したことを「熟慮のはての墜落」と表現していることに象徴されるように、
オスカルの記述には、そもそも否認や投影だと推測される記述が少なくな い。しかし、マリーアとの関係において、オスカルは性的な欲求や嫉妬心 を抱いたり、肯定的な感情を抱いたりすることによって、否認や投影など の防衛機制をより頻繁に用いるようになったと考えられる。
さて、オスカルとマリーアとの関係の特徴についてもう1点指摘してお
きたいことがある。それは、マリーアがオスカルの攻撃性を直接的に表現
する対象となった点である。すでに考察したように、アグネスはオスカル
にとって直接的に攻撃性を向ける対象となり得なかったが、マリーアは「両
の拳で下から突き上げた」り、「ガッキとかみつき、かみついたまま彼女
とともにソファーに倒れた」りと、直接的な攻撃性を向けることのできる
相手であった。この時のことを、オスカルは「すべてのガラスを、窓ガラ
スを、そしてまた大時計の文字盤の上のガラスの蓋をこなごなにすること
ができる」状態であったにも関わらず、実際には、「ぼくは叫ばず、かわ
りに憎悪を身につけることにした」と表現しているが、ガラスの破壊とい
う単なる攻撃性の発散ではなく、1人の人間に対して憎悪という感情を抱 くことができたのは、オスカルにとってのマリーアが自分とはある程度分 化した、つまり、独立した人間として捉えられていたからであろう。また、
このようなやり取りの中でマリーアはオスカルのことを「いまいましいブ タ野郎」と呼んだり、叫びそうになったオスカルの「口にバスタオルを押 し込んだ」りしたことからも推測できるように、自らの攻撃性を直接的に 他者に向けて表現できるパーソナリティーの健全さを持っており、その点 も、情緒的な不安定さを抱えていた母親と比較すると、オスカルがマリー アに対して攻撃性を向けることのできた要因となったと思われる。
5.ドロテーア
ドロテーアは、オスカルが間借りしていた住居の別の部屋を間借りして いた看護婦である。オスカルがドロテーアに関してほとんど何も知らな かったにも関わらず、彼女に好意を抱いたのは、彼女が看護婦だったから だと思われる。この点、「ぼく(オスカル)は看護婦に病んでいる。おそ らく癒しようもなく病んでいる」と表現されているが、オスカルにとって、
これまで出会った看護婦は性的な側面を持たない受容的な存在と認識され ており、そうした経験から形成された肯定的なイメージがドロテーアに投 影された結果として、オスカルはドロテーアに対しても肯定的な感情を抱 いたのだと思われる。
しかし、オスカルがドロテーアの部屋に忍び込んだ際に、ドロテーアの 戸棚の中に黒いエナメルのベルトを見つけることになった。つまり、「看 護婦ドロテーアは赤十字のバッジを外してプライベートで外出するとき、
このようなエナメルのベルトをつかっている」ことを発見したわけだが、
オスカルにとっては黒いエナメルのベルトとはかつて突堤で見たウナギを
想起させるもの、つまり、性の象徴であったと考えられ、この発見によっ
てオスカルは性的ではないと思い込んでいた看護婦にも性的な側面がある と理解したと考えられる。
そこで、オスカルはドロテーア本人と出会った際に、ドロテーアに対し て性的な欲求を抱くことになった。しかし、マリーアに対して性的な欲求 を抱いた時と比較すると、否認や投影などの防衛機制が用いられることが 減少し、自分にとっての受け入れがたい事実を受け入れ始めたように思わ れる。もちろん、この場面でも、相手に自分が受け入れられないという事 実を否認するために、事実を歪曲して理解していると思われる場面もある。
例えば、ドロテーアが「『おいで、悪魔、おいで!』と、ささやき、あえぎ、
せがんでいる」とオスカルに受け止められる場面があるが、オスカルの性 的な欲求に対してドロテーアが受容的であるような認識は、オスカルが事 実を否認した結果として得られたものだと推定される。
一方で、この場面において、オスカルの性的な欲求は「ちいさくなった まま、しょんぼりしていて、 (オスカルの)要求に応じな」かったし、 「『気 が向かないんだ、オスカル』と答え」たのだが、こうした変化は、オスカ ルが相手から拒否されているという事実を無意識的に受け入れつつあった ことの影響だと考えられる。
こうしたやり取りの最中に、ドロテーアが「まるで別人のよう」にオス カルに見えたのは、オスカルの心理的な状態が揺れた結果、オスカル自身 の他者への視点が変化したためだと思われる。つまり、否認や投影などの 防衛機制を働かせて事実を歪曲して認識することと、事実を事実として比 較的正確に受け入れることの間で揺れたためであると思われるが、最終的 には「一人の女がぼくを捨てた」と自分が捨てられた事実を受け入れ、自 らの「哀しみ」や「屈辱」を受け入れられるようになっている(注11)。
このような変化は、オスカルの行動にも影響を及ぼしている。同じ場面
で、オスカルは、 「毛皮でもって倒れこんできた彼女(ドロテーア)を受け」
たり、「ココヤシの敷物にのるようにうつし」たりして、直接接触するこ とはしなかった。マリーアとの関係においてオスカルが性的な衝動を抱い た際には、そうした衝動が常に直接的な行動として表現されていたのに対 して、ドロテーアに対して身体接触をしようとしなかったことは、無意識 的ではあってもオスカルが“自分が拒否されている”という事実を受け入 れることによって、性的な行動に関して抑制が生じ始めたことを示してい る。
つまり、マリーアとの関係において、オスカルは否認や投影などの防衛 機制を働かせて事実を歪曲して認識していたのに対して、ドロテーアとの 関係においては、そうした否認などの防衛機制も未だ残っているものの、
事実を歪曲することなく比較的正確に受け入れ始めていたと言える。さら に、歪曲した認識に基づいた行動も依然として残っていたものの、ある程 度の行動の抑制が生じ始めており、こうした点は、オスカル心理的な成長 として理解できる。ドロテーアとの出会いが生じる数年前にオスカルは、
自分が成長するべきだと決心した結果、「全身がきしみ、ざわつき、ボキ ボキ音を立て」て、身長が伸び始めたのだが、オスカルは身体面だけでは なく、心理面や行動面においても、“大人”へと変化しつつあったと捉え られる。
6.黒い料理女
黒い料理女について、オスカルは、「スカートの中」に迎えてくれる祖
母アンナと「正反対」と表現しているが、祖母の「スカートの中」とはオ
スカルにとっての理想化された「安全な避難所」としての意味を持ってい
たため、それと正反対の黒い料理女とはオスカルにとって恐怖感や不安感
を喚起する「現実」を意味したのであろう。また、三十歳という年齢を特
別な年齢だと考えるオスカルは、「三十歳ともなれば結婚すべきなのだ!」
「三十歳ともなれば定住すべきなのだ!」という言葉に表されるように、
この時期に“大人”になることを迫られていると感じていたため、この時 期に繰り返し語られる黒い料理女に対する恐怖感とは大人になって現実に 直面することへの恐怖感を表しているのだと考えられる(注12)。したがっ て、黒い料理女は時に迫害的な性格を帯びることになる。例えば、オスカ ルが警察から逃走する場面において「駅ごとに黒い料理女の登場でヒヤヒ ヤ」したり、鉄道に乗って「黒い料理女は隣室にいる」と感じたりしたの だが、こうした場面で登場する黒い料理女とは非常に迫害的な性格の女性 像なのだと考えられる。
しかし、「黒い料理女」をオスカルにとっての迫害的な「現実」の象徴 とみなすだけでは、どうしてオスカルにとっての「現実」が「黒い料理女」
というイメージによって表されたのかということが十分に説明できないよ うに思われる。そこで、ここでは「黒」と「料理女」というイメージにつ いて考察することによって、オスカルにとっての「黒い料理女」の意味を さらに探索したい。
まず、「黒」についてであるが、黒い馬の首や黒いエナメルのベルトが 性を象徴するものであったように、オスカルにとっての黒は性をイメージ させる色でもあったと思われる。一般的に、黒という色が必ずしも性と結 びつけて捉えられるわけではないが、性に対して否定的な感情を持ってい たオスカルにとっては、この両者が結びついてイメージされたと考えられ る。一方、料理を作る女性ということからは母親の乳児に対する授乳が連 想される。そうして、授乳とは母子の最も初期の交流のありようであり、
子どもにとっては自分の甘えが十分に受け止められる体験の象徴的な形態 でもあるため、 「料理女」とはオスカルにとっての母性的な女性、あるいは、
自分の甘えを受け止めてくれる受容的な女性というイメージでもあったの
であろう。そのように考えてみると、「黒い料理女」とは、性的な側面を
持ちつつも母性的で受容的である女性というイメージであったと推測され る。
それでは、物語の後半になって、オスカルの内的世界の中に「黒い料理 女」が頻繁に登場するようになったのは何故なのだろうか。その意味を考 えるために、ここで改めてオスカルと異性との関係を、情緒的な関係と性 的な関係という視点から振り返ってみたい。まず、オスカルと祖母のアン ナの関係を考えてみると、オスカルはアンナと間に情緒的に親密な関係を 築くことが難しく、アンナの性的な側面に対しては無意識的な嫌悪感を抱 いていたため、「スカートの中」という一部分だけを理想化することで対 処していたと推測される。また、母親のアグネスとの関係においても、オ スカルは母親に甘えることがほとんどできず、つまり、情緒的に親密な関 係を築くことがほとんどできずに、あまりも早期に母親の性的な側面に直 面させられたため、2人の関係は未分化で混乱したままであったと思われ る。そうして、こうした祖母や母親との間で経験したことが同世代との女 性との関係の築き方に大きく影響したと思われる。例えば、マリーアとの 関係では情緒的な関係が成立しかけたが、2人の関係はすぐに性的な関係 へと変化してしまい、結果的に、安定した情緒的な関係を築くことはでき なかったし、ドロテーアと関係においても女性を情緒的な関係を築く相手 として捉えることはできずに性的な関係だけを追い求めることになってし まった。
つまり、オスカルは祖母や母親との関係の中で情緒的に親密な関係を体
験できずに、性的な刺激にさらされるという経験を繰り返した結果、同世
代の異性との関係を築く際にも、情緒的に親密な関係を築くことなく、あ
るいは、そのような関係を避けて、性的な関係を築こうとする傾向が形成
されたと言える。そうして、そのようなこれまでのオスカルの傾向から考
えると、「黒い料理女」という性的な側面を持ちつつも受容的な側面を失
わない女性像がオスカルの内的世界に出現したことは、オスカルがこうし た両側面を持つ女性像と向き合い始めているという意味において、オスカ ル成長・発達を示す変化の一つとして捉えられるだろう。
このような変化は「黒」と「料理女」というイメージだけから推測され るのではない。オスカル自身のありようの変化を考えてみても、マリーア との関係においては自らの怒りを受け入れ、ドロテーアとの関係において は自らの「悲しみ」や「屈辱」までも受け入れるように変化したように、
長期的な視点で捉えれば、オスカルは防衛機制を用いる必要性が減少し、
自らのさまざまな感情を徐々に受け入れられるように変化してきたと言え る。また、そのような変化と並行して、他者との情緒的な関係を受け入れ る準備も徐々になされてきたと推測され、結果として、オスカルは現在「黒 い料理女」という性的な側面と母性的な側面の両側面を持った全体的な女 性像を受け入れるという課題の入り口に立っていると理解できるだろう。
もちろん、「料理女」という母親的な女性イメージの中に「黒」という 性的な要素が混じってしまうことを、オスカルの問題点として捉えること もできる。また、オスカルはこうした女性像に怯えているのであって、こ うした女性像を安心して受け入れたわけでもないし、過度の防衛機制を用 いずに女性と情緒的な関係を持てるようになったわけでもない。しかし、
オスカルが「ぼくはそれまで黒い料理女を恐れたことなどなかったのだ。
料理女が皮膚の下に這いこみ、三十歳の誕生日を迎えた今日まで、たいて
いは眠りこけているとはいえ、そこにとどまりつづけ、いろいろと姿を変
えるのだ」と表現しているように、恐れつつも、こうした女性像を心の中
から排除することなく向き合いあえるようになったことは、オスカルの成
長・発達の結果でもあり、今後の可能性を示しているとも捉えることがで
きるのではないだろうか(注13)。
注 1 厚生労働省(2013)の「子ども虐待対応の手引き」(平成25年改正版)によると、
ネグレクトには「子どもにとって必要な情緒的欲求に応えていない(愛情遮断な ど)」という項目が含まれる。また、子どもがDVを目撃することも虐待の一種で あると考えられており、オスカルのように幼少期から母親の性的な行動に晒され 続けたことを広義のネグレクトとして理解することも可能だと思われる。
注 2 アタッチメントとは、「人が特定の他者との間に築く緊密な情緒的結びつき」のこ とであり(遠藤,2005)、その結びつく相手のことをアタッチメント対象と呼ぶ。
注 3 後に登場するマリーアの匂いとの比較において、オスカルは祖母のスカートの下 の匂いについて「バターの腐った匂いがする」と述べているが、こうした表現は 祖母の「スカートの下」の性的な意味合いに対するオスカルの嫌悪感を示してい たのであろう。
注 4 オスカルが家族の中に居場所を見つけることができなかったことの責任はもちろ ん母親であるアグネスだけの責任ではない。アグネスが夫以外の男性と性的な関 係を持ち続けたことは、アグネスが原家族との関係の中で築いた特徴でもあった のだろうが、夫であるマツェラートがアグネスとの間に親密な関係を築くことが できなかった結果としても理解することができる。
注 5 また、オスカルによって破壊されたガラスが母親の脆弱性を比喩的に示している と捉えることも可能だと思われる。
注 6 オスカルは「今日にいたるまで、およそ手のかからない、たぶんもっとありふれ たヴァニラプディングがとびきりの好物なのだ」と述べているが、甘い味のヴァ ニラプディングとは口唇欲求である「甘え」を満たすものであり、こうした表現 にもオスカルの依存欲求の強さがうかがえる。また、オスカルによると、マリー アは「素朴なヴァニラの匂い」がしたとのことであるが、ヴァニラのような甘い 匂いのするマリーアとはオスカルにとっての自分の甘えを受容してくれる女性を 意味したのだと思われる。
注 7 オスカルの依存欲求の強さについては、依岡(1989)も、「彼は女性的なものの中 に逃げ込みたいといつも願っていたのである。(中略)オスカルはマツェラートの 商売から、大人の世界から逃れて、その都度その都度女性的なものの中に潜りこ むのである。これは大胆に言い切ってみれば、母を求める思いに他ならない」と 指摘し、「彼の物語は失われた母を蜃気楼のように求めて、代用から代用へ果てし ない旅を続けることであるとも考えられる」と述べているが、オスカルにとって のマリーアは、特に出会った直後においては、母親の代用としての意味が大きかっ たのだと考えられる。
注 8 オスカルは自分がヤンを殺したと認識しており、ヤンの死に対して罪悪感を抱い ていたと推測される。
注 9 西澤(1994)によると、否認と投影は虐待を受けた人の多くが用いる防衛機制で あり、否認とは「自己が知覚しているにもかかわらず、その存在を認知すると不 安や嫌悪感などを引き起こすような現実(ここでいう現実とは、外的な現実だけ ではなく、情動や感情などの自己内部の現実をも含んでいる)の存在そのものを 認知しないという防衛機制」、投影とは「自己の欲動、情緒、観念などのうちで、
自己内部にとどめておくと不快や不安を引き起こす危険性のあるものを自己と切 り離して外部に出し、自分とは別個の、他者の属性として認知する機制」を指す。
注10 入院後、沸騰散を用いたやり取りを繰り返そうとしたオスカルに対して、マリー アは「バカなことはやめてよ、オスカル!」と言って強く拒否している。
注11 正確に表現すると、事実を受け入れた際に生じる否定的な感情を受け入れられる ようになったからこそ、事実を歪曲せずに認識できるようになったのであろう。
注12 オスカルは、精神病院のベッドにいても、「黒い料理女」が、「早く跳べと脅しに かかる、そんな気がする」と表現しているが、飛び込み台から下に向かって「跳ぶ」
とは、空想の世界から脱出して現実に向かって身を投げることの比喩だと思われ る。
注13 黒色ということに関しては、Abt(2005)は、黒が抑うつ感などを示すと同時に 再生を指し示す色でもあることを指摘しており、料理女が「黒い」色をしていた ということに、オスカルの肯定的な変化の可能性を読み取ることも可能かもしれ ない。
Abt T.(2005):Introduction to picture interpretation According to C.G.Jung. Living Human Heritage Publications.
遠藤利彦(2005):アタッチメント理論の基本的枠組み.数井みゆき・遠藤利彦(編著):
アタッチメント 生涯にわたる絆. pp. 1-31. ミネルヴァ書房
遠藤利彦 (2017): アタッチメント障害と心理臨床 (第1回)アタッチメント理論を概 括する 心と社会,48(4), 85-88.
遠藤利彦(2018):アタッチメント理論における基点と現代的展開 こころの科学,198,
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岩田純一(2001):〈わたし〉の発達 乳幼児が語る〈わたし〉の世界 ミネルヴァ書房 厚生労働省雇用均等・児童家庭局総務課(2013): 子ども虐待対応の手引き (平成25年
8月改正版)
西澤哲(1994):子どもの虐待-子どもと家族への治療的アプローチ 誠信書房
依岡隆児(1989):ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』について -オスカルの「不安 と恐怖」を中心に- 人文学報,208,1-41.