はじめに 青森県内とその周辺地域にはカミサマと呼ばれる民間の巫者がいる︒その職能は部分的にイタコと重なる︒しか
し︑師弟制度を形作りその作法を伝えてきたイタコとは異なり︑独自の﹁霊感﹂に基づくカミサマたちの成巫の過
程や実践は実に多様なものである︒深刻な後継者不足により師資相承のイタコの系譜が途切れつつあるなかで︑集 論文要旨﹀ 本稿はカミサマと呼ばれる津軽地方の巫者の語りと実践を対象に︑それらがどのように形作られるのか︑そしてなぜ妥当なものとして依頼者に受け入れられているのかを︑知識の問題に焦点をあてて考察するものである︒その際︑特に社寺についての言及に注目する︒三名のカミサマの事例からは︑神的な事柄にかかわる連想の起点として︑実践の正当性を支える根拠として︑神仏に関する種々の発想︵神的発想群︶に具体的な形を与える場として︑それぞれ社寺についての言及が役割を果たしていることを明らかにする︒カミサマの語りと実践は︑地域の人々によって分有されている超越的次元に関する知識や発想を組み合わせることで形成される︒そのため︑カミサマは日常的な知からまったく自由であることはありえないが︑知識の即興的な構成という面でその個性が反映される余地がある︒カミサマとは社会に流布した超越的次元についてのイディオムに慣れ親しみ︑それを依頼者の期待に沿って巧みに構成する能力を身に着けた存在であるといえるだろう︒キーワード﹀ 巫者︑シャーマン︑カミサマ︑知識︑即興性
巫 者 の 語 り と 実 践 の 形 成
││ 津軽のカミサマを事例として ││
村 上 晶
落での祈禱や口寄せといったイタコの仕事の一部はカミサマたちによって引き継がれている︒カミサマたちは現在
でも地域においてその存在感を失っていない︒
本稿では︑津軽地方で現在活躍しているカミサマたちについて︑その語りや実践を構成する知識の問題に焦点を
あてて論じる︒カミサマたち﹁シャーマン﹂については︑桜井徳太郎や佐々木宏幹らによってトランスがその存在
を定義づけるものとして論じられてきた 1︒しかし︑イタコに代表される多くの日本のシャーマンが巫儀においてはっきりとしたトランス状態をみせることは少なく︑トランスの有無の問題を核にシャーマンを定義づけることには 困難が伴っていた 2︒ 一方で︑トランス中心の巫者理解と距離を置き︑巫者の言葉や実践の内実に迫ろうとした試みとしては︑池上良 正による民間巫者研究が挙げられる︒池上はカミサマに独自な救済の基本テーマを導き出すことを試み︑その特徴を﹁運命﹂﹁共振﹂﹁怨念﹂として示した 3︒これはカミサマたちの言葉や実践が果たす効果に注目した成果といえ
る︒これによりトランスの真偽といったエティックな議論ではなく︑巫者が生きる文脈をより重視した分析が実践
された︒こうした議論を踏まえた上で本稿が問うのは︑カミサマの救済の基本テーマを構成する各々の語りや実践は︑そもそもどのように形作られているのか︑そして︑なぜ妥当なものとして依頼者に受け入れられているのかと
いう点である︒知識の問題に焦点をあててこれらの問いに答えていくことで︑トランスや神秘体験を核とした巫者
理解を脱し︑超越的次元に関する発想や知識を操る能力を中心として巫者を捉え直していく︒
一 本稿の射程 ただし︑無数のヴァリエーションをもつカミサマたちの語りの特徴を捉えることは容易ではない︒そこで本稿で
特に注目するのが知識の源泉の一つとしての社寺の存在である︒カミサマたちの語りには多くの社寺が登場し︑また実践に際しても社寺がその舞台となっている︒
社寺の存在を焦点化することは︑その社寺がどういった性格をもつもので︑制度的︑組織的にカミサマをどう取 り込んでいるのかを論じるものと思われるかもしれない︒しかし︑本稿の関心は︑カミサマたちが社寺について言 0
及すること 00000が一体どのような意味をもっているのかという点にある︒ 明治六年一月一五日の教部省達にて﹁梓巫女﹂らによる﹁玉占﹂﹁口寄﹂等が﹁一切禁止﹂されて以降︑青森県 でも梓巫︑市子︑狐下げ等の活動を禁じる県令が明治七年︑八年︑一一年と繰り返し出されている 4︒しかし︑こう
した禁令のもとであっても︑巫者たちは社寺に所属し教師資格などの﹁免許﹂を得ることで︑自らの﹁商売﹂を継続させることができた︒津軽地方では︑巫者と関係の深かった寺院として弘前市の報恩寺や五所川原市の大善院な
どが知られる︒現在でも︑巫者としての商売を行うためには社寺からの免許を所持すべきという規範意識は受け継
がれており︑イタコ︑カミサマ共に既成教団から何らかの資格を得ている場合が多い︒
こうした既成教団への巫者の所属は禁令逃れのための形式上のものであるという視点が現在では有力である︒池 上良正は﹁巫者︵カミサマ︱筆者註︶の言動の内容が︑制度的所属教団によって影響を蒙ることは少ない 5﹂とし︑
また︑川村邦光も﹁教団への所属は教師免状を取得し︑巫女としての﹁商売﹂を継続できるだけでよく︑ほかには
なんらメリットがないといってよいほどである 6﹂と記している︒これらの指摘は︑巫者の語りや実践内容を教団ベ
ースで理解することの限界を明示するものである︒巫者と社寺との実際の関係を明らかにするためには︑明治期以降︑制度的・法的に定められた教義・教団を核とした近代的社寺理解を相対化しつつ︑個々の事例に目を向けてい
く必要がある︒本稿の試みもその一環として位置づけられる︒
二 巫者をとりまく知識の性質と巫者の権威 カミサマと社寺との関係を︑教団への所属や教義の問題として捉えないとすると︑カミサマの語りに登場する社 寺について理解するためには︑どのような視点が有効だろうか︒この点については︑知識人類学 7の試みが示唆的で
ある︒﹃民俗知識論の課題﹄を著した渡邊欣雄は︑民俗知識を﹁話者の知識﹂と定義した上で︑四つの特徴を指摘している︒第一に︑民俗知識にはある種の﹁成層性﹂があり︑均質・平板な一様性を帯びていない︒第二に︑民俗
知識には︑﹁慣習的知識﹂︑﹁体系的知識﹂︑﹁象徴的知識﹂等︑正当化や主観化の面で異なる性質をもつものがある︒
第三に︑コミュニティ内部には︑知識をめぐる闘争や葛藤が存在している︒第四に︑民俗知識は個人のうちで変化しうる 8︒これらはまとめて︑民俗知識の﹁不均衡・可塑性・可変性﹂として指摘される︒
渡邊の議論をさらに発展させて︑小田亮は沖縄のユタの知識と権威について論じている︒小田によれば︑ユタの ような巫者の権威の源泉は︑知識の不均衡配分によって形成された権威構造にあるという 9︒つまり︑巫者が﹁普通の人﹂の知らない知識︵小田の言葉では﹁秘知﹂︶を有しており︑それを提供することができる存在であるという
ことによって巫者の権威は担保される︒小田の議論は︑巫者の知識の問題が巫者の権威の問題と重なるものである
ことを示す︒ しかし︑川田牧人は知識論を展開する上で︑共同体の成員のなかに存在する知識の不均衡とその格差を記述する
知識の社会的配分論では不十分であるとする︒それは︑配分論では﹁知識の総体からどれだけ各自に分散されるか
という一方の動きしか捉えられない A﹂ためである︒そこで川田が提唱するのが︑知識の配分論から運用論への展開である︒﹁知識は人間の頭にあるのではなく︑人と人︑人とその周囲の世界との相互作用の中にある B﹂︒運用論は︑
配分論とは異なり︑そうした相互作用のなかで常に発生的でもある知識の動的な側面を捉えるための視座である︒
川田の指摘通り︑知識が人と人︑人と環境の間で発生し︑運用される動的なものであるとしたら︑小田が知識の問
題として論じた巫者の権威もまた︑知識と同様に動的なものであり︑人と人︑人と環境の間の交渉から生じるものとして捉えることが可能だろう︒以下では︑こうした知識の運用・交渉という視点から︑カミサマたちの知識の在
り方について解明し︑カミサマの存立 Cがいかに支えられているのかという点について考察していく︒ 三 対象と方法
事例とするのは津軽地方の三名のカミサマである D︒事例一のMは︑カミサマの修行場として知られてきた岩木山
北麓の赤倉に現在でも堂社を構え活動の拠点としている数少ないカミサマである︒地域集落での祈禱を長年担うなど︑同世代のカミサマの一つの典型を示している︒事例二のNは︑修行の体験をもたないという点で︑Mとは異な
る成巫過程を歩んだカミサマである︒しかし︑地域での知名度はMに劣らない︒事例三のEは︑MとNよりも若
く︑男性であることもあり︑前の二事例との表面上の差は大きいように思われる︒しかし︑修行を重視し︑Mの堂
社に出入りするなど︑その実践の内容はMに接近している︒カミサマの在り方は多様であり︑その典型例を導き出
すことは容易ではない︒そこで︑それぞれ異なる特徴をもつこの三名を事例とすることで︑個々のカミサマの成巫過程や活動にみられる相違や多様性を示すとともに︑それとは対照的に三者には明確に共通性が存在することを指
摘したい E︒ なお︑以下では﹁カミサマ﹂という片仮名表記は巫者を意味する場合に用い︑超自然的な神格を指す場合には漢字表記で﹁神様﹂とする︒また︑カミサマが﹁上 うえ﹂などという言葉で漠然と指し示す神や仏︑霊などの目にみえな
い存在を一括して意味する言葉として︑以下では仮に﹁神仏﹂という言葉を用いる︒そこには︑霊や神秘的な予感
や気配といったものも含まれている︒
四 事例一 M︵女性︑一九二二年生まれ︑田舎館村 F︶ Mは田舎館村や弘前市などの周辺地域でよく名の通ったカミサマである︒西目屋村で生まれ︑現在は田舎館村に
住む︒夏の間は︑カミサマたちの堂社が立ち並ぶ一大修行場として知られる岩木山北麓の赤倉に籠って修行をし︑訪ねてくる依頼者の相談にのる︒Mのお堂はカミサマであった彼女の義母が開いたものであり︑義母の死後は︑M
の姉︵カミサマ︶が一時管理し︑その後Mが跡を継いだ︒
Mは一〇歳までに両親を亡くした︒そのため︑幼いながらに家の家事一切を担わなければならず︑大変な苦労をした︒一二歳の時︑畑でいつものように農作業をしていたところ︑小さな石を拾う 0000000︒近くに住む女性がその石を指
して神様ではないかと言ったこともあり︑大事に引き出しにしまっておいた︒一九歳の時にめまいや頭痛に襲わ
れ︑病院にも行くが異常はないと言われる︒病院では良くならないことから姉に誘われて湯治に出かけ︑そこで一人のカミサマに出会う︒そのカミサマに拝んでもらったところ︑﹁以前に石を拾っている︒それは赤倉様である﹂
と言われる︒それが一二歳の時に拾った石を指していることに気づいたMはそれ以来赤倉様を拝むようになった︒
拝みの道に進み始めたMが同年に向かったのは︑カミサマたちの修行場として知られていた青森市入内の石神神社 Gであった︒修行の最後にMは自分に本当に力が宿ったのかどうか知りたくなった︒そこで︑Mと同村の生まれで
当時出征していた一人の男性について︑彼が無事に帰ってくるかどうか神に尋ねたところ︑必ず帰ってくるとのお
告げを得た︒そのお告げ通り︑程なくその男性が村に帰ってきたことから︑Mは自分の力を確信した︒Mにはここ
での修行を通して﹁力をもらった﹂との確信と感謝の念があるため︑これ以降約六〇年にわたって欠かすことなく
石神神社の大祭に参列している︒
石神神社での修行を終えた一九歳のMは︑その後すぐに高山稲荷神社 H︵西津軽郡車力村︑現つがる市牛潟町︶へ赴き︑ 一週間の修行を行った︒そこでは函館から修行に来ていた人と一緒になり︑その人物から﹁修行をすると︑目の前に映画のように絵がみえてくる I﹂と教えられたという︒Mはその後神仏のヴィジョンをさまざまな機会にみるよう
になるが︑この﹁函館の人﹂が一つのヴィジョンのモデルを提供した︒
Mの実践は赤倉の堂を中心としたものであるが︑神仏からの指示や信者からの依頼に応えて山麓の宗教施設を巡ることもある︒弘前市種市の赤倉山神社 Jもそうした巡りの対象である︒Mは︑赤倉様を授かっているために︑赤倉
大神を祀る赤倉山神社でも拝みを行う︒長雨で人々が苦しんでいたある年︑Mは赤倉山神社で精進潔斎をして手を
合わせた︒それは︑この赤倉山神社には肉食等を一切禁じる厳しい精進の規定があり︑ここで願いを届けるために
はその作法に則る必要があるためである︒祈願を終え社の外に出た途端︑空が晴れ渡ったという︒ 花嫁人形の奉納で知られる西の高野山弘法寺 K︵つがる市木造︶もMが訪れる場所の一つである︒Mには若くして亡くなった子供があり︑この子供の供養のために︑彼女自身が弘法寺に花嫁人形を納めている︒その関係で︑ここへ
定期的な参拝を行う他︑Mを頼ってくる相談者にも弘法寺での人形供養を勧めることがある︒
津軽三十三観音霊場を巡るのは毎年恒例の行事となっている︒信者の他︑同じ村に住む人に声をかけて︑バスを借りて巡礼する︒
上記の他にも平川市猿賀の猿賀神社 L内︑池上神社︵薬師様︶奉賛者一覧にMの名が見受けられ︑彼女の口から直
接語られなくとも︑彼女が関わりをもつ神社︑寺︑霊場は他にも多数存在していることがうかがえる︒
︻考察︼Mの実践は︑赤倉を中心とした日常の祈りの実践に︑依頼者との関係や霊的な導きによって各社寺への参拝が追加されるという形で︑津軽地方に広くその裾野を広げている︒Mが重視する社寺それぞれには︑Mがそこ
で経験した神秘的なエピソードが付随する︒そして︑特に成巫の過程において﹁力をもらった﹂という神社が成巫
後の実践においても重要な位置を占めていることがわかる︒石神神社︑高山稲荷︑赤倉山神社のエピソードにみられるように︑社寺はMの神仏に関わる経験を喚起する﹁場﹂を提供している︒
例えば︑長雨を止めるために赤倉山神社で祈願を行うというのは︑赤倉大神として同神社に祀られる太田永助の
生前の奇跡譚に天候や水に関するものがあることからのM独自の連想であった︒ここでは︑教団に端緒をもつ知識が部分的に借用され︑Mの目的のもとに再編成されることによって︑固有の実践が生じていく様子をみて取れる︒
五 事例二 N︵女性︑一九三五年生まれ︑弘前市︶ 弘前市内の老舗仏具店には︑神棚に入れるための神像を購入しにくる客や神社への奉納のための絵馬を求めにく
る客がいる︒神像でもっとも一般的なのは恵比須・大黒や神明様︵天照大神︶の像だが︑それ以外にも龍神や山の神など特定の神像を新規に購入していく者がいる︒こうした特殊な神像を求める人物の背後には多くの場合︑カミ
サマ等の宗教的職能者の指示があると仏具店の店主たちは語る︒そして︑これらの仏具店で具体的なカミサマの名
を尋ねると︑まず出てくるのがNの名である︒Nは依頼者に対して神像の購入や絵馬の奉納を指示することが多
く︑仏具店にとっても馴染みのあるカミサマである︒
Nは自身の生涯を以下のように語る︒ 母親が言うには︑二︑三歳の頃から︑不思議なことを言う子であったという︒自分の記憶としては︑五︑六歳の
頃から︑寝ている間に心が天へ行っているという経験を繰り返していた︒天では神様や仏様がさまざまなことを語ってくれた︒
学生時代のある日︑道に座り込んでいた見知らぬ老婆に突然﹁あなたは久渡寺 Mのほうに行く﹂という予言めいた
言葉をかけられる︒その言葉の通り︑久渡寺の近くの集落に住む遠戚にあたる男性との縁談が進み︑学校を卒業して一カ月たたないうちに現在の家に嫁ぐこととなった︒
嫁に来たあとも眠っている間に天に昇るという体験が続く︒天から降りてくる時間は決まって朝の三時で︑その
時は鳥になって︑海や学校や神社を見下ろしながら降りてきた︒結婚して三五年がたった五三歳とき︑﹁普通の人
は修行をして何かを求める﹂のであるが︑﹁あなたは三五年間寝て修行をしたので︑修行はいりません﹂﹁一人でで
きるので︑やりなさい﹂と﹁上から命令﹂される︒その日を境に︑カミサマとしての生活がはじまる︒今の地位は︑﹁自然になった﹂という︒それからますます﹁上から寝て教える﹂ことが多くなった︒﹁寝てて修行をしなさ
い﹂﹁書いてやりなさい﹂という上からの指示に従って︑Nは寝ている間に聞かされたことを︑いつでも起きてメ
モをした︒
カミサマになってからは午前三時までの短い睡眠の間に︑前日に来た依頼者の相談に対する回答が降りてきた︒
彼女の左肩に︑例えば薬師大神と薬師如来︵神と仏の両方であるという︶が座って︑マイクで話しかけるように語
ってくるという︒
現在︑Nが依頼を受けたときに踏む一般的な手順は次の通りである︒まず依頼者は電話か対面で事前に相談事をNに話す︒それを聞いたNは︑依頼者が訪問するまでの間に﹁上﹂と対話をし︑その内容を単語や短い文章でノー
トに記す︒これをみて︑後日訪問した依頼者にその内容を説明する︒Nと﹁上﹂︵神仏︶との交流は︑はっきりと
した﹁会話﹂の様相を呈しており︑その点で特徴的なものである︒次にその一例をあげる︒
県内に住む女性が︑長い間孫の熱が下がらないことを心配してNのもとに相談しに来た︒その依頼者のためにN
が神仏と交わした会話を︑メモをもとにN自身が再現している︒
N ○○︵孫の名前︶の熱が下がりません︒住所は○○︒神仏 そりゃ︑あたって N頭おかしいじゃ︒
N へば﹇では﹈︑その熱っていうのは︑行けばいいか?
神仏 そうだ︒おどかしてるんだ︒N どこサ行けばいいんだか︒○○︵孫の名前︶サ︑よくなるにはどうしたらいいか︑語れ︒ 神仏 西サ︑行け︒︵Nの自宅から西といえば︑高山稲荷か川倉賽の河原地蔵尊 Oになるという︒︶
神仏 とにかくさ︑こねぇと︑おらたちさ︑何も食べ物︑食べるもんもないねじゃ︑まいねじゃ﹇よくないのだ﹈︒来てみれば︑なんぼ水⁝⁝
N 水け? 龍神か? 龍神がそんな風にさせてるんだべか? 神仏 だべな︒なんももってねえだ︒ひもじいべな︒ ︵水という言葉から原因が龍神︑蛇関係にあることをつきとめたことで︑神仏に代わって蛇が出てくる︒︶蛇 みろ︒熱させてもおれんとこ来ねえっきゃ︒そうさせてるんだね︒はやいところ︑川倉の供養して︑龍神
で祈禱してくれば︑ぱっとするべね︒拝んでればさ︑わかっちゅうんだ﹇わかってるんだ﹈︒
その後︑Nはこの蛇が熱に苦しむ依頼者の孫からみて︑祖父の弟にあたる人物によって殺されたものであることを明らかにした︒依頼者は︑Nの指示に従い賽の河原地蔵尊で僧侶に依頼し︑境内にある龍神様の社でこの蛇の供養
を行ったという︒
不幸の原因は︑このように先祖や縁者の行為に求められるものと︑本人の行いに求められるものがある︒そのなかでNが明るみに出す原因としては︑明らかに龍神に関わるものが多い︒この龍神を中心とした災因論が︑社寺へ
と人々を向かわせる指示につながる︒Nが依頼者に指示する場所としては︑事例にあるような賽の河原地蔵尊︵そ
れも本堂ではなく︑本堂から下ったところにある龍王神の社︶︑また︑水天宮︵龍神︶を祀る清水舎を有する猿賀
神社の二か所が主である︒こうした場所で︑僧や神主に頼んで正式に祈禱をしてもらうことで︑不幸の原因に対処
することができるという︒
Nは︑全て神の指示であるというが︑蛇を殺してしまったなどの当事者の因縁を祓う必要がある場合は猿賀神社
に︑先祖に関わる因縁が出ている場合は賽の河原地蔵尊での供養が指示される傾向がある︒先祖を導き﹁よりよい
ところ﹂に連れて行くのは龍神の役割であるという︒そのため︑数ある寺院のなかでも境内で龍神を祀る賽の河原地蔵尊は︑先祖の供養という面でも大きな効果をもたらす場所として考えられている︒
Nは活発な活動と謙虚な人柄で賽の河原地蔵尊の住職や講中の人々︑また猿賀神社の神職たちにもよく知られ︑
関係も良好である︒しかし︑どこの教団組織にも所属していない上︑教師免許などを受けたことがない︒免許がな
いのは︑﹁一人でできるから何も要りません︒三五年修行してきたからいい﹂と﹁上から﹂言われたためである︒経などを使用する必要があれば﹁上から﹂どれを覚えるべきか指示がある︒それを畑仕事の最中にぶつぶつと繰り
返していけば︑自然と自分のものになるという︒
毎年正月には︑久渡寺︑賽の河原地蔵尊︑小栗山神社︵弘前市小栗山︶︑岩木山神社︑愛宕山︵橋雲寺︑弘前市愛
宕︶︑大日様︵大圓寺︑大鰐町︶︑八幡様︵弘前八幡宮︑弘前市八幡町︶に参詣する︒これらの社寺はいずれも津軽で
名の知れた場所であり︑Nの生活圏を中心としたものとなっている︒
︻考察︼Nの語りには︑事例一のMに顕著にみられるような成巫以前の霊場での修行や社寺巡りの経験は登場しない︒事例一では︑修行の過程で神秘的な経験をした場所がその後の実践の中でも重視されているが︑﹁夢の中﹂
で修行をしたというNにおいては︑成巫過程における経験ではなく︑龍神を中心とした独自の神仏理解に基づいて
重用される社寺が選択されている︒Nは︑神仏の世界に自分の存在︵住所︶を﹁登録﹂する必要があると強調するが︑その﹁登録﹂を行うことができるのは寺と神社の宗教者であると語る︒
彼女が頻繁に通う︵ないしは依頼者を通わせる︶場所には︑猿賀神社と賽の河原地蔵尊がある︒猿賀神社は龍神
との関係が深いことで知られており︑また賽の河原地蔵尊で供養を行うという選択はこの地方では多くの人に親しまれている実践である︒ただし︑賽の河原地蔵尊で龍神を強調するのはそれほど一般的ではないことから︑そこに
は︑供養と龍神を組み合わせる彼女に固有の発想が認められる︒しかし︑猿賀神社での龍神の祈禱と賽の河原地蔵
尊での供養という指示は︑Nの依頼者にとって普段から親しんでいる実践であり︑突飛なものではない︒何より︑
それらの場所は霊場として名の通った場所であり︑そのためその﹁霊威﹂は事前に保証されているといってよい︒
Nいわく︑神仏により直接的に自分の住所を﹁登録﹂するためには︑霊威の高い場所の方が望まれる︒つまり︑N
が依頼者に与える指示は︑地域社会の社寺に対する理解や評価と歩調を合わせている︒
依頼に対するNの対応法は︑他のカミサマと比べても特徴的なものである︒多くのカミサマは︑依頼者が来れば祭壇の前で祈り︑その場で神仏に判断を求める︒しかし︑Nは︑事前に依頼内容について神仏に相談し︑その言葉
はすべてノートに記されているために︑依頼者の前で祭壇に手を合わせる必要はない︒そのため︑祭壇のある部屋
ではなく︑居間で依頼者の応対をする︒こうした作法を含め︑神仏に関わるあらゆることについて﹁上から教えられた﹂とするNの実践は︑かなり独自性が際立っている︒かつ︑多くのカミサマがもつ﹁免許﹂や修行の経験もな
い︒しかし︑彼女がカミサマであることは︑自他ともに認めるところである︒
Nの独自性とNの﹁カミサマらしさ﹂について考えるとき︑Nの指示する実践が既存の地域の供養実践や社寺へ
の評価の枠を超え出ていないことは︑重要な意味をもつと考えられる︒カミサマによって重視する神仏が異なり︑
またそれらとの交流の作法も多様であるが︑カミサマがカミサマであると周囲から判断されるためには︑複数の要素を押さえておくべきだとみなされている︒そして︑地域に既にある実践や共有されている社寺についての評価・
知識に基づいて語りが組み立てられていることは︑そうした要素の一つとなっている︒
六 事例三 E︵男性︑一九五〇年生まれ︑青森市︶ 数少ない男のカミサマであるEは︑川倉賽の河原地蔵尊や石神神社でよく﹁歩く﹂︵神仏を巡って修行をする︶
人としてその存在を知られている︒
母︵一九二六年生︶もまたカミサマであった︒母は体が弱かったこともあり︑若い頃から熱心に神仏に手を合わせていた︒そして︑次第にその力が評判になり信者が集まるようになった︒
Eが一一︑二歳の頃︑母が心臓の大きな手術をすることになる︒彼はその成功を祈って近所のお宮に手を合わせ
にいった︒母の病気の平癒を願って︑ただただ手を合わせて拝んでいたら︑手がポッポと熱くなっていった︒家に帰ると︑母がその手で自分の体をなでるように言う︒言われた通りにすると︑母の体調は落ち着いた︒それがはじ
めて神様を体験した機会であったという︒一五歳の時︑悲しみやつらさを感じた際に︑頭に火がうかんだ︒当時︑
自分が知っていた大師宝号を一〇回ほど唱えると︑体がどんどん熱くなっていき︑火と熱という点からお不動様が自分の力になったことがはっきりとわかった︒
母は手術の後︑知人の紹介によって︑弘前市百沢にある奥富士出雲神社 Pより補権少講義の免許と︑出張所開設の
許可を得ている︒そのつながりで︑Eも一九歳から四︑五年ほど同神社に通った︒二五︑六歳の時に母と同じ免許を授かる︒免許がないとお客をとることができないためであるという︒神社では宮司の身の回りの世話や雪かきな
どの仕事をこなしていた︒現在行っているお祓いの作法などは︑母のやり方をみて学んだものであり神社で学んだ
ものではないという︒
一九九四年に母が亡くなってからEのカミサマとしての歩みが本格的に始まる︒活発に全国の霊場を巡り始め
る︒東北三十六不動︑日本三大不動をまわったが︑お不動様だけでは物足りなくなり︑伊勢神宮︑高野山︑伏見稲
荷︑豊川稲荷︑出雲大社︑出羽三山︑四国八十八か所等を巡る︒自宅では︑数は減ってしまったものの母の信者た
ちと母の祭壇を引き継いでの活動が始まる︒天照大神の縁日としている毎月一六日には信者が自宅に集まる︒また︑中心となる信者たち四︑五人とほぼ毎月︑津軽を中心とした霊場に赴く︒正月は岩木山神社︑三月は賽の河原
地蔵尊︑四月は種市の赤倉山神社︑五月は石神神社︑六月は赤倉口からの岩木山登山︑七月は嶽の龍神様︑八月は
優婆寺︵むつ市︶と恐山を訪れる︒
Eは︑祈願や供養のために賽の河原地蔵尊に布でできた天蓋幡を奉納 Qさせることが多い︒こうした幡の奉納は︑
賽の河原地蔵尊や西の高野山弘法寺等でよくみられる︒Eはその目的をホトケ︵死者︶の位を上げて︑罪のあるホ
トケも観音様︑如来様のもとに行くことができるようにするためであるという︒その結果︑生きている家族も守られる︒この天蓋幡がホトケに対してはもっとも重要なものと語る︒ただ︑それ以上に重要なのが稲荷様への信仰だ
とされる︒それは日本は神道の国であり︑仏教が伝わる前は稲荷様がホトケを守ってきたというE独自の宗教史理
解によるものである︒Eは︑母が死者の供養の際にもお経をあげずに︑依頼者に対して稲荷様を拝みにいくように
アドバイスする様子を昔からみていた︒母の生前はそれを不思議に思っていたが︑稲荷神社の近くに墓があるのを
みて︑死者を稲荷様が守るという在り方が︑本当の大昔からの先祖の在り方であるという考えに至ったという︒ただし︑自分と関係のある稲荷神社で正式に祈願してもらわないと︑不運が生じる︒前日には肉とネギ類を食べない︒
塩に一味を混ぜたもので身を清める︒それらの作法を満たしてはじめて稲荷様へ祈願が届きホトケの位が上がる︒
Eが拝んでいる神は︑天照大神様︑大志羅十六善の神︑八大の龍神様︑赤倉様︑お岩木様︑コノハナサクヤヒメ様︑二十三夜様︑山の神様︑八幡様︑その他計四一柱の神々である︒ほとんどのご神体は石の形で授かっている 0000000000︒
︻考察︼Eの参拝する霊場は津軽の枠を出て︑全国へと展開している︒しかし︑その実践と神仏理解には津軽の
信仰実践に関わる民俗知識が色濃く反映されている︒特に顕著な﹁位上げ﹂と石の形での神様の授かりという二点
についてここで触れたい︒Eが重視するのはホトケの﹁位上げ﹂であるが︑この地で﹁位上げ﹂という表現はオシラサマについて語る文脈でよく使われる︒現在でもオシラサマ信仰の中心地として強い求心力を有している久渡寺
は明治四〇年代から戦略的にオシラサマ信仰を組織していった R︒そのなかで︑久渡寺で祈禱を受けることによって
オシラサマの位が上がるという考えが定着していった︒オシラサマの白い衣には祈禱の度に印が押され︑印が多いほうがオシラサマの位は高いということになる︒また︑この地では今でも盛んに百万遍の数珠回しが行われている
が︑その数珠についても︑寺︵弘前市の愛宕山橋雲寺や黒石市の愛宕山地蔵院︶に毎年もっていき焼印を押しても
らうことで位が上がるとされる︒オシラサマや数珠の位上げという実践の存在は︑それらの習俗に親しんでいる人々にとってホトケや神の﹁位を上げる﹂という発想がいかに身近なものであるかを示す︒こうした背景が︑Eの
ホトケの位上げという主張に説得力を与えている︒
またEが家で祀るご神体のほとんどは石である︒これらの石の形で神仏を授かっていると語るが︑既に事例一でもあったように︑こうした石を授かるという発想も津軽では頻繁に耳にするものである︒カミサマなどの宗教的職
能者のみならず個人に石などの形で神様が﹁サンズク﹂︵授かる︶ことは多々あり︑神棚にそうした石が入れられ
ている光景も数多くみられる︒著者の収集した事例では︑弘前市O地区の六〇代の女性は次のように語っている︒彼女の家には﹁カミ信仰の人﹂であった義父が﹁授かった﹂として方々で拾ってきた三四個の石が神棚に祀られて
いた︒孫の病気を機にカミサマに相談にいったところ︑これらの石の神様が十分に祀られていないことが不幸の原
因であると指摘される︒そのため︑カミサマの指示に従って︑石それぞれに赤飯をあげ︑カミサマに祈禱してもら
ってから石神神社に納めてもらった︒
津軽地方に広くみられるこうした﹁神がサンズク﹂という発想は︑﹁授かり神信仰 00﹂として概念化されてきた S︒
そしてこの﹁授かり神﹂の代表とされるのがオシラサマである︒例えば︑津軽地方で大正から昭和期を通して新造
のオシラサマが急増する理由の一つとして︑この地にある﹁授かり神﹂という信仰土壌 0000が﹁授かるオシラサマ﹂という観念 00に転換した可能性が指摘されている T︒
このように﹁授かり神﹂について論じるにあたっては︑これまで﹁信仰﹂や﹁信仰土壌﹂︑﹁観念﹂等の言葉が用 いられてきた︒しかし︑ここでは地域の信仰実践に慣れ親しんでいる人が接近可能な神的なものについての発想 000000000000︑すなわち﹁神的発想群 U﹂の一つとして考えてみたい︒先に触れた﹁位上げ﹂もこうした神的発想群に加えることが
できる︒ここで敢えて﹁信仰﹂や﹁観念﹂といった言葉を用いずに﹁発想﹂とするのは︑先にも論じた民俗知識の
﹁不均衡・可塑性・可変性﹂という性質を強調するためである︒﹁授かり神﹂や﹁位上げ﹂はそれぞれのカミサマの
語りのなかで︑柔軟に使用され応用されている一つの要素である︒神的発想群はカミサマが自身の経験を説明する
ために︑また経験を水路づけるために利用可能な素材として存在している︒しかし︑内容と所在は不特定で︑普段は地域のさまざまな主体に断片的に保持されている︒﹁信仰﹂や﹁観念﹂と呼ぶには︑その姿がはっきりとしない
それらの発想群は︑さまざまな出来事︵多くの場合は不幸な出来事︶をきっかけに表面化し︑形を得ることがあ
る︒カミサマの語りと実践は︑そうした発想が具体的な形を成す顕著な事例である︒
Eの事例は︑そうしたローカルな背景をもった神的発想群が︑その実践と経験を支えていることをよく示してい
る︒Eは死者供養のために︑弘法寺で天蓋幡を奉納するように依頼者に指示をするが︑こうした実践はホトケの
﹁位上げ﹂という発想に具体的な形を与える行為であると言える︒そして︑その発想の具体化は弘法寺という寺院
を介して達成される︒事例一では︑Mというカミサマの独自の実践を喚起する場としての社寺の役割を指摘したが︑ここでは︑ローカルな神的発想群を具体化する場として社寺の存在を位置づけることができる︒
七 カミサマの知識の構成 もう一度︑Eの天蓋幡奉納の実践についての言及を整理すると次のようになる︒ 先祖の供養が不十分であると生者の不幸の原因となる︒先祖供養のためには︑ホトケの位上げが必要であ
り︑それは供養で有名な西の高野山弘法寺に天蓋幡を奉納することで達成される︒また︑その先祖を導くのは稲荷である︒
この短い言及は︑次のような諸要素の絡み合いとみなすことができる︒すなわち︑先祖の供養不足が不幸を招く
という各地で広くみられる﹁一般的﹂な災因論に加えて︑地域の神的発想群に根付いたもの︵ホトケの位上げ V︶︑社寺についてのローカルな知識・評価︵供養で知られる弘法寺︶︑地域での供養実践︵天蓋幡の奉納︶︑Eに固有の
神仏観︵先祖を導く稲荷︶︑それらが結び付けられて天蓋幡の奉納という実践が形作られている︒そのことは同時
に︑Eのこの実践が︑彼にとって利用可能な知識を基礎に成り立っていること︑つまり彼のこれまでの経験や︑地域に既にある発想群を源として︑そこから編み出されたものであることを意味する︒
こうした語りが依頼者や信者たちによって妥当なものとして受け入れられている限り︑Eはカミサマとしての職
能を認められ︑活躍することができる︒
そこで︑こうした彼の独自の知識の構成が︑彼の独善に陥らないのはなぜかという点について問う必要があるだろう︒つまり︑彼固有の構成が彼にとっても︑依頼者や信者にとっても妥当なものとして受け入れられるのはなぜ
か︒
Eの語りや実践が妥当なものとして受け入れられる理由としては︑その構成要素である発想群が︑受け手︵依頼者や信者︶にも共有されていることがまず主要な条件として考えられる︒この点については︑既に事例二で考察し
たように︑地域で評価が定まっている社寺にその実践が結び付けられていることが重要な役割を果たす︒事例三の
Eのように︑独自の神仏解釈がその語りに紛れていても︑また事例二のNのように︑その託宣の下り方が他のカミサマにみられる作法と異なっていたとしても︑そうした語りや実践が︑地域の社寺や既に受け入れられている発想
群に投錨点をもつ限りにおいて︑それらの差異はカミサマの﹁個性﹂として受け入れられることになる︒ただし︑
例えば○○寺で実践を行えばカミサマというように︑何か決定的な一点があるわけではない︒先にも触れたように
神的発想群は人々に断片的に保持されているために︑そのいくつかに錨を降ろす事によって︑カミサマはカミサマ
と認められるのである︒
さらに︑彼の語りや実践の構成が依頼者との対面状況でなされることにも注目する必要があるだろう︒対面状況
における語りと実践の構成は︑いわば即興的ともいうべき性格をもつ︒即興的であるというのは︑それがその場し
のぎの出鱈目であるということを意味しない︒演劇においても音楽においても︑即興を成り立たせるためには主題やコード進行など︑それなりの型が必要となる︒また︑観客の側もその型をある程度共有し︑即興に耳を傾ける構
えを有していなければ︑それは無秩序な騒音と化してしまう︒カミサマの場合︑依頼者に求められる構えとして
は︑社寺への評価や神的発想群を分有していることが求められる︒対面状況において︑カミサマと依頼者の間では
神仏理解のすり合わせが行われ︑互いに納得可能なイディオム Wが形成されていく︒加えて︑依頼者がカミサマの語りを認めることにより︑カミサマは独自の神仏理解や実践に対しての確信を増すことができる︒カミサマの才と は︑依頼者の構えと期待を汲み取りながら X︑自身の経験と知識を即興的に構成することにある︒
おわりに
以上︑社寺への言及に焦点を合わせて三名のカミサマについてその来歴と実践をまとめ︑考察を加えてきた︒そ
れぞれを振り返ると︑まず︑事例一においては︑神的な事柄にかかわる連想の起点として︑事例二では実践の正当性を支える根拠として︑事例三では︑地域の神的発想群に具体的な形を与える場として︑それぞれ社寺について語
ることが果たす役割をみて取ることができた︒その過程で︑社寺についての言及について考察することは︑自ずと
地域の神的発想群や実践群について論じることにつながっていった︒これは︑それらの要素の不可分な関わり合いを示すものである︒社寺の存在は︑カミサマと人々が共有する知識や想像の一つの重要な結節点となっていること
がわかる︒
また︑津軽の社寺についての言及︑及びそこでの実践は︑神的発想群と相まって︑ともすれば無限に拡散していくカミサマたちの自由な神仏理解にある程度の方向性を与える︒カミサマの発言が妥当なものとして依頼者に受け
入れられるためには︑こうした方向性から大きく外れない必要がある︒カミサマはその意味で︑日常的な社寺の評
価や神仏についての発想から大きく逸脱することが許されていない︒にもかかわらず︑カミサマの語りと実践が多
様性を帯びているのは︑本稿でみてきた通り︑知識の即興的な構成という面でカミサマの個性が反映される余地があるためである︒また︑そこで生み出された即興的な実践の一部が︑地域の神的発想群に組み込まれ︑新たな常識
として広まっていく可能性も考慮に入れなければならないだろう︒いずれにせよ︑地域の人々の日々の生活のなか
で︑交渉︑受容︑時に淘汰されることによってカミサマという存在とその言葉・実践は︑はじめて成り立つものである︒カミサマの知識と権威とは︑常にこうした動態のなかで発生する︒そして︑社寺についての言及とそこでの
実践はカミサマの﹁創造性﹂の源泉であると同時に︑それらを緩やかに輪郭づけるものである︒
これらを踏まえたうえで︑カミサマとはいかなる存在か︑本稿の視点から定義づけると︑カミサマとは社会に流布した超越的次元についてのイディオムに慣れ親しみ︑それを依頼者の期待に沿って巧みに構成する能力を身に着
けた存在であるということができる︒トランスではなく知識の交渉という視点から巫者を捉えるこの視点は︑今後
の巫者をめぐる現実の動態的把握に貢献していくものであると考える︒
註︵
︵ 呪力の人類学﹄講談社︑一九九六年︑二五七頁等︒ 1︶桜井徳太郎﹃日本のシャマニズム││民間巫俗の構造と機能﹄下巻︑吉川弘文館︑一九七七年︑四二四頁︑佐々木宏幹﹃聖と
︵ タ研究における成巫過程への着目とその背景﹂︵﹃宗教学・比較思想学論集﹄一一号︑二〇一〇年︶で論じた︒ 2︶日本のシャーマニズム研究史におけるトランスの位置づけについては︑拙論﹁日本におけるシャーマニズム研究の展開││ユ
︵ 3︶池上良正﹃民間巫者信仰の研究││宗教学の視点から﹄未來社︑一九九九年︒
︵ 頁︒池上︑前掲書︑二〇二頁︒ 4︶和歌森太郎﹁津軽民俗の歴史性││民俗信仰を中心にして﹂︵和歌森太郎編﹃津軽の民俗﹄吉川弘文館︑一九七〇年︶︑一一
︵ 5︶池上︑前掲書︑一〇三頁︒
︵ 6︶川村邦光﹃巫女の民俗学││︿女の力﹀の近代﹄青弓社︑二〇〇六年︑五五頁︒
︵ edge,” , 11, 1982︶︒ Malcolm R Crick, “Anthropology of Knowl-義の流れを汲む研究には知識人類学と呼ぶに値する成果を認められるとしている︵ Crickに関して一九八二年のによる文献レビューでは︑知識人類学の試みは稀であるものの﹃社会学年報﹄学派とマルクス主 分野の確立はなされないままであった︵小池誠﹁﹇研究動向﹈知識の社会人類学﹂﹃社会人類学年報﹄一六︑一九九〇年︶︒国外 7︶小池誠によると︑国内では一九三〇年代に馬淵東一が﹁知識人類学﹂という言葉を使っているが︑以降特に知識人類学という
︵ 8︶渡邊欣雄﹃民俗知識論の課題││沖縄の知識人類学﹄凱風社︑一九九〇年︑一三︱一四頁︒
︵ 三六九頁︒ 9︶小田亮﹁沖縄の﹁門中化﹂と知識の不均衡配分││沖縄本島北部・塩屋の事例考察﹂︵﹃民族學研究﹄五一︵四︶︑一九八七年︶︑
︵ 10 ︶川田牧人﹃祈りと祀りの日常知││フィリピン・ビサヤ地方バンタヤン島民族誌﹄九州大学出版会︑二〇〇三年︑七頁︒
︵ 11 ︶川田︑前掲書︑八頁︒
︵ 状況を指し︑またそれは同時に︑巫者がその権威を認められているということを意味している︒ 12 ︶本論で巫者の﹁存立﹂とするとき︑それは︑本人のみならずその周囲の人々がその巫者の言動を妥当なものとして認めている 得ることができなかった︒また︑一名が入院中︑三名がここ数年で既に故人となっていたために直接話を聞くことはできなかっ に三五名のカミサマについての情報を得た︒そのうち︑所在不明やインタビューの拒否などで︑六名については具体的な情報を 13 ︶津軽のカミサマについての報告は︑二〇一二年から二〇一五年に行った調査をもとにしている︒調査を通して津軽地方を中心