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A Study on changes of the Academy Sacrificebetween the Northern and the Southern SongDynasties : Focusing on ritual areas andobjects of worship

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

A Study on changes of the Academy Sacrifice between the Northern and the Southern Song Dynasties : Focusing on ritual areas and objects of worship

簡, 亦精

九州大学大学院人文科学府

https://doi.org/10.15017/1462276

出版情報:中国哲学論集. 39, pp.65-85, 2013-12-25. The Chinese Philosophy Association, Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

両宋における書院祭記の変化

|祭記空間と祭相対象を中心に|

亦 精

書院と廟学制度

北宋初期︑書院は不足がちな官立学校を輔佐する役割としての新たな道を展開し︑唐代書院では見られなかった祭

把という機能が加わった︒しかしながら︑初期の書院祭把には独自の制度がなく︑基本的に官学の廟学制度を受け継

ぎ︑孔子とその弟子の像を作り︑山獄麓書院にしても白鹿洞書院にしても祭把対象は先師・先賢を中心とした︒

廟学制度とは学校内に儒家的祭杷空間である﹁聖廟﹂︿丈廟﹀が設置され︑かっそこで祭把儀礼︿学礼﹀が行われ

る学校制度を指す︒廟学制度の﹁廟﹂とは孔子廟︿孔子と共に先賢・先儒が従記される︶を指し︑﹁学﹂とは講堂︿元・

明以降は明倫堂と称される﹀を指す︒つまり︑﹁廟﹂という祭把空間と﹁学﹂という講学空間とによって学校が構成

され

るの

であ

る︒

廟学制度の成立に関しては︑東晋の孝武帝が太元十年︵三八五﹀に因子学︿中央官学﹀に廟を建てて孔子を把った

ことを廟学制度の塙矢とする研究がある︒高明士氏の論考﹁廟学制的建立与実施﹂によれば︑北貌の孝丈帝は太和十

三年︿四八九﹀に中書学︿中央官学﹀に孔子廟を造らせており︑南梁の武帝は天監四年︵五

O

五﹀に因子監︿中央官

(3)

尚子﹀に孔子廟を造らせた︒また︑北斉と北周は北貌の影響を受け︑廟学制度を取り入れた︒北斉の場合は因子寺に孔

顔廟を造っており︿﹃陪主旦巻七・九︑礼儀志二・四三北周の場合は釈実を二回︿丈帝大統十三年・宣帝大象二年二

月﹀

行っ

たと

いう

記録

があ

った

︵﹃

周主

旦巻

四七

・翼

儒伝

︑同

書巻

七・

官一

帝本

紀︶

0

以上の事柄を踏まえると︑最初孔子を把る廟を設置したのは中央官学のみということが分かる︒州学・郡学等のよ

うな地方官学が廟学制度に従い孔子を把るようになったのは︑北斉の丈宣帝の天保元年︿五五

O

﹀とされる︒また陪

初の学校制度は北斉の学校制度を基にしたため︑当然孔子を祭っていたと推測される︒﹃陪主旦巻九︑礼儀志四に︑

陪制︑園子寺︑毎歳四仲月上了を以て先聖先師を穆実し︑年別に一たび郷飲酒躍を行う︒州郡の墜は則ち春秋仲

月を

以て

穆実

し︑

州郡

牒も

亦毎

年同

学に

於い

て一

たび

郷飲

酒躍

を行

う︒

とあるように︑中央官学は年に四回︑釈実の礼を以て先聖と先師を祭記する︒また︑毎年別に郷飲酒礼を実施する︒

一方︑地方官学の州学と郡学は春と秋の二回だけ︑釈実の礼を行い︑州・郡・県学もまた毎年郷飲酒礼を実施するよ

うに規定している︒地方官学の県学に孔子廟を造る許可が下りたのは唐の貞観四年︵六二一

O

﹀のことである︒元の徐

碩﹃至元嘉禾士山﹄巻七︑学校に︑﹁廟は以て先聖を崇め︑向学は以て人倫を明らかにす︒郡邑廟向学︑大いに唐に備わ

o﹂とあるように︑中央官学のみならず︑地方官学にも孔子を把る廟を備える決まりはそのまま定着し受け継がれ

ることとなり︑宋・元・明・清代の学校も基本的にこの制度を沿用した︒

上述のように︑廟学制度は﹁講学空間﹂と﹁祭把空間﹂によって構成されている︒これは︑官立学校の建築スタイ

ルの

基本

とな

る︒

﹃大

唐郊

把録

﹄巻

O

丈宣

王廟

に︑

其の廟は長安子城安上門街道東務門坊に在り︒洛陽には長楽坊に在り︒其の廟は屋四柱七問︑前面雨階︑堂高

三尺五寸︑宮垣之を周る︒南面は一屋三問︑外に十戟有り︒東面は一屋一門︒其の太随一千講論の堂は︑廟垣の西に

在り

とある︒孔子を把る廟の西側に太学︿中央官学︶の﹁講論之堂﹂がある︒高明士氏はこれを現存する﹁廟学建築﹂に

関する最古の丈献であると述べ︑唐代では﹁左廟右学﹂という配置が主流であることが窺える︒要するに︑建物の背

‑66

(4)

面が北の方向で︑正面が南の方に向いた場所は束を左とし︑西を右とするのである︒次に同氏によって最も古い地方

士山とされる敦埋史料﹃沙州都府督図経﹄巻第三を引用し︑州学・県学︿地方官学﹀にある﹁廟﹂と﹁学﹂との位置関

係を

説明

しよ

う︒

右︑城内に在り︑州の西三百歩に在り︒其の随一干の院内︑東廟又先聖太師廟にして︑堂内に素︵塑﹀の先聖及び先

師顔子の像有り︒春秋の二時実祭す︒

牒 随 一

右︑州向学の西に在り︑院に連なる︒其の院中東廟に先聖太師廟有り︑堂内に素の先聖及び先師顔子の像有り︒春 千

秋の

二時

実祭

す︒

東を左とすると︑州学と県学︿地方官学﹀は太学︿中央官学﹀の﹁左廟右学﹂と同じスタイルとなる︒塑像を置き︑

記る対象は主に孔子と顔子となる︒左を重んじて︑南の方に向くのは正しい礼とされるため︑尊ぶ聖廟を左に置いた

ので

はな

いか

と考

えら

れる

しかしながら︑この唐代で採用された﹁左廟右学﹂の建築スタイルは受け継がれることがなく︑﹁左学右廟﹂・﹁前

学後廟﹂・﹁前廟後学﹂の配置も見られ︑例えば南宋では︑唐代と正反対の﹁左学右廟﹂を採用したことに対し︑次の

﹃朱

子語

類﹄

巻九

O

︑礼七︑祭に見られるような議論があった︒

問︑っ︑大成殿は又却て墜の西に在り︑是れ尊右の義莫きや否や︒日く︑未だ初意は如何なるかを知ら︑ざるも︑本

朝因りて奮制にのり︑反て更に率略となり︑之を唐制に較ぶれば︑尤も理命日没し︒唐制尤も近古の慮有れば︑猶

お保

理の

観る

べき

有り

唐は﹁左廟右学﹂を採用するが︑南宋は﹁右廟左学﹂を採用したことについて︑高明士氏は﹁唐・宋の廟の位置が

異なるのは︑まさに二代の尊尚の差異を表わしているのかも知れないが︑廟の所在を尊貴とするということでは見解

の相違はない︒学校の敷地が廟の所在を尊貴とするのは︑まさに学校の中心地が聖廟であることを表わしている︒今

(5)

日までずっと︑台湾に見られる伝統的学校︿書院を含む﹀は︑やはり廟の所在地を尊貴としており︑韓国・日本に見

られるものも同様であるo

﹂と

指摘

した

︒高

氏は

初め

て書

院と

廟学

制度

との

関係

に関

心を

払っ

た学

者で

ある

︒書

院の

﹁廟

と﹁学﹂の位置関係は﹁前学後廟﹂が最も多いとい︑主ぢ察結果を出したが︑その理由は必ずしも判然とせず︑考えら

れるのは書院の建設の多くが風水を重んじる点と書院は官学のように厳しい規則に縛られていない点にあると述べ

そうだとすると︑北宋初期には地方官学が未発達であるため︑唐代から累積されてきた書院の掴養能力は地方を教 る ︒

化する力を持っていることから︑書院は教育機関として重宝され︑書院を官学化するために﹁祭把﹂という機能を付

与させたという推論も妥当性を持つであろう︒従来の研究では︑書院祭把が官学に従ったことを指摘するが︑祭把対

象と祭把空間︿﹁廟﹂と﹁学﹂の配置﹀についてはまだ検討の余地がある︒例えば︑祭把機能を持つようになった後︑

書院は廟学制度を如何に受容したのか︑もしくは独自の廟学制度を発展させたのか︑壮一寸の問題は十分に解明されては

いない︒また︑官学に倣い孔子とその弟子を祭記すると考えられてきたが︑弟子とは誰のことを指すのかを明確にす

ることによって︑童日院祭杷の特徴をより際立たせることが可能となる︒本論はこれらの問題を解明することを目的と

一 随 一

する

祭杷対象

l 孔

子 と そ の 弟 子

従来の研究では︑祭把対象に著しく変化が見られる南宋時代が考察の中心とされてきたため︑北宋の書院祭杷に関

しては未だ不明な点が多い︒そこで︑まず北宋書院の祭把対象とされる孔子とその弟子に関して︑北宋時代に完成さ

れた﹁湾州最麓山書院記﹂の再検討から始め︑書院で行われた祭把の内容をより具体的に提示することと把られる人

物を絞り込むことを試みたい︒ついで︑同じく北宋に完成された陳舜命の﹃鹿山記﹄を取り上げ︑白鹿洞書院と巌麓

書院の祭把対象・祭把空間の変化を中心に検討していくことにする︒

(6)

書院は官学ではないため︑把典には書院祭把の内容・対象・建築に関する規制がない︒書院の祭把に纏わる諸問題

を説明するため︑殆どの研究は明清時代の書院志を利用するが︑それらの丈献は充分に北宋時代の状況を説明してい

るとは言えない︒そのため︑北宋時代に完成された王民俗︿九五四

1

00

ごの﹁濁州最麓山書院記﹂と陳舜命

7 1

O

七五﹀の﹃鹿山記﹄に記された書院に関する記載は断片的ではあるが︑重要な資料だと考えられる︒

最麓書院は宋の太祖の開宝九年︵九七六﹀に︑湾州太守朱洞によって建てられた︒唐が後梁に纂奪された後︑中国

は各地が割拠する状況に陥った︒荊湖地域の回復は北宋開国四年後の乾徳元年︿九六二一﹀にようやくなされたもので

あり︑当時この地に官学はなく︑官僚である朱洞は僧侶が営んでいた私塾の地を書院にした︒

朱洞が揮州の太守に任命されたのは開宝六年︿九七三﹀のことであった︒官僚の支持を得た最麓書院は︑制度的・

規模的により大きく発展した︒しかしながら︑朱洞が離れるとともに︑山獄麓書院は安定かっ有力な支援が途絶えてし

まった︒王民俗の﹁湾州最麓山書院記﹂では︑朱洞が離れた後の状況を︑﹁諸生逃解して︑六籍散亡し︑弦歌音絶えて︑

坦豆観る無しo

と形

容す

る︒

成平二年︿九九九三濁州太守李允則は衰廃する巌麓書院を建て直そうと計画した︒弦歌・姐豆等の描写から想像

に難くないが︑朱洞がいる時に恐らく獄麓書院では祭把活動が行われていた︒碑丈の続きに︑

先師・十哲の像を塑し︑七十二賢を重き︑華衰︿褒﹀珠旗︑縫披章甫は︑畢く奮制を按じ︑憤然として生けるが

如し

︒水

田を

闇き

︑春

秋の

轄実

に供

︑せ

んこ

とを

請う

とあるように︑再建された撮麓書院には先師・十哲の塑像と七十二賢の壁画が施された︒春と秋に行われる釈実のた

めに水田を拓いたことも記載されている︒﹃礼記﹄月令の記述に基づくと︑釈実は毎年二月と八月の最初の丁の日に

行われる決まりである︒釈実の祭把対象に関しては︑﹃唐六典﹄巻四︑嗣部郎中﹁員外郎﹂の条に︑

凡そ祭把の名に固有り︒一に日く天神を把り︑一一に日く地祇を祭り︑三に日く人鬼を享し︑

調停

実す

四に日く先聖先師を

とあるように︑先聖や先師と決められている︒唐代の官学は大きく中央官学と地方官学に分けられる︒また国の把典

(7)

には大記・中把・小把がある︒例えば︑中央官学で孔子を把る場合は中把を用い︑地方官学で孔子を把る場合は小把

を用いるというように使い分けている︒

貞観二年︵六二八﹀に中央官学に把られる人物を﹁聖孔師顔﹂に決定した︒唐において周公を先聖︑孔子を先師と

した時期もあったが︑貞観二年より正式に先聖とは孔子︑先師とは顔子と決めたのである︒そして貞観四年工ハ二一

O

に全国の地方官学に孔子廟を造らせ先聖孔子と先師顔回を把るように命じた︒﹃唐六典﹄巻四に︑

凡そ州牒は皆孔宣父廟を置き︑顔回を以て配し︑仲春上了に州牒の官は穆実の躍を行い︑仲秋上了も亦之くの如

くに

せよ

とある︒それ以来︑地方官学に孔子廟を設置することが許され︑顔回︿顔子﹀を配把として孔子とともに祭記した︒

祭把の内容は﹃礼記﹄月令に従い︑二月と八月の最初の了の日に地方官吏によって釈実の礼が行われた︒

ここで︑一日一﹁揮州議麓山書院記﹂に一民ることにする︒書院記には﹁奮制﹂に従うと書かれるが︑﹁奮制﹂とはど

の制度を指すのかが解明できていない︒しかしながら︑﹁畢く奮制を按ず︵畢按奮制ごとはすべて旧制に従うことの

意味であり︑決して勝手に決めたのではない︒時代から考えると︑北宋初の太宗の命令によって作られた﹃開宝礼﹄

に従った可能性が大きいが︑現在﹃開宝礼﹄が残されていないため︑確認することができない︒ただし︑﹃開宝礼﹄

は﹃開元礼﹄を元にして作られたものであり︑それは﹃宋史﹄巻九八︑礼士山一の﹁﹃開賓通瞳﹄二百巻を撰するに︑唐の﹃開元瞳﹄に元づきて之を損益寸斗や菜子語類﹄巻八四︑﹁論後世礼書﹂の﹁﹃開賓曹は全世是れ﹃開元曹︑

但略ぼ改動せりム︶という記事から窺い知れる︒したがって︑﹃開元礼﹄は﹁奮制﹂を知る重要な手掛りとなる︒

﹃開元礼﹄巻第一︑序列上︑神位の条に︑太学︿中央官学﹀では二月と八月の最初の丁の日に釈実の礼が行われる

︵ お

こと︑また祭把の対象について︑七十二人の弟子を﹁従把﹂として先聖孔子と先師顔子とに合わせ把ると規定する︒

同書の巻六九と巻七二︑諸県釈実於孔宣父には︑州学・県学︿地方官学﹀で釈実を行︑つ際には︑先聖孔子と先師顔子

MA︶ の神席を設けると記される︒つまり︑太学と州学・県学とは同様に釈実を行︑つが︑祭把の対象が若干異なるという相

違がある︒太学の祭把対象は孔子・顔子及び七十二弟子である一方︑州学・県学の祭把対象は孔子と顔子のみである︒

‑70

(8)

﹃宋

史﹄

巻一

O

五︑

礼志

八に

至聖丈宣玉︑唐開元末に︑升して中耐と為し︑従杷を設け︑瞳令踊三公行事す︒朱梁喪乱して︑従把遂に慶され︑

後唐の長興二年︿九三ご︑的りて従把を復し︑周の額徳二年︵九五五三別に園子監を替みて向晶子舎を置く︒宋因

りて之を増惰し︑先聖・亜聖・十折口の像を塑し︑七十二賢及び先儒二十一人の像を東西願の木壁に童かしめ︑太

︵ 芯

祖親ら先聖・亜聖の賛を撰し︑十哲以下は丈臣に命じて分けて之を賛せしむ︒

とあ

る︵

傍線

は論

者︒

以下

同じ

o宋の因子監は唐の太学と同じ中央官学に属する︒宋の因子監は再び回復された従

把を

受け

継︑

ぎ︑

先聖

孔子

とと

もに

亜聖

・十

哲の

塑像

を作

り︑

東西

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十二

賢と

先儒

二十

一人

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史﹄

礼志

八に

は︑

さら

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﹃配

⁝寧

把儀

﹄は

十哲

皆従

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も︑

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︑ざ

れば

︑請

︑つ

らく

は今

自り

二京

及び

諸州

の春

︵ お

に轄冥するは︑並びに﹃照寧把儀﹄に準じ詔して孟軒を都圏公に封ぜんことを︒

とあ

る︒

孟軒

を都

国公

に追

尊し

たの

は︑

北宋

元曲

豆六

年︿

O

八三﹀十月のことである︒この時点では︑開封府学・河

南府学・州学だけが十哲の釈実を実施している︒時期を考えると︑成平二年︿九九九﹀に再建された湾州最麓書院で

は︑かりに州学の規定に従い釈実の礼が行われたとしても︑その対象は孔子と顔子のみであったに違いない︒

書院に設置する塑像に関して見れば︑﹁華衰﹂は王侯貴族の礼服を指し︑﹁珠琉﹂は王侯貴族の礼帽にある玉の飾り

のことで︑両方とも高貴なものであり︑身分が高い者の象徴である︒一方︑﹁縫披﹂は儒者の召し物であり︑﹁章甫﹂

は儒者の帽子で︑両方とも儒者を指す言葉である︒同じく王民俗によって嘉照三年︿九八六﹀に書かれた﹁昆山県新

修丈

宣王

廟記

﹂に

乃ち素王を像しては華棄を被せ珠競を垂れて︑王者の制彰わし︑乃ち十哲を状しては章甫を冠し縫披を衣せて︑

︵ 訂

儒者

の服

備︑

っ︒

廟の

興る

や︑

既に

彼の

像の

設け

らる

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如く

︑又

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り︑

﹁華

衰珠

競﹂

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子を

指し

︑﹁

縫披

章甫

﹂が

十哲

を指

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明白

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る︒

湾州

山獄

麓書

院の

塑像

は︑

山昆

山県

丈宣

王廟

の塑

像と

同様

に孔

子と

弟子

の十

哲が

設置

され

たの

であ

る︒

(9)

北宋初期は官学を復興する余裕がなかったため︑書院の力に頼ることにした︒湾州に地方学校と孔子廟︵丈廟﹀の

︵ 沼

両方がないため︑山獄麓書院が再建されたのである︒昆山県︿江蘇地域﹀に県学と孔子廟が再建されれば︑地方の民に

礼教を遂行することができる︒山昆山県丈宣王廟では上了の朝に釈実を行うことから推測すると︑後に造られた湾州最

麓書院も同じ思いを託され釈実を行っていた可能性が高い︒

山獄麓書院にも昆山県の孔子廟にも︑孔子と十哲の塑像が置かれた︒周知の通り十哲とは孔子の十人の高弟である︒

この十人とはま哩巴先進篇の﹁我に陳察に従う者︑皆門に及ば︑ざるなり︒徳行は︑顔淵・関子寮・再伯牛・仲弓な

り︒

言語

は︑

宰我

・子

貢な

り︒

政事

は︑

再有

・季

路な

り︒

丈随

一子

は︑

子瀞

・子

夏な

o﹂という一節に基づいたもので﹁四

科弟子﹂とも呼ばれる︒﹁十哲﹂はその尊称であり︑開元八年︵七二

O

﹀に

玄宗

皇帝

が与

えた

称呼

であ

る︒

その経緯は︑開元七年︿七一九﹀李元理が上奏した議を玄宗皇帝が採用し︑議を踏まえて︑改正が施された︒開元

八年

︿七

O

の詔

書に

顔回等十哲︑宜しく坐像を為り︑悉く従記せしむべし︒曾参は大孝にして︑穂同列に冠すれば︑特り塑像を為り︑

十哲の次に坐し︑因りて七十弟子及び二十二賢を廟壁上に圃重し︑顔子亜聖を以て親︿みず﹀から為に賛を製り

石に

書し

︑の

りて

嘗朝

の丈

士を

して

分け

て之

が賛

を為

り其

の壁

に題

︑せ

しめ

よ︒

とあるように︑顔回︿顔子﹀を始めとする関子審・再伯牛・仲弓・宰我・子貢・再有・季路・子瀞・子夏の十人を﹁十

折口

﹂と

称し

︑孔

子と

とも

に﹁

十折

口﹂

の塑

像︿

坐像

﹀を

﹁従

把﹂

とい

う形

であ

わせ

把る

こと

にな

り︑

開元

八年

︿七

O

から︑孔子は主把︑顔子を含める十哲は従把の形で太学︵中央官学﹀に付設された廟で把られることになった︒

李元瑳が上奏した議に︑前漢の丈翁が局という僻地に学校を造った﹁丈翁之壁﹂という話が引用される︒僻地︿当

時︑国勾は僻地とされている﹀にある学校すら﹁七十子﹂の絵をきちんと描いているのに︑わが国の中央官学に附属さ

れる廟が﹁七十子﹂の絵を描いてないのはどういうことであろうと訴え︑﹁壁に固形し︑兼ねて為に賛を立て︑敦く

lI ll 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 15

︶ 儒を勧めんことを庶うo﹂と︑壁に描くものに﹁七十子﹂が含まれる意義を説明した︒なお︑この議によって︑中央

官学の壁に﹁七十子﹂を描くことは許されたが︑孔子とともに把ることは許可されていなかった︒

‑72

(10)

とこ

ろが

︑﹃

開元

礼﹄

巻一

︑序

列上

︑神

位﹁

仲春

仲秋

上了

釈実

於太

学﹂

の条

には

︑﹁

右新

加七

十二

弟子

之名

﹂と

ある

仲春仲秋上了の日に太学で行われる釈実では︑主杷は孔子で︑配享は顔子とされるが︑新たに従把の﹁七十二弟子之

名﹂を加えたと明記されているのだ︒その書式を見れば︑﹁孔宣父為先聖顔子為先師﹂を大字で表記し︑続いて小字

で孔子の弟子八十一人の名前を挙げている︒名前の表記は﹃史記﹄︵仲尼弟子列伝﹀に従っているが︑人数は﹃史記﹄

とも

﹃孔

子家

一語

﹄︿

七十

二弟

子解

篇﹀

とも

異な

る︒

最初

の九

人の

順番

は再

伯牛

・仲

弓・

宰我

・子

貢・

再有

・子

路・

子瀞

子夏・関子寮である︒この九人と先師顔子を合わせると︑﹁十哲﹂のメンバーと同一である︒

残った弟子は︑曾参・高柴・芯子賎・公西赤・林放・奨須・有若・孔忠・琴牢・梁纏・叔仲会・再躍・曽点・陳克・

漆離開・商崖・司馬耕・子張・亙馬施・秦非・商︑津・鄭国・公西蔵・公冶長・潅台滅明・原憲・蓮伯玉・公伯寮・原

克・燕仮・秦祖・再季・公肩定・左人部・公西輿如・公孫龍・任不斎・顔祖・南宮栢・鯨単・秦商・廉梁・歩叔乗・

部巽・施常・顔之僕・秋黒・漆離略・県成・顔路・顔噌・公良揺・公祖句慈・伯慶・栄薪・顔高・秦再・申根・顔辛・

顔何・申党・公哲哀・后処・句井彊・曹郎・宰父黒・美容蔵・公夏首・石作局・壌胸赤・漆離徒父・楽教となるが︑

その数は七十二人となる︒﹃開元礼﹄が出来た時点で︑﹁七十弟子﹂或いは﹁七十二弟子﹂がようやく孔子とともに釈

実の礼を享受することができるようになった︒もっとも︑それは中央官学に限られた︒

開元八年の勅令では︑既に不動の地位を得た﹁十折口﹂を除くと︑ちょうど七十二人になることは︑ただの偶然とは

考え難い︒その上︑開元二十七年︿七三九﹀に﹁七十二子﹂を﹁伯﹂と追尊しており︑この﹁七十二子﹂の地位が上

昇しているのは確かなことである︒宋の真宗の大中祥符二年︵一

OO

九﹀に﹁七十二子﹂の中の六十二人を﹁侯﹂と

追尊し︑そして大観四年二一一

O

に残

り十

人の

公夏

首・

后処

・公

肩定

・顔

祖・

躯単

・空

父黒

・秦

商・

原克

・楽

教・

︵ お

廉梁

を﹁

侯﹂

と追

尊し

た︒

七三

九年

から

OO

九年までの聞に七十二弟子の序次の変動はあったが︑メンバーは変わっ

てい

ない

﹁湾

州撮

麓山

書院

記﹂

は戚

平三

年︿

000

﹀に作られたものであるため︑書院の壁に書かれた七十二弟子のメンバー

は概ね確定できよう︒これまでの分析を踏まえると︑北宋初期に山獄麓書院には孔子と顔子・関子審・再伯牛・仲弓・

(11)

宰我・子貢・再有・季路・子瀞・子夏の塑像︿坐像﹀があり︑壁に七十二賢の絵が描かれていた︒毎年春三月︶と

秋︿八月﹀の上了の朝に孔子とともに顔子を釈冥する︒また︑開元二七年の﹁自今己後︑雨京の園子監は︑夫子は皆

︵ 刊 さ

南面して坐し︑十哲等は東西に列侍︑せしめ︑天下の諸州も亦此に准ぜよo﹂という勅令に従い︑孔子の塑像を南に面

して座らせ︑十哲は東西に並べて孔子に仕える形とする︒これが書院祭把の原型となるのである︒

書院の祭杷空間

靖康二年二二一七﹀に北宋が滅亡した︒一一一一九年から一二三一年にかけ︑酒州は戦火のただ中にあった︒撮麓

書院は紹興元年︿一二三﹀に戦乱によって廃瞳となったが︑乾道元年︿一一六五︶に至り官僚の劉棋がその再建に

取り

掛か

った

︒﹃

長沙

府撮

麓士

山﹄

巻之

三︑

﹁旧

志聖

廟図

説﹂

に︑

宋初僅かに書院有るのみなるも︑乾道の時に至りて劉安撫︑書院の前に於いて始めて躍殿を創り︑中に閥里の聖

賢像を肖どり︑列して七十子を槍き︑前に沖池・苑門・櫨星門を為り︑是白り晦蓄先生更めて書院を建てること

︵ 話

奮制の如くすれば︑瞳殿は則ち五聞なり︒

とある︒確かに︑成平二年︵九九九﹀湾州太守李允則が書院を再建する際︑門屋・講堂・書楼・客次等の建物を造っ

たが︑礼殿のようなものはなかった︒﹁旧志聖廟図説﹂はさらに︑﹁乾道に改元するや︿一一六五三湖南安撫劉咲新

︵ 出

院を創り屋を為すこと五十極︑内に躍殿を設け︑聖像を肖どり︑蔵書閣を加え・・・︒﹂と記しており︑孝宗時期に書院

が始めて教学空間と祭把空間を別々に設置し︑所謂官学の廟学制度を導入したことが分かる︒なお︑書院の前に初め

て礼殿を創ったが︑その配置は﹁前廟後学﹂である︒

張拭二二三二

1

二 八

O

﹀の﹁撮麓書院記﹂に﹁屋を為すこと五十極︑大抵悉く奮規に還り︑閥里の先聖像を殿

︵ 訂

中に肖どり︑列して七十子を槍きて蔵書閣を︿講﹀堂の北に加︑っ︒﹂とある︒今回の再建は基本的に前の規制に従い︑

閥里にある先聖の塑像を模倣し礼殿の真ん中に安置して︑七十弟子の絵を順次に描いた︒それから蔵書閣を講堂の北

‑74

(12)

側に

増設

した

ので

ある

山獄麓書院を例として見ると︑王再俗の﹁湾州最麓山書院記﹂に︑山獄麓書院は最初は講堂しかなかったと記されてお

り︑張拭の﹁撮麓童日院記﹂に初めて礼殿を造った記述が見える︒つまり︑初期書院︿北宋時代﹀は祭把も講学も同一

場所で行った可能性が極めて高い︒要するに︑北宋書院の祭把は官学の把典を受け継いだが︑官学の廟学制度のよう

に講学空間と祭把空間を分ける概念がまだ形成されていなかったのである︒そうだとすると︑書院が廟学制度を意識

し始めたのは南宋乾道元年以降ということになる︒

﹃長

沙府

山獄

麓士

山﹄

巻之

三︑

﹁書

院沿

革︿

旧士

山﹀

﹂に

︑﹁

紹鼎

五年

二一

九四

﹀晦

蓄︑

湖南

を安

撫す

るや

︑随

一子

を山

獄麓

に興

し︑更めて書院を爽喧の地に建て︑前に躍殿・沖池を列し︑後に百泉軒有らしむること︑堂室二層約百聞なりo

﹂と

ある︒ここで注目したいのは﹁沖池﹂を造ったことである︒古来︑官学に属する孔子廟の前に沖池を造る習慣があっ

たが︑書院の前にも沖池を造るようになった︒礼殿を孔子廟とは称さないが︑記る対象は先聖孔子である︒朱書が造っ

た書院の祭把空間は以前より充実された様子が見られ︑書院の礼殿に沖池が伴っていることがわかる︒但し︑変化も

見られる︒張拭の﹁獄麓書院記﹂には︑十哲の塑像に関する記載がなく︑恐らく︑十哲塑像が置かれなくなった可能

性が高い︒このような現象は白鹿洞書院にも確認できる︒

白鹿洞書院は巌麓書院とともに北宋四大書院と呼ばれている︒その歴史を遡ると︑唐の李崩とその兄李渉がともに

隠居をした場所に辿りつく︒唐の宝暦年間︵八二五

1

八二

六三

李崩

は江

州の

刺史

とな

り︑

隠居

する

場所

に台

樹を

建て

その周囲に池をともなった庭園を造り︑洞名を﹁白鹿﹂にしたのが由来だった︒宋の陳舜命は﹃鹿山記﹄に︑

南唐の昇元中︿九三七

1

九四

三﹀

︑洞

に因

りて

向学

館を

建て

︑田

を署

して

以て

諸生

に給

する

に︑

間晶

子者

大い

に集

り︑

園子監九経李善道を以て洞︑王と為し︑以て救授を主らしむ︒保大中︵南唐︑九四三

1

九五七三田を以て徴士史

虚白に錫う︒虚白は北海の人︑地を鹿山に避け︑韓照載其の用うべきことを薦め︑元宗召して便殿に至り︑訪う

に園事を以てするも︑辞して︑漁釣の人︑安くんぞ邦園の大計を知らん︑と日い︑又殿上に酔溺すれば︑元宗︑

真の慮士なり︑と日う︒因りて田を賜りて遣師︑せしめ︑のりて其の租を免ず︒虚白死して︑子孫租入に困しみ︑

(13)

其の地を有する能わず︑遂に他主に易?っ︶る︒成平五年︿一

OO

一一

﹀︑

勅し

て重

修︑

せし

め︑

のり

て宣

聖十

哲の

Il l1 11 11 11 11 11 11 11 11 11 1

像を塑するも︑今鞠して茂草と為る︒

とあ

る︒

陳舜命︑字は令挙︑北宋の丈人である︒彼は欧陽修や蘇束壊︑司馬光等と親交があり︑よく白い牛に乗って江西の

鹿山を遊覧していたことから﹁白牛居士﹂と呼ばれた︒﹃鹿山記﹄に︑﹁戚平五年︑勅重修︑の塑宣聖十哲之像︒﹂と

あるように︑成平五年に皇帝の勅令により白鹿洞書院が再建され︑昔と同じように宣聖と十哲の塑像を作ったのであ

る︒しかしながら︑彼が見たのは荒廃した地であり︑実際には書院の建物も宣聖と十哲の塑像も見なかった︒

真宗

の戚

平三

年︿

000

﹀に作られた王再俗の﹁酒州最麓山書院記﹂に﹁塑先師・十哲之像︑童七十二賢0

・ ・ 請

闇水田︑供春秋之穆実︒﹂等とあったが︑乾道元年︿一一六五﹀に撮麓書院を再建する際に張拭が書いた﹁撮麓書院記﹂

には十哲と釈実に関する記述が一切なかった︒白鹿洞書院の場合︑﹃鹿山記﹄は一

O

七四

年か

ら一

O

七五年の聞に製

作さ

れた

と思

われ

︑陳

舜ム

別が

鹿山

を遊

覧し

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︑書

院の

建築

がな

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十哲

の像

も残

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状況

を述

べた

大中

祥符

年間

︿一

OO

1

O

一六

﹀と

皇祐

年間

︿一

O

四九

1

O

五四﹀の断片的な書院に関する記述から書院は何

とか教学を続けている様子が窺えるが︑祭把の状況は不明である︒その後︑書院に関する記録は途絶えてしまい︑淳

鼎六年︿一一七九︶に朱書が書院を再建するまでの約一

O

五年の問︑荒廃したままの状態だったと考えられる︒期間

は短かったが︑白鹿洞書院にも十折口の塑像が設置されたのは確かで︑少なくとも北宋戚平年間︿九九八

1

OO

三 ﹀

まではあったと考えられる︒もう一つ注目すべきは︑朱書によって再建された白鹿洞書院にあった礼殿は書院が落成

してから二年後に出来たことである︒十哲の像があったことも︑礼殿よりも先に書院があったことも︑山獄麓書院と同

じと

い︑

つこ

とに

なる

﹃江西通士山﹄巻二二︑書院二に︑﹁︿淳照﹀八年︿一一八ご辛丑︑所東提奉に遷り︑復た銭三十高を遣わし︑知軍

銭聞詩に属して瞳殿・雨厩井びに塑像を建てしむ︒後二年︑知軍朱端章︑板壁を加え︑従把の諸賢像を槍かしむ己

とあるように︑白鹿洞書院が完成した翌年に礼殿と両騒が建設され︑塑像が作られ︑さらに二年後︑木壁に従把の諸

‑76

(14)

賢人

の絵

が描

かれ

た︒

白鹿洞書院の礼殿と書院との位置関係については︑﹁淳照壬寅︑丈公所東提奉に赴き︑銭三十高を以て後守銭聞詩

に属

して

︿礼

聖殿

を﹀

室田

堂の

西に

創建

せし

o﹂という記載が残されている︒つまり︑白鹿洞書院の廟と学の位置関

係は﹁左学右廟﹂となり︑山獄麓書院の﹁前廟後学﹂ともまた異なる配置であることが判明した︒

祭杷対象の変化

以上の考察で白鹿洞書院の礼殿には孔子と顔子の塑像があり︑十哲の絵が描かれたことが分かった︒北宋と違って︑

南宋の書院には十哲の像を置かなくなり︑その代わりに絵を描くこととなったのである︒また︑孔子とともに顔子を

釈冥

する

こと

も変

化し

始め

る︒

遡って淳照六年︿一一七九﹀に南康守となった朱書が衰退した白鹿洞書院を建て直そうとした時点に戻ろう︒史料

には

︑﹁

︵淳

照六

年﹀

軍向

学教

授楊

君大

法・

星子

牒令

王君

仲傑

に属

して

其の

事を

董せ

しむ

o﹂とある︒星子県令の王仲傑

は書院再建の仕事を引き受け︑翌年の三月に書院が完成されたことを先師に告げるため︑釈菜の礼が行った︒﹁白鹿

洞成告先聖丈﹂によれば︑淳照七年︿一一八

O

︶三月十八日︑白鹿洞書院が落成を迎え︑朱書は師生を率い︑入学の

儀式を行い︑釈菜を行って先聖︿孔子﹀とともに︑先師売国公︿顔回﹀と都国公︿孟子﹀を把る対象としたというこ

とで

ある

北宋の書院では釈菜に関する記録はなかった︒書院内に孟子を祭把対象とするのも南宋に入ってから始めて加えら

れたことである︒南宋の書院祭把の内容と把る対象は︑確実に北宋と違ってきたことが分る︒ただ官学の把典に従う

だけで独自性を持たなかった書院の祭把はようやく自分の道を歩み始め︑書院内で孔子と顔子以外に孟子を把ること

となったのである︒貞観二年︿六二八﹀に﹁聖孔師顔﹂の制度が確立され︑貞観四年︿六三

O

﹀に全国の地方官学で

先聖孔子と先師顔回を把ることが決まって以来︑地方官学だけではなく書院もこの規制に従い︑守り続けてきた︒朱

(15)

高は孟子を先師として祭把対象に加えた理由を︑﹁惟れ︿都圏﹀公は命世にして業を修め︑克く聖惇を紹ぐo

﹂と

述べ

た︒﹁命世修業﹂は︑宋の張載﹃正蒙﹄の﹁顔淵は師に従い徳を孔子の門に進め︑孟子は命世にして業を戟園の際に

修む︒此れ潜見の同じからぎる所以なりo

︶を

踏ま

えた

もの

であ

る︒

﹃論

孟精

義﹄

に︑

﹁顔

子去

聖人

只事

髪問

︑孟

子大

賢︑

亜聖之次也﹂︑﹃近思録﹄巻一四に︑﹁孟子没而聖学不惇﹂とあるように︑朱書は孟子のことを尊敬した︒顔子に続く

聖人に近い者は孟子であると考え︑孟子が亡くなって︑聖学も伝わらなくなったと認識していたのである︒したがっ

て︑白鹿洞書院に孔子と顔子以外に孟子を把ることは朱書の主張によるものなのである︒

朱裏と福建の竹林精舎

朱喜小が局面を変えた︒白鹿洞書院での祭把対象の変更は書院祭記にとって革新的な行為だった︒書院は朱書の祭把

に対する構想が具体化できる場所となったのである︒すなわち︑書院はもはやただ単に儒学を伝授するだけの場所で

はなくなり︑道統を形にして儒学を伝承していくのに最も適した場所たらしめんとする期待が寄せられたのである︒

紹照五年二一九四﹀一一一月︑福建に帰った朱書は新たに書院を造ろうとしたが︑﹁書院﹂の名を付けずに﹁竹林精舎﹂

と命名することにした︒ここはいわば住居を兼ね自由に講学もできる私的な空間であり︑規模が小さく家塾的なもの

だが︑彼の思いが詰まった理想的な祭把空間が実現できる﹁書院﹂であった︒

書院の完成に伴い︑竹林精舎の講堂で釈菜を行った︒︑王把を孔子とし︑配享を顔回・曾子・子思・孟子とした︒そ

して︑周漉渓・程明道・程伊川・部康節・司馬温公・張横渠・李延平の七人が従杷として把られている︒﹃朱子語類﹄

巻九

O

礼七

︑祭

に︑

新書院告成し︑明日︑先聖先師を把らんと欲するに︑古︑韓菜の躍有り︑約して行うべくんば︑遂に﹃五瞳新儀﹄

を検べ︑其の要を具える者以て呈せしむ︒先生終日役を董し︑夜踊れば即ち諸生と瞳儀を掛酌す︒難鳴に起き︑

平明に書院に往き︑属事未だ備わら︑ざるを以て︑講堂の躍に就く︒官一聖像︑中に居り︑売国公顔氏・郎侯曾氏・

‑78

(16)

肝水侯孔氏・都圏公孟氏︑西向して北上に配す︒︿並びに紙牌子なり︒﹀漉渓周先生︵束ご・明道程先生︿西ご・

伊川

程先

生︿

東一

一﹀

・康

節部

先生

︿西

一一

﹀・

司馬

温園

丈正

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東一

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先生

︿東

四﹀

︵ 必

把す

︒︿

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牌子

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︑当

時通

行の

﹃政

和五

礼祭

杷新

儀﹄

に矛

盾や

疑問

を感

じ︑

﹃周

礼﹄

﹃儀礼﹄・﹃開元礼﹄等の古礼から模索や推献を繰り返しながら捻出した改善案の試行であり︑かつて白鹿洞書院で孔

子と顔子の塑像を造らずに位牌を置くという提案が周囲に反対され︑やむを得ず妥協して塑像を造ったことで味わっ

た屈

辱感

を払

拭す

るた

めで

もあ

った

祭把

対象

に関

して

は︑

配享

を白

鹿洞

書院

で把

った

顔子

と孟

子の

ほか

︑曾

子と

子思

を加

えた

︒そ

の理

由に

つい

ては

︑﹁

しく惟うに︑道統︑遠くは義軒白り︑厭の大成を集むるは︑允に元聖︵孔子︶に属す︒古を述べ訓を垂れ︑高世程を

作り︑其の徒を三千にし︑化すること時雨の若し︒維だ顔︿顔子﹀・曽︿曾子﹀氏︑惇えて其の宗を得︑思︵子思﹀

Il lI ll 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 11 15

︶ 及び輿︿子輿H孟子︶に逮び︑益ます以て光大なりo﹂と述べる︒これこそは︑朱書が最初に考案した道統の基本構

図に

他な

らな

い︒

従把の対象には北宋の道学の創始者とされ北宋五子とも呼ばれる周敦願・程顕・程願・部落・張載と司馬光の六人

が充てられ︑さらに︑朱書は自分の師である李伺を加えた︒熊禾はこれに対し︑

丈公︑六君子を賛ずるは︑乃ち其の一時の先哲を景行するの盛心にして︑竹林の嗣︑延平先生を増して七賢と為

すは︑又以て其の平生師停を尊敬するの意を致すなり︒

と述べる︒北宋の思想学術を代表する先哲を景仰する心と自分に学聞を教えた師を尊敬する意を祭把によって去すと

いうことである︒朱書が提言したこの書院祭把から﹁道統﹂と﹁師道﹂の二つの要素が備えられることになり︑彼が

考え

た道

統の

理想

図が

完成

する

とと

なる

孔子を中心とする従来の儒学を伝承するメンバーと北宋五子・司馬光に始まり南宋の朱書に至るまでの新しい儒学

とを結合して一つの道統が完成された︒しかしながら︑この朱書が考えた道統はあくまでも私的な見解に過ぎず︑︵日

(17)

学が絶対的に従わなければならない国家の把典であることとは異なり︑誰しも同様に課される義務ではない︒例えば︑

︵ 印

先聖先師十哲を祭把対象とする元代に造られた儒林書院︵湖南﹀は︑旧制度に従い孔子とその弟子を祭記する︒また︑

﹃重修撮麓書院図志﹄巻之一にある﹁道統図﹂を見ると︑﹁孔子曾子子思孟子・・・﹂となっており︑顔子が抜

けていることが分る︒図の次に収められた﹁聖学統宗﹂には︑この﹁道統図﹂の論拠として﹁孔子没︑曾子濁得其惇︑

惇之子思・・﹂と明記する﹃宋史﹄道学伝冒頭部分が引用されており︑明代の山獄麓書院では顔子は道統に入れられてお

らず︑祭把対象とされていなかったことが分かる︒朱書が行ったように信奉実践する学聞と人物を祭把対象にすれば︑

同じ士山を持つ者が集まり︑学派が形成される︒書院で行う祭把が信奉する学問の伝承ル

I

トを明示する働きを持つこ

とは

確か

であ

る︒

北宋の書院は官学が持つ祭把機能が附与されると︑学校として展開した︒つまり︑祭把とは官学と書院の両者の聞

に立つ﹁媒介﹂だったのである︒書院が学校として成り立つ最大の理由は官学から祭把機能を分与されたからである︒

書院にとって祭把は重要な機能であり︑官学が依拠する国家把典と干渉しあいながら形を変えていくが︑その変革の

最大のものは朱書によってもたらされた︒換言すれば︑書院祭杷は朱書によって独自性を持ち始めたのである︒そし

て︑

朱書

が主

張す

る﹁

道統

H﹁四配﹂︿顔子・曾子・子思・孟子の四人を配享として把る﹀の祭把はやがて朝廷に認められ︑官学に採用されることとなれん叩︶また︑それぞれの学派と関係する人物を把る対象にすることと︑書院で自

分の師を把ることとは︑書院祭把の特徴となるのである︒

︹ 注 ︺

︵1︶部洪波﹁中国書院申己︵台北︑台湾大学出版中心︑二

C C五 年︶

﹁書 院的 基本 規制 輿六 大事 業﹂

︑二

O

一頁 を参 照︒

︵2︶高明士﹁陪唐廟学制度的成立与道統的関係﹂︵﹁国立台湾大学歴史学系学報﹄九︑一九八二年︶の九三頁に基づく田中俊行﹁中

国教育行政史研究|因子監成立史における教育行政の独立について﹂︵﹁

東京 大学 大学 院教 育学 研究 科紀 要﹄ 一一 一入

︑ 一九 九八 年︶ にお ける

﹁廟 学制

﹂に 対す る解 釈︒

‑80

(18)

︵3︶高明士﹁中国中古的教育与学礼﹄︵台北︑台湾大学出版中心︑二

CO 五年

︶︑

六0

・六 一頁 を参 照︒

︵4

︶高 明士

﹁廟 学与 東亜 伝統 教育

﹂︵

﹁唐

研究

﹄第 一

O巻︑北京大学︑二

00 四年

︶︑ 二二

七1

二五 六頁

︵5︶高明士﹁

中国 中古 的教 育与 学礼

﹄︑ 六二

・六 三百 五参 照︒

6︶高明士﹁

中国 中古 的教 育与 学礼

﹄︑ 六三 頁︒

︵7︶高明士﹁

中国 中古 的教 育与 学礼

﹄︑ 六三 百︵

0

︵8

︶︵ 唐︶ 長孫 無忌 等

﹁陪

童日

﹄︵ 北京

︑中 華書 局︑ 一九 七三 年︶ 巻九

︑礼 儀志 四︑

﹁陪 制︑ 園子 土寸 毎歳 以四 仲月 上丁 緯実 於先 聖先 師︑ 年別 一行 郷飲 酒穫

︒州 郡準 則以 春秋 仲月 四拝 堂︿

︑州 郡牒 亦毎 年於 的晶 子一 行郷 飲酒 種︒

︵9

︶︵ 元︶ 徐碩

﹁至

元嘉 禾志

﹄︵

﹁四

庫全 童日

﹄文 淵関 本︑ 景印

﹁文

淵閣 四庫 全書

﹄︑ 台湾 商務 印書 館︑ 以崇 先聖

︑準 以明 人倫

︒郡 口巴 廟撃

︑大 備於 唐

o

一九 八六 年︶ 巻七

︑学 校︑

﹁廟

︵叩

︶︵ 唐︶ 王淫

﹁大

声口 郊記 録﹄

︵適 園叢 書所 収本

︑北 京︑ 民族 出版 社︑ 二

000

年︶ 巻一

O︑文宣王廟︑﹁其廟在長安子城安上門街

道東 務門 坊︒ 洛陽 在長 楽坊

其廟屋四柱七問︑前面雨階︑堂高三尺五寸︑︷呂垣周之︒南面一屋三問︑外有十戟罵︒東面一屋一

門︒其太拳講論之堂︑在廟垣之西o

︵日

︶高 明士

﹁中

国中 古的 教育 与学 礼﹄

︑六 六頁

︵ロ︶高明士氏の論によると︑﹁左廟右学﹂というスタイルを採用した理由は不明だが︑恐らく﹁周礼﹄の﹁左宗廟︑右社稜﹂に基

づいたと推測される︒それは陳繋氏が﹁左を尚ぴ︑南向するを正穫と為す︒︵尚左︑南向為正種︒︶﹂︵買公彦疏︶を踏まえて提

出した﹁尊貴者は南向し左を上位とするのが正式の礼であり︑周制に発するo︵尊者南向︑上左︑是為正種︑源於周制ごとす

る説に賛同してのものである︒高明士﹁

中国 中古 的教 育与 学礼

﹄︑ 六六 頁を 参照

︵日

︶李 正字

﹁古

本敦 燈郷 土志 人種 隻証

﹄︵ 台北

︑新 丈豊 出版

︑ 一九 九八 年︶ 附載

|古 本敦 僅郷 土志 影本

︵人 種︶

︑四

O三

頁︑

﹁州 拳

/右︑在城内︑在州西三百歩︒其的晶子院内︑東府又先聖太師廟︑堂内有素先聖及先師顔子之像︒春秋二時実祭︒/牒皐/右︑在

州島 一面

︑連 院︒ 其院 中東 府有 先聖 太師 廟︑ 堂内 有素 先聖 及先 師顔 子之 像︒ 春秋 二時 実祭

︒﹂

︵日

︶︵ 宋︶ 李靖 徳編

﹁朱

子語 類﹄

︵北 京︑ 中華 書局

︑ 一九 八六 年︶ 巻九

O︑

礼七

︑祭

︑﹁ 問︑ 大成 殿又 却在 的学 之西

︑莫 是尊 右之 義否

(19)

目︑未知初意如何︑本朝因仰奮制︑反更率略︑較之唐制尤没理舎︑唐制尤有近古慮︑猶有僚理可観o

︵日

︶高 明士

﹁中国中古的教育与学礼﹄︑六六・六七頁︑﹁唐・宋廟位不問︑或許正説明雨代尊尚之差異︑然以廟之所在為尊︑則無

二致︒学校園地以廟之所在為尊︑正説明学校的中心地置於聖廟︒直至今日︑台湾所見的伝統学校︵含書院︶︑猶以廟之所在地

為尊︑韓園・日本所見亦同o

︵凶

︶﹁ 湾州 岳麓 山書 院記

﹂は 王百 円俗 の詩 文集

﹁小畜集﹄に載る碑記である︒王百円俗︑字は元之︑北宋の文人である︒﹁湾州岳麓山

書院記﹂の最後に﹁大宋成平三年某月日記﹂と書かれているごとから︑との碑記は宋の真宗の成平三年︵一CCC︶に完成さ

れた もの と思 われ る︒

︵げ

︶︵ 宋︶ 王百 円俗

﹁湾 州裁 麓山 書院 記﹂

﹁小畜集﹄巻一七︵﹁

四庫 全書

﹄文 淵閤 本︶

︑﹁ 諸生 逃解

︑六 籍散 亡︑ 弦歌 絶音

︑狙 豆無 視

o

︵日 目︶

︵宋

︶王 百円 俗﹁ 揮州 獄麓 山書 院記

﹂︑

﹁塑 先師

・十 哲之 像︑ 書一 七十 二賢

︑華 衰珠 流︑ 縫披 章甫

︑畢 按奮 制︑ 僚然 如生

︒請 閥水 田︑

供春秋之穆実o

︵凶

︶︵ 唐︶ 玄宗 勅撰

﹁大

唐六 典﹄

︵広 池千 九郎 校注

・内 田智 雄補 訂︑

一九 七三 年刊 行

﹁広

池本

﹄影 印本

︑西 安︑ 三秦 出版

九 九

‑82

五年

︶巻 四︑ 嗣部 郎中

︑員 外郎

︑﹁ 凡祭 杷之 名有 因︒

一日記天神︑二日祭地祇︑三日享人鬼︑四日程実子先聖先師o

︵ 却 ︶

﹁大唐六典﹄巻四︑耐部郎中︑員外郎︑﹁凡州牒皆置孔宣父廟︑以顔回配五局︑仲春上丁州牒官行程実之種︑仲秋上丁亦如之o﹂ 幻︶

︵元

︶脱 脱等

﹁宋

史﹂

︵北 京︑ 中華 書局

︑ 一九 八五 年︶ 巻九 八︑ 礼志 一︑

﹁撰

﹁開賓通穫﹄二百巻︑本唐﹁開元種﹄而損益之o

︵ 幻 ︶

﹁朱

子語 類﹄ 巻八 四︑

﹁論 後世 礼書

﹂︑

﹁開賓穫﹄全健是﹁

開元 種﹄

︑但 略改 動

o

︵お

︶︵ 唐︶ 粛嵩 等

﹁大

唐開 元礼

﹄︵ 北京

︑民 族出 版社

︑二

CCC年︶巻第一︑序列上︑神位︑﹁仲春仲秋上丁稗実於太撃︒孔宣父為

先聖

︑顔 子為 先師

︒︵ 由什 伯牛

・・

︵中 略︶

・・ 沼筒 等従 杷︶ 右新 加七 十二 弟子 之名

︑品 跡準 奮種 為︷ 疋

o

︵弘

︶同 右巻 六九

︑吉 礼︑ 諸州 釈実 於孔 宣父

︑及 び巻 七二

︑士 口礼

︑諸 県釈 実於 孔宣 父と もに

︑﹁ 本師 帥掌 事者

︑設 先霊 神席 於堂 上西

極聞東向︑設先師神席於先聖神席東北南向︑席皆以莞o

﹂と ある

︵お

︶︵ 元︶ 脱脱 等

﹁宋

史﹄ 巻一

O五︑礼志八︑文宣王廟︑﹁至聖文宣王唐開元末升為中桐︑設従記︑穫令婿三公行事︒朱梁喪乱︑

従把遂陵︑後唐長興二年︑の復従記︑周額徳二年︑別管因子監置挙人中町宋因増情之︑塑先聖亜聖十折口像︑董七十二賢及先儒二

(20)

十一人像子東西廃之木壁︑太祖親撰先聖・亜聖賛︑十哲以下命文臣分賛之o

︵ お ︶

﹁宋

史﹄ 巻一

O

五︑ 礼志 入︑ 文宣 王廟

︑﹁

﹁照

寧把 儀﹄ 十哲 皆為 従記

︑惟 州際 担押 盆︿ 未載

︑請 自今 二京 及諸 州春 秋緯 実︑ 並準

﹁配

寧杷儀﹄詔封孟朝都圏公o

︵幻

︶王 百円 俗﹁ 昆山 県新 修文 宣王 廟記

﹂︑

﹁小

畜集

﹄巻 一六

︑﹁ 乃像 素王 被華 奈垂 珠統 王者 之制 彰失

︑乃 状十 折口 冠章 甫衣 縫披 儒者 之服 備失

︑廟 之興 也︑ 既如 彼像 之設 也︑ 又如 此卑 上丁 之長

︑行 棒盆

︿之 種︒

︵お

︶乾 興元 年︵ 一

O二二︶以降︑朝廷はようやく地方官学の設立を許可した︒また北宋官学の分布について調査した結果︑大中

祥符 四年

︵一

O二︶前に設立された地方官学はただ十四箇所しかない︒地方官学は殆んど江西・安徽・漸江・江蘇・広西等

の地域に集中して︑湖南地域は衡州の州学一箇所のみとなる︒李兵﹁書院教育与科挙関係研究﹄︵台北︑台湾大学出版中心︑

二CC

五年

︶︑ 三八

1一

一一 九・ 四二 頁を 参照

mU︶﹁論

語﹄

﹁十

三経 注疏

﹄︑ 中華 書局

︑ 一九

八O

年︶ 先進 出一

︑﹁ 従我 於陳 察者

︑皆 不及 門也

o

行︑ 顔淵

・関 子寮

・由 什伯 牛・ 仲弓

︵却

︶︵ 唐︶ 李元 瑳﹁ 顔子 当設 坐像 並升 四折 口奏

﹂︑

︵清

︶董 詰等 編

﹁全

唐文

﹄︵ 北京

︑中 華書 局︑

一九 八五 年︶ 巻三

O四

所収

︒︵ 宋︶ 王

言語︑宰我・子貢o

政事

︑市 丹有

・季 路︒ 丈島 干︑ 子治 伽・ 子夏

o

浮﹁

唐会 要﹄

︵上 海︑ 上海 古籍 出版 社︑

一九 九一 年︶ 巻三 五︑

﹁褒 崇先 聖︵ 先師 己下 附︶

﹂・

﹁全

唐文

﹄に 載る のは 全文 であ る︒

﹁通

血︿

﹄︵ 中華 書局

︑ 一九 八四 年︶ 巻五 三︑

﹁孔 子嗣

﹂︑

﹁旧

唐書

﹄︵

︵中 華書 局︑

一九 七五 年︶

︶巻 二四

﹁礼 儀士 ル﹂ 及び

﹁新

唐書

﹄︵ 中 華書 局︑

一九七五年︶巻一五﹁礼楽志﹂等が載せるのは節略したものである︒

︵ 訂 ︶

﹁唐会市左巻三五﹁学校﹂︑﹁顔回等十哲︑宜為坐像︑悉令従記︒曾参大孝︑徳冠同列︑特為塑像︑坐於十哲之次︑因園董七十

弟子及二十二賢於廟壁上︑以顔子亜聖親為製賛童日於石︑の令嘗朝文士分為之賛題其壁罵o

︵ 明 記 ︶

﹁旧唐童旦巻二四︑礼儀志四︑釈実︑﹁固形於壁︑兼為立賛︑庶敦勘儒o

︵ お ︶

﹁宋

史﹄ 巻一

O五

︑礼 志八

︑文 宣王 廟の 項を 参照

︵ 泊 ︶

﹁旧唐童旦巻二四︑礼儀志四︑釈実︑﹁自今己後雨京園子監夫子皆南面而坐︑十哲等東西列侍︑天下諸州亦准此o

︵お

︶︵ 清︶ 越寧 纂修

﹁長

沙府 獄麓 志﹄

︵清 康照 二十 六年 鏡水 堂本 影印

﹁中

国歴 代書 院志

﹄四

︑ 一九 九五

︶巻 之三

︑﹁ 旧志 聖廟 図説

﹂︑

(21)

﹁宋初僅有書院︑至乾道時劉安撫於書院前始創穫殿︑中肖閥里聖賢像︑列給七十子︑前為抽汁池・苑門・撞星門︑白是晦惹先生

更建書院如奮制︑而穫殿則五問也o

︵ お ︶

﹁長

沙府 獄麓 志﹄ 巻之 三︑

﹁旧 志聖 廟図 説﹂

︑﹁ 乾道 改元 湖南 安撫 劉瑛 創新 院為 屋五 十極

︑内 設穫 殿︑ 肖聖 像︑ 加蔵 書閣

o

︵幻

︶︵ 宋︶ 張拭

﹁獄 麓書 院記

﹂︑

﹁湖

広通 士︑

﹄︵

﹁四

庫全 童日

﹄文 淵閤 本︶ 巻一

O六︑雲文志︑記︑﹁為屋五十極︑大抵悉還奮規︑肖閥

里先 聖像 於殿 中︑ 列給 七十 子︑ 而加 戴童 日閣 於堂 之北

o

︵ お ︶

﹁長

沙府 獄麓 志﹄ 巻之 三︑

﹁書 院沿 革︵ 旧志

︶﹂

︑﹁ 紹照 五年

︑晦 竜安 撫湖 南︑ 興息 子裁 麓︑ 更建 書院 於爽 埠之 地︑ 前列 穫殿

・沖 池︑ 後有 百泉 軒︑ 堂室 二層 約百 問︒

︵ぬ

︶︵ 宋︶ 陳舜 命

﹁鹿

山記

﹄︵

﹁四

庫全 童日

﹄文 淵閣 本︶ 巻二 寸﹁ 南唐 昇元 中︑ 因洞 建的 学館

︑署 回以 給諸 生︑ 的学 者大 集︑ 以園 子監 九経 李主 口道 為洞 主︑ 以主 数授

︒保 大中

︑以 田錫 徴士 史虚 白︒ 虚白 北海 人︑ 避地 塵山

︑韓 配⁝ 載薦 其可 用︑ 元宗 召至 便殿

︑訪 以園 事︑

辞日漁釣之人︑安知邦園大計︑又醇溺殿上︒元宗目︑真庭士也o

因賜 回遣 婦︑ の免 其租

︒虚 白死

︑子 孫困 於租 入︑ 不能 有其 地︑

‑84

遂易他主失︒成平五年勅重修︑の塑宣聖十哲之像︑今鞠為茂草o

ω

︶﹁

江西 通志

﹄︵

﹁四庫全書﹄文淵閣本︶巻二二︑書院二︑﹁八年辛丑︑遷漸東提皐復遺銭三十高︑田明知軍銭聞詩建穫殿・雨廃井

塑像︒後二年︑知軍朱端章︑加板壁︑給従把諸賢像o

︵引

︶︵ 明︶ 鄭廷 鵠

﹁白

鹿洞 志﹄

︵明 嘉靖 刊本

﹁白

鹿洞 書院 古志 五種

﹄上

︑ 一九 九五 年︶ 巻之 二︑ 童日 院沿 革︑ 大成 殿︑

﹁淳 照壬 寅︑ 文公 赴湖 東提 率︑ 以銭 三十 高層 明後 守銭 聞詩 創建 於童 日堂 之西

o

︵位

︶︵ 宋︶ 呂祖 謙﹁ 鹿洞 書院 記﹂

︑︵ 清︶ 毛徳 埼

﹁白

鹿書 院志

﹄︵ 清康 照刊 本︑

﹁白

鹿洞 書院 古志 五種

﹄下

︑一 九九 五年

︶巻 一一 一︑

﹁属 軍的 学教 授楊 君大 法︑ 星子 際令 王君 仲傑 董其 事︒

︵必

︶︵ 宋︶ 朱烹

﹁白 鹿洞 成告 先聖 文﹂

﹁晦

庵集

﹂︵

﹁四

庫全 童日

﹄文 淵閤 本︶ 巻八 六︑ 祝文

︑﹁ 淳照 七年 歳次 庚子 一一 一月 発丑 十八 日︑

・・

︵中 略︶

・・ 敢率 賓佐 合師 生︑ 恭修 担草 木之 種︑ 以見 於先 聖︑ 以先 師克 園公 先師 都圏 公配 尚饗

o

︵叫

︶︵ 宋︶ 朱烹

﹁白 鹿洞 成告 先師 文﹂

﹁晦庵集﹄巻八六︑祝文︑﹁都圏命世修業︑克紹聖惇o

︵必

︶︵ 宋︶ 張載

﹁正

蒙﹄

﹁張

子全 書﹄

﹁四庫全書﹄文淵関本︶巻三︑三十篇第十一︑﹁顔淵従師進徳於孔子之門︑孟子命世修業於

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