聖書研究(担当:高柳富夫) コヘレト(最終回)
今日は11回にわたって読んできましたコヘレトの最終回です。
初めに私が話させていただいて、その後皆さまの質問・意見・感想などご自由にお話 しいただければと思います。
私たち人間というものが、どうして信仰を求めるのか、信仰のことを考えるのか、
つまり神と向き合うことを考えるのかというと、1つは、世界の意味を知りたいとい うことがあるのではないかと思います。世界の意味を知りたいというのは、世界全体 ということもありますが、同時に世界の中に生きて在る「私」とは一体誰であるのか、
つまり自分自身の存在の意味を知りたいということがあるのではないかと思います。
聖書はそのことを巡っての書物であると言えると思います。聖書はそれなりに答えを だしているわけです。もちろん答えは1つだけではないし、問いもまた発信していま す。
ヘブライ語聖書(旧約聖書)は、我々は神の民であるという意味を見い出しています。
そして神は我々の神であると。その神はヤハウェという名前で言われるわけで、我々 はヤハウェの民なのである、そしてヤハウェは我々の神であるという答えを見いだし て、それを色々なバリエーションでもって告白をするという言葉の集積であると言っ て良いと思います。
かと言いますと今度は、いやそうなのだろうか、ヤハウェというのは果たしてイス ラエルだけ・ユダヤ人だけの神なのだろうか、イスラエル中心主義・ユダヤ人中心主 義を越えるのではないか、ヤハウェというのはその場合、創造者、天地万物の創造者 ということが言われるようになり、つまりイスラエルだけの神ではなく、世界の神・
世界の創造者であるという答えを出しています。
もちろん新約聖書では、そのことをはっきりと伝えたのはイエスで、イエスのこと ばと振る舞いを通して、そのことが我々に伝えられ、そこに世界と歴史の意味がある のだという答えを見い出そうとしていると思います。ですから、1つには世界の意味 を知りたい、そしてその中に生きて在る私の存在の意味を知りたいということが、あ ります。
もう1つは、歴史の意味・歴史の目的を知りたい。この私たちの歴史というのは何 か目標があるのだろうか。どこかに向かって進んでいると言えるのか、それを知りた いということです。聖書は、創造から終末へという直線的な歴史観を示すわけです。
一言でいうとこれは「救済史」と言われるものです。歴史の目的というのは救済にあ
るというわけです。
それを特に預言者は印象深いことばを駆使して、終末論という形で展開するのです。
終わりから今を生きるということが言われます。終わりというものをいつも見つめて、
自覚し意識して、今を生きるということを言うわけです。やがて来る終末、必ず神に よってこの歴史に終止符が打たれるというところに歴史の目的・意味を見出そうとす るということがあります。
世界の意味を知りたい、歴史の意味と目的を知りたい、そしてそこに生きている私 の存在の意味を知りたい、私の生涯の歴史の意味と目的を知りたいということがあっ て、だからこそ神と向き合って、神を信じるとか、神と共にとか、そういうことを考 えるのだろうと思います。
ところがずっと読んできましたコヘレトの言葉を読みますと、コヘレトははっきり と言っていると思いますが、世界には意味がないということです。たとえば、1章に 同じことの繰り返しだということが出て来ました。「太陽の下、新しいことは何ひと つない」と出て来ましたね。新しいことはないというのは、言い換えると意味が無い ということです。世界には意味がない。ということは、その中に生きている私たちの 生・存在にも意味が無いということです。それからもう1つは、先ほど言った事との つながりで言えば、歴史には目的がない。だからはっきり言ってコヘレトには終末論 はありません。終末はなく、同じことを繰り返すだけなのです。
そのことを印象深いいくつかの仕方で言うのですが、応報原理という条理は壊れて しまっているということです。応報ということは無いと言います。応報原理というの はユダヤ思想の正統的な考え方です。「ヨブ記」でいえば、友人たちが代表している 考え方で、ユダヤ教でいえば正統的な考え方なのですが、それは壊れていると。
応報原理が条理として貫かれていたらどんなにかいいと思いますが、それは全く貫 かれていない、この世界は不条理でしかない、そしてそのことを一番明快に示してい るのが「死」なのです。
「死」のまえでは、賢者も愚者もないのです。善人と悪人の区別もない、富める者 と貧しい者の区別も、支配者と被支配者の区別もない。また人間と動物の区別さえも ない。全ては等しく「死」をもって終わり、且つ塵に返るのだと言います。そのこと を非常に印象深い言葉で言っているのが、「すべては空しい」という言葉です。「空の 空」と言っています。「一切は空である」と言います。
しかも同時に、そこがコヘレトの一筋縄ではいかないところだと思うのですが、そ ういう不条理な現実世界が、同時に「神の業」だと言います。しかもそれは知り得ま せんから不可知だと考えるわけです。私たちの理解を超えてしまっているのですから。
でも、その背後に神は隠れている、神はいないのではない。神が存在しないなんて、
考えてみることも出来ません。前にもお話しましたが、神は存在するのかという問い そのものが無いのです。神が存在するというのは、大前提の大前提です。
それをどうやって知ることが出来るのかとか、そこに到達できるのかということは 問題になるのですが、コヘレトは神の業は不可知であるというのです。我々に見える 姿としては不条理しかないということです。どんなに悪しき者も栄えていることがあ るし、どんなに正しき者や賢者も滅びることがある。しかし最後は、結局は死をもっ て終わり、全ては塵に返る、なんという空しさ、と言うわけです。
不可知論、これがコヘレトの特徴です。人生何が起こるのか、人間には全く先のこ とは分からないのです。これは知の限界といえるでしょう。色々なところで言ってい ます。( 3:22, 6:12, 7:14, 8:7, 9:12, 10:14 )
これらは知の限界、我々には分からないと言っているのですが、これが面白いこと に、卜占知への批判だというのです。卜占というのは、将来を占うことです。全く分 からない先のことを予知しようとする営みです。卜占知というのはどのような前提に 立っているかというと、不可知ではなく可知論に立っているわけで、それを前提とし ています。しかも神と結びつきます。多くの場合、カナンの宗教は神々という多神教 世界です。神々は自分が好む人間に将来のことを予兆として知らせるはずであるとい う神理解を前提としているのです。ですから人間は将来のことを知り得ないのではな く、知り得るのです。その手段が卜占です。
古代西アジア、アッシリアにしてもバビロニアにしてもエジプトにしても、もちろ んカナンにしても、卜占は非常に発達して様々な多様な占い行為がありました。内蔵 占い、天体占い、気象占い、棒占い、新生児の奇形による誕生占いなど、将来起こる ことを予知する営みがありました。今でも現代に生きる私たちも誕生日占いとか十二 支による星占いとかを盛んにやっていますね。
おそらくコヘレトの知の限界、つまり将来のことは我々には全く分からないと言う のは、この卜占知に対する批判であったのではないかということなのです。それがよ く現れているのが、11章1-6節です。1節〜3節は、コヘレトが自分の考えを言った 言葉ではなく、このような卜占知が引用されて言われているのではないかということ なのです。
1節 あ な た の パ ン を 水 に 浮 か べ て 流 す が よ い 。 月 日 が た っ て か ら 、 そ れ を 見 い だ す だ ろ う 。
これは将来に対する配慮を勧めることばです。今のうちに将来に備えておけばきっと 役に立つことがあるというのですね。しかし私はそのようには読まないので、これに ついては後でまた述べます。
2節 七 人 と 、 八 人 と す ら 、 分 か ち 合 っ て お け 国 に ど の よ う な 災 い が 起 こ る か
分 か っ た も の で は な い 。
これも財産を将来に備えて分散しておけということです。英語でもありますね。
卵を 1 つの籠に入れないで、分けておかないと全部 1 度に割れてしまうよというわ けです。
3節 雨 が 雲 に 満 ち れ ば 、 そ れ は 地 に 滴 る 。 南 風 に 倒 さ れ て も 北 風 に 倒 さ れ て も 木 は そ の 倒 れ た と こ ろ に 横 た わ る 。 これは棒占いです。
つづく4節、5節は、コヘレトがそのような盛んに行われている占いや卜占知に対す る批判をしているのだと考えられます。そして最後の6節がコヘレトの結論です。
4節 風 向 き を 気 に す れ ば 種 は 蒔 け な い 。
雲 行 き を 気 に す れ ば 刈 り 入 れ は で き な い 。
これはただ単に種を蒔いたり、刈り入れをする時を雲行きでもって判断するというだ けではなくて、これは、卜占である気象占いのことを言っているのです。今やらなけ ればならないことを卜占に頼っていると、結局阻害されてできないことになってしま うということです。これは気象占いという卜占知に対するコヘレトの批判が込められ ている言葉です。
5節 妊 婦 の 胎 内 で 霊 や 骨 組 が ど の 様 に な る か も 分 か ら な い の に 、 す べ て の こ と を 成 し 遂 げ ら れ る 神 の 業 が 分 か る わ け が な い 。
これも誕生占いという占知に対する批判です。
6節 朝 、 種 を 蒔 け 、 夜 に も 手 を 休 め る な 。 実 を 結 ぶ の は あ れ か こ れ か
そ れ と も 両 方 な の か 、 分 か ら な い の だ か ら 。
これがコヘレトの結論ですが、今やるべきことをしっかりやれということです。今目 の前にある生を積極的に引き受けて生きよという、現前の生の肯定なのです。
11章の 1節は、月本昭男氏の翻訳による岩波版の注では粉占いかもしれないと言
っています。これは卜占の1つで、水の上に粉をまくと模様ができます。それで占う のです。これは内蔵の脂肪の姿・形を観察して占うのと同じです。パンと言われてい るのはその元になっている粉のことではないかと思われます。確かに粉占いというの は行われていたらしいです。
ですから11章1節は、卜占を勧める、もっと言えば将来に対する配慮を勧めてい ることだから、2節3節と同じ卜占知を引用して言っているだけだということになり ます。これはコヘレトのことば・考えではないということです。ただ一般に行われて いる粉占いという卜占知を引用しているだけなのだということです。そして4節、5 節、6節でコヘレトはそれを批判していることになります。
11章 1節は、そのように将来に対する配慮を勧めるともとれます。流れにパンを 流しておけ、そうすると将来必要な時にそれを手に入れる事ができ、困窮から救われ るかもしれない、その将来に対する配慮の勧めだともとれます。
しかし、これは逆に将来に対して配慮することの空しさを言っているのではないか とも読めるのではないかと、私は思うのです。それで、前回11章1節を読んだ時に お話したわけなのです。
そのように11章1節から6節については、1節、2節、3節は、いわゆる粉占い、
気象占いのことであって将来に対する配慮を勧める因習的な知恵、言い習わされてい る知恵、伝えられている伝統的な知恵をそのままコヘレトが引用しているのだと、そ して4節、5節、6節でそういう卜占や将来に対して配慮することがいかに空しいこ とかと4節、5節で批判しているのです。そして6節のコヘレトの結論は何かという と、まとめて言えば、今目の前にある生を積極的に肯定して取り組めということです。
現前の、今ここにある生の積極的な肯定ということです。
ですから、コヘレトの思想の特徴は、不可知論と現前の生の肯定であると言えるこ とになります。このことについては、もう少しつっこんで考えたいと思います。
私は、11章の1節と6節が、囲い込むようになっていてコヘレトの言葉だと考え たいのです。11章 1節は将来に対する配慮の空しさを語っているのではないかと、
自分の財産とか安全に対する対策に拘泥すること、心奪われることを戒めているので はないか。パンに対する執着・拘泥を放棄せよと言っているともとれるのではないで しょうか。つまりそれは、11章1節を読んだときにお話ししましたが、「明日のこと を思い煩うな」というあのイエスの思想にも通じるのではないかと思います。
殆どの訳は「パンを水の上に投げると、多くの日の後にそれを見いだすだろう/ 手 に入れるだろう」ということです。しかし、私の訳は、「あなたのパンを水の面に流 せ。実際、多くの日々の中であなたはそれを見つけるだろう」です。ということは、
意訳をすれば、「パンのことを思い煩うな、必要は必ず満たされる。」ということであ
って、マタイによる福音書で言われている「明日ことを思い煩うな、明日のことは明 日自らが思い悩む。その日の労苦はその日で十分だ。」(マタイ6:34) という思想に通 じるのではないかと思います。これはコヘレトの知恵であると言いたいと思っていま す。1節と6節がちょうど囲い込む形でコヘレトの知恵として示されているのではな いでしょうか。
英訳の TEV (Today’s English Version) の訳をみてください。これは一番現代的 な意訳に近いものですが、”Invest your money in foreign trade, and one of these
days you will make a profit.” これは海運業の事をいっているのだという解釈があ
ります。TEVはその読みをとっているのです。将来に対する投資のことになります。
しかし、1節で明日のことを思い煩うなと言って、2節3節はそのことを思い煩う 伝統的な朴占知のあり方が書かれていて、4節 5節でそれをコヘレトが批判して、6 節がコヘレトの結論なのではないかと、私は考えるのです。1 節に対応し呼応して、
6節がコヘレト自身の知恵の言葉です。全体が1節と6節のコヘレトの主張で囲い込 まれていることのになるわけです。
6節で言われていることは単なる勤勉の勧めではありません。未来のことは分から ないのです。不可知・不可測です。測り知ることはてきず、人間は未来のことは一切 予測することはできず、何が起こるのか全く分からないのです。だから今を生きよと いうことばになるわけです。
コヘレトが「食べて飲んで楽しく生きろ、それよりも幸いなことは無い」と言って いるのは、その背後に不可知論があるということです。不可知論があって、だから現 前の生を積極的に肯定し引き受けて生きよという言葉が出てくるのです。たとえば、
9章7節〜10節に出て来ます。
9 章 7 節 さ あ 、 喜 ん で あ な た の パ ン を 食 べ 気 持 よ く あ な た の 酒 を 飲 む が よ い 。
あ な た の 業 を 神 は 受 け 入 れ て い て く だ さ る 。 8 節 ど の よ う な と き も 純 白 の 衣 を 着 て
頭 に は 香 油 を 絶 や す な 。
9節 太 陽 の 下 、 与 え ら れ た 空 し い 人 生 の 日 々 愛 す る 妻 と 共 に 楽 し く 生 き る が よ い 。 そ れ が 、 太 陽 の 下 で 労 苦 す る あ な た へ の 人 生 と 労 苦 の 報 い な の だ 。
10節 何 に よ ら ず 手 を つ け た こ と は 熱 心 に す る が よ い 。 い つ か は 行 か な け れ ば な ら な い あ の 陰 府 に は 仕 事 も 企 て も 、 知 恵 も 知 識 も 、 も う な い の だ 。
不可知論というのが背後にあって、だから今を生きよという、現前の生の積極的肯定 ということになっています。それは他にも色々な箇所にあります。(2:24, 3:12, 3:22,
5:17, 8:15) 人間は未来のことは一切予測することはできない、不可知である、だか
ら今を積極的に生きよというのです。不可知論と、現前の生に対する積極的な肯定と が、コヘレトの思想の特徴ではないかと思います。
12章1節の「あなたの若き日にあなたの造り主を覚えよ」という有名な句ですが、
これは創造者とは読めないのではないかというのが、私のお話ししたかったことです。
私のこの1節の訳は「あなたの若い時に、あなたの墓穴 [死] のことを想え。災いの 日々が来ないうちに。」です。
12章 1節は、「ボーレエーカー」と読むか、「ボーレカー」と読むかで全く違って しまいます。「ボーレエーカー」と読めば、直訳すると「あなたの創造者たちを想え」
と複数になります。「ボーレカー」と読めば、「あなたの穴を想え」となります。
殆どの翻訳は「あなたの造り主を覚えよ」となっていますが、エルサレム・バイブル
TANAKHタ ナ ッ ク は唯一「あなたの活力(vigor) を覚えよ」となっていて、全然「創造者」と
はなっていません。「ボール」という単語には、「泉・活力」という意味もあって、活 力という訳語も出てきます。こんこんと湧き出るというイメージでしょう。それから
「井戸」は「妻」のメタファなので、そういう読みもあるわけです。
ラビ・アキバという古代の有名なラビが、既に「井戸と死と神」と三重の意味に解 釈しています。それぞれ解釈は可能だということです。「創造者を覚えよ」が全く間 違いだとか、誤っているとかいう話ではなく、それだけが唯一の理解ではないという ことです。「あなたの死を覚えよ」ということも十分考え得る理解です。私は「死を 覚えよ」という方をとりたいと思います。
そうすると、12章の3節から7節は死を忘れるなということの強調なのですが、
そのテーマと12章1節はうまく繋がることになります。色々な譬えとか詩的表現で 語られていますが、これらは全部死の描写になっています。あるいは葬りの描写にな っています。ですから、1節の「あなたの死のことを思え」という翻訳が生きて、後 によく繋がることになります。
最後に12章8節で、コヘレトの結論が「空の空、一切が空である」という1章に あったことばを繰り返します。そうすると、コヘレトの言葉は、全体として「空の空、
一切が空である」というインクルージオ、囲い込みになっていることがわかります。
その間にこれまでの思想が展開されてきたということになります。
12章1節を「ボーレエーカー」と読むか、「ボーレカー」と読むかによって、全く 変わって来ます。「ボーレエーカー」が問題であるという、いくつかの理由としては これは単数には読めない、複数だということです。複数としか考えようがないのです。
「ボーレエーカー」=「創造者たち」となります。また単数で創造者という言葉も、
神を表す言葉として用いられるのは旧約聖書の中には意外と少ないのです。例えば、
イザヤ書などにある場合は単数です。「ボーラアカー」=「あなたの創造者」となっ ています。
さらにはコヘレトの中ではこの言葉はここにしか出てきません。コヘレトが神は創 造者だと言う時にどうして他のところでもこの言葉を使わないのか、あなたの創造者 の業というような言い方で用いないのかということも不可解です。
神の業とか神を畏れよという言い方は頻出しています。しかし、「あなたの創造者」
(ボーラアカー)を畏れよという表現は、ここにしか出てこないのです。しかもここ は複数としか読めません。そういうことからしても、これはやはり読み替えた方が良 いのではないかと私は考えます。そしてそれは十分に可能だと思います。
大体9章7節以下、12章8節に至るまで、この類いの主題というのは、青春を喜 び楽しめということと、老年の悲哀ということが対比されているわけであって、神が 対比されているわけではありません。青春と神とか、老年と神が対比されているわけ ではないのです。「あなたの若い日に造り主を覚えよ」というのですが、それが直接 の対比になっていないと思います。「あなたの若い日に造り主を覚えよ」というと、
コヘレトの思想とは合わない、あまりにも通念としての信仰深い思想になるのではな いかと思います。これではまるで優等生ですね。コヘレトって、もっとひねくれてい るというか、シニカルでもあるわけで、こんなストレートなこと言わないのではない かと思います。
もしそうだとすると、これはコヘレトの言葉ではなくて、後からあまりにもペシミ スティックなので、ちょっとバランスを取る為に、書き込まれた言葉かも知れません。
そういう加筆はいくらでもあるのです。12章 7節もそうです。人間の霊も動物の霊 も変わりないと3章で言っていたのに、人間の霊は上に行って動物の霊は下にくだる というのは、コヘレト的ではないですね。3章で言っていたことと矛盾するわけです。
コヘレトはこれまで繰り返し「死」の問題を意識していました。「死」を思うと全 てが空しいとなるのですが、ここをボーレカー(あなたの墓穴)と読めば、「あなた の若い日にあなたの死を覚えよ」という意味になるのであって、終始「死」の問題を 意識していたコヘレトにふさわしいのではないかと考えます。そう読めば、繰り返し になりますが、12章3節から8節の文脈にも合うと思います。
全体としてコヘレトの思想の特筆は、不可知論とそれに裏打ちされた現前の生の積 極的な肯定、平たくいえば、明日のことは何も分からないのだから、今を積極的に生 きろということです。
不可知論に立った時、必然的に現前の生の積極的な肯定になるか、論理的に必然的 にそうなるかというと、それはなりません。場合によっては、悲観主義、虚無主義あ
るいは刹那主義、快楽主義へと、不可知論から展開して向かっていくことは十分にあ り得ることです。しかし、コヘレトが言っていることは単なる悲観主義ではないです ね。単なる虚無主義でも、快楽主義でもないです。先のことは分からないのだから、
今ただ飲んで食って騒いで楽しめばいいという刹那主義ではありません。
刹那主義と刹那を生きるということは違います。不可知論から刹那主義に行くこと はあり得ることだし、先のことは分からないのだから何をやったって無駄だという悲 観主義や虚無主義に行くことも十分あり得ることです。しかし、コヘレトの言ってい ることは、一見そんな風に受け取られてしまいそうな言葉で語っているのですが、6 節の言葉からしても、今生きて在るということを本当に積極的に肯定して生きよとい うところに展開していくのです。
それでは、それを可能にしたものが何なのかというと、不条理とか不可知というこ とは、現前の生の積極的な肯定の背後にあるのですが、不条理とか不可知のさらに奥 に何があるのか。そこに隠れた神がいるということなのではないでしょうか。
コヘレトにとっての神は、完全に隠れているのです。ヨブみたいに舞台の上に引っ 張り出すことをしないのです。ヨブ記では 38 章から 41 章で隠れていた神がついに 現れて語り出します。沈黙していた神がとうとう語り出します。そういうことはコヘ レトにはありません。神はどこまでも隠れた神なのであって、姿を現すことはないの です。しかし、神は徹底的に隠れているのですが、確かにイルのです。コヘレトが繰 り返し言っているのは、この徹底的に隠れたる神に対する畏れ・畏敬なのです。
ですからコヘレトは不可知論に立って、空の空と言うのですが、神を畏れることは 知恵の始めだという知恵の伝統に連なっているのだと言えるでしょう。ただもう神を 畏れることは知恵の始めだという伝統的な知恵は形骸化してしまっています。たとえ ば応報思想に形骸化していくのです。律法中心主義に形骸化していきます。応報思想 と律法主義は表裏一体です。
コヘレトは隠れたる神への畏れを一番奥にリアルに湛えているわけで、その隠れた る神への畏れというリアリティーが、コヘレトを不可知論から単なる虚無主義、快楽 主義、単なる悲観主義、刹那主義に至ることを防いで、そこに陥ってしまうことを救 い上げているということではないかと思います。
最後に、ヨブとの関係を考えました。ヨブが最後に行き着いたのは42章6節です が、これは従来のほとんどの翻訳が「塵と灰の上で悔い改めます」としているような ことでなく、「塵と灰の我が身についての考えを改めます」なのだということを想い 起こしていただきたいのです。
これはどういうことかといえば、自分が塵と灰であることを受け止め直すというこ とです。塵と灰であることを嘆くことしかできなかったヨブが、神と出会うことを通
して、塵と灰でいいのだ、つまり塵と灰であることを積極的に肯定しているのです。
塵と灰でなくなることが救いではないのです。塵と灰のままでいいのだ、塵と灰であ ることを積極的に受け止め直して、それを生き抜くことができるのが救いなのだとい うことです。
そこにあるのは逆説です。「空しくありませんよ。だから積極的に生きましょう、
そこに救いがあります」というのは順接です。しかし、空しいのだが、空しさを受け 取り直して、生かされてあるこの生を積極的に生きることができるのだというのは逆 説的な理解なのです。
この点では、私はコヘレトとヨブは共通するのではないかと思っています。通じ合 っているのではないでしょうか。神に対する向き合い方とか、神との対話の仕方は違 うのですが、到達したところは同じではないかと思います。つまり、現前の生の積極 的な肯定です。
コヘレトで言えば、現前の労苦というのは、空であるということに変わりはないの です。神に対する畏れを抱いたら、日々の労苦は空でなくなったという話ではなく、
空なのです。空しいのです。つまり、「新しいことがない」というのは意味がないと いうことです。しかし、否定的な空である生というものに、幸いを見いだすというの です。空なる生が、空でないものになったから幸いを見いだすというのではなく、空 なる生を空であるままで幸いを見いだすというのです。ですから、それは逆説でしか ありません。
コヘレトはイトローン=「分」・「益」ということを盛んに言ってきていました。益 の無い空しさ、労苦したって益は無いのです。労苦した分を楽しめと言いますが、そ こに意味はないのです。しかし、益の無い労苦というものを益の無いままで良しとす る幸い、そしてそれを受け入れて空なる生を空のままで受け入れて幸いとして生きる のです。そうすると不条理の問題も受けとり直され、不条理の世界における全く無意 味な生を、無意味なままで引き受けて生きるというわけです。
その点はまさにヨブの逆説に通じるのではないでしょうか。ヨブは塵と灰という言 葉で表現しました。コヘレトは空という言葉で表現しました。空が空でなくなるので はなく、空は空のままで、その空を積極的に生きることができるというのがコヘレト。
塵と灰でなくなるのではなく、塵と灰であることには変わりがないが、逆に塵と灰で あることを積極的に受け取り直して塵と灰であることを生きることができるという のがヨブ。
このように逆説的な生の肯定が、不条理と、現前に在る生の肯定との緊張関係の中か ら出てくる方向性、生き方というものに、コヘレトは到達しているのではないかと思 います。そしてそれは、ヨブが到達した世界と一脈相通じているのではないかと思い
ます。