Title
徳川政権の成立とその崩壊過程に関する研究(下)
Author(s)
上里, 安儀
Citation
沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 3(1): 33-87
Issue Date
1963-01-10
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10713
Rights
沖縄大学
て不満を抱いいてたωで︑薩落と幕府はこζに反目を生じた︒尚︑薩藩が次第に反幕的になっていった予とは薩藩内の事情の
変化にも関係があるのである︒
即ち︑文久三年にいたり同溶内においては公式合体派が失脚し︑大島に流される下級武士の帰藩︑大久保等によって代表さ
れる下級武士の倒幕派が勢力を持つようになったのである︒特に西郷は第一次長洲征伐においては徹底的な厳罰主義者であっ
たが︑次第にその態度は変化し︑長洲処分に対しても寛大な態度を示しつつあった︒何故に︑彼がその態度を急変させたかと
いうに︑彼は第一
κ
幕府の内情の脆弱性に呆れ︑第二に︑長洲を亡ぼせば次は薩藩の地位が危ないということ
を
考えたからで
ある
かよって此上︑幕府の権力を増大することは危険であるという結論に達していたのである︒ ︒
かる
情勢
は︑
第二次長洲征伐に
おいて漸次薩長二審の接近を濃厚ならしむる機還を作りだしたのである︒藤長両落とも援夷思惣は色が槌せつhあったので尊
王思想において双方の見解が合致できる可能性が十分あった︒更に︑尊王思想は︑一意倒幕へ向つての進展となるのである︒今
や薩長連合は時間の問題となりつhあった︒反目抗争のζの至難なる政情の聞において︑薩長二藩を握手せしめたものは土佐
脱落の坂本龍馬︑中岡慎太郎の両人であったのである︒かくて︑両人の世
話で
︑慶
・応
二年
一
月にいたり︑この穣長両落はつい
に討幕を目的とした提携の密約を結ぶに至ったのである︒この密約の成立とともに︑幕府に対する長測藩の態度はいよいよ強
硬と
なり
︑
乙こにいたって︑幕府も︑やむなく諸藩に令して︑慶応二年六月戦争の火葦を切るにいたった︒
薩落︑尾張落︑越前藩などは幕府の出兵命令を拒絶したので幕府の諸侯に対する統制力はまずまず破綻するに至った︒とこ
に亦注目すべきζとは︑幕府側と長洲側との装備の差である︒幕軍側が古来の装備であったのに対し︑i長軍側は新式の武器と
新式の訓練を受けていたのである︒諸外国との戦争によって文明の利器を入手するζとができた長藩勢威は幕軍を圧倒し戦況
は次第に長軍に有利となりつ﹄あった︒かかる事態の中で︑周年八月︑将軍家茂は二十一歳の若さを以て大阪城において死
去し
た︒
ζ
において︑幕府首脳者の評議の結果︑一橋慶喜をして後をつがしめることとしたのである︒幕府は戦況の不利なζ
七七
八七
状態にあるのをみて︑将軍家の服漢を理由として︑勅許を仰いで第二次長洲征伐を中止する措置に出たのである︒かくてとの措
置により幕府の威信はいたく失墜し︑その実力の衰弱は今や公然たる事実として大衆の自に映ずるようになったのである︒同
年十二月五日朝廷から慶喜に対して将軍宣下の御沙汰が発せられ︑慶喜は鋭意幕政を司ることになった︒同じ十二月の聞に孝
明天皇には崩御せられた︒会武合体の上に朝廷︑幕府の協力が維持せられることを常に切望なされていた天皇が崩翻せられた
後︑明治天皇が御齢︑十六歳を以て践酢せられたのである︒朝廷内における公武合体派にとってはその一大支柱たる孝明天皇が
崩御せられたζとは大なる打撃であった︒
新将軍慶喜は孝明天皇の崩御をみるや︑御大喪を理由として第二次長洲戦争の打切及び長洲藩に対して寛大なる措置を講ず
ぺき
ζとを発表するにいたった︒とζにおいても文幕府実力の弱化を示したのである︒かくて︑諸藩の倒幕
派は
次第に朝廷の
倒幕派と緊密なる連がりを持つようになり︑幕府にとって益々困難なる事態となっていったのである︒将軍慶喜は乙の難局を
打開するため︑幕政の改革を実施するζとにしたのである︒彼は朝廷尊崇の立場を堅持し乍ら︑幕政改革の第一番に人材登庸
を実施した︒制度格式の確守は幕府権威保持の重大なる要素であったので︑
ζ ζ
にζの制度を発止して︑適材を適所に配置し
たというζとは世の耳目を驚かすに充分であった︒
しか
し︑
ζの制度を実行したということは︑旧来の慣行ではどうにもならない事態に幕府が追込まれていたζとを証明する
ものであって︑幕府倒壊の近きことを暗示しているのである︒更に︑彼は︑職制︑陸海軍︑税制等において大規模な改革をな
した
ので
ある
︒
ζの前後にかけで︑ブラシスは幕府に好意を示し︑イギりスは薩長側に好意や示していたζとは注目すべき事
柄で
ある
︒
第七節伐辰戦宰
第一項朝廷内の倒幕派
新将軍慶喜によって世帯政刷新の試みがなされていく聞に朝廷内においては︑次第に倒幕派が勢不増していった︒その到幕派
の中心人物が岩倉具視であったのである︒
彼は大胆にして細心︑殆ど近世に生じたる陰謀家中の陰謀家であった︒彼は幕府権力の積大なる怖は和官房・降嫁して将軍家
との連絡を保ち︑幕府の実力の弱化したるを見るや︑急変して討幕党に投じた︒かくて︑彼は西郷︑大久保によって代表され
る薩摩藩の倒幕派へ接近︑彼らとの結びつきによって朝廷内の倒幕派を指導するにいたった︒慶応三年一月及び三月︑大赦が
行われて旧長洲系尊王嬢夷派が多数赦されて朝廷へ復帰したのは︑実に彼の画策に依る所大であったのである︒そして︑との
ようにして朝廷内における倒幕派の勢力はいよいよ大となっていくのである︒しかも︑岩倉具視みづからも乙の三月の大赦に
より洛外笹居を解かれて︑京都へ入ることを許され︑それ以後︑倒幕派との聯絡ぞ緊密にするにいたったのである︒
第二項
大政奉還
兵庫開港の期限である慶応三年十二月が近づいてくると幕府はホしても苦境に入らなければならなかった︒さきに通商条約
勅許の際朝廷からは︑兵庫の開港は許しがたき旨の御沙汰を受けているし︑諸外国からの開港要求は強硬であるし︑幕府はこ
とにおいて施すべき策とてもなく︑遂に慶応三年三月慶喜は意を決し︑勅許を奏請したのである︒
朝廷においても事態の変化を重視し︑遂に幕府に対して兵庫開港問題について勅許を発せられた︒かくて︑ζの勅許によっ
て擦夷熱は大きく後退した︒さて︑との窮地は漸くにして脱したものの︑他方︑情勢は幕府にとっていよいよ容易ならざるも
のへと進展しつつあった︒
薩摩藩は兵庫開港問題が生じた頃より平和手段に依る時局打開の希望寄拠ち武力に訴えても倒幕を決行し︑政権を朝廷に復
し奉る決心をしていた︒慶応三年六月十六日︑当時未だ在京中であった島津久光は京都薩藩邸に潜伏中の山県狂介(有明)に
以上の決心を語り︑品川靖二郎と兵に長落に帰した︒ζれより先︑同年五月二十一日には土佐落の中岡慎太郎︑乾退助(板垣)
等も薩藩の討幕派と会見し︑協力を誓ったのである︒かくて︑中岡等は同志を募るため︑ひとまず帰落するとととなった︒
中間乾ハ板垣V等は土佐藩におけるいわゆる急進派であったが︑同落の大勢はとれに反して前藩主豊信を始め︑落の要路は討
七 九
八
。
司幕手段
κ
よらず︑平和的に時局を打開しようとしてりた︒しか乞に︑事態は次第に薩長を中心とする討幕派が勢力を増ず傾向にあったので︑土佐前藩主‑出内豊信︿容堂)ば︑幕府が絶望的境地に追込まれない前にとれを救わんものと欲し︑藩内に諮っ
た後慶応三年十月三日ハ一八六七年)遂に落士後藤象二郎を遥じて将軍慶信に対し建白書を提出︑この際大政を断然朝廷へ奉
還し朝廷の下に公議与論にもとづき政治そ取行う政体(会議政体)の樹立せられることが望ましい旨在述べたのである︒︐
なお︑乙の建白書一における大政奉還論と会議政体樹立の主張とは間務の坂本龍馬の意見にもとづくものである︒土佐藩主た
る山内豊信が︑かくの如き建白書を将軍慶喜に提出するにいたったその意図は︑例え幕府が大政を奉還しても実質的には幕府
を救うものであると考えたからカあり︑徳川氏の恩顧ぞ受けた彼としてはなんとかして幕府の危難序約済した
かっ
たのであ
る︒他方において︑薩長両藩は幕府よりなんらの恩顧も受けていなかったので︑否むしろ絶えず圧迫を加えられていたので討
幕思想が特に濃厚だったのである︒但し︑薩長両落において討幕思想が特に盛んとなったのは︑両落内において各々下級武士
層が藩政の実権を掌握するに至ってからのζ
とで
ある
︒
さて
ζの建白書に接した将軍慶
喜は︑山内豊信(
容堂﹀の説を容れる他︑術なきを見て︑ここに意を決して︑将軍職を辞
して︑政権を朝廷に還し︑単一の侯とならんことを欲し︑諸臣を集めてその意見を聞いた︒諸臣はζれに対して積極的な意見
を申述べなかったので︑慶応三年十月十四日遂に意を決して政権を皇室に奉還するの上表を朝廷
へ差
出す
にい
たっ
た︒
そし
て︑
その中において︑慶喜は述べて︑
﹁臣慶喜謹市皇国の沿革を考候に︑昔王綱組を解て︑相家権を執り︑保平の乱政権武門に移りてより句狙宗に至り更に寵容
を蒙り︑二百余年子孫相承け︑臣慶喜其職を奉ずと躍も︑政刑当そ失ふ事不少︑今日の形勢に至り候も︑畢寛薄徳の所致不堪
憐儲候︒況や当今外国の交際自に盛なるより︑禰政権一途に出不申候ては︑綱紀難立候問︑従来の旧習を改め︑政権を朝廷に
奉帰︑広く天下の公議を尽し︑聖断を仰ぎ︑同心協力兵に皇を保護仕候へば︑必ず海外蔦国と可並立︑臣慶喜国家に所尽不過
之と存候︒猶見込之儀も有之候得ば可申聞旨諸藩へ相達置候︒依之此段謹で奏聞仕候︑以上︒(竹越与三郎日本経済史三六八
頁)﹂となしたのである︒
ところで他方︑薩長芸三藩の討幕計画の準備は当時いよいよ進展しつhあった︒合議合体派のひとびとがかく甚だしく焦慮し
たのは妥当であったのである︒現に山内豊信の建白書提出の翌々臼の十月五日には︑岩倉具視は薩摩藩の大久保一蔵(利通)
長洲藩の品川禰二郎︑公卿中御門経之らと討幕の順序︑討幕着手後の新政府職制について協議し︑文討幕の際使用すべき錦旗
の図案に関しても相談してその調製を大久保及び品川に依頼したのである︒
そして︑その後岩倉具視らは更に︑討幕の密勅を薩長両藩へ降下すべき準備を進めたのであって︑かくて将軍慶喜が大政奉
還の上表を朝廷へ差出した正にその日にすなわち︑十月十四日にζの密勅は遂に薩長両藩へと伝達されたのである︒
このようにして︑慶存の大政奉還の上表はいはば間一髪のきわどき時機に差出された結果となり︑しかも︑これによって公
式合体派は討幕派に対して辛くも機先を制した形となったのである︒慶喜の大政奉還の上表に接した朝廷は種々議論の後︑上
表の提出された翌日の十五日︑遂に勅許の御沙汰が発せられた︒ついで同月二十四日︑慶喜は更に将軍職拝辞の旨を上奏した
ζの聴許の御沙汰後︑前記の討幕が︑朝廷はこれに対し︑諸侯上京まで従来通りと心得ぺき旨の御沙汰を発せられた︒なお︑
の密勅は中山家より取泊されるにいたったのである︒
第三項
王政復古
慶応三年十月十四日の大政奉還は正に危機一髪の際に討幕の名儀を薄う効果をもったものであった︒翌十五日勅許を発せら
れた朝廷は︑事態収拾のために諸侯に討命を発せられたが︑大部分の諸侯は徳川家に義理立てして︑続々朝命を辞する有様だ
った
他方︑同年十月十三日の夜岩倉の手から討幕の密勅を渡された薩摩の大久保利遇︑長洲の広沢真巨等は同年十月十五日に相 ︒
次いで帰藩の途についたのである︒そして︑一行は長測に赴き︑長藩主父子に合い出兵に関する協議をとげ︑ついで︑帰藩落
論を一決した︒ζれより先︑十月三日長藩に到着していた島津忠義は一行の意見を聞いたのち︑忠義自ら三千の兵を率いて上
八
八・ 司、
京︑薩兵一高の兵戚は京洛を圧した
Q ζ
の問︑密勅にあらざる正規の御沙汰書は︑国是を決すべき諸侯会同のあるまでの緊急
ついで将軍職もしばらく旧の知くたるべしと令したのである︒政務の処理を慶喜に委任︑
朝議は明かに新しい事態における慶喜の地位を承認す与方向に向いていた︒しかしながら︑その裏面では︑上洛した大久保
利通が岩倉と相謀り︑﹁八月十八日の故智を踏襲﹂する宮廷クーデターと王政復古大号令発布とを画策していた︒ζの頃にい
たって︑岩倉の地位は朝廷において益々高まっていた︒
彼は学者︑玉様操を知るにいたって︑いよいよ討幕の信念を強固なものとした︒王様は﹁宜しく神武東征の規模を以て大事
を行うぺし﹂と説いたので︑岩倉はこれを真理なりとし︑国家を統一し︑真の王政を布かんζとを決意していたのである︒か
くて︑岩倉と大久保の商策は進展し︑十二月八日にいたり︑摂政二条斉敬は︑朝議を聞き︑長洲藩主父子宥免の乙とを諮問す
るため︑親王︑公卿以外に在京諸藩主とその重臣を宮中に召集した︒乙の留守中︑かねての手筈に従って︑岩倉は尾越︑土芸︑
薩の代表を招致し︑﹁未発の御密旨﹂を伝えた︒大久保︑後藤はこの中にあった︒乙ζで明早朝に行わるべきクーデターの内 容と︑宮中護衡の部暑を指令した︒会議においては︑人心一和の見地から長洲藩主のζれまでの罪を免じ入京を許すζと︑八
月十八日の政変の結果罪を得たる三条実美以下の公卿の罪を赦すζと︑岩倉具視以下の公卿の訟居処分を解くζとが取極めら
れた︒さて︑この会議は九日払暁にたって終了︑摂政二条斉敬以下は退朝したがζのとき予ねてよりの打合せにもとづき公卿
中山忠能︑尾張︑越前︑芸洲の三藩主は辞柄を設けて宮中に残り︑その後︑岩倉︑島津忠義等討幕派の人々が参内してきた︒
かくて︑宮︑公卿︑諸侯の列席︑明治天皇の臨御の下に予定の計画にもとづき︑
ζ ζ
にいわゆる王政復古の大号令が発せら
れた
ので
ある
︒
との政変は︑前述の如く︑文久三年八月十八日の﹁故智﹂を踏襲した︒しかしながら︑その実質において少からぬ差があっ
た︒さきには︑かなり主体的に行動した天皇や藩主がこのたびは︑岩倉︑西郷︑大久保らの完全なるロボットであったからで
あ忍︒かくして︑新政府は樹立せられ︑王政復古の大号令にもとづき︑総裁には有栖川宮織仁親王議定には山階宮晃親王︑仁
和寺宮嘉彩親王︑中山忠能︑松平慶永︑島津茂久等︑参与には岩倉等が任ぜられた︒別に尾張︑越前︑安芸︑土佐︑薩摩の五藩より各
落三人を貢して参与たらしめ︑同時に公武合体に同意した公卿に謹慎を命じ︑参朝を停止した︒此時︑二条城は徳川氏の親兵及
び会津︑桑名の兵が守り︑宮廷は五藩の兵が守り︑両軍殆ど相対峠しているようであったのである︒さて︑此目︑親朝廷の小御所
において文会議がひらかれた︒小御所会議と呼ばれるとの会議は︑天皇の臨御の下︑新職制による総裁有栖川宮
織仁
親玉
︑議
定︑
参与︑上記五藩の藩士若干が︑列席︑そζでは︑王制復古となったのについては︑今後いかなる方針をもって進むべきかに閲して
協議がなされたのである︒会議が聞かれるや︑先ず土佐藩の前藩主松平豊信(容堂)は次の如く述べた︒﹁大政維新の時︑朝廷の
施設は須く公明正大ならざるべからず︒然るに勅書に於ては︑至当の公儀を尽して天下と休戚を共にすと云ひながら︑今日宮門
の守衛を王落にのみ命じて徳川氏を蹴外するは何の意ぞ︒徳川氏の過失大なりとするも︑将軍は二百年来の政権を奉還して︑
政令を一途に出でしめんζとを期す︒其誠忠また諒とせざるべからず︒然るに今日の会議は豆︑六の公卿と五落のみに限らる
﹄は︑公議長重んずる所以にあらず︒宜して︑此会議に列せしむべし︒(竹越与三郎日本経済史三七三頁﹀﹂乙とにおいて︑
岩倉具視は発言︑ζれを駁論して︑﹁徳川家康は圏内を平定武力をもって天下を治めたる功するも其の子孫にいたっては権力
を誇り︑久しきにわたり朝廷を蔑視し︑公卿諸侯を幽揮し憂国の志士を逮捕苦しめたる権挙にいとまなく︑もし慶喜にして真
にその罪を悔悟してゐるとせば︑朝廷に対してその官位を拝辞し︑その私有する土地︑人民を奉還するのが理の当然である︒
(岡義武近代日本の形成一一七頁)﹂と述べたのである︒かくて︑薩長兵力を背景にしている岩倉の意見が乙の会議において有
力となり︑結局︑松平春獄(慶永﹀をして徳川氏に調し︑官位を下し︑土地を返させるζとぞ決めて︑散会したのである︒
ζの辞宮納地を慶喜に告げるζとは︑一一檀の処罰を意味するものであったので︑事態はいよいよ深刻なものとなっていった︒
ζこにいたって︑岩倉を中心とする討幕派は完全に政治の主導権を握る乙とになったのであるが︑他方慶喜の滞在する二条
城内外の空気は次第に険悪を増すにいたった︒幕府の将軍士等は長洲に対する仕打とを相比して︑深く朝廷をうらみ︑朝廷の
韓国後勢力たる薩摩以下の好謀を憎み︑ζれと戦わんとするようになった︒かかる中にあたって︑慶喜はしきりに鎮撫を図るの
八
八 四
であるが︑その効に乏しき有様で︑
ζ ζ
に慶喜はこれらの麿下のものが販起︑討幕派の望みつつある旧幕府系勢力との衝突が
勃発を見るにいたるべきことを危倶し︑ついにひそかに二条城を去り︑大阪城へ移ったのである︒そして︑それとともに幕臣︑
会桑ニ藩のものらも大阪城へと移ったのであお︒
乙の時︑京都へは八月十八日の政変の際長洲へ落ちていった三条以下の公卿が長洲藩兵と共に帰り︑いよいよ事態は切迫す
るにいたった︒乙れより先︑西郷は関東撹乱ぞ策し︐江戸において凡ゆる暴行奈薩落士によって行わしめ︑幕府に対し武力的
挑発をなしたので︑江戸においては穣落邸の慨打事件が起り︑二条城ではζの事件をきっかけとして討薩が叫ばれ︑幕府の将
士は悲憤ゃるかたない有様であった︒
今や慶喜はこれらの将士を制することができず︑麿下のものに奏聞書を授けた︒彼らはこれを奉じて京都へ入り︑開下に
鋒呈せんとするにいたった︒﹁討薩の表﹂の名において知られるこの奏聞書は次の如き内容のものであった︒﹁去る十二月九
日以来の事態は朝廷の真意に出するものではなく︑際摩藩の除謀にもとづくものであり︑関東における擾乱亦同藩の計画に発
するとなし︑薩摩藩がかく東西においてわが国ぞ乱しつつある罪は正に重く︑朝廷においてはこれらの乙とに関係ある薩摩藩
のものを引渡されたく︑もし朝廷においてその惜置をとられざるにおいては︑やむを得ずわれわれの手によってζれを詠伐す
べしとし︑そのあとに十二月九日以後における醸摩藩の罪状なるものを列挙しているのである︒﹂
かくて慶喜麿下のものは︑今やかくのどとき奏聞書を奉じ︑君側の好護摩ぞ除かんと叫んで︑会津︑桑名両藩の兵を先鋒と
して慶応四年一月二日(一八六八)鳥羽︑伏見の両街道から京都へと進むにいたった︒そして︑翌三日︑この旧幕府側軍隊は
鳥羽︑伏見を守備していた薩軍と接触し︑乙乙に戦争は勃発するにいたった︒鳥羽伏見の戦争と呼ばれるものがとれである︒
第四項徳川政権の倒壕
鳥羽︑伏見の戦争は最初その形勢予測ぞ許さなかったが遂に慶応四年一月六日にいたり︑首都軍は穂波士︑藤堂氏衛士等の裏
切に会ぃ︑亦土佐藩の援助手・受けるととができず︑敗色は濃厚となりつhあった︒なお︑朝廷が仁和寺嘉彰親王を征夷大将軍
として︑錦旗を授けて︑今や朝敵たる徳川氏を討たしめているのをみて︑文朝廷側が有利に戦いつhあるのをみて多くの務が
朝廷に味方するようになった︒
その西洋式装備において劣っていたので︑ますます不利な状態
へと追込まれたのである︒ζのように幕軍歩一歩敗退するを見るや︑慶喜︑遂に為すべからざるを知り︑此時︑西の宮の海岸
に停泊していた幕艇に乗船し︑六日の夜ひそかにその重臣数人を従えて江戸に帰ったのである︒そして︑慶喜は東叡山大搾院 さらに幕府軍はその兵数において朝廷側軍隊を圧しつつも︑
に引
移り
︑ そζにおいて謹慎恭順の態度を示した︒大阪城においては︑すでに主将を失ったので幕軍は四散するにいたったの
である︒翌一月七日にいたり︑朝廷には慶喜追討の令を発せられ︑朝敵としてとれを討伐すべき旨を宣言せられたのである︒
ついで二月には親征の詔が発せられ︑続いて︑有栖川宮織仁親王が東征大総督に任ぜられて︑
ζ ζ
に東海東山北陸の三道より
薩長以下二十余の藩の兵が江戸にむかつて進むζととなったのである︒
東山道の軍は分れて︑二隊となり︑一隊は土佐の板垣退助が乙れを統率して信洲より甲洲に入り︑新選組の近藤勇
と戦
って
︑
之を追うて内藤新宿にやってきた︒一隊は薩摩の伊地知正治乙れを率いて︑上野︑裁蔵の聞に転戦して︑板橋に到着した︒北
陸の軍は薩摩の黒田清隆︑長洲の品川靖二郎の両人がζれを率いて平住駅に着した︒そして東海道の軍は︑西郷隆盛これを率
い静岡に大総督を設け︑先鋒はすでに品川に到着していた︒かくして︑三月十五日を朝して三面より江戸城を攻撃する手筈を
決定したのである︒しかるに︑事態ζとに及び︑江戸が正に兵火の巷と化せんとする直前︑慶喜の命をうけた旧幕府陸軍総裁
勝安房は東征軍参謀西郷隆盛との聞に交渉をひらき︑折衝の後その一致をみた結果について朝裁を得て︑
ζ ζ
に朝廷は︑慶喜
の謹慎恭順の実をみとめ且つ祖宗以来の治国の功ぞ酌み︑徳川の家名を存置するとととし︑慶喜に対しては死一等李減じて水
戸へ謹慎すべきζとを命じ︑同時に︑江戸城明渡し︑軍艦銃砲の引渡︑その他を命ずる乙ととして︑それらの条件の下に江戸
城打入はζこに取止めとなったのである︒
かくして︑徳川氏は江戸を聞いてから二百七十八年にして亡び︑その政権も新政府に渡されるζととなるのであるが︑
ζ
れ
八五
八六
より先︑岩崎届具視を中心とする宮廷は︑その政治方針を﹁諸侯を朝廷の下に今後にわたり結集する﹂という立場で推進せしめ
るζとを決め︑慶応四年三月十四日五ケ条の御響文を公布せられたのである︒江戸城攻撃を熱烈に主張した薩長勢力をおさえ て前述の如く中止せしめたのも︑実に朝廷のかかる意図から発したも︑の
であ
る︒
慶応三年十二月八日の政変を契機として生れ出でた新政府はとかく当時において世上からとかく藤長両落の偲偏のどとくみ
られていたので︑岩倉などはとの点を重視し︑常に朝廷を中心とする政治方針を画策していたのである︒さて︑新政府は徳川
氏の支族国安亀之助をして︑徳川氏を相続せしめ︑駿河一国と陸奥の幾分を以て七十高石を与えたのである︒かくて︑慶応四
年四月十日(一八六八Vに江戸城は朝軍の手に帰したのであるが︑旧幕の抗戦派は各処において党を組み︑朝廷軍に抵抗した
けれど︑上野の彰義隊始め討伐せられた︒そして彰義隊の敗北となるや︑彰義隊が擁した輪王寺宮公現法親王には榎本武揚の
率いる旧幕府軍艦にて奥羽へ芦ちて行かれた︒
このように︑関東諸地方を鎮圧した東征軍は奥羽︑北越地方へと移った︒奥羽︑北越の三十余の諸藩は大同盟を結び︑しか
して︑東征軍に抗したのであるが︑遂に屈服せしめられた︒更に箱館における榎本派も鎮圧せられ︑鳥羽︑伏見をもってひら
かれた内乱はζとにいたって遂に全く終了し'たのである︒箱館戦争を除く以上の一連の戦争は︑慶応四年︑すなわち戊辰の年
におとなわれたので︑乙れらは戊辰戦争の名をもって総称されているのである︒
戊辰戦争において中核となって最も勇敢に戦ったのは薩長両落であった︒彼等の新式の装備はζの戊辰戦争において威力を
発輝し︑よく幕府の大軍を破ったのである︒かくして︑幕府政権の一大支柱であった武力は朝廷軍の武力によって破られ︑今
やその支柱の悉くを失い︑徳川政権は倒壊するにいたったのであるι此年七月には江戸は東京と改めら
︐れ︑八月二十七日には 天皇即位の礼が行われ︑九月八日にいたって慶応を改めて明治元年となす旨の御沙汰が発せられ︑とこに全国統一の偉業は完 成せられたのである︒ζれより︑わが国の庶政は開国和親︑四民平等︑天皇親政公議与論の尊重等の方針をもって進まんとす る明治新政府の手に依・ って運営せられるようになったのである︒
日本における近代国家の成立
日本史の研究
近世日本国民史 文 久 大 勢 一 変 上 編 雄 藩 篇 彼理来航以前の形勢
岩倉具視公
斉 藤 文 蔵 日 本 外 交 史 ( 大 日 本 史 講 座 第 十 ニ 巻
﹀ 遠 山 茂 樹 明 治 維 新 服 部 之 総 明 治 維 新 史 池 田 俊 彦 島 津 斉 彬 公 伝 土 屋 喬 雄 維 新 経 済 史 神 川 彦 松 近 代 国 際 政 治 史 ( 中 巻
︑ 下 巻 )
大西郷全集刑行会大西郷全集会一一巻)
田 中 惣 五 郎 近 代 日 本 官 僚 史 高 柳 真 三 日 本 法 制 史 京 都 大 学 園 史 研 究 室 編 日 本 史 辞 典
怠 考 文 献
1歴史的なもの維新史料編纂会
竹越与三郎
早稲田大学出版部
尾 佐 竹 猛 岡 義 武 藤 原 弘 遥
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大 原 二 訳 森 末 義 彰
徳富猪一郎
11 11
概観維新史
日本経済史(第九︑十巻)日本近世史(徳川史︑幕末史︑維新史)
明治維新︿上巻︑中巻)
近代日本の形成
政治思想史序説
八七