メディア・コミュニケーション論Ⅱ 宮本大人先生
漫 画 に お け る 文 字 の 審 級
― 絵 と し て の 文 字 の 効 果 と 可 能 性 ―
はじめに 手塚を戦後漫画の起源とする神話は、文字通り「神話」であったことをこの議論では前 提とする。つまりここでは、手塚神話に対する検討はできるだけ避け、漫画を一つの独立 した表現のメディアとして扱うことで、現在の漫画にどのような可能性があるのかを検討 してみたいと思う。具体的には、『テヅカイズデッド』での漫画表現についての議論―主 にキャラとキャラクターについての議論と、フレームの不確定性という議論―を前提とし、 そこから考えうるいくつかの漫画固有の表現の可能性―漫画における文字という問題につ いて検討してみたい。 ここで、この議論の論点を明確にしておきたい。私の目的は、表現のメディアとして漫 画を見ることで、現代における漫画表現の可能性と、それに並行する読者側、つまり我々 の漫画に対する視線の変化を検討することで、漫画に開かれた新たな次元について考察す ることである。この考察は、手塚神話の解体としての『テヅカイズデッド』の流れを、お そらく別の視点―知覚表現の漫画という視点から追っていくことになるであろう。 1‐1.漫画における文字の審級 伊藤剛は、漫画を「キャラ 」、 「コマ 」、 「言葉」という三要素から成るとしたが、こ こではこのうちの、「言葉」という要素について考えてみたい。以下では、この「言葉」 を文字と呼ぶことにしたい。「言葉」を文字としてしまうことで、ひとまずはその射程が 狭まるように見えるかもしれないが、あえてこう呼ぶ方が、以下の検討には都合がよいの で、文字と呼ぶことにする。また、伊藤が「キャラ」に変更した要素を一旦「絵」に戻し て考える。なぜなら以下の考察では、「絵 」、 「コマ 」、 「文字」という要素で考える方 が、漫画における文字の可能性を考えるのに適しているように思われるからである。ここ で「絵」は、キャラだけではなく背景絵を含むということを強調するため、「文字」は、 それが視覚的に知覚可能なものであることを強調するための概念であるということを明示 しておく。これらの変更は、伊藤の議論をなんら否定するものではない。逆に、文字に視 点を置き、それと絵、コマの関係性を考察することによって、伊藤の議論を別視点から辿 っていくのが本論の目的でもある。 漫画において登場する文字は、大きく以下のように分けられるだろう。 A .ある一定の規則に基づいて描かれた吹き出しによって覆われたもの―主に人物が発 した、あるいは思った言葉など B .オノマトペ―「ドカーン 」、 「スタスタ 」、 「バキッ」などの効果音など C .1のような吹き出しを伴わず、原則としてコマ内に書き込まれたもの―人物の呟き など D .背景や人物などに絵の一部として書き込まれた文字―街の看板や、人物の着ている 衣服に書き込まれたものなど (以下アルファベットはこの分類を指す)
以上漫画に見られる文字は、その書き込まれ方によってその意味や役割が分類されている ように見える。しかしこれらの文字の意味や役割は、果たして上記のとおりに厳密に決定 付けられているのだろうか。もっと言えば、厳密にこれらの文字をその他の要素から切り 離して考えることは可能なのか。以下、絵とコマとの関連性において、これらの文字につ いて考えてみたい。今回は残念ながらC と Dの考察は省かせていただきたい。なぜなら、 今回文字の効果として考えてみたいものは、例えば少女漫画における内的言語のような、 フレームの不確定性を代補する形で作品世界への没入を手助けするようなものではなく、 それとは逆に「絵」の領域に侵入してくることで、漫画における不確定性を増すような効 果を生みだすものであるからである。 1‐2.吹き出し 吹き出しというのはそれ自体がある機能を持っており、一通り挙げてみると、通常の発 話を表すもの、叫びなどの強意の意味が込められたもの、心の中で思ったことを表すもの、 主にテレビのような媒介をいったん通して、そこに現前しない人物の発話を表すものなど、 様々なものが存在する。これらは読者、もしくは作者に一般的に了解されているもので、 ある種の文法を形成している。しかしそれ以外にも、個別の作品もしくは場面において特 別な意味を表す吹き出しも存在しており、それらはそのつど一時的に特定の機能を持った ものとして了解される。吹き出しは厳密には文字ではなく、文字に特定の意味を持たせる ための手段であるが、文字と密接な関わりを持っている。以下、A を吹き出しと、それに よって囲まれた文字全体として扱うことにする。 A を構成するのは原則として、文字を囲う吹き出し本体、文字の起源を示す尾状のもの、 そして吹き出しに囲まれた文字の三つである。これらは通常他の絵―人物や背景―などと は独立した層(つまり、他の絵とは接触しえないものとして描かれている、ということ) を持ち、地続きのものとは見なされない。これは第一に吹き出しと文字の間の余白により、 書き込まれた文字の背後に別の紙面が想定されることによる。つまり他の絵を無条件に区 切り、中に文字という異質なもの(しかもそのほとんどは活字という、絵とは異質に思え るものである)を入れられていることによって、他の絵―ここでは「作品世界」という意 味で―にとってメタな次元のものと認識されることによる。このことは、いわゆる写実的 な作品においては顕著であり、そこでは細かく書き込まれた人物や背景の上に、当たり前 だがこの世界には視覚的情報としては存在していないメタな次元のものとして書き込まれ ねばならない。 しかし、これらは我々読者と作者との、互いの暗黙の了解によって生じていることであ り、つまり、そうでない場合が充分ありえる。例えば図1においては、吹き出しは周りの コマと同様の太い、不揃いな線で描かれており、このことが我々の視線から、絵とコマを 別々に見ることを阻害している。図2においてはより顕著で、コマだけでなく絵までもが 同様の線で描かれており、読者はもはや絵、コマ、吹き出しを完全に分かれたものとして 見ることが容易ではなくなっている。前者において、絵は一定以上の写実性を保ったまま、 吹き出しとコマが一般的な規格から外れて太く不揃いな線で均一化されることによって漫 画内における諸境界を攪乱することで、読者の視線を定めさせないという効果を生んでい
るが、後者においては絵までを含むこれらの要素が類似の線で描かれることによって、よ り一層読者の視線は不確定になる。つまり、吹き出しが絵の領域に侵入して来るのである。 図1 松 本 大 洋 『 ナ ン バ ー 吾 』 第 1 巻 小 学 館 2006 p130 図2 ウ エ ダ ハ ジ メ 『 Q コ ち ゃ ん THE 地 球 侵 略 少 女 』 第 1 巻 講 談 社 p12 ここまで吹き出しについてずっと考えてきたが、次に吹き出しの内部について考えてみ たい。吹き出しの内部は原則的に活字である。まれに作者が直接書いた活字ではない文字 が書き込まれているが、これらは主に台詞 などの強調として機能している(図3 )。 これらは手塚の作品によく見られる。しか し、活字の自由度が高まった現代において は、むしろなかなか見られなくなったよう に思われる(太字や飾り文字などの活字が 吹き出し内において頻繁に使われるように なっている )。 記号や絵などが吹き出しに 入れられる例もあり、先に挙げた活字では ない文字の例を含めたこれらの場合、読者 の視線は吹き出しの中にひとつの一時的な フレームを形成し、コマの中で読者の視線 は吹き出し、絵、吹き出しという運動を要 求される。すべてが活字で構成された吹き 図3 手 塚 治 虫 『 手 塚 治 虫 漫 画 全 集 地 底 国 の 怪 人 』 講 談 社 1982 p153
出しとの違いは、やはりそれが絵として認識されるか、という点にある。しかし吹き出し の中の活字も、潜在的には絵としての性質を失っているのではない。以前はよく用いられ ていた図3のような吹き出し内の飾り字は、絵の領域へ侵入が顕著なため、写実的な漫画 においては使用されない傾向があるが、それに補完される形で使用される活字のヴァリエ ーション(太字、白抜き字、丸文字…)は、依然としてその視覚的効果―絵としての効果 を担っているのである。 つまりは吹き出しおよび吹き出しの内部を、その他の絵とは異質なものとして排除する ために、第一の抑圧が起こっている。そこではそれらは「絵ではないもの」として扱われ、 その上で今度は、吹き出し内の活字の視覚的効果が考慮される。しかし吹き出しは、依然 抑圧しきれないものとしての文字をその中に抱え込んでいるのである。 1 - 3 .オノマトペ オノマトペの場合、事態はより進んだものとなっている。四方田犬彦は『漫画原論』の 中で大友克洋の『AKIRA 』に触れ、次のような興味深い考察をおこなっている(図4 )。 B から C への転換は、文字言語からグラフィックな記号へのそれである。ここで漫画 はA と B の間で感じていた差異、ズレを無意識的に克服して、画面に真実らしさを付 加しようと、さまざまな工夫を凝らすことになる。いわばオノマトペに派手な衣装を 着せ、所作をつけるのだ。爆発という事態になんとか接近しようとして、C は単なる 文字言語を脱し、積極的にコマ内部の絵柄にかかわろうとする。それ自体として完結 している絵柄にとってC は暴力的な侵入者以外の何物でもない。しかしこの突然の暴 力性をもっていよいよ光輝くというのが、漫画におけるオノマトペの原理といえるだ ろう。 (四方田犬彦 『漫画原論』 筑摩書房 1994 p98 ) ここで四方田は、「画面に真実らしさを付加しようと」いう意図、「爆発という事態に なんとか接近しよう」という意図により、「単なる文字言語を脱し、積極的にコマ内部の 絵柄にかかわろうとする」グラフィックな文字をコマ内に書き込んだとし、この「それ自 体として完結している絵柄」への文字 の侵入こそ「オノマトペの原理」であ るとしている。さらに、このような一 つの矛盾を抱えたオノマトペの性質を、 「暴力性」という言葉で表している。 「真実らしさ」や映画的なリアリズム を目指してオノマトペに所作をつける ほど、そのオノマトペはある種の身体 性を持つようになり、オノマトペ自体 が「リアル」に浮かび上がることによ って、「リアル」であるはずの「それ 図4 四 方 田 犬 彦 『 漫 画 原 論 』 筑 摩 書 房 1994 p97
自体として完結している絵柄」の中に、「リアル」な身体を持って侵入してくる。あたか も『AKIRA 』の世界でも、実際に「ドカン」という文字が浮かび上がっているかのよう に。 映画的リアリズムを押し進めた作家である大友の漫画において、本来映画的でないもの、 現実にはないはずのもの、つまりオノマトペが、非常に大きな役割を果たしていたことは 特記するに値する。単純に、音を視覚的に表現するにはオノマトペによるしかなく、当然 の結果であるようにも思われるが、それと並行して文字が絵柄に侵入する、正確には、文 字と絵柄の領域が攪乱されるという事態が進行する。 オノマトペは、文字自体が吹き出しを介さず直接絵 と隣接しているため、吹き出し以上に絵の領域を侵犯 しうる。このような特性を逆手にとって、図5のよう な演出が古くからおこなわれてきた。そして次に四方 田が荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』を例に出 していることは注目に値する。ここでは漫画内で生じ たオノマトペ自体が、漫画内の世界においても明確な 身体性を持ってしまうのである(図6 )。 『ジョジョ の奇妙な冒険』といえば、『北斗の拳』を引き継いだ かのような、印象的なオノマトペが有名であるが、こ の「ゴゴゴゴゴゴゴゴ…」という独特のオノマトペは、 いまや漫画の世界を飛び出して、それ自体で独自の身 体性を持つに至っている。また、この作品がいわゆる 劇画的なものであることにも注目したい。映画的なリ アリズムを目指すにおいて隠蔽しきれなかった一つの 要素がここにも見出せる。 図5 四 方 田 犬 彦 『 漫 画 原 論 』 筑 摩 書 房 1994 p105 このオノマトペが擬音としての意味を完全に放 棄して、純粋な「文字」として絵の領域に侵入し てきた例を見てみたい。図7は、氷川へきる作の 『ぱにぽに』という漫画の一コマである。登場人 物の頭にアンテナ状の髪の毛を挟んで「マ、ホ」 とある。このオノマトペはどんな現実の音も、も しくは漫画内の音とも結びつかないという意味に おいて正確にはオノマトペではないかもしれない が、このことはここでは重要ではないので、以下 同様にオノマトペと呼ぶことにする。ここで注目 すべきことは、このオノマトペが漫画内の世界に おいても身体性を持っているということが自明な こととして扱われているということである。上記 の『ジョジョの奇妙な冒険』の場合は、オノマト ペが体に刻まれてしまうのは超能力の一種として (特異な状況として)描かれているが、ここでは 図6 四 方 田 犬 彦 『 漫 画 原 論 』 筑 摩 書 房 1994 p105
そうではなく、登場人物たちにも日常的に目に見えるものとして描かれているのである。 実際にこの登場人物の友人が、劇という設定で彼女の役を演じる時、その友人は頭に針金 状のもので「マホ」という疑似オノマトペをくっつけている。あるいは前述のように、こ のオノマトペはどんな現実の音も、もしくは漫画内の音とも結びつかないものである。重 要なのはこの場合、『AKIRA 』のように何かしらの事態に接近するためのものではなく、 このオノマトペが絵としての身体性を持ってそこに描かれているということであるのだ。 また、このオノマトペにおいてはその身体性が重要であるということは、アニメ化された 際に普通は実際の音声に取って代わられるはずのオノマトペが、「マホ」という形でその まま残されたことからもうかがえる。 もちろんこれは、漫画においてオノマトペが重 要な位置を占めてきたこと、そしてしばしば身体 をもったものとして扱われてきたこと(例えば図 5)に対する一種のパロディーなのであるが、こ のオノマトペはそれ以上のことを意味している。 つまり、オノマトペが根源的には一つの絵である こと。斉藤宣彦はすでに、「絵」を「線」の集合 体として扱い、吹き出しやコマの枠線も(もちろ んオノマトペも含まれる)絵の一つとして扱うこ とを提案しているが、もう一歩踏み込んで言うと、 これらオノマトペを始めとする人物、背景以外の 「絵」が、人物、背景と同格に描かれうる/読ま れうるということがありうるのである。 図7 氷 川 へ き る 『 ぱ に ぽ に 』 第 8 巻 ス ク ウ ェ ア ・ エ ニ ッ ク ス 2005 p9 もう一つ、また違った例を見てみる。五十嵐大介の漫画に出てくるオノマトペは、最初 に見た人は違和感を覚えるような、非常に独特なものである。初期の『はなしっぱなし』 や『そらとびタマシイ』の頃から、このような特異なオノマトペはまれに現れてはいたが、 『魔女』においては、明らかに確信犯的に使用 されている。図8は、魔女の召喚した魔物たち が、ヒロインの少女によって無に帰される場面 である。ここで使われているオノマトペは、一 般的なオノマトペ同様ペンによって描かれてい るが、その形は活字を模したものになっている。 五十嵐は圧倒的なヴィジュアル(絵)で人気を 得ている漫画家で、絵に重きを置いていること は五十嵐本人も認めていることである。ここで 注目したいことは、このような画面において、 我々の視覚においては絵(この場合は人物や背 景)とオノマトペ、そして活字さえもが、線の 集合体として書かれている以上は、同列に扱わ れうるということである。彼の優れた絵の中に、 このようなオノマトペが侵入してくることで、 図8 五 十 嵐 大 介 『 魔 女 』 第 1 巻 小 学 館 2004 p108
我々はオノマトペが表現手段であると同時に絵の重要な構成要素であることを思い起こさ せる。同時に活字を模したペン字のオノマトペによって、独特の異化効果を生んでいる。 つまり、普段我々が決して交わることのないものだと思っている絵と活字が同列に描かれ ることによって、文字の抑圧構造を解体すると同時に、その抑圧構造に慣れ親しんだ我々 に違和感を与える効果を生み出しているのである。五十嵐は確かに、圧倒的なヴィジュア ルで見せる作家であると私も思うが、それと同じくらい、漫画の中の文字に対して神経を 使っている漫画家であると思う。 2.文字によるフレームの不確定性 これまで、文字が絵の一構成要素であるという説を立て、それを検証してきたが、この ことは一見、このように長々とした説明を労せずとも明らかなことに思えるかもしれない。 実際前述の通り、斉藤宣彦は既に「絵」を「線」の集合体として定義しており、「線」で 書かれた文字も「絵」として扱うということは、何も新しいことではないだろう。しかし、 私が主張したいのは、これらの文字を「絵」として見るということが、長い間漫画家や読 者において抑圧されてきた、ということである。そしてこのことは、キャラの持つリアリ ティとフレームの不確定性の抑圧の関係と、類似した状況をつくりだしている。 伊藤剛は『テヅカイズデッド』で次のように述べている。 ここで、「フレームの不確定性」もまた、キャラの持つリアリティによって支えられ ていることを、付け加えておく(… )。 先に引用した『ツバメしんどろ~む』では、 控えめながら間白を物質のように扱う表現が見られている【図4 ‐ 25 】(図につい ては『テヅカイズデッド』参照;五味 )。 さらに、キャラがその成立から今日に至る まで、「文字=シンボル」と「絵=イメージ」を明確に分かつことのできない「不順 な領域」(宮本大人 「『 漫画』の起源 不純な領域としての成立 」、 『週刊朝日百科 世界の文学』110 号テーマ編「マンガと文字」一一‐二九二~一一‐二九五項。毎日 新聞社、二〇〇一)にあり続けるものであることも、忘れてはならない。 (伊藤剛 『テヅカイズデッド』 NTT 出版 2005 p245 ) ここで、これまでの議論を整理することができる。伊藤は、キャラのリアリティという視 点から、マンガに根源的な「不純な領域」という本質を再発見するという経路を辿ってい る。つまりここでの言葉を使うなら、まず「不純な領域」として漫画が生まれたのだが、 その「不純」性を映画的リアリズムや劇画、またはそれを支える諸漫画論の言説、あるい はそれら諸言説によって規定される作者‐読者による「約束事」が抑圧、隠蔽してしまっ ていた。伊藤はこの抑圧、隠蔽構造をキャラのリアリティという概念で解体し、漫画本来 の「不純」性、つまりフレームの不確定性を浮かび上がらせたのである。これを文字とい う切り口から考えることができないだろうか、というのが本論の主題なのだ。伊藤の議論 でフレームの不確定性を支えているのは、まずキャラのリアリティ―つまりひとつの描写 表現としてのプロトキャラクターと、コマ枠もしくは間白が、同格に扱われうる(両者が 漫画内の世界において接触を持ちうる)ということからきている。たとえば引用箇所の
『ツバメしんどろ~む』の例においては、キャラの肘がコマの間白にもたれたたるという 接触を起こしている。この場合は、キャラがコマ枠、間白に侵入してくることで起こって いる。このことはまた同時に、両者が「絵」であるということに支えられている。 文字と絵、そしてコマとの関係においても、同様のことが起こっている。高橋しんの 『最終兵器彼女』では、図9のように、複数コマにまたがったオノマトペが度々使用され ている。これらは、キャラではなく、身体性をもったオノマトペによって、フレームの不 確定性が生まれている。これら身体性をもったオノマトペとキャラとの関連性は、未だ考 察の余地があるように思われるが、ここでは議論の主題を飛び越えてしまっているので、 扱わないことにする(オノマトペにキャラに似た性質のいくつかを見出すことができるか もしれない。例えば前に挙げた『ジョジョの奇妙な冒険』のオノマトペなどは、他作品の 二次創作の中に現れたりもする )。 図9 高 橋 し ん 『 最 終 兵 器 彼 女 』 第 4 巻 小 学 館 2001 p24 ( 左 )、 p118 ( 右 ) 3.まとめ フレームの不確定性という問題を、文字という視点で考えてきたが、文字がキャラや背 景と同列に扱われうると考えることは、場合によってはキャラや背景の特異性を隠蔽、抑 圧してしまう恐れがあるかもしれない。しかし、文字やコマが、完全に絵と切り離された 装置として考えてしまうことは、これまで考えてきたようにそれ以上の抑圧を我々に強い るであろう。実際、これまでの議論をもとに斉藤や伊藤の漫画の三要素を、自分なりに再
構成しようとしてみたところ、ある抑圧を棄却することによって別の抑圧が生まれてしま い、確たるものを考えることができなかった。これら諸要素の差異についてはより詳細に 分析する必要があるので、今回はやめておく。また、キャラの問題は、漫画の領域を超え る範囲があり、東浩紀が指摘するように、ライトノベルにおけるキャラなどの概念と、漫 画のキャラの概念は、その差異と共通点を見極める必要がある(漫画のキャラは、私には やはり始めに絵ありきに思える )。 以上のような問題点はあるものの、やはり我々は、ひ とつの歴史、ひとつの物語に回収されることなく、これらの問題点を検討していかなくて はならない。 最後に、文字を扱うにあたり『テヅカイズデッド』などでも重要なテーマとなっていた 少女漫画における内的言語の問題を、今回完全に棄却してしまったことは、決してそれを 軽視しているわけではなく、ただ、私の少女漫画に対する知識や、資料それ自体が圧倒的 に欠如していたので、残念ながら断念するにいたったということを述べておきたい。 参考文献 伊藤剛 『テヅカイズデッド』 NTT 出版、 2005 四方田犬彦 『漫画原論』 筑摩書房、 1994 『ユリイカ 一月号 特集*漫画批評の最前線』 青土社、 2006