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日本統治吋代台湾的 水支配 与抵抗   一対嘉南大訓事並的ノト案研究一

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日本植民地期台湾における「水の支配」と抵抗一嘉南大訓を事例として一 255

日本植民地期台湾における「水の支配」と抵抗       一嘉南大訓を事例として一

清水 美里

日本統治吋代台湾的 水支配 与抵抗   一対嘉南大訓事並的ノト案研究一

清水 美里

摘要

 帝国在殖民地的升友,姶殖民地帯来了近代化和経済的友展,但同吋突出了帝国与 殖民地之同杁属美系,成了杁2klX方面控制殖民地的装畳。有必要把殖民地的升友当 作殖民地近代性(Colonial Modernity)的向題,作整体性的考察。本研究以嘉南人 別事並力重点,考察日本在殖民地一台湾遊行的升友。嘉南大別事並是以鳥山失水庫 和油水渓力水源的,姶台南和嘉叉衣並地帯15万甲供給衣並用水的灌慨事迎。嘉南大 別工程升始干1920年,完成干1930年。区介事並是由嘉南大則姐合負責建没的,他イ[]

迩負責了水路的管理,井指尋衣民三年給作的方法。嘉南大別姐合的資金,一半是皐 国庫,…半是夙衣民和制糖公司征牧水租而来的。因力三年給作和高額水租,嘉南大 則遭到了台湾衣民的反対。

(2)

1.はじめに 2.計画 3.建設 4.運営

5.濁既 6.抵抗 7.交渉 8.おわりに

1. はじめに

 植民地における開発は、近代化と経済的発展を もたらすとともに、帝国と植民地の従属関係を顕 在化させ、経済的側面から植民地を支配する装置

ともなりうる。それはまた、在来勢力との葛藤や 近代の矛盾を引き起こす。こうした問題を植民地 近代性1としてとらえ、総合的な考察を行う必要 性が近年高まってきている。本論では、台湾にお ける植民地近代性の問題を、開発という切り口か ら、嘉南大馴事業を事例として考察を行いたい。

 嘉南大切事業は、烏山頭ダムと濁水渓を水源と し、現在の台南県市、嘉義県及び雲林県の農業地 帯15万甲(1甲=0.9699ha)に農業用水を供給 する灌概事業である。この事業は公共埠ガll2嘉南 大馴組合が1920〜30年にかけて建設を担った。嘉 南大訓組合は工事竣工後、水路の管理と、三年輪 作という耕作方法の地元農民への指導に当った。

当時、嘉南大訓組合の運営に対して農民から大反 発が起きた。これには、台湾民族運動3家も着目

し、一時は台湾全島規模の反対運動へと拡大する 様相を見せた。

 台湾史研究の古典的文献においては、嘉南大DII は農民の利益を考慮していないと批判されている。

矢内原忠雄は嘉南大馴が建設されているさなかに、

事業の「近代帝国主義的植民政策」の側面として、

国家の直接援助による半官半民組織の設立、台湾 総督府からの天下りによる官憲的経営、投機的な 事業計画などを列挙し、農民を搾取していると指 摘している。さらに、給水の地域と時期を制限し た三年輪作により、日本帝国主義はこの地域の農 業をコントロールしたと述べ、嘉南大訓事業は米 糖相克4の緩衝地帯を生み出したと考えた5。徐照 彦はこれを「水の支配」という言葉で表現し、三 年輪作という地域灌概管理制度がいかに製糖会社

に有利であったかを実証した6。また史明7、楊肇 嘉8らはこの事業を製糖業保護政策の一貫と見な

し、台湾農民を搾取するものと考えた。浅田喬二 は、後述する嘉南大訓水租不納運動や税金現物納 入運動を、台湾農民組合が29年の弾圧後に組織し た最後の抗日農民運動9と位置づけている °。

 近年では陳鴻圖が嘉南地域の水利に関する研究 を清代から現代にいたるまでの幅広いスパンで行 っている。近著『活水利生一墓湾水利與匝域環境 的互動』(2005年)では、「水利支配の問題は国家 権利と水利施設の研究、地方社会と水利施設の研 究の両面から理解すべきである」11と主張している。

台湾内の学術論文では、地方社会と水利施設の関 係性を論じたものが多く、国家政策の視点、特に 帝国と植民地の関係性から論じたものは少ない。

この傾向は松田吉郎の論文「嘉南大訓事業につい て」12にもあてはまる。松田は『台湾農事報』など 総督府側の資料に依拠して事業の効果を分析し、

嘉南大訓は生産性の向上、収益の増加により各方 面に良好な結果を及ぼしたと結論づけた。その上 で、嘉南大VII組合の基層組織である実行小組合の ミクロ政策もうまくいったにちがいないという推 論を導きだしている。郭雲洋論文13は、国家政策

と嘉南大訓灌概地域との関係を追っているが、国 家の中の中央政府と台湾総督府の視点が混同され てしまっている。

 また一方で、1990年代以後、嘉南大則の語りは ダムの設計及び工事の監督を担った総督府技師・

入田與一の物語の中に封じられ、歴史学の議論と は乖離した美談が流布している。このような言論 には事実の欠落と誇張がつきものである。物語は

「不毛の大地」が嘉南大訓によって潤され、農民 に生活の豊かさをもたらした姿がもっぱら描かれ る。これが一部歴史修正主義と結びついた「語

り」ともなり、問題視されはじめている 4。

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日本植民地期台湾における「水の支配」と抵抗一嘉南大訓を事例として一 257

 水利開発は、人々の生活を大きく変化させた。

それが植民地における開発であれば、内地と外地 のはざまで近代の矛盾を大きく抱え込むことにも なった。例えば、技術の導入は内地と外地に同時 代性が見られるが、顧雅文は台湾における近代的 水利開発はしばしばマラリア発生の原因になった と指摘している。顧の研究よると、清代の水利シ ステムは地勢などを巧みに応用したため、環境へ の負荷はあまり大きくなかったが、植民地政府に よって強制された水利事業は環境を徹底的に変化 させたとする。よって水田の増加や常に清流を湛 える用水路はマラリア媒介蚊の格好の繁殖地とな った15。事実、31年の台南州におけるマラリアの 激増は、総督府の調査で嘉南大馴の通水が原因と されている16。これは山林の工事現場でのマラリ ア発生だけではなく、農村や市街地での流行を意 味している。

 本論文は、嘉南大切事業の実態を同時代史料の 中から明らかにし、植民地近代性のもたらす矛盾 と葛藤を描き出す試みである。

 史料としては、嘉南大馴組合の刊行物と各年度 の『事業概要』、台湾総督府の文書と刊行物、『台 湾日日新報』、『台湾時報』など当局が出版したも のを扱う。これらは、開発を促進する側の動向を 把握するとともに、事業の反対運動への対抗策を 知ることが出来る。加えて、『台湾民報』、『台湾 新民報』や二大事業に関心の深かった楊肇嘉の著 書など、台湾民衆党関連の資料から台湾農民の反 対運動を分析する。また、雑誌『台湾の水利』に は、嘉南大馴組合関係者が編纂に携わっており、

嘉南大訓の具体的な管理運営方法を知るのに役立

った。

 以上の資料から、嘉南大訓事業の政策決定過程 及び実行過程を分析し、帝国経済圏からの視座と、

台湾民族運動家の視座、実際に耕作にあたる農民 たちの視座を読み解く。これに際し、朝鮮史研究 でサ海東が提示した植民地認識の「グレーゾー ン」という概念を仮借した17。従来の植民地社会 の認識論は、民衆は帝国支配に対して抵抗して戦 うか、受容して協力するか、という二分されたイ

メージがつきまとっていた。しかし、実際の植民 地社会では、両者の中間に犯罪行為などの日常的 抵抗と、地方自治空間での交渉が積み重なってお り、それを公共領域としてとらえなおそうという のが「グレーゾーン」である。この公共領域は日 常の政治的なるものの中に存在し、民衆が帝国の 権力と対峙する能力をもてた領域でもあった。サ 海東はこれを植民地的公共性と呼び、同化政策の 推進は協力を構造化し日常化させると同時に、多 様な抵抗の様式を構造化し日常化させたと主張す る。松本武祝は朝鮮の水利組合のなかに公共領域 をみいだし、農村エリートが植民地権力と政治交 渉を行った場として描き出している18。朝鮮と台 湾の水利組合の様相は単純に同一視できるもので はないが、植民地支配への抵抗の場を多様に掬い 上げた点に植民地公共性の価値がある。そこで、

嘉南大則事業の中にも、農民が日常的抵抗を行い、

政治交渉を行った「グレーゾーン」を探り出した いと思う。

2.計画

 当時の報道や紀行文などでは、嘉南大訓は日月 潭の水力電源開発と並べて、台湾の二大事業とし て語られることが多い。日本植民地期の台湾にと っては、両者とも巨大なダム建設プロジェクトで あった。その性格と目的、台湾経済への影響、文 化変容を強いられる住民の位相などは大きく異な るものの、同時期に計画され、建設に着手したこ とから、「姉妹事業」と呼ばれることすらある。

 台湾総督府は製糖業の奨励とアヘン、塩、樟脳、

酒などの専売を含む財政政策により、1905年に中 央政府からの財政独立を成し遂げ、1907年から黒 字経営に転じた。いわゆる台湾特別会計の黄金時 代が到来し、総督府は官営のインフラ事業を次々 と計画した19。嘉南大訓事業と日月潭水電開発の 姉妹は、まさにこの頃の総督府土木局で創造され たものである。

 嘉南大訓の灌概区域である嘉南平原は、一年間 の降雨量のうち、85%から90%が夏季に集中する。

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逆に冬季は二三ヶ月間雨が全く降らないことがし ばしばある。また、夏季に豪雨が集中するため洪 水も多い。よって、空を見ながら、田を耕すとい う意味で「看天田」と呼ばれる。看天田はまた嘉 南平原東部のある土壌をさす場合がある。この地 域の地層は地表から20cm前後のところに粘土層が あり、地下水の上昇と雨水が地面に浸み込むのを 妨げている。また水が干上がるとひび割れが起き、

農作物は根が地表に現れ、程なく枯れてしまう。

一方、嘉南平原西部の海岸付近の土壌は塩を多く 含んだ塩分地である2°。

 嘉南平原の水利はオランダ植民地期(1624−61 年)から開発が始まり、康煕年間(1684−1722年)

に最高潮を迎える。清代、嘉南平原に整備された 水利施設は181ヶ所あったが、そのうち82ヶ所が 康煕年間に造られたものである。これは台湾の他 地域にくらべ早い段階に水利開発が進んだことを 示す。次のピークは光緒年間(1875−95年)に訪 れる。36ヶ所がこの時期に整備された21。オラン

ダ植民地期、及び鄭成功時代(1661−83年)に作 られた水利施設は嘉南平原の南部、康煕年間のも のは中南部、光緒年間のものは北部に集中してい た。これは台湾の水利開発が、南部から北上して 来た歴史的展開をよくあらわしている。

 これらの水利施設は灌概面積がどれも300甲以 下であったが、日本の植民地統治期及び戦後の水 利組織の基礎をなした。清代の水利運営の特徴は、

官が地主や郷紳の利益を保護しながら間接的に介 入するという「民辮官助」の形をとっていたこと である。つまり官は、直接農民に賦役を課して水 路を開墾することができず、ただ測量を行い、開 発投資の奨励を唱導するだけだった。かわって民 が共同で水利施設を建設した。嘉南平原では同姓 血縁者が集住する村落(宗族)が多かったため、

水利設備の建設には村人が一丸となって働くケー スが多かった。これは、宗族組織の発達に寄与し た。宗族は、水利の利用権と管理義務を直結させ た形で、埠則を保有していた。またその借用及び 譲渡も行われていた。官は水利施設の自治を監督 し、頻発した水争いの仲裁をすることで、間接的

に介入し権利者を保護した。光緒年間になると

「民辮」の傾向はさらに強まり、郷紳勢力を拡大

させた22。

 このように清代の水利政策が間接統治であった のに対し、日本植民地期の台湾水利行政は官の直 接介入を徐々に押し出していくものであった。ま ず1901年に台湾公共埠訓規則が定められた。これ により新設の灌概設備(埠力IDは全て認可制にな った。公共埠川はその権利が利害関係者の公共財 となり管理義務は行政官に移譲した。1908年には 官設埠訓規則が定められる。21年、台湾総督府は 台湾水利組合令を発し、公共埠VIIと官設埠馴を順 次「水利組合」に改組していった。このほかに、

清代からある私設の認定外埠則があるが、これも 設備の改修を通じて、水利組合に組み入れられて いった。公共埠馴規則は、清代の慣習法から台湾 水利組合令への移行期の法律である。公共埠訓か ら水利組合への改組は、総督府の水利統制が強力 になることを意味する。だが、本件で扱う嘉南大 馴は公共埠訓として認可され、水利組合令施行後 も長らく、唯一改変されずに残っていた。公共埠 馴嘉南大訓組合が他の小規模な水利組合と合併し て「嘉南大訓水利組合」に改組したのは、43年の ことである。

 総督府に対し、嘉南平原における灌概設備の開 設を最初に提言したのは相賀照郷である。相賀は 17年当時、嘉義庁長をしていた。総督府土木局は この提言を受け入れ、八田與一を中心に調査団を 結成する。調査の結果、台南庁六甲支庁管内の官 佃渓と嘉義庁店仔口支庁管内大捕渓を締め切り、

二大貯水池を建設、湾裡・硫草・粛董・六甲・北 門・塩水港・店仔口・撲仔脚・東石港を灌概する 計画を立てた。灌概面積は7万5千甲、事業費は 1988万3345円である。事業費の主要部分は国費で 賄い、細部にわたる施設は利害関係者に施工させ るという計画である。しかし、総督府内部で予算 上の反対がでて、府議決定には至らなかった23。

 それから登場するのが農民からの「嘆願書」24で ある。「嘆願書」では利害関係者が「一甲歩二付 金百五十円内外ノ負担」を「約二十年間位ノ年賦

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日本植民地期台湾における「水の支配」と抵抗一嘉南大訓を事例として一 259

償還」によって引き受けると明記している。『嘉 南大訓新設事業概要』によると、計画を知った農 民が「無上の福音」と感じて、「極力経費及労力」

を負担する、または「土地一甲二付二百円迄」は 費用を提供するとの嘆願書が州庁宛に65通、331 の庄から計1万1500人分が寄せられたという25。

 だが、楊肇嘉が編集した『嘉南大馴問題』によ ると、この「嘆願書」は官製であるという。つま

り事業費の国庫負担に対し総督府内部で反対論が 出たため、土地関係者を巻き込んで、1甲当り 200円の負担金を課し、残余金を国庫が補助する 代案を立てたとする。

  斯くして当局の意を体した地方官庁は該地方   の各街庄区長(現在市サ、街・庄長に改称し、

  内地の市長村長に当る)をして約一萬人の土   地所有者に対し一期作の田地が二期作に改良   されると巧みに宣伝させて、豫め用意した嘉   南大切期成嘆願書に捺印せしめたのである。

   政府当局の指図に依り技師八田與一氏の作   成したる該計画書案に対して、土地所有者は   不安禁ずる能はずであつたが専ら入田技師の   調査と其の計画に信頼し且つ工事完成後に米   は三倍強の増収あるべきことを補償されたか   ら、経済的影響及び自分等の負担能力を考慮   する逞なく引水を熱望する余り、当時の情勢   に支配されて区長等の為す儘に任せたのであ

  る26。

 農民の「嘆願書」が本当に全くの官製であった のかは不明である。ただ利害関係者たる組合員10 万人とされる事業で、1万1500人分の嘆願書が集 まった。この状況をどう考えればよいであろうか。

その文面には甲当り150円、あるいは200円といっ た金額が明記されており、嘆願書という名を借り た契約書のような印象を受ける。

 謎めいた「嘆願書」と前後して、灌概面積拡大 案が登場する。先の7万5千甲を第一案とし、第 二案15万甲、事業費4250万円、第三案9万9千甲、

事業費2638万3245円という計画である。そして審 議の結果、第三案を採用した。第三案では、事業 費は国庫が1358万3345円を負担し、残りの1280万

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図 官佃渓埠馴工事概略

  (『官佃渓埠訓工事計画要領』国立台湾大学蔵)

円を利害関係者に負担させる事とした27。

 再調査が19年春から半年間行われ、10月4日に 測量設計が完成した28。ここで、またも計画を変 更し、第二案に類似する灌慨面積を15万甲とする 案を採用した。それは主要水源の曾文渓と官佃渓 に加え、日月潭水電開発にともない、濁水渓の増 水量を引水することができると判断したからであ る。よって、工事期間を6年とし、総工費4200万 円のうち、国庫から1200万円を支出し、利害関係 者の負担を3000万円とした。国庫支出1200万円と いう金額は日月潭水電開発のケースと同じである。

さらに事業建設のために、台湾電力株式会社とい う半官半民組織を設立した点も共通する。

 19年10月、明石元次郎総督の急死により、田健 治郎が総督に着任する。時の内閣、原敬の意向で、

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歴代台湾総督で初めての文官総督が誕生した。そ して12月に、後の嘉南大馴こと官佃渓埠訓計画が 府議決定する29。当時総督府技師だった八田與一 の回想では、主に甘庶の増産計画として考えてい た灌概事業を、民政長官の下村宏が水稲増産を拡 大させた案に変更したと語っている3°。この変更 は18年に内地で起きた米騒動のためであった。当 時、内地米不足にたいして外地米31移入の必要性 が訴えられたのである32。

 官佃渓埠訓計画は第42回帝国議会に提出された が、可決前に解散となり、第43回帝国議会に再提 出される。この間、創立準備委員会が設置される。

20年8月、官佃渓埠馴計画が議会を通過すると、

すぐに陳鴻鳴以下118名は官佃渓埠訓新設認可申 請を提出、8月23日に認可を得た。さらに官佃渓 埠切組合規約の認可を待って、9月1日、公共埠 訓官佃渓埠訓組合が成立する33。

 灌概面積15万甲という巨大な水利設備は、内地 への糖・米二大移出商品の供給基地34となった台 湾において、それを下支えするための植民地的開 発だったといえる。

3.建設

 官佃渓埠則組合のトップである管理者は、総督 府土木局長の山形要助、副管理者は台南州知事の 枝徳二が就任した。工事は調査を行った八田與一 が引続き現場の指揮を取っていた。20年9月から 準備工事に取り掛かり35、22年3月にはアメリカ

まで機材の買い付けに向った。

 先述のように、事業計画では■山頭系統と濁水 渓系統の二つの水源が存在する。烏山頭系統は、

官佃渓の流れる烏山頭に堰堤を築き、貯水池をつ くり、烏山嶺に燧道を掘り、曾文渓の水を貯水池 に引き込む計画である。これにより9万8千甲を 灌概する予定であった。濁水渓系統の工事では貯 水池はなく、濁水渓から直接給水用幹線を引き、

5万2千甲を灌概する計画である。烏山頭系統と 濁水渓系統は本来別種のもので、水源や灌概地も 交わることがないため、戦後はそれぞれ別組織に

よって管理されている36。

 工事は一部を大倉土木、鹿島組、住吉組、黒板 工業、太田組が請け負った37。だがその多くは嘉 南大訓組合が直接行い、灌慨区域の街庄長や青年 会の幹部たちが、「地方青年会の会員や壮丁」を 集め使役させていた。ちょうど工事が始まった20 年頃は、製糖業が不振の時代であったため、農閑 期の出稼ぎ先として、喜ばれていたようである38。

その反面、25年の農村好況の際には「出役人夫の 払底問題」発生による労働力不足で、後で触れる 工事の遅延に拍車をかけた39。烏山頭の工事現場 は最盛期において、家族も含めると日本人約700 名、台湾人約1500名が居住していたという4°。

 ■山頭ダムの工法はセミハイドロフイックダム といい、当時アメリカで多く使用されていた。烏 山頭ダム工事はアメリカの手法を多く導入してい る。人力ではなく、大型機械を導入するやり方も アメリカ式である。

 22年4月1日、官佃渓埠ガll組合は嘉南大馴組合 に改称する。このとき台南州庁内に台南出張所が でき、10月1日には烏山頭ダム工事現場に烏山頭 出張所が開所する。さらに、以前は嘉義州庁農会 事務所に借り入れていた事務所を、12月11日に新 築事務所に移転している41。これにより、建設部 隊と事務方が切り離されて仕事をすることになっ

た。

 また嘉南大馴組合は規約改正をして副管理者を 廃止、10月8日付で、台南州知事の職を辞した枝 が嘉南大訓組合の管理者に就任する。前任の山形 は同日、総督府土木局長の職をも辞す。その理由 は「官佃渓埠馴工事に関して、責任を感じたるが 為め」42だという。おそらく初年度の準備工事の繰 り越しと予算超過の責任をとったのであろう。年 度内に準備工事が終わり、本工事へ移行した。こ の年、元総督府土木局課長の筒井丑太郎が技師長 に就任する。

 22年の暮れ、総督府内務局長より国庫削減が内 達された。さらに23年の関東大震災で資金調達が より一層困難となった。財源確保に窮した嘉南大 馴組合は、急遽リストラを敢行し、下級職員約

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日本植民地期台湾における「水の支配」と抵抗一嘉南大訓を事例として一 261

200名、高級職員60名を解雇した。それでも資金 があつまらず、必要最低限の工事のみを進行する にとどめて急場を凌いだ43。

 27年、予定工期が過ぎた頃、総督府は国庫を約 1200万円増額し、工期の4年延長を認可した。こ の間、全工程が停滞したが、濁水渓系統の給水幹 線は早々と完成し、24年から逐次灌概が開始され、

29年には4万6千甲を灌慨している44。

 関東大震災の打撃は、たしかに大きなものであ った。それでも姉妹事業の日月潭水電開発に比べ れば、早く立ち直れたほうである。日月潭水電開 発は19年に着工するが、22年に工事停止に追い込 まれ、26年には事業打ち切りとなった。31年にな んとか工事が再開されるまで、9年間のブランク が生じた。日月潭水電開発は台湾工業化政策であ る。一方、嘉南大訓は米糖を中心とした農作物増 産政策である。台湾の電源開発と工業化が保留さ れていた45のに対して、農業水利開発は速やかに 再開された。これにより当時は工業より農業に開 発の比重がおかれていたと考えることができる。

 話を嘉南大jIIに戻す。29年にはさらに266万円 の国庫支給とその倍の事業費増額が認められる。

その理由のひとつに■山頭工事の計画改訂が挙げ られている。改訂理由は24年にアメリカ人技師ジ ェル・デー・ジャスチンを招聰し、調査を依頼し た46ことと、曾文渓引水用の烏山嶺随道工事の際 中に、20数回のガス爆発事故が発生したためと説 明している。

 この事故に関しては近年「50数名もの死傷者を 出した石油爆発」が伝説化しているが、これは一 度に起きた事故ではなく、石油の噴出により20数 回頻発した随道事故の死傷者の累計である。だが、

この燧道工事が工程中最も困難であったことは間 違いなく、燧道が貫通した時には盛大な貫通式が 催され、八田與一が作曲した「烏山頭踊り」が披

露された47。

 工事中、マラリアなどの風土病の蔓延も現場の 人間を悩ませた。マラリアの予防薬にはキニーネ

を使用していた。関係技師たちの回想によると、

「毎月一の日とか、五の日にはキニーネーを飲ま

なければならない」のだが、副作用を嫌がる人も おり、そういう場合には強制的に飲ませていた。

しかし、それでもすぐ吐き出してしまうので、キ ニーネの丸薬が道に散らばっていたという48。

 工事による死亡者は、烏山頭工事が労働者と家 族を含めて134名である。そのうち、病死者が97 名、公傷死者が35名、民間の事故死が2名である。

その全ての名が日本人、台湾人の区別なく死亡順 に、貯水池のほとりの殉工碑に刻まれている。

 30年4月25日、石塚総督をはじめ来賓1千人を 呼び、盛大な竣功式が執り行われた49。ここに10 年の歳月と134人の尊い犠牲と莫大な借金を残し て、嘉南大馴は完成した。

 しかし、30年代になると外地米が供給過剰に転 じる。植民地米の内地移入の増大が、今度は内地 の稲作農家を圧迫するようになったのである。政 府は内地の農村を保護するため、植民地米減反政 策を執った。台湾においては、34年より奨励金を 交付して作付け転換を勧めるとともに、水利事業 を抑制した5°。戦時下になると、内地の米穀は再 度不足状況に陥り、40年以降、米穀増産工事によ って多くの水路が開設されるが、灌溜i面積1千甲 を越えるものは10程度しかない51。それは中央政 府が戦後の供給過剰を恐れ、積極策を打ち出さな かったからである52。嘉南大訓は日本植民地期台 湾において、最大の水利事業となった。

4.運営

 旧来の台湾の農業開発は、植民者たる日本人か ら見れば、手付かずという印象がついてまわって いた。その原因は地主にあると考えられていた。

   台湾の地主階級は日本の地主と異つて、多   くは小作地の経済的価値の増進に関しては、

  小作人又は中間請負格たる田頭又は二等田手   家に任せきりで、只だ一定額の小作料さへ間   違ひなく収納すれば満足するといふ習慣があ   るやうだ。(中略)されば台湾に於いて、農   事改良事業の一方法として灌概工事が官営又   は公共的組織の下に、半ば強制的に、実施さ

(8)

  れ来つたことは、台湾農業発達上…延ては国   民経済の大局から見て、誠に当然の処断であ   つたといはねはならない53。

 この文章から統治者側が台湾農業を「半ば強制 的」にでも導いてやらねばならない、と考えてい たことが分かる。その一組織として、嘉南大訓組 合は存在した。では、水利運営団体としての嘉南 大lll組合とは、いかなる組織だったのだろうか。

 嘉南大切組合の「組合規約」54をみてみよう。こ れによると、嘉南大別組合においては、水の供給 を受ける利害関係者は全て「組合員」となる。そ の運営は管理者と職員、そして組合会が執行する。

管理者は灌概地域の管内における知事のような存 在で、職員は地方官吏に、組合会は地方議会に相 当する。実際、二代目の枝徳二以降、嘉南大切組 合の管理者のポストは台南州知事の天下り先とな る。管理者は組合職員のトップであるとともに、

組合会の議長でもある。

 組合会の協議は議長の管理者と、各街庄から選 挙で選ばれた組合会議員約80名、そして「第二項 ノ議員」と呼ばれる100甲以上の土地の所有者及 び会社の代表者、もしくは管理者が組合の事業と 重大な利害関係があると認めた者とで行なわれる。

「第二項ノ議員」は選挙を経ずに組合議員となれ る。いうなれば、貴族院議員のような存在である。

一項も二項も任期は4年、再任は可能である。

 組合会は通常総会を年に2回定期的に開き、そ の他に必要に応じて管理者の召集、あるいは議員 の3分の1以上の請求により臨時会を開く。これ によって「利害関係ヲ有スル土地ノ水利施設及之 レカ維持」が図られ、領民たる10万人の農民が

「組合員」として組織化された。

 嘉南大訓の総事業費は5380万4078円に膨らみ、

このうち国庫の補助金は約2674万0000円のみであ る。さらに日本勧業銀行と国庫から3047万8000円 を借り入れている55。総事業費から国庫補助を差 し引いた分に、借入金の利子を加えた全てが、水 租に転嫁させられた。利害関係者の組合加入は強 制であった。したがって組合員たる利害関係者は 押しなべて組合規約第35条により、「水租、費用

及夫役、現品」を供出しなければならない。そし て、その金額や内容を最終的に決定するのが組合 会である。

 組合員が支払うべき水租を細分すると、烏山頭 系統の通水前後で徴収方法が異なる。建設期間中 には臨時賦課金、加入金、維持費、特別賦課金が あった。30年の竣工以後は維持費と特別水租と呼 ばれるものがあった56。

 まず、臨時賦課金は工事期間中に現収のある13 万5千甲に賦課された。初回の20年度は1甲10円 だったが、不況のあおりで減額し、23年に工事が 停滞してからは1甲5円となる。加入金は土地改 良などにより、新たに開墾された土地に課された もので、工事開始の20年度から現収がでるまでの 期間の臨時賦課金に相当する額が課された。

 先行して灌概が行われた濁水渓系統の灌慨区域 には、別途に用水路の維持費と特別賦課金が徴収 された。維持費は灌概1年目の地域には1甲5円 であるが、2年目以降は1甲8円となる。特別賦 課金は灌概開始3年目から1甲10円が課された。

 30年に全系統の幹線から給水が始まると、水租 の制度は維持費を除いて、特別水租に統括される。

維持費は1甲8円のままである。特別水租は灌概 区域を三段階に分けて金額を設定した。まず現収 がある土地に対しては、前年度まで臨時賦課金を 負担してきた土地を「甲」、負担してない土地を

「乙」とし、「幾分ノ収穫二止マル」土地は「丙」

とした。さらに「収穫不十分ナル土地」には管理 者の実地踏査の上、延納が認められた。特別水租 は年度ごとに徴収額が変動する。(表1を参照)

 臨時賦課金及び特別水租の金額が変動していた ことは、ある程度ではあるが、組合会議員の意向 が通っていたことの証明と考えることができる。

20年度の組合会では、水租は1甲200円までの賦 課を、完成後10年間の年賦償還で支払うことが決 議されていた。それを嘉南大馴の竣工後には、19 年間の年賦償還に変更した。これは利率の変動に よって多少左右されるが、1甲あたり通算約300 円の徴収となったことを意味する。

 ちなみに、清代の水租は灌慨の水量あるいは面

(9)

日本植民地期台湾における「水の支配」と抵抗一嘉南大切を事例として一 263

積、収穫量など、水が行き渡った実績によって賦 課額を決めていた。1甲当りいくらというような、

土地に賦課をかける水租徴収方法は、台湾では中 部のある地域にしかみられなかった57。

 この水租の未納者に対しては家財道具や不動産 が差し押さえられた。台南州は水租の未納問題に 不干渉の声明を発していたが、下級官吏の干渉は 放任した。郡守は嘉南大則組合郡部部長を兼任し ていたため、水租の滞納に対し公権力を発動させ ることができた58。水租の支払い請求書は土地所 有者に送付された。これが、小作料にどう反映さ れたかは地域によってばらつきがある。

 ここで、当時の地主と小作人の関係について触 れておく。清代の農村は、大租戸/小租戸/現耕 佃戸という三階層をなしていたが、1904年に大租 権が公債によって全て買い取られ、消滅した。よ って小租戸が土地所有者である業主、つまり地主 となり、現耕佃戸が小作人となったわけである。

大租戸の消失は地主の零細化をもたらした59。

 水租の支払いに窮したのは、そういった零細地 主や自作農民であったようである。北門郡山子脚

に住む陳力は、父母の残した数甲の原野を嘉南大 胡1灌概区域に編入させられた。しかし、水租を納 入するにも、売るような物件もなく、土地の権利 も放棄できずに官憲の脅迫に屈し、やむを得ず3 歳のわが子を七股庄後港の許盤の養子として、

120円で売った。また七股庄後港では、陳清藤が 立て替えてもらった水租の金策がつかず、妹の月 蛾8歳を篤茄邸雄の養女として120円で売ってい

る60。

 この事例から、1甲あたりの水租の総賦課は子 供1人の値段の陪以上することが分かる。23年の 統計によると、1戸当りの耕地面積は台南州の場 合、平均で2甲強である61。このような高額な水 租も、それに見合った収益が見られれば、「日和 見主義」の地主は文句を言わないだろうと考えら れていた。そして、当局側は常にこの点に関して 強気であった。三年輪作さえ軌道に乗れば収益は 倍増すると大きく主張していたのである。しかし、

農民が最後まで拒絶し、当局側が手を焼いたのは、

表1 嘉南大馴特別水租徴収額

年度

1930 15円80銭 20円70銭 5円

1931 8円 10円 5円

1932 10円 12円 5円

1933 12円14銭 14円14銭 5円 1934 12円70銭 16円10銭 5円

(台北米穀事務所調査『嘉南大則』1936年国立台湾大学蔵 より作成)

三年輪作の完全な実施であった。

5.灌溜

 嘉南大切の灌概方法は初期計画の段階から、三 年輪作を行うことが決定していた。組合規約第29 条ノ2には次のように定められている。

   前條ノ土地ハ水路系統二依リ之ヲ区画ス前   項ノ各区画毎年ノ給水量ハ其ノ区画ノ三分ノ   ーノ地域二夏季単期水稲作、三分ノーノ地域   二甘庶作ヲ行フニ必要ナル程度トス(後略)

 つまり、灌概用水は幹線から支線(中水路)、

小水路を通じて各農地に送られるのだが、そこで この三年輪作を実践するために、給水路系統によ って農地を150甲ごとに区画した。さらにこれを 50甲ごと三分割し、水稲区、甘庶区、雑作区に振 り分けた。この50甲の小区は、一年ずつ水稲、甘 庶、雑作をローテーションで作付けした。よって、

濁水渓系統の水稲区へは5月から10月まで、甘庶 区には9月から翌年1月まで給水し、烏山頭系統 の水稲区には6月から9月まで、甘蕉区には11月 から翌年4月まで給水した。そして、雑作区には 給水しないこととした。水稲区の作付けは夏季単 期作で、計画時に宣伝された二期作ではない62。

 三年輪作は水量節約を目的とした耕作方法であ る。もともと台湾の山手の小さい川付近では、甘 蕪、雑作、陸稲などの輪作を行っていた。これを 総督府の中央研究所が利用し、上記の作付け期間 の組み合わせを考案したという63。

 嘉南大馴組合は三年輪作を徹底するため、監視 所を設置し、実行小組合を組織した。

(10)

 監視所は2種類ある。ひとつは嘉南大jII組合直 属の監視所で、水源及び幹線・支線に51ヶ所設置

され、各種構造物の管理と用水分配などを行った。

もうひとつは各郡守が嘉南大訓組合の郡部長とし て管轄したもので、111ヶ所設置され、排水施設 の管理とその利用の指導にあたった。郡守管轄の 方は、一つの監視所で約1700甲、3千数百人の組 合員を担当していた64。

 各監視所には監視員として職員1名、補助員2 名ないし3名が配置された65。『台湾の水利』には 監視員のためのマニュアルが収録されている66。

これを見ると、実際に現場で水量を測定し、給水 量を決定して灌概計画をたてていたのは彼等であ る。そして、各給水区に実行小組合の専任用水管 理人を置き、彼等が自主管理できるように指導を 行うのも監視員の仕事である。この監視員には農 業水利の知識や技術の習得の他に、人格の修養や 台湾語の能力が求められていた67。

 実行小組合は、先の150甲ごとの給水区に1つ ずつ組織された。1つの実行小組合の組合員数は 30人から50人であった68。実行小組合は灌概が開 始された時点から、地域ごとに編成されていった。

実行小組合は制度上、自治管理をかかげているが、

実際は監視員の補助機関である。さらに、その役 員は選挙で選ばれることとなっていたが、「水利 事業に十分理解をもち、利害関係の多い熱心な一 般組合員に信望のある者を党派関係等をも十分考 へて推薦」するのが望ましいとされた69。

 実行小組合の仕事は中小水路の施工、水路の維 持、水の分配と農作物の植え付けである。中小水 路の施工に対しては、測量や設計といった専門性 を要する作業までは嘉南大訓組合職員が行うが、

建設は費用面も含め実行小組合に担わされる7°。

工事費の集金は監視員が行うよりも、実行小組合 長が指名した人物が行うほうが成績が良いとされ た。特に、設立当初の実行小組合は工事費集金組 織と目されていた節がある71。

 三年輪作の完遂にはさまざまな障害が立ちはだ かった。その原因は、耕作農民の理解不足のみに 帰するとは考えにくい。この複雑な給水スケジュ

一ルを乱す要因の1つには、盗水があげられる。

嘉南大訓組合が盗水と見なしたその内容には、水 稲作の区域外植え付け、二期作、予定の時期に植 え付けしないことなども含まれている。嘉南大訓 は、定められた供給水量内で附近の耕作地に迷惑 をかけず、損害を与えないのであれば、農作物の 選択は可能と言っているが、この制度に従うので あればそれは不可能である72。

 ここで矢内原忠雄らが提示した「米糖相克の緩 衝地帯」という言葉を想起する必要がある。20年 代は内地種の蓬莱米の成功により、台湾農民は甘 庶に匹敵する経済作物を栽培できるようになった。

つまり、農民は自分たちの利益に応じて、甘庶か 水稲か、植付け作物を選択するようになり、米糖 相克問題が浮上した。だが、三年輪作はあらかじ め栽培作物が決められており、農民にその選択権 はない。製糖会社は、当初の嘉南平原の3分の1

しか甘庶栽培に確保できないという危機意識から、

甘庶栽培の勧誘奨励をしなくても3分の1は確保 できるという考えへ変化していったと思われる73。

よって、嘉南大訓はまさしく米糖相克の緩衝地帯 を生み出したといえる。

 一方で三年輪作を実行する上で農業技術的な問 題が残っていた。それは全区域が三年に一度は甘 庶と水稲を作付けしなければならないということ である。したがって、土壌が適さない粘土層の看 天田と、塩分濃度が高い塩分地は土地改良が必要 とされた。一説によると粘土層のある看天田(3 万甲)、塩分地(2万3千甲)そして低湿地も合 わせると6万甲が土地改良を要すると言われた74。

 嘉南大馴の灌溜i地に組み込まれた塩分地のうち、

養魚池が40%、原野その他が28%を占め、これら は未耕地とされた。この土地改良は毛細管現象を 利用し、改良地に連続して水を流すことで「塩抜 き」をするものである。実施には灌概と排水の完 備が必要とされた。特に重要なのが、塩の排出を 促す排水路の設置である75。

 『台湾の水利』には「呉連のはなし」76という塩 分地改良に関する小説が収録されている。内容は、

呉連という40代の貧しい「百姓」が、養魚池の塩

(11)

日本植民地期台湾における「水の支配」と抵抗一嘉南大訓を事例として一 265

分地改良を成功させた物語である。ある日呉連は 10甲の養魚池を水田にすると決意した。すると、

カンチュー(夫人)が家を飛び出した。それでも 呉連は、「水蛙(ッイケエ)」こと監視員の指示を 従順に聞き入れ、排水路を引き、肥料を与えた。

収穫期、呉連の稲は甲当り4千斤の収穫を得た。

呉連は「海から薪が取れた」と近隣の百姓に自慢 した。呉連のカンチューも戻ってきたところで話 は終る。

 呉連の対極に描かれているのが金持ちの陳闊で ある。陳閣は「水蛙」の指導に表面的にしか従わ ず、稲を腐らせてしまう。呉連のように監視員に 従順だったものだけが、富を得られるというスト ーリーである。

 粘土層のある看天田の問題は、甘庶が根を伸ば せず発育不良に陥ってしまうことである。ただし、

粘土層の看天田は塩分地と異なり、土地改良する 前から田地が多く、未耕地ではなかった。粘土層 の看天田の土地改良法のひとつとして、ヒースプ ラウ深耕があった。ヒースプラウは蒸気式の深耕 鋤起しの機械で、土を2尺から3尺掘り起こすこ とができ、主に製糖会社が所有していた。ただ、

このヒースプラウは上層の肥沃な土と下層の粘土 を一緒に鋤き返してしまうため、甘蕪作の前に行 うのは良いが、水稲作の前に行うと不作になった。

 30年、濁水渓系統の東石郡の「優良地主」の農 地で最初にヒースプラウの土地改良が着手された。

製糖会社側は庶作代金での費用負担を組合員に要 求した。つづいて32年に曾文郡と新営郡の農地約 300甲もヒースプラウを使用した。費用は両郡と

も製糖会社が負担した。東石郡のヒースプラウ改 良も33年度から製糖会社が費用を負担することと なったため、従来は年に数十甲しか行わなかった のが、一挙に184甲も行われた。以後、ヒースプ ラウによる土地改良は東石、曾文、新営の三郡を 中心に盛んになされた77。

 これらの土地改良は、農民の理解が得られない ケースが多々あった。それは塩分地及び看天田改 良のための指導奨励実践マニュアルが存在したこ とからもうかがい知ることができる78。それから、

土地改良後の小作料の査定問題も「当局が妥当な 小作料に導いてやらねば」ならないと考えられて

いた。

 通水から数年経て、当局は土地改良に加えて、

土地交換も必要だということを自覚した。組合員 の自作農家と小作人の所有地を調査した35年の統 計によると、1つの小区(各50甲)のみを耕作す

るものが32%、2つの小区を耕作するものが39%、

3つの小区を耕作するものが29%であった。つま り年によっては米を収穫できない農家が70%ある のである。よって、嘉南大馴組合は全ての農家が

3小区に均等に耕作地を保有できるように土地を 交換するべきだと考えた79。

 また、台湾全域で小作慣行改善事業が行われ、

嘉南大訓灌概地域では実行小組合が小作慣行改善 の仕事を兼任した。当時の小作契約は口頭で行わ れ、契約期間が不定で例年更新することが多かっ た。取り分は5:5、あるいは6:4とされた。

このことから、流動する地主と小作人の関係が浮 かび上がる。総督府はこれら口頭契約や例年の契 約更新を悪弊とみなし、業佃会と興農侶和会を設 置した。またその下に農事実行小団体(実行小組 合)を組織し、小作慣行改善事業を進行した。し かし、小作料の減額はこれには含まれていない8°。

嘉南平原では口頭契約を書式契約へ改めさせるこ とには効果が見られたが、契約の長期化について は不明である81。

 嘉南大馴組合は三年輪作の実施を理由に、小作 制度の合理化までもはかろうとした。徐照彦のい う「水の支配」とは、以上の三年輪作の導入によ る生産体制と土地所有への介入を指している。

 さて、この事業の効果である。耕作面積はほと んど拡大していないが、水田と、陸稲などを作付 けしていた旱田の比率は逆転している。30年には、

水田34.5%、旱田65.5%であったのが、37年には 水田70.3%、旱田29.7%になり、記録のある42年 までほぼ同じ割合を保った82。旱田は当時、雑作 地とみなされていた。(表2を参照)

 台湾銀行の資料によれば、31年の三年輪作の実 行率は水稲55%、甘庶37.5%、雑作64.5%である。

(12)

表2作物別栽培面積(甲)

工事前 1937年 水稲区 13160 49687 甘蕪区 31486 37137 雑作区 89689 50736 養魚池 8835

一 無収穫地 13400

表3総収穫量

工事前 1937年 水稲(石) 107,162 784,007 甘庶(斤) 1,379,898,838 4,648,772,523 雑作(円) 6,089,333 10,110,670

表4 甲当り収穫量

工事前 1937年

水稲(石) 8.14 15.78

甘庶(斤) 43,826 125,179 雑作(円) 67円89銭 199円28銭

(『事業概要台湾嘉南大訓組合』公共埠胡嘉南大訓組合1939年 より作成)

それが39年には水稲88.5%、甘薫69.1%、雑作 70%に増加する83。一般的に生産の増加が顕著に なったのは三年輪作の1サイクルを終えて2サイ クルにはいってからだったといわれている。

 灌瀧地域の総収穫量と1甲当りの収穫量は工事 前と後で表3、4のように変化した。数字だけ見 れば、その増加は著しい。総収穫量は水稲が約7 倍、甘庶が約3倍、作付面積が減少した雑作も増 加した。1甲当たりの収穫量はどれも倍増してい

る。

 しかし、農民にとって三年輪作は弊害も多かっ た。まず、作付けする作物の選択権がなくなるこ とは先にも述べた。加えて、環境が異なる15万甲 の地域におしなべて同じ耕作方法を強要した。上 からの土地改良が行われただけでなく、水田にな れない農民や、甘庶や水稲しか栽培していなかっ た農民は、不慣れな農業をしなければならなかっ た。水盗らの日常的抵抗の原因は収益だけの問題 ではないのである。それは台湾の民族意識とも結 びつき、嘉南大訓組合と台湾農民の衝突を生みだ

した。

6.抵抗

 嘉南大馴をめぐる抵抗運動には、個人によるも のから、各郡庄街の闘争、台南州内の活動、全島 規模のものまで各層に分けられる。闘争相手とし てはまず嘉南大捌組合の管理者、郡部部長、監視 員がある。次に嘉南大訓組合と行政は人事組織が 連動していた関係から、地方官庁、台湾総督府、

帝国議会、時には内地資本の象徴である製糖会社 もその攻撃対象となった。

 台湾の農民運動は、運動対象に外来独占資本と 総督府公権力が入ったことで、政治運動が色濃く 投影し、二重構造を内部に抱え込んだen。嘉南大 訓もその例外ではない。むしろ政治、民族的要素 が強く、在来地主と小作人の階級的対立が見えに

くい側面がある。

 民族運動家の謝春木(南光)は嘉南大訓への闘 争は、他の水利事業と異なり、小作農だけでなく 地主階級を巻き込むものだと述べている。その目 標は、1つは水租の負担を軽減し、土地を耕作す

る農民の手に保持すること、もう1つは三年輪作 を廃止し、作物を農民の自由選択に任かすことだ と主張している85。このように農民の要求の機軸 は負担費用の軽減と、三年輪作の廃止の2つであ

った。

 はじめの衝突は水路の用地買収の段階で起きて いる。27年に嘉南大馴組合は関係農民に対し事業 の宣伝活動を行った。宣伝には嘉南大馴組合だけ でなく、総督府、台南州、所轄郡守からそれぞれ 人を出し、通訳をつけて各街庄を巡回した。この 時の講演内容が『嘉南大則組合の事業に就いて組 合員諸君に告ぐ』86と『嘉南大馴事業講和要領』87に 収録されている。加えて、「夜間組合事業実況活 動写真」なるものが上映された。このような宣伝 が行われたのは、実際に水を田畑に流す中小水路 の土地買収がうまくいっていないから、と報道さ れた88。しかし、講演の内容を見ると、すでに濁 水渓系の灌概が開始されて数年立つが、農民の理

(13)

日本植民地期台湾における「水の支配」と抵抗一嘉南大訓を事例として一 267

解が得られないために、三年輪作が機能していな いことにもあったようである。

 例えば水路の破壊行為がたびたび行われた。水 路の破壊行為は「組合員ハ小水路サへ掘ラネバ水 租ヲ取ラレンデ済ム」と考えているからだと、監 視員が報告している。これは水租を使用料として

とらえた見方から発した行為だが、嘉南大訓組合 側は水租を「割当」だとし、小水路がなくても水 租を徴収する具体策を講じている89。

 盗水は、甘庶区、雑作区への水稲作付けと、水 稲区、甘庶区での陸稲の作付けのために行われて いた。もともと粘土層の看天田では陸稲の栽培が 盛んだったこともあり、監視員の目を盗んで、競 って引水されたという9°。また新化郡安定庄港口 は在来埠訓を使用していたが、嘉南大訓に特殊区 域として編入され、在来埠切からの給水を禁じら れてしまった。31年2月の田植えで農民数名が在 来埠馴から引水したところ、新化郡役所に召喚さ れ、水盗用の罪で罰金10円を言い渡されている91。

 台湾民衆党は28年の第二次全島党員大会で「嘉 南大馴三年輪作に反対すべし」という政策を決議

した。これは第三次大会でも継続して決議された。

台湾民衆党は日本植民地期、最初で最後の台湾人 による合法的な政党である。台湾民衆党の活動期 間は1927〜31年と短命に終ったが、当時「台湾 大」の政党が存在した意義は大きい。『台湾新民 報』は台湾民衆党が成立した際に、台湾民衆党の 機関紙的な性格を担った。そして、台湾民衆党が 活動を停止した後も、嘉南大訓への批判を紙上で 展開し、住民への決起を呼びかけている。また赤 化した台湾文化協会の傘下にあった台湾農民組合 も、29年の段階で、スローガンに「埠訓管理権の 奪回 嘉南大馴三年輪灌政策反対」を盛り込んで

いる92。

 嘉南大訓組合員の反対運動は実行小組合の成立 に際して表面化した。特に新化郡善化庄六分寮の 情勢は、『台湾民報』に逐次報道された93。

 29年12月26日、嘉南大馴新化郡の郡部長が、善 化庄六分寮、東北勢宅、西東勢宅の地主と小作人 を召集して善化で会議を開いた。出席した組合員

は嘉南大訓の灌概地編入に反対していたため、実 行小組合の成立には至らなかった。そこで、郡部 長は翌30年2月24日、該当地区の地主20名だけを 招集、六分寮実行小組合の成立を宣言した。この とき警察官数名も同席した。3月10日、地主約50 名が善化街役場に集まり、陳情書を総督府及び台 南州に提出することと、代表者を送って、郡部長 に抗議することを決議した。代表者の一人、劉清 風94はその後の陳情活動の代表団に必ず名を連ね る人物である。そして、善化庄六分寮の農民はこ の事件を契機に、業佃協和会を設立する。4月15 日、彼等は新化郡に水租の3年間延納を要求する が、交渉は決裂する。新化郡部部長は、4月19日 から六分寮へ10数名の警察を派遣し、工事請負人 を保護して小水路を開設した。

 六分寮の件は、衝突が表面化した稀な事例であ ろう。嘉南大訓組合はおそらくこれを教訓として、

その後の実行小組合の設立と小水路開設工事の際 には次のようになされた。まず「慎重」に人選さ れた役員会を開き、役員を納得させる。複数の実 行小組合を召集することは避け、懐柔しやすい地 域から成立させる。反抗的な地域は隣接する実行 小組合の工事をある程度進捗させ、近隣の事情で やむなく小水路を開設しなければならない状況に 追い込み、それから実行小組合を成立させる。問 題の多い実行小組合の会議には、郡部長(郡守)、

主事(庶務課長)を臨席させる95。

 先行通水が行われた濁水渓系統での軋礫は、烏 山頭系統の通水が始まったとき大規模な水租不納 運動へと展開した。30年9月は工事竣工後第一回

目の水租徴収であるため、嘉南大訓組合も徴収成 績を特に重視していた。水租の徴収書は地租徴収 書の下に印刷された。

 業佃協和会は9月20日、水租不納同盟を決議し、

台南州知事に内容証明を送り、地主120名が庄役 場に押しかけ、水租以外の税金を納入しようとし たが、税務課員は地租のみの納入を拒絶した96。

台湾農民組合は曾文、下営両支部員による嘉南大 馴闘争委員会を作り、各支部へ「水租抗納同盟」

を組織した。この運動は、水租以外の税を台南州

(14)

税務局宛に小切手または書留で郵送するという方 法で行われた。132名がこの手段を取っている97。

9月22日には、嘉南大切闘争委員会が各支部に指 令を出し、「水租抗納」のため1千人が4庄の役

場を包囲した98。

 これに対し、嘉南大訓組合郡部部長は、水租未 納者に差押さえ処分を断行した。業佃協和会は、

140名が団結し、水租を支払う余裕があったにも かかわらずわざわざ差押さ処分をさせ、不服の意 を表した99。水租納入のために人身売買が行われ た事件が報道されたのもこの頃である。それから は、陳情書にはたびたび「典妻売子」1°°という言 葉が入るようになった。

 30年11月に台湾農民組合台南州支部連合会が展 開した税金現物納入闘争も、農村恐慌の外に、嘉 南大則事業の不備が一因とされている。これは

「不景気の為め現金なし」と訴え、役場入り口に 籾を持って押しかける運動である。棺木商の謝美 福は北門郡学甲庄役場へ、棺2台に役場職員数に 相当する13柱の位牌を収めて放置した。この税金 現物納入運動は、指導者格の張氏玉蘭、柳徳裕ら 数名が検束されて漸次収束した1°1。

 31年2月、堰堤竣工後二回目の水租徴収が行わ れた。1月15日、台湾問題研究会1°2より『嘉南大 馴問題』1°3というパンフレットが発行された。編 者は台湾民衆党の楊肇嘉である。パンフレットは 東京で発行され、読者は内地の知識人を想定して いる。内容は、ずさんな工事のために、関係農民 40数万人は多額な水租の徴収に苦しむが、不合理 な三年輪作のために作物は減収し、生活が困窮し

どうにも立ち行かなくなっているというものであ る。嘉南大馴への要求は水租の減額のための財政 改革が第一で、三年輪作の廃止あるいは改良は第 四要求になっている。

 ともかくも、これにより嘉南大訓の問題は内地 にまで注目を引くこととなり、帝国議会で質問が 出る様相となった。2月23日総督府は答弁資料並 びその水租納入問題の対策を練っている1°4。一方、

業佃協和会の幹部は、台南州下の約千名の地主の 賛同を得て、地主会を発足させた1°5。

 関係地主は、台湾民族運動と連動して、反対運 動を組織化、拡大していった。それは業佃協和会 や地主会の活動が『台湾新民報』に報道されたこ とはもちろん、『台湾新民報』の「紙上会議」と いう企画で嘉南大馴の運用方法が最初に討議され たことからもうかがえる。この企画には組合会議 員を含む32名が投稿している1°6。

7. 交渉

 31年3月5日、嘉南大±Jll組合第27回通常総会が 開かれた。警察も臨席し、傍聴者が50名から60名 いた。議題は30年度追加予算の件、起債の件及び 31年度予算の件、水租の賦課方法の件などである。

組合会議員の多数は起債に反対した。各郡部部長 たちは原案を強要するが通過しなかった。この時、

組合会「第二項ノ議員」劉明電1°7が借入金の高利 子と負担金の過重を攻撃し、31年度歳入出予算に たいして修正案を提出した。議論は紛糾し、この 日は何の決定もされず散会となった。翌日、永山 止米郎管理者は付帯条件をつけたものの、場内は 殺気立ったまま、管理者側は原案可決を強行し

た108。

 6月3日に開かれた嘉南大切組合第28回通常総 会も、永山管理者の強権が発動された。地主会

「嘉義支部」は、前回の総会で決議された付帯条 件について、嘉南大馴組合が作成した成案と交渉 の経過を発表することを求めたが、永山管理者は これを固辞し、組合規約第18条「左ノ場合二於テ ハ組合会ヲ開カス管理者限リ処分スルコトヲ得 二、組合会成立セス若クハ成立スルモ議i決スヘキ 事項ヲ議決セサルトキ」を発動、散会を宣言し

た109。

 地主会は6月16日、横光吉規台南州知事に、嘉 南大Iil組合臨時総会を開催するよう陳情した11°。

6月下旬、永山管理者と遠藤理事は辞任する111。

管理者は横光台南州知事が、理事は石井台南州内 務局長が兼任することとなった。7月7日、第27 回通常総会で注目を浴びた劉明電は、嘉南大則組 合の改革案を持参して横光管理者を訪問した。劉

(15)

日本植民地期台湾における「水の支配」と抵抗一嘉南大訓を事例として一 269

明電の意見は、国庫の借入金を放棄すること、日 本勧業銀行の借入金を低利借換えにすること、事 務費、徴収費の節約と職員の2割を整理し、3割 を減棒をすることであった。以上の整理案を断行 し、特別水租を16円から8円に、維持費を8円か ら6円に下げることができれば、水租の滞納問題 は消滅すると主張した。横光管理者と石井理事は 劉明電の意見を三時間半熱心に傾聴した112。劉明 電の要求は台湾問題研究会の『嘉南大訓問題』で 提示された「農民(組合員)の要求」113と類似す る。しかし劉明電は、「農民(組合員)の要求」

の四番目にあった三年輪作の件には一切触れず交 渉に当っている。

 嘉南大訓組合は7月中に、事務所を嘉義の独立 した建物から台南州庁内へ移転する。そして約 400名の職員のうち、約100名の淘汰を実施する方 針を発表した114。

 一方、地主会は、8月10日に劉清風、鄭漢が台 南州庁を訪問、石井理事に面会し、留守の横光管 理者に陳情書を渡した。劉清風と鄭漢は「第二項 ノ議員」林文樹を加えて台北へ向かい、翌日、総 督府各担当局を訪問、意見交換を行い、太田総督

と木下長官に陳情書を提出した115。

 嘉南大訓組合は総督府との折衝により200万円 の低利資金融通を誘致した116。そして、9月20日 納期の特別水租は、「甲」16円80銭「乙」21円70 銭が、「甲」8円「乙」10円に減額された。ここ で、水租問題は一応の決着がつけられたといえる。

 32年1月10日、林文樹、劉明電ら組合会議員の 有志十数名は、嘉南大訓問題研究会を設立した。

警察はこれを、嘉南大訓組合の機関を破壊するも のだと見なし、組合会議員の加入に干渉を加え、

発会式への出席を妨げた。劉明電は郡部警察が干 渉した証拠を捜し、台南州当局に抗議した117。

 3月31日、嘉南大訓組合第29回通常総会が開か れた。劉明電は借入金利率の低下状態について質 問を行った。それから三年輪作と塩分地について の質問がつづいた。王聯貴と黄振隆は嘉南大訓の 不当を意見しようとしたが、議長は発言を中止さ せた。その後、議事は全て原案可決し、平穏に散

会した118。

 9月30日、嘉南大訓組合会議員選挙が行われた。

台湾民衆党から分裂した台湾地方自治連盟は、

「民衆の自治を訓練する機会」だとして、多くの 弁士を嘉南大馴灌概区域に派遣し、講演会を挙行、

小冊子「嘉南大馴議員選翠問題」3万冊を配布し た。しかし、投票日前日、台中市の台湾地方自治 連盟本部事務所が警察の捜査に入られ、「嘉南大 馴議員選皐問題」数百冊が押収された119。台湾地 方自治連盟結成の提唱者は、「嘉南大訓問題』の 編集をした楊肇嘉である。

 第30回以後の通常総会は、依然として三年輪作 反対の声は上がるものの、平穏に原案決議を繰り 返していった。

 しかし、水租問題解決の立役者、劉明電は35年 1月21日、警察に検束される。ヒースプラウ事件 あるいは柳営事件と呼ばれるものである。1月12

日、新化郡柳営庄の部落民、大人十数名、子供約 20名が鎌を持って、塩水港製糖会社のヒースプラ ウ機械を取り巻いた。警察が現場に急行し、8名 を逮捕した。取調べにより、事件は地主である劉 明電が示唆したことが判明した。劉明電は台湾弁 護士協会の支持を得て、裁判を起こすことを決意 し、救援依頼書を持参して、台北に向ったところ を逮捕された。当局は、22日に小作人を釈放、23 日には劉明電本人を釈放した12°。劉明電は自身が 塩水港製糖会社の株主であり、父と兄は親日派で あるにもかかわらず、裁判闘争を続行した121。

 かつては工事費徴収組織とされた実行小組合役 員会も、組合会以外の交渉の場として活用される ようになる。36年、『台湾の水利』に掲載された 論文には、組合員に水利事業について充分理解さ せ指導するためには、実行小組合役員会と小組合 員会を開催し、水利・農事方面の講和会、懇談会、

座談会を開催することを第一に挙げている。それ は以下に見るように、これらの会が一方的な指導 に終わらない可能性を保持していた。

  特に座談会の如き組合員の希望なり意見なり   を充分述べさせ、且つ当方の意見をも述べ得   る機会を与へる事は非常にその効果顕著なる

参照

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