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フィールディングとヘンデルの接点

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フィールディングとヘンデルの接点

著者 能口 盾彦

雑誌名 言語文化

巻 7

号 1

ページ 57‑81

発行年 2004‑08‑20

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004694

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フィールディングとヘンデルの接点

能 口 盾 彦

フィールディング(Henry  Fielding<1707-54>)とヘンデル(George  Frideric Handel<1685-1759>) は、若干の年齢差が見られるものの、同時代を共にイギ リスで過ごした。互いに面識を有したか否かの確かな証しは容易に見出せな いが、フィールディングの著作からヘンデルへの高い評価が窺える。1 イタ リア・オペラの旗手としてヘンデルは異国で音楽的才能を開花させ、一時の 挫折を被ったものの、名声を勝ち得てウェストミンスター寺院に埋葬される までとなった。交際の広さを誇ったヘンデルではあったが、私信等の資料が あまり残されておらず、生涯独身の謎多き人物と目されている。一方のフィ ールディングは文壇に確固たる地位を占めつつ、ミドルセックス州を管轄す る治安判事を務める等、法曹界でも活躍するが、転地療養先のリスボンで客 死して同地のイギリス人墓地に埋葬された。志を違えた両者の接点は、その 多芸さ、機を見るに敏な言動、臨機応変さ等に集約される処世術に示唆され るだろうが、論証に当って伝記に範を求めるつもりはない。

フィールディングとヘンデルの生涯をめぐって耳目を引くのは、二人が共 にハノウヴァ王朝支持者として認知された点であろう。異分野で同時代を生 き抜いたフィールディングとヘンデルの活躍の陰に、支持の度合いに温度差 こ そ あ れ 、 同 王 朝 と の 浅 か ら ぬ 因 縁 が 指 摘 さ れ る 。 ア ン 女 王 ( 1 6 6 5 - 1 7 1 4 < 1 7 0 2 - 1 4 > ) が 1 7 1 4 年 8 月 1 日 に 他 界 し 、 ジ ェ イ ム ズ 一 世 ( 1 5 6 6 - 1625<1603-25>)の曾孫であるハノウヴァ選帝侯ゲオルグ・ルートヴィッヒ (Georg  Ludwig)が1714年9月にイギリス国王ジョージ一世(George  I  <1660- 1727,1714-27>)として即位した。ハノウヴァ王朝設立をめぐる王位継承問題

「言語文化」7-1:57−81ページ 2004.

同志社大学言語文化学会©能口盾彦

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は、イギリス国教会とローマ・カトリック教会の覇権争いを引き起こし、波 紋を呼んだ事は想像に難くない。政界ではホィッグとトーリーの二大政党に よる政権争いが繰り返されるも、ウォルポール(Robert  Walpole<1676-1745>) の登場によりホィッグ党主導の内外政策が推し進められた。2 こうした波乱 含みの時代をフィールディングとヘンデルはイングランドを主舞台として活 躍したのである。

音楽とて政治と無関係ではなかった。18世紀前半から中期にかけてのイギ リス音楽界は、前世紀末のパーセル(Henry  Purcell<1658?-95>)の死によって 暗黒期に入ったと言われている。単に傑出した指導者を欠いたでは大方の理 解を得られず、17世紀半ばの清教徒革命とその後の共和制の影響を語らずし て、フィールディングの時代の音楽界は言い尽くせない。共和制時代にあっ て王室礼拝堂は閉鎖の憂き目にあい、王室楽団は解散させられ、一時期、劇 場も門戸を閉ざされた。しかし何故かコンサートは禁じられなかったので、

社会各層で音楽鑑賞が楽しまれた。一シリングの入場料で誰もが楽しめるプ ロムナード・コンサートが盛んに行われ、貴族以外の階層、特に新興の中産 階級も音楽の楽しみを享受するまでになった。1727年2月20日にイギリス国 籍を得たヘンデルも、イギリス王室のための祝祭音楽以外にも数々のプロム ナード・コンサート作品を発表している。一方、王室楽団の解散により職を 失ったプロの音楽家たちは富裕な市民に音楽を伝授して糊口を凌いだ。こう して音楽が市民生活に浸透していった事は、世界最初の音楽会の新聞広告が 1672年の「ロンドン・ギャゼット」紙(The London Gazette)に掲載されたこと からも窺える。3 18世紀前半のイギリス音楽界の現状に満たされぬ市民の存 在と経済的繁栄による資本の蓄積が外国音楽、特にイタリア・オペラを受け 入れる余裕を生ぜしめた。詩や演劇を誇る文学と比べ、イギリスの音楽界の 窮状がヘンデルを許容する余地を生んだ。即ち、六十万都市ロンドンはパー セル亡き後、音楽家に恵まれなかったからこそ、優れた音楽家を渇望した次 第である。音楽愛好家が多く、作曲家や演奏家に支払われる報酬が高いこと もヘンデル招致に大いに幸いした。

18世紀半ばにおけるイギリス国教或いは非国教各派、いずれの教会におい てもメソジスト運動の影響を受けて賛美歌の役割が重視されたことも、ヘン

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デルの後半生を縁取るオラトリオ(Oratorio)(聖譚せいたん曲<宗教的題材による大 規模な叙事的楽曲>)の成功へと結びついた。イギリス音楽界の最も土着的 な要素たる国教の合奏音楽が存続していた為とする意見もある。4 さらにブ ルーメ(Friedrich  Blume)に依ると、18世紀中期のドイツ音楽の盛況がパリや ロンドンの出版界を育成し、ウィーンのアルタリア、マインツのショット、

パリのプレイエル、ロンドンのクレメンティ、アムステルダムのフンメルと いった後世の大出版社、短命に終わったがパリのアンボーや、ロンドンのパ ーチャル、フォースター、ロングマン&ブロドリップ等の出版社の出現を促 したとある。5

その間にあってイギリスの文人たちが多方面で活躍を呈した事は、デフォ ー(Daniel  Defoe<1660-1731>)やスウィフト(Jonathan  Swift<1667-1745>)にジョ ンソン博士(Samuel  Johnson<1709-84>)等を挙げるまでもないだろう。フィー ルディングやヘンデルも例に漏れない。但し、生業とは別に他方面での活躍 は読者や観客層の脆弱さの裏返しともとれる。読者層や観客層の飛躍的拡大 が待たれる18世紀初期から中期にあって、貴族の没落や経済力を有する中産 階級の台頭は見られはしたが、文人や音楽家にとってパトロンの存在は未だ 無視できなかった。特に音楽家の処遇はパトロンに左右されがちで、オペラ 公演の成功はパトロン抜きでは覚束無かった。フィールディングが献呈の辞 を自著に差し挟むのも単なる儀礼に止まらず、6 治安判事への任用もイート ン校時代の友人であるリトルトン(George  Lyttelton)等との政界との繋がり抜 きでは絵餅に帰した事だろう。7 ヘンデルが異国で縦横に活躍できたのも、

ジョージ一世、二世の上旨を始めとしてバーリントン伯爵(Richard  Boyle, Earl  of  Burlington)等の王侯貴族との誼抜きでは不可能でなかったか。8 本論 ではフィールディングとヘンデルとの繋がりを例証し、その因果関係を解き 明かしたい。その際、ヘンデルがフィールディングに如何に対応したかでは なく、フィールディングに軸足を置いた論証になろうことは論者の守備範囲 から致し方ない。

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I

教養の一端としての音楽はイギリスの上・中流社会の嗜みであったが、フ ィールディングと音楽の接点は中々見出し難い。幼くして母を亡くし、母方 の祖母の支援があったとはいえ、祖母の死と共に援助が滞った事は申すまで もない。フィールディングの父エドモンドは『アミーリア』でのヒロインの 自堕落な夫のモデルとされ、彼の退役軍人恩給では子弟の音楽教育等ままな らなかった事は想像に難くない。特に再婚後の父からの支援など望めそうに なかった。9 イートン校を経て一時大陸のライデン大学(1728年3月から 1729年8月)に籍を置いた事もあったが、1730年からロンドンの演劇界に本 格的に乗り出したフィールディングは、1737年6月の「劇場封鎖令」(The Licensing  Act)までに二十余編の笑劇(farce)を上梓した。その中には喜歌劇等 をまじえ、当時のオペラ事情を見据えた音楽的効果を備えた劇作も少なくな い。楽器演奏に家庭環境は不可欠だが、音楽的素地は見聞でも十分養い得る 希有な実証例と申せよう。後にふれるフィールディングの劇作『グラブ街オ ペラ』(The Grub Street Opera)中の歌“The Roast Beef of Old England”はとりわ け好評で、長年に渡って幕間に流された事を指摘してその証としたい。10

その音楽的才覚をフィールディングの劇作の数々に辿ってみたい。劇作家 フィールディングにとってここでもライバルの出現が幸いした。バラード・

オペラの典型として、ゲイ(John Gay<1685-1732>)の台本にベルリン生まれの 作曲家ペプシュ(Johann Christopher Pepusch <1667-1752>)が曲をそえたイギリ ス版オペラ『乞食オペラ』(The Beggar’s Opera)が、1728年1月にリンカン ズ・イン・フィールド座(Lincoln’s Inn Fields)で上演されて長期興行の口火を 切った。フィールディングはこれを模して、散文会話にヘンデル流歌風の歌 を多数挿入した三幕劇『グラブ街オペラ』を 1731年に発表した。同作品は 数あるバラード・オペラの中でも、音楽的に最も満足ゆくものとされ、11 フ ィールディングが試みた最初の政治諷刺で同年春に発表された『ウェール ズ・オペラ』(The Welsh Opera)の改訂版である。次いで富籤をめぐる悲哀を 寸劇風の喜歌劇に仕立て上げた作品『富籤』(The Lottery)が1733年に日の目

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をみた。翌年には『小間使の陰謀』(The Intrigue Chambermaid)が、増補版

『作者の笑劇』(The Author’s Farce)の二幕物の添え物喜歌劇として上演され た。賢明な小間使レティスが機知を巡らす笑劇で、名女優クライブ(Kitty Clive<1711-85>)が演じた。1737年初頭には『エウリディケ、又の名恐妻魔王』

(Eurydice; or The Devil Henpeck’d)がドリュアリ・レイン座(The Theatre Royal, Drury Lane)で上演された。音楽の功徳で冥途におもむくオルフェウスが、亡 き妻のエウリディケを連れ戻すギリシャ神話を基に、今様に書き改めた笑劇 的喜歌劇である。オルフェウスは当時のロンドンで人気絶頂のイタリア・オ ペラ歌手をもじったと言われている。『都に出たルーシー』(Miss Lucy in Town)  の創作年代は不詳だが、1735年の『知恵を教えられた老人』(The Old Man taught Wisdom)の続編の喜歌劇として1742年にドリュアリ・レイン座で 上演され、同年5月に刊行された。因みにヘンデルの二番目のオラトリオで ある「デボラ」(Deborah)のタイトルが、フィールディングの一幕劇の笑劇

『デボラ』(Deborah: or, A Wife for You All<6 April, 1733 at Drury>)に登用され ている。12 『エウリディケ、又の名恐妻魔王』発表の後、フィールディング の『1736年の歴史的記録』(The Historical Register for the Year 1736)と題され る政治諷刺劇は物議を醸し、1737年6月の劇場封鎖令施行に至り、フィール ディングの劇作家の道は絶たれた。その後ミドル・テンプルにて法律を修め た後、フィールディングは治安判事として法曹界に籍を占めつつ、小説家と して文壇に身を置く事となった。

フィールディングと同年代の小説家と音楽の接点は如何なるものであった か、簡単にヘンデルと絡めて論じてみたい。フィールディングの好敵手であ ったリチャードソン(Samuel  Richardson)は、ヘンデルと親交を交えたとは言 えないまでも見知った間柄であったらしい。13 しかもそれは51歳の時に公 表した『パミラ』(Pamela, or Virtue Rewarded)で市井の一商人から文壇の寵 児となって後の事であった。1689年にダーヴィシャの指物師の息子として生 まれたリチャードソンは、17歳の時にロンドンの印刷業者ジョン・ワイルド

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(John  Wild)の許に見習い奉公に入った。7年の奉公期間の後、同所にて植字 や校正に精を出し、1719年には親方から独立してフリート街に店舗を設けた。

彼の実直な仕事振りからイギリス国会下院議事録を始めとしてThe Daily JournalThe Daily Gazetteer等の印刷を請け負う順風満帆の事業展開から、

ロンドンの有力印刷業者に登りつめた。幼き頃から代筆を依頼されるほどの 筆まめさが、リチャードソンをしてイギリスの書簡体小説の旗手としての地 位を確立させた。しかしながらその生い立ちや家業から、彼に音楽的素養を 窺い知る事は難しい。『パミラ』のヒロインが小間使いとあっては、たとえ 文や刺繍の心得を体得しても限界が付きまとう。次作の『クラリッサ』

(Clarissa)でヒロインの暮らし向きをリチャードソンが筆にするにも、上つ 方のそれは見聞に頼る以外に策は残されていなかった。音楽との関わりを記 す箇所にしても、リチャードソン最期の大作『サー・チャールズ・グランデ ィソン』(Sir Charles Grandison)の第1巻第22書簡の一節にヘンデルの名を見 出す程度である。

Strollers do you call them? Ha, ha, ha, hah! –Princely strollers, as we reward them! And as to composers, have we not Handel? There you say something, Sir Hargrave. But you have but one Handel in England. They have several in Italy. . .Handel, Sir Hargrave, is not an Englishman. . .14

ヨークの片田舎の牧師スターン(Laurence  Sterne<1713-65>)が『トリストラ ム・シャンディ』(Tristram Shandy)で一躍脚光を浴びる様になったのは、同 作品が出版された1759年以降のことであった。ヘンデルが同年に亡くなって いる事から、二人が親交を持ったとは考えにくい。衝撃的デビューを果たし たスターンが翌年3月にヨークから上京した際に親交を得た歌手のフォーマ ンテル(Catherine  Fourmantel)宛ての手紙の中で、今晩ヘンデルのオラトリオ に行く旨を告げた興味深い書簡が残されている。15 ケンブリッジ大学ジー ザス学寮で文学に傾注したスターンではあったが、神学を修める身から、大 学や任地でオルガン演奏や賛美歌に耳を傾けた事は想像に難くない。『セン ティメンタル・ジャーニィ』(A Sentimental Journey through France and Italy)

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で主人公ヨリック(Yorick)にパリでオペラ鑑賞に興じさせ、ミラノでマルチ ーニ(イタリアの著名な作曲家でカトリック教司祭<1706-84>)の演奏会が 取り持つF侯爵夫人とのアヴァンチュールへと発展させるのも、16 作者の感 性と無縁ではなかろう。

一方、イギリスに帰化したヘンデルのオペラ作曲家としての日々は舞台ほ ど華々しく優雅なものではなかった。転地療養ならぬカストラート発掘にイ タリアに出向いて関係者と契約交渉をしたり、イングランドに帰国してはオ ーケストラを編成する傍ら、切符捌き等に奔走したりとオペラ興行全般を管 轄する職責は厳しい限りであった。対するフィールディングも1736年春から ヘイマーケットで「小劇場」(Little  Theatre)経営に参画し、翌年の「劇場封鎖 令」によって閉鎖の憂き目を見たが、その間にあって劇作家兼劇場経営者と しての孤軍奮闘振りは、イタリア・オペラ劇団「ロイヤル音楽アカデミー」

(Royal Academy of Music)を経営するも倒産の危機に瀕するなど、波乱に富ん だヘンデルのそれを彷彿させるものがある。

中部ドイツのザクセン地方のハレ(Halle)にうまれたヘンデルは外科医の父 の遺志に従い、1702年ハレ大学で法学の勉強を始める。だが翌年にオーケス トラのヴァイオリン演奏者に任用されるとハンブルグに移住する。その後3 年余のイタリア留学の後、ヘンデルはハノウヴァ選帝侯の宮廷楽長(1710)を 務めることとなる。ところが旅先のロンドンで1711年初頭に発表した歌劇

『リナルド』(Rinaldo)が大成功をおさめて帰国するも1712年にはロンドンを 再訪し、アン女王等の恩顧を得た。ハノウヴァ帰還を先延ばしするも、アン 女王の崩御によってヘンデルは思いもよらぬ羽目を迎える次第となった。ア ン王女は自らの後継者による王位継承の可能性が消滅した為、異母弟の老僣 王(Old  Pretender,  James  Edward  Stuart)への王権委譲を目論んだとされ、事態 は予断を許さなかった。結局、ジェイムズ一世を曾祖父とするハノウヴァー 選帝侯が1714年秋に英国王ジョージ一世として即位する運びとなった。通説 では、ヘンデルはテームズ川遊覧のジョージ王の傍らに、自ら仕立てた楽団 を載せた屋形船を寄せて『水上の音楽』(Water Music)を奏じた事から、関係 修復に奏功したと言われている。興味をそそる解釈に違いないが、オラトリ オ等を輩出したヘンデルの音楽性が認められ、ジョージ一世との関係修復が

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適ったものと推断される。17

ところが1720年代の末ともなると、さしものイタリア・オペラ・ブームも 翳

かげり

をみせる様になった。その決定的契機は当時のウォルポール政権やヘン デルをも諷刺の槍玉に挙げたバラード・オペラの典型、『乞食オペラ』の成 功にあった。英語で歌われたこのイギリス版オペラは、1728年1月29日の初 演以来62回のロング・ランを続けた結果、ヘンデル率いる「ロイヤル音楽ア カデミー」は倒産の危機に瀕した。財政的に大きな痛手を被ったヘンデルで はあったが、直ちに英語によるオラトリオ作曲家に変身をはかり得たのも、

語学能力に秀でていた為であろう。1738年には『ソウル』(Saul)を、1739年 には『エジプトのイスラエル人』(Israel in Egypt)を、1741年にはオラトリオ の傑作『メサイア』(Messiah)と立続けに作品を発表している。18 『メサイア』

の初演は1742年にアイルランドのダブリンで大成功をおさめ、ロンドン公演 は翌年の事だった。オラトリオの最高峰と呼ばれる『メサイア』はロンドン のウェストミンスター寺院で1743年以降、毎年上演されている。

フィールディングと楽器の関わりで思い浮かぶ箇所は、『トム・ジョウン ズ』(Tom Jones)の中でソファイアが日ごと父のウェスタン氏の為にハプシコ ード(harpsichord)を演奏する場面であろう。彼女が一体どんな曲を弾くのか、

音楽ファンならずとも座視できないところだが、読者は作曲家や曲名に対し て関心は極めて低いのではなかろうか。脇役にすぎないウェスタン氏の趣味 と片付けられがちで、娘の奏でる音色に酔いしれる子煩悩な父親像を思い浮 かべ、音の無い音楽会に臨席する如く、大方の読者は微笑みを浮かべて頁を くるのみであろう。 ところがソファイアのハプシコード演奏の陰に、フィ ールディングは或る意趣を込めていると考えられる。

その前に18世紀前半の文学作品にしばしば登場するハプシコードとは如何 なる楽器なのか、簡単にクラヴィコード(clavichord)と比較・対照してみたい。

共に当時流行の鍵盤楽器で、クラヴィコードは鍵盤を押して金属の突起を持 ち上げ、弦を強く突き上げることで音を出す。その結果、クラヴィコードで

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は鍵盤を押す力の加減で、音の強弱を或る程度つけることが可能であった。

一方、ハプシコードはツメ状の小さな突起で弦をひっかいて鳴らしたことか ら、か細くはあるが繊細で澄み切った音が奏でられ、バロック時代にはとて も寵愛された。当時にあって或るレベル以上の家庭の子女がハプシコード演 奏に専心するのも、情操教育の一環としてであり、お嬢様育ち、毛並みの良 さの証と見なされた。例えば、『トム・ジョウンズ』第14巻第8章でトムが 下宿先のミラー夫人(Mrs.  Miller)の娘、ナンシー(Nancy)をナイチンゲイル (Nightingale)の父に推挙する件で、同嬢のハプシコード演奏を取り上げてい るのがまさにそれである。ナンシー嬢の素性の良さを訴えるトムの言葉“. . . she is indeed a most accomplished young Lady; sings admirably well, and hath a most delicate Hand at the Harpsichord.”19に、当時の社会事情が投影されている。

しかしながら、ハプシコードの繊細な音色はサロンのような狭い場所では効 果的であったが、広いコンサート・ホールには適さず、次第にピアノにとっ て代わられた。因みにピアノはメディチ家のクリストフォリによって1709年 にハプシコードが改良されて考案された。18世紀の後半にイギリスで活躍し た、大バッハ(Johann  Sebastian  Bach<1685-1750>)の末子ヨハン・クリスチャ ン・バッハ(Johann  Christian  Bach<1735-82>)が1768年に世界で初めてピア ノ ・ コ ン サ ー ト を ロ ン ド ン に て 開 催 し 、 ベ ー ト ー ヴ ェ ン (Ludwig  van Beethoven  <1770-1827>)等によって数々のピアノの名曲が生み出されて今日 に至っている。

ではフィールディングの意趣を明かすべく、『トム・ジョウンズ』第4巻 第5章の注目に値する一文、ウェスタン氏が娘のソファイアにハープシコー ドを弾かせ、ヘンデルが言及される箇所を次に引いてみたい。

It was Mr. Western’s Custom every Afternoon, as soon as he was drunk, to hear his Daughter play on the Harpsichord: for he was a great Lover of Music, and perhaps, had he lived in Town, might have passed for a Connoisseur: for he always excepted against the finest Compositions of Mr.

Handel. He never relished any Music but what was light and airy; and indeed his most favourite Tunes, were Old Sir Simon the King, St. George he

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was for England, Bobbing Joan, and some others.

His Daughter, though she was a perfect Mistress of Music, and would never willingly have played any but Handel’s, was so devoted to her Father’s Pleasure, that she learnt all those Tunes to oblige him. . . 20

『トム・ジョウンズ』では狩猟が趣味とばかりのウェスタン氏はラッパ等の 管楽器にこそ心引かれそうなものだが、実は玄人はだしの音楽通である。ウ ェスタン氏のお気に入りは、「老王サー・サイモン」であり、「イギリスの守 り神聖ジョージ」や「踊るジョウン」とあるが、一体如何なる曲なのか。朱牟 田氏によると、 「老王サー・サイモン」―以下、いずれも古いバラッド曲 とあり、2 1 ウェズリアン版『トム・ジョウンズ』の編注者は“These old tunes, especially popular during the Restoration period, are discussed in W.

Chappell, Old English Popular Music, ed. H. Ellis Wooldridge (1893), i.280-2,312;

ii. 102-4.”22と付しているのみである。文献上の解説とは別に、生の演奏を聞

いてみたいと念じるのは論者のみであろうか。

何故ウェスタン氏はヘンデルに拒否感を抱くのか、田舎郷士の反発に蓋然 性があるのか。軽快な音楽を愛するウェスタン氏がヘンデルの曲を忌避する ことが先ず考えられるが、ジャコバイトたる同氏がハノウヴァ選帝侯の宮廷 楽長であったヘンデルの経歴を問題とすると辻褄が合う。故国の宮廷楽長職 を半ば反古にしてアン女王治世下のイギリスに滞在し続けたヘンデルだが、

イギリス王室の後継問題がわが身に降りかかろうなど夢想だにしなかったで あろう。女王崩御の後、ハノウヴァ選帝侯がイギリス国王ジョージ一世とし て迎えられるに至り、人生のアイロニーを痛感するヘンデルであった。この 辺りには異論が唱えられるところで、ヘンデルは実は選帝侯がイギリス王室 に送り込んだスパイとする解釈もある。ヘンデルはジョージ一世と巧妙に関 係修復をはかるが、ジャコバイトにとっては容認できない変節と写ったに違 いない。旧領主に帰参するヘンデルの変身がジャコバイトの反発をさらに増 大させたとしても至極当然ではないか。その点でフィールディングがヘンデ ルとウェスタン氏を絡めようとしたのも肯ける。ヘンデルの名を耳にするの も汚らわしいとするウェスタン氏の拒否反応は、即断即決の同氏の行動規範

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に照らしても不具合を生じさせない。ウェスタン氏がスチュアート王朝支持 者である事は、『トム・ジョウンズ』第7巻第4章で生前のウェスタン夫人 と囲む食卓で、“to drink the King over the Water”23と盃を献じているが、当時 のジャコバイト達が海の彼方で亡命生活を送るジェイムズ二世や老僣王等を こうして偲んだ事から、同氏がジャコバイトである事は疑う余地も無い。こ のジャコバイトの流儀を同氏が実践している事から、自らの音楽趣味に反映 されて当然であろう。ハノウヴァ選帝侯とヘンデルの微妙な関係から、ヘン デルを許容してはジャコバイトの名折れとなろう。ウェスタン氏のヘンデル 嫌悪にジャコバイトとハノウヴァ王朝の縁を読者に示唆するのは、まさに理 に適った筆法と言えよう。

ウェスタン氏は、当時の反政府系新聞である「ロンドン・イーヴニング・

ポ ス ト 」 紙 (The London Evening Post)を 愛 読 す る 。 一 方 、 彼 か ら“a Presbyterian Hannoverian”24と呼ばれる妹のウェスタン女史は、『トム・ジョ ウンズ』第6巻第4章で一週三回発行の政府の公式新聞である「ギャゼット」

紙(The Gazette<1730年創刊の新聞>)を読み、内乱が終息“. . .Things look so

well in the North. . .”25に向った事を知る。ウェスタン兄妹の如く、家族間で

も王朝支持をめぐる対立が存在した旨が提示される。ウェスタン女史が懸念 する政情とは、1745年の若僣王(Prince Charles Edward Stuart, or Bonnie Prince Charlie)によるジャコバイト叛乱を指し、オールワージ氏から放追されたト ムがブリストルに向う途中、道に迷ってクエイカー教徒の案内で投宿する旅 篭で、叛乱軍討伐に出向く政府軍の一行と遭遇する件“. . .which he had no sooner done, than his Kitchen was immediately full of Gentlemen in red Coats, . . .”26 と符合する。文中の“red Coats”とは政府軍の軍服の色を示唆する。

ジャコバイトを標榜するウェスタン氏にとって、ヘンデルとハノウヴァ選 帝侯との絆は腐れ縁としても決して容認できないが、ヘンデル自身はこの事 態を如何に対処したのであろうか。ヘンデル研究家のホグウッドはイタリア 滞在中のヘンデルが老僣王との出会いを避けたという興味深い逸話を明らか にしている。

. . .‘On his arrival at Rome’, Mainwaring says, ‘he received a very friendly

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and obliging letter of invitation from Cardinal COLONNA, with a promise of a very fine picture of his Eminence. But, hearing that the Pretender was then at the Cardinal’s, he prudently declined accepting both the invitation and the picture’. It was politic not to risk his Hanoverian support by associating with Jacobites. 27

1729年にヘンデルがイタリアを訪問した目的は、ヘイマーケットのキングズ 劇場(King’s Theatre)を本拠としていた「ロイヤル音楽アカデミー」の再建をは かる為、ヴェネチアやローマでイタリア人歌手を獲得せんが為であった。上 記の逸話が物語るのは、カトリック教徒である老僣王等の保護と支援に、ロ ーマ・カトリック教会が当っていた為に生じたニアミスと言えよう。ローマ 教会の庇護下の老僣王と同席することは拙いとしたのは、処世術に長けたヘ ンデルの賢明さの証左となろう。

ヘンデルのこうした保身からも、カトリック教とイタリア及びジャコバイ トの微妙な関係が窺える。オペラ作曲家のヘンデルにとって、作曲に止まら ず、イタリア・オペラ歌手招請等、オペラ興行主としての重責が常に付きま とっていた。オペラの成功は単に観客動員に懸かり、治安悪化は禁物であっ た。特にジャコバイト叛乱による政情不安は問題で、イタリア・オペラの本 質とも相俟って重層的展開が危惧された。名誉革命以降、イギリス国民に高 まったカトリックへの反発は、対フランス及びスコットランドへの敵対感情 として一層の高揚を見た。当時の観客にとって、オペラ関係者の大部分は外 国人で、しかもカトリック教徒が大半であった事も敵愾心を一層煽あおったので はなかろうか。つまりオペラ観劇がカトリック、またジャコバイトとの色眼 鏡で見られる懸念が、1715年および1745年前後にロンドン市民の間で生じた と推測される。28 他面、ジャコバイト叛乱時には国王等の宮廷人達も身に 危険が及ぶことを懸念し、オペラ観劇などの外出を極力控えたと言う。時代 は前後するが、老僣王が最期の叛乱を指揮した折りのジョージ一世は1715年 の7月23日以降、雑踏を避けたらしい。人込に紛れる機会が増すオペラ観賞 では暗殺の危機が増す事から、王族が外出を控えたのであろう。29 この辺 りの事情は、老僣王とポーランド王女(Clementina  Sobieska)との結婚問題を

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めぐる両陣営の息を呑む王女争奪戦を見ればよく分かる。30 父の老僣王同 様、フランスの支援を得た若僣王がイギリス上陸を企てていた事は前年の 1744年から流言蜚語の類として流れていたらしく、1744-5年のオペラ公演は 不成功が予想された。実際、若僣王がスコットランドに上陸する前年の1744 年の春からヘイマーケットで興行されるオペラの興行は盛況には程遠かっ た。31 1745年7月にスコットランドに上陸し、叛乱の狼煙をあげた若僣王 軍は同年12月にはイングランドのダービー(Derby)にまで侵攻し、一時ロン ドンも浮き足立つ気配を見せた。だがスコットランド軍の撤退、政府軍の反 撃と攻守所を変え、1746年4月にはインヴァネス(Inverness)郊外のカローデ ン(Culloden)でジャコバイト軍はカンバーランド公爵率いる政府軍を前に壊 滅し、スチュアート王朝復辟は水泡に帰した。

若僣王軍がダービーから撤収したとの報を耳にしたであろうヘンデルだ が、オペラ・シーズンにも拘わらず、政府軍の勝利が宣言された翌年4月ま で公演を順延した事から、彼の慎重な姿勢が見受けられる。ヘンデルの興行 師としての機を見て敏なる性分は、世間の動静をいち早く作品に反映させた 点にも発揮されている。

. . .and Handel waited until victory was announced in April before starting on the second of what came to be a quarter of oratorios with heavily militaristic overtones: The Occasional Oratorio, Judas Maccabaeus, Joshua and Alexander Balus.32

フィールディングのウェスタン氏への言及には、ジャコバイトを揶揄すべく、

思慮を欠く軽率な言動の同氏を嘲笑する筆致に顕著に表れ、隠れジャコバイ トのパートリッジ(Partridge)に対する同様の扱いは指摘するまでもない。読 者にとってジャコバイトたるウェスタン氏が反ヘンデルに凝り固まる事自 体、首尾一貫性とは無縁な条理に適った設定ではないだろうか。

(15)

フィールディングによる音楽家の扱いで、ヘンデルの処遇が際立つ印象を 持つ読者が多いのではないか。『トム・ジョウンズ』以外にも、フィールデ ィングがヘンデルに言及した箇所が随所に見られる。ヘンデルの第二作目の オラトリオ、「デボラ」の表題を拝借した一幕劇、その名も『デボラ』をフ ィールディングが1733年に脱稿したと本論Ⅰ章で言及したが、表題のみで脚 本が残されていない事から、二十五編の劇作品には数えられていない。

1752年1月から同年11月にかけてフィールディングが主宰した新聞、『コヴ ェント・ガーデン』紙(The Covent-Garden Journal)において、フィールディン グは度々ヘンデルに賛辞を呈している。1750年代に入ると1710年に英国に登 場した頃と比べてヘンデル人気に衰退の兆しが見られたが、1752年9月16日 号で 不死のヘンデル (N.B.  I  have  no  Objection  to  the  Choruses  of  the immortal Handel.33)と定める点に、フィールディングの評価の程が分かろうと 言うもの。時は前後するが、1752年3月31日号では“When Mr. Handel first exhibited his Allegro and Penseroso, . . .”34とあり、フィールディングの関心の 程が読み取れ、同書の注によると1740年2月27日、『アレグロとペンセロッサ』

(Allegro and Penseroso)はリンカーンズ・イン・フィールド座(Lincoln’s Inn Fields Theatre)で上演されたという。35

1739年10月に時のウォルポール政権にスペイン開戦を決断させた野党のプ ロパガンダとして同年11月に発刊され、週三回発行の新聞が『チャンピオン』

紙(The Champion)で、1741年6月まで存続した。フィールディングが同紙の 1740年6月10日号に、ヘンデルの音楽歴全般への一節を記している事から、

ヘンデルへの面識が浅からぬ印象を読者に与える。

. . .A Method, which, I apprehend, had more effect on them than the enchanting Harmony of Handel’s Compositions would have produced, if that great Man had enjoyed the Use of Speech 2000 Years ago.36

(16)

フィールディングの弟分の如き友人にハリス(Thomas  Harris)がいるが、37 リ ンカーンズ・インで法律を修めて弁護士として活躍する一方、チェロの名手 であった事から、ハリスは音楽家が異郷の地で胸襟を開き得る数少ない友人 の一人となった。こうした事から、フィールディングはハリスを介してヘン デルへの認識を深めていったものと推断される。

前章に詳述した若僣王の叛乱を契機として、1745年11月に発刊されたのが

『真の愛国者』紙(The True Patriot)と名打たれた週刊紙で、その表題から示唆 されるように、イギリス国民に団結を訴えた。同紙は叛乱軍が鎮圧された 翌々月6月に33号で廃刊を迎えたが、1745年11月5日の創刊号に次なる一節 を見出す事が出来る。

. . .Shakespeare hath shared both these Fates in Poetry, and so hath Mr.

Handel in Music; so hath my Lord Coke in Law, and in Physic the great Sydenham: . . .38

各界の指導的中心人物として、シェイクスピアと並んで音楽分野でヘンデル の名前が見だされるばかりか、1746年3月4日18号ではオラトリオの回想場 面が掲載されている。

次いで1747年12月から1748年11月にかけてフィールディングが主宰した

『ジャコバイト』紙 (The Jacobite’s Journal)は『真の愛国者』紙同様に一週一 号発行で、ペラム内閣(Henry  Pelham<1695?-1754>)支持を標榜する与党系新 聞であった。同紙の1748年3月19日16号にはヘンデルへの言及が見られる。

. . . , the Opera of Lucius Verus (consisting of chosen Airs from the Compositions of Mr. Handel) will be perform’d next Saturday. Ib.]––The Lovers of Musick will forgive the postponing Signior Hasse’s Compositions, provided they are entertained with those of Mr. Handel in the mean time. . .39

さ ら に 1 7 4 1 年 1 月 に 公 に さ れ 、 1 7 4 3 年 4 月 に 出 版 さ れ た 『 雑 文 集 』 (Miscellanies)に再録された『真の偉大さについて』(Of True Greatness)の詩行

(17)

“Not to soft Lines that gently glide along,/ And vie in Sound and Sense with

Handel’s Song”40にも、ヘンデル礼賛の意を窺うことが出来る。

イギリス人音楽家を欠いた音楽不毛の時代にあって、フィールディングが なぜヘンデルに関心を示したのか、絆は如何に育まれたのか。『アミーリア』

(Amelia)には楽団を指揮するヘンデルの後ろ姿の記述(. . .Tho’ our Ladies arrived full two Hours before they saw the Back of Mr. Handel . . )41が在ることか ら、フィールディングが音楽会等でヘンデルの姿を認めたか、或いは面識を 得た程度なのか興味は尽きない。予てよりヘンデルの存在を念頭に入れたと 考えられるが、二人が実際に親交を交えたとする記録は残念ながら残されて いない。当時の慈善事業として文化人が名を連ねた「捨て子病院」(the Foundling  Hospital<スターンも1760年3月に同病院で説教を成し、ヘンデル はオルガンを寄贈している>)への貢献者リストから、二人に接見の機会が 皆無と言えないまでも、決定的会見の証しは見受けられない。42 『トム・ジ ョウンズ』脱稿の頃はヘンデルの人気は下降気味であったが、43 ヘンデル・

ファンの存在も無視しがたく、フィールディングが作品中に言及した所以で あろう。

ウェスタン氏のヘンデル嫌いを『トム・ジョウンズ』に明示する狙いは、

実在する音楽家を挿入する事によって迫真性を読者に抱かせる為であろう。

これはなにも音楽家に限定されるばかりか、フィールディングが自作に古今 東西の文人墨客、政治家や哲学者、医学者の名を挙げる箇所は枚挙にいとま が無い。メソジスト派教会創始者の一人、ホワイトフィールド(George Whitefield<1714-70>)の縁者が経営する宿屋(Tom Jones, VIII,  viii)を紹介する 件には、本論Ⅲ章でふれたクェイカー教徒同様、新興宗教批判の狙いが込め られていよう。かってのイタリア・オペラの隆盛は望めないにしても、イギ リスの音楽界を席捲したヘンデルを取り上げる事で、音楽ファンの読者の関 心をフィールディングが呼ぼうとした事は間違いなかろう。ヘンデルを絡め る事によって、先年のジャコバイトの叛乱とハノウヴァ王朝との関係を読者

(18)

に連想させるのも、臨在感を醸し出そうとする意図の表われに違いない。だ が数ある音楽家の中からフィールディングがヘンデルを特記するのも、作者 の偏愛と捉える読者も少なくない。パーセル亡き後、イギリスで傑出した音 楽家が輩出されなかったが、フィールディングが同胞の音楽家を差し置いて ヘンデルに言及するのも、ヘンデルの音楽性を高く評価した為ではなかろう か。

フィールディングが描くヒロインの音楽好きは『トム・ジョウンズ』のウ ェスタン親子に止まらない。ヘンデルのオラトリオに言及した作品として、

『アミーリア』は着目に値する。ヒロインのアミーリアはソファイア・ウェ スタン同様、ヘンデルの曲をこよなく愛している。『アミーリア』第4巻第 8章でアミーリアはオラトリオの招待44を家主のエリソン夫人(Mrs.Ellison)か ら受ける。

. . . , she being a great Lover of Music, and particularly of Mr. Handel’s Compositions. . .Tho’ our Ladies arrived full two Hours before they saw the Back of Mr. Handel, yet this Time of Expectation did not hang extremely heavy on their Hands; for besides their own Chat, they had the Company of the Gentleman, whom they found at their first Arrival in the Galery; 45

アミーリアは同夫人と同行するが、物語りの設定からしてヘンデル最初のオ ラトリオとして有名な『エステル』<Esther(1732)>に出向いたものと解釈 される。『アミーリア』の設定はヒロインの夫であるブース大尉がジブラル タル攻防戦 (『アミーリア』, III, v; XI, ii; XI, vii) で負傷の後、7年の時の経過 が背景に刻まれる事から、1733年前後と推定される。ヘイマーケットの劇場 に、開演の二時間前には着席し、二人は居合わせた男性と歓談に興する。そ こに当時の音楽会が男女の出会いの場を提供する様子が具現されている。社 交の場としての音楽会には都会の誘惑の罠が伏せられ、エリソン夫人は悪辣 貴族のお先棒を担ぐ女衒ぜげんとして、アミーリアを堕落させる役割を担う。『エ ステル』が興行されていた当時のヘイマーケット周辺はロンドン有数の歓楽 街で、催し物のはねた後の混乱は想像に難くない。其の夜、漸くにしてアミ

(19)

ーリアが我が家に帰り着いたのは真夜中で、放蕩亭主のブースは未だ帰宅し ていない。アミーリアを貴族に取り持とうとするエリソン夫人の姦計は、病 の幼子をヒロインが看護する事態に頓挫させられる。我が子を想う母心が彼 女の貞操の危機を救うのである。次に仕組まれる仮面舞踏会への誘いもこの 類で、ヒロインの試練は続く。46 貞淑な夫人の鬼門ともなり兼ねない夜の 外出は数多の危険を覚悟せねばならぬのは、ホガーズの版画等が示す如くで ある。社交界の溜まり場としての音楽会の位置づけをはかる一方、フィール ディングはヒロイン等の身の処し方に教訓性を織り込むべく、アミーリアの 貞操をめぐる社会悪をリアルに再現している。

それでは何故ヘンデルのオラトリオなのか。アミーリアの夜の外出を正当 化する為には、ヘンデル以外の音楽会では観客動員数や人気の点で不具合が 生じる。当時のイギリスでオラトリオに匹敵する興行プログラムは数えるに 事欠き、近時の催し物としてはジョン・ゲイの『乞食オペラ』のみであった が、その名の如く煌びやかな雰囲気に欠ける事は否めない。観客が集う華や いだ賑わいが不可欠で、さればこそヒロインの臨席は読者も納得する範疇と なろう。劇場内部も喧騒と無縁ではない。『トム・ジョウンズ』(第16巻第5 章)でフィールディングは劇中劇の手法を採択し、トムとパートリッジは

『ハムレット』(Hamlet)を観劇する。その際のパートリッジの珍妙な演劇批 評が周囲の観客の笑いを誘うが、当時の芝居見物の有様を垣間見る事が出来 よう。

Thus ended the Adventure at the playhouse; where Partridge had afforded great Mirth, not only to Jones and Mrs. Miller, but to all who sat within hearing, who were more attentive to what he said, than to any Thing that passed on the Stage. 47

芝居はそっちのけで雑談や飲食に興じる観客、はてはトランプに夢中になる 輩、野次が飛び交う喧騒とした芝居小屋風景は、決して当時は珍しくなく、

王政復古期以降の観劇事情は概ねこうした状況下にあった。こうした事はオ ペラ鑑賞も同様ではなかったか。ましてイタリア語でのオペラ上演ではなお

(20)

更の事であったろう。かくしてイタリア語を解せずとも、貞淑で信心深きア ミーリアにとってオラトリオは最適の催し物となる。

イギリス人音楽家を欠いた18世紀前半から後半にかけて、いわば音楽不毛 の時代にあって、フィールディングはなぜヘンデルに心引かれたのか。これ まで指摘してきたように、彼の著作にはヘンデル礼賛の箇所が少なからず見 受けられるが、語句を文字どおりに解釈してよいものか、即断は禁物だ。そ の行間からフィールディングはオペラ作曲家のヘンデルよりむしろオラトリ オ作曲家ヘンデルに愛着を抱いたものと推定される。イギリス国教会広教会 派に帰依しているフィールディングの信条48に照らして、少なからぬ共感を 覚えたに違いない。オペラへの反発は、アディソン(Joseph  Addison<1672- 1719>)の『スペクテイター』紙(The Spectator)上(特に第4、5号)でのこ とだが、またポウプ(Alexander  Pope<1688-1744>)やゲイ程に鮮明ではなかっ たものの、ヘンデルの才能評価とは別に抱いていたと定めても良いのではな いか。ヘンデルの音楽家としての類稀な才能を容認したとはいえ、ドイツ人 が束ねるイタリア人達のイタリア語でのオペラを有り難がる似非音楽ファン に対して、フィールディングは内心忸怩たるものが在ったのあろう。その思 いは註20に挙げておいた一節“. . had he (Mr.Western) lived in Town, might have

passed for a Connoisseur”に、都会のオペラ・ファンへの皮肉、嘲弄の意が巧

妙に込められているのではないか。オラトリオはイタリア・オペラと異なり、

フル・オーケストラにて英語で歌われる場合が多く、母語での興行が人気に 一層の拍車を掛けた。その結果、娯楽として当時の市民社会にオラトリオは 広く認知され、恒久的行事と化す社会現象まで生んだ。

フィールディングは一年余りヘイマーケットにて「小劇場」経営に当った が、その経験からオペラをライバル視せざるを得なかったのではないか。敵 愾心の類と言えるかもしれない。こうした情念がアミーリアをしてイタリ ア・オペラでなくオラトリオに向かわしめたのではあるまいか。そこにフィ ールディングの対オペラ観がはからずも吐露されたと言える。フィールディ ングの音楽的素養がヒロインと音楽の接点を見出したと定めるより、市民生 活での音楽との関わりを常に意識していたフィールディングは、自らの小説 の中で再現をはかり、読者との共感・連帯を醸成せんとした。ハノヴァリア

(21)

ンであったフィールディングは音楽家ヘンデルの称賛に止まらず、音楽会を 取り巻く社会情勢を諷刺する事にも追求の筆勢を緩めず、ジャコバイトの叛 乱史を念頭に据えてウェスタン氏とヘンデルが代表する虚実の世界を提示す る事により、巧みに時事問題を読者に喚起することも忘れることはなかった。

1 ヘンデルをフィールディングが如何に評価しているかを示唆する箇所として、

『トム・ジョウンズ』第4巻第2章の冒頭でのソファイア登場が象徴的で、擬古 典的に陳述されている。

So charming may she now appear; and you the feather’d Choristers of Nature, whose sweetest Notes not even Handel can excel, tune your melodious Throats, to celebrate her Appearance. (Henry Fielding, The History of Tom Jones, A Foundling, ed. Fredson Bowers, The Wesleyan Edition of the Works of Henry Fielding <Middletown, Connecticut: Wesleyan Univ. Press, 1983>, 154-5.)

数ある作曲家を排して、先妻シャロッテの面影をおびたヒロインの登場にヘンデ ルを例証する文章表現から、フィールディングのヘンデル評価は明白であろう。

2 拙稿、「ウォルポールとワイルドーフィールディングの『大盗ジョナサン・ワ イルド傳』を中心に」『十八世紀イギリス文学研究』、日本ジョンソン協会編(東 京:開拓社、2002年)、182-6頁。

3 服部幸三監修、森本真由美著、『三日でわかるクラシック音楽』(東京:ダイヤ モンド社、2003年)、58頁。

4 ジュリアン・ラシュトン著、前田直哉訳、『古典派音楽小史』(東京:音楽之友 社、1995年)、 168頁。

5 フリードリヒ・ブルーメ著、角倉一朗・大崎滋生訳、『古典派の音楽』(東京:

白水社、1992年)、38頁。

6『ジョウゼフ・アンドリューズ』には献呈の辞は添えられていないが、『トム・

ジョウンズ』の献呈の辞はオールワージーのモデルとされ、ペラム内閣では大蔵 大臣を務めたリトルトン宛てであり、『アミーリア』の献呈の辞は郵便配送と石 材事業で財を成したバースの財界人アレン(Ralph  Allen)に宛てられたものである。

他の有力パトロンにはベッドフォード公爵(John Russell, Duke of Bedford)の名が挙 げられ、治安判事の資格取得に果たした公爵の支援は大である。

Cf. Homes Dudden, Henry Fielding: His Life, Works, and Times (Oxford: Clarendon Press, 1852), 1: 577-8.

(22)

7Ronald Paulson, The Life of Henry Fielding: A Critical Biography (Oxford: Blackwell, 2000), 265-7.

8Christopher Hogwood, Handel (New York: Thomas and Hudson Inc., 1984), 67.

9Wilbur L. Cross, The History of Henry Fielding (New York: Russell & Russell Inc., 1963), 1: 41-73; Martin C. Battestin with Ruthe R. Battestin, Henry Fielding: A Life (London: Routledge, 1989), 13-52: Homes Dudden, Henry Fielding, 1: 7-15.

10Martin C. Battestin with Ruthe R. Battestin, Henry Fielding: A Life, 113-4.

11Martin C. Battestin with Ruthe R. Battestin, Henry Fielding: A Life, 113.

12Homes Dudden, Henry Fielding, 1: 122.

13Duncan Eaves and Ben Kimpel, Samuel Richardson: A Biography (Oxford: Clarendon Press, 1971), 350.

14Samuel Richardson, The History of Sir Charles Grandison, ed. Jocelyn Harris (London:

Oxford Univ. Press, 1972), 1: 106.

15Arthur H. Cash, Laurence Sterne: the later Years (London: Routledge, 1992), 13.

16Laurence Sterne, A Sentimental Journey through France and Italy, the Works of Sterne (New York: AMS Press Inc., 1970), 3: 201-3.

17 丸本隆編著『オペラの18世紀』(東京:彩流社、2003年)、118-9頁。但しヘンデ ルにはその旨の内示が既に伝えられており、音楽性云々以前とする説も在る。

18 ハロルド・ショーンバーグ著、亀井旭・玉木裕訳、『大作曲家の生涯』(東京:

共同通信社、1977年)、63-4頁。

19Tom Jones, 773.

20Tom Jones, 169. 

21 朱牟田夏雄訳『トム・ジョウンズ』(東京:岩波書店、1975年)、第1巻295頁。

22Tom Jones, 169 n.

23Tom Jones, 338.

24Tom Jones, 341.

25Tom Jones, 285.

26Tom Jones, 366.

27Handel, 91-2.

28 ジャコバイトの叛乱史で特筆されるのは1715年と1745年の老僣王と若僣王がそ れぞれ関与した叛乱であろう。1715年の秋にマー伯爵(Earl  of  Mar)等のスコット ランド貴族を中心とした叛乱軍はイングランド北西部にまで南進したが、プレス トンの戦いで政府軍に破れ、老僣王の王権奪回は果たされなかった。今一つが 1745年の若僣王の叛乱であった。

29 Cf. Handel, 70.

30 Frank McLynn, Charles Edward Stuart(Oxford: Oxford Univ. Press, 1991), 3-4.

(23)

31Handel, 195.

32Handel, 206.

33Henry Fielding, The Covent Garden Journal and A Plan of the Universal Register- Office, ed. Bertrand A. Goldgar, The Wesleyan Edition of the Works of Henry Fielding (Middletown, Connecticut: Wesleyan Univ. Press, 1988), 334.

34The Covent Garden Journal and A Plan of the Universal Register-Office, 168. 

35The Covent Garden Journal and A Plan of the Universal Register-Office, 168 n.

36 Henry Fielding, Contributions to The Champion and Related Writings,ed. W.B. Coley, The Wesleyan Edition of the Works of Henry Fielding(Oxford:  Oxford  Univ.  Press, 2003), 365. 

37 フィールディングがハリス一家と親交を有する様になったのは、クラドック嬢 (Charlotte  Cradock)への求婚時代(1733-4)にさかのぼる。クラドック家の隣人がハ リス家であったことから、兄のジェイムズと誼を通じ、弟トマスを介してヘンデ ルの人柄を知る事となったらしい。事実、ヘンデルはソールズベリーにあるハリ ス家をしばしば訪ねていたらしく、その間の動静をフィールディングは漏れ聞き、

認識を深めたものと考えられる。

Cf. Martin C. Battestin and Clive T. Probyn, eds. The Correspondence of Henry Fielding and Sarah Fielding (Oxford: Clarendon Press, 1993), 11-5.

38Henry Fielding, The True Patriot and Related Writings, ed. W.B. Coley, The Wesleyan Edition of the Works of Henry Fielding (Middletown, Connecticut: Wesleyan Univ. Press, 1987), 104-5.

39Henry Fielding, The Jacobite’s Journal and Related Writings, ed. W.B. Coley, The Wesleyan Edition of the Works of Henry Fielding (Middletown, Connecticut: Wesleyan Univ. Press, 1988), 463.

40Henry Fielding, Miscellanies, ed. Henry K. Miller, The Wesleyan Edition of the Works of Henry Fielding (Middletown, Connecticut: Wesleyan Univ. Press, 1972), 1:27.

41Henry Fielding, Amelia, ed. Martin Battestin, The Wesleyan Edition of the Works of Henry Fielding (Oxford: Clarendon Press, 1983), 189.

42The Covent Garden Journal and A Plan of the Universal Register-Office, 168; Handel, 217; Arthur H. Cash, Laurence Sterne: the later Years, 95-8.

43 ゲイやアディソン等の文人を始め、ブラウン准男爵夫人(Lady Margaret Brown)を 中心とするヘンデル・オペラ反対者も少なくなかった。

Cf. Martin C. Battestin and Clive T. Probyn, eds. The Correspondence of Henry Fielding and Sarah Fielding, 38.

44 オラトリオの代表的作品である『メサイア』とは、独唱・合唱・管弦楽のため の宗教的ドラマティックな物語のことで、演奏会場や教会などで舞台装置や衣装 無しで上演される。「ハレルヤ・コーラス」等に代表される壮麗な合唱技法が特色

(24)

である。初期のオラトリオは宗教オペラの性格が強く、衣装や舞台装置を伴った。

参照:礒山雅『バロック音楽』(東京:日本放送出版協会、1989年)、126-7頁。

45Amelia, 188-9.

46 アミーリアの夫ブースの借金立替えを策して、ジャマイカへの駐屯話を持ち掛 け、夫不在の間に人妻を凌辱せんとするジェイムズ大佐(Colonel  James)は、ヘイ マーケットで催される仮面舞踏会にアミーリアを誘うが、友人のベネット夫人 (Mrs. Bennet)の機転でヒロインは危うく難を逃れる。

47Tom Jones, 857.

48 拙稿、「フィールディングの宗旨とその背景」『同志社大学英語英文学研究』68

(同志社大学人文学会、1997)

Of Fielding’s Treatments of Handel

Tatehiko NOGUCHI

Key words:Fielding, Handel, Jacobite, Oratorio

As a Hanoverian, Henry Fielding might feel a kinship with George Handel who used to be the head of court composer of the Elector of Hanover, Georg Ludwig, and settled in England to become a leading German-born composer of operas and oratorios in Britain. Whether Fielding gained acquaintance with Handel during his life time or not has not been clearly substantiated by anecdotal biographies. Before examining the personal contact of Fielding and Handel, the views of Fielding about Handel’s contribution to British music is investigated. According to the letters sent by Fielding to James Harris, Fielding’s old acquaintance, it may be suggested that Fielding, forming a friendship with Thomas Harris, James’ younger brother, who was one of Handel’s closest friends, could find new images of Handel in what he secretly observed in the London

(25)

society.

As regards not a few passages of Fielding, he is inclined to highly evaluate the works of Handel. In viewing the facts surveyed in the music tastes of the heroines in Tom Jones and Amelia, readers can ascertain that they are lovers of Handel’s music. As for Fielding’s high evaluation of Handel, it is shown repeatedly; the first number of The True Patriot, weekly newspaper edited by Fielding, says “. . . Shakespeare hath shared both these Fates in Poetry, and so hath Mr. Handel in Music, so hath my Lord Coke in law, . . .” and in The Covent-Garden Journal, on 16 September 1752, he announces that “I have no Objection to the Choruses of the immortal Handel.” Judged from these passages, it can clearly be concluded how highly Fielding values and compliments Handel.

One of the most interesting episodes involving Handel in the works of Fielding is that as an ignorant country squire in Tom Jones, Mr. Western is a great lover of music except Handel’s, while his daughter Sophia loves Handel so passionately that she will not willingly play other composers’

music on her harpsichord. The reason why Mr. Western dislikes any compositions of Handel at all is that Handel kept in contact with the Hanoverian King, George I and II, and Mr. Western as a Jacobite, a supporter of the Stuarts after the Glorious Revolution of 1688. On account of the Jacobite rebellions in 1715 and 1745 by the old pretender and the young pretender to the throne respectively, and of the popular prejudice against the performers who were mostly Roman Catholics, it was impossible for Handel to manage to run an Italian opera at Haymarket in London. As a Hanoverian and an Anglican, Fielding demonstrated his opposition to the Jacobites by making Mr. Western a ridiculous squire, one violently opposed to anything related to Handel.

As for social gatherings among the bourgeoisie in the middle of eighteenth century England, oratorios were much more popular than Italian opera, because oratorios were sung not in Italian but in English by chorus

(26)

and soloists to the accompaniment of a full orchestra, but without action and the usual operatic costumes and scenery. It is possible to persuade the readers to accept Amelia as a lover of Handel’s compositions and to let the virtuous heroine enjoy not Italian opera but Handel’s Oratorio. There may be considerable reason in how Fielding draws his heroine, because Oratorios are known to be so religious as to project the image of a latitudinarian Fielding. In regards to opera, Dramatist Fielding, in rivalry with Handel, and having once run “Little Theatre” at Haymarket in the mid- 1730s, satirically wrote Deborah whose title was borrowed from that of Handel as well as Grub-Street Opera revised later in Welsh Opera. To write an effective satire against the Stuart supporters and London opera audience in characterizing Mr. Western as Handel’s rival and a lover of music, Fielding draws him as a Jacobite and a connoisseur of music.

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