著者 井上 敦
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 53
ページ 12‑34
発行年 2000‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011378
対外強硬論は、外交問題が紛糾するたびに相手国を激しく非難し、政府に外交的譲歩をしないよう迫り、譲歩がなされればそれを材料として政府を攻撃するという議論であり、日本近代を通じて、いわゆる政界のみならず、新聞を中心とするマスメディアにもしばしば現れた。政府の立場としては、相手国に対する配慮からも、また政権維持の観点からも、対外強硬論に対して製肘を加える必要があり、そのために様々な策がとられた。この対外強硬論の抑制が極めて困難だとされていたのが、講和の直後である。戦時にあっては平時と異なり、政府自身が相手国を非難攻撃し、敵偏心を煽り、また過大な期待を与えて、国民に戦争 はじめに 法政史学第五十三号
一一一国干渉前後の言論統制の一端
(1)への協力を求めなければならない。‐しかし講和となると、どうしても相手国との妥協が必要となってくる。そうなると、それまで文字通り「血税」を負担してきた国民の間には不満が出てくる。マスメディアもそれをクローズアップするから、対外強硬論の圧力は通常より高まらざるを得ない。一方政府側は、それまでの「敵」との妥協を正当化しなければならないので、説得力は落ちる。こうしたことから、ある程度の「騒動」はやむを得ない、という考え方も(2)あった。明治二八年の日清講和は、多額の賠償金と領土割譲を清国側に認めさせたことで、|般的には日本側有利に交渉が終わったと考えられている。しかし、いわゆる「城下の盟」論や「四百余州躁鏑」論が新聞紙上でざかんだった状
井上敦
一一一況からすれば、講和への不満が出る可能性は十分にあった。さらにそれだけでなく、講和条約調印の数日後には、ロシア・ドイツ・フランス三国からの干渉があり、遼東半島還付という近代日本外交史上屈指の大きな譲歩を強いられることとなった。陸奥宗光などは、軍隊や国民が反発して「内より発する変動」が起きることを恐れていたし、政(3)府としても一度は列国会議を開こうとした程であるから、当然対外強硬論の噴出は警戒されていた。それでは、そうした危機にあたってどのような対策がとられたのであろうか。この時期に新聞の発行停止が多かったことは周知だが、それは対外強硬論を発停で抑えたという単純なものだったのだろうか。そこに問題点はなかったであろうか。本稿では一一一国干渉前後の言論統制の実態を捉えつつ、これらの点について究明していきたい。’一一国干渉と言論との関係についての先行研究には、大別して一一一つの傾向がある。まず第一に、「三国干渉の結果を逆に利用し、政府は中国の故事からとった『臥薪嘗胆』の合い言葉によって、国民へ復讐心をたきつけ、軍国主義化へ拍車をかけた」というような理解が示されるものがあげ(4)られる。これは一九六○年代の概説書を中心に数多く見られる。ただし言論統制には全く触れられていない。
三国干渉前後の言論統制の一端(井上) 第二には、上の理解とは反対に、政府は「沸騰する国民の激情をつとめて抑制しようと企図した」のだと理解する(5)ものがある。これは一方で一二国を非難をした新聞が取り締まられたことについて述べ、他方では著名人の伝記や日記から「国民の憤激」の存在を指摘し、そこから政府の「企図」を導き出すものである。第一一一に、新聞の大量発行停止に触れ、言論統制の厳しさを強調するものもある。これは新聞社史などに見られ、政(6)府攻撃を抑圧するための統制だったとするものが多い。上記のうち第一と第二の見解は全く対立している。また第三はどちらにもくみさないものである。筆者はこれらのいずれも、実相を捉えきっていないと考える。発行停止処分を受けた新聞、受けなかった新聞双方の紙面を調査し比較検討したものが、筆者の見た限りでは見当たらないのである。そこで本稿では、できるだけ多くのサンプルを検討することによって、三国干渉に関わる対外強硬論に対する言論統制の実態を明らかにしていきたい。日清講和直後の言論統制においては、使用手段と取り締まりの対象が短い期間に変化し、三つの時期に分かれると筆者は考えている。まず第一期は、講和条約の調印が報道された明治二八年四月一八日から一一四日まで、第二期は三
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一 一
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国干渉に関連する言論統制が開始された四月二五日から五月一一一日まで、第三期は三国干渉の事実が公式に発表された五月一三日以降である。ただし処分が遅れる場合もあり、また地方紙においては報道自体が遅いものもあるため、この区分は必ずしも厳密ではない。また第三期の終わりを確定するのは難しいが、二八年六月に入ると新聞の側であまり三国干渉の問題に触れなくなったり、触れても前言の繰り返しとなる傾向がみられ、それに伴って第三期の特徴である発行停止処分の頻度も激減するため、あくまで便宜的にではあるが、ここでは五月末日までとしたい。本稿ではまず政府当局の新聞などへの取り締まり手段について検討し、その後上記それぞれの時期の特徴を析出する。別表は四月一八日から五月三一日までに行われた発行停止処分の一覧表である。適宜参照することとしたい。なお明治二八年四月一八日から五月三一日までについては、発行停止の有無に関わらず、国立国会図書館新聞閲覧室においてマイクロフィルムで閲覧可能な限りの新聞を通(7)覧した。雑弐山については、発停になったもので国立国会図(8)聿已館にて利用可能なもののみ閲覧した。 法政史学第五十三号
さて、言論統制の実態を検証する前に、当時政府がどのような言論統制手段を持っていたかを見なければならない。第一の手段としてあげられるのは、何といっても発行停止であろう。これは周知の通り新聞紙条例第一九条に基づくもので、内務大臣の権限により、「治安ヲ妨害スル」または「風俗ヲ壊乱スル」と見なした新聞および雑誌に対して、任意の期間その発行を停止することができるという(9)ものである。発行された新聞と雑誌は条例により、内務省に二部、管轄庁(東京府は警視庁、他は府県庁)と管轄初審裁判所検事局に一部ずつ、それぞれ提出され、そこで検閲が行われ(、)る。そして、上記二事項のどちらかに該当すると判断された場合、発行停止となった。発行停止の当該号数は『官報』に掲載されるが、どの記事が問題であったかについては示されることがない。また筆者の見た限り、その指針を示す史料は見出せなかった。このため、発行停止の理由を探るためには、処分を受けた新聞を他の新聞あるいは同じ新聞の他の号と比較検討して相違点を見出し、さらに同時期に複数の発停があった場合 政府側の一一一一巨論統制手段
一
四
◎三国干渉前後に発停 新聞(雑誌)名号数発停日解停日日数 絵人日報974/184/246第一期]
新浪華8274/194/256 北門新報(北海道)1169〃4/278 東京経済雑誌〔週刊〕7734/225/1927 国民之友〔旬刊〕2514/236/341 北のめざまし464〃4/307 若越自由新聞12224/245/28 下野新聞27904/255/16第二期]
東京日日新聞7054〃4/294 時事新報4265〃〃4 朝野新聞364〃〃4 めざまし新聞424〃〃4 立識進党党報[月2回〕43〃6/2561 二六新報4264/264/304 東海新聞(千葉)1920〃〃4 門司新報859〃〃4 大分新聞[隔'1]1025〃〃4 静岡新報641〃5/26 上毛新聞22304/275/36 秋H1時事新聞4224/295/78 愛媛新報1950〃5/34 関東(栃木)989〃5/56 福島新聞3719〃〃6 山形日報1483〃〃6 高知毎日新聞2734/305/66 二六新報427〃5/44 めざまし新聞426〃〃4 日乃丸(石川)▲1152〃5/66 佐賀日由3194〃〃6 九州日日新聞(熊本)3836〃〃6 長周日報(山口)6755/15/54 精神[旬刊]58〃7/16l なには商報〔旬刊〕143〃5/2827 北勢日報(三重)▲709〃5/65 鹿児島毎日新聞1035〃〃5 字和島新聞369〃5/54 根室毎日新聞1303〃〃4 静岡民友新聞1057〃5/65 大分11日新聞▲4455/25/119 高知日報3634〃5/86 福井966〃〃6 荘内新報(Ⅲ|形)1226〃〃6 北門新報11705/35/118 中国民報(岡山)802〃5/74 千葉民報374〃5/96 大阪経済雑誌〔旬刊〕505/46/1542 毎日新聞73305/55/94 高岡商業新報(富山)▲8535/55/116 山梨民報361〃〃6 秋田魁新報17955/65/126 小樽新聞3875/75/136 三重新聞24975/85/124 福島民報813〃〃4 両羽(山形)671〃〃4 山形自由新聞4533〃〃4 二豊新聞(大分)〔隔日〕598〃〃4 二六新報4315/95/156 新潟新聞5417〃5/178 東北新聞(宮城)10155/115/143 江差新報[隔日]229〃5/154 新愛知新聞2004〃5/176 第十二濃飛日報(岐阜)7285/125/208
なった新聞・雑誌一覧
新聞(雑誌)名号数発停H解停日日数
[第三期]
万朝報7345/145/2511 北のめざまし381〃5/206 111[KI民報809〃〃6 秋、日日新聞3819〃〃6 秋田魁新報1777〃〃6 秋Ⅲ新聞359〃〃6 山梨民報364〃5/173 奥羽日日新聞5375〃〃3 毎ロ新聞73365/155/2611 東北日報(新潟)2212〃5/194 若越自由新聞1235〃5/205 淡海民報(滋賀)325〃5/21O 大阪朝日新聞4884〃5/2611 日本20785/165/2711 二六新報432〃〃11 北海1771〃5/193 北国新聞(イilll)644〃5/226 広島新聞▲53〃5/215 九州自由新聞(熊本)1831〃5/204 国民新聞16075/175/2811 千葉民報382〃5/258 山形自由新聞4537〃〃8 福井978〃5/236 因I''1時報(鳥取)913〃5/203 団々珍聞〔週刊〕10145/186/1528 香川新報1826〃5/246 報知新聞67515/195/301l めざまし新聞440〃〃11 荘内新報1235〃5/256 米沢新報(山形)〔旬刊〕37′′6/618 東北民論(秋111)▲85〃5/256 秋田時事新聞428〃〃6 長同'-1報6895/205/266 自由新聞号外5/215/287 東北日報2213〃5/298 新潟新聞54225/225/253 神戸又新日報3324〃5/23l 秋田日日新聞3821〃5/253 秋田新聞??5/25-
国会13395/235/318 日本20795/276/48 北国新聞6515/285/313 民報(宮城)▲1065/297/133 若越自由新聞12455/306/12 荘内新報12405/316/22 二六新報436〃6/88
※明治28年の『官報』より作成。「治安妨害」による もののみ。
原則として『官報』の通りだが、発停日の記載がな いものは当該新聞で確認。ただし不明のものもある。
日数は発停当日から解停前Uまで。
[]内は日刊紙以外の発行頻度。発行頻度は、原史 料のないものは野上虎次郎「日本全国新聞雑誌大全」
(都屋商店、1894年、’11本武利・有|」」輝雄監修「新聞 史資料集成第7巻』ゆまに書房、1995年、所収)によ る。▲は同書にも記載がなく、頻度不明。
○日数別発行停止数
日数1234567891011※?計 第1期00000212000207 第2期00122320041004055 第3期1272213160083146
※=11日以上。?=不明。
と
三国干渉前後の一一一一口論統制の一端(井上)
一
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には当該号同士の比較により共通点を見出して、推定するしかない。発行停止は、マスメディアにとっては「専制政治ノ遺(、)物」であり、同時に「実二残酷ノ処分法」でもあった。企業としての新聞社にとって発行停止は営業停止であり、停止期間中は人件費などの諸経費はかかるのに、商品を売ることができないという苦しい立場に追い込まれるので(、)ある。政府の側にとっても問題があった。この処分法では情報遮断が極めて不十分にしか行えないのである。内務省なり管轄庁なりで検閲し、処分を決め、新聞社に通知して当該号を押収するまでには、かなりの時間がかかる。都市の新聞でもその日の午後に発停命令が出るのが「常」だという(B)報道もある。一方新聞はとい》えば、「夜ノ明ケヌ中ニズン(川)ズン投込ン『ナ」いくような状態であった。このため、在京紙の場合でいえば、地方配布分は電信を使ってどうにか差(烟)し押さ》えることができたが、東京府内の定期購読分は発停命令が出た時には既に「大部ハ社会一一撒布」されてしまつ(焔)ていたとされる。現に史料保存のよい新聞であれば、発停当該号が残っていない方が珍しい。さらに地方紙の場合、管轄庁提出分はともかく内務省提出分は郵送されるため、 法政史学第五十三号
タイムラグはより大きく、内務省の検閲で発停となった場(Ⅳ)ムロ、当該号から数日間そのまま発行されることもあった。もっともその一方、遠隔地方でも当日中に発停となった事(旧)例もある。発停の命〈祠は内相の名で出され、それを管轄庁が新聞社に伝達するという形がとられていたが、実際の判断は管轄庁でなされる場合もあったと考えられる。第二の手段として、「予戒」と呼ばれていた措置があげ(⑲)られる。これは要するに記事差し止めのことで、新聞記者を集めるなり、新聞社に通知するなりして、特定の報道や論評を新聞に掲載させないようにすることである。政府側の記録が残っている日清戦争中の事例として、以下のものがあげられる。明治二七年九月、軍事と外交に関する記事の草稿検閲を定めた勅令第一三四号が廃止され、軍事に関する報道を許可制とする陸海軍省令が復活した。その際、まだ実行もしくは発表されていない軍事行動についての記事の掲載を禁ずるとともに、「新条約に関する事柄及条約国の挙動を批難して其感触を傷け人心を激動し随て治安を妨害するが如き記事を掲載すべからず」との通達が警視庁から在京各新聞社になされた、と一部の新聞が報(別)じている。政府側の史料によれば、勅令一一二四号の廃止などを決めた閣議の際、内相から警視庁および府県庁などに ’一ハ
「訓令」して、「隈二条約国ノ挙動ヲ批難シテ其ノ感触ヲ傷ツクル者ハ行政上厳重ノ処分ヲ受クベシ」という注意を(皿)各新聞社などに与一えるという方針が打ち出されている。いずれかの段階で細部に修正が加えられ、上記記事のような通達になったと推測できる。この事例でいう「訓令」とは、上級官庁から下級官庁に対して、法令の解釈や処務の方針を示すために与える命令のことである。この場合、新聞紙条例第一九条の解釈と運用を指示したと考えてよい。訓令は、下級官庁は服務上これに従わねばならず、一般国民は下級官庁に規制されるので、間接に国民に対する効果を及ぼす。しかし訓令そのも(皿)のは国民を直接拘束するものではない。予戒は新聞紙条例の条文に規定されているものではなく、上記事例のようにその運用として行われていたに過ぎない。ゆえに予戒そのものには法的な拘束力まではなかったと考えてよいであろう。また予戒は草稿検閲ではない。そのため報道を差し止めようとする場合は、ニュースソースが政府自身かそれに近い筋であるなど、新聞社に知られたことを察知できる情報に限られ、新聞社独自のスクープなどは抑えることができない。論評を差し止めようとする場合には、新聞社と当局
三国干渉前後の言論統制の一端(井上) の解釈が異なる場合も出てくる。とはいえ、当局が発停権を前提に、特定の報道や論評の掲載禁止を命じた場合、現実問題としてこれを無視することは困難であった。ゆえに、事後策でしかない発停よりも効果的に情報遮断ができた。その意味では、政府側からすれば発停の問題点を補う策といえ、またマスメディアの側からすれば、より厳しい一一一一口論統制だったといえる。しかし新聞の中には、かえってこれを望むものもあった。「日本』は、明治二六~二七年にかけては予戒措置を(羽)批判的に報道していたが、一一八年に入ると態度が変わってくる。同年一月の論説においては、「懲罰に先だちての勧諭、吾輩の名づけて予戒策といふものは、西洋の警保に於ては最も重要視せられ今に至りて寧ろ懲罰よりも効益あり」「予戒策は多少の脅迫を含むも恥辱を与ふるに至らず又損害をも与ふるに至らず而して効益測るべからず」とした上、「吾輩は故に政府に望み又た貴族院に望む、願くは発行停止を廃して更らに此の予戒策を努めよ」と述べ、さらに「近ごろ陸軍省及び内務省は時々新聞記者を呼びて注意を与ふ、是れ所謂る予戒策なり、思ふに近来に至り新聞紙の違法少きは全く此の予戒策の効なりとす、若し全国の官庁皆な此の二省の如く懇篤なるに至らば、発行停止の制
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七
法政史学第五十三号
(別)は固より無用の悪制たるを見ん」と付一一一一口している。こうした『日本』の態度の背景には、前述のように発停が新聞社経営にとって非常な痛手だったことがあると考えられる。発停によって経営に打撃を受けるよりも、あらかじめその対象となる報道や論評を当局が示し、それを掲載しないようにする方が、新聞社としても好都合である。つまり予戒については、政府とマスメディアの利害が一致していた。それだけに効果は大きかったといえる。なお、予戒は発停と違って公表はされない。また前記事例のように政府側の史料が見出せることも少ない。しかし多数の新聞の中には、予戒措置がとられたことを直接間接に報道するものも出てくるので、そこから判明する場合がある。筆者の見た限り、予戒があったと報道したことによって処分を受けた例は見当たらない。また、関係者の書簡など別の史料から判明することもある。第一一一に、言論統制手段として前記一一者と同列に置くことはできないが、詔勅の抑制的効果もまた、見逃せない。詔勅は内閣で原案が作られるのであるが、天皇の言葉として発表される以上、その内容を真っ向非難することは当時のマスメディアには至難であった。もとより言論統制だけを目的とするものではないのだが、場合によっては言論に決 日清講和直後の言論統制の第一期は、予戒を用いて、講和条件に関する論評を取り締まった期間である。『大阪毎日』はこれについて「其筋に於ては新聞紙にして講和条件等に対し論説を試むるものある時は厳重に之を処分する都(妬)△□なりといふ」と報じている。また『やまと」は「嬉和条件の適否に就きては吾人未だ之を論評するの自由を有(妬)せず」と述べ、『山陰』(島根)は「条件其の者の高低に対(幻)しては吾輩が之れを今日に一五為すること能はざる」とするなど、いくつかの新聞が「論評の自由がない」ことを述べ(詔)ている。政府側の史料は筆者の見た限り見出せなかったが、何らかの形で予戒が行われたものと推定できる。実際、戦争中は「城下の盟」論がさかんで、周知の通り政党も莫大な要求をかかげていたにも関わらず、講和条件の「適否」「高低」を論じた新聞はほとんど見当たらない。条約の実利的な側面、つまり新領土の経営方法や賠償 定的な影響を与えることもあった。この他、情報を全く流さない、もしくは都合のいいものだけを流す情報統制もあったが、講和談判進行中はともかく、条約調印後はさほど重要性を持たなかった。
二講和条件論評の取り締まり(第一期)
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八
講和条件そのものの報道については、条約全文を伝える(皿)ことは禁止されたが、「大要は差支なき由」とされ、おおむね各紙とも、朝鮮の独立、遼東半島・台湾・膨湖島の割譲、償金二億両、通商条項などの条件を伝えている。一方外国からの干渉の報道については、第一期においては基本的に取り締まられていなかった。いくつか例をあげると、『国民」は四月一八日付で「露国の干渉来らん」と題し、「露西亜は日本の清国本土割取に対し強硬の反対を 金の使途などについては各紙とも紙面をさいているが、条件自体に不満を示すようなことはなかった。わずかに『絵人日報』が、「在外軍人諸氏の感想は如何、殊に我が国民の(羽)輿委細は如何、五口人は唖然として長大息せざるを得ざる也」と論じ、雑誌では『東京経済雑誌」が「余輩は元来我軍の北京に臨みし後に至りて平和条約を締結せんことを主張したるものなり、故に此回の嬉和に依りて得たる土地及償金(釦)は必ず余輩をして満足せしむるにあらざるを知る」と論じているが、表で見る通り両者とも発停になっている。いずれもこれ以上の論評はしていないのに処分を受けており、非常に厳重な言論統制だったといえる。またこの程度の抵抗しか出なかったことからして、予戒の効果は大であったともいえよう。
三国干渉前後の言論統制の一端(井止) (犯)為す可しと聖彼得墨に於ける半官的風説は一五ふ」と伝え、また「毎日』は二一日「干渉の声言」と題し「露国新聞は清国が日本に大陸地方を割与せることは各国の干渉を余儀(兜)無くするならむと一一一一口ヘリ」と報卜)た。さらに一一四日になると「東洋に対する列国の合同運動」と題する記事が『東京日日』に現れ、「独逸仏蘭西及び露西亜の一一一国は其東洋に於ける利益を保護するの目的を以て合同運動を為すに一致(狐)したり」と報じている。いずれも同趣旨の記事は他紙に4℃見られるものである。この他にも干渉関係の記事は数多い。外国新聞などをソースに干渉の報道をすることは、少なくとも四月二四日までは普通に行われていたのである。
その様相は、四月二五日を境に一変する。言論統制の第二期は、一一一国干渉が実際に起こったことを受けて、これに関連する報道や拒絶論を規制した時期である。この期間は、干渉到来から政府部内での協議、列国との交渉を経て、結局干渉を受諾し、さらに講和条約の批准交換を済ませるまでの期間とおおむね一致しており、政府としてはこの間は、干渉の事実を秘匿しておきたかったものと推測できる。統制の手段としては、予戒と発停とが併用されてお 三干渉報道の規制(第二期)
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り、混乱も見られた。四月二五日、『東京日日』『時事』『朝野」『めざまし』の在京四紙が一斉に発停となった。『東京日日』はいわゆる「御用紙」、『時事』もいくぶん政府寄りの新聞と見られており、しかも理由が「外交に係わる」ことだと伝えられた(弱)ため、意外だと受け取られた。『東京日日』主筆の朝比奈知泉は、以下のように事の経緯と抗議を伊藤博文に書き送っている。「〔前略、筆者註、以下同じ〕一一一国連盟之事二十三日朝欧電にて接受致し候に何之注意も無之、翌々二十五日夜に至り始めて注意参り、而して直に発行停止と相成、報知紙〔ママ〕、時事と共に閉鎖の為、社会は事実を見るの灯明台を失し流言百出道路以目の有様、小生も今回之木偶扱ひには大に驚き入申候。委細野村内相へ申上置候へ共、今後は事前に於て注意の来る様に致し度、当地大員不在之致す所に有之候へは何とか(鍋)御寸楮有之様願度候。〔以下略〕」文中の「注意」とは、三国干渉関連記事を差し止める予戒措置であったと考えられる。事実、翌四月二六日には、在京・地方の多数の新聞に抹消記事が見られ、中には干渉(師)関連記事だと判読できるものもあることか雲り、干渉報道を 法政史学第五十三号
抑えるための警告が二五日夜に入ってからなされたと推測できよう。|方、発停処分の方は、朝比奈と『車泉日日』一一九日付「停刊三日」によれば、予戒とほぼ同時に一一五日付の紙面を理由として執行された。ある種類の記事の掲載禁止を命じておきながら、その禁止以前の、既に載せてしまった記事を理由に処分を行っているのである。これでは朝比奈の反発も当然であろう。この日に発停となった四紙を見てみると、『東京日日』は「露国新聞の干渉説」と題し、「莫斯科〔モスクワ〕新聞』というロシア紙の論説が、「亜細亜大陸に於ける清国の版図は其の一小部分たりとも日本人をして占領せしむくからず」などと述べたと報じている。また『時事』は「大陸割譲に対する露国の姿勢」と題し、英字紙『横浜アドヴァタイザー』の論説を紹介して、「日本政府は果して其支那に同て命ぜんと決心せし所の要求が外国殊に露国に由て列国の利害に敵するものと認定せらる可きを前知せしや」などとロシアの干渉意図について伝えた。さらに『朝野』は「独、仏、露の干渉論」、『めざまし」は「外国の干渉」と題し、いずれも英字紙『ジャパン・ガゼット』の論説として、「平和条約の調印前に外国が干渉せざりしを見て世人多くは最早や干渉の患なしと断定するものの如しと
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雌も、既往の例に拠れば干渉は常に調印の後に起るものなり」と述べている。「朝野』が「国を挙げて焦土となすも目的を頁」くべきとコメントした他は、どれも外国新聞または外字紙の紹介によって干渉を報道しただけのものである。前述の通り、このようなことは前日まで普通に行われていたのであるから、二五日に上記四紙が干渉関連記事を掲載し、他紙がしなかったのは、単なる偶然だったと考えるのが妥当であろう。しかも発停になったのは、政府寄り新聞として、この場合は既に流布され始めていた干渉報道を(羽)打ち消す立場にある『東京日日』であった。「灯明台を失し」というのは朝比奈の自賛だとしても、「御用紙」の不在が政府にとって不利であることは間違いない。「大員不在」による影響がどの程度あったのかは不明であるが、ともあれ第二期の初めには、言論統制の混乱があったといえるであろう。もう一つ混乱ぶりを示すのは、明らかに上記四月二五日の在京紙発行停止の理由と思われる記事が、地方紙では処分を受けていないことである。二五日付『めざまし」掲載の『ジャパン。ガゼット』の論説は、細部以外はほとんど(羽)同文で「岩手公報』に転載されており、また同日『時事』
一一一国干渉前後の言論統制の一端(井上) の『横浜アドヴァタイザー』の論説も、やはりほぼ同文で(加)『海南』(愛媛)に載せられている。全く処分がないということは、これらの記事は各府県だけでなく内務省の検閲も通ったということになる。つまり二五日の在京四紙の発停は警視庁の検閲における判断でなされたと推測できる。そしてその基準は、他の府県ばかりか内務省とさえ相違したと考えられるのである。こうした判断基準の不整合からしても、四月二五日の発停はあまり意味がなかったといわざるを得ない。さて、一覧表でわかる通り、この後も移しい数の新聞が発停になっている。このうち在京紙の発停は、紙面を見る限り、当時の状況においては当然とられるであろうと思える措置である。『一一六』は三回にわたって干渉を事実と受(虹)け取らせるような聿緬説を展開しており、『めざまし』は「厘剣鳴て夜声あり、知らず刻下何の時か、三千年来磨き(妃)あげし腰間の秋水翼くば北客の頭に加へむ」と、ロシアへの敵意を述べている。『毎日』は、大隈重信の談話として、「我帝国の対清策を妨害」するものは「文明の敵」(蛆)だと罵倒し、ざ蕾らに「仏国公使館付武官」との会話の中での大隈の発一一一一口として、「日本が金州を占領せんとすろは他意あるにあらず、朝鮮の自治を安全ならしむるに外なら
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ず。而るに露が之れに対し意外の挙動を為すは其意を得ざる所、若し露の挙動にして条約調印前に出でしならば邪心野心なき日本は如何様にも相談すべきなれども、今日となり露の意見を徹さんとするは日本人民の同意せざる所な(“)り」と、一二国の要求内容を暗示するだけでなく、その拒絶までも主張した。雑誌『精神」は、干渉を論じて「露国と(㈹)戦ふを覚悟せよ」と述べ、『立雪辱改進党党報』も、場合によっては「武器を揮ふ」ことを辞さず「東洋平和の軌道」の「前途に横たはる者」を「断乎として排撃」すべきと(妬)した。これ壱bはいずれも、報道の形はとってはいないものの、三国干渉の事実を何らかの形で伝えており、拒否の主張も少なくない。三国を刺激したくない政府の立場を考えれば、理解可能な措置といえる。しかし地方紙においてはなお混乱が見られる。第二期において発停処分となった地方紙のうちで、国立国会図書館にて通覧できたのは『九州日日』(熊本)と『佐賀自由』だけであるが、この両紙とも発停当該号と発停日との間に(〃)数日のずれがある。これは、県庁の検閲では通ったが、内務省の検閲で処分されたことによるものと思われ、内務省と各府県庁との検閲基準も相違していたことが窺える。し(岨)かも『九州日日』の場△□、直接干渉に触れた記事だが、当 法政史学第五十三号
該号は四月二四日付で、干渉関連記事の掲載を禁じた二五日の予戒よりも前であった。また『佐賀自由』は、当該号に抹消記事があるので予戒は届いていたと思われるが、忌避に触れたと思われる記事は干渉に直接触れるものではな(岨)い。いずれも、わざわざ数日一別に棚り、とうに配布の終わった新聞を発停処分にするだけの意味があったかどうか、疑問の残る措置である。地方紙の場合、現時点では筆者の通覧した新聞が少ないので、全体的に論じることは難しい。しかし前述の初期の混乱と合わせて考えれば、第二期における大量の発停の中には、相当数、言論統制としての意味をなさないものが含まれていたと考えられる。さて、第二期の言論統制は、一一一国干渉受諾決定の五月四日以降、次第に緩んでいった。多くの新聞はそれでも報道を自粛していたが、一部には、直裁的表現を避けつつも、(卯)干渉の事実とその結果を匂わす報道をする新聞が現れた。ただ、統制が緩んだといっても、あからさまに干渉に触れ(皿)たものは、やはり取り締ま雪われていた。
四反発の抑制と許容(第三期)
①詔勅の発表とその影響
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言論統制の様相は、五月一一一一日、日清講和条約全文とともに、三国干渉の事実とその受諾が公表され、新たな局面を迎えた。報道に対する制限は取り払われ、事実は国民の眼前に現れたのである。第三期において、三国干渉に対する論評への全般的な予戒がなされた形跡はない。五月二二日の報道で、「内務大臣は此程各府県知事に対し此際一層新聞井に演説等に注意し、筍も外交上円満を欠くが如き事(記)柄あらば厳重に之を取締るべき」日訓令せし由」というものがあるが、これはあくまで事後の「取締」を求めたもので、事前の注意を求めてはいない。新聞報道されたことで一定の抑制効果はあったとも考えられるが、二二日というかなり遅い時期になってからのもので、予戒措置としての意味はない。予戒が全くなされなかった訳ではなく、五月一一四日には国民協会の宣言書を野村靖内相自ら新聞掲載差(岡)し止めにするようなこともなされているが、これも個別の例であり、少なくとも第一期のような論評一切不可という予戒はなかったものと考えられる。現に各紙とも、論評を出しているのである。五月一三日は月曜日であり、当時の新聞の大部分は休刊日にあたったため、この日は号外によって速報されるにとどまり、本格的な論評は遠隔地方を除いて一四日から開始
三国干渉前後の言論統制の一端(井上) された。第二期において既に、仮定の話としながらも干渉への強い反発が出始めていたことから、ここにおいては、まずロシア・ドイツ・フランスによる干渉の不当性を罵り、次に武力に訴えても断固これを拒絶すべきだったと主張し、最後に受諾をしてしまった政府のいわゆる「軟弱」を非難攻撃する論調が展開される可能性が十分にあった。しかし筆者の見た限り、この通りに展開された記事や論説は一つもない。その大きな理由は、講和条約全文および三国干渉の事実とともにマスコミに発表された詔勅である。その詔勅の大意は、以下のようなものであった。三国は日本による遼東半島の占領を「東洋永遠ノ平和一一利アラス」として、清国への返還を「感想」してきた。そもそも清国と戦端を開いたのは東洋平和のためであり、「三国政府ノ友誼ヲ以テ切偲スル所」の意も同じである。ここで三国と事を構えて「民生ノ疾苦ヲ醸シ国運ノ伸長ヲ沮ム」のは意とする所ではない。遼東の放棄は日本の「光栄卜威厳」を段損するものではない。そして結論として「朕乃チ友邦ノ忠言ヲ容レ朕力政府二命シテ’一一国政府二照覆スルニ其ノ意ヲ以テセシメタリ」としている。つまり三国の「忠一一一一口」は「友誼」によるものであり、これを受諾するのは(M)「朕」の意志である、と公一一一日した訳である。
二 三
②発行停止の頻発それでも各新聞は、それぞれ詔勅に反しないよう工夫しつつ、様々な論評を出している。それらのうちには、当局の忌避に触れたものも少なくなかった。以下に発停処分を受けた記事や論説の具体例を示してみる。まず第一に、三国に対する敵偏心をあからさまに示したものがある。『日本』は五月一六日、「支那人と欧州人」と題し、中国人とヨーロッパ人に共通する点として、「欧州中心」主義と「支那中心」主義、「人種的矯慢」、「淫逸放縦」、そして「残忍檸悪君主に忍び父祖に忍び同胞に忍び 前記のような対外強硬論をそのまま唱えれば、詔勅を真っ向から批判することになってしまう。この詔勅により、対外強硬論は封じ込められたといってよい。『北国』(石川)が「肝、肝、詔勅とあらば畏こし、吾人復た何を(弱)か陳ぜん」と述べているが、象徴的である。一部の新聞には「日本各新聞は故ありて此の一事に関しては皆な口を噂(弱)まざる能はざりき」というような記事が見られるが、これは詔勅に伴うものではないかと考えられる。当局の注意であればそう書けばいいのであるが、筆者の見た限り、そのような記事はないのである。 法政史学第五十三号
就中他人種他国人に対して到らざる所なく行うて樟かる所なき」点にあるとし、当時浸透していた中国への敵意を利用して、三国の行為を罵った。また『国民』も一七日、「死児の齢を数へしめよ」と題し、「読者は記臆する乎。我第二軍の大連湾を取り旅順砲台を奪取したる時に、国旗は南沖縄のはてより北千島の一角に至るまで戸々に翻り、万歳の声口より口に伝り、人より人に伝はりて、山に震ひ野に響きたりしことを。而して一人が其一石一木も一び之を得て再び之を失ふくからずと叫ぶや、四千万の同胞之に和して児々孫々未来永劫失ふことなかるべしと叫びたりしことを」と述べ、「同胞の血を以てあがなひ得たる此新領地」を還付することへの反感を示した。次に、非難のトーンは上記二紙より低いが、事実上ロシアを名指しして非難しているものがある。『毎日』は、「外人某」が社員に対し、遼東還付は二時東洋の盟主東洋の覇権者と大声疾呼したる日本人に取りて名誉と恩ふや否」と尋ね、社員は答えることができなかった、とした上、「時に駿台ニコライ堂の鐘声一段高く鳴り渡」ったと(訂)した。『報知』は、「鷲と申す烏は何でもかつさらふ不埒至極の鳥にて最も不吉千万」なので、これを商標として用いているものが多いが今後はやめるべき、使っているものが
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あれば「愛国心に富む我国人は決して之を買ふくからず」(死)と述べている。さらに『国△三』は、樺太問題を論じ、日本領になったかもしれない樺太が千島と交換にロシア領になったのも、今回の遼東還付も、ロシアの「好意」によるものだとして、敵対的な語を避けながらも、明らかにロシ(別)アを非難している。また、ドイツが干渉を「主唱」したという記事も取り締まりの対象となっており、『二六』が二度にわたって発停(印)(仇)となった他、『めざまし』も発停を受けている。ただし、「めざまし』と同様の記事を載せた『佐賀自由」は処分さ(他)れていない。ちなみに『東一用日日』においてはロシアが(岡)「発意者」とされており、『中央』などでも「発頭は露(“)国」とされていたが、処分はされていない。もう一つ、詔勅への批判ととられたのではないかと推測できるものがある。「大阪朝日』は、中国の末の太祖趙匡胤が「五季の乱離を統一して、生民の塗炭を悲しみ、人を殺すことを嗜まず、」燕雲十六州奪回にも努めなかったのは「度量潤し」というべきであるが、「金帛の贈遺、終に夷虜をして飽くなきの欲を恩はしめ、」その後内政も乱れて「以て徽欽播遷の禍を致す」に至ったとし、「民生ノ疾苦」を避けるために「忠言」を受け入れたとする詔勅をあ
三国干渉前後の言論統制の一端(井上) (閃)たかも椰楡するかのようなことを述べている。なお第一二期(船)には地方紙発停のタイームラグはほとんどなくなり、処分基準の指示が徹底していたと思われる。政府の責任追及については、詔勅で干渉受諾が「朕」の意志だとされている以上、目立ったものは実は少ない。『日本』は一度目の停止が解けた直後、干渉を予知し得なかったことについて責任追及を試みているが、その過程で「〔日本の〕面目は汚されたり」「君民は耐え難きの遺憾を抱きて此の局を終へたり」「今日の譲歩に岬れて益々我れの進路に容塚せんと欲せば、三国たるものは是れ飽く無き(師)の賞婆国のみ」などと述べて、再び発停1となっている。松岡康毅内務次官は、責任論が「幾遍出づるも敢て意とせず」と、発停問題で内務省を訪れた自由・改進・国民協会(閉)各党の代表に対して発一一一一口したというが、実際には間接的なものが散見できるだけである。ただ、政府の責任追及だけ(的)で直ちに発停処分がなされた訳ではない。このような一連の発停処分の意図について野村内相は、「新聞紙をして津田三蔵、小山豊太郎一般の豊子を飛出さ(刊)しめざるに在り」と新聞紙上で述べている。同趣」日のこと(、)は野村のロ叩川弥一一郎宛私信にも書かれ、「日録抄」にもあ(ね)ることから、これは虚偽ではないであろう。この時期、大
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③許容された言論しかしこれは一面に過ぎない。前述の通り、予戒はな 津事件もそれほど古い出来事でなく、李鴻章狙撃事件はまだ生々しい記憶として残っていた。内相としては警戒するのが当然といえよう。なおドイツの主導を伝えた新聞の発停は、外交機密によるものとも考えられるが、在京紙のみ処分を受けていることから、管内に各国公使館を抱える警視庁が警備の重点の拡散を恐れてとった措置だった可能性もある。さらに野村は、品川宛書簡で、新聞の報道自体がロシアを刺激してさらなる紛擾を招くことをも恐れている、とも(ね)書いている。野村はこの時期、新聞以外にも、ロ、ソア公使館宛の郵便物や投書も警戒し、同国を刺激するものがない(刊)かどうか監視していたことから、ロシアへの配慮も重視されていたことは間違いない。注意すべきは、一覧表で見られる通り、第一期・第二期に比べ、第三期の停止日数は長期化しており、とくに二口というものが目立つ。内務当局としては厳重な処分によって、テロを誘発したり、三国、とくにロシアを刺激する言論を抑制しようとしたといえる。 法政史学第五’三号
かつたようであるから、摘発された言論があるとすれば、されなかった言論もある。今度はそれを見ていく。まずあげられるのは、国民に感情的な「軽挙妄動」の抑制を訴え、今後は国力増強に努めるべきだと説くものである。国力増強の内には軍備拡張も含まれるが、全てではない。代表的なのは『東京日日』で、国民が「形勢と事局とを了して三国の友誼を諒し軽暴の言動を戒むるの一事」は喜ばしい、.勝に甘じ一蹉跣に悲まず胆の味を知り薪の寝心を知るの端緒」が現れている、「帝国民は唯々常に戦時に在るの用心を以て平和の慶沢を享け、飽くまで其利用に依り以て一切の進歩発達を謀るべし」などと論じて(布)いる。軍備充実の必要性については別の日の論説で説いて(巧)いるが、そこでは一二国への復讐の意志は述べられておらず、また「臥薪嘗胆」の言葉も使われていない。「臥薪嘗胆」は、政府側から使われたが、この場合は復讐のためのスローガンではなく、むしろ敵愉心を鎮めるよう呼びかける言葉だった。同様の論調は、力点の差こそあれ、いくつ(両)かの新聞に見受けられる。こうした穏健と思える論調の一方、一一一国への反発を示し、場合によっては復讐や戦争にまで言及した記事や論説も流布されていた。これらの中には前述の発停理由になっ 一ヱハ
た記事や論説と大差ないと思われるものも少なくない。例えば『めざまし」は、「方今の国際交誼は恰かも無頼の博徒が高利貸を兼業するが如し」「口実さへあれば他人の行為にも塚を容れて自己の懐中を肥やし、理屈無ければ腕力を用ゐても尚ほ自ら利せんとす」「這般破落戸〔ごろつき〕の境界を知らざる者何くんぞ国際間の樽俎折衝に当るを得んや」などと「悲憤懐慨して某将校は語」ったと伝(泥)えている。これとほぼ同文の記事が発停となった五月一六(ね)日の『日本』に載せ.われており、筆者は『日本』発停の理由と考えていたが、同じ在京紙の『めざまし」と地方紙の(卯)『海南』の一一紙に掲載され不処分になっていることから、この記事は許容されたと見てよいであろう。また『山陰」などいくつかの地方紙には「我が軍人の碧血」と題して、ほぼ同じ内容の記事が掲載された。これは日清戦争の戦闘地域ごとに戦死者の数を集計した上、「我が忠勇無比なる軍人の最も多く碧血を猿ぎたるは盛京省なるを知るべし」と、間接的ながら無念の意志を表すもので(皿)ある。「中央」には、「我々軍人の遺憾は君等に倍すること数等なり、然れども今日の事情実に止むを得ず。依て余等は今より数年を期し国民と共に臥薪嘗胆の恩をなして国力の
三国干渉前後の言論統制の一端(井上) 充実を謀り、以て今日の恨を償はざる可からず」と「子爵将軍」が「某代議士」に語ったという記事が載せられてい(囮)る。ここでは「臥薪嘗胆」が復讐を灰めかす言葉として使われた。また『やまと』は、「朝鮮の独立を扶披せんとして清国を贋懲したるものは、更に第二の清国を贋懲するの覚悟なかるべからず」と、ロシアとの戦争を暗示してい(開)る。さ》bに「都」は、「一国を焦土と為すの危険を冒す」ことを恐れる意見が「一二閣員の胸中に存したるや知るべからず」とした上で、「清国と戦ふや亦た一国を焦土と為すの覚悟を為したるなり、強隣と錐ども筍くも我国威を汚さんとするものあらば、亦た一国を焦土と為す覚悟を以て(M)戦ふべきなり」と委細じた。最初に「友邦の厚誼」と述べ、最後に還付には「更に一大理由」があるのだろうとして論を弱めてはいるが、相当の極論といえよう。上記の記事や論説は、特定の国を象徴的に表記して事実上の名指しをすることがなく、三国を非難するトーンが比較的低くて間接的であり、詔勅を直接非難するものでもない、ということはできる。しかし、事実上の名指しはともかく、他の二点はあくまで解釈の問題である。第三期の言論統制においては、干渉を行った三国への反発を示す言論が、かなりの程度まで許容されていたといわざるを得な
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日清講和直後の言論統制は、第一期においては予戒を用いてほぼ完全に対外強硬論を抑制し、第二期においては突然の三国干渉によって混乱が目立った。そして第三期には、詔勅を出し、政府系新聞を用い、発行停止を駆使して、強硬論抑制に当局が奔走したことは事実だが、言論統制としては不完全な結果しか残せなかった。最も重要な第三期、すなわち三国干渉公表以後において、三国への反発が相当程度マスメディアを通じて国民に流布されたことは、政府にとっては失敗だったといえる。とくに、人口が多く外国公使館に近い東京の都市部においては、発停当該号の新聞の配布すら抑えることは難しかつ い。しかも最初で述べた通り、発停処分にあっては、当該号は大部分が配布されてしまう。現に、筆者が通覧した本稿の対象時期の新聞のうち、当該号が残っていないものは、明治二八年五月分からしか史料のなかった『小樽』を除けば、一つもない。処分を受けた言論も、多くの人に読まれていたのである。三国への反発は、相当程度、国民の目に触れていたと考えられる。
おわりに 法政史学第五十三号
た。政府の心配した、内からの変動の惹起、テロの突発、三国の感情刺激の、いずれの観点からしても、これは危倶すべき事態であろう。第二期のように突然の出来事への対処ではないのだから、第一期のように予戒措置をとっておけば、このような事態は、ある程度の疎漏は出るにしても、防げた可能性が高い。にもかかわらず当局はそれをせずに、事後策でしかない発停によって言論を抑制しようとしたのである。政府の措置は一貫性を欠くといわざるを得ない。第三期にも第二期同様、相当数の発行停止がなされ、その日数も長かったことから、新聞社としては大きな痛手を(開)被った。しかしこの大量の発停は、裏を返せば、一一一一口論統制がむしろ不完全となったことを示すものともいえるのであ
る。それでも詔勅の効果により、マスメディア側は相手国攻撃から政府攻撃へとつながる典型的な形での対外強硬論を展開することができなかった。その意味では、「臥薪嘗胆」程度のことしか言えなかったともいえる。結局、陸奥や野村が心配したような、言論による重大な事態の誘発は起きなかった。政府は少なくとも、この場での危機は脱したのである。
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第三期の一一一一口論統制については、詔勅によって政府批判が抑えられている状況において、政府が意図的に統制を緩和し、三国に対する反発を一定の程度まで許容したのではないかという可能性も考えられる。しかしこれを示す史料は、現時点では見出せていない。今後の課題としたい。
註(1)政府寄り新聞として知られた日清戦争当時の『東京日日新聞』や日露戦争当時の『国民新聞』は、いずれも戦時になると、戦前の慎重姿勢を転じて戦争推進の姿勢を示し、講和成立とともにそれへの不満を抑える主張を展開している。なお本稿では、引用史料中の旧漢字を新漢字に改め、適宜句読点を加えた。仮名遣いは原文通りである。(2)石井菊次郎は『外交余禄』(岩波書店、一九三○年)の中で、日清・日露講和後の「騒動」の「真因」をここに求めている(八五頁)。(3)陸奥宗光(中塚明校訂)『塞養録』(岩波書店、一九八三年)三○五~一一一○七頁。(4)田中彰『明治国家(体系・日本歴史第五巻と(日本評論社、一九六七年)二五八頁。この他、歴史学研究会・日本史研究会編『近代の展開(日本歴史講座第五巻)』(東京大学出版会、’九五六年)一七八頁、井上清『日本の歴史(下と(岩波書店、一九六六年)四○頁、小西四郎・林茂編「図録
三国干渉前後の言論統制の一端(井卜) ・維新から現代(日本の歴史・別巻四と(中央公論社、一九六七年)’六三頁、竹内誠他編『教養の日本史(第二版)』(東京大学出版会、一九九五年)二二一一頁に類似の記述が見られる。(5)坂本夏男「三国干渉に対する日本の反応」(『軍事史学』一六号、一九六九年)。また稲垣武「日清戦争前後の世論の推移」(桑田悦編『近代日本戦争史第一編日清・日露戦争』同台経済懇話会、’九九五年、所収)にも同趣旨の記述がある。(6)『朝日新聞社史明治編』(朝日新聞社、一九九○年)三二一頁、土方正己『都新聞史』(日本図書センター、一九九一年)九五頁、宇野俊一『日清・日露(日本の歴史一九巻)』(小学館、一九七六年)一○三~一○五頁、春原昭彦『日本新聞通史』(新泉社、一九八七年)八六頁にこの趣旨の記述がある。(7)通覧した新聞は、在京紙では『東京朝日新聞』『絵入日報』『国民新聞』『国会』『時事新報』『中央新聞』『中外商業新報』『朝野新聞』『東京日日新聞』『日本』『二六新報』『報知新聞』『毎日新聞』『都新聞』『めざまし新聞』『やまと新聞』『読売新聞』『万朝報』の一八紙。在阪紙では『大阪朝日新聞』『大阪毎日新聞』の一一紙。地方紙では『伊勢新聞』(三重)『岩手公報』『奥羽日日新聞』(宮城)『小樽新聞』(北海道、五月三日以降のみ)『海南新聞』(愛媛)『九州日日新聞』(熊本)『熊本新聞』『芸備日日新聞』(広島)『神戸又新
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法政史学第五十三号 新報』『佐賀自由』『山陰新聞」(島根)『信濃毎日新聞』『中国』(広島)『鎮西日報』(長崎)『徳島日日新聞」『日出新聞」(京都)『福岡日日新聞』『福稜新報』(福岡)「扶桑新聞」(愛知)『北国新聞』(石川)『米沢新報」(山形)の二一紙。合計四一紙。ただし紙幅の関係上、全ての新聞には言及できない。また発行停止処分についても、『官報』記載事例を調査したが、全ての事例には触れられない。梅澤浅太郎編・発行『大日本新聞紙正鑑』(一八九四年、山本武利・有山輝雄監修『新聞史資料集成第七巻」ゆまに書房、一九九五年、所収)には、全国の毎日、隔日、および月六回発行の新聞(相場報道のみを目的とするものを除く)が一五七紙掲載されている。上記の通覧した新聞はこの約四分の一を占めるに過ぎない。しかし在京紙については、『明治二七年警視庁統計書』(警視庁、’八九五年、復刻クレス出版、’九九七年)では一三紙とされており(一○七頁)、約八割をカバーすることができた。発行部数については、在京紙に限れば『明治二七年警視庁統計書』に記載がある。それによれば在京一一一一紙の総発行部数は一三四、四六七、○一一’一一部とされており、うち上記一八紙の合計は一一三、’’○六、二五四部となっている(’○七~’○八頁)。在京紙の発行部数では約九割をカバーできた。明治二八年の『警視庁統計書』では、前記『二六新報』が廃刊により記載されていないので、二七年のものによった。 なお、以下新聞名の表記は、「新聞」および「新報」の文字を省略する。(8)閲覧した雑誌は『東京経済雑誌』『国民之友』『精神』『立憲改進党党報』『団々珍聞』。新聞同様、紙幅の関係上、全てには言及できない。(9)明治二○年一一一月一一八日公布、勅令第七五号。(Ⅵ)同右、第一二条。(Ⅱ)第三議会、明治二五年五月一三日、衆議院、箕浦勝人発言。『帝国議会衆議院議事速記録』四(東京大学出版会、一九七九年、以下『衆議院速記録』と略)九六~九七頁。(⑫)この点については同右箕浦発言の他、第四議会、明治二六年一月九日、貴族院、清浦奎吾発一一一一口(『帝国議会貴族院議事速記録』五、東京大学出版会、一九七九年、’五一頁、以下『貴族院速記録』と略)や、第八議会、二八年一月二八日、貴族院、谷干城発言(『貴族院速記録』八、一九七九年、一三八頁)でも指摘され、また奥平康弘「明治一一○年新聞紙条例・出版条例についての若干の考察(三)」(東京大学社会科学研究所『社会科学研究』二一一ノー一、一九七○年)でも述べられている。(田)『山陰』明治二八年五月二○日「異なる哉発行停止」。以下、新聞雑誌記事の日付は、とくに断りのない限り、明治二八年のものである。(u)第六議会、明治二七年五月三一日、貴族院、宮本小一発言。『貴族院速記録』七(東京大学出版会、’九七九年)二
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二五頁。(旧)第六議会、明治二七年五月三一日、貴族院、尾崎三良発言。同右七、一一一一六~一一一一七頁。(肥)第二議会、明治一一四年一二月一九日、貴族院、小松原英太郎発言。同右一一一(一九七九年)一六四頁。(Ⅳ)註(⑬)、『山陰』「異なる哉発行停止」。(旧)別表の第三期の発停のうち、地方紙で史料を通覧できたのは、在阪の「大阪朝日』の他、『奥羽日日』「神戸又新』『北国』(二回)『米沢』の計五紙であるが、『米沢』が翌日付の処分となっている他は、すべて即日の発停である。(旧)筆者の見た限りでは、『日本』明治二八年一月二四日「予戒策の効益」で初めてこの言葉が使われており、同紙は自らが名付けたと述べている。また、伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』七(塙書房、一九七九年)所収、明治一一八年四月一二日付伊藤宛陸奥宗光書簡でも、外交に関する新聞記事が列国の忌避に触れないよう「予戒処分」をするようにとの進言が見られる。もっとも時期的に見て、この「予戒処分」は実施されなかったと考えられる。(別)『日本』明治二七年九月一四日「警視庁の通達」。同日付『二六』『報知」『毎日』『めざまし』、翌一五日付『朝野』など計六紙に報道が見られる。(Ⅲ)国立公文書館所蔵「公文類聚、明治二七年、第一八編巻三九、警察門一、行政警察一」(請求記号2A・’一・類七一○、マイクロ番号M類二二)中、「明治二十七年勅令第
一一一国干渉前後の言論統制の一端(井上) 百三十四号(新聞雑誌草稿検閲ノ件)ヲ廃ス九月十一一日」。(皿)訓令の語義については、上野貞正編『法律辞典」(博文館、一九○三年)四五○頁によった。内閣法制局法律用語研究会編『法律用語辞典』(有斐閣、’九九三年)’’’’’一○頁によれば、現代でも訓令の語義は変わっていない。(羽)明治二六年一二月一七日「条約励行案に就て」では、衆議院に提出された条約励行案が「過激の文字」を含むことを理由に一時報道を禁止されたと報じ、’’七年五月一三日「不可記の注意」では、貴族院秘密会の内容の報道を禁じられたとしている。いずれも論評はしていないが、批判的な報道である。この二つの事例に関する政府側の史料は、筆者の見た限り見出せなかった。(別)註(岨)「予戒策の効益」。『日本』は同年一月一一三日「立憲政下の保安」でも同趣旨のことを述べている。(妬)『大阪毎日』四月一九日「新聞紙の取締」。同題でほぼ同じ記事が翌二○日の『徳島日日』にも掲載。(別)『やまと』四月一九日「百尺竿頭更に一歩を進めよ」。(Ⅳ)『山陰」四月一八日「勿狂談判成立」。(肥)この他、『万朝報』(以下『万朝』と略)四月一八日「和約成る」、『都』四月一九日「東洋平和の克服」などで同趣旨のことが述べられている。(別)『絵入日報』四月一八日「婿和本条約成る」。(釦)『東洋経済雑誌』七七三号(四月一一○日)「構和条約成れ
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り」。なお『国民之友』の発停については、講和条件に関する論評はなく、現時点ではその理由を特定できない。(別)『万朝』四月一九日「購和条件」。(皿)同じソースによると思われる記事は、四月一七日付『東京朝日』『大阪朝日』『絵人日報』『めざまし』『万朝』『九州日日』『神戸又新』『佐賀自由』『信濃毎日』『福岡日日』『北国』、四月一八日付『国会』『中央』『大阪毎日』『奥羽日日』、四月二○日付『山陰』など、『国民』を含めて計一七紙に見られる。(胡)これも、同じソースによると思われる記事が、四月二一日付『国会』『中央』『二六』『都」『めざまし』『大阪朝日』、同一一三日付『神戸又新』など、『毎日』を含めて八紙に見られる。(弧)四月二四日付『東京朝日』『国民』「国会』『時事』『二六』『毎日』『大阪毎日』、同二五日付『朝野』『やまと』『伊勢』『奥羽日日』『神戸又新』『佐賀自由』『信濃毎日』『福岡日日』『北国』、同二六日付『岩手公報』『海南』など『東京日日』を含めて一九紙に同様の記事が見られる。場合によっては第二期の期間に入るものもあるが、少なくともこの記事だけでは発停にならなかった。(妬)『日本』四月二七日「新聞社会の一大変事」。(洲)註(旧)『伊藤博文関係文書』一(塙書一房、’九七三年)所収、明治二八年四月二八日付伊藤宛朝比奈知泉書簡。(師)『国民」四月二六日。同日、『国民』の他、『東京朝日』 法政史学第五十三号
『国会』『中央』『毎日』『都』『報知』「やまと』『読売』『万朝』の在京紙計一○紙、『伊勢』『神戸又新』『佐賀自由』『信濃毎日』『山陰』『日出』『福岡日日』の地方紙七紙に記事抹消が見られる。(胡)実際『東京日日』は解停後、四月二九日「東洋に題する欧陸列国の運動」、五月四日「日清購和と欧州列国」などいくつかの記事や論説で、干渉に否定的な見解を示した。(胡)『岩手公報』四月二六日「外国の干渉」。(Ⅲ)『海南」四月二八日「大陸割譲に対する露国の姿勢」。(u)『二六』四月一一六日「東洋の覇権」、同日「第一一の支那」、同三○日「解停に就て所感を述ぶ」、五月九日「新三国同盟と大陸割地の条件」。(岨)『めざまし』四月三○日付第二面「短評」欄。(咄)『毎日』五月五日「人間の敵、邦国の敵」。ただしこの記事だけを転載した同八日付『中国」と同九日付『鎮西日報』は不処分となっている。(u)『毎日』五月五日「大隈伯と谷曽我二子」。(岨)『精神』五八号(五月一日)、「和局乎変局乎」。(岨)『立憲改進党党報』四三号(四月二五日)、肥塚竜「東亜の三大勢力」。(〃)『九州日日』は四月二四日付(一一一八三六号)が、『佐賀自由』は同一一六日付(三一九四号)がいずれも四月一一一○日に処分されている。また『小樽』は、一一八年五月三日分からしか史料がないが、五月七日に処分を受けた一一一八七号は四月三○
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