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対人援助における「かかわり」の意味 : ソーシャ ルワークと「ライフ」の概念

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(1)

対人援助における「かかわり」の意味 : ソーシャ ルワークと「ライフ」の概念

著者 空閑 浩人

雑誌名 評論・社会科学

号 74

ページ 125‑137

発行年 2004‑12‑20

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004680

(2)

蠢︑はじめに

ソーシャルワークは︑様々な生活上の困難を抱える人々にかか

わり︑相談等の営みを通して︑その生活を支援する援助活動であ

る︒それは現実に営まれる生活の社会的︑経済的︑文化的側面に

かかわると同時に︑個人や家族の生き方や価値観︑人生観にも触

れる営みである︒いわば︑人間が﹁生きること﹂︑すなわち人間

の多様な﹁生活﹂や﹁人生﹂︑すなわち﹁ライフ︵

life

︶﹂として

の人間の﹁生﹂の現実にかかわるものである︒その意味で︑ソー

シャルワークの実践に携わる援助者には︑対人援助専門職として

の確かな知識や技術の修得はもちろんのこと︑同時に﹁人が生き

るとはどういうことか﹂︑そして﹁その生活や人生に対する援助

とは何か﹂というような問いに向き合うことが求められる︒しか

し︑今日のソーシャルワークをめぐる議論では︑欧米での実践や そこから発展した理論の導入を中心に︑問題解決の有効な方法や

技術に関する検討が中心であり︑生活理解や援助者がかかわるこ

との意味に関する議論が十分でないと考える︒もちろん︑ソーシ

ャルワークが人々の社会生活上の問題の解決を通して︑その生活

を支援する援助活動である限り︑問題解決のための方法や技術が

厳しく問われるのはいうまでもない︒しかし︑その前提には︑

人々が現実に営む生活への理解とそれへのかかわりがもつ意味へ

の問いが基本的に必要であり︑そのことが実践の根底になければ

ならないと考える︒本稿は︑ソーシャルワークの実践が﹁ライ

フ﹂としての人間の﹁生﹂にかかわるものであるという観点か

ら︑改めて﹁ライフ﹂への視点とそれへの﹁かかわり﹂の意味を

見出し︑対人援助の根源的な意味を問い直そうとする試みであ

る︒

︹ 研 究 ノ ー ト ︺ 対 人 援 助 に お け る ﹁ か か わ り ﹂ の 意 味

│ │ ソ ー シ ャ ル ワ ー ク と ﹁ ラ イ フ ﹂ の 概 念 │ │

空 閑 浩 人

― 125 ―

(3)

蠡︑人間の﹁生︵ライフ︶﹂

にかかわるソーシャルワーク

1︑ソーシャルワークの本質としての﹁かかわり﹂

最初に︑ソーシャルワークにおける援助者から利用者への﹁か

かわり﹂について考えてみたい︒ソーシャルワークは︑専門的な

知識や技術をもった援助者が︑福祉サービス等の利用者にかかわ

ることから成り立つ営みであり︑その意味で﹁かかわり﹂が実践

の本質となる活動であるといえる︒しかし︑そのような実践の本

質としての﹁かかわり﹂とは︑﹁﹃専門家﹄による﹃素人﹄へのか

かわり﹂︑﹁﹃強い者﹄による﹃弱い者﹄へのかかわり﹂︑﹁﹃知って

いる人﹄から﹃知らない人﹄へのかかわり﹂を意味するのであろ

うか︒もちろん多様な生活問題に直面し︑生きづらさを抱える

個々の利用者に対して︑様々な制度やサービスを活用し︑専門的

知識や技術に裏づけられた援助活動によって︑経済的︑社会的︑

そして精神的にも利用者を擁護し︑その生活を支援するために努

力することは︑社会福祉の援助専門職として当然の職務である︒

また︑その際に制度やサービスの積極的︑効果的な利用等のため

に利用者に対して︑たとえば教育的︑指導的なかかわりをするこ

ともある︒その意味で︑ソーシャルワーク実践は︑確かに上記の

ような側面を帯びた関係においてなされる営みであるともいえ

る︒しかし︑それはソーシャルワーク実践の目的や機能に照らし

たときの援助者と利用者との関係性のひとつの表面的な現れであ って︑ソーシャルワーク実践の本質となるものではないと考え

る︒鷲田清一は﹁心を病む﹂人︑つまり精神障害を抱える人との

かかわりについて次のように述べている︒

支援しなければならないひととして見ることが︑﹁病む﹂

ひとたちの生きづらさを余計に生み出す︒ケアを受ける人と

して︑﹁病む﹂ひとを受動的な存在に押し込めてしまうから

だ︒﹁してあげる﹂ひとであることの可能性を奪い︑﹁しても

らう﹂ひととしてのあり方に閉じこめてしまうからだ︒︵鷲

2003 : 171

利用者に対する︑﹁援助者として﹂のある意味で﹁熱心な﹂援

助が︑逆に利用者の人としてのあり方の可能性を奪うことにもな

るということ︑さらに利用者との関係において︑﹁専門家として﹂

あるいは﹁援助者として﹂の自らの立場に頑なに止まり︑その知

識や技術の枠の中でのみ利用者にかかわろうとすることが︑逆に

援助関係を破綻させ︑結果的に﹁援助﹂というかかわりを崩壊さ

せることもあり得るということが︑忘れられてはならないと考え

る︒ソーシャルワーク実践の根底に問われるのは︑﹁人と人との

かかわり﹂を結びその関係を深めることができるかどうかという

ことなのである︒ここでいう﹁かかわり﹂とは︑一人の存在が︑

一人の他者の存在のかたわらに位置するとでもいうような行為や

状態︑あるいは関係であり︑ソーシャルワークにおける援助関係 対人援助における﹁かかわり﹂の意味

― 126 ―

(4)

や利用者とのラポール形成の前提あるいは基盤となるものであ

る︒そして︑このような﹁かかわり﹂を重視することは︑援助者

であることやその専門性を否定するものではない︒むしろ︑人間

の﹁生﹂に社会的にかかわる専門職であるからこそ︑特定の生活

問題解決の方法や技術の議論と同時に︑あるいはその前提とし

て︑人が日常を生きているということと︑それにかかわるという

ことに対しての理解と姿勢を忘れてはならないのである︒そし

て︑ソーシャルワーク実践のなかでは︑あまりにも理不尽な状況

のなかで重い苦しみを抱える利用者を前に︑問題の解決という援

助の目的が達成できないこともある︒実践のなかでのこのような

状況について︑秋山智久は︑次のように述べている︒

一専門職が﹁人﹂の人生の︑人間の途方もなく困難な問題

の﹁援助﹂がいつもできるとは︑とても思えない︒︵中略︶

ソーシャルワーカーは残念ながらそのような困難な問題の解

決はできなくとも︑その問題に社会福祉利用者と共に直面

し︑逃げ出さない姿勢が必要なのであろう︒これが﹁立ち尽

くす実践﹂である︒︵秋山

2003 : 348

349

確かに生活問題の解決を目指して活動する援助者として︑自分

の無力さに直面するのはつらいことである︒しかし︑このような

状況のときにこそ︑援助の本質である﹁かかわり﹂のもつ意味が

問われるときではないかと考える︒たとえば︑稲沢公一は︑援助 者にとってなすすべがない状況での利用者とのかかわりを︑﹁無

力さを共有する関係﹂という言葉で表現し︑次のように述べてい

る︒

この新たな関係性もまた︑苦しみを抱え込んで途方に暮れ

る者を何らかの形で支えることがある︒人は人のかたわらに

いて︑あるいは︑かたわらにいるだけだからこそ︑人を支え

ることができることもある︒︵稲沢

2002 : 194

このように︑援助者から利用者への﹁援助﹂という営みは︑

﹁人が人にかかわる﹂ということの上に成り立つものであり︑そ

の﹁かかわり﹂こそが人々の生活を支える対人援助活動としての

ソーシャルワークの本質であると考える︒個々の利用者にとって

どのような生き方が望ましいのか︑利用者にとって何が幸せなの

か︑そして利用者の生活を支える援助のあり方についても︑唯一

の正解といったものがあらかじめ用意されているわけではない︒

それは︑利用者が一人ひとり違った存在であり︑その生活や抱え

ている問題状況も一人ひとり異なるからである︒それゆえに︑時

に援助者は︑﹁どう援助すればいいのかわからない﹂状況に直面

する︒しかしそのような状況のなかでも︑利用者の安定した日常

性の回復を願いつつ試行錯誤しながら﹁かかわり続ける﹂営み

が︑対人援助活動であるソーシャルワーク実践なのである︒それ

は︑専門的知識や援助技術の行使が先にありきのものではない︒

― 127 ―

対人援助における﹁かかわり﹂の意味

(5)

利用者とのかかわりを育て深めることが先にあり︑その過程にお

いて必要な場面ごとに︑援助者が持っている確かな知識や技術を

活かすことで成り立つものなのである︒高橋潔は︑福祉のサービ

スに対する自らの希望や不満を訴えることのできない﹁無告之

民﹂ともいわれる知的障害児・者への真の福祉実践のあり方を問

うなかで︑﹁知的障害児・者の生涯にわたりエイドとなる﹃人と

のかかわり﹄を見逃すことはできない︒かかわりそのものが︑彼

らの﹃点字﹄であり﹃車椅子﹄の役割を果たしていく﹂と述べて

いる︵高橋

2000 : 6 2

︶︒このような﹁かかわり﹂そのものがもつ

意味を探るのが本稿の目的である︒

2︑﹁生きることの意味﹂にかかわるソーシャルワーク

ソーシャルワークとは︑その言葉の通り﹁ソーシャル︵社会

的︶﹂な活動である︒それは︑援助者が︑生活上の困難を抱える

利用者にかかわりながらその﹁苦しみ﹂や﹁思い﹂を受け止め︑

利用者の生活を立て直し︑社会的に支えようとする営みである︒

そしてそのとき援助者は︑必然的に個々の利用者の生き方や価値

観等に向き合うことになる︒我々は︑ただ生きて生活しているだ

けの存在ではない︒人間とは﹁生きながら︑その﹃生きることの

意味﹄を考えずにはいられない生きものだ﹂︵鷲田

2002 : 4 8

︶と

されるように︑我々は自らが生きる上での意味を見出しながら

日々生活している存在なのである︒それ故に︑ソーシャルワーク

の実践も︑人間がただ生きて生活していることを支えるというの ではなく︑個々人にとっての﹁生きることの意味﹂をも支える営

みであるといえる︒たとえば︑重度の障害をもつ人々や寝たきり

の高齢者へのかかわりを考えたとき︑﹁介護なしには日々の生活

が成り立たない人たちにとって︑介護者の存在は大きい︒生きて

いることの意味にすらかかわる大きな問題﹂︵鹿毛

2000 : 5 5

︶と

なる︒すなわち︑そこでは︑障害を抱えつつも︑また寝たきりで

あっても︑どうすれば利用者が生きている実感を覚えつつ日常の

社会生活を営むことが出来るかという問いに︑援助者は向き合う

ことになるのである︒ソーシャルワークは︑﹁老人﹂や﹁障害者﹂

にかかわるのではない︒﹁老い﹂や﹁障害﹂を抱えつつ︑今現実

にここに生きている具体的な一人ひとりの﹁人﹂にかかわり︑そ

してその人の生きることの意味にかかわり︑その﹁生﹂を﹁社会

的に﹂支えようとする営みなのである︒

今日︑社会状況の変化とともに︑人々が直面する生活問題も多

様化・複雑化しており︑そのような問題に対応し︑解決していく

ためには︑ソーシャルワークの援助方法や技術を磨いていく必要

があるのは確かである︒しかし︑そのような援助方法や技術の発

展が︑利用者の生活やそれにかかわる現場での実践を離れて︑方

法や技術の本来的な意味を見失い︑自己目的化することのないよ

うにしなければならない︒たとえば︑佐藤俊一は︑﹁今までソー

シャルワークは︑﹃人を援助するにはどうしたらよいのか﹄とい

うことに関心が向いており︑その前に基本的に必要となる他者を

わかったり︑生活を理解することが二次的なっていた﹂という指 対人援助における﹁かかわり﹂の意味

― 128 ―

(6)

摘をしており︵佐藤

2004 : 5 2

︶︑また︑阿部志郎は社会福祉教育

のあり方についての論考のなかで︑﹁生老病死の人生そのもの

に︑社会福祉が真剣にコミットしたことがあるのか︑の反省が私

をさいなむ﹂と述べている︵阿部

2003 : 1 8

︶︒ソーシャルワーク

が人間の﹁生﹂にかかわり︑その生きることの意味を﹁社会的

に﹂支えるということはどういうことなのか︒援助の根源的な意

味を探るにあたり︑この問いを避けてはならないと考える︒

3︑人間の存在価値の主張

ソーシャルワークは人間の﹁生﹂にかかわるものである︒そし

てそれはただ単に人間が生きて生活することにかかわることを意

味するのではなく︑人として﹁社会的に﹂生きること︑さらに

﹁生きることの意味﹂にもかかわるものである︒そして︑前述し

たようにソーシャルワークの実践では︑あまりにも重い生活問題

を抱える利用者を前に︑援助者としての自分の無力さをつきつけ

られることもある︒しかし︑そのようなときこそ︑﹁援助者はな

ぜかかわるのか﹂ということが問われるとともに︑﹁かかわるこ

との意味﹂があらわになるときであるといえる︒そして︑その意

味こそがソーシャルワークの実践の根底を成すと考えるのであ

る︒それでは︑改めてなぜ援助者はかかわるのか︑かかわること

の意味は何であろうか︒この問いに対して︑ソーシャルワークの

価値である﹁人が生きることへの尊厳﹂︑すなわち人間の存在価

値に関する議論から考えてみたい︒ ある人の生だけが尊くて他の人の生は尊くないということ

はありえない︒生の尊さはすべての人間において平等でなけ

ればならない︒すべての人間はその存在そのものにおいてす

でに等しい価値を有するのでなければならない︒それが存在

価値である︒︵山田

1999 : 268

知的にも身体的にも重度の障害を抱える人々︑寝たきりや重度

の痴呆の状態にある高齢者など︑ソーシャルワークはどのような

状態にある人でもその人の存在そのものにおいて価値があるとい

うことを主張しなければならない︒さらに︑ソーシャルワークが

利用者との現実的︑社会的なかかわりを媒介にして行われるもの

である以上︑この存在価値の主張は︑単なる観念的な主張に終わ

ってはならない︒﹁かかわり﹂をその実践の本質とするソーシャ

ルワークの文脈から︑あくまでも﹁社会的な﹂主張が必要である

と考える︒つまり︑誰もが現実的で個別具体的な存在として︑障

害や痴呆の状態を抱えていても︑それを当たり前に﹁人間に訪れ

る事実としての多様性﹂︵佐藤

2003 : 215

︶として社会的に認め

られ︑かつ現実に営まれるソーシャルワークの﹁かかわり﹂の根

拠となるような思考が必要ではないだろうか︒竹内章郎は︑人間

の生存について︑﹁人間は﹃社会的文化的存在﹄としてのみ生存

できる︒つまり社会や文化抜きの︑したがって生活抜きのたんな

る﹃自然的存在﹄としては︑現実の生存はない﹂︵竹内

1993 : 106

107

︶としている︒つまり︑そもそも人間の生存とは︑社会や

― 129 ―

対人援助における﹁かかわり﹂の意味

(7)

文化とともにしかあり得ないのであり︑人間の﹁生﹂そのものに

社会性が内在されているがゆえに人間は生存できるという指摘で

ある︒さらに竹内は︑このような人間の﹁生﹂に対する考え方か

ら︑﹁ただ生物学的に生きているだけの悲惨な生﹂ととらえられ

かねない重度障害者の生について︑次のように述べている︒

こうした﹁悲惨な生﹂は︑たんに当の﹁重度障害者﹂の

﹁自然的存在﹂によってのみもたらされたのではない︒つま

り︑﹁重度障害者﹂の﹁悲惨な生﹂を克服しうるだけのケア

などの未発達によっても︑こうした﹁悲惨な生﹂はもたらさ

れているのである︒︵竹内

1993 : 109

﹁自然的存在﹂としては重い障害を抱えているとしても︑豊か

なケアが保障されていることによって︑その人は人間らしい生を

生きることになる︒そのこと自体が︑人間が﹁社会的文化的存

在﹂として生存していることの証である︒すなわち︑﹁人間とし

ての在り方それ自体が︑たんに皮膚一枚で区切られた﹃自然的存

在﹄としての人間においてではなく︑まさに︑ケアや周囲のコミ

ュニケイションと一体﹂︵竹内

1993 : 112

︶ということなのであ

る︒このような人間の﹁生﹂の理解からすれば︑人間の存在価値

とは︑生物学的な﹁個﹂としての存在に求め︑そこから主張され

るものではなく︑社会的文化的存在として︑周囲とのコミュニケ

ーションや多様な関係から﹁社会的に﹂主張されるものであると いうことができる︒

このような︑周囲のケアやコミュニケーションと一体となって

はじめて成立し︑維持される人間の﹁生﹂という理解こそ︑ソー

シャルワークにおける﹁かかわり﹂の根拠となる思考であると考

える︒以下ではこのことについて︑﹁ライフ﹂の概念からさらに

検討してみたい︒

蠱て生﹁の間人のし︑と﹂フイラ﹁﹂

1︑関係性に支えられる﹁生﹂

﹁ライフ︵

life

︶﹂という言葉は︑﹁生命﹂﹁生活﹂﹁人生﹂などと

いう意味をもっている︒それは﹁人間のくらしといのちは一体の

ものであるという考え方﹂︵三塚

1997 : 5 3

︶であり︑﹁衣食住を

中心とする日常生活の営みという部分のみでなく多義性をもつ﹂

︵高田

2003 : 238

︶言葉である︒そして︑ソーシャルワークにお ける援助の目標として﹁QOL︵

Qu ality o f Life

︶の向上﹂とい

うことがいわれるが︑この﹁QOL﹂の概念は上のライフの意味

からすると﹁生命の質﹂﹁生活の質﹂﹁人生の質﹂という視点でと

らえられることになる︒鷲田は﹁ライフ﹂の言葉について次のよ

うに述べている︒

﹁ライフ﹂という英語がある︒わたしたちのいう生命を生活

と重ね合わせることで︑﹁ライフ﹂という語は生命というも

のの社会的な性格を保っている︒ひとのいのちが︑他人のそ 対人援助における﹁かかわり﹂の意味

― 130 ―

(8)

れに育まれ︑他人のそれと根本のところで支え合う関係にあ

るということ︒︵中略︶︿生﹀の原型は︑そういう他者とのつ

ながり方のなかにあるようにおもわれる︒︵鷲田

2002 : 8 6

この﹁ライフ﹂の言葉が意味する﹁生命の社会的な性格﹂こ

そ︑﹁ケアや周囲とのコミュニケーションと一体として成立し︑

維持される人間の生﹂という理解とつながるものであり︑ソーシ

ャルワークが追求するべきものであると考える︒すなわち︑それ

は生物学的な存在あるいは自然的存在としての人間の︑その内部

にある生命ではなく︑あくまでも社会的文化的存在である人間と

して︑他者とのつながりにおいて支えられる﹁生命︵いのち︶﹂

の理解から︑日常生活におけるその﹁ライフ﹂の質の向上を図ろ

うとする思考であり︑実践の追求である︒

ところで︑このような﹁ライフ﹂がもつ意味をふまえた人間の

﹁生﹂の理解から︑前述した人間が生きる意味はどのように見出

せるであろうか︒そもそも︑我々が自らの存在や生きる意味を見

出すということは︑どのような﹁かたち﹂で可能なのだろうか︒

このことについて鷲田は次のように述べる︒

所有物としてのじぶんの才能や性格のうちにではなく︑だ

れかある他者にとってのひとりの他者でありえているとい

う︑そうしたありかたのなかに︑ひとはかろうじてじぶんの

存在を︑あるいはその意味を見いだすことができるだけだ︒ ︵鷲田

2001 : 198

199

鷲田によれば︑我々にとって自らの存在やその意味は︑個体と

しての自分自身のなかに見いだせるものではなく︑誰かにとって

の他者であるという︑そのありかたに見いだせる︑言い換えれ

ば︑他者との関係性のうちに見いだすことができるということに

なる︒ということは︑我々は︑自らが誰にとっての他者にもなり

得ないとき︑すなわち他者との関係性を持ち得ない状態にあると

き︑我々は果たして自らが生きる意味を見いだすことができるの

であろうか︒小浜逸郎は自殺に関する論考の中で次のように述べ

る︒

人間にとって︑他者との関係性の喪失ほど︑致命的なもの

はないのである︒他者との関係性は︑人間が人間であること

の必須条件であって︑他者との関係性において︑自分が存在

すると確信できることこそは︑人間として生きる意欲の源泉

をなしている︒︵小浜

2000 : 4 5

我々は︑他者との関係性において︑自らの生きる意味を見出す

ことが出来る︒言い換えれば︑﹁他者とのつながりの意識におい

て生きているという実感﹂︵小浜

2000 : 4 6

︶が持てる状態にある

かということが︑生きるために必要ということになる︒そして︑

このような﹁実感﹂は︑我々の﹁生きがい﹂につながると考え

― 131 ―

対人援助における﹁かかわり﹂の意味

(9)

る︒奥川幸子は︑﹁生きがい﹂に加えて︑﹁居がい﹂という言葉を

も挙げて︑次のように両者を説明している︒

生きがいは︿生きる︵

liv in g

︶﹀うえでの充足感で︑本人自

身の生きる姿勢が鍵になっている︒一方で︑居がいは︑︿た

だ在る︵

be in g

︶﹀だけで得られる充足感で︑本人よりも︑周

囲がそのような存在に対してどのように遇するかが鍵になっ

ている︒いずれも︑社会と人との関係の︿絆﹀があるという

ことになる︒︵奥川

1997 : 157

他者とのつながり︑社会とのつながり︑その関係性のなかに

我々は﹁居がい﹂や﹁生きがい﹂︑あるいは﹁生きているという

実感﹂を見出すことができ︑これらが我々の﹁生きる意味﹂を構

成しているといえる︒山浦俊治は︑﹁深刻な重度障害者の存在に

意味があるのは︑その障害者と︑それをとりまく人々との﹃関

係﹄が生きている時にこそ︑正に意味があると思うのです︒﹃意

味論﹄の中味は︑﹃関係論﹄だと考えます﹂と述べている︵山浦

1987 : 217

︶︒生きる意味とは︑﹁ライフ﹂としての人間の﹁生﹂

それ自体が社会性を内在したものである以上︑他者との関係性に

おいてはじめて︑社会的に見出すことができるものである︒その

意味で︑ソーシャルワークの実践とは︑利用者一人ひとりの

﹁生﹂が意味あるものとなるような他者との関係性を育てるため

に︑﹁かかわる﹂営みであるといえる︒ そして︑このような﹁ライフ﹂の意味から﹁QOL﹂の概念

も︑他者や環境から切り離された存在としての人間の能力や個性

による生命や生活の質ではなく︑他者や環境との関係性の豊かさ

に支えられた生命や生活の質として理解することができる︒すな

わち︑QOLの向上とは︑﹁たんに諸個人の孤立的で抽象的な

﹃生命の質﹄ではなくて︑まさに他者や社会︑文化全体との関係

のただ中にある生活・生・人生の総体﹂︵竹内

1993 : 180

︶とし

ての﹁ライフ﹂の質の向上なのである︒

このように︑﹁ライフ﹂としての人間の生の理解を基盤に据え

ることにより︑人間が生きることの意味やQOLの概念︑および

その向上ということが﹁社会的に﹂見いだされ︑実践されるもの

であるという理解が可能になる︒そして︑﹁援助者はなぜかかわ

るのか﹂というソーシャルワークにおける﹁かかわり﹂そのもの

がもつ意味もここにあると考えられるのである︒それはすなわ

ち︑﹁かかわり﹂そのものが︑社会的文化的存在としての人間の

﹁生﹂を成立させ︑維持するとともに︑その﹁かかわり﹂がある

ことによってはじめて︑その﹁生﹂が人間らしい豊かなものへと

なる可能性が生まれるということなのである︒

蠶支こういとるえを︑﹂生﹁の間人と

最後に︑これまでの議論をふまえて︑援助者による﹁かかわ

り﹂の意味とともに︑ソーシャルワークが人間の﹁生﹂を支える

ということはどういうことなのかについて考えてみたい︒ 対人援助における﹁かかわり﹂の意味

― 132 ―

(10)

たとえば︑他者の呼びかけに反応したり︑自らの意志を表現す

ることが出来ず︑外側から観察されるかぎり︑他者との交流が不

可能な存在とみられるかもしれないような寝たきりの重度の障害

者であっても︑実際に介護に携わる社会福祉施設等の職員は︑彼

らとの交流を確かなものとして実感していることがある︒そし

て︑その実感は決して介護者のひとりよがりでないものとして体

験されている︒これまで述べてきた﹁かかわり﹂のもつ意味と

は︑社会福祉施設等のまさに﹁かかわり﹂の現場のなかで︑はっ

きりとは見てとれないが︑確かに体験され︑見出されているもの

ではないかと考える︒

近江学園創設者であり︑重い障害を持つもつ子どもたちにかか

わり続けた糸賀一雄は︑その著﹃福祉の思想﹄のなかで︑次のよ

うな現場でのエピソードを紹介している︒

脳性小児麻痺で寝たままの十五歳の男の子が︑日に何度も

おしめをとりかえてもらう︒おしめ交換のときに︑その子が

全力をふりしぼって︑腰を少しでも浮かそうとしている努力

が︑保母の手につたわった︒保母はハッとして︑瞬間︑改め

て自分の仕事の重大さに気づかされたという︒︵糸賀

1968 :

175

人間や生命という抽象的な理解ではなく︑子どもとの現実的︑

具体的なかかわりのなかで社会的に︑あるいは関係的に見出され る存在としての人間︑また社会的︑関係的に共有される﹁ライフ

としての生﹂がある︒上の糸賀によるエピソードは︑そのような

﹁生﹂のかたちを保母︵保育士︶が受け入れるとき︑その子ども

の﹁生﹂は︑その保母︵保育士︶の仕事に社会的な意味をも与え

るものとなったということではないだろうか︒すなわち︑自然的

存在としては︑ただ生きているだけの存在としか見えない重度の

障害児であるかもしれないが︑周囲の人々の多様なかかわりがあ

ることによって︑その子どもは社会的存在として︑いわば人間ら

しい﹁生﹂を生きる存在となり︑同時にその﹁生﹂は︑かかわる

側との間で共有され︑かかわる側にもその存在や行為の意味をも

たらすものとなるのである︒ソーシャルワークの実践が人間の

﹁生﹂を支えるということは︑このような実践の姿︑すなわち︑

かかわりによって互いの﹁生﹂を共有し︑支えられるような関係

づくりをいうのではないだろうか︒

また︑精神科医の小澤勲は︑痴呆性老人との永年のかかわりを

振り返って︑次のように述べている︒

彼らと接していると︑人

!

!

!

!

!

!

!

!

!

!

と感じる︒ !

そのせいだろうか︒私自身も﹁わたし﹂へのこだわりが若い

頃に比較して格段に少なくなっている︒むしろ︑つながりの

結び目としての自分という感覚の方が強くなっている︑とい

ったらよいだろうか︒そのつながりは︑病を得てからとても

強くなっていて︑私の残された生を支え︑充実したものにし

― 133 ―

対人援助における﹁かかわり﹂の意味

(11)

てくれている︒︵小澤

2003 : 220

︑傍点筆者︶

我々にとって︑﹁生きる意味﹂や﹁生﹂の充実︑あるいは﹁生

きがい﹂等といったものは︑個としての自らの内部ではなく︑あ

くまでも社会的な存在として︑個を越えたつながりのなかで見出

すことができると考える︒そして︑ソーシャルワークの実践が人

間の﹁生﹂を社会的に支えようとする営みであるならば︑このよ

うな︑いわば﹁個を越えた生﹂ともいうべき人間の﹁生﹂︑すな

わち﹁ライフ﹂への認識が︑その出発点として求められる︒さら

に︑そのような個を越えて他者と共有される人間の﹁生﹂を受け

入れることのうえに︑あるいは受け入れることのできる能力こそ

が︑対人援助職としての専門性を成り立たせるといえるのではな

いだろうか︒人間の﹁生﹂︑すなわちその生命や人生は︑個とし

ての存在のなかで完結するものでは決してない︒﹁個の生ではな

く︑個を越えた生﹂があり︑﹁個体の生命ではなく︑個体を越え

た生命﹂があり︑﹁個人の人生ではなく︑個人を越えた人生﹂が

あるということである︒そして個々人の存在価値や生きる意味と

は︑社会的文化的存在として生きるその社会的な﹁生︵ライ

フ︶﹂のあり方から見出されることになる︒ここに︑人間の﹁生﹂

を社会的に支えることを目的とするソーシャルワークの実践にお

いて︑援助者が利用者に﹁かかわること﹂︑そしてその﹁かかわ

り﹂を続ける意味があると考えるのである︒

蠹︑おわりに

本稿は︑ソーシャルワークが﹁ライフ﹂としての人間の﹁生﹂

にかかわる実践であるという理解から︑﹁かかわり﹂そのものが

もつ意味を探り︑さらに援助の根源的な意味をも見出そうとする

試みであった︒医療現場における看護師と患者との関係を研究す

る西村ユミは︑いわゆる植物状態にある患者とのかかわりについ

て次のように述べている︒

見る主体と見られる客体とが明確に分離されてしまったと

き︑植物状態患者は他者との交流を閉ざされてしまうのであ

る︒この主客分離の二元的枠組みを乗り越えられない限り︑

彼らとの交流の可能性は見えてこない︒︵西村

2001 : 4 1

これは︑植物状態にあるとされる患者が︑単なる治療対象とし

て︑すなわち援助される客体とみなされることによって︑他者と

の交流という人間としての﹁生﹂の可能性が失われていくという

指摘である︒言い換えればそれは︑﹁主客分離の二元的枠組み﹂

を超えた﹁かかわり﹂があることによって︑たとえ植物状態にあ

っても︑他者との交流の可能性や人間らしい﹁生﹂が可能になる

ということである︒さまざまな社会福祉の現場は︑確かに利用者

の生活を支援するという目的を持った場所である︒しかし︑そこ

で行われる援助活動では︑たんなる援助者と利用者︑すなわち援 対人援助における﹁かかわり﹂の意味

― 134 ―

(12)

助する主体と援助される客体との関係だけが体験されているので

はない︒﹁ライフ﹂としての人間の﹁生﹂を成り立たせ︑他者と

の交流の可能性を拡げるものとしての﹁かかわり﹂が︑援助関係

の前提として︑さらに援助活動の本質として体験されていると考

える︒そしてその﹁かかわり﹂が続けられることのうえに︑援助

者が目指す利用者との援助関係や信頼関係の深まりもあり得るの

である︒ソーシャルワークの研究では︑対象に対して︑どう援助

するのかといった援助方法や技術の議論が中心となる︒確かに援

助という目的を持った営みである以上︑有効な援助のあり方︑ま

た科学的実践としての方法・技術や援助の質の向上に関する研究

は必要である︒そして︑もちろんそれらがソーシャルワークの専

門性の向上に多く寄与することもいうまでもない︒しかし同時

に︑ソーシャルワークが科学的であろうとすることで︑実践の本

質である人が人にかかわるということ︑その﹁かかわり﹂が生み

出す﹁生﹂の感覚︑人間の﹁生﹂へのかかわりとその実践のリア

リティというようなものを遠ざけてしまうことになってはならな

いと考える︒人間とは何か︑生きるとは何か︑それを社会的に支

えるとはどういうことかという問いを抱え続け︑人と人とがかか

わる生の営みの具体的状況へのまなざしを失うことなく︑﹁ライ

フ﹂としての多様な人間の﹁生﹂にかかわる営みとしてのソーシ

ャルワークという実践の豊かさを見出し︑方法や技術︑援助のあ

り方を追求していきたいと考える︒ ︵1︶尾崎は︑﹁援助は初めから助言︑対処︑判断︑サービス提供など

を目指すのではなく︑かかわりを育て︑深めることを目指すべき

である︒むろん︑助言︑サービス提供などは援助の重要な機能で

ある︒しかし︑これらは育ちつつあるかかわりのなかで初めて意

味を持つ﹂と述べている︵尾崎1999:293︶︒

︵2︶たとえば︑﹁ロビンソン・クルーソーも︑作者デフォーの英国で

の生活で蓄積された社会と文化の力が彼自身の内にあったからこ

そ︑生存できたのだし︑原始時代などといわれる状態の人間にと

っても︑たとえば︑性的関係を基盤にした一定の社会的文化的関

係があったればこそ︑そしてこの関係が各人の内に内在している

がゆえにこそ生活できたのである﹂としている︵竹内1993:

107︶︒

︵3︶メイヤロフ︵Mayeroff,M.︶は︑﹁相手をケアすることにおいて︑

その成長に対して援助することにおいて︑私は自己を実現する結

果になる﹂として︑ケアする側にとってのケアの対象たる他者の

意味について述べている︵メイヤロフ2002:69−70︶︒

阿部志郎︵2003︶﹁社会福祉教育のグランドデザインを描く﹂﹃社会福祉

研究﹄86,17−21.

秋山智久︵2000︶﹃社会福祉実践論︱方法原理・専門職・価値観﹄ミネ

ルヴァ書房︒

稲沢公一︵2002︶﹁援助者は﹃友人﹄たりうるのか︱援助関係の非対称

性﹂古川孝順・岩崎晋也・稲沢公一ほか﹃援助するということ︱社

― 135 ―

対人援助における﹁かかわり﹂の意味

(13)

会福祉実践を支える価値規範を問う﹄有斐閣︑135−208.

糸賀一雄︵1968︶﹃福祉の思想﹄日本放送出版協会︒ 木原活信︵2003︶﹃対人援助の福祉エートス︱ソーシャルワークの原理

とスピリチュアリティ﹄ミネルヴァ書房︒

久保紘章︵1999︶﹁人間を理解する方法﹂﹃ソーシャルワーク研究﹄25

︵3︶,1. 増田樹郎・山本誠編︵2004︶﹃介護の思想︱なぜ人は介護するのか︱﹄

久美︒

Mayeroff,Milton︵1971︶OnCaring,Harper&Row.︵=2002︑田村真・

向野宣之訳﹃ケアの本質︱生きることの意味﹄ゆみる出版︒︶

三塚武男︵1997︶﹃生活問題と地域福祉︱ライフの視点から︱﹄ミネル

ヴァ書房︒

西村ユミ︵2001︶﹃語りかける身体︱看護ケアの現象学︱﹄ゆみる出版︒ 小浜逸郎︵2000︶﹃なぜ人を殺してはいけないのか︱新しい倫理学のた

めに﹄洋泉社︒

岡田藤太郎︵1998︶﹃社会福祉学汎論︱ソーシャル・ポリシーとソーシ

ャルワーク﹄相川書房︒

岡田藤太郎︵2000︶﹁ソーシャルワークのゆくえ︱﹃大義﹄と﹃機能﹄﹂

﹃ソーシャルワーク研究﹄26︵1︶,1. 奥川幸子︵1997︶﹃未知との遭遇︱癒しとしての面接﹄三輪書店︒ 尾崎新編︵1999︶﹃﹁ゆらぐ﹂ことのできる力︱ゆらぎと社会福祉実践﹄

誠信書房︒

小澤勲︵2003︶﹃痴呆を生きるということ﹄岩波書店︒ 佐藤幹夫︵2003︶﹃ハンディキャップ論﹄洋泉社︒

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高田眞治︵2003︶﹃社会福祉内発的発展論︱これからの社会福祉原論︱﹄

ミネルヴァ書房︒

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て﹄佼成出版社︒

山浦俊治︵1987︶﹃この子らは光栄を異にす﹄地湧社︒ 対人援助における﹁かかわり﹂の意味

― 136 ―

(14)

Why Do Social Workers Concern Themselves with Clients?

── Social Work Practice and The Concept of ‘Life’ ──

Hiroto Kuga

The purpose of this paper is trying to reconsider about why social workers con- cern themselves with clients, from the point of view that social work practice is con- cerned with‘lives’of human beings. For this purpose, it examines the concept of and the perspective into lives of human beings in the social work practice.

We live daily with trying to find some purpose in life. Accordingly, social work practice is concerned with not merely each life of client, but also the purpose in life of each client, and aims to support it socially. Moreover, those purposes in life can be found not in the existence of each person as an individual, but in the mutual rela- tionships with the others which we enjoy as social and cultural existence. This seems to be the very thing which can be the basis of social work practice, and finds out the consideration which approaches to the fundamental principles of social work, that is why social workers concern themselves with clients.

― 137 ―

対人援助における﹁かかわり﹂の意味

参照

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