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平城宮跡・平城京跡の発掘調査 平城宮跡発掘調査部

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(1)

平城宮跡・平城京跡の発掘調査

平城宮跡発掘調査部

平 城 宮 跡 発 掘 調 査 部 で は , 1 9 8 6 年 度 に , 平 城 宮 跡 内 で は 推 定 第 一 次 朝 堂 院 南 門 東 側 , 推 定 第 二 次 朝 堂 院 , 内 裏 東 方 東 大 溝 な ど 1 6 件 ( 富 北 方 遺 跡 を 含 む ) , 平 城 京 域 内 で は 左 京 三 条 二 坊 七 坪 , 左 京 四 条 二 坊 一 坪 , 右 京 八 条 一 坊 十 四 坪 な ど の 9 件 , そ れ に 頭 塔 , 法 華 寺 , 西 大 寺 な ど 寺 院 9 件 , 計 3 4 件 の 調 査 を 実 施 し た 。 以 下 , 主 要 な 調 査 の 概 要 を 報 告 す る 。

1.平城宮跡の調査

推 定 第 一 次 朝 堂 院 南 門 東 側 ( 第 1 7 6 次 ) の 調 査 第 一 次 朝 堂 院 に つ い て は , 過 去 7 回 の 調 査 に よ っ て , 朝 庭 部 分 を 除 い た 区 画 の 東 半 部 の ほ ぼ 全 域 の 遺 構 を 検 出 し て き た 。 こ の う ち 東 面 の 区 画 施設については変遷の大要が判明しているが,南面については,調査場所によって遺構の残り が悪く,細部の状況が異なるために,遺構の性格や区画の変遷に関して一致した見解が得られ

ていない。そこで,懸案の問題を解決するため,南面東半部の未調査部分を調査した。

今回の調査で明らかとなった主な点は次の通りである。1.東西方向の布掘状掘込地業

S X 9 1 9 9 は,掘立柱塀S A 9 2 0 1 と直接関係しない可能性が強い。2.掘立柱塀S A 9 2 0 1 は2時期の 柱掘形の重複はなく,1時期だけである。3.SA 9 2 0 1 のすぐ南に,それよりも新しい東西塀 S A 1 2 9 5 0 の確認した。これは,東面の区画施設S A 5 5 5 0 B と遺構の状況が共通している。

以上の事実と,従来の調査成果を合わせて,第一次朝堂院の区画施設の変遷を概観する。

A期第一次朝堂院の区画施設を造営する以前の時期。基幹南北排水路SD 3765を朝堂院中軸 線の東約1 0 2 mの位置に掘削する。中軸線の東約1 2 0 mに南北方向の柱掘形列S A 8 4 1 0 を掘り下げ るが,柱を立てずに埋め戻す。南面では掘込事業SX9 1 9 9 を東西約7 2 mの間にわたって掘り下げ るが,これも建造物の地下地業として完成することなく,造営途中で埋め戻す。

B 期 第 一 次 朝 堂 院 の 区 画 施 設 と し て , 掘 立 柱 塀 を 造 る 時 期 。 朝 堂 院 の 規 模 は , 東 西 約

平 城 宮 跡 発 掘 調 在 位 侭 図

2 1 4 , . 6 0 0 大尺,南北約2 8 4 , . 8 0 0 大尺で ある。B1.B2の2小期に区分できる。

B 1 期 南 面 東 半 を S A 9 2 0 1 , 西 半 を SA 9 2 0 2 で限る。両者の間は約1 5 mあいてお り,この段階では門はない。SA 9 2 0 1 は3 7 間 あ り 柱 間 寸 法 が 約 9 尺 で あ る 。 東 面 は S A 5 5 5 0 A でS A 5 5 5 0 A は9 6 間 寸法が約1 0 尺である。これらの塀は,高さ 5 m 前 後 で 基 壇 が あ り , 柱 と 柱 の 間 に は 土 壁を設け,屋根に瓦を葺いた大規模な施設

で あ っ た 。 基 幹 排 水 路 と し て 南 北 溝 S D37 15

− 2 2 −

(2)

S A 5 5 5 0 A の

B2期SA 9 2 0 1 . 9 2 0 2 の間に朝堂院南門S B 9 2 0 0 を造営する。朝堂院内部には四棟の朝堂を建 造し,第一次朝堂院が完成する。S B 9 2 0 0 の建設の際に,SA 9 2 0 1 . 9 2 0 2 の中寄り名2間分を取り 壊して門基壇の掘込地業を行っている。門は桁行5間・梁行2間で柱間寸法は桁行中央3間が 15尺等間,両脇間が10尺,梁行が各15尺の切妻造りとみられる。門の南側にはいわゆる土廟が つく。廟の出は1 5 尺で門基壊の外(南)側に廟を受ける柱列がある。この廟の柱列と南側柱筋 を揃えて,土廟の東西に,桁行3間・梁行1間の東西棟掘立柱建物各1棟(SB 9 1 9 0 ・SB 9 1 9 2 ) を配置する。門とSA 9 2 0 1 . 9 2 0 2 の北側に雨落溝を造り(S D 9 1 7 0 . 9 1 7 1 A・9 1 7 2 A) ,門の東西で は,朝堂院内部中央から,南下した2条の南北渉(S D 9 1 7 3 . 9 1 7 4 )がS D 9 1 7 1 A ・9 1 7 2 Aと接続

C期朝堂院を区画するS A 5 5 5 0 A ・9 2 0 1 を撤去し,S A 5 5 5 0 B ・1 2 9 5 0 に改作する時期。

S A 5 5 5 0 B ・1 2 9 5 0 とも柱は直径2 0 cmほどの細さであるのに柱間が3mと広いので,S A 5 5 5 0 A ・ 9 201 のような壮大な塀ではなく,仮設的な板塀であったと考えられる。

D期朝堂院の区画施設を東面・南面とも築地塀に造替える。S B 9200の南廟および門の南側 東西のSB 9 1 9 0 . 9 1 9 2 を撤去する。門の東西の溝SD 9 1 7 3 . 9 1 7 4 が南に直流し,築地塀北側の溝

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推 定 第 二 次 朝 堂 院 地 区 ( 第 1 7 3 次 ) の 調 査 推 定 第 二 次 朝 堂 院 地 区 で は , こ れ ま で に 第 1 6 1 . 1 6 3 . 1 6 9 次 の 調 査 を 実 施 し , 第 1 6 1 次 で は 東 第 一 堂 と そ の 下 屑 の 掘 立 柱 建 物 , 第 1 6 3 . 1 6 9 次 で は 朝 庭 部 分 で 3 時 期 の 大 嘗 宮 を 検 出 し た 。 今 回 の 調 査 は , 東 第 二 堂 お よ び 下 層 遺 構 の 規 模 と 構 造 を 明 ら か に す る 目 的 で 行 っ た 。 前 期 難 波 宮 や 藤 原 宮 で は , 第 一 堂 と 第 二 堂 と の 間 に は 構 造 の 面 で 相 違 が あ る が , 第 三 堂 以 南 の 朝 堂 は 第 二 堂 と 基 本 的 な 違 い が な い 。 平 城 宮 も 同 様 と 考 え れ ば ,

第 二 堂 の 調 査 に よ っ て 第 三 堂 以 南 の 朝 堂 に つ い て の 見 通 し が 立 て ら れ る 。

今 回 の 調 査 で 以 下 の 点 が 明 ら か に な っ た 。 1 . 束 第 二 堂 S B 1 2 9 2 0 の 規 模 と 構 造 が 判 明 し た 。 瓦 葺 き 礎 石 建 ち で 基 壇 が あ り , 9 間 × 4 間 の 四 面 廟 付 南 北 棟 建 物 で あ る 。 柱 間 は , 身 舎 が 桁 行 ・ 梁 行 と も 1 3 尺 ( 3 . 9 m ) 等 間 , 廟 の 出 が 1 0 尺 で あ り , 桁 行 総 長 が 1 1 1 尺 ( 3 3 m ) , 梁 行 総 長 が 4 6 尺 ( 1 3 . 5 m ) と な る 。 基 壇 規 模 は 南 北 3 6 . 5 m , 東 西 1 7 . 5 m で , 基 壇 の 出 は 約 6 尺 で あ る 。 西 面 に 3 ケ 所 , 北 面 に 1 ケ 所 の 階 段 が 付 く 。 従 来 , 第 二 堂 は 切 妻 の 建 物 と 考 え ら れ て い た が , 入 ・ 母 屋 な い し 寄 棟 造 建 物 と な る 。 2 . 束 第 二 堂 の 下 層 で 掘 立 柱 建 物 S B 1 2 9 3 0 を 検 出 し た 。 1 2 間 × 3 間 の 西 廟 付 南 北 棟 建 物 で 基 聴 が あ る 。 柱 間 は , 桁 行 ・ 梁 行 と も 1 0 尺 ( 3 m ) 等 間 で , 桁 行 総 長 が 1 2 0 尺 ( 3 6 m ) , 梁 行 総 長 が 3 0 尺 ( 9 m ) と な る 。 基 聴 は 現 存 部 で 高 さ 4 5 c m あ る が , 規 模 は 不 明 で あ る 。 こ の 建 物 は , 東 第 一 堂 下 層 建 物 S B1 1 7 4 0 と 同 時 期 で あ る 。 3 . S Bl l 7 4 0 と S B1 2 9 3 0 の 位 置 関 係 , お よ び 東 第 一 堂 と 東 第 二 堂 の 位 置 関 係 は 以 下 の 通 り で あ る 。 す な わ ち , S B 1 1 7 4 0 の 東 側 柱

列とS B 1 2 9 3 0 の西入側柱列とが筋を揃え,両建物の南妻は2 0 0 尺(6 0 m)離れる。S B 1 2 9 3 0 の身 舎中軸線は朝堂院下層区画中心線から2 2 5 尺(6 7 m)東にあり,この距離は中心線から東面の塀 までの距離3 0 0 尺の4分の3にあたる。東第一堂と東第二堂の南妻位置はそれぞれの下層建物と 一致する。東第一堂と東第二堂は柱筋を揃え,身舎中軸線がS B 1 2 9 3 0 の身舎中軸線と一致する。 4.第1 6 9 次で検出したB・C期大嘗営の南辺と東第二堂南妻が筋を揃える。A期大嘗営の南辺

はB・C期の約30尺(9m)北に位置する。

この地域の調査の進行に伴なって問題となっているのは,朝堂の下層で検出している掘立柱 殿舎の' 性格である。これについては,東宮説が出されていたが,以上の事実と従来の調査成果 を合わせると,下層遺構も「朝堂」であったと考えられる。根拠は以下の通りである。1.内 裏・第二次大極殿院・第二次朝堂院の全域に,上層の建物配置に類似した下層建物群がある。

それらはすべて掘立柱建物で,一体のものとして計画されたとみなせる。2.下層遺構の朝庭 部分には,大嘗宮のような仮設物を除けば常設の建物がなく,やはり庭として機能を果してい た。3.東第一堂のみならず東第二堂の下層にも建物があり,これら下層建物の位置.規模を ほぼ踏襲して上層の朝堂が建てられている。したがって,第三堂以南の朝堂についても下層建 物が存在する可能性が高くなり,下層建物が合計1 2 棟あったと想定できる。S B 1 1 7 4 0 がS B 1 2 9 3 0 より内側にあり構造が異なるのは,前期難波宮や藤原宮の朝堂にみられる第一堂と第二堂との

違いと同様である。

このように下層遺構を朝堂と考えると,以下の点が問題となる。

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を前提に今後の検討を進めるべきであろうc

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上館二次朝堂院地区訓査位侭図・変遷図下東第二堂基聴東西方向断面似I 属 す べ き 大 殿 で あ る こ と

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1.下層朝堂の存続年代。上限は平城遷都当初まで遡る可能性がある。文献史料ではすでに 和銅年間から朝堂の記載があるのに対し,第一次朝堂院の成立が発掘調査の成果から霊亀まで しか遡らず,これを和銅の朝堂に当てることはできない。したがって,第二次朝堂院下層朝堂 が和銅の朝堂に当たる可能性がある。下限は上層朝堂の建設時となるが,これが聖武天皇即位 のころか,平城還都後かは議論が分かれており,現状では後者の可能性が強まっている。

2.平城宮中央の第一次朝堂院と第二次朝堂院との関係。第二次朝堂院下層朝堂がすでに奈 良時代前半から存在しているから,二つの地区の朝堂院は終始並存していたことになる。第1 7 1 次調査では,奈良時代の前・後半ともに,朝堂の南辺に二つの朝堂をつなぐ塀があることを確 認しており,すでに朝堂並存の徴証が見られていたが,今回の調査によってその点がさらに補 強された。朝堂並存の意味については,第一次の朝堂が四堂で,第二次のそれが十二堂である ことを重視すれば,平安宮の豊楽院・朝堂院と同様に機能の分化と考えることができよう。第 一次朝堂院では主として儀式・宴会が,第二次朝堂院では朝政が行われる,といった使い分け の端緒となったのではなかろうか。

3.第二次朝堂院下解朝堂の正殿,つまり第二次大極殿下畷建物は何か。大極殿に類似する 機能を持つ「大安殿」に比定するのか,さらに別の殿舎か,いまのところ断案はないが,いず

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内 裏 東 方 東 大 溝 地 区 ( 第 1 7 2 次 ) の 調 査 調 査 区 は 内 裏 東 外 郭 と 内 裏 東 方 官 街 と に 挟 ま れ た , 東 大 溝 S D2 7 0 0 を 中 心 と す る 地 区 で , 北 は 第 2 1 次 , 東 は 第 3 8 . 4 0 . 1 5 9 次 , 南 は 第 1 5 4 次 , 西 は 第 2 6 . 3 3 . 7 0 次 調 査 区 に 接 す る 。 検 出 し た 主 要 な 遺 構 は , 掘 立 柱 建 物 2 2 棟 , 門 1 棟 , 築 地 塀 2 条 , 掘 立 柱 塀 2 7 条 , 渉 1 0 条 で あ る 。 以 下 , 今 回 あ ら た に そ の 存 在 が 判 明 し た 内 裏 東 外 郭 東 接 官 街 ,

東大誌,内裏東方官街の順で,遺構の状況を述べる。

内裏東外郭東接官筒この官術域は,東西を東大溝S D 2 7 0 0 と内裏束外郭東面築地S A 7 0 5 で限

ら れ , 南 は 第 1 5 4 次 調 査 で 検 出 し た 内 裏 内 郭 か ら の 排 水 溝 S D 4 2 4 0 で 限 ら れ る 。 東 西 幅 は 当 初 約 1 6 m , の ち に 東 大 燕 の 堆 積 土 上 に 南 北 塀 S A 1 2 8 0 0 が 築 か れ て 約 1 7 m に 広 が る が , 平 城 宮 の 官 衝

区画としてはきわめて幅の狭い特異な形態である。遺構は大きく4時期に区分でき,A期が奈 良時代前半,B期が平城還都以降,C期が天平宝字年間以降,D期が奈良時代末である。A〜C 期には,官衝域を大きく南北2区に分け,それぞれに建物を1〜4棟配す。C期が最も整備さ れた時期で,周囲を塀で囲んだ中をさらに塀で南北二区に分け,建物を整然と配置する。北面 区画施設は検出していないが,今調査区のすぐ北側に東而塀SA 12800にとりつく東西塀があっ て,内裏東外郭の東門S B 6 8 2 0 の南側に達していたと推定できる。

東大溝SD 2 7 00 平城宮東半部の基幹排水路で1 20 mにわたり検出した。堆積脚は大きく6層 あり,これを手がかりに溝の変遷を概観する。当初は素掘りで,溝幅は5〜6m,深さ1 . 6 〜 1 . 8 m・天平年間前後に東岸を西に寄せて人頭大の玉石(三笠山安山岩)を積んだ石垣を構築し た。この時期の渉幅は4〜5m,深さ1. 2 〜1. 4 m・西岸は当初から石垣が作られず,杭としが

らみで護岸していたが,早い時期に崩壊し,崩壊土を石垣底部まで波渓したとみられる。天平 宝 字 年 間 前 後 に , 溝 の 西 半 を 瓦 を 多 量 に 含 む ③ 層 で 埋 立 て 護 岸 と し た 。 こ の 時 期 は 溝 幅 3 〜 3 . 5 m,深さ1m。④層の堆積で溝がほぼ埋まった後の奈良時代末に東岸沿いに幅約0 . 6 〜0 . 8 m,

深さ0 . 3 〜0 . 4 mの細溝が掘られ,⑤層が堆積した。⑥層は満の妓終末期の堆積である。

内裏東方官筒調査区束端で官簡の西而・南面築地の一部と西門,東大溝に注ぐ暗渠を検出し た。西面築地S A 2 9 4 0 の下層には掘立柱南北塀がある。第1 5 4 次調査の知見と合わせれば,南北 塀はS A 2 9 4 0 南端で東へ曲がり,南面築地S A 1 2 7 8 0 の下層につながるとみられる。

遺物SD 2 700から大鼓の木製品(主要な物を28頁に図示)・金属製品(同左).土器.瓦博 類・木簡等が出土したo木製品では黒漆塗把頭や金銀蒔絵製品(本文5 7頁で詳述) ,金属製品で は銅製人形・海老錠(鎮子)・和同銭バリ銭・鋳竿,土器では新羅製陶質土器,瓦博類では「献 軍器□」墨書噂.飛雲文軒丸瓦・蓮華文鬼瓦などが注目される。木簡は4 56 5点あり,造営関 係・兵部省・中務省に関わるものが目立つ。墨書土器にも中務省・宮内省関係のものがある。

ま と め 内 裏 束 外 郭 東 接 官 街 は 南 北 に き わ め て 細 長 く , 通 常 の 官 術 配 置 と は 異 な る ◎ こ の 官 術の性格はどう考えるべきであろうか。2つの可能性をあげておく。1つはすぐ西に接する内 裏東外郭内の官術の付属施設であり,その官術が手狭になったため,外郭外に付属施設を設け たという可能性である。もう1つは,この官荷が内裏外郭の門S B4215とS B6820 との間に位置

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することから,内裏ないしはその外郭の門を守る兵の詰所的なものという可能性である。奈良 時代には内裏に通じる(内門・閤門)は兵衛府が,内裏外郭の門(中門・宮門)は衛門府と衛士 府が守衛していたと思われる。また神亀5(7 2 8 )年8月には天皇の側近にいて警護にあたる中 衛府が設置されている。今回出土の遺物にも「兵衛」「中衛」「馬従料」 ,五衛府の主典である

「大志」 ,兵部省被官の「造兵司̲ ,などの記載のある木簡や,「献軍器□ 」の墨書噂,「中衛」

「術□ 」の墨書土器,黒漆塗把頭など武官の存在を物語るものがあり,付近に兵がいたことを うかがわせる。第1 3 次調査で出土した木簡から,内裏北外郭内に兵衛の詰所があったと推定さ れていることも参考になる(『平城宮木簡一解説』) ◎今の所いずれとも決められないが,今調 査区の北側の調査によって,官簡の性格はより明らかになろう。

内裏東外郭東接官術は,c期に最も整然とした姿を示した。その改修は東大溝③屑の瓦護岸

(天平宝字年間前後)と一連の作業とみられる。この③層からは東方官術所用の瓦が大量に出土 しており,東大溝に注ぐ暗渠を改修したのも瓦護岸後まもなくの頃であるなど,天平宝字年間 前後には内装東方官街を含め,この地域は大規模な改作をうけていることが知られる。それは

『続日本紀』に見える天平宝字元(7 5 7 )年5月の大宮改修,あるいは同5年1 0 月の平城宮改作 などと関連する可能性がある。なお,内裏東方官簡の下層から上層への改修と,内裏東外郭東

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内裏北外郭北方(第1 7 4 ‑ 8 次)の調査洲森地は内裏北外郭に北接する所で,7.5m離れる東西

櫛 2 条 を 検 出 し た 。 こ の う ち 南 の 櫛 S D 1 2 9 7 2 は 内 裏 北 外 郭 北 面 築 地 の 北 雨 落 赫 も し く は , 内 裏

北外郭に北接する官術の南限施設に関わる遺構と考えられる。ちなみに,第1 3 9 次調査で,内裏 北外郭東北隅の築地が確認され,これから復原される' 向術の南北規模は築地心々で約6 4 mであ る。S D l 2 9 7 2 の溝心は南面築地S A 4 8 8 (第1 0 次調査)の心の北約7 0 mに位慨する。

佐紀池南辺(第177次)の調査平城宮西北部にある佐紀池は,従来の調査で奈良時代の│刺池で あったことを確認している。第92次洲炎では,池の南岸と新旧2時期の堰を伴う排水路を検出

した。本調査区は第92次訓恋区の洲隣りで,池岸の続きを確認する期待がもたれた。

調査の結果,奈良時代の遺構は4時期に区分できた。A期:奈良時代当初には2条の平行す る東西満と東西方向の溝状遺構S D 1 2 9 7 1 がある。B期:養老6年(7 2 2 )頃に,東西溝を木屑と 炭で厚く覆い,さらにその上に稜土を侭き,積土の南裾に東西溝を設ける。この積土が池の堤 の一部であった可能性がある。C期:奈良時代中頃に,B期の積土の南側にさらに穣土を侭き,

l 2 . 6 m0 . 5 mi l i S D l 2 9 6 5 をWl j 推 定 馬 寮 や そ の 東 方 官 術 の 北 面 を 限 る 築 地 の 北 側 溝 の 約 3 m 北 に な り , こ の 地 域 に お け る 何 ら かの官術の北限にかかわる櫛と推定される。A期のS D 12 97 1 はこの瀧とほぼ同位侭であり,こ の溝の前身遺構の可能性がある。D期:奈良時代末ないし平安時代初め頃,SD l 2 9 6 5 の廃絶後に 南北廟付東西棟建物が建てられる。

今回の調査では,池岸を確認できなかったが,第92次調査区の池岸は排水路にむかって南に 張り出すので,本調査区付近では池岸が幾分か北に後退するものと推定できる。B期の木屑・

炭層は多量の削屑.桧皮を含み,この地域で養老6年頃に何らかの造営が行われたことを示す。

この木屑・炭牌および直上の積土からは多斌の木簡・木製品・瓦・土器が出土した。

馬寮地区北方(第1 7 4 ‑ 2 0 次)の調査伊福部門からのびる宮内東西道路をはさんで馬寮の北側 の地域では,従来奈良時代の顕著な遺構を検出していない。今回,南北棟建物2棟と,区画に かかわる施設とみられる2条の東西溝を検出し,この地域の様相解明の手がかりを得た。

北面大垣(第1 7 4 ‑ 1 6 次)の調査歌姫街道沿い西側で,第2 3 次調査区のすぐ東にあたる。大垣 築土基底部と北雨落溝,下牌の掘立柱塀の柱掘形(一辺2m)を検出した。

平城宮北方遺跡(第1 7 4 ‑ 2 次)の調査I水上池南岸の護岸工事にともなう調査。調査区は宮 北面大垣のすぐ北側で,大垣の濡地が想定された。また谷筋を堰きとめた奈良時代園池の存在

も考えられ,池の堤と大垣の関係を知る上で重要な所である。調査の結果,現在水上池がある

もともとの谷筋のうち北面大垣の近くは,奈良時代中頃には整地して利用していたことが判明 し,池の東南隅調査区では国土方眼方位にのる東西溝を検出した。

平 城 宮 北 方 遺 跡 ( 第 1 7 4 ‑ 5 次 ) の 調 査 Ⅱ 調 査 地 は 下 吉 堂 池 の 西 南 , 超 昇 寺 城 跡 の 西 方 に あ た る 。 超 昇 寺 城 に 関 連 し た 東 西 濠 ( 復 原 濠 幅 1 0 . 6 m , 深 さ 4 . 2 m 以 上 ) を 検 出 し , 城 の 範 囲 が 従 来 の

想 定 範 囲 を 越 え て 西 方 に 延 び る こ と が 明 ら か と な っ た 。 ( 岩 永 省 三 )

(9)

2 . 平 城 京 跡 の 発 掘 調 査

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○ ○ o前年度までの調在地点

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(数字は調在次数)

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平城京発掘調査位置図

右京八条一坊十四坪(第1 79次)の調査大和郡山市塵芥焼却場予定地の事前調査で,これまで 大和郡山市教育委員会の調査も含め,計5回にわけて実施してきている。その結果,左京八条 一坊十三・十四坪における宅地割の状況を知ることができ,また,金属製品や漆製品に関する 工房がこの地域に存在することが明らかになった。今回の調査地は,過去5回の調査地に挟ま れた地域で,十四坪のほぼ中心にあたる。検出した主な遺構は,奈良時代以前の斜行溝1条,

奈良時代の掘立柱建物24 棟,掘立柱塀5条,溝4条,井戸3基のほか,炭化物を含む多数の土 砿などで,奈良時代の遺構については,大きくA・Bの2時期に分けられる。

A期は調査区西端の道路遺構SF 16 5 0によって,坪が東西に区画されている。東に南廟付の東 西棟建物S B 1710があり,それを囲むように,建物,倉庫が建つ。これらの間には,円形,長円

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形の土職や炭化物を多く含む不整形な土壌が多数ある。特に後者の土砿からは,とりべ,輪羽 口,帯金具の未製品,留針など金属工房と関連する遺物の出土が目立つ。次のB期では,区画 塀S A 13 00 などによって十四坪は細分され,宅地として利用されている。なお,建物の建て替え 等が認められるが,遺構変遷の各時期における細分については,現在検討が進められている。

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右京八条一坊十四坪発掘調在遺構図

調 査 の 結 果 は , 過 去 の 調 査 所 見 と 同 じ で , 右 京 八 条 一 坊 十 三 ・ 十 四 坪 の 地 は , 奈 良 時 代 前 半 は 金 属 製 品 や 漆 製 品 を 扱 う 工 房 的 な 施 設 が 存 在 し , 後 半 に な る と 坪 内 を 細 分 し , 1 / 1 6 町 あ る い は 1 / 3 2 町 の 宅 地 と し て 利 用 さ れ て い た こ と が 明 ら か に な っ た 。

左 京 三 条 二 坊 七 坪 ( 第 1 7 8 次 ) の 調 査 デ パ ー ト 建 設 に と も な う 事 前 調 査 で , 約 4 0 , 0 0 0 ㎡ の 敷 地

の う ち 約 3 0 , 0 0 0 ㎡ を 2 年 半 の 期 間 で 調 査 す る 予 定 で 開 始 し た 。 今 回 の 調 査 地 は , 敷 地 の 南 端 に

あ た り , 国 道 3 6 8 号 線 ( 大 宮 通 り ) に 面 し た 東 西 約 1 4 0 m , 南 北 約 5 0 m の 範 囲 で あ り , 七 坪 の 南

半 分 に あ た る 。 従 来 の 訓 査 で も , 左 京 三 条 二 坊 に は , 1 町 ( 以 上 ) を I ' 『 め る 大 規 模 宅 地 が 確 か

め ら れ て お り , 南 の 六 坪 で は , 圃 池 を 中 心 と し た 宴 遊 施 設 も 見 つ か っ て い る 。 こ う し た 点 か ら

も , 宮 に 近 接 し た 今 回 の 調 査 地 に お け る 土 地 利 用 状 況 は 注 「 I さ れ た 。 検 出 し た 遺 構 は , 掘 立 柱

建 物 5 0 棟 以 上 , 掘 立 柱 塀 3 9 条 以 上 , 識 1 0 条 以 上 , 井 戸 1 4 基 , 坪 境 の 道 路 1 条 , 坊 間 路 1 条 , 坪

内 道 路 2 条 な ど で あ る 。 こ れ ら の 遺 構 は , 平 城 京 造 営 以 前 ( A 期 ) と 奈 良 時 代 以 降 ( B 〜 E 期 )

(11)

に大別できる。

A 期 平 城 京 造 営 以 前 , 調 査 区 の 東 半 部 に は , 数 条 の 自 然 河 川 が 北 東 か ら 南 西 へ 蛇 行 し な が ら 流 れ て い る 。 股 大 の も の は , 幅 4 〜 1 2 m , 深 さ 約 1 . 5 m で , 現 在 調 査 区 の 東 を 流 れ る 菰 川 の 旧 流 路 で あ る 。 こ の 流 路 は , 奈 良 時 代 の 初 め に 一 度 掘 り 直 さ れ , 中 頃 に は 埋 め 立 て ら れ た 。

B 期 七 坪 と 二 坪 と の 間 に 坪 境 小 路 が な く , 両 坪 が 一 体 と し て 使 わ れ て い た 時 期 。 七 坪 西 半 に は , 掘 立 柱 塀 を め ぐ ら し た 区 画 が あ り 建 物 が 並 ぶ が , 東 半 は , 掘 り 直 し た 河 川 が あ り , 空 閑

地が目立つ。B期は,さらに3小期の変遷をたどる。

B 1 期 は , 南 北 塀 S A 5 0 と 東 西 塀 S A 9 5 に 囲 ま れ た 区 画 が あ る 。 区 画 の な か に は , 二 坪 と の 境 か

ら西にかけて,南北に廟をもつ東西棟建物S B 1 0 0 が建ち,これとS A 5 0 のほぼ中間に位置する南 北塀S A 7 0 でさらに区切られた東方には,2棟の東西棟建物SB 56.62がある。東西塀S A 9 5 の北 に接して,南北に側溝をもつ東両道路S F 7 7 が通る。これらの区画の外には,S A 5 0 の東に接して 東西棟総柱建物S B 4 5 がある。南北溝S D 1 0 6 は,東二坊坊間路の西側溝であり,平安時代の初頭 まで存続していた。

B2期は,S B 1 0 0 を除いて,建物や塀は造り替えられる。S B 1 0 0 の東方にS A 7 0 の位置を踏襲し た南北塀SA 7 1 と東西塀SA 3 8 ,南北塀SA 3 9 で囲まれる区画ができる。このなかに,東西棟建物 S B 40.60があり,S B 4 0 の東妻にはS A 3 9 が取り付く。

B3期には,区画が北へ移動する。南北塀SA35 ,東西塀S A3 4があり,S A3 4には,南北塀 SA 101が取り付く。SA 35は,条坊計画による七坪の東西中軸線上,SA 101は二坪・七坪の境界 線上にあり,計画的に配侭されている。区画のなかの東西棟建物SB 90は南北に廟をもち,身舎 は床張りである。区画の外は,東方に南北棟建物SB 21.26などが建つ。

C期七坪と二坪の間に南北道路SF1 17Aが設けられ,様相が一変する。七坪は,東西道路 SF 87により,さらに南北に二分される。北半は,東西に廟をもつ南北棟建物SB651棟のみであ るが,南半には,南北に廟をもつ東西棟建物SB 5 5 のほか,掘立柱建物SBO1・42.81.84があ る。なおS F 117A の東側灘は,現状では2ケ所で途切れている。これが当初のものか,後世の 削平によるものかは,そのうちの1ケ所がS F 87との交点にあたるため,慎重な検討を要する。

D期南北道路SF1 17Aが廃され,再び七坪と二坪が一体として利用される。二坪・七坪の 境界線上には東西に廟をもつ南北棟建物SB 96があり,七坪の西から1/ 4のところには,東西棟 建物SB 58.59が南北に並び,SB 58は南北に廟をもつ。坪の東西二等分線を挟んで東には東西に 廟をもつ南北棟建物S B 20,西には東西棟建物SB 4 1が建つ。また,この時期になって,それま では,ほとんど利用されることのなかった菰川旧流路の一帯にも,小規模ながら建物が建てら れるようになる。

E期七坪と二坪との間に再び南北道路S F 1 1 7 Bが設けられる。坪のなかを細分する施設は検 出されていないが,小規模な建物がS F1 1 7B や坊間路沿いに散在する。E期は,さらに2小期に 区 分 さ れ る 。

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左京三条二坊七坪発掘調査遺構図・変遷図

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E 1 期 は , S F 1 1 7 Bの 東 に , 東 西 棟 建 物 S B8 0 . 8 3 . 8 9 , 坊 間 路 沿 い に 掘 立 柱 建 物 S B0 9 . 1 1 な ど が な ら ぶ 。 そ の 中 間 に は 東 西 棟 建 物 S B 3 2 が あ る だ け で , 顕 著 な 遺 椛 は 認 め ら れ な い 。 南 北 櫛 S DO7 は , 坊 間 路 西 側 溝 S Dl O6 の 西 3 0 尺 に 位 慨 し , 何 ら か の 区 画 を 示 す も の で あ ろ う 。

E 2 期 は , S F 1 1 7 Bの 東 に , 東 西 棟 総 柱 建 物 S B9 2 , 南 に 廟 を も つ 東 西 棟 建 物 S B8 2 , 坊 間 路 沿 い に 掘 立 柱 建 物 S B0 4 . 0 8 . 1 3 , そ れ ら の 中 間 に 小 規 模 な 掘 立 柱 建 物 S B4 3 . 6 4 が 建 つ 。

井 戸 1 4 基 の う ち , 井 戸 枠 等 の 遺 存 し て い た も の は 8 基 で あ る 。 こ の な か で , 縦 板 を 用 い た 例 が 4 基 ( S E 0 2 . 1 5 . 3 6 . 7 8 ) , 底 板 を ぬ い た 円 形 曲 物 を 裾 え た 例 が 3 基 ( S E 6 7 . 7 9 . 1 1 6 ) で , 横 板 蒸 篭 組 は S E 7 2 の 1 基 で あ る 。 残 り 6 基 の う ち 2 基 ( S E 1 7 . 1 1 5 ) は , 掘 削 途 中 で 埋 め 戻 し て お り , 他 の 4 基 ( S E 0 3 . 1 6 . 1 1 2 . 1 1 3 ) は , 井 戸 枠 が 抜 き 取 ら れ 遺 存 し て い な い 。 こ れ ら 1 4 基 の 井 戸 の う ち 遺 構 の 重 複 関 係 な ど か ら 掘 削 時 期 を 推 定 で き る の は , S E 3 6 . 7 2 . 1 1 5 の B 3 期 , S E 7 9 の B 1 期 程 度 し か な い 。 一 方 , 廃 絶 時 期 も , 井 戸 内 の 出 土 遺 物 か ら S E 1 5 . 1 6 . 7 9 な ど が 奈 良 時 代 末 と 推 定 で き る に す ぎ な い 。 ま た , 井 戸 の 配 置 を み る と , 南 北 に 分 か れ て , そ れ ぞ れ 東 西方向に並んでいる。遺構の変遷や坪内の分割,区画等の土地利用状況を知る上での手懸りに

なる。

まとめ今回の調査では,平城京造営当初から2町以上を占める施設の存在したことが確認 され,また,七坪と二坪とが一体に利用された時期と道路で区画される時期のあることが明ら かになった。しかし,この道路が坪境小路であるか,敷地内の道路の一つであるかは,慎重な 検討を要する。継続して行われている七坪北半の第1 8 4 次調査において,南北塀SA 35.50は,

八坪との境界を越えて,さらに北に続くことが判明しており,4町規模の施設の存在が明らか になっている。これが大規模な宅地なのか,あるいは公的性格をもつ施設かは,今後の大きな

課 題 で あ る 。

3 . 平 城 京 内 寺 院 の 調 査

本年度は,法華寺,興福寺,薬師寺,東大寺,秋篠寺,西大寺の寺域内での事前調査を実施 した。ここでは,法華寺と西大寺の調査の概要について記す。

法華寺(第17 4 ‑ 2 2 次)の調査公民館建設に伴う調査で,現在の法華寺南門の東南にあたる。

南門の南では過去2回の調査によって,奈良時代の金堂跡が確認されており,今回の調査地は その真東にあたる。調査の結果,奈良時代の法華寺造営に伴う遺構と造営前の遺構を検出した。

法華寺造営前の遺構検出した遺構には,掘立柱建物1棟,喋敷と井戸周囲の排水施設である 石組灘がある。発掘区東北部で検出した牒敷S X3998は,南西部分の状況を知ることができた。

喋敷は地山を1mほど掘り下げた面にあり,地山面との段差には,人頭大の河原石を3〜4個 積み上げて擁壁としている。擁壁と喋敷との間には,石組の南北溝SD 3 9 9 3 ,東西溝SD 3 9 9 4 が 巡る。石組溝は底に偏平な石を敷き,喋敷側には細長い石を侭いて側石とし,反対側はそのま

ま擁壁の石積につながる。一段高くなった擁壁の西側には篠が敷かれ(SX39 99) ,南側でも所々

− 3 4 −

(14)

回 廊 の 基 聴 あ る い は 柱 跡 は 検 出 し て い な て金堂に取り付く回廊の側溝と考えられる。ただし,

いので,回廊の南北いずれの側溝かは不明である。

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法 華 寺 旧 境 内 発 掘 調 盃 遺 椛 図

X 4 0 0 0 は,S B 3 9 9 1 に取り付く塀,または,別の掘立

柱 建 物 の 西 北 隅 柱 と 考 え ら れ る ○ 以 上 の 遺 構 は , 法 華 寺 造 営 に 伴 っ て 廃 絶 し た の で あ る が , 藤

原不比等邸の時期まで遡るか否かは決定しえなかった。

法 華 寺 造 営 に 伴 う 遺 構 検 出 し た 遺 構 は 礎 石 建 物 1 棟 , 石 組 溝 1 条 で , 法 華 寺 造 営 前 の 遺 構 を 埋 め , 整 地 し た 後 に 造 ら れ て い る 。 礎 石 建 物 S B 3 9 9 2 は , 西 南 部 を 検 出 し た も の で , 版 築 に よ る 基 壇 を 伴 う 。 版 築 直 下 に は 地 固 め の た め 厚 く 際 を 敷 い て い る 。 礎 石 は 残 っ て い な か っ た が , 礎 石 据 付 け 掘 形 の 底 に 人 頭 大 の 石 を 数 個 置 き 根 石 と し て い る 。 な お , 雨 落 溝 , 基 壇 化 粧 の 痕 跡 は 認 め ら れ な い 。 石 組 溝 S D 3 9 9 6 は , 底 に 偏 平 な 河 原 石 を 敷 き 側 石 を 立 て た 東 西 溝 で , 位 置 的 に み

に 喋 敷 の 跡 が み ら れ る 。 一 方 , 東 発 掘 区 では,S D 3 9 9 3 ,S D 3 9 9 4 の水を南へ流す南 北石組渉SD 3 9 9 5 を検出した。この石組渉 も 底 に 偏 平 な 石 を 敷 き , 東 西 に 側 石 を 立 て て い る 。 こ れ ら の 遺 構 は , 発 掘 区 の 東 北 に 想 定 さ れ る 井 戸 本 体 に 伴 う 施 設 で あ る。なお,井戸を囲むと推定される石組 誌の位置を知るため電気探査を行ったと ころ,石組溝で囲まれる範囲は南北16m であると,推定できた。一方東西幅につ い て は , 東 発 掘 区 で 検 出 し た 石 組 熊 S D 3 9 9 5 が,井戸東の溝の延長とすると

7m,井戸の中軸線上とすると1 4 mとな る。また,喋敷S X 3 9 9 9 の西には南北棟建 物S B 3 9 9 1 が建つ。発掘区東南隅の柱掘形S

ついて実施した。また四王堂周辺では,

配 管 予 定 地 に

貯水槽から四王堂に至る区間と堂周辺の 配管位置を決定するために,本来の基壇 営以前の平城京の宅地に属す建物,中.

西大寺の防災工事に伴う事前調査で,

西 大 寺 の 調 査

− 3 5

査も行った。配管予定地では,西大寺造

を 確 認 す る 訓

近 世 の 井 戸 , 池 な ど の ほ か , 四 王 堂 に 付 属 す る と 思 わ れ る 建 物 の 一 部 な ど を 検 出 し た 。

四 王 堂 基 壇 の 調 査 現 四 王 堂 の 周 囲 に お い て 基 聴 規 模 確 認 の 調 査 を 行 っ た と こ ろ , 当 初 の 基 壇 規 模 を 確 認 し た に と ど ま ら ず , 四 王 堂 が 大 き く 3 時 期 の 変 遷 を た ど る こ と が 判 明 し た 。

A 期 に は , 基 壇 は 凝 灰 岩 を 使 っ た 壇 上 積 で 地 山 の 上 に 整 地 し た 後 , 版 築 で 築 く 。 規 模 は 東 西 約 3 7 m , 南 北 約 3 1 m で あ る 。 柱 は す べ て 抜 き 取 ら れ て い る が , 断 割 り の 結 果 , 当 初 の 四 王 堂 は , 整 地 後 に 柱 穴 を 掘 り , 柱 を 立 て て か ら 版 築 で 基 壇 を 築 い た 掘 立 柱 建 物 で あ る こ と が 判 明 し た 。

『 西 大 寺 資 財 帳 』 に よ れ ば , 四 王 堂 は 桧 皮 葺 の 双 堂 形 式 で あ る 。 従 っ て 今 回 検 出 し た 柱 抜 き 取

(15)

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り 穴 は , 北 側 に あ る 正 堂 の 南 側 柱 列 と 考 え ら れ , 正 堂 は 5 間 2 間 の 身 舎 に 四 面 廟 の つ く 東 西 棟

建物と推定される。

B 期 は 整 地 を 行 う と と も に , A 期 基 壇 の 南 半 を 削 っ て 段 を も つ 基 壇 に 造 り 直 し , 礎 石 建 物 に す る 。 基 壇 端 に は 瓦 と 石 を 用 い て い る 。 北 側 の 基 壇 の 南 辺 で 礎 石 列 と 礎 石 の 間 を つ な ぐ 縁 束 石 と 考 え ら れ る 石 列 を 検 出 し た 。 B 期 も 双 堂 形 式 と す る と , 礎 石 の 大 き さ な ど か ら , 正 堂 と 礼 堂 が 屋 根 続 き と な る 形 式 が 想 定 で き , 礎 石 列 と 縁 束 石 列 は 両 堂 の 軒 下 と な る 中 の 間 に 立 つ 柱 を 受 け た の で あ ろ う 。 基 壇 化 粧 に 用 い ら れ た 瓦 は 火 を 受 け て お り , ま た , 基 壇 崩 壊 土 の 下 に は 焼 土 ・ 炭 層 が あ り , こ の 建 物 が 火 災 を 蒙 っ た こ と が わ か る 。 基 壇 化 粧 の 瓦 や 出 土 し た 土 器 か ら , B 期 の 建 物 は , 9 世 紀 中 頃 に 造 営 が 始 ま り , 1 0 世 紀 中 頃 に 火 災 で 廃 絶 し た こ と が 判 明 し た 。

C 期 に 属 す る 建 物 関 連 の 遺 構 は 検 出 し て い な い が , 基 壇 は B 期 の 南 半 の 段 を 埋 め 立 て , 東 西 に も 拡 幅 し , 東 西 幅 は 4 0 m ほ ど に な る 。 現 四 王 堂 の 外 周 に 大 鼓 に 土 器 を 含 む 層 が 広 が る こ と か ら , 現 四 王 堂 の 位 置 に , 規 模 も そ れ ほ ど 違 わ な い 建 物 が 建 っ て い た と 考 え ら れ る 。 B 期 の 基 壇 土 や 遺 構 面 に 広 が る 堆 積 層 出 土 の 土 器 に よ り , c 期 の 上 限 は 1 1 世 紀 頃 と 考 え ら れ , 1 1 世 紀 初 頭 , 輔静が西大寺別当に就任した後に四王堂が再建されたことがわかる。(小林謙一)

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西 大 寺 四 王 堂 基 壇 と 周 辺 の 遺 構 図

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(16)

1 986 年度平城宮跡発掘調査部調査一覧

− 3 7 −

調 査 地 区

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遺 跡 ・ 調 査 次 数 平城宮第172 平城宮第173

次 次 次 次 次 次 次 次 次 峨 軟 秋 歌 欽 歌 畝 秋 跳 欺 峨 軟 域 欽 欽

1 2 3 4 5 6 7 8 9 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 2 2 2 2 2 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 − 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 7 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第 第

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宮 宮 宮 京 京 京 京

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西 大 寺 次 数 外

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5 .1 6 8 6 .5 .1 5 〜5 . 2 8 8 6 .5 .1 9 〜 86.6.9〜6.11 6.4〜26 86.7.7〜7. 25 8 6 .7 .1 0 〜 86.7.19〜9.6 1 1 .1 4 8 6 .1 1 .1 3 〜1 1 .1 4 8 6 .1 1 .2 5 〜 1 2 .1 2 8 6 .1 2 .1 7 〜 87.3.2〜3.5 8 6 .8 .1 2 〜1 2 .1 8

8 6 .1 0 .1 3 〜 1 2 .2 6 8 7 .1 .2 8 〜2.

87.2.2〜4.17 7.9.

調 査 面 瀧 ( ㎡

0 0 6 5 4 6 7 0 0 5 1 0 9 0 0 5 6 1 0 5 5 5 0 5 6 2 0 0 0 0 0 0 0 7 0 0 1 9 3 1 2 5 ・ 2 9 . 7 1 ・ 1 2 1 ・ 7 1 9 . . 0 0 4 0 0 5 0 . 9 4 2 9 4 4 9 0 7 6 4 3 0 6 1 9 1 1 3 6 4 1 ︲ ︐ 5

1 1

2 6 1 4

内 裏 東 方 東 大 沸 推 定 策 二 次 朝 堂 院 法 華 寺 旧 境 内 平 城 宮 北 方 遺 跡

右京一条北辺二坊 平 城 宮 北 方 遺 跡

興 福 寺 旧 境 内 内裏北外郭北方 東 大 寺 旧 境 内 左 京 三 条 二 坊 三 ・ 四 坪 左 京 一 条 二 坊 十 四 坪 左 京 四 条 二 坊 一 坪 薬 師 寺 旧 境 内 秋篠寺旧境内 平城宮北方遺跡 平 城 宮 北 面 大 垣

賜寮地区北方 平城宮北方遺跡 右 京 一 条 二 坊 馬 寮 地 区 北 方

法華寺旧境内

坪 坪

十 三

坊 坊

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左 右

推 定 第 一 次 朝 堂 院 南 推 定 第 一 次 朝 堂 院 南 門 東 側

佐紀池南辺 左 京 三 条 二 坊 七 坪 右 京 八 条 一 坊 十 四 坪 左 京 三 条 一 坊 一 ・ 八 坪

頭塔 西 大 寺

参照

関連したドキュメント

のとおりである。 図表 2-1-26 悪臭防止法に基づく地域指定状況図       (26 年3月 31 日現在). 第 2

 インドネシアのバンテン州セラン県ティルタヤサ郡 ティルタヤサ村を中心に位置し、バンテン王国ティル タヤサ大王の離宮跡と周辺の水利施設跡で構成され る[坂井編

Erdene-Ochir N-O., Bolorbat Ts., Lkhündev G.: Эрдэнэ- Очир Н., Болорбат Ц., Лхүндэв Г., 2017, “Донгойн Ширээ”-н Археологийн малтлага судалгааны шинэ үр

Figure 88 Chinese blue-and-white bowls, brown glazed bowl, red enamel ware bowl, outside of east house, Level 2d. Figure 89 Chinese blue-and-white bowl, enamel ware bowl,

Figure 90 Finds from gray sand layer at the open space, Level 3, Khor Fakkan town site. Green glazed ware, bowls, Iran,

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施設 平成17年 平成18年 平成19年 平成20年 平成21年 平成22年 平成23年 平成24年 平成25年 平成26年 10年比 松島海岸 㻟㻘㻠㻝㻥㻘㻜㻜㻜

シーリング材の 部分消滅 内壁に漏水跡なし 内壁に漏水跡あり 内壁に漏水跡なし 内壁に漏水跡あり 内壁の漏水跡が多い.