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主要遺構概 説

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Academic year: 2021

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(1)

第 1節   平城京域 の主要 な調査

左京一条三坊・ 四坊 (図

1‑①  

2)京

都 と奈良 を結ぶ国道 24号 線のバ イパスエ事 に伴 う調査で、1969年 か ら1970年にかけ てお こなった。平城宮 に比較的近い立地で、十四・十五坪か ら は園池 を伴 う建物群が見つかつた ことか ら、有力貴族の邸宅 と 推定 されている。奈良時代初頭か ら末期 の

3期

の遺構変遷 を確 認 し、I期のSD485か らは、紀年木簡 (713〜

717)や

「和銅」

と記す墨書土器 とともに、多量 の上器が 出土 し、「平城官土器

Ⅱ」 の指標 となってい る。 ここか らは形象硯

(8)が

出上 し てお り、時期 のわかる資料 として注 目され る。東三坊大路 は平 安時代以降 も平安京 に続 く主要 な幹線道路 として残 り、東側溝

SD650か

らは告知札 な ど京都 との往来 を示す遺物 とともに、9 世紀初 めか ら10世紀初頭 までの遺物が多 く出土 した。埋土は上 下層 に大別で き、 出土 した銭貨、木簡、土器 な どか ら下層 の

SD650Aは 9世

紀前半、上層 の

SD650Bは 9世

紀後 半 に堆積 し た とみ られているが、出上 した陶硯 はSD650A・ Bと もに圏足 円面硯 を中心 に風字硯、黒色土器

B類

の風字硯 を含 むな ど、内 容 に大 きな差異 は認め られない。周辺でお こなわれた奈良市教 育委員会 の調査 (市第440次 な ど

)に

よつて、 この一帯 は平安 時代 に有力者が 占地 していたことが確認 されている。

左京三条二坊― 。三・ 七・ 八坪 (図

1‑②  

3)本

格 的な調 査 は1985年には じま り、1987年に「長屋皇宮」 と書かれた木簡 が発見 され、長屋王邸であることが明 らかになった。

7期

にわ た る遺構 変遷 を確 認 し、 出土 した遺物 も膨 大 であ る。 陶硯 は 138点数 えるが、包含層か らの出土が多 く、遺構 か ら出土 した ものは、長屋王邸時代

(A〜 B期 )の

ものはほ とん ど無 く、長 屋王 自尽

(729)後

C期

以降の ものが多い。 とくに二条大路 南側溝 に沿 って掘 られた濠状土坑

SD5100(C期 )や

、敷地 を 分 害Jする坪境/1ヽ路 の側溝SD4229'4231・ 4361・ 4359・ 4589・

4909(D期

以降

)か

らの出土が 目立つ。陶硯 の出土分布 を、長 屋 王 邸の時期

(B期 )の

遺構 配置 と重 ね る と、正殿 が ある中 央 内部か らの出土 はな く、東 内郭 よ りに分布が偏 る。 しか し なが ら、 これ ら陶硯 と長屋王邸 との 関連 は、 なお今後 の検討

―条条 間小路

一条条 間南小路

左京一条三坊 。四坊の調査 と 陶硯 の分布

主要遺構概 説

li

■瓜 左京

一条 三坊 十六 坪

左京一条四坊三坪

(2)

が必要である。 また平城 Ⅲの指標 であ るSD5100か ら出土 した蹄 脚 円面硯

B

(258,278)は

、その初現 を考 えた う えで注 目される。

右 京人条 一坊十三・ 十 四坪 (図

1‑③

3)1984年

か ら1986年 にわ た る調 査で

4期

の遺構変遷 を確認 した。奈良 時代前半の鋳造・漆工関連の工房跡が 見つか り、十三坪内に工房の管理施設 とみ られる官衛風の建物群が展 開す る ことか ら官営工房の可能性が指摘 され ている。奈良時代後半 には小規模宅地 に細分 されるが、陶硯 の出土 は、十三 坪 と十四坪 を東西 に貫 く坪境小路 の南 北側溝SD1496・ SD1499で、築 地塀 が 切れる付近 に集中す る。 この築地塀 は 後半 にはな くな り、両側溝 も幅 を広 げ て付 け替 えられる(SD1500・ SD1495) ことか ら、 これ らの陶硯 は前半の官営 工房 に由来す る可能性が高い とみ られ る。

左京七条一坊十五・十六坪(図

1‑④

)

1994年か ら1995年の調査で

6期

にわ たる遺構変遷 を確認 し、奈良時代 を通 じて官人の宅地であったことが推定 さ れている。奈良時代末には建物規模 の 拡大や施設が充実 した様子が伺 われ、

周辺か ら出土 した生産関係の遺物 と合 わせ、生産活動の場へ と変化 した可能 性 も指摘 されている。 この調査 で出土 した26点 の陶硯 の多 くは東一坊大路西 側溝SD6400か ら出土 した もの で あ る。

ここか らは奈良時代か ら平安時代初頭 の上器 を含 む遺物が多 く出土 してお り、

京域 における陶硯の内容の一端 を示す ものである。

二条大路

El

0         50m

左京二条二坊・三条二坊の調査 (B D期

)と

陶硯 の分布

SD1 500(‖ 十 iV,I)

3D1499 r!SD]496

  ロ ロ

B瑚

の 建 物 配 鷹

l i 凩

西一坊大路

□⁚

□ 上 回

SE]

舶 距

田︲

一回

SE]700。

右京八条―坊十二 。十 四坪 の調査 (H期

)と

陶硯 の分布

(3)

2節  

寺 院 の 主 要 な 調 査 位 置

寺院については各寺 院 ごとの調査 の概要 を述べ る。興福寺一乗院 と薬 師寺 の調査 区については、既往 の報告では調査位置力霧旨し示せ ないため、図4・

5に

掲 げる。その他 については、第Ⅳ章の一覧表 に掲

,デた参考文献 と『平城京条坊総合地図さ を参照 されたい。

大安寺

(6BDA)大

安寺 の発掘調査 で陶硯が出土 したのは、1975年度 に奈良県教育委員会 と共同で おこなった個人住宅の新築 と駐車場造成 に際す る調査 (奈文研第

9518次

・奈良県

75‑1次 )で

ある。調 査区は大安寺の北面中房推定地 にあたる。

法華寺

(6BFK。 6BFO)法

華寺 旧境 内は現在 では個人住宅 になってい る地域が多 く、その新築 や改変 に伴 う小規模 な調査が多い。

7点

の陶硯が 出土 した第

9817次

は法華寺境 内での収蔵庫建設 に伴 う調査で、SD03は法華寺 の造営時の礎石建物雨落溝 と考 え られている。法華寺 は平城宮東院地 区を接 す るため、旧境 内西寄 りで出土 した陶硯の中には平城宮で使用 されていた もの を含 む可能性がある。

元興寺

(6BGN)奈

文研がお こなった元興寺域 内の調査 は、1995年か ら始 まった名勝 旧大乗 院庭 園 の史跡整備 に伴 う調査である。奈良時代の遺構 は部分的に検 出されているが、元興寺 に関連す る ものは 見つかっていない。

法隆寺

(6BHR)1978年

か ら1985年 度 にかけて行 った防災施設工事 に伴 う発掘調査が主体 的である。

遺構 に伴 って出土 した陶硯 はいずれ も

7世

紀代 の もの も含 まれる。本書では奈文研 の発掘調査 で出土 し た陶硯 のみ掲載 したが、保管 品等 については 『法隆寺考古資料』 を参照 されたい。

海龍工寺

(6BKA)法

華寺 同様、旧境 内地の多 くは個人住宅 になってお り、調査 も小規模 な ものが 中心である。硯が出土 したSDl1401ま海竜王寺 の北 を画す る条間小路の北側溝 である。

興福寺

(6BKF)(図 5)寺

院出土 資料 のなかで最 も点数が多いのは、1963年 の奈良県地方裁判所 の 建設 に伴 う発掘調査でみつかった興福寺一乗 院の震殿下層土坑の資料 である。一乗 院は天禄元年(970)

に創設 された興福寺 の子 院である。 この創建時の基 壇上の下で検 出 した土坑か ら、多 くの須恵器、土師 器、瓦 とともに奈良三彩や緑琴由、灰釉、陶硯が出土 し、一部は重要文化財 に指定 されている。共伴す る 土器は奈良時代末か ら平安 時代初頭 にかけての もの が主体的である。調査 では一乗 院創設前の壇上積基 壇 などを検 出 し、 この地 に堂舎が配 されていたこと

を確認 した。 これ らの陶硯 は興福寺の何 らかの機 関 で使用 されていた可能性が高 く、古代の寺 院が所有 す る陶硯 の様相 を示す ものであろう。出土 した99点 の大部分 は小片であるが、同一個体 は少 な く、個体 数の多 さをうかがわせ る。小型の圏足 円面硯が多い 点や圏足 円面硯 の硯部内面 を朱用 に転用す る ものが あるなど、奈良時代末の寺 院の陶硯 の使用実態 を示 す好例であろう。

興福寺 の調査 区

(4)

西大寺

(6BSD)西

大寺 は1985年度か ら防災工 事 に伴 って、伽藍 中枢部 を5カ 年 にわたって調査 し

たが、 この時の調査で陶硯 は出土 していない。西大 寺 も旧境内の大部分が宅地イとしているが、陶硯が出 土 したの も小規模調査 である。

西隆寺

(6BSR)中

世 に廃絶 し、現存 しない西 隆寺 は近鉄線大和西大寺駅周辺の開発 に伴 って、比 較的大規模 な発掘調査がお こなわれ、南都 の古代寺 院のなかで も伽監配置が発掘調査 によって明 らかに なっている。陶硯 は金堂地区を中心 に、旧境内一帯 か ら出土 している。

東大寺

(6BTD)奈

文研 に よる東大寺 旧境 内の 発掘調査 は小規模調査が中心で、陶硯が出土 したの は東大寺学園構 内の調査である。黒色土器

B類

の風 字硯で平安時代 に くだるものである。

唐招提寺

(6BTS)戒

壇 院の調査 で比較的 まと まって出土 しているが、出土 した層 は戒壇 院が慶長 元年 (1596)の大地震で倒壊 した後、元禄年間に復 興 した際の盛土、裏込土である。

l

薬 師寺 の調査 区

薬 師寺

(6BYS)(図 6)薬

師寺 の発掘調査 は1934年 か らお こなわれてい るが 、 と くに1968年 か らの 伽藍復興 ・整備 に関わ る調査 は1985年 まで続 き、多大 な成果 をえた。陶硯 が 出土 したの は西僧坊 (88‑21 次)、 十 字廊 (10324次)、 東僧坊 北 方

(23‑2次 )が

中′かで あ る。

(1)奈

文研1975F平城宮発掘調査報告Ⅵ一平城京左京一条三坊の調査』(学報23)

(2)奈

良市教育委員会2001「平城京左京一条三坊十三坪の調査

 

第440次 」『奈良市埋蔵文化財調査概要報告書』

平成11年

(3)奈

文研1995『 平城京左京二条二坊・三条二坊発掘調査報告 一長屋王邸・藤原麻呂邸の調査 ―』

)(学

報54) 仏

)奈

文研1989『 平城京右京八条一坊十三・十四坪発掘調査報告』(学報46)

(5)奈

文研1997『 平城京左京七条一坊十五・十六坪発掘調査報告』(学報56)

(6)奈

文研2003『 平城京条坊総合地図』(史料60)

(7)奈

文研1977『 昭和51年 度

 

平城宮跡発掘調査部発掘調査概報』

奈良市教育委員会1997『 史跡大安寺旧境内

1‑杉

山古墳地区の発掘調査・整備事業報告』

(8)奈

文研1977『 昭和51年 度

 

平城宮跡発掘調査部発掘調査概報』

(9)奈

文研・奈良県教育委員会編1985『 法隆寺防災施設工事 。発掘調査報告書』

10 

奈文研2002『 法隆寺考古資料』(史料56)

はり

 

奈良県文化財保存事務所編1964『 重要文化財旧一乗院震殿・殿上及び玄関移築工事報告書』

&動

 

奈良県教育委員会 ・奈文研編1990『 西大寺防災施設工事 。発掘調査報告書』

&0 

奈文研1976『 西隆寺発掘調査報告書J

奈文研1993『 西隆寺発掘調査報告書』(学報52)

奈文研1980『 昭和54年 度

 

平城宮跡発掘調査部発掘調査概報』

奈文研1979『 昭和53年 度

 

平城宮跡発掘調査部発掘調査概報』

&0 

奈文研1987『 薬師寺発掘調査報告』(学報45)

参照

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