続、四位・五位の叙任簿『歴名土代』の写本系統に ついて : 写本調査報告も兼ねて
その他のタイトル A Subsequent Study on Lineage of Manuscript of Ryakumyododai : Along with the Report of
Investigation into its Manuscripts
著者 湯川 敏治
雑誌名 史泉
巻 115
ページ 1‑22
発行年 2012‑01‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00023670
は じ め に 平 成 一 七 年 ︵ 二 〇
〇 五
︶ 関 西 大 学 へ 学 位 を 申 請 す る と き に 提 出 し た 論 文 に
﹁ ﹃ 歴 名 土 代
﹄ に つ い て │ も う 一 つ の 公 家 昇 進 記 録 │
﹂ が あ る
︒
﹃ 歴 名 土 代
﹄ と は ︑ 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 に ﹁ 貴 四 五 │ 三 ﹂ で 所 蔵 さ れ て い る 四 位
・ 五 位 の 叙 任 簿 で
︑ 戦 国 期 の 公 家 ︑ 山 科 言 継
・ 言 経 父 子 が 書 き 継 い で き た
︒ 内 容 は 南 北 朝 時 代 の 貞 治 六 年
︵ 一 三 六 七 ︶ か ら 関 ヶ 原 合 戦 後 の 慶 長 一 一 年 ︵ 一 六
〇 六
︶ ま で の 二 三 九 年 間 に 正 四 位 上 か ら 従 五 位 下 に 叙 せ ら れ た 人 々 が 掲 載 さ れ て い る ︵ 漏 れ て い る 人 物 も か な り あ る ︶
︒ 平 成 八 年 に 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 の 許 可 を 得 て 翻 刻 し
︑ 続 群 書 類 従 完 成 会 か ら 出 版 し た と き ︑
﹁ 解 題 ﹂ と し て 掲 載 し た の で あ る が
︑ 学 位 審 査 を 受 け る に 当 た り 改 題 し て 提 出 し て あ っ た
︒ そ の 中 で ﹃ 歴 名 土 代 ﹄ を 紹 介 す る た め ︑ 写 本 の 存 在 も
﹃ 国 書 総 目 録
﹄ で 確 か め て
︑ い く つ か の 所 蔵 機 関 へ 赴 き そ の 状 況 に つ い て 触 れ て あ っ た と こ ろ ︑ 主 査 を 務 め ら れ た 西 本 昌 弘 先 生 か ら ﹃ 歴 名 土 代
﹄ の 写 本 の 調 査 を も う 少 し 進 め て は ど う か と ︑ お 勧 め を い た だ い た ︒
り ゃ く みょ う ど だ い
そ こ で 二
〇 〇 七 年 に ﹁ 四 位 ・ 五 位 の 叙 任 簿
﹃ 歴
名 土 代 ﹄ の 写 本 系 統 に つ い て
│ 東 山 御 文 庫 本 を 中 心 と し て
│ ﹂
︵ 以 下 ︑
﹁ 写 本 系 統 A 本
﹂ と 略 ︶ と 題 し て 本 誌 一 〇 六 号 で 報 告 し て き た
︒ そ の と き ﹃ 歴 名 土 代
﹄ の 写 本 系 統 は 二 つ の 流 れ が あ る こ と を 指 摘 し ︑ 一 つ は ﹁ 禁 裏 御 本
︵ 官 本
︶ ﹂ 系 統 ︑ も う 一 つ は ﹁ 山 科 家 本
﹂ 系 統 で あ る こ と を 次 ペ ー ジ 図 1
﹁ ﹃ 歴 名 土 代
﹄ 写 本 系 統 図
﹂ に よ り 説 明 し た の で あ る
︒ す な わ ち
︑ 山 科 言 継 ・ 言 経 父 子 は ﹃ 歴 名 土 代
﹄ を 書 き 継 い で い く な か で ︑ 天 皇 か ら 命 ぜ ら れ て 禁 裏 御 本 ﹃ 歴 名 土 代
﹄ の 書 き 継 ぎ も 行 い ︑ 一 方 で 天 正 四 年
︵ 一 五 七 六 ︶ に は 二 条 家 の 依 頼 を 受 け 貸 与 し た ほ か ︑ 諸 家 と 貸 借 を 行 い 互 い に 書 き 継 ぎ に 務 め て い た
︵ 図 2 ﹁
﹃ 歴 名 土 代
﹄ 山 科 家 本 書 写 奥 書 に よ る 系 統 図 ﹂ の 図
︑ 上 表 部
﹁ 文 献 に よ る 山 科 家 本 の 確 認 ﹂ 欄 参 照
︶ ︒ 二 条 家 の 場 合 は 言 継 か ら 借 用 し た
﹃ 歴 名 土 代
﹄ を 書 写 し
︑ 禁 裏 本 と 校 合 を 行 っ て い た こ と が 推 測 で き
︑ そ れ が
﹁ 二 条 家 本
﹂ と し て 存 在 し た 由 来 と 考 え た
︒ 禁 裏 本 は 後 水 尾 天 皇 の 所 持 と な り 禁 裏 文 庫 へ 納 め ら れ て い た が
︑ 万 治 四 年 ︵ 一 六 六 一
=寛 文 元 年 ︶ 火 災 で 焼 失 し て し ま っ た
︒ 二 条 家 に 所 蔵 さ れ た 写 本 は 慶 長 一 九 年 ︵ 一 六 一 四
︶ に 徳 川 幕 府 が 借
続 ︑ 四 位
・ 五 位 の 叙 任 簿 ﹃ 歴 名 土 代
﹄ の 写 本 系 統 に つ い て
│
│ 写 本 調 査 報 告 も 兼 ね て │
│
湯 川 敏 治
― 1 ―
用 し 書 写 し て い た ︒ 徳 川 幕 府 は 書 写 後 二 条 家 へ 返 却 し た が ︑ 延 宝 三 年
︵ 一 六 七 五
︶ ︑ 火 事 で 二 条 家 は 罹 災 し ︑
﹁ 二 条 家 本 ﹂ も 焼 失 す る
︒ こ の 時 点 で
﹁ 二 条 家 本 ﹂ が 残 っ た の は 幕 府 の 写 本 だ け で あ っ た ︒ 徳 川 幕 府 五 代 将 軍
︑ 綱 吉 の 時 代 の 貞 享 二 年 ︵ 一 六 八 五
︶ ︑ 霊 元 天 皇 は 万 治 四 年 の 火 災 で 焼 失 し た 書 物 を 補 う た め ︑ 各 種 書 物 を 幕 府 か ら 借 用 し ︑ 臣 下 に 命 じ 書 写 を 行 う の で あ る ︒
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ も そ の 中 に あ っ て 書 写 さ れ て ︑ 東 山 御 文 庫 本 と し て 所 蔵 さ れ る に 至 っ た こ と を 述 べ て き た ︒ な お
︑ 小 論 で は 右 の 図 1 に 掲 げ た よ う に
︑ 自 筆 本
︵ 言 継 ・ 言 経 書 継 ︶ は ﹁ 山 科 家 本
﹂ 系 統 ︑ 東 山 御 文 庫 本 所 蔵 の 写 本 は
﹁ 東 山 御 文 庫 系 統 本
﹂ を 用 い る ︒ い ず れ の 系 統 名 も 私 に 付 し た も の で あ る
︒ 今 回 ︑ 右 の 図 1 に お け る 点 線 部 分 の 山 科 家 の 自 筆 本 が ど の よ う な 人 々 に 書 写 さ れ ︑ 所 持 さ れ て き た か を 奥 書 や 蔵 書 印 か ら た ど り
︑ 書 写 や 所 有 の 目 的 な ど を 考 察 し ︑
﹃ 公 卿 補 任 ﹄ の よ う に 明 治 時 代 ま で ︑ な ぜ 書 き 継 が れ な か っ た か に つ い て も 考 え て み た い
︒ ま た 前 稿 の 補 正 を 行 い
︑ ﹃ 歴 名 土 代
﹄ の 写 本 に つ い て 取 り 組 ん だ 結 果 と し て 西 本 昌 弘 先 生 へ の 報 告
と し た い ︒ 一 前 稿 で ﹁ 写 本 系 統 A 本
﹂ を 発 表 し 終 え て
︑ 今 回 の 山 科 家 本 の 準 備 に 掛 か っ て い た と き ﹃ 歴 名 土 代
﹄ は
﹁ り ゃ く み ょ う ど だ い
﹂ と 読 ん だ 事
︵!
︶
実 を 示 す 史 料 を 見 付 け た ︒ そ れ ま で の 辞 典 類 で は ﹁ れ き め い ど だ い
﹂ と ル ビ が 付 さ れ て い た の で あ る が
︑ 自 筆 本 の ﹃ 歴 名 土 代
﹄ を 翻 刻 し た と き
︑ ﹁ 解 題 ﹂ で ︑
﹁ り ゃ く み ょ う ど だ い
﹂ と 読 む こ と を ︑ 中 世 の
﹁ 歴 ﹂ や ﹁ 名 ﹂ の 読 み く せ な ど に 従 っ て 解 説 し ︑ 読 み 方 を 改 め る べ き こ と を 提 唱 し た
︒ そ れ が
﹃ 実 隆 公 記 ﹄ 巻 十 二 ︵ 続 群 書 類 従 完 成 会
︶ の
︵"
︶
二 七 七 ペ ー ジ に
﹁ り や く ミ や う の と た い ﹂ と あ る の を 見 付 け た の で あ る
︒ そ れ は 三 条 西 実 隆 が 御 製 に つ い て 意 見 を 徴 せ ら れ た こ と に 加 え ︑
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ の 叡 覧 を 仰 せ ら れ た と き の 後 柏 原 天 皇 女 房 奉 書 の 文 言 に あ る ︒
﹁ 解 題
﹂ 作 成 時 に こ の 記 事 の 存 在 を 発 見 で き な か っ た こ と を 恥
図 1
﹃ 歴 名 土 代
﹄ 写 本 系 統 図 山 科 家 本
│
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│
│
│ ↓ 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 蔵 自 筆 本
→
→
借 用
﹁ 書 写
﹂
伏 見 宮 邦 永 本 系 統 継 経
山 口 友 昌 系 統 言 言
二 条 家 本
│
│
┤
│
│
│
│
│
│ ↓ 焼 失
︵ 延 宝 三 年
︶
藤 原 宗 益 系 統
⎭ !!! ⎬ !!! ⎫ 図 2
﹃ 歴 名 土 代
﹄ 山 科 家 本 書 写
─ 科 科
─
東 相 宥 系 統
奥 書 に よ る 系 統 図 参 照
─ 山 山
﹁ 校 合
﹂
┌ ↓ 幕 府 書 写
︵ 紅 葉 山 文 庫
︶
│
│
│
┘
結 城 秀 雅 系 統
─
←
←
─
─ 禁 裏 御 本
︵ 官 本
︶
↓ 後 水 尾 天 皇 所 蔵
↓ 焼 失
︵ 万 治 四 年
︶
┌ │
↓ 書 写
│
│ ↓ 東 山 御 文 庫 本
﹁ 二 条 家 関 係 者
﹂
― 2 ―
図 2
﹃ 歴 名 土 代
﹄ 山 科 家 本 書 写 奥 書 に よ る 系 統 図
﹃ 歴 名 土 代
﹄ 山 科 言 継 自 筆 本 奥 書
伏見宮邦永系統
Ⓐ 宮 内 庁 書 陵 部
Ⓒ 伊 予 史 談 会
Ⓓ 函 館 市 立 図 書 館
Ⓑ 神 宮 文 庫
岡 本 氏 基 写
藤 原 就 益 写
︵ 舟 橋 良 雄 カ
︶
歴 名 土 代 古 今 悉 紛 失 也
︑ 適 清 三 位 家 本 自 宝 徳 三 年 雖 有
︵ 国 光
︶
之
︑ 永 正 三 以 来 無 之
︑ 其 内 又 多 不 足
︑ 広 橋 黄 門 本 又 予 近 来 如 形 注 置 之 本
︑ 彼 是 取 集 近 日 抄 出 之
︑ 連 々 尚 可 書 加 之
︑ 三 位 已 上 者 相 見 公 卿 補 任 之 間
︑ 令 略 之
︑
而天 文 六 仲
︵ 三 条 西
︶
夏 下 旬 書 付 之 草 本
︑ 三 条 亜 相
実 澄 卿被 所 望 之 条
︑ 於 燈 火 写 之 者 也
︑
︵ 山 科 言 継
︶
永 禄 二 年 二 月 十 六 日 特 進 都 督 藤
︵ 花 押
︶
岡 本 清 茂 写
Ⓔ 広 島 大 学 書 写 者 不 明
Ⓕ 宮 内 庁 書 陵 部 大久保酉山本
Ⓗ 群 書 類 従 第 29 輯 雑 部 森岡所持 山口友俊・千俊写
Ⓖ 尊 経 閣
書 写 者 不 明
・ 立 原 萬 校 合 大 江 資 衡 写 山口友昌系統 文献による山科本の確認
山科家が書写 広橋家
継 記 言 卿
天 文 十 九 年 十 一 月 二 十 六 日 天 文 二 十 三 年 二 月 四 日 天 文 二 十 三 年 四 月 六 日
返 却 借 用 返 却
濱嶋等庭本
Ⓘ 内 閣 文 庫 甘 露 寺 国 長 写 舟橋家
土 書 名 奥 歴 代
年 月 日 未 詳
藤原宗益系統 河端孝益書写
書 写 小野氏辰写 高橋宗恒写
高孟所持 諸家へ貸与書写
三 西 条 言継卿記
永 禄 二 年 二 月 十 七 日
所 望
Ⓙ 神 宮 文 庫 里 路 万 小
弘 治 二 年 正 月 二 十 四 日 永 禄 二 年 二 月 四 日
借 用 返 却
校合 和 気 菫 正 写 広橋
永 禄 六 年 正 月 二 十 一 日 永 禄 七 年 十 二 月 二 十 二 日
借 用 返 却 永 禄 六 年 六 月 十 六 日 永 禄 六 年 七 月 九 日 天 正 四 年 九 月 十 七 日
借 用 返 却 借 用
東相宥系統
高橋宗直所持 甘露寺
斎藤某 言 経
Ⓛ 東 北 大 学 附 属 図 書 館
Ⓚ 阪 急 池 田 文 庫 禁裏
継 記 言 卿
永 禄 九 年 正 月 十 二 日 永 禄 九 年 五 月 二 十 二 日 天 正 四 年 正 月 六 日 天 正 四 年 三 月 六 日 天 正 七 年 二 月 五 日 天 正 七 年 二 月 六 日 慶 長 九 年 二 月 十 三 日 慶 長 九 年 二 月 二 十 日
叡 覧 書 続 ぐ 直 進 上 直 進 上 書 改 め 書 改 め 書 改 め 書 改 め
東 神 主 相 宥 写
松 平 武 修 写 言経卿記
結城秀雅系統
凡例
│
│ は 奥 書 に よ る 書 写 系 統
︒ の 中 の 人 名 は
︑ 書 写 は 不 明
︒ 所 有 者 等 の 記 入 が あ る も の
︒
は奥 書か ら推 定し た書 写 系 統︒ の 中 の 人 名 は
︑ 書 写 を 示 す
︒
Ⓜ 國 學 院 大 學 図 書 館 結 城 秀 雅
︵ 朱 書
︶ 二条
天 正 四 年 八 月 四 日 天 正 四 年 九 月 三 日
借 用 返 却
― 3 ―
じ る が
︑ 戦 国 期 に も
﹁ り ゃ く み ょ う ど だ い
﹂ と 読 ん で い た こ と が 裏 付 け ら れ た こ と で 安 心 し た 次 第 で あ る ︒ さ て
︑ 図 1 に 見 た よ う に
﹁ 東 山 御 文 庫 本 系 統
﹂ ﹁ 山 科 家 本
﹂ 系 統 と も に ︑ も と は 言 継 ・ 言 経 作 成 の ﹃ 歴 名 土 代
﹄ が 祖 本 で あ る ︒ 戦 国 末 期 二 条 家 が 山 科 家 か ら 借 用 し 書 写 し た ﹃ 歴 名 土 代
﹄ は
︑ 近 世 に 入 り 幕 府 か ら 朝 廷 へ 貸 与 さ れ
︑ 朝 廷 で は そ れ を 書 写 し た こ と は 既 に 述 べ た の で あ る が
︑ こ の と き 一 部 の 公 家 も 禁 裏 が 書 写 し た
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ の 書 写 を 行 う ︒ そ の 結 果 そ れ ら の 家 へ は ﹁ 東 山 御 文 庫 系 統 ﹂ と な る 写 本 が 残 っ た こ と を 説 い た の で あ る
︒ そ こ で 今 回 は
︑ ﹁ 東 山 御 文 庫 系 統 ﹂ と は 別 系 統 の 写 本 で あ る
﹁ 山 科 家 本 ﹂ 系 統 に つ い て
﹃ 国 書 総 目 録
﹄ に 記 載 さ れ た 所 蔵 機 関 を 再 訪 し ︑ 閲 覧 調 査 を 行 っ た
︵ 但 し
﹁ 粟 田
﹂ ﹁ 彰 孝 館 ﹂
﹁ 無 窮
神 習﹂ ﹁ 羽 塚 啓 名
﹂ に つ い て は 除 い た ︶
︒ そ の 結 果 を 図 2
﹁ ﹃ 歴 名 土 代 ﹄ 山 科 家 本 書 写 奥 書 に よ る 系 統 図 ﹂
︵ 以 下 ︑ 図 2
﹁ 系 統 図
﹂ ︶
︑ 表 1
﹁ 写 本 別 奥 書 一 覧
﹂ ︵ 以 下
︑ 表 1 ︶
︑ 表 2 ﹁
﹃ 歴 名 土 代
﹄ 山 科 家 本 所 蔵 機 関 及 び 蔵 書 印 一 覧
﹂
︵ 以 下
︑ 表 2 ︶ へ ま と め た ︒ 図 2 の ﹁
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ 山 科 言 継 自 筆 本 奥 書
﹂ ︵ 以 下 ︑
﹁ 自 筆 本 奥 書 ﹂
︶ の 左 方 へ ﹁ 文 献 に よ る 山 科 家 本 の 確 認
﹂ と い う 項 目 を た て て
︑ 先 に 触 れ た よ う に 諸 家 が
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ の 借 用 ・ 返 却 ・ 書 改 め な ど を 行 っ た と き の 年 月 日 を 掲 げ
︑ そ の 下 部 分 が 今 回 の
﹁ 山 科 家 本
﹂ 系 統 で あ る
︒ 説 明 の 便 宜 上
︑ 図 の 所 蔵 機 関 名 上 部 へ は ア ル フ ァ ベ ッ ト を 付 与 し た ︒ ま ず ﹁ 山 科 家 本 ﹂ に は ﹁ 伏 見 宮 邦 永 系 統
﹂
︵ こ の 系 統 名 も 私 に 付 与 し た
︒ 以 下 の 系 統 名 も 同 じ
︶ ・
﹁ 山 口 友 昌 系 統
﹂
﹁ 藤 原 宗 益 系 統 ﹂
﹁ 東 相 宥 系 統 ﹂
﹁ 結 城 秀 雅 系 統
﹂ が あ り ︑ そ の 見 方 は 図 の 左 下 へ
﹁ 凡 例 ﹂ を 置 い て 示 し た ︒
次 に 表 1 で は
︑ 図 2 ﹁ 系 統 図 ﹂ の 所 蔵 機 関 に 所 蔵 さ れ て い る ﹃ 歴 名 土 代 ﹄ の 奥 書 の 一 覧 で あ る ︒ 表 2 は ︑ 図 2
﹁ 系 統 図
﹂ の 系 統 ご と に ま と め た が ︑ 最 上 欄 の 枠 が 狭 い た め
︑ 表 1 に 使 用 し た 語 の 必 要 部 分 を 残 し 省 略 し て 掲 載 し た
︒ 但 し ﹁ そ の 他 1
﹂ で
﹁ 自 筆 本 奥 書
﹂ は 書 写 さ れ て い る が
︑ そ の 後 の 奥 書 は ︑ 書 写 者 を 示 し て あ る の か ︑ 書 写 は 別 人 で
︑ 所 蔵 し て い た だ け の 者 か 不 明 の も の を 揚 げ ︑
﹁ そ の 他 2
﹂ は
﹁ 自 筆 本 奥 書
﹂ だ け の も の を 揚 げ た ︒
﹁ 抜 粋 本 ﹂ は ﹁ 自 筆 本 奥 書
﹂ は 記 さ れ て い る が
︑ 本 文 は 必 要 部 分 の み の 抜 粋 し た 写 本 で あ る
︒ 表 2 は 図 2 ﹁ 系 統 図 ﹂ の ア ル フ ァ ベ ッ ト と 表 1 の 所 蔵 機 関 へ 付 与 し た 番 号 を 結 合 さ せ ﹁
図 2 表 1
結 合 ﹂ 欄 を 設 け た
︒ 以 下
︑ ﹁
図 2 表 1
結 合 ﹂ 欄 に 挙 げ た 各 項 目 番 号
︱
ア ル フ ァ ベ ッ ト を 見 出 し 項 目 と し た ︒
︵ な お
︑ 説 明 の 必 要 上
︑ 表 1 の み の 説 明 に は
︑ 表 1 ○ と す る ︒
○ の 中 は 番 号
︶ ︒
﹁ 蔵 書 印 等 ﹂ 欄 は 写 本 に 捺 さ れ た 蔵 書 印 で ︑
﹁ 蔵 書 印 個 人 名
﹂ 欄 は 蔵 書 印 の 主 を 示 し
︑ 以 下 ︑
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ の 所 蔵 冊 数 と そ の 寸 法 で あ る ︒ 以 下
︑ ﹁ 図 2
﹂ と
﹁ 表 1 ﹂ の 順 序 に 従 い 紹 介 し 検 討 す る ︒ 伏 見 宮 邦 永 系 統 本 ︵
Ⓐ
︱① 〜
Ⓔ
︱⑤
︶
Ⓐ
︱① 宮 内 庁 書 陵 部 所 蔵 の う ち の 一 つ で
︑ 自 筆 本 同 様 に 四 位
・ 五 位 の 叙 任 が 一 冊 に 綴 じ ら れ て い る ︒ 書 写 者 は 岡 本 清 茂 で あ り ︑ 写 本 の 末 尾 に は 清 茂 の 自 筆 花 押 が 清 茂 の 蔵 書 印 と と も に あ る
︒ な お ︑ こ の 花 押 は 京 都 大 学 附 属 図 書 館 ホ ー ム ペ ー ジ に よ り
︑ 同 図 書 館 所 蔵 の 谷 村 文 庫
﹃ 遷 宮 御 正 体 神 玉 璽 図 ﹄ に よ り 確 認 で き る
︒ ま た 蔵 書 印 は ﹁ 賀 茂 清 茂
﹂ 印 で あ る が
︑ ﹃ 歴 名 土 代
﹄ に 捺 さ れ た 印 と は 異 な る
︒ 清 茂 は 賀 茂 別 雷 神 社 ︑ 通 称 上 賀 茂 神 社 の 社 家 の 清 令 の 息 子 と し て 延
― 4 ―
宝 七 年
︵ 一 六 七 九 ︶ に 誕 生 し た ︒ 姓 は 中 大 路 で
﹃ 賀 茂 清 茂 日 記 ﹄ を 残
︵!
︶
し て お り ︑ 児 玉 幸 多 氏 が
﹁ 賀 茂 清 茂 伝
﹂ と し て 清 茂 を 紹 介 し た と き 使 用 し た 日 記 で あ る ︒ 児 玉 氏 の 論 考 に よ れ ば
︑ 清 茂 は 元 禄 五 年
︵ 一 六 九 二
︶ 二 月 ご ろ か ら ﹃ 論 語
﹄ を 学 び
︑ 六 月 か ら は
﹃ 孟 子 ﹄ に 併 せ て
﹃ 詩 経
﹄ も 学 び 始 め た ︒ 一 七 歳 の と き 伏 見 宮 邦 永 親 王 の 下 へ 伺 候 し ︑ 近 習 を 勤 め て い る
︒ 二 四 歳 の と き ﹃ 唐 六 典
﹄ の 書 写 を 行 っ た り
︑ ﹃ 論 語
﹄
﹃ 日 本 紀 神 代 ﹄
﹃ 令 義 解
﹄ を 講 読 し ︑ 翌 一 六 年 に は 伏 見 宮 家 で
﹃ 論 語
﹄ を 進 講 し た
︒ 宝 永 二 年 ︵ 一 七
〇 五
︶ に も ﹃ 日 本 紀 神 代 ﹄
﹃ 孟 子 ﹄
﹃ 日 本 紀 神 代
﹄ を 進 講 し て い る
︒ ま た 清 茂 に 官 位 が あ っ た こ と は ︑ 児 玉 氏 が
﹁ 賀 茂 社 家 系 図
清 之 一流﹂ を 引 用 し 元 禄 一 二 年 に 従 五 位 下 が 叙 位 さ れ て 以 来 ︑ 同 一 六 年 に は 加 賀 守 ︑ 宝 永 二 年
︵ 一 七 〇 五 ︶ 従 五 位 上
︑ 同 三 年 に は 右 京 権 大 夫 に 任 ぜ ら れ ︑ 同 四 年 ︑ 社 家 岡 本 下 野 守 か ら 朱 印 状 を 譲 渡 さ れ 中 大 路 姓 か ら 岡 本 姓 へ 改 め た こ と な ど も 紹 介 し て い る
︒ 享 保 元 年
︵ 一 七 一 六 ︶ 従 四 位 下 へ 昇 進 し
︑ 元 文 四 年 ︵ 一 七 三 九
︶ 従 四 位 上 を 最 終 と し て
︑ 宝 暦 三 年 ︵ 一 七 五 三
︶ 七 五 歳 で 卒 し た
︒ 清 茂 の 写 本 の 奥 書 に は 表 1 の
① ・
② へ 示 し た よ う に ﹁ 中 務 卿
邦 永 親 王﹂ 蔵 書 本 を 模 写 し た と あ る ︒ し か し ﹁ 山 科 家 本 ﹂ の ﹃ 歴 名 土 代
﹄ が 伏 見 宮 家 が 所 有 す る に 至 っ た ル ー ト は わ か ら な い ︒ 奥 書 に 清 茂 が 伏 見 宮 家 で ﹃ 歴 名 土 代
﹄ を 書 写 し た 年 代 は 記 さ れ て い な い た め ︑ 上 賀 茂 神 社 へ 赴 き
︑ ﹃ 賀 茂 清 茂 日 記
﹄ ︵ 請 求 番 号 Ⅲ 30 箱 59 〜 100
︶ を 閲 覧 し た
︒ 表 1 の 奥 書 で 清 茂 が
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ を 書 写 し た の は ︑ 右 京 権 大 夫 従 四 位 下 の と き で あ っ た こ と が わ か る ︒ 右 京 権 大 夫 に な っ た の は
︑ 既 に 触 れ た よ う に 宝 永 三 年 で あ り
︑ 従 四 位 下 叙 任 は 享 保 元 年 で あ る ︒ 従 四 位 上 昇 進 は 元 文 四 年 の こ と で あ っ て ︑
﹃ 歴 名 土 代
﹄ を 書
写 し た の は 享 保 元 年
〜 元 文 四 年 の 間 で あ る と 推 定 し た ︒ そ の 間 を
﹃ 賀 茂 清 茂 日 記
﹄ に 見 て ︑
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ を 書 写 し た 記 事 を 探 し た が
︑ 見 付 か ら な か っ た ︒ し か し 享 保 元 年 八 月 五 日 条 に ︑
︵ 記 カ︶
自 今 日 出 仕 于 伏 見 御 所 為 御
□ 録 以 □ 也 ︑ と あ る ︵
□ 部 は 読 め な い 箇 所 ︑ 以 下 同 じ ︶
︒ そ の 後
︑ 清 茂 は 毎 日 の よ う に 足 繁 く 邦 永 邸 を 訪 れ
︑ 同 年 九 月 一
〇 日 に な っ て
︑
︵ 虫 損
︶
早 朝 帰 于 賀 茂 了
︑ 近 年 御
□ □ 為 □
□ □ 三 □
□ 之 間 ︑ 参 于 伏 見 御
︵ 当 カ︶
所
︑ 至
□ 年 悉 終 功 ︑ 今 日 帰 賀 茂 者 也 ︑ の 記 事 が あ る ︒ 八 月 五 日 か ら 九 月 一 〇 日 ま で の 間 ︑ 邦 永 邸 を 訪 れ て い る と き 借 用 し
︑ 書 写 し た こ と が 推 定 で き る
︒ そ の 理 由 は
︑ Ⓒ
︱
③ の 伊 予 史 談 会 が 所 持 す る 岡 本 氏 基 の 書 写 本 の 項 で 併 せ て 説 明 す る
︒
Ⓑ
︱② 神 宮 文 庫 所 蔵 で
︑ 前 項 Ⓐ
︱
① と 同 様 に 岡 本 清 茂 の 書 写 で ︑ 四 位 と 五 位 を 分 け て 二 冊 と し て 所 蔵 さ れ て い る
︒ 奥 書 に は 一 冊 を 伏 見 宮 邦 永 親 王 所 蔵 本 を 書 写 し た と あ る が
︑ 清 茂 は 二 冊 構 成 に 直 し た の で あ ろ う
︒ こ の 写 本 に も 清 茂 の 花 押 が あ る
︒ 蔵 書 印 は ﹁ 林 崎 文 庫
﹂ 印 と
﹁ 東 ﹂
﹁ 北 小 路
﹂ と 読 め る 蔵 書 印 が あ る
︒ ﹁ 林 崎 文 庫
﹂ は 内 宮 祠 官 や 御 師 の 勉 学 の た め 創 設 し た 文 庫 で あ る が
︑ 現 在 は 神 宮 文 庫 に 統 合 さ れ て い る ︒
﹁ 東 ﹂
﹁ 北 小 路 ﹂ 印 は と も に
﹃ 図 書 寮 叢 刊 書 陵 部 蔵 書 印 譜 上
﹄
︵ 以 下 ︑
﹃ 書 陵 部 蔵 書 印 譜
﹄ ︶ の 北 小 路
︵ 大 江 姓 ︶ 条 に 掲 載 さ れ て い る が
︑ 神 宮 文 庫 蔵 本 に 捺 さ れ た ﹁ 東 ﹂
﹁ 北 小 路
﹂ の 蔵 書 印 と 少 し 字 の 配 置 が 異 な る
︒ 北 小 路 家 は ︑ 戦 国 期 近 衛 家 の 家 僕 を 勤 め た 家 柄 で
︑ 近 衛 家 一 四 代 当
︵"
︶
主 尚 通 の 母 俊 子 を 出 し た
︒ 掲 載 さ れ て い る 蔵 書 印 の 所 有 者 は 近 衛 尚 通 の 母 を 出 し た と き の 当 主 俊 宣 か ら 六 代 後 の
︑ 聖 護 院 坊 官 快 俊 の 息 俊 祇
― 5 ―
︵!
︶
二 男 の 俊 光 の 流 れ に な る 俊 章
︒ 俊 章 は 大 江 を 姓 と し て 江 戸 時 代 中 期 の
︵"
︶
宝 永 三 年 ︵ 一 七
〇 六
︶ 二 月 三 日 生 ま れ で ︑ 清 茂 誕 生 よ り 二 七 年 後 に 誕 生 し た 人 物 で あ る
︒ 従 っ て 清 茂 書 写 本 の 蔵 書 印 所 有 者 が
﹁ 北 小 路
﹂
﹁ 東 ﹂ と す れ ば
︑ 北 小 路 俊 章 に は ﹃ 書 陵 部 蔵 書 印 譜 上 ﹄ に 挙 が っ た 蔵 書 印 の 他 に ︑ こ れ ら 二 つ の 蔵 書 印 が 別 に あ っ た こ と も 考 え ら れ る ︒ さ ら に 推 測 す れ ば ︑ 俊 章 と は 別 家 の 北 小 路 家 の 蔵 書 印 か も し れ な い ︒ 清 茂 書 写 本 が 俊 章 へ 渡 り ︑ さ ら に 林 崎 文 庫 へ 入 っ た 経 緯 に つ い て は 不 明 で あ る
︒
Ⓒ
︱③ 伊 予 史 談 会 の 蔵 書 は
︑ 愛 媛 県 立 図 書 館 に 所 蔵 さ れ て お り
︑ ﹃ 歴 名 土 代
﹄ 一 冊 も そ の 中 に あ る
︒ ま ず 表 1 の
③ に 見 る 最 終 の 書 写 者
︑ 賀 茂 氏 基 の 奥 書 に は 氏 基 が 清 茂 本 を 借 用 し ︑ 書 写 を 終 え た の は
﹁ 享 保 二 年 仲 秋
﹂ で あ っ た ︒ 岡 本 清 茂 が 伏 見 宮 邦 永 よ り 借 用 し 書 写 し た の を 享 保 元 年 と 推 定 し た 根 拠 は こ こ に あ る ︒ す な わ ち 清 茂 が ﹃ 歴 名 土 代
﹄ の 書 写 を 終 え て 所 有 し て い た か ら こ そ ︑ 翌 年 に 氏 基 が 借 用 し ﹁ 仲 秋
﹂
︵ 陰 暦 八 月
︶ に 書 写 で き た と 考 え た ︒ 氏 基 の 姓 は 岡 本 ︒ 元 禄 三 年
︵ 一 六 九
〇 ︶ の 誕 生 で
︑ 宝 永 三 年 従 五 位 下 に 叙 せ ら れ て 以 来
︑ 従 四 位 上 ま で 進 み 宝 暦 元 年 ︵ 一 七 五 一
︶ 六 二 歳 で 没 す る ︒ 享 保 二 年 七 月 二 一 日 に 伏 見 宮 邦 永 親 王 邸 で
﹁ 虫 払
﹂ が 行 わ れ た と
︵#
︶
き
︑ 清 茂 を 始 め 氏 基 な ど 五 人 が 参 加 し て お り ︑ こ こ に 清 茂 ・ 氏 基 の 接 点 を 見 る こ と が で き
︑ 氏 基 は 清 茂 か ら
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ を 借 用 す る 機 会 が あ っ た
︒ 蔵 書 印 は ﹁ 伊 予 史 談 会 印
﹂ だ け で あ る
︒ 同 会 が 所 蔵 す る に 至 っ た 経 緯 は 不 明 で あ る
︒ ﹁ レ 5 ﹂ の 請 求 番 号 で ︑ 愛 媛 県 立 図 書 館 で 閲 覧 す る こ と が で き る ︒
Ⓓ
︱④ 函 館 市 立 図 書 館 所 蔵 の ﹃ 歴 名 土 代
﹄ は 一 冊
︒ 表 1 の
④ の 奥 書 に よ れ ば 書 写 経 路 は 清 茂
↓ 前 記 氏 基 ↓ 藤 原 就 益 と 続 き ︑ 就 益 は 氏 基 が 書 写 し て す ぐ の 初 冬 に 書 写 を 終 え て い る ︒ 就 益 に 関 す る 史 料 が 見 つ か ら ず ︑ ど の よ う な 人 物 で あ っ た か は わ か ら な い
︒ ま た 氏 基 と の 関 係 も 不 明 で あ る
︒ 同 図 書 館 で 閲 覧 さ れ た 西 本 先 生 の 御 教 示 に よ れ ば ︑ こ の 写 本 の 奥 書 の 後 の 丁
︑ 裏 に 昭 和 一 八 年 五 月 三 一 日 ︑ 古 書 肆 文 行 堂 か ら 購 入 し た こ と を 示 す ス タ ン プ が 捺 さ れ て お り ︑ 蔵 書 印 も
﹁ 函 館 図 書 館 蔵 書 ﹂ の 蔵 書 印 の 他 は な い と の こ と で あ っ た ︒
Ⓔ
︱⑤ 広 島 大 学 日 本 史 研 究 室 の 写 本 を
︑ 閲 覧 し た と き 五 位 の 部 分 は な か っ た ︒ 現 存 す る 四 位 の 記 述 も 叙 位 年 月 日 だ け の 記 載 で ︑ 尻 付 け 部 分 な ど は 書 写 さ れ て い な い ︒ 表 1 の ⑤ の 奥 書 に
﹁ 清 茂 本 奥 書 云
﹂ ﹁ 清 茂 本 云
﹂ と あ る こ と か ら
︑ 明 ら か に 清 茂 本 系 統 を 使 用 し て 書 写 し た も の と わ か る
︒ さ ら に
﹁ 清 茂 翁 之 本 一 冊 ニ シ テ 従 五 位 下 迠
﹂ と あ る と こ ろ か ら
︑ 元 は 一 冊 の 本 で 従 五 位 ま で 書 写 し て い た の で あ る
︒ 続 い て
﹁ 本 文 □ 十 正 六 ヨ リ 同 十 二 十 九 迠 四 人 ア リ ︑ 如 此 藤 原 治 清
・ 秀 賢
・ 藤 実 秀 ・ 同 為 頼 三 月 ニ 侍 従
﹂ と あ る
︒ こ の 文 は 四 人 の 侍 従 就 任 を 伝 え て い る と 考 え ら れ る が
︑ そ れ ら 四 名 の 名 は ﹃ 歴 名 土 代
﹄ の 自 筆 本 に 見 え な い ︒ そ の 上 ︑ 書 写 者 も 不 明 で あ る ︒ 写 本 に は 赤 沼 常 信 の 蔵 書 印
﹁ 赤 沼 書 屋 ﹂ が 捺 さ れ て い る ︒ 古 典 籍 や
︵$
︶
近 世 文 芸 の 研 究 者 ︑ 三 村 竹 清 は そ の 著
﹁ 本 の 話
﹂ で 赤 沼 蓬 園
︵ 常 信 の 号
︶ を 取 り 上 げ て い る が
︑ そ こ に は 出 典 が 記 さ れ て な く 時 代 が わ か る の は
︑ 常 信 が 死 去 し た 年 だ け で あ る ︒ 常 信 に 関 す る 研 究 は 管 見 の 限 り
︑ こ の 書 物 だ け で
︑ 内 容 を 全 面 的 に 信 用 す る わ け で は な い が ︑ 赤 沼 常 信 は 伍 八 郎 と も い い ︑ 水 産 伝 習 所 で 学 ん だ 後
︑ 北 海 道 で ア シ カ や ア
― 6 ―
ザ ラ シ を 猟 し ︑ さ ら に 水 族 館 を 開 設 し 巨 利 を 得 て ︑ 銀 行 を 設 立 し た ︒ こ の 時 古 書 の 収 集 も 始 め た の で あ る が
︑ 一 方 で は 生 活 ぶ り が 派 手 と な っ た た め ︑ 資 産 を 手 放 す こ と と な る ︒ 以 後 波 瀾 に と ん だ 生 活 を 送 り 大 正 五 年
︵ 一 九 一 六
︶ 没 し た 人 物 で あ る ︒ 常 信 が 零 落 し た と き 蔵 書 の
﹃ 歴 名 土 代
﹄ も 手 放 し た と 考 え ら れ る が ︑ 広 島 大 学 日 本 史 研 究 室 へ 入 っ た 経 緯 は わ か ら な い ︒ 山 口 友 昌 系 統 本
︵ Ⓕ
︱
⑥
〜 Ⓘ
︱
⑨ ︶
Ⓕ
︱⑥ 宮 内 庁 書 陵 部 所 蔵 本 で あ り ︑ 他 の 写 本 と は 違 い 上
・ 中
・ 下 の 三 冊 で 構 成 さ れ て い る が
︑ 言 継 ・ 言 経 の 自 筆 本 が 友 昌 に 至 る 書 写 の 経 路 は わ か ら な い
︒ 中 原 友 昌 の 家 名 は 山 口 で
︑ ﹃ 系 図 纂 要
﹄ に よ れ ば ︑ 家 系 は 中 原 師 生
︵!
︶
の 三 男 生 友 に 始 ま る
︒ 表 1 の
⑥ の
﹁ 一 本 奥 書 ﹂ で は 貞 享 三 年
︵ 一 六 八 六
︶ 丙 寅 歳 に 友 昌 が 書 写 し て い る こ と が わ か る
︒ 友 昌 は ﹃ 系 図 纂 要
﹄ や
﹃ 地 下 家 伝 ﹄ に よ れ ば
︑ 生 友 の 孫 で
︑ 先 述 の 伊 予 史 談 会 に 残 る
﹃ 歴 名 土 代
﹄ を 書 写 し た 人 物 岡 本 氏 基 と 同 時 代 の 人 で あ る ︒ 久 我 通 兄 の 日 記
﹃ 通 兄 公 記 ﹄ 享 保 一 二 年 ︵ 一 七 二 七
︶ 八 月 一 五 日 条 に 石 清 水 八 幡 宮 で 放 生 会 が 行 わ れ た と き
︑ 氏 基 は 参 向 者 の 中 の 左 兵 衛 府 に 名 が 見 え ︑ 友 昌 は ﹁ 奏 聞 参 勤 之 輩 ﹂ の 中 に 名 が あ る
︒ さ ら に 友 俊 も
﹁ 地 下 之 輩
﹂ に 名 を 連 ね て い る ︒ 今 少 し 友 昌 の 家 系 に 触 れ る と ︑ 友 俊 は 友 昌 か ら 四 代 後 の 人 で
︑ 友 俊 ・ 千 俊 は 親 子 で あ る
︒ さ ら に
﹃ 通 兄 公 記 ﹄ の 記 事 に は
︑ 少 内 記 の 職 が 闕 と な っ て い た た め
︑ 少 外 記 友 俊 は 少 内 記 職 を 山 口 盛 行 と 競 望 す る
︒ 競 望 の 是 非 を 桜 町 天 皇 か ら 関 白 一 条 兼 香 は 勅 問 さ れ
︑ 兼 香 は 先 例 は 少 な く 外 記 に 支 障 が あ れ ば 別 で あ る が
︑ い つ も 競 望
が あ っ て 決 め る の は よ ろ し く な い と 伝 え て い る
︒ し か し 友 俊 に 対 し て
︵"
︶
勅 許 が 下 っ て お り ︑ 友 俊
︑ 少 内 記 昇 進 の エ ピ ソ ー ド で あ る ︒ 千 俊 に つ い て は 寛 保 二 年 ︵ 一 七 四 二
︶ 八 月 一 五 日 条 に 名 が 見 え る ︒
︵#
︶
父 同 様 に 石 清 水 八 幡 宮 の 放 生 会 に 外 記 で 参 仕 し て い る ︒ こ の と き 父 友
︵$
︶
俊 は 没 し て お り
︑ 千 俊 が 家 督 を 継 い で い た こ と が 推 測 で き る
︒ 表 1 の ⑥ に は 友 俊
・ 千 俊 父 子 の 名 が あ る が ︑ 友 昌 が 書 写 し た と き の 経 緯 ま で 触 れ て い な い ︒ 友 俊
・ 千 俊 父 子 は 友 昌 の 書 写 本 を 所 有 し て い た の か
︑ 友 昌 が 所 有 し て い た の を 父 子 で 書 写 し 所 有 し て い た の で あ ろ う か
︒ と も か く 友 俊
・ 千 俊 父 子 の 所 有 す る 山 口 友 昌 系 統 の ﹃ 歴 名 土 代
﹄ は そ の 後
︑ 大 江 資 衡 系 と 甘 露 寺 国 長 系 に わ か れ ︑ 大 江 資 衡 系 は
﹃ 群 書 類 従
﹄ 掲 載 へ つ な が る ︒ 使 庁 官 人 大 江 資 衡 が 書 写 を 終 え た の は 宝 暦 一
〇 年
︵ 一 七 六
〇
︶ 九 月 二 七 日 で ︑ 友 人 森 岡 某 の 所 有 本 で あ っ た
︒ 大 江 資 衡 は 京 都 の 儒 学 者 で
︑ 号 を 玄 圃 ︑ 字 は 穉 圭
=稚 圭 ︑ 俗 称 は 久
︵%
︶
川 靭 負
︒ 表 1 の
⑥ ︑ 奥 書 の 末 尾 ﹁ 穉 圭 圃 ﹂ は 号 と 字 を 記 し て い る
︒ 著 作 物 は 明 和 三 年
︵ 一 七 六 六 ︶ に ﹃ 間 合 早 学 問 ﹄
︑ 安 永 三 年 ︵ 一 七 七 四
︶ に は ﹃ 学 翼 間
早 学 問後 編﹄ な ど が あ り
︑ 地 方 で 学 問 を 志 す 者 の た め の 書 物 で あ る
︒ ま た 女 性 に 学 問 を 勧 め る た め
︑ 明 和 元 年
︵ 一 七 六 四
︶ に
︵&
︶
﹃ 女 学 範 ﹄ を ︑ 安 永 六 年
︵ 一 七 七 七 ︶ に は
﹃ 女 早 学 問 ﹄ を 著 し て い る
︒
﹃ 女 学 範 ﹄ は ﹃ 近 世 女 子 教 育 思 想
﹄ ︵ 日 本 教 育 思 想 大 16 系
日 本 図 書 セ ン タ ー
昭 和 五 五 年
︶ に 採 録 さ れ 容 易 に 読 む こ と が で き る ︒ 蔵 書 印 は
﹁ 帝 室 図 書 ﹂ が 捺 さ れ て い る だ け で あ る
︒ こ の 印 は ﹃ 書 陵 部 蔵 書 印 譜
下
﹄ に よ れ ば ︑ 宮 内 省 に 設 置 さ れ た 部 署 の 一 つ 図 書 寮 が 所 有 し た 蔵 書 印 の 一 つ ︒ 図 書 寮 に は 歴 代 の 皇 室 書 籍 や 旧 宮 家
・ 公 家 ・
― 7 ―
武 家 な ど の 旧 蔵 本 が 約 四
〇 万 点 あ り ︑ 時 期 々 々 に 応 じ て 捺 さ れ た
︒ し か し ﹁ 帝 室 図 書
﹂ 印 が 捺 さ れ た 時 期 は 特 定 で き な い
︒ な お
︑ こ の 写 本 は 山 科 言 継 の ﹁ 山 科 本 ﹂ 系 統 を 書 写 し た も の で あ る が
︑ 三 冊 に な っ て い る こ と に 注 目 し て お き た い
︒
Ⓖ
︱⑦ 尊 経 閣 文 庫 本 も 大 江 資 衡 の 書 写 の 奥 書 が あ る が
︑ 前 項 Ⓕ
︱
⑥ に 見 た 奥 書 の 記 載 順 序 が 異 な る
︒ す な わ ち Ⓕ
︱
⑥ は 自 筆 本 の 奥 書
︑ 友 俊
・ 千 俊 の 奥 書 ︑ 大 江 資 衡 の 奥 書 の 順 で あ る が ︑
Ⓖ
︱⑦ で は 自 筆 本 の 奥 書 と 友 俊
・ 千 俊 の 奥 書 の 順 序 が 入 れ 替 わ っ て い る ︒ ま た Ⓕ
︱
⑥ で は 書 写 し た
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ は 三 冊 に 分 冊 さ れ て い る が
︑ Ⓖ
︱
⑦ は 二 冊 で あ る
︒ 最 初 ︑ 三 冊 に 分 け て 書 写 さ れ た が
︑ 次 の 書 写 の 校 合 で は Ⓕ
︱
⑥ と は 違 う
﹁ 或 本 ﹂ に よ っ て 校 合 し て い る
︒ 校 合 し た ﹁ 或 本
﹂ が 二 冊 構 成 で あ っ た た め ︑ 書 写 も 二 冊 分 に 装 丁 し た の で あ ろ う か ︒
Ⓗ
︱⑧
﹃ 群 書 類 従 29 第 輯 雑 ﹄ も 大 江 資 衡 書 写 本 の 系 統 で あ る
︒ 資 衡 の 奥 書 の 後 に
﹁ 歴 名 土 代 三 冊 大 久 保 酉 山 本 書 写 ﹂ と あ る ︒ 書 写 者 は 不 明 で あ る が ︑ 大 久 保 酉 山 本 に 依 っ て 書 写 し た こ と が わ か る
︒
た だよ り
大 久 保 酉 山 ︑ 酉 山 は 辞 職 後 の 号 で ︑ 名 は 忠 寄
︒ 宝 暦 一 三 年
︵ 一 七 六 三
︶ 御 書 院 番 に 列 し ︑ 寛 政 元 年
︵ 一 七 八 九
︶ ︑ 五 八 歳 で 職 を 退 い た ︒ 御 書 院 番 と は 江 戸 幕 府 の 職 制 で ︑ 城 中 虎 の 間 ・ 玄 関 前 諸 門 の 警 衛 や 将 軍 の 警 備 な ど を 行 う
︒ 職 を 辞 し た 年 か ら 逆 算 す る と
︑ 誕 生 は 享 保 一 七
な が よ し
年
︵ 一 七 三 二
︶ と な る
︒ 酉 山 の 四 代 前 の 長 好 が 初 代 で ︑ 長 好 以 来 適
︵!
︶
宜
︑ 加 増 を 受 け 上 総
・ 武 蔵 ・ 伊 豆 を 知 行 す る 旗 本 で あ っ た ︒ 酉 山 の 集 書 活 動 は 幕 府 の 知 る と こ ろ で あ り
︑ 文 庫 修 補 料
︑ 百 両 が 恩 賜 を さ れ た
︵"
︶
こ と か ら ︑ 家 蔵 書 籍 の 目 録 を 作 成 し 提 出 し て い る ︒
︵ マ ゝ
︶
︵#
︶
酉 山 の 蔵 書 目 録 ﹁ 酉 山 蔵 書 目 録
﹂ に
﹃ 歴 名 古 代 ﹄ の 名 が 見 え ︑ 三 分
冊 本 を 所 蔵 し て い た こ と が わ か る ︒
Ⓕ
︱⑥ で 大 江 資 衡 系 統 本 が 三 冊 構 成 で あ っ た こ と か ら
︑ 酉 山 は こ の 書 写 に 依 っ た 本 を 所 有 し て い た の で
た ちは ら
は な か ろ う か ︒
﹃ 群 書 類 従 ﹄ に 書 写 者 は 記 さ れ て い な い が
︑ 校 合 は 立 原
み つ
萬
るが 行 っ た と あ る ︒ 立 原 萬 と は 水 戸 藩 で 学 問 と 芸 術 分 野 で 活 躍 し た 人 物 で ︑ 字 は 伯 時
︑ 甚 五 郎 を 称 し た
︒ 延 享 元 年 ︵ 一 七 四 四
︶ に 生 ま れ ︑ 同 四 年 水 戸 藩 へ 仕 え
︑ 彰 考 館 で ﹃ 大 日 本 史
﹄ 編 纂 に 携 わ っ た
︒ 天 明 元 年
︵ 一 七 八 一 ︶ に は 江 戸 藩 邸 へ 赴 き ︑ 三 ヶ 月 の 間 六 代 藩 主 文 公 治 保
・ 武 公 治 紀 父 子 に 侍 読 し ︑ そ の 功 績 に よ っ て
︑ 同 六 年 彰 考 館 総 裁 と な っ た
︒ 職 を 辞 し て か ら 翠 軒 を 号 し ︑ 江 戸 へ 移 り 文 政 六 年 ︵ 一 八
︵$
︶
二 三 ︶ に 没 し た
︒ 立 原 萬 が 塙 保 己 一 と 交 流 が あ っ た こ と は ﹁ 温 故 堂 塙
︵%
︶
先 生 伝
﹂ に よ り わ か る が
︑ 二 人 が 出 会 う き っ か け と な っ た 年 次 は わ か ら な い ︒ と も か く 保 己 一 が 屋 代 弘 賢
︵ ﹃ 寛 政 重 修 諸 家 譜 ﹄ な ど の 編 纂 者 の 一 人 ︶ を 訪 ね た と き 萬 と 出 会 っ た こ と が 契 機 と な り
︑ 萬 と 保 己 一 の 交 流 が 生 ま れ
︑ 後 に 保 己 一 は 萬 の 推 薦 で 治 保 か ら
﹃ 大 日 本 史 ﹄ の 校 合 を 委 ね ら れ ︑ 保 己 一 も ま た
︑ 書 写 し た ﹃ 歴 名 土 代
﹄ の 校 合 を 萬 に 委 ね た の で あ ろ う
︒
Ⓘ
︱⑨ 内 閣 文 庫 に 所 蔵 さ れ る 写 本 で ︑ 山 口 友 俊 ・ 千 俊 本 を 志 摩 守 等 庭 が 所 持 し て お り ︑ そ れ を 甘 露 寺 国 長 が 書 写 し た の で あ る ︒ 奥 書 の 志 摩 守 等 庭 の 姓 は 高 橋
︑ 俗 称 を 濱 嶋 と す る ︒ 等 庭 に つ い て の 研 究 は 専 ら
︵&
︶
西 村 慎 一 郎 氏 が 進 め て お り ︑ そ れ に よ れ ば
︑ 濱 島 家 は 内 膳 司 で 朝 廷 儀 式 に 膳 を 調 進 す る 役 目 の 家 系 で ︑ 等 庭 か ら 一 六 代 前 ま で 遡 る こ と が で
︵'
︶
き る ︒ 濱 島 家 は ま た 有 職 の 家 と し て も 知 ら れ て い た
︒ こ う し た 家 系 を 持 つ 等 庭 は 延 享 四 年
︵ 一 七 四 七 ︶ に 生 ま れ
︑ 装 束 を 中 心 と し た 書 物 を 編 み ︑ 裏 松 固 禅 の ﹃ 大 内 裏 図 考 証
﹄ 作 成 に も 関 与 し て い る ︒
― 8 ―
学 習 院 大 学 史 料 館 に は
﹃ 内 膳 司 濱 島 家 文 書 ﹄ が 残 っ て お り
︑ そ の 中
︵!
︶
に は 等 庭 の 日 記
﹃ 日 次 記
﹄ が あ っ て ︑ 等 庭 が 公 家 の 大 宮 盛 季 へ ﹃ 歴 名 土 代 ﹄ を 貸 し ︑ 返 却 さ れ た 次 の よ う な 記 事 を 見 る こ と が で き る ︒ 文 政 二 年
︵ 一 八 一 九 ︶ 閏 四 月 三 日 条 に ︑
︵ 盛 季
︶
従 大 宮 三 位
□ 給 書 状
︑ 歴 名 土 代 所 望 也
︑ □ 全 壱 冊 借 進 之
︑ 使 尾 島 左 近
云 々
︑ と あ っ て ︑ 同 年 七 月 六 日 条 に は ︑ 従 大 宮 三 位
□ 給 書 状
︑ 兼 日 借 進 之 歴 名 土 代 一 冊 々 □ 之 ︑ 使 尾 嶋 左 近 ︑ と あ っ て ︑ 等 庭 は ﹃ 歴 名 土 代
﹄ 一 冊 本 を 所 有 し て い た こ と が わ か り ︑ こ れ を 甘 露 寺 国 長 が 享 和 三 年
︵ 一 八 〇 三 ︶ に 書 写 し た の で あ る ︒ と こ ろ で 図 2
﹁ 系 統 図
﹂ の
﹁ 文 献 に よ る 山 科 本 の 確 認
﹂ 欄 下 の
﹁ 諸 家 へ 貸 与 書 写 ﹂ 欄 を 見 る と ︑ 戦 国 末 期 の 永 禄 六 年 ︵ 一 五 六 三
︶ 六 月 一
︵ 経 元
︶
六 日 甘 露 寺 家 は そ の 日 か ら 同 七 月 九 日 ま で
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ を 借 用 し
︑ さ ら に 天 正 四 年 ︵ 一 五 七 六
︶ 九 月 に も 借 用 し て い る こ と は ﹃ 言 経 卿 記
﹄ に 見 る こ と が で き る
︒ 借 用 期 間 に 書 写 も し く は 校 合 し た と 考 え ら れ る こ と か ら ︑ こ の 時 点 で は 甘 露 寺 家 に は
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ が あ っ た
︒ し か し 年 月 が 経 つ 間 に 失 っ て し ま っ た の で あ ろ う
︑ 江 戸 時 代 後 期 に な っ て 国 長 が 書 写 し た の で あ る ︒ 国 長 と 等 庭 の 関 係 は ﹃ 国 長 卿 記
﹄ 寛 政 六 年 四 月 九 日 の 記 事 を 最 初 と し て ︑ 文 化 七 年
︵ 一 八 一
〇 ︶ ま で い く つ か 見 る
︵"
︶
こ と が で き る ︒ い ず れ も 甘 露 寺 家 で 等 庭 は
﹁ 挍 家 記
﹂ し て い る ︒ 等 庭 が
﹁ 挍
﹂ し た 家 記 に は ﹃ 永 昌 ﹄
﹃ 大 府 卿 旧 記
﹄ の 名 が 見 え る ︒
﹃ 永 昌
﹄ は 参 議 藤 原 為 隆 の 日 記 で ︑ 現 在 欠 落 も あ る が
︑ 長 治 二 年 ︵ 一 一
〇 五
︶
〜 大 治 四 年
︵ 一 一 二 九
︶ が 残 っ て い る
︒ 他 に
﹃ 吉 御 記 ﹄
﹃ 戦 国 策 泰
策
上﹄ ﹃ 延 喜 式
﹄ が あ り ︑
﹁ 挍
﹂ し て い る
︒ ﹃ 吉 御 記
﹄ は
﹃ 吉 記 ﹄ の こ と で 藤 原 経 房 の 日 記
︒ こ れ ら の 書 物 を 等 庭 が 持 参 し 校 合 し た の か
︑ 甘 露 寺 家 の 書 物 を 校 合 さ せ ら れ た の か は
︑ こ こ で の 文 面 か ら は わ か ら な い
︒ し か し 国 長 と 等 庭 に は 書 物 を 通 じ 接 し て い た こ と が わ か る ︒ 内 閣 文 庫 に 残 る 国 長 筆 の
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ に は 表 2 に 示 し た よ う に ﹁ 甘 露 寺 蔵 書
﹂ 印 が 捺 さ れ て い る ︒ 藤 原 宗 益 系 統 本
︵ Ⓙ
︱
⑩
・ Ⓚ
︱
⑪ ︶
Ⓙ
︱⑩ 神 宮 文 庫 所 蔵 写 本 に は
︑ 言 継 の 奥 書 が 書 写 さ れ て い る か ら ︑
﹁ 山 科 家 本
﹂ が 受 け 継 が れ
︑ 宗 益 が 書 写 し た 本 が あ る こ と が わ か り ︑ そ れ を 慶 安 四 年
︵ 一 六 五 一 ︶ 五 月 一 四 日 に 孝 益 が 書 写 を 終 え た ︒ 孝 益 の 姓 は 藤 原 で あ る が
︑ 奥 書 き か ら 家 号 は 河 端 で あ っ た と 考 え ら れ る ︒ ま た 宗 益 と は 少 な く と も 親 子 関 係 に あ る か 同 族 と み な さ れ る が ︑ 管 見 の 限 り 確 定 的 史 料 を 見 付 け て い な い ︒ 孝 益 所 有 の 写 本 を 用 い て 紀
︵ 小 野 ︶ 氏 辰 が 写 し
︑ さ ら に 紀
︵ 高 橋
︶ 宗 恒 が 天 和 二 年 三 月 下 旬 に 書 写 を 終 え た ︒ 氏 辰 の 妻 は 宗 恒 の 娘 で
︑ 宗
︵#
︶
恒 は 御 厨 子 所 預 の 職 に あ っ た
︒ こ こ で 先 述 の
Ⓘ
︱⑨ に 見 た 等 庭 を 思 い 起 し て み る
︒ 等 庭 は 宗 恒 よ り 約 一
〇 〇 年 後 の 時 代 の 人 物 で あ る が
︑ 等 庭 の 職 は 内 膳 司 で あ っ た
︒ 宗 恒 が 所 属 す る 御 厨 子 所 は 律 令 制 下 の 名 称 を 継 承 す る 内 膳 司 に 属 し
︑ 天 皇 の 食 事 を 調 進 す る 部 署 で あ る
︒ こ う し た 関 係 に あ る と こ ろ か ら
︑ 等 庭 所 持 の
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ は こ の 系 統 の 本 で あ っ た か も し れ な い
︒ 宗 恒 が 書 写 し た の は
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ 一 冊 で あ っ た と 考 え ら れ る か ら で あ る
︒ 等 庭 が 大 宮 盛 季 に 貸 し た の も 先 に
﹃ 内 膳 司 濱 島 家 文 書
﹄ の 記 事 に 見 た よ う に 一 冊 で あ っ た
︒
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表 1 の ⑩ の 奥 書 を 続 け て 見 て い く と
︑ 宗 恒 所 有 の
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ は 高
︵!
︶
孟 が 所 持 す る 二 冊 構 成 の 本 で
︑ 安 永 五 年 冬 に 和 気 菫 正 が 書 写 し ︑ 宗 恒 の 孫 宗 直 の 本 で 校 合 を 行 っ た こ と が わ か る
︒ 和 気 菫 正 な る 人 物 は わ か ら な い が ︑
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ が 神 宮 文 庫 へ 収 め ら れ た と き ︑
﹁ 勤 思 堂 ﹂ の 蔵 書 印 が 捺 さ れ て い た の は
︑ 何 ら か の 事 情 で 和 気 菫 正 か ら 勤 思 堂 に わ た
︵"
︶
り そ こ で
﹁ 勤 思 堂 ﹂ の 蔵 書 印 が 捺 さ れ た ︒
﹁ 勤 思 堂
﹂ の 蔵 書 印 を 持 つ 人 物 は 村 井 敬 義 で あ る ︒ 村 井 敬 義
︑ 通 称 は 菱 屋 新 兵 衛 ︑ 号 を 古 厳
・ 勤 思 堂 と い い 寛 保 元 年
︵ 一 七 四 一 ︶ に 大 坂 に 生 ま れ た
︒ 始 め は 呉 服 商 と し て 生 家 を 継 ぐ が ︑ 勉 学 を 志 し 家 業 を 弟 に 譲 り 書 肆 勤 思 堂 を 構 え た ︒ 京 都 へ 移 っ て か ら は 国 学 を 学 び 蒐 書 に 努 め た ︒ 神 宮
・ 林 崎 文 庫 の 再 興 を 志 し
︑ 内 宮 権 禰 宜 蓬 莱
︵ 荒 木 田
︶ 尚 賢 の 誘 い に 応 え ︑ 蔵 書 三 七
〇 三 部 を 林 崎 文 庫 へ 献 納 し た
︒ 天 明 六 年 ︵ 一 七 八 六
︶ 奥 州 旅 行 の 途 中 塩 竃
︵#
︶
神 社 で 没 し た ︒ 享 年 四 六
︒ 以 上
︑ ﹁ 山 科 家 本
﹂ が 近 世 に ど の よ う な 人 の 手 を 経 て 書 写 さ れ て き た か そ の 流 れ を 見 た ︒
Ⓚ
︱⑪ 阪 急 学 園 池 田 文 庫 所 蔵 で ︑ 奥 書 に は 享 保 一 五 年
︵ 一 七 三
〇
︶ 四 月 四 日 に
﹁ 他 筆 ﹂ を 以 て 紀 宗 直 が 書 写 し
︑ 約 一 五
〇 年 後 の 明 治 一 八 年
︵ 一 八 八 五 ︶ 春 に 斎 藤 某 の 本 を 武 修 が 書 写 し た ︒ 宗 直 の 写 本 を 斎 藤 某 が 書 写 し た か 入 手 し た か 不 明 で あ り
︑ 斎 藤 某 と 武 修 の 関 係 も 不 明 ︒
た けな か
最 終 の 書 写 者 の 武 修 は 松 平 武 修 と 考 え る
︒ 松 平 武 修 と し た の は こ の 写 本 に 捺 さ れ た 蔵 書 印 が ﹁ 松 平 家 蔵 書 ﹂
︵ 4
.7
㎝ 四 方
︒ 篆 刻 印 で な く 楷 書 に 近 い 文 字 ︶ に よ る ︒ し か し 管 見 の 印 譜 関 連 書 物 に 掲 載 を 見 つ け る こ と が で き な か っ た
︒ 公 開 さ れ て い る 京 都 大 学 附 属 図 書 館 の 貴 重 書 デ
︵$
︶
ー タ ベ ー ス 目 録 で た ど り
︑ 見 付 け た の が 谷 村 文 庫 の
﹁ 涕 涙 余 滴 ﹂ で あ っ た ︒ こ の 本 の 目 録 の 旧 蔵 印 記 に は ﹁ 松 平 武 修 子 爵
﹂ と あ る
︒ そ こ で
閲 覧 申 請 を 行 い
﹁ 涕 涙 余 滴 ﹂ を 閲 覧 し た ︒ ま さ し く 阪 急 池 田 文 庫 に あ る
﹃ 歴 名 土 代 ﹄ に 捺 さ れ た 印 と 同 じ で あ っ た が
︑ こ ち ら の は 1.5 ㎝
四 方
︵%
︶
の 大 き さ で あ っ た ︒ 武 修 は 書 写 し た 年 代 に も 合 う 人 物 で も あ る ︒
た づ た
武 修 は 甲 府 徳 川 家 の 支 流 ︑ 美 作 鶴 田 藩 ︵ 岡 山 県 津 山 市
︶ 松 平 家 の 最 後 の 藩 主 ︒ 祖 は 徳 川 三 代 将 軍 家 光 の 第 四 子 で 綱 重 の 第 二 子 清 武 ︒ 五 代 斉 厚 の と き 石 見 国 浜 田 へ 移 封 と な る ︒ 武 修 は 八 代 武 聡 の 第 一 子 と し て 元 治 二 年 ︵ 一 八 六 五
︶ 一 二 月 に 誕 生 し た ︒ 元 治 二 年 は こ の 年 の 四 月 に 慶 応 と 改 元 さ れ
︑ 二 年 後 に は 明 治 元 年 を 迎 え る 時 期 で ︑ 世 間 は な に か と 騒 が し く な っ て い た ︒ 元 治 二 年 二 月 に は
︑ 長 州 藩 主 毛 利 敬 親 父 子 が 幕 府 へ 抗 戦 す る
︒ 抗 戦 は 昨 年 に 続 く 二 度 目 で ︑ 四 月
︑ 幕 府 は 諸 藩 に 長 州 再 征 を 命 じ た
︒ 翌 慶 応 二 年
︵ 一 八 六 六 ︶ 六 月
︑ 武 修 の 父 武 聡 に も 幕 命 が 下 り ︑ 浜 田 を 発 し 領 界 の 多 田 村 を 襲 い 益 田 に 戦 う が
︑ 敗 れ て 浜 田 城 を 焼 き 出 雲 を 転 々 と す る ︒ 息 武 修 は 伯 父 で 鳥 取 城 主 の 池 田 慶 徳 を 頼 っ て 移 る ︒ 同 年 七 月 将 軍 家 茂 が 没 し た こ と で ︑ 幕 府 は 長 州 征 伐 の 兵 を 収 め た
︒ 慶 応 三 年 武 聡 は 出 雲 を 出 て 美 作 鶴 田 へ 移 り
︑ 武 修 も そ れ に 従 い
︑ 明 治 六 年 ︵ 一 八 七 三
︶ 家 督 を 継 ぐ こ と と な り ︑ 同 一 七 年 子 爵 を 賜
︵&
︶