2017
年6
月14
日水曜日未明、ロンドンのケンジントン・チェルシー地 区にある24
階建ての高層公営住宅グレンフェル・タワー(Grenfell Tower)が炎と煙に包まれた。手抜き工事、防火設備の不具合、住民に対する消防 隊の不適切な指示などが重なり、火災は
72
人もの死者を出す悲劇となっ た。イギリスの左派高級紙『ガーディアン』(The Guardian)が惨事から一 年近くたった2018
年5
月14
日に掲載したマーク・ライス=オクスリー(Mark Rice-Oxley)の記事によれば、犠牲者の内訳は「この
30
年間にイギ リスがどれほど多様で、開放的で、寛容になったかを示す」と同時に、「現 代イギリス社会の複雑性を反映する」ものでもあった。犠牲者には、20 代や30
代になっても親と同居している独身者、危険な祖国を逃れてきた 難民、障害をかかえた高齢者などが含まれていたのである。だが他方で、白人のイギリス人の犠牲者の数は七人と少なく、火災による被害は少数派 の民族集団に偏っていたのだ。同じ『ガーディアン』の
2017
年11
月13
日の記事でアミーリア・ジェントルマン(Amelia Gentleman)は、地区選 出の国会議員エマ・デント・コード(Emma Dent Coad)がまとめた報告 書を参照しつつ、グレンフェル・タワーがあるケンジントン・チェルシー 地区は平均値だけを見ればロンドンの中でもっとも裕福な地区だが、地区丹 治 竜 郎
高層住宅と競争社会
─ベリル・ベインブリッジの「拍手して、チャーリーの
登場だ」における『ピーター・パン』を見る
労働者階級の家族─
内部における格差が極めて大きいことを指摘している。グレンフェル・タ ワーがある北部区域は地区内でもっとも貧しい場所で、居住者の収入や平 均寿命がロンドン全体の平均を大きく下回っているのである。
イギリスの高層住宅は、高級なイメージをともなう日本の高層住宅とは まったく違うものなのだ。グレンフェル・タワー自体は
1970
年代の初め に建設されているが、ウィキペディア英語版の ʻTower blocks in Great Britainʼ の項目を参照すると、イギリスにおいて高層公営住宅(tower block)は、19
世紀に建てられた老朽化した住居や第二次世界大戦でドイツ軍に破壊 された住宅に代わるものとして1950
年代に建設が始まっている。高層公 営住宅は限られた空間を有効活用し、広い居住空間を安価で人々に供給す ることを可能にしたので、当初は大いに人気を博した。ところが、1968 年にロンドン東部地区に建てられた高層住宅ローナン・ポイント(RonanPoint)が、手抜き工事が原因で竣工から二か月余りで一部崩壊するとい
う事故が起こったことが契機となり、人々の高層公営住宅への信頼が失わ れていくことになった。今でもイギリスの各都市には多くの高層公営住宅 が存在しているが、ほとんどの場合家賃や価格の低さに惹かれた低収入の 人々が暮らす場所になってしまっているのである。リンジー・ハンリー(Lynsey Hanley)は、1970年に住宅建設・地方自治相(Minister of Housing
and Local Government)を務めた労働党の国会議員ボブ・メリッシュ(Bob Mellish)が、建設現場を視察中に高層公営住宅を「空中のスラム」(slums in the sky)(240)と呼んだことに言及し、貧富の格差の縮小を目指した戦
後イギリスの住宅政策が結果的には貧しい人々と豊かな人々とのあいだに「目に見えない堅固な壁」(97)を作り出してしまったと指摘する。高層公 営住宅は貧しい人々が選択の余地なく住まざるをえない場所となってし まったのである。ふたたびウィキペディアによれば、都市の周縁部に建て られることが多い高層公営住宅では住民の孤立感が強く、また高層公営住
宅内部やその周辺での犯罪の多発も重大な問題となっている。
ベリル・ベインブリッジ(Beryl Bainbridge)が
1985
年に発表した短編「拍 手して、チャーリーの登場だ」(ʻClap Hands, Here Comes Charlieʼ)におい て、ヘンダーソン(Henderson)一家が暮らしているのは高層公営住宅だ。物語の舞台はベインブリッジの生地リヴァプールで、時期はクリスマスの 直前である。かつてヘンダーソン一家が野外トイレのある古くて不便なテ ラスハウスに住んでいたことは、主人公のチャールズ(Charles)の回想か らわかる。物語が何年に設定されているのかは不明だが、作品が発表され た年を考えれば、1980年代の前半だろう。ヘンダーソン一家はおそらく
1970
年代中頃に高層住宅に引っ越してきたと推測される。チャールズはどうやら高層住宅になじめないようだ。彼は、父親のこと を ʻCharlieʼ と呼ぶ息子アレック(Alec)の反抗的な態度や妻の無関心な応 対のために消化不良の悪化に悩まされているのだが、以前まともな家に暮 らしていたときのように、裏口から庭に出て歩き回ることができないこと を不満に感じている。「この地獄みたいな場所に裏口のような高尚なもの がついていたとしても、そこから外に出たら健康の増進には絶対ならない だろう」(335)とチャールズは考える。新鮮な空気を吸おうと思って窓を 開けたりしたら、マージー川からの強風でサイドボードに飾ってあるクリ スマス・カードが吹き飛ばされるのがおちなのである。「いつも雲と同じ 高さにいるのはふつうじゃない。見上げてもいないのに、窓から外を見る と空しか見えない生活を送るように人間は作られていない」(335)と彼は 思う。リヴァプール郊外にある同じような高層住宅に暮らす娘のモイラ
(Moira)の子どもたちがどうして耐えられるのか、チャールズには不思議 でならない。ハンリーも指摘しているように(99)、イギリスの高層公営 住宅においては一般的に高層階に住む人ほど貧しい人になるので、かなり の高層階に住んでいると推測されるヘンダーソン家はもともとあまり豊か
な一家ではなかったはずだ。ただ、今はミセス・ヘンダーソンがアンジェ ラ・ビソン(Angela Bisson)の掃除婦として働いており、アレックも就職 しているので、経済的にはそれほど困っているわけではないだろう。稼ぎ 手(bread-winner)としてのチャールズの地位が家庭内で相対的に低下し ていることが、彼が息子からも妻からも冷たい扱いを受ける一つの理由に なっていると考えられる。
高層住宅に不満を感じているチャールズは、アレックやモイラが幼かっ たころのことを思い出す。モイラが玄関前の段に座って人形遊びに興じて おり、アレックが路上で電柱のあいだを出入りしながらローラースケート を走らせていたころのことだ。立派な浴室がついていて蛇口からお湯が出 る高層住宅に移って数週間で、アレックの首筋の泥汚れを歯ブラシでこす り取る必要はなくなったものの、「人生にはたしかにきれいな首筋以上に 重要なことがある」(335)とチャールズは思うのである。彼の生活はまる で飛行機の操縦室の中で営まれているようだが、どこにいくわけでもな く、「どこにも着陸場所は見えない」(336)のだ。夜になれば窓からたく さんの星が見える。しかし、その数があまりに多すぎて、彼は安らぎも感 動も覚えないのである。「重要なのは量ではなく質だ」(336)と考えた彼に、
昔住んでいたテラスハウスの野外トイレに座っていたときの記憶がよみが えってくる。そのとき彼は、蝶番が壊れていてきちんと閉まらないドアの 隙間から夜空に輝くたった一つの星を眺めながら、こんな思いをいだいた のだ。
それは(中略)彼が置かれている状況、広い意味での──今座ってい る場所よりもずっと大きな──状況に対する展望をあたえてくれた。
彼は地上に縛りつけられた死すべき存在で、空に輝いている青白いダ イヤモンドから
100
万光年も隔てられているのだ。人間には一つ星があれば十分だ。(336)
リヴァプールのしがない労働者のほとんどパスカル的とも言える内省は いったいどんな意味をもっているのだろうか。高層住宅の窓から見える無 数の星々と悪臭が漂う野外トイレから眺められた一つの星。両者のあいだ には住んでいる場所の違い以上の何かが存在しているように思われる。か つてチャールズが状況を把握することを助けてくれた一つの星とは、戦後 のイギリスにおいて政権交代を繰り返しながらも「合意の政治」によって 保守党と労働党がともに目指した福祉国家の理想、もっと一般的に言え ば、政治家だけではなくほとんどのイギリス人がぼんやりと共有していた 相互扶助的な価値観を象徴しているように思えてならない。それに対して、
チャールズを混乱させる夜空の無数の星は、
1979
年に首相に就任したマー ガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)が福祉国家の理想と「合意の政治」を否定し、社会全体に競争原理を導入した結果生じた人々の困惑と混乱を 暗示しているだろう。チャールズは突然の社会の変化についていけず、何 を目指して競争をするのか理解できない。コックピットのようなフラット で暮らしながら「どこにも着陸場所が見えない」という彼の感覚は、まさ にそこから生じているのだ。
アレックの運転する車に乗って家族でクリスマスのパントマイム劇
『ピーター・パン』を見に出かける途中、彼らは以前住んでいた通りの端 を通り過ぎる。すべての家が壊されてしまった通りを見て、ミセス・ヘン ダーソンは嘆息する。それに対してアレックは、ぼろいスラム街が一掃さ れてよかったんだと言い放つ。チャールズは通りに住んでいた男たちが仕 事のあと洗濯屋の戸口をゴールポストに見立ててフットボールをしていた ことを思い出し、まるで村に住んでいるみたいだったなあとつぶやく。ア レックは煙草の倉庫や醸造所が中心部に立っている村なんてないと言っ
て、父親のノスタルジックな発言をあざけるものの、チャールズはパブの 裏の草原でキツネ狩りをしたこと、わなを仕掛けてウサギを捕まえ食べた こと、運河で釣りをしたことをなつかしそうに振り返るのである。アレッ クはただ「ネヴァーネヴァーランドみたいなものだな」(337)と言うだけ だ。近くに住んでいる者どうしの連帯感が強く競争原理とは無縁だった過 去の世界をチャールズはなつかしく回想しているわけだが、たしかにそれ はもはやネヴァーランドのようなどこにもない世界になってしまっていた のかもしれない。それは、夜空に輝く一つの星のようにささやかな幸福の 共有によって結びついていたコミュニティだったのであり、そこには相手 を蹴落として高い地位や報酬を得ようとする世知辛い競争は存在しなかっ たのだ。
もちろん、このような牧歌的な社会が存立しえたのは、かつての大英帝 国の遺産のおかげだったのである。しかし、1970年代半ばにはオイル・
ショックの影響もあって、イギリスの経済はほとんど破綻状態となる。寒 さが厳しかった
1978
年から79
年にかけての冬にはストライキが頻発し、労働党政権は対応に手間取ってしまう。多くの人がイギリス経済の行き詰 まりを認識したこの冬が明けたあと、5月の総選挙で保守党が大勝し、新 自由主義的な思想をもつサッチャーが首相に就任する。彼女は電気や水道 などの国営産業の民営化を進め、社会に競争原理を浸透させることによっ て、イギリス経済の再生を目指したのである。人々は連帯から競争へと駆 り立てられることになった。チャールズのノスタルジーが間接的に表明し ているサッチャリズムに対する違和感は多くの人が共有していたはずだ。
ミセス・ヘンダーソンを掃除婦として雇っているアンジェラ・ビソンは、
クリスマスのプレゼントとしてお金を渡すことは人を堕落させると言い、
ミセス・ヘンダーソンにパントマイムのチケットをあたえる。ミセス・ヘ ンダーソンはお金をもらって堕落したと感じたことはなかったが、とりあ
えずチケットを受け取る。そういうわけで、ヘンダーソン家は『ピーター・
パン』を見に出かけることになるのだ。アレックは、『ピーター・パン』
は一般的な意味でのパントマイムでなく、複数の意味のレヴェルをもつ寓 話的な物語なのだと言う。モイラの子どもたちには乳母や暖炉が出てくる 物語が理解できないだろうと彼は続ける。それに対してチャールズが反論 すると、「黙れ、チャーリー」(335)とどなられる。劇場でパントマイム をめぐる夫と息子の議論を聞きたくないミセス・ヘンダーソンが、チャー ルズの代わりに上の階に住んでいるミセス・ラファティ(Mrs Rafferty)を 誘うつもりだと言うと、彼はすねて「おれはしがない稼ぎ手にすぎないか らな」(335)とぼやく。しかし、チャールズはミセス・ラファティがビン ゴ帰りに暴漢に襲われて以来五年間外出していないことを知っているの で、妻が本気で言っているのではないことがわかっているのだ。高層住宅 近辺での犯罪の多発が住民の孤立の要因となっているわけだ。「おれはし がない稼ぎ手にすぎないからな」というチャールズの言葉は、彼がこれか ら見ることになる『ピーター・パン』の中で、ウェンディ(Wendy)の父 親ジョージ・ダーリング(George Darling)が、乳母の役目を果たしている 飼い犬のナナ(Nana)のミルクに自分が飲みたくない薬をまぜるという いたずらをして、家族から責められたときに口にする言葉を先取りしてい る。この時点でのチャールズは自分が発した言葉がミスター・ダーリング の台詞と重なることを知らないのだが、劇場に出かける前から彼の運命は
『ピーター・パン』の物語と分かちがたく結びついているのである。
「拍手して、チャーリーの登場だ」の物語と『ピーター・パン』の物語 の連関について論じる前に、チャールズの息子アレックについて考えた い。すでに述べたように、彼は父親のことをなれなれしい調子で「チャー リー」と呼んでいる。彼はサッチャー時代のイギリス社会についていけず 過去をなつかしんでいるだけの父親をばかにしているようだ。しかし、ア
レックがサッチャー的な新自由主義を支持しているとは考え難い。物語の 中でアレックが組合の会議に出かけるからだ。労働組合はサッチャーが敵 視していた社会集団だったので、組合員のアレックが彼女の支持者である はずがない。そうだとすれば、彼のチャールズに対する反発は、チャール ズが古きよき時代を回想するだけで、サッチャリズムに反抗する行動を起 こそうとしないことへのいらだちに起因すると考えるしかない。劇場に出 かける際に、家族がエレヴェーターに乗ったとき、アレックはふざけてす べての階のボタンを押したモイラの息子ウェイン(Wayne)の耳をひっぱ たく。チャールズはウェインがひっぱたかれるのも仕方ないことだと思い ながらも、「何もそこまでしなくてもいいだろう」(336)と言って、アレッ クをいさめるが、今回も「黙れ、チャーリー」とどなられてしまう。この あと、アレックの車で一家は劇場に向かう。途中でアレックが猛スピード で角を曲がったため、助手席に座っていたチャールズの体が振られ、アレッ クにぶつかると、彼は「おれに寄りかかるのをやめろよ」(336)とどやさ れる始末だ。劇場の駐車場でアレックは、車から降りて誘導指示をしてい たチャールズに車をぶつけようとさえする。チャールズは足先をタイヤで 踏まれてしまうのだ。妻に訴えかけても、「思い過ごしよ」(337)という 冷たい反応しか返ってこない。ここまでの仕打ちをされて、どうしてチャー ルズは息子をしかりつけないのだろうか。競争よりも相互扶助の精神が支 配的だった場所と時代にずっと生きてきたことによって涵養された温和な 性格のためかもしれないが、それだけではなく、自由競争社会にうまく適 応できないみずからの無力さを実感しているからだろう。仲間に寄りかか りながら生きてきたチャールズは、競争社会の中でだれにも寄りかかるこ とができないアレックをどこかで気の毒に感じているため、彼を非難する ことができないのである。一方通行の道を逆走するアレックの無謀な運転 は、過酷な競争の中で求められるアグレッシヴさを暗示しているだろう。
チャールズはアレックが運転する車の中でただ体を左右に振られているだ けだ。それは無抵抗のまま競争社会に翻弄されるチャールズの姿を想起さ せる。
チャールズが『ピーター・パン』を鑑賞するのは人生で初めてのようだ。
第一幕で犬のナナを人が演じていることに気づいて、本物の犬に演じさせ ることができないからだろうと考えることからもわかるとおり、彼は『ピー ター・パン』というパントマイムの約束事を何も知らないのである。家族 がだれも自分をかまってくれないとミスター・ダーリングが不平を述べる 場面では、チャールズはほかの観客といっしょに笑わず、あいつはただの 稼ぎ手にすぎないんだからかまってもらえなくて当然だと考えながら、つ いつい自分自身と重ね合わせ不満の声を出し、妻に小突かれる。彼にはティ ンカーベル(Tinkerbell)が蛍みたいなものとしか思えず、ウェンディがピー ターにキスを求めるとティンカーベルが彼女の髪を引っ張ったのでたぶん 女性なのだろうと推測することぐらいしかできない。第二幕と第三幕のあ いだチャールズは居眠りをしてしまうのだが、第三幕の最後で、フック船 長(Captain Hook)の鉤爪にけがを負わされたピーターが人魚の入り江で 水没しかけている岩の上に一人残され、いったんは恐怖を感じるものの、
彼の心の中で太鼓が鳴り、「死ぬことって、ものすごい大冒険だぞ」と告 げる場面で、腕に痛みを感じて目を覚ますのである。実は、パントマイム が始まったときから、彼はいつもの消化不良を起こしていたのだが、どう やらたんなる消化不良ではないらしい。彼はみずからの死を予期していた がゆえに、「死ぬこと」という言葉に反応して目を覚ましたのである。
チャールズが『ピーター・パン』を見て考えることは『ピーター・パ ン』の荒唐無稽さを明らかにする「異化」の好例だが、とりあえずそれは 置いておこう。ここでは幕間でバーに出かけたチャールズとアレックとモ イラの会話に注目したい。同じ俳優がミスター・ダーリングとフック船長
を演じている理由がわからないとモイラが疑問を口にすると、チャールズ は節約のためだろうと茶化すのだが、アレックはそれが伝統なのだと説明 する。海賊野郎がミスター・ダーリングのはずがないというチャールズの 主張に対して、アレックはそれには象徴的な意味があり、温厚なミスター・
ダーリングと冷酷なフック船長は同じ人間の二つの側面なのだと解説す る。チャールズはアレックの言っていることはまったく理解できないと言 い、モイラは二人の子どもとガス代の請求書を残していなくなった夫のこ とを思い出す。アレックは大声でこう続ける。
「意味は(中略)明らかだ。ミスター・ダーリングは彼の子どもたち を殺したいと思っているんだ。(中略)現実の父親たちと同じさ。彼 らはいつだって子どもたちをなきものにしたいと願っているんだ。」
(339)
「拍手して、チャーリーの登場だ」で描かれるチャールズのふるまいから は、アレックの父親に対する敵意は正当化できないように思われる。チャー ルズが権威的な父親でアレックを抑圧しているような場面はまったくない し、過去においてもそのようなことがあったとも思えない。パントマイム の終盤において子どもたちがネヴァーランドから戻ってミセス・ダーリン グと再会する場面で、チャールズはミセス・ダーリングの心境を思いやり、
昔アレックがカブ・スカウトから戻ってくるのが
30
分遅れたときどんな に心配したかを思い出す。この10
年間のアレックに対する気持ちがどう であれ、チャールズは子どものときのアレックを愛していたのだ。アレッ クの論理では、このようなやさしい父親にも別の側面があり、それがアレッ クの憎しみや反発の対象になっているのだろうが、いったいそれはどのよ うな側面なのだろうか。アレックは過去を思い出すことを極端に嫌っている。チャールズが愛し
ていた少年時代のアレックをアレック自身が否定しようとしているよう だ。おそらくアレックにとって父親の愛は重荷であり、束縛であり、それ ゆえ反発の対象となったのである。物語では描かれていないが、おそらく 父親の愛は、自分と同じような労働者階級の人生を息子にも望むという形 を取ったのではないかと思われる。チャールズの古きよき労働者階級のコ ミュニティに対する懐古的な態度は、このような推測の根拠となるだろう。
アレックは愛という名のもとに自分の人生を束縛しようとした父親に反感 をいだいたのである。愛によって息子の自由を制限しようとする存在、そ れが息子を愛する父親の別の側面だったのだ。また、『ピーター・パン』
に関するアレックの解釈は彼の知的なレヴェルがチャールズのそれよりも 高いことをうかがわせる。自由を求める彼の知性が、父親の束縛的な愛に 反発したことは十分理解できることである。
アレックの父親に対する敵意には時代的な要因も作用しているはずであ る。大英帝国の遺産を食いつぶすだけで、「イギリス病」と呼ばれる経済 的な停滞状況を招きながら、それに対して有効な処置をとることができな かった旧世代(チャールズの世代)に対して、その負債を押しつけられた 新世代(アレックの世代)がいだいた反感を、アレックはチャールズに対 して表しているのだ。アレックにとってチャールズの懐古的な姿勢は、サッ チャリズムという過酷な自由競争社会をもたらした旧世代の過ちに目をつ むった欺瞞としか思えないのである。もちろん、自由競争社会を生み出し た責任は旧世代の労働者階級にだけあるわけではないが、アレックには身 近にいるチャールズが反感の対象となったわけだ。
息子の反発とそこから生じる軽侮によって、家庭内におけるチャールズ の存在感は希薄化する一方である。夫と息子が劇場で口論するのが耐えら れないので、夫の代わりにミセス・ラファティを誘うつもりだとミセス・
ヘンダーソンが言うと、夫のチャールズは「おれたちのアレックが仲間外
れにされるはずだと思っていたが、とんだ見当違いだったよ」(335)と嘆く。
すでに述べたように、ここで彼は「おれはしがない稼ぎ手にすぎないから な」と皮肉を言うのだが、彼自身は皮肉のつもりでも、妻も息子も働いて いる家庭において「稼ぎ手」としての彼の地位が相対的に低下しているこ とは紛れもない真実なのだ。アレックがことあるごとにチャールズの言葉 を否定するため、ミセス・ヘンダーソンはチャールズの言葉を真剣に受け 取らなくなってしまっている。たとえばアレックが、ネヴァーランドやロ スト・ボーイズが出てくるので、『ピーター・パン』にはおとぎ話的なと ころがあるが、それだけの話ではないのだという意見を述べると、チャー ルズは「おれは人生でこれまでずっとロスト・ボーイ(迷い子)だったな」
(334)とつぶやくのだが、アレックもミセス・ヘンダーソンも聞いていな い。また、劇場の駐車場でアレックの車に足先をひかれたとき、チャール ズが「あいつはおれの足をひいたんだぞ」と訴えても、ミセス・ヘンダー ソンは「思い過ごしよ」(337)としか答えない。物語の中で最初からチャー ルズの言葉はだれにも伝わらない独語めいたものになっているのだ。これ が最終的に悲劇をもたらすことになるのである。
最後に「拍手して、チャーリーの登場だ」と『ピーター・パン』の連関 について論じることにしよう。パントマイムが始まったときからチャール ズは消化不良に苦しんでいたが、第二幕に入ると居眠りを始め、第三幕 の最後で「死ぬことって、ものすごい大冒険だぞ」という台詞とともに、
腕に痛みを感じて目を覚ます。休憩をはさんだあと、第四幕が始まると、
チャールズの消化不良はますますひどくなり、妻にペパーミントをくれと 頼んでも、彼女はパントマイムに熱中していて、静かにしてとしか言わな い。チャールズもパントマイムに意識を集中させようとするものの、台詞 を十分に聞き取ることができない。ウェンディやロスト・ボーイズが飛び 回るのを見ながら、彼は自分もシートの上で立ち上がれば、二階席まで飛
べるのではないかと空想するが、足を動かそうとすると彼の足は鉛のよう に重く感じられるのだ。このあと、チャールズはウェンディたちが家に戻っ て母親と再会した場面を見て、子どものころのアレックを自分がいかに愛 していたかを思い出す(これについてはすでに論じた)。パントマイムが
J.
M. バリー(J. M. Barrie)の戯曲『ピーター・パンあるいは大人になりたが
らない少年』(Peter Pan, or The Boy Who Would Not Grow Up)にもとづいてい るとすれば、第四幕でウェンディたちはネヴァーランドを飛び立とうとし たところを海賊たちに捕まってしまうので、親子の再会はチャールズの願 望が引き起こした幻覚ということになるだろう(ベインブリッジの過誤と いう可能性もあるが)。このあとの場面でピーターはネヴァーランドの地 下の家で眠っている。そのときフック船長がピーターを殺害しようとして ネヴァーランドの地下の家に侵入しようとするが果たせず、ウェンディが ピーターのために用意した薬になんとか毒を入れることにだけ成功する。それに気づいたティンカーベルは、ピーターが目を覚まして薬を飲む前 にそれを飲んでしまう。ティンカーベルの放つ光がだんだんと弱まってい き、彼女が死にかけていることがピーターにもわかる。ティンカーベルは ピーターに向かって、子どもたちが妖精の存在を信じてくれれば自分は死 なないで済むだろうと言うのだ。そこでピーターは観客に向かって「子ど もたちが妖精の存在を信じてくれるなら彼女は死なずに済むだろうと言っ ている。さあすぐに信じていると言ってくれ。信じているなら、手をたた いて。手をたたいてくれれば、ティンクは生きていられるだろう」(340)
と呼びかけるのである。消化不良で注意散漫になっていたチャールズも、
このドラマティックな場面にはさすがに引きつけられる。高層住宅の
15
階の窓から糸でハムスターを吊り下げて遊んでいるところを見つかってし かられた根っからのいたずらっこのウェインでさえ、ティンクの光が消え かかっているのを見て泣いているのだ。チャールズは舞台で起きていることよりも泣いているウェインの方に気を取られてしまう。最初小さかった 観客の拍手は次第に大きくなり、それとともにティンカーベルの放つ光も 強まっていき、最後には元気に空中を飛び回るようになる。それを見てい たチャールズは、まるでフック船長の鉤爪で引き裂かれたような激しい胸 の痛みを感じ、隣に座っている妻に「助けてくれ」と言うのだが、彼女は ただ「黙ってて、チャーリー」(340)と答えるだけで、手が痛くなるほど 夢中になって拍手をしているのである。ティンカーベルの復活に合わせる ように結局チャールズはこと切れてしまうのだ。
すでに述べたように、チャールズの言葉はアレックによってことごとく 批判されてきたがゆえに、家族内で重みをもたず、だれからも真剣に受け 取ってもらえなくなっている。その結果、助けを求める彼の必死の訴えも 妻に聞いてもらえず、彼は拍手を聞きながらあの世へ旅立っていくのであ る。つまり、息子アレックは、愛によって少年時代の彼を束縛し、現状認 識の甘さによってサッチャリズム=自由競争社会をもたらした旧世代の典 型である父親を殺害することに成功したのだ。さらなる深読みをすれば、
ティンカーベルの明滅する光は「イギリス病」で死にかけているイギリス という国を表していると見ることもできるだろう。ティンカーベルを救う ためにはみなで競い合って手が痛くなるまで拍手をしなければならないよ うに、衰退の一途にあるイギリスを救うためにはみなが過酷な競争に参加 し、社会を効率化しなければならないのである。自由競争についていくこ とができず、ただノスタルジーにふけっているだけのチャールズは、劇場 の客席でも周囲の観客が競い合って拍手をしているのを見ているだけだ。
競争に加わらない者は存在しないも同然で、生きながら死者のように扱わ れる。チャールズの家族内での扱われ方はまさに彼がそのような存在であ ることを示している。つまり彼の死は死者のように扱われていた存在が現 実に死んだということにすぎないのだ。「拍手して、チャーリーの登場だ」
は
1920
年代に作られた古いポピュラー・ソングのタイトルであり、エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald)による
1961
年の同名のアルバムに収 められているヴァージョンなどが有名である。パーティー会場に現れた遊 び人のチャーリー(good-time Charlie)が歓迎されるという他愛のない内 容の歌だ。物語の中のチャールズは一般的な意味での「遊び人」とはとて も思えないが、競争に参加していないという点で「遊び人」とは言えるだ ろう。物語のタイトルは、古きよきイギリスに暮らしていた今はなき人々 がチャールズを歓迎して発した言葉のように思える。彼らはチャールズが 競争とは無縁の世界=死者たちの世界に入ってきたことを祝福しているの だ。死は彼にとって救いとなるのだ。しかしながら、タイトルについては別の解釈も可能だろう。「拍手して、
チャーリーの登場だ」をピーター・パンの言葉と考えることができるの だ。ピーター・パンはティンカーベルが死なないように観客に拍手を要請 しながら、同時にチャールズを拍手によってネヴァーランドに迎え入れよ うとしているのである。観客はだれもチャールズに何の関心ももっていな い。彼らの拍手はチャールズの孤独な死を際立たせるだけで、そこにはい かなる救いもないように思える。だが一人ピーター・パンだけはチャール ズに共感を示し、彼がネヴァーランドに来ることを歓迎しているのだ。ピー ター・パンは学校にいき、会社に入ることを拒否する大人になりたがらな い少年である。大人になりたがらないことにはいくつかの意味が含まれる が、競争社会を拒絶することもそこに含まれるだろう。そうだとすれば、
ピーター・パンが競争社会に加わることができないチャールズに共感する ことは不思議ではない。アレックはチャールズがなつかしむ古きよき共同 体をネヴァーランドだと言ったが、ピーター・パンはまさにチャールズを ネヴァーランドに招き入れようとしているのである。ベインブリッジは「拍 手して、チャーリーの登場だ」というタイトルによって、競争社会になじ
めない人々の連帯の可能性を示すと同時に、相互扶助的な古きよき社会は もはやネヴァーランドでしかないことも伝えようとしているのだ。
参 考 文 献
Bainbridge, Beryl. ʻClap Hands, Here Comes Charlie.ʼ 1985. The Penguin Book of Modern British Short Stories, edited by Malcolm Bradbury, Penguin, 1988, pp.334─40.
Barrie, J. M. Peter Pan or The Boy Who Would Not Grow Up. A New Adaptation by John Caird and Trevor Nunn. Bloomsbury, 2006.
Gentleman, Amelia. ʻGrenfell Tower: MP highlights huge social divisions in London.ʼ The Guardian, 13 November 2017,
https://www.theguardian.com/inequality/2017/nov/13/grenfell-tower-mp-highlights- huge-social-divisions-in-london. Accessed 13 September 2019.
Hanley, Lynsey. Estates: An Intimate History, Kindle ed., Granta, 2012.
Rice-Oxley, Mark. ʻGrenfell: the 72 victims, their lives, loves and losses.ʼ The Guardian, 14 May 2018, https://www.theguardian.com/uk-news/2018/may/14/grenfell-the-71-victims-their- lives-loves-and-losses. Accessed 13 September 2019.
ʻTower blocks in Great Britain.ʼ Wikipedia, Wikipedia.org, n.d., https://en.wikipedia.org/wiki/
Tower_blocks_in_Great_Britain. Accessed 13 September 2019.