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1.は じ め に―『金閣炎上』の未定稿

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* 中央大学政策文化総合研究所客員研究員

Visiting Research Fellow, The Institute of Policy and Cultural Studies, Chuo University

金閣寺が燃えるまで

―水上勉『金閣炎上』の生成論的研究―

大 木 志 門

Until the Kinkakuji Burns: A Study on the Generative Textual Approaches to the Mizukami Tsutomu’s “Kinkaku Enjo”

OHKI Shimon The manuscripts written by Mizukami Tsutomu’s “Kinkaku Enjo” was found from his old house. This work was made on the theme of the actual arson case of the Kinkakuji that occurred in 1950. There are six kinds of unfinished manuscripts and a finished manuscript. In this paper, I clarify the process from the occurrence to completion of

“Kinkaku Enjo” using these unfinished manuscripts and consider the theme that Mizukami put into his work.

The result is that as the manuscript progresses, the work will be completed from fiction to nonfiction. However, at the same time it was understood that important fiction was included among nonfiction. It was a technique for Mizukami to identify himself to the main character, Hayashi Youken. In other words, the manuscripts

“Kinkaku Enjo” are the best sample for considering the fact and the fictional relationship in the literary work written based on the actual case.

キーワード:水上勉,『金閣炎上』,生成論,未定稿,フィクションとノンフィクション Key Words : Mizukami Tsutomu, “Kinkaku Enjo”, generative textual studies,

unfinished manuscript, fiction and nonfiction

1.は じ め に―『金閣炎上』の未定稿

 本年 2019 年に生誕 100 年を迎えた作家・水上勉(1919 ~ 2004)の代表作『金閣炎上』

( 1977・1 ~ 1978・12「新潮」,のち 1979 年,新潮社刊)の原稿を科研費研究課題に関わ る調査の過程で発見した1).本作は 1950 年 7 月 2 日に門徒・林養賢の放火により発生した 京都の鹿苑寺舎利殿(通称・金閣)焼失事件を題材にしており,三島由紀夫が同じ事件を 題材に『金閣寺』(1956 年)を書いたことで知られている.自身も幼少期に寺の小僧とし

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て過ごした水上は,出身地(現在の福井県大飯郡おおい町)が林養賢の京都府舞鶴市成生 と近いことや,戦時の疎開中に成生岬を遠望する福井県高浜町と舞鶴市にまたがる青葉山 の高野分教場で教鞭をとっていたことから事件に関心を持ち,二十数年にわたる構想と,

複数回の現地取材によって記録文学の体裁で本作を書き上げた.

 本作の原稿は,水上が晩年を過ごした長野県東御市八重原の旧宅に決定稿(入稿原稿)

とともに数種の未定稿が存在することが確認され,筆者はすでに未定稿の紹介およびその 翻刻の公開を行っている2 ).よって本稿では,その未定稿と決定稿の関係から,『金閣炎 上』の構想がどのように原稿用紙の上で練り上げられていったかという生成論的視点から 作品を考察してみたい.

 発見された未定稿は六種(うち二つは断片)で,いずれも第一回の出だしの部分であり,

水上がこの物語の始発のところで考えあぐね,繰り返し構想を練り直し,何度も書き直し て現在の形に至ったことが推定される.これらを翻刻して比較した結果,大まかな執筆の 順番がうかがえるようになったため,その想定される執筆順にしたがって以下のようにA からFまでの記号を付した.

A 未定稿〔無題〕 他筆

 400 字詰「新潮社」原稿用紙 22 枚(ノンブル 1 ~ 22)

B 未定稿「金閣焼亡」 自筆

 200 字詰「水上勉原稿用紙」8 枚(ノンブル 1 ~ 7 ※ノンブル 6 が 2 枚あり)

C 未定稿「金閣炎上」(「金閣焼亡」を改題) 自筆  200 字詰「水上勉原稿用紙」11 枚(ノンブル 1 ~ 11)

D 未定稿「成生岬」 自筆

 400 字詰「水上勉原稿用紙」11 枚(ノンブル 1 ~ 11)

E 未定稿断片「成生岬」 自筆

 200 字詰「水上勉原稿用紙」2 枚(ノンブルなし)

F 未定稿断片〔無題〕 自筆

 400 字詰「水上勉原稿用紙」1 枚(ノンブル 4 のみ)

 このうち未定稿Aのみが他筆で,自家用ではなく新潮社の原稿用紙を用いている.また,

下書き原稿を他者が清書したものと推定される.なお前稿では掲載誌である「新潮」の編 集者の筆跡ではないかと推察したが,当時の担当編集者だった岩波剛氏から,編集側では ないとの証言を得た3).この未定稿Aが分量的にも最も多く,水上は最初の段階である程 度まで書いて検討したのであろうが,これに納得できなかったのか,全く違う書き出しで

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B,C,Dと書き換えられ,次第に現在の本文に近づいていったことが見て取れる.なお,

未定稿E,Fは断片でDのバリエーションと考えられるので,大きくは四段階ということ になる.最初は題名も決まっていなかったのが,まず未定稿Bで「金閣焼亡」となり,C で「金閣炎上」という現在のタイトルになり,しかしDでは「成生岬」と変更されている.

なお,未定稿との比較のため,本稿の末尾に参考資料として決定稿の連載第 1 回のうち第 1 章,第 2 章の翻刻と,同個所の初出・初版との校異を掲げたが,決定稿の当初題も「成 生岬」であり,それを抹消して「金閣炎上」に修正した形跡がある.つまり,本作は入稿 間際まで「成生岬」として執筆されていたのであり,さらに改稿の経緯を見てゆくと,題 名がこの「成生岬」となることで,作品自体の方向が確立したことがうかがえるのである.

2.フィクション形式―未定稿 A,B

 未定稿本文全体の翻刻は既に発表済みの拙論を参照していただくとして,以下では要点 にしぼって未定稿間の変遷を追ってみたい.なお,原稿本文の「、」「。」は本稿の用字の都 合上,「,」「.」となっていることをおことわりしておく(参考資料も同様).

 まず未定稿Aの本文は「丹後半島の突端にある成生部落は二十二戸しかない漁村である」

と始まり,そこが「現今(昭和五十一年八月)でもバスがないので手前の田井部落で降り てからあと徒歩で約半里.途中刃で削いだような崖沿いの道を,昔の人が手鍬で穴をあけ た洞とんねる道をくぐったり,よそ見すればすべり落ちそうな海ぎわの,山桃の原始林が蔭をおと す青苔の道をいくども通りぬけ」て行く辺境の村であることが述べられる.このように林 養賢の出身地である成生へ行く道の紹介から始まるのは決定稿と同様である.ただし,決 定稿では語り手の「私」が成生岬を遠望する京都府と福井県にまたがる青葉山から歩いた 岬までの道として語るのに対して,未定稿Aでは三人称の語りによって客観的に記述され る.

 続いて,「昭和二十五年七月二日の朝,京都の金閣が放火で焼けた時,成生部落はめげる ほど騒いだ」とあり,金閣焼失事件が「部落に五台しかないラジオで報道された」という その日の様子が描写されてゆく.これは決定稿には全く存在しない記述であり,ここでも 語り手は神の視点に置かれていて,事件を聞いた部落の人々の動揺を客観的に語ってゆく.

視点人物となるのは養賢の友人・酒巻広一で,彼がラジオの第一報を聞き,放火の容疑者 が養賢であることを集落内に触れてまわるのである.この酒巻広一は実在の人物か不明だ が,決定稿でも重要人物として登場しており,「私」が最初に集落の人間から話を聞く相手 である.つまり未定稿Aは,その彼を主要登場人物とする三人称小説として展開されてい るのだ.次いでその広一が事件前月「二十四日の昼すぎ」に「上着を肩にかけて,ランニ

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ングシャツだけになった養賢が,もりあがった鳩胸の汗を手拭でふきながら戸口に立って いた」ことを回想する.その具体的な描写は次のとおりである.

 あの日も蝉の啼く暑い日だった.緑の陽かげへ出て爪を切っていたが,養賢の顔が 表の陽を背にしているので,いやに黒くみえた.肋膜で役場は休んでいると,鹿苑寺 へハガキを出して間もなかったから,見舞にきてくれたのだと思った.だが,それに しても,前ぶれのない帰郷がちょっと気になった.あとで,なぜもっと,そこのとこ ろを訊かなかったかと悔いがのこることになったが,その時はそんな疑いもおきぬぐ らい,いつになく晴れやかな顔で,例のどもり口調ながら,

「て,て,て寺へ行った,おっ母もおらんし,し,し,しゃない.君の顔を見に寄った んで」

と養賢はいった.

広一は,「その顔にふだんの眼があった.どう考えても部落の連中のいうとおり尋常な態度 だった」として,「金閣は養賢が憧れて行った寺の宝物だし,世話になっている先のはずだ った.馬鹿なことをするものか」と考える.その後に,集落には新聞販売店がないためで あろうが,「郵便屋がもってくる新聞」が届き,実際の新聞記事が紹介されることになる.

それを読んだ広一は「記事に嘘があるぞ」と思い,養賢が「福井県出身」でないことや名 前が「承賢」となっていること,金閣寺の「村上住職は養賢が日頃から寺や世間に対して 不満を抱いていたといっているが,広一には一どもそんなことを云ったことがなかった」

こと,さらに級友が「勝負ごとが好きだといっているのもひっかかった」などと,逐一疑 念を漏らす.この場面も,決定稿では新聞報道に憤慨するのは語り手の「私」の行為であ る.そこから考えると,未定稿Aにおける広一の存在とは,決定稿における「私」の役割 を担っているようなのだ.

 その証拠に,続く第 2 章では,広一の両親が「養賢のしたことが,広一の肩替りだった かのような物言いをした」と記されている.養賢と広一はともに結核持ちで,広一は「同 病もあって,親近感は誰よりもあった」と述べる.この親近感とは,決定稿で「私」が養 賢に抱いているものと相似しており,つまり作者である水上の養賢に対する親近感という ことだ.未定稿Aでは,物語を俯瞰的に語る外部の視点ではなく,自身の分身的存在とし て広一を用いつつ,集落の内部に視点を固定して語ろうとしていると考えられるのだ.

 続いて広一は,養賢が「中学三年を終えて安岡の叔父宅へ移り,そこから卒業まで通い,

寺には志満さんだけいさせた事情」を推察し,「金閣へゆくことが,養賢には大きな喜びだ ったはず」だが「やはり養賢は部落を逃げたかったと思」うとして,養賢の父である住職

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の死後の集落における母子の厳しい立場と,「世襲がむずかしい」禅寺の制度に言及してゆ く.そこから,「養賢が,金閣寺へ行って,大学へ入れてもらいながら,寺と世間へ反感を もつに至った要因とは何だろう」と「広一は新聞を穴のあくほど読みかえしながら」考え,

「時々,帰郷しては,尺八を吹いたり,黒鯛を釣った養賢の,いかにも大学生らしい明るい 表情を知っているだけに,わからないことだと思ったのである」と結ばれて原稿は終わっ ている.

 もしかすると,この後は視点人物を入れ替えながら,養賢が金閣を焼くに至った背景を 追ってゆく展開になった可能性もあるが,少なくともこの段階では,村の青年の酒巻広一 に物語を駆動してゆく探偵役を担わせているようなのだ.ただし,ここでは養賢母子固有 の事情に集落の閉鎖性,さらに寺の機構の問題という,作品の中で徐々に明らかにされて ゆく回答がすでに予示されてしまっており,このままでは読者の興味はつなげなかったで あろう.

 次に,同じく初期稿と推定される未定稿Bだが,その始まり方は全く異なっている.

 庫裡の戸をあけた時,竈の向うから首にまいたタオルをほどきながらくる小僧がい た.大男なのですぐ養賢だとわかった.暑いのう,長老さんおってかい,ときいたら,

「ひる,本山へゆかはった.もうすぐ戻らはりますやろ.承育おりまっせ」

 といった.時計をみると四時すぎだった.長老慈海老師には,速達を出しておいた.

その日のことは承知のはずだった.一夜泊めてもらって,子供を連れて帰るつもりに している.養賢は奥へひっこんだが,すぐ出てきて「いま来ますわ」といって自分は 台所へいって,タオルに水をしめらせ坊主頭をふいている.(中略)同じ若狭,といっ ても私の村の入り江つづきの湾に面した村の出身だった.区域は丹後だが,成生だか ら若狭といってよい.在所の近い親しみはこっちにあるし,また向こうにもある.

 そこから,「私の子の承育は五つ年下で金閣へ入って二年目」で,養賢が「何かとやさし くしてくれるとも聞いていた」ことにつながり,養賢との会話の合間に,「母親もいまは尾 藤にいる.帰っても無人の寺に用はあるまい」とか「安岡は死んだ父親の里で,ここも若 狭湾の青葉山の村だが,そこには叔父がいた.寺もここから通ったときいているから,い ま成生へ帰るよりは安岡へ帰るのがこの子にとっては帰郷なのか,とふと思った」と養賢 の家庭環境と故郷との関係が解説されてゆく.このように未定稿Bは一人称形式であるこ とが未定稿Aとの違いだが,この語り手「私」が誰なのかは詳らかではない.なお,以後 決定稿まで一人称形式が維持されることや,未定稿C以降の原稿用紙との共通性から,ひ とまず未定稿AよりもBを後のバージョンと判断したが,Bの方が先という可能性も残っ

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ている.

 未定稿Bの舞台となっている場所は金閣寺であろう.だとすれば,事件が発生してから 事後的にその真実を追ってゆくのではなく,事件発生前の金閣寺の内部にカメラを据えて,

物語内存在の視点で林養賢を捉えつつ,語ってゆく形式にしたのであろうか.なお,この

「私」は,もしかすると決定稿にも登場する同じ若狭出身で息子の江上順雄(実在する養賢 の弟弟子で,のちの鹿苑寺執事長・江上泰山)が金閣にいた福井県大飯郡和田村(現高浜 町)にある正法寺の江上大量で,だとすれば順雄が「承育」とも考えられる.事件前日の 7 月 1 日に,大量はしばらく郷里で療養していた息子を連れて金閣寺に戻っているので,未 定稿はその前の連れ帰る日の出来事と推測できなくもない.ただし,未定稿では「五つ年 下」とあるが,1929 年生まれの林養賢と 1936 年生まれの江上順雄では 7 歳違いである.い ずれにせよ,この物語内存在「私」を語り手に設定し,また探偵役としながら事件の背景 を追ってゆく展開を考えていたのではなかろうか.この段階でも,未定稿Aと同様にフィ クション形式が維持されていたことが重要である.

3.ノンフィクション形式―未定稿 C 以降

 以上のように,同じフィクション形式と言っても未定稿AとBでは内容が全く異なって いるのだが,さらにこの初期構想が抜本的に変容するのが未定稿Cである.まず冒頭に

「はしがき」が置かれており,「ぼく」という語り手が「昭和二十五年七月二日に,金閣を 焼いた放火僧林養賢君のことを話したいと思う」と語り始める.そして,養賢が金閣へ入 った頃に「住職だった村上慈海氏の師にあたる先住伊藤敬宗氏は,瑞春院の住職だった関 係から,ぼくはよく金閣寺へ出かけた」ことや「林君の郷里の裏側の村から出家していた 浜田弘君は,瑞春院の小僧から金閣へ移ったので,僕の兄弟子になり,その浜田を通して ぼくは金閣寺の小僧仲間とも友交ママ関係があった」こと,さらに「戦争中につとめた福井県 の青葉山頂の分教場近くにある安岡村は,林君の父の里であった.そしてぼくが教師をし ていた当時は,林君は安岡とその生活域の山向うの峠の先の成生をしょっちゅう往復して いる」などの様々な「偶然」を列挙し,事件が「ぼくの関心の最大事」であった理由を述 べる.これは言うまでもなく,作者である水上勉自身の経歴であり,語り手の「ぼく」と は端的には作者の分身であることが明らかになる.ただし,ここでは「林君はぼくとは年 令の差もあって,彼の金閣入りは,ぼくがもう相国寺を出てからであって,直接会ってい ない」と,続く未定稿Dおよび決定稿で印象的に描かれる,戦時中の杉山峠における養賢 との出会いと齟齬を来している.この矛盾は作品の生成を考えるにあたり重要な問題であ るため,次節において詳述する.

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 未定稿Cでは,それに続けて,未定稿Aにも見られた新聞記事への論評が登場し,未定 稿Aでは養賢をよく知る広一から見た違和感が表明されていたのに対し,こちらでは,報 道の偏向とそこに反論しない仏教界に対する「ぼく」の苛烈な批評意識が吐露されること になる.具体的には「国賊,破戒小僧,気違い青年,アプレ学生,いろいろと彼に冠した ことばが新聞報道に出たが」,「林君の行為を金閣寺は勿論だけれど,相国寺をはじめとす る臨済派全般の風潮が,新聞雑誌の論調と同じく,彼を国賊,あるいは精神異常だといっ てその霊魂をののしったこと」であり,「宗教家というのは,世間が何といおうが,世間か ら捨てられたたった一人の魂に向って,ふかく降りてゆく人のはず」が,「この時代の僧侶 の大半は世間と一しょに彼を国賊にして,獄に投じた」と述べる.この部分だけを見ても,

本作における問題意識の根幹に,寺という組織それ自体に対する批判があったことは明ら かである.もっとも,未定稿A同様に,作品冒頭から核心を語りすぎているきらいはある.

 これらに次いで,「時間も経っているので,当時ではわからなかったことがわかりかけて いることもあるし,ぼくが調べたことの手帳もあって『林養賢がなぜ金閣を焼いたか』の 問題に少しは近づくかとも思いもする」ので「なるべく,ひとりよがりは排して足で歩い たぼくの調査をぼく流に語ってみたい」と,事件から三十年近く経てあらためて問題にす ることの決意が表明される.このあと「章をあらためる」とあるので,そこから本編に入 るつもりだったようだが,続稿がなく章番号だけが記されている4)ので具体的にどう展開 される予定だったかは不明である.しかし,少なくとも言えることは,「はしがき」で始ま ることから,未定稿Cでは語り手としての作者の分身が登場し,自身が調べた事実を語る というノンフィクション文学の体裁になっていることである.また,この未定稿Cの冒頭 に,養賢との間の「偶然」が列挙されていることから,自身と養賢を重ね合わせながら語 ってゆくという構想が明確になったことがうかがえる.

 続く未定稿Dでは,未定稿Cにあった「はしがき」が再びなくなっている.しかし作者 の分身らしい「ぼく」を語り手とする体裁は維持されており,ここでまず描かれるのが,

予告したように決定稿では第 2 章に登場する,林養賢との杉山峠での邂逅である.ただし 決定稿においては,第 1 章で後述の未定稿EとFに見られるような,青葉山の分教場から 延びる峠道から成生岬を遠望した光景が描かれ,第 2 章で林養賢とすれ違うことになるの だが,未定稿Dでは逆順になっている.その書き出しは次の通りである.

 昭和十九年の八月はじめ,確かな日はわすれたが,空の皮が一枚めくれて陽のかけ らがそこらじゅうへ落ちているような,熱ママい真午すぎだった.ぼくは内浦湾の見える 舞鶴半島の杉山峠で,ばったりその男たちに出あった.男たちというのは,ぼくがま だ京都相国寺塔頭で小僧だった頃,本山の宗務所から今宮の大徳寺よこにあった般若

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林へ通っていた滝谷雪州と,もう一人ははじめて見る若者だった.

この若者が養賢で,久しぶりに再会した旧友・滝谷雪州(初版では「節宗」の表記にあら ためられる)は,「成生の西徳寺の子ぼんや.いま,金閣寺にいよる」と紹介する.

 金閣はぼくもよく行った寺だし,敬宗和尚はぼくのいた寺の先住だったし,五十す ぎてから金閣へ栄転した人だ.その時,ぼくの前にいた小僧に,浜田弘は法兄だが成 生岬の野原の出身だろう.どうしておられるかな,などと,ぼくは滝谷へとも,その 少年へともつかずに問うてみた.すると,

「ヒロムは戦死した」

と滝谷がいい,うしろで,少年がすぐ,

「老僧も死なはって,いまは慈海長老が住職してはります」

と,少しどもりながらいった.

その出会いは「これきりのこと」に終わったが,それが後の林養賢であったことは,「少年 がのち五年後に,金閣を焼こうなんて,皆思いはしない.名もきかずに別れたのであった」

と語られることで明らかになる.なお,この場面に登場する浜田弘とは,未定稿Cにも名 前が出てきたが,成生の隣村・野原の出身で林養賢に先んじて金閣寺へ入った少年で,そ れを頼みにした養賢の父・林道源が,死を目前に金閣寺へ書状を書いて息子の入門を依頼 したのである.決定稿の第 12 章では,浜田の出征の様子や水上や養賢との縁がより詳しく 書かれている.

 そこから,未定稿Dの題名になっている成生岬の描写が続くことになる.

 だが,ぼくは山の中腹分教場にそれからまだ一年以上つとめていたので,児童をつ れて,よく海へ降りたり,あるいはぼく一人で裏まわりの杣道をぼくの生家のある高 浜町の方へ帰るすがら,この峠へときてから北へ落ちこんでゆく半島の先に,鹿が寝 て頭をもたげたようにみえる成生岬を見ることが良くあった.

     (中略)

 岬までの山は針葉樹が多いので黒青く,尾根から西へ落ちる無数の襞は,けものが 何匹も肌すりあわせて,頭を山へつっこんだみたいに,いくつものたかまりをみせて いて,陽のあたらぬところと,陽のあたる肌のいろが,灰いろと青黒とにくっきりわ かれて,それは途方もない地球がつくり出した奇妙なシワの多い指だとも思える.

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その後は,分教場のあった青葉山が「東舞鶴といった軍都があったため,要塞地帯に指定 され,地名を記した地図というものがなかった.(中略)およそ教科書にさえも,ぼくの分 教場のある山を中心にそこは空白のままにされて,海岸線だけが記されていた」という事 実が語られる.また「ぼく」が「放課後になるとしょっちゅう歩いた」という杉山峠は「散 歩の終点」であり「北の方にみえる成生岬は,ぼくにはちょっとした憧れのようなところ でもあった」とし,「滝谷と西德寺の子と出あったその秋」に浜田弘の墓参のため成生まで 行こうとしたが,「その時は,田井まで行ってひきかえし,翌二十年の春には岬のはなを辿 って野原部落へ出た」こと,その滝谷が「八月十五日に敗戦を迎えても帰還」せずに「台 湾沖で沈んだ輸送船にいた」ことを語るのである.前半の内容は決定稿の第 1 章にも登場 しており,この段階になると物語の始まりに置かれる内容が固まりつつあることがわかる.

 この未定稿Dで重要なことは,同じノンフィクション形式でも,未定稿Cのように現在 から事件を語り始めるのではなく,まず語り手「ぼく」の体験に入り込み,分教場にいた

「ぼく」と成生岬のゆかりと,成生岬から来た少年との杉山峠における出会いが描かれるこ とだ.ここに未定稿Cからの発展性と連続性が見られる.これが先述の,いったんは「金 閣炎上」となった題名が破棄されて「成生岬」と変わった理由であるが,水上と養賢の共 通体験とそこからくる共感が成生岬という場所を与えられることにより明確になったとい うことであろう.つまり,そこから物語が展開されてゆく象徴的な場所として,タイトル の「成生岬」はあるということだ.

 最後に,未定稿EとFは未定稿Dのバリエーションで,断片でもあるので簡単に紹介 するにとどめる.まず未定稿Eは未定稿Dと同じ「成生岬」の題名を持っているが,「成 生岬へゆくのには歩いて二時間かかった」から始まり,「よく児童をつれて,ぼくは山の北 側の杉山峠まで遠出散歩して岬を眺めた.一幅の絵だった」と続く.つまり,決定稿と同 じく分教場から見た成生岬から始まっているのである.未定稿Fの方は題名がなく,「私 が分教場にいたのは,昭和十九年冬から翌二十年の秋までだった」から始まり,「成生岬の 突端にゆく部落への車道はない.一本前の田井部落までが村道で,あとは昔のままだ.人 の手が鍬をつかってけずった岩場や,洞穴がある.うかうかしていると海へころげ落ちそ うな崚しい道だ」で終わる.こちらも決定稿に類似の内容と表現が存在し,細かい表現も より決定稿に接近している.よって,未定稿Dよりもさらに決定稿に近い反故原稿と推定 される.また,そのように言えるのは,未定稿C,Dでは「ぼく」であった語り手の自称 詞に,決定稿と同じ「私」が混入しているからでもある.混入と言ったのは,未定稿Eで は「私の勤めていた分教場のある青葉山から,北へ約二里」と,いったん「私」が用いら れながら,その直後に「よく児童をつれて,ぼくは山の台地の杉山峠まで遠出散歩して岬 を眺めた」と,「ぼく」に変わっているからである(傍線は引用者による.以下も同様).

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これに対し,「私が分教場にいたのは,昭和十九年冬から翌二十年の秋までだった」と始ま る未定稿Fでは,自称詞はこの一度しか登場しない.この自称詞の問題についても後述す るが,整理すると,未定稿Aで三人称の客観小説として試みられた作品が,未定稿B で 同じくフィクションながら一人称「私」を用いた形へと変わり,未定稿CとDで作者の分 身である一人称「ぼく」の語るノンフィクション形式となり,未定稿E以降にその自称詞 が「ぼく」から「私」へと移行してきわめて決定稿に接近しているということである.

4.事実と虚構

 ところで,『金閣炎上』は現在まで事実を元にしたノンフィクション文学の傑作として評 価されてきた.そして前節までに見た未定稿の変遷からは,たしかに試行錯誤の中でその ようなノンフィクションの形式が確立していったことが見て取れるのだ.ただし,作品の 生成という観点から見た時,事態はもう少し複雑である.というのは,その改稿の過程に は,フィクションからノンフィクションへ,と単純に言いきれない要素が看取されるから である.

 これまで本作に言及するほぼ全ての文献は,各種の証言や裁判記録などを駆使した調査 の綿密さと,そこで明らかになった事実の重みを評価してきた.たとえば同時代評で沢木 耕太郎「わが読書 「金閣」について」(1980・6「中央公論」)が,本作の後にフィクション である『金閣寺』や『五番町夕霧楼』を読むと「事実を事実として突きつけられた時,虚 構には虚構としてそれをはねのける力がない」と述べていることは,その典型的なもので ある.もちろん本作が様々な資料の集積によって成立していることは間違いなく,そこに 水上文学の持つ社会性という長所があることも確かなのだが,その結果,作中の内容はほ ぼ全て事実とみなされてしまうことになる.前節で問題にした杉山峠での林養賢との邂逅 についても同様で,たとえば大江健三郎「文芸時評 放火者の生を「想像」水上勉『金閣炎 上』」( 1979・8・28「朝日新聞」)は,「自分の故郷に近い林の生地周辺や,京都の寺に向け て,重ねて足を運んではその場所に立」ち「そこに身を置いて想像力をときはなつ」こと で「われわれはつねに,直接『想像』する水上の顔を経過して,いちいちの場面に接して いる」と,本作の「しくみ」=書き方に言及しながら,杉山峠で「行き会った中学生」に ついては事実と見ている.篠田一士「批評と紹介 『金閣炎上』 水上勉 事実の複雑怪奇さを 浮かびあがらせる非凡な語り口」( 1979・11・23「朝日ジャーナル」)も養賢との出会いを

「あまりにも奇縁,これこそ,まさしく,水上一流のロマネスクなつくりごとではないか」

と疑念を呈すようでありながら,結局は「読みすすむにつれ,この『私』は,やはり作者 そのひとを指示する,ごくありきたりの私にすぎず」「読者は,一度はふくらませたロマネ

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スクへの期待を,失ってゆく」と,こちらは事実を下敷きにした非創作性を否定的に評す ことになる.近年の川西政明「水上勉の文学」(2004・11「すばる」)になると「水上勉は 林養賢のことを知っていた」と躊躇なく書いているし,孫暘「『金閣炎上』と『金閣寺』

―『金閣炎上』の吃音を中心に考える」( 2008・12「現代社会文化研究」)も本作は「ノ ンフィクション」で水上は「養賢に会ったことがある」と断言する.近年話題になった,

三島『金閣寺』の観念性に対して『金閣炎上』の事実の重みを対置させた酒井順子『金閣 寺の燃やし方』(2010 年,講談社)にしても,この杉山峠の件だけでなく,作中の記述を ほぼ全て事実として取り扱い,三島『金閣寺』の虚構と比較しているのだ.しかし『金閣 寺』と同様に『金閣炎上』もノンフィクションの体裁をとってはいてもやはり小説なので あり,その記述の真偽は慎重に取り扱うべきである.

 この意味で,藤井淑禎「おれがあいつで……水上勉「金閣炎上」における構成意識」

(1988・8「文學」)は先行研究の中で例外的である.藤井は作中に描かれた「事実」を徹底 して再調査することで,事実性が強調されている本作の背後にある作者の「さまざまな小 説的配慮や工夫」としての虚構性を明らかにする.具体的には,水上が資料を用いる中で ほどこした複数の「改変」を指摘した上で,犯行直前の養賢が訪れた五番町遊郭の輝子の 出自を熊野としたことと並び「冒頭の,〈私〉と養賢との青葉山麓杉山峠でのたった一度き りの出会い」を「もう一つの太い虚構軸」と指摘する.さらに現地の地図を駆使して,作 中の杉山峠と推定される場所から成生岬が実際には見えないであろうこと,また「私」と 杉山峠で出会った滝谷と養賢が青郷駅へ向かうという記述の不自然さを,舞鶴へ出るルー トとの比較から明らかにし,「劇的効果をあげるための〈事実〉の改変がここにもみられ る」と述べている.いずれも説得力のある論証である.

 作中の養賢との邂逅が虚構である可能性については,藤井論に注記があるようにすでに 斉藤勝「『金閣炎上』と『金閣寺』をめぐる試論」(1984・3「発掘」)の言及がある.斉藤 は実録性が重視されるはずの本作で,事実性を端的に示す新聞からの引用が不正確でその 解釈も恣意的であることを指摘(対して虚構性が強いはずの『五番町夕霧楼』の方が実は 正確に引用されていると)した上で,「私は会っていなかったが,新聞記事や号外を読ん で,林君が金閣を焼いたあらかたの事情が読めた」(「金閣と水俣」,1974・4「世界」)とい う作品に先行する文献を示して「水上は実際に養賢と出会いがあったと書かれているが,

実のところ会っていなかった」と結論づける.そして,水上が養賢に会ったとした背景を,

三島由紀夫と小林秀雄の対談「美のかたち」(1957・1「文芸」)を引きながら,「おそらく 養賢と会えただろうが会えなかったその無念さのため,また三島が語る『大した動機』が なく『当人には会わなかった』,要するに会う必要性をよそものの三島が認めなかった様子 に誘発され」たためで,「作品自身が要請する半ば必然的な設定」としている.

(12)

 斉藤と藤井が指摘するように,たしかに「養賢君は私より年少で,私が還俗して東京に きてから,鹿苑寺に入ったので,会うこともなかったが」(「与謝の細道」『わが山河巡礼』

収録,1971 年,中央公論社)や,「養賢君とは面識もあったし,母堂には会っていなかっ たが」(「保津峡曲り淵」『私版京都図絵』収録,1980 年,作品社)など水上の発言は揺れ があり,作品発表直後の饗庭孝男との対談「(金閣炎上)をめぐって」( 1979・7「波」)で は,「私,養賢と,同じ道をあの山陰線で行った感じがしましてね」とかなり微妙な言い廻 しをしている.当時のインタビューなどでも水上は養賢と実際に会ったとたびたび紹介さ れているが,水上はこれ自体には直接応答せず,また否定もしないという態度を貫いてい る.ただし「ぶっくインタビュー 水上勉氏『金閣炎上』」(1979・8・21「夕刊フジ」)では,

「私にとって,実に身近な問題でした.林養賢とも会っているし……」とある.もっとも,

これは記者がそのように解釈しただけかも知れないのだが5),いずれにせよ,このような 証言の揺れは『金閣炎上』発表を挟んでのことであり,少なくともいくつかの文献では,

林養賢と会っていなかったはずが,いつのまにか会っていたことになっているのである.

 言うまでもなく,ここで作者・水上と林養賢との邂逅の真偽を問題にすることは,水上 の「嘘」を暴くというような非生産的な営為のためではない.そもそも水上の評伝文学は 虚実が入り混じる点に特徴があるのであり,たとえば『蓑笠の人』(1975 年,文藝春秋社)

は「越佐草民宝鑑」,『一休』(同,中央公論社)は「一休和尚行実譜」という水上が作った 架空の資料に依拠しながら書かれており,さらにそのことは「『事実』らしいものを資料に あたりながら,架空の人物をそこにまぶしこむ楽しさ」(「あとがき」『水上勉全集 第 13 巻』,1977 年,中央公論社)として『金閣炎上』発表以前に自作解説されているのだ.こ のように偽の資料を本物に紛れ込ませる創作手法は,文学史上では芥川龍之介『奉教人の 死』(1918 年)などでよく知られているが,つまり水上の評伝文学は純粋な歴史的事実の 記述を目指したというよりも歴史文学の実験的試み6)と考えるべきであり,読者がそれを 事実だと読むことにこそ問題があるとさえ言えるのだ.もちろん読者が作中の「私」の体 験を作者自身の体験と同一視することは,本作の形式から仕方ないことであるし,また水 上自身もその神話を上塗りしていた形跡があるのだが,しかし水上作品の中でも『金閣炎 上』がとりわけ事実に忠実であると考えられてきたことは,やはり受容者側のメカニズム の問題もあると思われるのだ.それは仏教評伝などと比較して題材が比較的近い社会的事 件であることや,虚構性の強い先行作『金閣寺』や『五番町夕霧楼』との落差からとも考 えられるし,作品の発表が戦後ノンフィクション文学の確立期であることとも関わってい るかもしれない(現に同時代評でもそのような文脈で作品を評価しているものがある7)).

 しかし,もとより自身を描く「私小説」についてさえ,「事実を書くといったって,当人 が書くのだから嘘をまじえてもいいわけ」で「『小説』はどうせ小説である」(『一休文芸私

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抄』,1987 年,朝日出版社)と考えていた水上である.よって『金閣炎上』においても,水 上がどのように事実と虚構の関係を捉え,様々な証言や供述書,鑑定書,獄中書簡などの 資料8)を駆使して構築した作品世界の中に,なぜ虚構を忍び込ませる必要があったのか,

またその目的のためにどのように作品が生成されたのかと考えることが重要なのである.

5.反転するフィクションとノンフィクション

 以上の観点から未定稿を見直すと,どこでその虚構が与えられたかは明らかであった.

未定稿AとBではまだ作者・水上の分身「ぼく」(あるいは「私」)は作中に姿を現してい ないので,杉山峠の挿話も登場しない.作者の分身が語り始める未定稿CとDにおいては じめて,水上と林養賢の関係が問題となってくる.繰り返しになるが,未定稿C では「林 君はぼくとは年令の差もあって,彼の金閣入りは,ぼくがもう相国寺を出てからであって,

直接会っていないものの」とはっきりと書かれており,その事実関係はエッセイ「金閣と 水俣」(前掲)と同様である.しかし,それが未定稿Dになると「昭和十九年の八月はじ め」に「僕は内浦湾の見える舞鶴半島の杉山峠で,ばったりその男たちに出あった」と始 まり,「滝谷のうしろで,国防色のモールのついたカラー襟の第一ボタンをはずして,帽子 は少し阿弥陀にかぶり,肩まで汗をしみとおらせた少年」が登場する.そして,「名もきか ずに別れた」という「少年がのち五年後に,金閣を焼こうなんて,皆思いはしない」と続 くのである.

 このディテールの必要性の意味するところは,おそらく本作の基本的構想に関わり,す なわちここまで何度か指摘してきた水上と林養賢とを結ぶ紐帯=分身性の強化であるだろ う.川村湊は本作における水上の方法を「“犯人”との観念的な自己同一性という三島由紀 夫の書き方とはずいぶん違う」(「背負う人」,2004・11「群像」)と書いている.たしかに三 島『金閣寺』も青年僧・溝口と作者の自己同一化が指摘されるが,こちらは実在する犯人 の方を作者に寄せて同一化するのに対し,水上の方はむしろ作者の側が林養賢に自己同一 化しようとする.「林養賢君の問題は,たしかに私自身の問題」(「あとがき」『水上勉全集 第二十巻』,一九七七年,中央公論社)なのである9).よって,前掲の藤井論が本作を発表 時期の近い児童文学者・山中恒の入れ替わり小説『おれがあいつであいつがおれで』(1980 年,旺文社)に見立てながら,「最初と最後におかれた二つの文字通り衝撃的な出会い.そ してその二つの出会いに挟まれた部分では互いに相手になりかわり,最後は再びもとの自 分に戻ってゆく」という「きわめて周到な構成意識によって成った物語」10)という作品理 解は正鵠を得ているであろう.また,これを執筆のレベルに則して考えてみると,膨大な 資料=事実の集積を用いてつむぎだそうとした作品を書きあぐねていた水上が,冒頭に作

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品のテーマを確立する大きな虚構を入れることで物語が動き出し,その後はぐんぐんと書 き進めることができたと想像できる11).だから,ここまで確認してきた初期稿から決定稿 に至る改稿とは,一見するとフィクションからノンフィクションへというわかりやすい移 行と見えるのだが,実際は藤井論のいうように「小説」としての形式の内部での一筋縄で はいかない変遷の痕跡と捉えるべきなのだ.

 ただし,藤井は後年の「水上勉論―日本型小説の命運」(1996・2「国文学 解釈と鑑賞」)

では,水上の評伝的方法の極北である『金閣炎上』を「林養賢伝のかたちを借りた『私』の 変貌と再生のドラマ」で「書き手の〈私〉が対象を,さらには私小説的枠組みが評伝的枠 組みを,ほとんど呑みこまんばかりに肥大化してしまっている」と論じ,その試みは「しょ せんは日本型私小説に至るための『迂路』にほかならなかったのではないか」と正反対の評 価に転じている.さらに水上の追悼特集に寄稿された「水上勉の社会派ミステリー」(2004・11

「文学界」)でも,『飢餓海峡』(1962 年)を頂点として「環境と背景,とりわけ昭和三十年 代的構図としての都会と地方という問題系への発展と,『フライパンの歌』の作者ならでは の〈わたくし〉性の付与」の二点において水上文学の「清張型社会派からの発展」に一定 の評価を与えるものの,最終的には「私小説的な構成」対「物語的な構成」の後者を重視 して「客観的・構造的な本格小説」を書いた松本清張を優位に置いている.清張研究者で もある藤井が,「日本的な私小説・心境小説の牙城に一人立ち向かった『方法者』」(前掲「水 上勉論」)である清張を評価するのは当然と言えば当然ではあるのだが,その結果,かえっ て虚構と事実の対立に基づく本格小説/私小説という古典的な枠組みを温存することに寄 与してしまい,前論での構成的小説としての『金閣炎上』という卓抜な視点を自ら裏切って しまったのは残念である.

 ともあれ,水上が未定稿Cで冒頭に「はしがき」を置き,これから「作者」が自分の調 べた「事実」を書いてゆくという形式を一度は採用しながら,未定稿D以降でそれを破棄 して自身を作品世界内に置き直したことには,ここで書かれることが「真相であってこれ は金閣寺炎上事件そのものの真相とはべつである」(未定稿C)というような,単なる事実 を描くのではないということを明確化させる意図があったのではないか.つまり,未定稿 AとBのフィクション形式は未定稿Cでノンフィクション文学らしい形式へと大きく寄っ た後に,未定稿Dでノンフィクションの形式を借りた文学へと軌道修正されたと考えられ るのだ.

6.お わ り に―「私」をめぐる実験

 水上と共著『人生と宗教と文学と』(1977 年,日本実業出版社)を出し,仏教研究を通

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して親交があった柳田聖山は,「水上文学と仏教」(1980・9「国文学」)で水上文学の自称 詞の変遷について禅宗の専門家らしい興味深い指摘をしている.柳田によれば,「禅寺の小 僧」や「僧堂の雲水」には自分のことを「ぼく」と書かない「風習」があり,それまで水 上が作中で「ぼく」ではなく主に「私」を用いて来たことを,「『私』は『ぼく』と書けな いこの人の,仮りものの口」であるとする.しかし,1980 年前後の水上はにわかに「ぼく」

「ぼくら」を用いるようになり,それは「新しい私小説」において見られると言うのだ.こ こから『金閣炎上』の未定稿を見直してみると,未定稿Bは「私」,未定稿CとDは「ぼ く」,未定稿EとFは「私」(ただしEでは混在)を用いていた.これが初出誌では「私」

に統一されるのだが,決定稿の段階でも「ぼく」と「私」の混乱が見られ,水上が自称詞 の選択を逡巡していた形跡が見られる.先に引いた杉山峠で旧知の住職と浜田弘の死を知 らされた場面では,決定稿の「それでは,もう金閣寺には,ぼくの懇ろだった人はいなく なった」という一文の「ぼくの」が初出では削除され,初版では「私と」が加筆されてい る(巻末の資料参照).このような混乱したあり方ではあるが,『金閣炎上』では 1980 年前 後の私小説作品とは逆に,「仮りものの口」でない「ぼく」から「仮りものの口」である

「私」へと改稿の過程で戻されていることがわかる.もちろん素直に考えれば,戦後社会を 揺るがせた重大事件を語る際に,いくら私的な問題に引き付けたとしても,「ぼく」ではカ ジュアルすぎると考えたのかも知れないが,前節までに確認したような事実の中に虚構を 紛れ込ませる過程から眺めると,水上が意図的に「仮りもの」の「私」を選択し直したよ うに見えてくるのだ.

 このことと併せて考えてみたいのが,私小説作家の佐伯一麦が,水上を代表する私小説 短篇『寺泊』(1977・5「展望」)における「カニ食いの鮮烈な場面」が作中時とは別の時に 汽車の窓からちらりと見た光景を混ぜ合わせて作り上げたものであることを,和田芳恵,

野口冨士男ら同時代の私小説作家と並べながら,「虚構を詩的真実として投入」する「私小 説の伝統的な黙契を内側から食い破ろうとした」方法12)と指摘していることだ(「遠望畏 敬」『文芸別冊 総特集水上勉』収録,2000 年,河出書房新社).若き日の佐伯はこの方法 に大きな示唆を与えられたと言っているが,この『寺泊』と同時代に書かれた『金閣炎上』

についても,むしろ「私」をどのように描くかという私小説の問題からとらえ直すことが できるのではないか.かつて『雁の寺』(1961・3「別冊文藝春秋」)において伝統的な純文 学形式である私小説と中間小説である社会派推理小説(これ自体も探偵小説に社会性を接 ぎ木した新しいジャンルだったが)を接続したことが評価された水上は,「私」の問題を諸 ジャンルと混成させる,伝統的な私小説とは明らかに異なる様々な方法を試みている.

 水上は「金閣炎上・その後」(1980・2「新潮」)で「歴史とは無数の事実のかさなりだ.

出来うるかぎり,隅々までに眼をくばっていないと,肝心のことを見失う,こんな当り前

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のことが身に染みた」と書いている.これは本作を私小説への退却と見た前掲の藤井論に 対する応答にもなるだろうが,すなわち『金閣炎上』の冒頭における,未定稿に残る複数 回の改稿の痕跡は,ますます複雑化する戦後社会の中で,「私」と「歴史」の関係をどのよ うに再構築するかをめぐる試行錯誤であったと考えられるのだ.よって,『金閣炎上』だけ でなく,この時代に水上が行っていた様々な試行錯誤の過程を検証し直し,前述の野口や 和田,藤枝静男や色川武大,さらに吉田健一や大江健三郎や「第三の新人」の作家たち13)

を加えてもよいかもしれないが,1970 年代以降の「私」を描く方法の拡散と深化の中で多 角的に解きほぐすことが,これからの課題の一つとなるであろう.

1)筆者は科研費研究課題「水上勉自筆資料の総合的調査による研究基盤形成」(課題番号 16K02400)および「水上勉資料の調査による戦後文学の総合的研究」(同 19K00293)の助成を 受けて,この水上勉資料の調査を行っている.本論文もその成果である.資料の調査と公開に便 宜を図ってくださった水上蕗子氏に心より感謝を申し上げる.

2)大木志門(2019)「水上勉「金閣炎上」未定稿の紹介と翻刻」「山梨大学教育学部紀要」第 29 号.また大木志門・掛野剛史・高橋孝次編『水上勉の時代』(2019 年,田畑書店)では未定稿の 一部を図版と略解説で紹介している.なお,今回判明した翻刻の誤りを適宜訂正した.

3)岩波氏は水上の秘書であった祖田浩一氏の可能性を指摘している(「編集者による水上勉 1」前 掲『水上勉の時代』収録).

4)ただし本来「1」であるはずの章番号が「2」となっており,後述するが作者主体と作品内容 の距離に逡巡があったことがうかがえる.

5)なお『冬日の道 文学アルバム』(1981 年,三蛙房)には「舞台再訪『金閣炎上』」として「林 養賢と出会った・若狭・杉山峠で」という茅の茂る峠の山道にいる水上の写真が掲載されている.

6)この時,史実をどのように小説化するかについては,大岡昇平から再三の批判があったようだ

(前掲『水上勉の時代』収録の長谷川郁夫・小池三子男・山口昭男・大槻慎二各氏による座談を 参照のこと).

7)たとえば,舟虫「『金閣炎上』『闘いの構図』の情報性」( 1979・9・14「朝日ジャーナル」)は,

青山光二『闘いの構図』(1979 年,新潮社)と並べてニュー・ジャーナリズムとの関わりから評 価している.

8)ただし,これらもどこまで正確に用いられているかは厳密な検証を経ないと明らかにならな い.裁判記録など執筆資料の一部も現存しており,今後の課題と考えている.

9)もっとも,たとえば若狭出身で大逆事件に連座した古河力作を描く『古河力作の生涯』で力作 の短躯が再三強調されているように,作者の執筆対象に対する強い共感性は水上評伝文学の常套 ではある.

10)藤井は作品末尾の養賢母子の墓を見つける場面も,水上が時間軸をずらして配置したと読んでいる.

11)担当編集者だった岩波剛氏は,「そうするから」と水上に言われたと証言している(前掲文献).

12)なお筆者は 2017 年に佐伯氏にインタビューした際に直接この話を聞いている(佐伯一麦(2018)

「自画像としての私小説」,井原・梅澤・大木他編『「私」から考える文学史』収録,勉誠出版).

13)岩波氏と同じく「新潮」で『金閣炎上』を担当して鈴木力氏は,同誌連載の安岡章太郎『流離 譚』との同時代性を指摘している(前掲『水上勉の時代』の岩波氏のインタビュー参照).

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【参考資料】

『金閣炎上』第 1 ~ 2 章 決定稿・初出誌・初版本の校異

 本作は本論中で見たような未定稿から決定稿までの間だけでなく,それ以降もかなり手 が入れられている.その情況がわかるように,以下に冒頭部のみだが決定稿(入稿原稿)

の本文を翻刻し,さらに初出誌と初版本での手入れがわかるようにした.翻刻中の傍線箇 所が以降で変更された部分で,〔  〕内の最初の→の後が初出,続く→の後が初版での表 現を表す.たとえば〔→〇〇→△△〕は初出と初版でそれぞれ修正があったことを示し,

〔→→〇〇〕は初出では変更なく初版で修正あり,〔→〇〇→〕は初出で修正があり初版は それを踏襲していることを示す.ただし「削除」は当該箇所が消去されたことを示す.

 金閣炎上 ※当初題の「成生岬」を原稿上で抹消し,書き直している.

水上勉      1

 岬へゆくのに歩くしか便はなかった.〔→→削除〕

 青葉山の中腹にあった私の分教場から〔→→分教場から岬へゆくのに〕,尾根づたいにゆ ける杣道が,岬への唯一つの道だった〔→→尾根づたいの杣道しかなかった〕.私はよく児 童をつれて岬の端が見える杉山峠まで散歩したものだが,〔→→した.〕そこからの〔→→

削除〕岬のけしきは濃紺だけで描かれた一幅の絵だった.〔→→で,〕子供らは鹿が寝てい るようだといった〔→→云った〕.なるほど,うずくまったけもののように思えて,〔→け もののように見える.→けものだ.〕切りたった尾根はその背筋だし,ふたつの離れ島をか さねて〔→→に向って〕,もりあがってゆく端は〔→→端の高みは〕,角つのを失った頭か顔に ちがいなかった.

 閣葉樹の多い原始林〔→→山〕はぬれた皮のように陽のあたる所もあたらないところも 光っていた.無数の襞ひだしわ皺〔→→襞〕は海へ落ちる谷であった.海はえぐれた江にも,とび 出た岩場にも萬遍に〔→とび出た岩場にも→岩場にも〕荒い波がしらをはじかせてとりま いていた〔→→波がしらをはじかせていた〕.その海岸線の,樹のないところは殆んど断崖 だったし,黒い穴のあいたところは,波の死んだ淵であった.〔→→削除〕

 そんな峻崖だから,道は高みにあった.ところどころ赤土の出た斜面や,もとは赤土だ ったがいまは葛の群生地に化したけわしい傾斜にはさまれて,長い坂や,短かい壁洞をい くつもくぐって,岬へ吸われていた.〔→→削除〕

 子供らは峠で〔→→この峠で〕足どめを喰うと,岬の端までゆきたいとせがんだ.低学 年でもあったのと〔→→あったし〕,本校長からの指示もあって,峠から北へゆくことは禁

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じていた〔→禁じられていた→〕.当時はこの半島全体は,つけ根にある青葉山もふくめ て,〔→→削除〕舞鶴軍港を抱く要塞地帯だった.しょっちゅう海軍の〔→→削除〕監視員 が見廻りにきていた〔→→きた〕.司令部からも刷り物がきて〔→→司令部からの刷り物に は〕,低学年の子でも,〔→低学年の子どもでも→子供に〕山や森を写生させたり,部落や 道路のことについて,〔→→削除〕地誌のまねごとでも書いて〔→でも書かせて→すらも書 かせて〕ならないと指示されていた〔→→あった〕.

 最上級の四年生のために〔→→ため〕,一つしかない〔→→私は〕教室のうしろ壁に,私 は〔→→削除〕掛軸型の「大日本帝国精図」をかけていた.〔→→いたが,〕この〔→→そ の〕地図にも私らの〔→→削除〕分教場の所在する〔→→高野区の〕山や川やは誌されず

〔→→ていず〕,空白だった.〔→→削除〕岬の名である成生は〔→→も〕もちろんなかった.

 だからというわけではないが,私にはこの半島は,地球が神にかくれてつくったコブの ようにも思えるのだった.〔→→削除〕青葉山がコブだったら,さしづめ成生岬は海へつき 出た巨大な地球の足だろう.〔→削除→〕

 私が在地の名を冠して高野分教場とよんだ〔→よばれた→〕学校にいたのは,昭和十九 年冬から翌二十年の秋までだった.その頃は,〔→→削除〕もう太平洋戦争も,敗色こい噂 が世間の隅で起きていた.〔→世間の隅々までひろがっていた.→山間地の隅にもながれて いたが,〕だが,〔→→削除〕その敗戦から,三十年経った今日でも〔→→でも,〕貧寒地開 発救済が理想で当選した日本一ながい〔→→削除〕革新府政をほこる〔→→の〕蜷川虎三 行政下で,岬の成生部落へゆく車道はないのだった.手前の田井浜で道は途切れて,〔→→

途切れ,〕あとは昔の人が手鍬で掘りきざんだ洞道や,年よりや子供はよく気をくばらぬ と,海へころげ落ちかねない崖ぎわに,よじれた縄のように〔→→削除〕古道があるにす ぎなかった.

 私はこの岬のことを〔→岬が〕,土地の人がナリフ,またはナリュウとよんでいるのを知 っていたが,いつからか,勝手にたぶん分教場にいた頃からジョウショウ岬とよぶように なっていた.成は現ゲンジョウのジョウであり,生も仏教訓みにして満足している〔→いた〕.もち ろん根拠があったわけではない.人に〔→削除〕わすれられた岬が,山の裏側にかくれて 日本海へ没入している〔→いるのだった〕.そんなふうにでも訓まねば納得がいかない気が していたのだろう.〔→→全体削除〕

 私は〔→→私は今日までで〕何ど岬を〔→→この岬を〕訪ねたろう.春秋はもちろんだ が,夏も冬も,表情をかえる尾根の〔→→入江の〕けしきを見に歩いた〔→→いった〕.一 つは私の生家が,岬とむきあった内陸側の海岸にあったためで,授業を〔→→在校時代,

授業を〕終えて帰ってゆく廻り道は〔→→道も〕,いつも杉山峠へ出て,〔→→杉山峠から〕

岬を背に南へ降りるのだった.気がむいたら少しでも北へ向い〔→→行き〕,岬の端までは

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ゆかなくとも,途中の大山,日置〔→→宮尾,日引〕などの磯にへばりついたような〔→

削除→〕部落へ降りて,そこからやや近くなった成生を望見して帰った.尾根道はわりに なだらかだった.人通りは少なくて,私一人だけの日が多かった.二十年はじめごろから,

山のなかで突然音がして,〔→なかを→〕下士官に引率されてゆく水兵や,見るからに〔→→

削除〕徴用隊員とわかる集団とよくすれちがった.兵隊や工員たちは〔→→は〕,年輩者が 多く,〔→多かった.誰もが→多く,誰もが〕生気のない顔で歩いていた.三,四日してそ のあたりへ行ってみると,赤土の新道が出来て,奥には家一戸が入りそうなほどの穴〔→→

大穴〕があり〔→あけられ→〕,口に板戸が立って〔→→たち〕,岩マ マ乗な鍵がかかっていた.

正面に「い号」「は号」といった標示があった.〔→→削除〕高野の〔→→削除〕村人のは なしだと,それらの〔→→削除〕穴は海軍の秘密倉庫で,新しい〔→→削除〕爆弾が保管 されているということだった.いまにアメリカの飛行機がやってきて,この〔→→削除〕

山にも爆弾を落すだろう.すれば〔→→とすれば〕,山はもう〔→→削除〕火薬の倉といっ てよいほどだから,一発でそこらじゅうがはじけ裂けるだろう.〔→とぶだろう.→とぶ,

などという〕物騒なはなしを,話半分にききながら,臆病者の私は,不安八分,好奇心二 分の気持で,兵隊たちの〔→→の〕去った道をひとり歩いていったのだった〔→→歩いた〕.

 火薬の山でも,春がくればわらびやぜんまいが,どこのよりも背だかく芽ぶいていたし,

〔→芽ぶいていた.→芽ぶいた.〕夏は蕗,葛がむらがって本校へ供出するのに便利な場に も〔→→収穫場に〕なった.秋はかぞえきれぬほど茸が出た.とりわけ冬はじめの山芋は,

〔→山芋堀りは,→山芋掘りは忙しく,〕児童をつれての楽しさもあった〔→→楽しかった〕.

芋の古つるを追っているうち子らと〔→→削除〕道に迷い,明りをつたって〔→→つたっ て森を〕出ると足もとに〔→眼の下に→眼の下が〕海が小さくなっている〔→→削除〕断 崖だった.そんな時でさえ,成生岬は,私たちに向って頑固に面をあげず,黙ったまま海 へ顔をつっこみ,白い波の布で鉢巻きして,眠りこける老いた〔→→こけた〕鹿だった.

     2

 昭和十九年の八月はじめだったと思う〔→→である〕.確かな日はわすれたが,空の皮が 一枚めくれて〔→空の皮が一枚めくれたようで→削除〕陽のかけらがそこらじゅうにつき ささるような猛烈に〔→つきささる猛烈に→つきささる〕暑い午すぎだった.私は海の見 える杉山から〔→→杉山峠から〕北へ少し行った平坦地の〔→→削除〕茅っ原で,その男 たちと出あった.男たちというのは,私がまだ〔→→私が〕京都の相国寺塔頭の小僧だっ た頃,本山宗務所から今宮の大徳寺よこにあった般若林中学へ通っていた四年上うえ〔→→上 級生〕の滝谷雪州〔→→節宗〕と,もう一人はその時きりしか〔→しか→〕見ていない若 者である〔→→中学生だった〕.滝谷のずんぐり肉のもりあがった肩と,短かい首の上に耳

(20)

のひろがったのっぺりした〔→→のっぺり〕顔が,わらいながら〔→→削除〕茅の波間か ら出てきた時,こんな所でこんな〔→→この〕男に逢うとはどういうことか.〔→ことか,

→〕先ず疑ぐり,確かに〔→間違いなく→〕滝谷雪州〔→→節宗〕だとわかると,滝谷は この山の東麓から北へつき出た小さな入江の〔→→岬の〕音海村の海泉寺の長男だったな,

〔→だったな,と→〕忘れていたことが思いだされたのと,〔→思いだされた.→〕確か私 が一年に入った時,滝谷は五年生で,ふつうだったらとっくに〔→→削除〕卒業していな ければならない年令〔→年齢→〕なのに,六年近く在学しており,〔→→六年目の在学だっ た.〕宗務所でも,校内でも,誰いうとなく〔→→削除〕落第の大将といわれて,〔→→い われていた.〕私が二年になった時も,やっぱりその年も〔→→削除〕卒業できないで,〔→

できないでいた.→〕結局は卒業できないままに〔→→まま〕本山で掃除をしたり,祝聖 といって,一日〔→一日,→〕十五日には塔頭の僧が全員集まって,法堂で催される,今 上天皇の〔→→天皇の〕息災を祈願する行事の維い のう納役(経の先導者)をやったりしている のを見かけたが,〔→→していた.〕そのうち見なくなったと思ったら,在所の寺へ戻って いたか〔→いたのか→〕.よくあることだが,まるきり自分と関係がないときめて,忘れて しまっていた同窓〔→→同窓生〕で,それがひょんな所で出あったがために,何やかや,

かかわりがないと思われていたことどもが〔→→ことが〕,かかわりぶかく〔→→削除〕一 気にやってくる〔→→思いだされてくる〕,そんな邂逅があるものである〔→→ものだ〕.

 滝谷雪州〔→→滝谷〕は,甚平のような白衣の上に〔→白衣の上に甚平のような→〕黒 衣を着て〔→→着〕,袖をたくしあげ,短かい〔→→袖まくりして〕首の汗をふきながら,

向うも〔→削除→〕思いだそうとあせっているけはいだったが〔→→削除〕,ようやく〔→→

ようやく私の顔を〕思いだせたといった眼で,わらったのだった〔→→わらった〕.三十は とっくに越していよう〔→はとっくに越していたろう→そこそこだったろう〕.私はその年 二十五だったから.あんた,音海の,海泉中の,滝谷さん.私はわけのわからないことを いったと思う.たぶんうしろに高くのしかかる山の中腹で,学校教師をしているのだとも いったと思う.〔→→削除〕

 「高野の分教場でか〔→→におるのんか〕.こらまた縁やなァ.こんなとこで逢うとはま た,〔→→削除〕わしゃなーんも知らなんだ.あんた,あれから瑞春を出て,それからここ かいな」

 歯ぐきの出る口を大きくあけてわらうのだ〔→→わらった〕.瑞春は私のいた塔頭寺の名 である.瑞春院と〔→正しくは瑞春院と→〕いった.私は〔→→削除〕滝谷がいなくなっ てから,この寺を〔→→私はこの寺を〕逃走,のち衣笠山の等持院にゆき,そこで,般若 林から花園中学にうつり,卒業と同時にまた寺を逃走して,還俗していた〔→→した〕.ど んなふうに,それを〔→→削除〕しゃべったかわすれたが,暑い陽ざかりだし,樹かげ

(21)

〔→→木かげ〕をさがすにもない茅っ原の山上だった〔→→茅っ原である〕.早口でお互

〔→→お互い〕がしゃべりあった.滝谷はいった.

「親爺が死んで,わしはいま音海へもどって住職させてもろとる」

 させてもろとるという言い方には〔→→に〕,中学を出もせずにといった自嘲も出てい て,〔→→が出ていた.〕もう滝谷は,〔→→削除〕そんなことをいっても意地や張りなんぞ

〔→→意地も張りも〕ないのだ〔→→削除〕という眼になっていた.うしろにいた〔→そう いってから,うしろの→そういって,うしろの〕若者をふりかえった〔→→中学生をふり かえる〕.その男は,〔→若者は,→中学生は,〕私たちの会話を最初は〔→→話を〕興味ぶ かげにきいていたが,眼は〔→→時々眼は〕海の方へむけていた.

「知っとるか.あんたにも縁がある男〔→→子〕や.金閣寺にいよる.成生の西徳寺のぼん や.こんなに大きなりくさって,〔→→ぼんで,〕いま花園の四年や.きんの〔→→昨き ん の日〕,

和尚の法事をつとめにもどって,西徳寺で会った〔→→会うた〕.わしも今日は関屋の村葬 にゆくさかい〔→→ゆくんで〕一しょにほんなら青の郷〔→→青郷〕へ出よかいうて,相 談ができてな〔→→……〕」

 若者を〔→→中学生を〕,私は見すえた.金閣寺の小僧.縁は多少どころでなかった.私 のいた〔→→削除〕瑞春院の和尚〔→→先住和尚〕が金閣寺へ栄転して住職になっていた

〔→→なった〕.先輩の〔→→成生の裏の野原部落からきていた〕小僧もついて〔→→和尚 について〕いって塔頭から別格地金閣の〔→→金閣の〕小僧になった.その寺へ〔→その 寺へ,また→その金閣寺へ,また〕小僧が,しかも成生から.成生に西徳寺という寺があ ったのか.まったく,私にとって,絵のように思えていた岬へ,生きた男が一人首をもた げてきた.そんな思いが立ったのと〔→したのと→全体削除〕,いま,〔→→意外な思いが したので,〕国防色の制服らしいモールのついたカラー襟の〔→→制服の〕第一ボタンをは ずして学帽をやや阿弥陀にかぶった,よくみれば中学四年らしい〔→らしく→らしくなく〕

少年じみてみえるところもある男が,〔→→学生を見守った.と,学生は私から視線をそら せた.〕滝谷との話のなかに〔→→私の話に〕,瑞春や花園の名前が出ても,まことに無関 心といわぬげなのが〔→→無関心といいたげなのが私には〕不満に思えた.そこで私は

〔→→削除〕,相国寺塔頭から金閣寺和尚は〔→金閣寺和尚は相国寺塔頭から→〕赴任した はずだがとか,その時いっしょについていった浜田弘という小僧〔→→削除〕は,私の法 兄であって〔→→で〕,成生のうらの野原部落〔→→野原〕の出身のはずだ〔→→だ〕.そ の〔→→削除〕弘さんは元気か.滝谷へとも,その若者へともなくきいた.すると,〔→→

削除〕

「弘さんは戦死したがいね」

と滝谷がいい,〔→→いった〕うしろから,若者〔→→中学生〕が,

参照

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