中等教育における社会科教育
1
教1
育 法
史 的 考 察 i
│
社会科投賓の意義
弘前学院大学紀要第18号
社会科成立の基盤︿戦前を中心仰い﹀
四
ω州民学校における﹁鴎民科﹂
社会科教背の使命
戦後わが同の教官峨革において社会科は︑その中核的投割・を担わされて来た︒
それ辻︑憲法・教育基本法の根本掠別である︑人間の尊厳と社会的協調を原理と
する川区主義の舟念に立って︑新たな平和国家を建設し︑民主的社合の形或者を
育成しようとするものである︒
消一一次枇界大戦という︑かつて人知が体験しえなかった未曽有の事惑は︑当時
の教官の九七機能な持止させ︑数戦のしゃ実(ポツダム宣一一凶の受諾﹀は日本の教官を
大変不しなければならないことな明確に意識させた︒間全体の拠乱と国民の虚脱
状態はいやが上にも川内湾内山北の金一則を急がせたのであるむそして︑この変革は教
育に
れよ
ノ所
がな
少か
った
uこのような法要な使命を背失った戦後の教育改革は︑民
主的で文化的な同家を建設し︑叶い界の平和と人類の福祉に瓦献しようとする日本
国憲法の結神を桜本町一念としたのである︒後に発足する教育課程伊いおいて︑社会
斡は︑まさにこのような民主主義と平和主識を育成推進する中核胎教科として︑
って
いた
︒
笠 民
〈
正
しか
し眼
下︑
﹁改
訂高
等学
校学
向指
噂要
韻﹂
︿昭
和五
一一
一年
八月
一一
一O話︑文部引合
(昭和五二年七月二二日︑文部省告
治第
一六
一一
一号
)︑
﹁改
一日
中学
校学
問指
導要
制﹂
一都第一五六号﹀により︑新しい教腎課程が実施(高等学校は昭和広七年四月一日︑
中学校は昭和五六年四月⁝日より施仔﹀されるのを検討した時︑﹁学問指導要鋭い
の法的拘束力︑同氏の教育の内出と教育を党ける権利等の間組に加えて︑社会科
の茶本的課樹︑現代的諜顕が新ためて究明されなければならないと考える︒
木棋は︑このような社合科の芸一本的理念と現代的課題官︑中等教育な中心ι教
蒋法制史的四に焦点を当てて考燃を心みるものである︒このことによって戦後教
官の変らない使命である︑民主的川家・社会の形成島の育成ハ主権者教育﹀とい
う社会科教育の前命と︑現実の社会教育のおかれている状況が津彫りιなればと
考え
る︒
社会科設読の意義
社会科という名称・そもつ教科の州発は︑昭和二二年ハ一九四七年﹀九月の第二
学期からである︒過去の路同家主義市問主義教腎の反省に立って︑新しい戦械臼
木の
教育
の基
本方
針を
一ぷ
す﹁
教育
某本
法い
(昭
和一
一一
一年
一一
一万
一一
一一
日公
布施
行﹀
に
先だって︑﹁学問指導要額一般編ハ試案どが同年一一一月一一O日に発表され︑次いで
同年蕊月二O自﹁学期目指樽要領社会科編i
ハ試
集﹀
﹂(
小学
校﹀
が︑
同年
七月
一一
五
日﹁同社金科師自︿試案)﹂ハ中学・高校﹀発表された︒これらの学宵桁導要領︑
ことに﹁一般繍﹂は︑教育基本法とのかかわりにおいて︑その内省をふまえて作
成されている9
すな
わち
︑
﹁教育の一級目標Lの項で﹁わが同の教腎の椴本的な
罰的は︑教育基本法のはじめに治されているとおりであるむわれわれは教育のす
べての何みによってこのような目的ケ述することに努めなくてはならないL
とし
ていることでもうかがい知ることができる︒ただ︑﹁社会科編ハiど﹁同ハHど
とも︑山接教宵読本法に4一付設して拭いないが︑これらが︑昭和一一一年十月から一
一一月に執筆がすすめられており︑教育京本法案の作成過程と法行していることか
ハHども︑教育部本法の洲念にそった努力の給品であるとい
ら
中等教育における社会科教問ff
この社会科は︑従米の務身・公民・地理・限史に代って︑ただ一析して社会科
と し た の で は な く
︑ っ て い る
︒ ゴ 般 編
﹂
﹁ 社 合 科 編
L
一 門止 の
からその特政令見ると次のようになる中
一︑移身・公民・地期・歴史などの教科川容を融会︑統合した総合教科であ
一一︑社会の科学的・合則的縮植の認識な通して︑自己の人都合発展させ︑社会 る 山
人としての賢一費ハ市民的・公民的資質﹀令官成することをねらいとする教科
であ
るむ
一一一︑方法論的じは︑社合生活の相五銭おの統一的問器官珂解することが社会科
んMmれの岱務であるとするところから︑性活主義・経験主読にたち︑生活単元
し な が
‑問題昨混じよって学内山内有を構成し︑現実学許
‑w
山川
地学
山中
けな
い紅
ら︑あく主でも児山・生徒の経験︑出鋭︑作発性︑自己活動を吊視しようと
するものであるG
、初
ゆ
ような社会科の性格は﹁近代学校カ
キュ
一フ
ムの
心議
﹂︿
出︒
2
0同州凶作詞
m k y o
c 日 ハ
MMM
吋 ユ 22
﹀g
と一
五わ
れる
ごと
く︑
学校プログラム巾で﹁巾心的教科い
﹁竹
柄本
的教
科﹂
とし
ての
いたと見ることがでぎるむ 当時︑文部省にあって﹁社会一科鋸﹂の編集にあたった章一松続審ハ吟ち名古屋大学教按﹀は︑その著﹁社合科教育法いにおいて次のように述べている︒
﹁社
命科
教育課組の中に導入することは︑教育課似回全体にいちじるしい影響者与え︑全‑ r
体・なおなじ方向に動かしていくであろうこと合予測したいと記しているaそれだ
け社会科に大きな期待をもっていたと一千える︒さらに氏は︑社会科の使命につい
て ︑
一︑日本の子どもたちに気味をもたせる中
ニ︑
人刊
性の
山内
復を
はか
る心
豆︑相互依存の関係官抱擁させる中
間︑真部一追究の能度を育成する︒
一九︑社会の改善にたいし︑具体的な方議を立て︑積極的に行肋するような機会
を与
える
︒
‑ 2
六︑子どもれ身の考えの統一︑内省を栄一んずる中
とし︑日本の社会科熊造へている︒この事からA
も社会科は︑教育課程全体の中核としての性格を読み似ることができる︒
社会科成立の義一盤ハ戦前を中心に﹀
それでは︑戦後教脊改革の一部として企画され︑まったく新しい科詩の一つと
して削ぷされた社会科は︑戦前においてまったくその基盤をもっていなかったの
であろうか中あるいは現代の社会科と同一視することはできないにしても︑向ら
かの形で︑そったと克ること
はできないものなだろうか山いいうべき年究が品
慢
で為
ると
考え
る︒
アメリカにおいて印︒立忠
m g
号訴と呼ばれる社会科が成立したのは︑一九一
穴年ハ昭和五年﹀全京教育協会ハ
NEA
︑
Z2
28
MM
wa
cg
cg
﹀Z
2u
zo
﹀D
の社会科委員会の問先案げいよって成虫したとされているUすなわち﹁社会科は︑社
会生前の木町および諸原則的合即解きせ︑社会的諸集部の成員としての資任感を育
成し︑社会の福祉に率先して参加する知性と立志を発述させねばならないいとし
て︑その市民的資問の育成にかかわる中心的教科として民泊されており︑この自
抑制実現の為に︑生徒が附搬興味をもつような具体的な社会的﹁問︒胎﹂にもとづき
教育守編成しもその﹁解決﹂にとりくませることを提案しているQ
社会科の日障を市民的資質に求め︑学問方法を﹁閉山相解決法﹂とすることは︑
日常的な小川活問題︑社会山題合研究することとなり︑いずれも一教科で拭実現し
えずしたがっ
の中心的課相となることとな 弘前学院大学紀要務18号
るaこのような総合教科の現ボは︑デーlイQOVロむ作君︒ろにその源泉がある
とされているが︑日本においても︑このヂ品lイらの進多主義的教背思想の紹介
はなされているωこの他にもハイマiト・グンデハ郷土教授﹀︑
一ア ル
ゲ
ムト・ウン
ヒトハ合科教段﹀など︑ドイツにおける新しい教育内容の拠開
ン・ゾラン︑ブロジzクト・メソッドも導入され︑子どもの
った
u
さら
に︑
ド
自発的︑知能あるいのぷみが行なわれた心
カにおいてソウシャル・スタ
J γ
アメ
ズが敢初に学校に渦取り入れられたのは
日本において一九一二O年︿昭和
一九
一一
O年ハしへ正え年﹀凶だとされてい
五年﹀代においてのようである中
は︑今日の社会科と山似的に結びつけるわけに
﹁公民・地開・撲史なんけ体﹂して﹁社会科﹂な教科として明確に
設問したということであるご九一一九年i昭和四年﹀︒又︑愛知県立師範学校付
の著書﹁郷土教脊の実際的研究﹂(一九三一年﹀げ
﹁・自然斜学的教材﹂と﹁文化科学的教材﹂ まー︑ぷ︑L︑JIλ干︑カアしカ
おいて︑郷土科の
のごつに分汁︑後去の﹁文北科学的教材﹂をさらに﹁郷土地理的教材﹂﹁郷土史
﹁社会科学的教材﹂の一一一つに分けている︒子どもむきの﹃応明社会学﹄
的教
材﹂
とも一おうべきものであるが︑﹁日然及雌史
hy
背景とし主として人事関係並文化生
活の生盗を全人的に把掘し︑永遠の社会創議会一期せしめんとする﹂ところに社会 ﹁社会科的教材しは﹁高学年に於ける中心生命である﹂としてい
一九
四0
年代
に入
ると
︑山
川品
開設
・也
教授
が︑
﹁教
宵科
学研
究﹂
︿一
九四
O年
五月
号﹀
‑ e :
﹀l︑心不カAd 一 句
﹁﹃時間的情間的文化生活体制﹄と﹃社会科﹄﹂と認し︑アメリカにおけるソi
シャ・スタディズを﹁社会科﹂と翻訳し︑これを﹁大部地埠・探史・公民など
を合み︑山内民として必必な浦町併と信念とを与えること令目的とする教科である﹂
と紹介している︒在野の研究者である為あまり脚光を浴びるぷ在ではないが︑独
自なカリキ品⁝ツム研究持である向下徳治成は︑岩波川鴨川防発行の﹁教育﹂縮集部に
あって︑薪教育r通勤の郊ぽの中で教科・教育凍程論考紬ι︑光世論・
ている心ことに社会科に関しては︑
れている﹁創造的教科
おい
て︑
倒的
造的
教科
︑
てい
る︒氏辻︑コロンビア丈学におけるカリキュラム研究所結介し︑さらに﹁社会科﹂
について﹁社会現象を人間の生活に必要である夫々の角度から研究した燃火︑泊
朝刊︑公民科︑務身等があり︑:・・:分科発掃決した︒これらの各分科を︑児童の教科
州問題として︑基本的分対に還することは︑教科の有機的発麗を可能ならしめるた
めの共持的地鍛げい帰ることであるから大切なことである﹂としてカリキュラム
欝成を白然掛究科︑定践的研究科︑社合科︑一般数学科の四つに分額すべきこと
な強調している︒さらじ︑教科ぷ川燃は山花宣の生活に喰い入ることによって深く犠
を下したいぬ肘建築︑が︑全ての児童に可能じされるものでなければならないという
角成から︑現時の教科却制の主知主義的傾向た批判した︒﹁創治的教科﹂にしろ
﹁社会科いにしろ﹁薪しき社会探出入創造﹂とピワ未来社会の出造的建設に意味
を見出そうとしている所に杭自すべきであると考える︒
このような実践あるいは開論は︑戦時色が強まる中で弾任を受け︑前向主義教
育下においてはそれ以上の進肢を見ることが出来ず︑国家統制による戦時教科体
制へと進行するのであるQそれでは民本の学校制度における教育課程広おいて︑
社会科の先駆的教科はどのようなものであったのだろうか︑代表的な教科目を時
代史的じ上げると次のようであるQ
H
明治議における社会科的教膏器購
ハ明
治五
年八
月一
一一
日﹀
を見
ると
︑下
等
自本の教育館定の出発点である﹁学制﹂
小学教科ι平太子大立凡下等中学教科につ地川ゃい勺史学い︑
身学
い
Jナ制いの発布にともなって出されたア小学教
ハ明治五年九丹八日文部省布述番外﹀では︑下等小学の調税に﹁民家童宗教 の教科がある心
カラ
鰻々
・之
吋ブ
説諭
ス﹂
る所
の﹁
修'
身日
岐い
か)
おい
てい
る︒
こ
れは後の﹁小学教問改正﹂ハ明治六年五月一九日﹀においても引継がれている︒
これら明治初期の教青諏程抵︑読
‑ H
4円・昨を法本としつつ︑山H然・社会じ対する
多識な内存げか分科として配位されている︒ 状
等間
/以
テ教
部 中等教育における社会科教育
明治一三年(一八八O年﹀寸教育令改正﹂を布告し︑その施行規則において﹁教
育の目的辻︑もっぱら尊王愛凶の志気をふるいおこさせるにある﹂ことを明らか
にした︒﹁小学校教活縞鋲﹂(明治一一四年│一八八一年)はその意味において竜安
な位置を占めている︒小学校初等科には修身︑読書︑背字︑持街ノ目初歩及川h
敬 ︑
体操をあげ︑小学中等科には︑この他﹁地開﹂﹁昨出んいその地の教科︑小学高等
科には﹁経済ノ初参﹂等を加えている︒
明治ニコ年三八八九年﹀・大日本帝M問
中減
法が
発布
され
︑さ
らに
明治
一一
三年
教育の大本ともいうべき﹁教育ニ関スル勅一諸﹂
これ
にと
もな
い﹁
小学
校令
いハ
鴇治
一一
一一
一年
一
O月七日勅令﹀が発和されその灘皆
説明において﹁小学校⁝⁝於テハ徳性ヲ涌殺シ人道吋ノ実践セシムルヲ以テ第一ノ主
獄トシ株日⁝噂王唆以内/志気ヲ発揚シ兇道一ブシテ実業一ブ励ミ潜行ヲ修メ忠良ノ氏タ
一吋/務ムヘシいとあるように︑道徳的教育と間対教宵を教科目の共通
として宿意させ︑﹁等五愛国の志気﹂の鵡成を強制している心特に移身ほ﹁教育
問一関スル耕一品ノ詩趣ヲ奉体シ本邦同省ノ滋ヲ某礎トシテ万同普通ノ事理ヲ的泣シ
部行実践ヲ務メ宮町一社会全穀ノ穂義一一背グコトナキヲ期スヘシ﹂と定めているよ
うに︑教膏結語の影響を強く受けている︒さらに﹁小学校教期大綱﹂(明治二四 ラシメンコ
年一一月一七自文部省令﹀では︑寸日本地理・外国地理﹂について﹁日本ノ地理
及外国地理ノ大要ヲ授ケテ人民ノ生活‑一関スル垂要ナル事項ヲ理会セシメ兼ネテ
愛国
ノ精
神時
ノ議
ブ悶
ノ以
?川
町凶
トス
いと
定め
てい
る︒
﹁日
本熊
史い
ついて辻﹁本
持川
肉体
ノ大
要一
ブ知
一ツ
シメ
テ凶
同タ
ルノ
志操
ヲ議
ツヲ
は?
察知
災ト
ス
る︒尋常小学校・肖等小学校という筑務教育レベルにお︑て︑いずれも沼門家主義
と 定 め て い
の第一歩としての任務を担うものとして設定されたものである︒
これを中等教育を中心に見ると︑わが国近代学校体系の録幹として︑小学校iv
いう基本系統が擁立されたの
一九
年
であるが(森有礼文相﹀︑その年﹁巾学校令一が公布されているc﹁中学校令﹂第
一条は中学校の目的を﹁実業一一就カント欲シ又ハ高等ノ学校一一入ラント欲スルモ
ノニ須要ナル教育﹂を行うことと規定している︒これは明治一
れた﹁中学教期大綱﹂をほとんどそのまま継?点したものである︒こ
﹁地理﹂は初等中学科第一
数2時間)︑﹁歴史﹂は初等中学第一
時間﹀︑﹁経済﹂は初等中学科第四年前後期
誌高等中学科第一一学年前期ハ似週校業時間数2時間﹀である︒
六丹桜山疋の﹁尋常小学校ノ学科及其程山いι
よる
と︑
晃る
と︑
で︿恕選投業時
﹁本
邦法
令い
‑ 4
一九
年
・法説部鋲の学科が掠
外され︑﹁地問﹂﹁照史い中﹁熊史いが強化され︑
﹁ 移
句いは﹁檎塑いと故称して' W
る ︒
しかし明治期の学内内特において︑法作・政治
て
詑詩しなければならないのは︑明治三四年の﹁中学校令鈍行規制約﹂に定められて
︑る﹁法制及経滞﹂である︒同規則は︑明治三二年二月九七日公布された﹁中学校
ハ勅令﹀における中学校の目的﹁中学校ハ男子ニ須要ナル
メKfl
L一一
スヲ
テ目
的ト
ス﹂
︿第一条)とある︑高等普通教育の概念にもとづいて制定さ
れたものである︒
当時は︑日請戦争(明治二七J八年︑一八九四j五)後
の変化のはげしい時であり︑同内的にも片山階︑準語秋水︑
社会主義政党﹁社会民主党﹂が結成(明治三四年﹀されるなど︑社会主義思想や
運動が接聞附されていた時期である︒これに対し政府は徹底した弾花敢撲を取り︑ 同諮情勢
よる
︑
明治
一一
六年
一
O月二八日文部省誤令により﹁箱口令いな発し︑﹁教育会ノ名称ニ
於ケル団体一一シテ純紳ナル教育事槙ノ純間ノ外一一出テ教育上又ハ其他ノ行政一一渉
リ時いやヲ論議シ政事上ノ新開雑誌ヲ発行スルハ一種ノ政論ヲ為ス者ト認メサルヲ
持ス凶一アハ其同体ハ法体上ノ手続ヲ履ミ相当ナ政論ノ吉治アルト碍トニ持ラス
学校教員タルおノ職務上ノ義務ハ此等団体ノ全員タルヲ許サザル者トス﹂として
いる
こ 心
のよ
うな
山内
外の
情勢
辻︑
となり︑教育界においてもその対応が追られていたω﹁中学校令施行規則﹂は︑
このような背景をもって制定されたのである︒中学校の学科目は移身︑国語およ
弘前会長続大学紀袈 第18ij・
び照文︑外国語︑壁史︑地班︑数学︑博物︑物閣内および化学︑法制および紙誠︑
図一降︑唱歌︑体操であるが︑﹁設制およが経済﹂は︑この時はじめて設けられた
ものである︒この新しく加えられた﹁法制おじ附する教授主詩は︑同
規制によると﹁法制及続部一一関スル事項⁝⁝戯れヴ同同ノ生活ニ必諜ナル知識ヲ得シ
ムルヲ以テ袈出向トス﹂とされ︑その内殺は﹁法制及椛消ハ現行法規ノ大要及期殿︑
と定めているむさらに﹁中学校教授要目﹂に財政ノ一班ヲ授クヘシ
ると
︑
法制│法謡︑経済及滋徳︑同体及政体︑天阜︑帝国議会︑間内務大臣及据密顧
問︑可法裁判所︑行政︑苛政裁判所︑人及法人︑物権︑債権︑親族︑相続G
経済i経済と主架ナル機傘︑生産︑交換︑分配︑消費︑財政心
これを﹁論理﹂の名称を変え﹁鯵身﹂の名称な復活した﹁修身﹂の場合を見る
﹁修身﹂の教校側前皆殺に教授内容は﹁教育一一関スル勅語ノ総出閃ニ其キ道徳上
ノ思想及情操ヲ養成シ中等以上ノ社金日一於ケル男子一一必要ナル品第ヲ共ヘシメン
コトヲ期シ実践射符ヲ勧奨スルヲ以一ア要皆トス移身ハ初ハ嘉町一川議行等一一徴シ生徒 と
5常ノ行状目⁝問︑︑ニア道徳ノ要組ヲ教ぷシ進ミテハ精々秩市消ノ繋ヘテ註己︑家盤︑
社会及国家ニ対スル武務問ノ知一ブシメ又倫理学ノ一斑ヲ授クヘシ﹂と定めているQ
以ト
Lのことからも明らかなように︑移身拭︑教育勅一誌の精神常道徳・論理の耐か ら︑徳育ト上裁を強調し︑国民精神の強位・強一をはかろうとして組立られており︑国家主義的・泊徳教背中心主義教育政淡の中心的教材として位院づけられているのに対し︑﹁法制及経済﹂は現行の法枠制定と民家体制の観略を教授するとともι︑﹁肉体ノ精華︑万拾い一系﹂の閉門家および立憲君主政体を期解させるとい
う主知主義的性格をもつものであるが︑一方で誌教宵耕一践による﹁出向憲ヲ京シ国
法日
⁝尊
にい
﹁主連ヲ投開スいという遵法語神官枠培ずる教科として位議づけられ
たものであるuそれは︑出作・政治・料消の現実な理解し︑
る為に怠窓思想を養成するというのではなく︑法作・政治・経済の小中心聴な概念を
の生
活を
改諸
問す
知識としていお注するところにその目的があり︑専門知識の注入という価値法人教
育の傾向の強いものであったUこれは︑明治問問年中学校令施行規出の改正にお
いて︑その教授要皆が﹁現行法短ノ大要路川問︑財政ノ一班ヲ授クベシ﹂と変わ
﹁選
挙
L﹁丹治の本旨﹂﹁自治体ノ財政﹂といった境問が教授要目に加わった
が︑先に述べた主知中十一川括的傾向は変ることがなかったU
り
大正期及び昭和期﹁公民科Lにおける社会科的教脊基盤
﹁法制及経済﹂は︑昭和六年ハ一九三一年﹀一月一05中学校令掩行規制約が改
ω
﹁公
民科
Lが新設されたことιよって廃止されたQ
﹁公民科﹂の新設は︑小学校が実態の上で︑
ω
指導者持成機関から大柴教育機正さ
れ︑
ていることと︑幼中略的同氏(サ︒フェリート)の芳成教育︑
関化
へ
すなわち︑将米の中堅的同以内に対する道徳的・政治的・社会的教義の育成として
のは門氏教育(公民教育﹀の充実が急務であるという︑社会的状況の要議により設
置されたものであるG
第一の大京教育機関化への傾斜の実態についてであるが︑大正六年三九一七
年)以降︑昭和一O年(一九一一一五年﹀ころまでの時期に︑中学絞数および生徒数
ともに顕著な増加を訴している心この問問中学枚数三一一九校から五五七校に︑同じ
く生
徒数
一五
日︑
八九
一人
から
一一
一四
O︑六五七人に増加している心これを一九一七
年を終準に見ると学校数は⁝・七O倍︑生徒数はニ・一ユ一一錯それぞれ増加したこ
ととなり︑日本の教官体系の中で中等教育誌比較的急速な普及と拡張が行なわれ
てい
たこ
とが
}示
す︒
第ニに︑このような中学校数の増加は︑当時の社会情勢を出り離して見ること
ができないG
それ辻政治的・社会的・文化的要因を含むものであり従来の国民的 教義を身につけた中盤的国民を育成しようとするものでもあった︒すなわち︑中
学校の増加は大正一O
年前後に顕著な傾向を示す時期がある︒これは第一次大戦 の戦時中から戦後にかけての資本主義の発達︑腹業の輿持とインフレの増進にと
もなう階級間接差による社余川崎動の活発化等に刺激され︑このような社会構造の
変化
ι対応する為点等教育機関の拡張ハ大正七年二一月︑大学令および品等学校
令公海)が行なわれたが︑これにともなって中学校の拡張が行なわれたのである︒
その後︑詔和一一一年ころから一時持滞し︑昭和八年ころからさらに増加した時期が
中等教育における社会科教育
ら︑金融・磁業・工業・股梁な
ある
中山
沖帯
した
昭和
一一
一
J八年版は大活環
ど︑日本の産業全般に大打慨を受け︑高等教育機関をはじめ中学校
ιおいても整
理縮少なはかった時期である心昭和八年以蜂の域加期は︑満州事変ハ昭和六年﹀
上海事件ハ昭和七年﹀の突発となり︑同開地盟を脱退(昭和八年﹀するに韮る時
期であり︑回限的危機状況かにはファシズム進行の時期であったUそれ
はまさに出家体制の再嗣成を断行しようとする気運が山まっていた時期であるむ
う出家主義政策︑市出主義設業ハ一九一一五このような出家主義精神の政吹と
年・大正一四年i治安説持法の制山︑中等およ︑ぴ高等諸学校に現役将校を寵瀦し
平宗教仙仰を強化)の強行にともなって設けられたのが﹁公民科﹂であるわけだ が︑その内蒋はどのよペなものであるのか︑次に昭和六年改正の﹁中学校令施行
川別刷州﹂を中心に見て打くことにする中
具体的な中学校教育の改革の実施は︑文政審議会の符巾広もとづくもので島
るG施行制則の改正点は﹁一︑中学校教育ノ要言ヲ明カニシタルコ
学年一一於テ第一種及第二議ノ剤課程ヲ編成シ一
コ 一 ︑ ん 陥
選修セシムルコ
L…
﹁ 一 一 一
︑
学科目及其ノ内容一一改正ヲ施シタルコト﹂であるやこれ誌︑中学校が﹁広グ社会
ノ持方聞ヨリ将来ヲ奥山⁝スル多数ノ生徒ヲ収梓スル﹂機関に変賀したが態に対応
し︑学科課程の改革党しようとしたもの 施行規則は︑﹁小学校教青ノ基艶ニ拠リ一層高等ノ程変ニ於テ道
懇教育及国民教育ヲ施シ生活上有用ナル普通ノ知能ヲ義ヒ且体育ヲ行ブヲ以テ出荷
ト﹂することが純定されたやこのことは︑従来中学校が高等教官官受けようとす
る者の︑子議教育的制討議を加味してとらえられていたのに対し︑﹁其ノ大部分ハ
卒業ト共ニ社合ノ完務一一当ル﹂者への教育︑あるいは﹁健全有為ナル国民﹂とな
るべき教育︑すなわち︑
て把
擁されていたのであるuだから︑学科目が︑修身︑公民料︑川的関文︑
期︑外
M m 語︑数学︑理科︑実業︑詩画︑背楽︑作業料︑体授の一一一一科目とし︑ 埼
に﹁公民科﹂﹁作莱科﹂が新設されたのも︑前記のような中学校改革の要旨にも
とづくもので
﹁公民科﹂であるが︑従来の﹁法制及経済﹂が﹁専門的知識ヲ授クルニ
額キ実際生活一一適切ナラザル嫌アリシニ鑑ミ﹂(新学科謀総の説明文)これを蕗
止して公民科が設置された心その器官によると﹁公民料ハ
さて
︑
ノ政治生活︑縦模
6 ‑
生活民一一社会生活ヲ完ウスル一一定ルベキ知穂ア副操シ殊ニ遵法ノ精神ト共存共栄
シテ事ニ当ルノ気風切/議ヒ︑以テノ本義トヲ会得セシメ︑公共ノ為一一奉註シ
普良ナルム江叫ん自治ノ民タルノ京地ヲ育成スルヲ以テ要宕トス︒公民科ハ憲政丹治
ノ本義ヲ明カニシ日常生活ニ適出品ノル法制上︑経済上長一一社会上ノ事項ヲ授グベ
シ﹂と規定して生る︒公民的陶治を出る﹁思想普噂﹂的な公民教育であったとい
えるο
品 川
何年出版された標球的教科書の内容を見ると次の通りである︒
1
人と社会︑設が家︑地方自治︑市町一家の生計︑職業︑教育︑宗教︑2
産業
︑
持街
前町
︑
3
家 ︑
8 農村と都市︑
貨敷
市及
び金
融︑
交通
︑ 7 思
4
5
6
皇室とね氏︑9立態欽治︑
財政
一︑
川崎
10
帝凶融合︑
社会改帯︑M 行政官庁︑
同法
︑ 裁 判
ι川 ︐
︑ 噌
E ‑
品
川 口 'uυ1i国交︑四世界と日本
これら︑公民科設設の経緯と公民科を設けた山内容要旨あるいは教科書の内容か
ら込ると︑学科課程として辻川氏的ないし辻生活科的科E
な陀入することによ
・品 時
hu り︑﹁凶円以内教育﹂としての改善を試みつつ︑公吋科を通して︑社会︑政治︑制済
の法
.本
的教
ι戒を身ιつけることによって︑近代的立京政治の際部内を解明し︑﹁立
憲白治ノ民いたる田川民令宵成しようとしたものである心そして︑それらは﹁消法
ノ精神い﹁共存共栄ノ本義L﹁公共へノ奉北﹂合会得するという知識の﹁道徳也﹂
でもあったやこの上ぶからは決して科学的なものではないが︑今日の公民的分野と
接近している部分をもっていたといえる︒
(三今
戦時体制下の社会科的教育﹁由民科﹂
弘前学説大学紀要第18号
昭和一二年つ九三七年﹀一一一月ナ匂呂︑中学校教授要日中︑
ある修身︑公民制作︑同ぷ漢文︑熊史及び地理の要目改ぷが行なわれたa
これ
はも
昭お
40
年ハ一九三五年﹀一一月⁝八百設置された﹁教学掛新評議会いによる﹁教 ﹁肉体﹂と関認の
学刷
新一
⁝関
スル
務中
い
(昭
和一
一年
一
O月二九円は﹀にもとづくものである︒昭羽
一一年以前の教育統制は︑出家五詩的ではあったが比較的数出的誌ものであっ
た︒しかし︑国の内外においては満期主党(昭和六年)︑上海事変ハ昭和七年﹀︑
構舟国成立ハ同上)︑正・一五事仲ハ同上可間諜連盟脱退(昭脂八年﹀︑ワシン
トン条約廃棄ハ昭和九年可二・二六事件(昭和一一年﹀︑日独防共協定(河上﹀︑
日中戦争ハ昭和で一年﹀と︑緊張の度げか高まるばかりであったQこの年文部省は
﹁限体ノ本義い合錨集出版ハ一一一月一一一一日刊行﹀し︑皇道主義的教育の典拠たらし
めて
いる
︒
このような︑国内外の状勢下において・改訂された﹁中学校新教授袈自﹂は公民
科の題慣を﹁我ガ同体及同窓ノ本義特ニ盛凶ノ精神淡窓法発布ノ由来ヲ知ラシ
メ︑以一ア我ガ凶統治根本観念ノ強制ト異ル所以ヲ明カニシ﹂﹁日本目民タルノ信
念ト憲政治下ノ凶民タルノ資質トヲ長成スル﹂﹁現法奉公ノ念オ謹養スル﹂﹁我ガ
国間有ノ醇風芳裕ヲ尚ピ協同生活ノ説練ヲ前一ンジ﹂ると改めた中国体の本識にも
とづく竪摺主義的教育制疫の確立として︑公民科は﹁皇民科いに宏質したのであ
昭和一六年三九四一年﹀士一月⁝目︑﹁同民学校令Lが制定され︑きわめて大 る ︒ きな制度的・教行内科的必変が一行なわれたM﹁川U
氏学
校ハ
山県
凶ノ
道一
一際
リテ
初等
普通教育ヲ施シ同ノ桜一純一的錬成ヅ為スヲ以テ目的トスい︿第一条﹀とあるよう
︑その目的を﹁良川門ノ道いすなわち教青勅一品川いいう﹁斯ノ道﹂であるとしてい
るν
それ
は︑
﹁. K
壊無前の込躍を扶翼し取る泣﹂叶八紘為宇の大理組を蝦理し得
る向品川門誌を鯨成いすることであれっ︑教科を縦に統合したのも︑この大前川町大詩擦
を最終とすることにあったu為に︑﹁同民学校ノ教利用保書ハ文部省ニ於テ著作
権ヲ有スルモノタルベシいとして︑教科書の著作は文部省Vいあることを明織に
し︑教科書以外の教材に関しても統制官強化したのも︑この自諜達成に鰯一する
ものである心さらに︑学科課程の鱗造は︑同氏科(修身︑尚一語︑国史及地烈﹀︑時
数科ハ算数及県科﹀︑体錬科ハ体操及武道﹀︑芸能科会川口楽︑持字︑同一儲及工作﹀︑
実業科(良工︑工業も商業又は水産)の五教科とし﹁教科の統合﹂を行ない︑
﹁什科教育﹂的数料編成な行なったじ
このような初等教訂におけるムパ人道主義︑県凶主義にもとづく故革は︑当然中等
教背改革にも及び︑昭和一陣年九月一四日教掛け審議会は﹁中等教野山一関スル仲﹂
の答巾を行なったむこの窓口中の詩文は中等教育再編の基本構想をよく伝えてい
る ︒
中等学校教育ニ付テつ本会ガ轟‑一答申ニ及ピタル同民学校ノ教育ヲ基髄ト
シ︑東ニ之ヲ選投拡充シ︑教学ノ本義一一期リ皇問ノ道ヲ鯵メシメ︑名其ノ分ヲ
ス︑之ガ為従来
バシ
一ア
山正
法ヲ
補刑
判シ
奉ル
ベキ
山中
盤有
為ノ
同氏
鏡成
ヲ完
ウセ
ン
ノ中学校︑実業学校及高等女学校ヲ合シア中等学校ト為シ︑其ノ目的ヲ明確叩⁝
スルト共同⁝教科ノ統合ヲ図リ︑実践鍛錬ヲ喧混シテ人物ノ銀成一一日昭一七シメ︑
国民精神ノ品婦︑学織ノ深化︑識見ノ長義︑体技ノ向と一一力メ︑以テ類教育ヲ
シテ罰民生活ノ分野一一即シテ中堅倍氏タルノ材幹ヲ養成スルニ遺憾ナカラシメ
ンコトヲ期化リω
このような碁本方針ιもとづく巾等学校の改革辻︑山中等学校在中堅皇田氏の鏡
成という期念のもとに︑再民学校教育の基礎の上に続く完成教育として位諜づけ
るものであり︑従来の中学校・高等女学校・実業学校宏︑統一した学校制皮はお
こうとするものである︒
この答申にもとづき︑昭和一八年一月一一一日﹁中等学校んとが制定公布されたc
この昭和一八年三九盟三年﹀前後は︑日本が真珠湾攻離ハ昭和二ハ年﹀によ
る太平洋戦争拡突入して以来︑溺方地域を占領し大東議共栄倒の建設が}となえた
初戦の攻勢から︑ミッドウナj指戦・ガダルカナル・サイパン陥落と形勢が逆転
し︑戦局が悪化した時期であった︒中等学校令の公布は︑このような戦時ドにお
ける学校制度の決戦体制への切替え︑学徒動員体制という凶家的要請にもとづく
ものである︒その日的は﹁中等学校ハ忠岡ノ道一一期リテ向等普通教育又ハ実務教
中等教育における社会科教育
青ヲ施シ尚氏ノ錬成ヲ為スヲはテ詩的トス﹂(第一条﹀とあるように︑小怒出品開
民錬成を詩的とするものであり︑持年一一一月ニ日制犯ざれば﹁中学校焼程L
げい
おい
ても︑この話的にもとづく教育方法山内容の改革に散点が置かれていたのはもとよ
りで
ある
︒
中学校教育内科方法上の改革課地は次の六項詰であるQ
︑教育ノ全般一一百一リテ出国ノ選ヲ修掠セシメ肉体叩⁝対スル詰念ヲ深メ一世誠尽
忠ノ精神戸一設セシムベシ
一一︑没同ノ東亜及役界ニ於ケル使命ヲ⁝シロ国民タルノ代以務ヲ日党セシメ職
分ヲ尽シア屯溜ヲ扶翼シ奉ルノ信念ト鳴践力トヲ︑渦按スベシ
一二︑学行ヲ一体トシテ心身ヲ務線七シメロ同毘タルノ徳議識見ヲ陶冶シ創造活
用ノ能一ブ議ヒ堅忍不機ノ体力気力ヲ練磨スベシ
問︑本校一体修文練武吋⁝力ムルノ黒ヲ振作シ質実剛能ヲ詣ピ協同ト勤労トヲJ恵 一
ンズルノ気風ヲ作興スベシ
一品︑教育ヲシテ問民生活ノ実諜一一泊切ナラシムルト共ニ実践体験‑一依ル学習ヲ
基礎トシテ告発研究ノ態度ヲ育成スベシ
六︑教育内容ノ全体的統一回一意ヲ荊ヒ学校内外ノ生活ヲ挙ゲテ皇国民錬成ノ一
途刊
一端
セシ
ムベ
シ
このような皇道主義・諮問主義の教育理念にもとづいて教育内容の骨格が訴さ
れ︑同年三月二五日﹁中学校教科教授及移練指導弾自Lの制定によりその具体的
指導方針が確立した︒
中学校の教創刊は︑国民科︿修身︑関語︑帰虫︑地理﹀︑期数料︿数学︑物象︑
生物﹀︑体鍛科(教練︑体操︑武道Y芸能科ハ音楽︑議選︑出画︑工作﹀︑実業
科ハ出弟︑工業︑商業または水産の一もしくは一一﹀︑外閑語(英語︑独一時︑仏語︑
支部語︑マライ語又は誌の抱の外同語﹀︑修練叫自常行フ修練﹂l常時移線︑﹁毎
泊定時一一行ブ修練Li定時務線︑﹁学年中臨時三行フ修練﹂i随時務練﹀の六教科
を中心に講成され︑筆頭の国民科が設も市川悦されている︒ということは外国語が
対照的に低い地位にあり︑巾学校の伝統的な民数川間関取引伐の性格に変容脅迫るも
のであるむこれ泣﹁教学刷新い︑戦時科学振興︑学徒勤労動員を経た︑忠岡定義
教育理念の論理的文紙において行なわれたものであるQ
さらに国民科は︑能述したようにすでに﹁虫記科﹂に変質していたわけである
‑ 8ー
が︑さらに今叫によって同氏科修身に吸収され︑まったく消滅してしまった︒凶
民科は﹁同体ノ本義ヲ踊明シテ同氏精神ア画養シ阜
M m ノ使命ヲ自覚セシメ実践日⁝
培ブいこと者教授要旨としているごとく︑全てが皇闘の提命の色覚と戦時的・軍
事的性格をおびた戦争進行能力・資質のお伊成に向けられたわけである︒いわば戦
争一色の中に教育が刷り込まれていたのである︒そして教科書もこの﹁中学校令L
(昭和一八年﹀により同定住された︒
四
関民学校における﹁悶民科﹂
日本の学校教育における﹁社会科的基盤﹂を教背法制酬の面から考察を試みて来
たわけであるが︑現在の社会科のように﹁広い視野に立って︑我が舗の凶土と歴
‑史に対する理解青山開め︑公民としての法略的教義を若い︑民主的・平和的な悶
家︑社会の静成者として必要な公民的資質の基礎を養うLハ中学校学習指導饗領