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Title 横井小楠の經世思想研究
Author(s) 田海, 秀穗
Citation 北海道大学. 博士(文学) 甲第13838号
Issue Date 2020-03-25
DOI 10.14943/doctoral.k13838
Doc URL http://hdl.handle.net/2115/78707
Type theses (doctoral)
File Information Shuho̲Taumi.pdf
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
北 海 道 大 學 大 學 院 文 學 硏 究 科 令 和 元 年 度
( 二
〇 一 九
) 課 程 博 士 學 位 論文
橫 井 小 楠
經 の
世 思 想 硏 究
田
海
秀
穗
i
目 次 は
じ めに…………………………………………………………………………………………
1
第 一 章 熊 本 藩校 時 習館 の 敎育 理 念―
「 時 習館 學 規」 の 考 察─…………………………
3
第 一節
藩 校時 習 館の 設 立 4
( 一) 時 習 館設 立 の歷 史 的 背景 4
( 二) 時 習 館の 槪 要に つ い て 5 第 二節
時 習館 創 立者 の 敎 育觀 7
( 一) 細 川重 賢 の 敎育 觀 7
( 二) 秋 山玉 山 の 敎育 觀 9 第 三節
「 時習 館 學規
」 の 特色 10
( 一) 學 業課 程 の 大綱 を 定め た 規 定 11
( 二) 學 生の 成 績 評價 及 び罰 則 に 關す る 規定 27
( 三) 成 績優 秀 者 の表 彰 と「 知 行 世減 の 法」 に つ いて 36 ま とめ 38
ii
第 二 章 橫 井 小楠 の 朱子 學 観― 小 楠 から 本 庄一 郞 宛書 簡 の 考察―……………………
45
第 一節
朱 子學 的 注釋 書 の 評價 と
『永 樂 大 全』 批 判 47
( 一)
『 小學
』 に つい て 47
( 二)
『 近思 錄
』 につ い て 49
( 三)
『 四書 集 注
』に つ いて 50
( 四) 朱 子の 著 作 の評 價 につ い て 52
( 五)
『 永樂 大 全
』に つ いて 54 第 二節
明
・淸 の 儒學 者 に 對す る 小楠 の 評 價 56
( 一)
「 格物 致 知
」に つ いて 56
( 二) 陸 隴其 に つ いて 59
( 三) 薛 瑄・ 李 滉 につ い て 60 第 三節
日 本の 儒 學者 に 對 する 小 楠の 評 價 62
( 一) 藤 原惺 窩 に つい て 62
( 二) 大 塚退 野 に つい て 63
( 三) 山 崎闇 齋 と 淺見 絅 齋及 び 崎 門學 派 につ い て 65
( 四) 室 鳩巢 と 中 井竹 山 につ い て 68
iii
第 四節
書 簡に 對 する 福 井 藩の 反 應に つ い て 69
( 一) 三 寺三 作 か らの 禮 狀 70
( 二)
「 奉問 條 々
」欄 外 の評 語 に つい て 71 ま とめ 72 第
三 章 橫 井 小楠 の 名君 論……………………………………………………………………
77
第 一節
江 戶時 代 にお け る 名君 論 78
( 一) 江 戶 前期 の 名君 78
( 二) 江 戶 中期 の 名君 81
( 三) 江 戶 後期 の 名君 85 第 二節
小 楠が 論 じた 名 君 87
( 一)
「 戊 戌雜 志
」に 見 え る名 君 論― 德 川 齊昭 と 鍋島 直 正─ 88
( 二)
『 貞 觀治 績 政要
』 に 對す る 小楠 の 論 評に つ いて 92
( 三)
『 見 聞私 記
』に 對 す る小 楠 の論 評 に つい て 98 ま とめ 104
iv
第 四 章 橫 井 小楠 の 學校 改 革論………………………………………………………………
109
第 一節
幕 末福 井 藩に お け る學 校 改革 109
( 一) 福 井 藩の 財 政状 況 と 學校 制 度の 實 態 109
( 二) 春 嶽 の藩 政 改革 113 第 二節
小 楠の 提 言― 學 校 改革 と 文武 一 途 につ い て─ 118
( 一)
「 學 校問 答 書」 に 見 える 小 楠の 學 校 論 118
( 二)
「 文 武一 途 の説
」 に 見え る 文官 優 位 論 124 ま とめ 129 第
五 章 橫 井 小楠 と 橋本 左 内の 學 校 論の 比 較………………………………………………
133
第 一節
橋 本左 内 の學 校 論 134
( 一) 政 教 一致 に つい て 135
( 二) 文 武 不岐 に つい て 139
( 三) 左 内 の洋 學 觀に つ い て 143 第 二節
橫 井小 楠 の學 校 論 147
( 一) 學 政 一致 に つい て 148
v
( 二) 文 武 一途 に つい て 151
( 三) 小 楠 の洋 學 觀に つ い て 153 ま とめ 156 第
六 章 橫 井 小楠 に おけ る 海外 知 識 の受 容…………………………………………………
161
第 一節
小 楠に お ける
『 鎖 國論
』 の受 容 161
( 一) ケ ン ペル の
『鎖 國 論
』に つ いて 162
( 二) 小 楠 の「 讀 鎖國 論
」 と鎖 國 攘夷 主 義 164 第 二節
小 楠の 開 國論 へ の 轉換 と 西洋 觀 の 形成 167
( 一)
『 海 國圖 志
』の 講 習
・討 論 168
( 二)
「 村 田宛 書 簡」 に 見 える 小 楠の 西 洋 觀 171 第 三節
小 楠の 幕 政改 革 論 179
( 一) 小 楠の 幕 政 批判 と 改革 構 想 180
( 二)
『 大英 國 志
』の 受 容― 議 會 構想 と 海軍 創 設― 182 ま とめ 187
vi
お わ りに…………………………………………………………………………………………
193 初
出 一覽…………………………………………………………………………………………
196 參
考 文獻…………………………………………………………………………………………
197
- 1 -
は じ めに
江 戶時 代 幕 末期 に 活躍 し た 開明 的 思想 家 橫 井小 楠( 一八
〇 九
~一 八 六九
)は
、文 化 六年
(一 八
〇九
)、 熊 本 藩士 橫 井大 平 時 直( 世 祿百 五 十 石) の 次男 と し て熊 本 城下 の 内 坪井 町 に生 ま れ た。 名 を時 存
と き あ り
、 通稱 平 四 郞、 小 楠は 號 で ある
。 小楠 は
、 藩校 時 習館 の 俊 才と し て、 天 保 八年
( 一八 三 七
)に
、 時習 館 の居 寮 長( 塾 頭
)に 拔 擢 され
、天 保 十 年( 一 八 三九
)に は
、江 戶 遊 學 を命 じ られ て
、林 大 學 頭に 入 門す る な ど、 將 來 を囑 望 され て い たが
、 肥後 實 學 黨の 指 導者 と な って 藩 政改 革 を 志向 し た彼 の 思 想や 行 動が 藩 の主 流 派 か ら危 險 視さ れ た ため
、 熊本 藩 で は容 れ られ な か った
。 しか し
、 小楠 の 識見 は
、 むし ろ 熊本 藩 外に お い て 評價 さ れる よ う にな り
、や がて
、安 政 五 年( 一 八五 八
)、 福井 藩 主 松平 慶よし 永なが
( 一 八二 八
~一 八 九〇
。 號 は
、春 嶽
)に 招 か れて
、 藩の 政 治 顧問 と して 福 井 藩の 藩 政改 革 を 指導 し た。 さ ら に、 文 久二 年
(一 八 六 二
)、 春 嶽が 幕 府 政事 總 裁に 就 任 する と
、小 楠 は
、春 嶽 を助 け て
、參 勤 交代 制 の 廢止 な どの 幕 政改 革 を 推 進し た
。 維 新後
、小 楠 は
、朝 廷 の召 命 を受 け て
、明 治新 政 府 の參 與 とな る が
、明 治二 年( 一 八 六九
)一 月 五 日、 小 楠 が夷 狄 と通 じ て
、我 國 にキ リ ス ト敎 の 蔓延 を 企 てる 元 凶で あ る と見 た 攘夷 派 の 刺客 に より 京 都で 暗 殺 さ れた
。 本 論文 で は
、小 楠 が熊 本 藩 の藩 政 改革 に 志 した 天 保年 間 か ら、 春 嶽の 政 治顧 問 と して 活 動 した 文 久年 間 に かけ て
、小 楠 が 著し た 書簡 及 び 論考 を 中心 資 料 とし て 取り 上 げ
、そ の 朱子 學 觀
・名 君 論・ 學 校改 革 論
・ 學問 論
・西 洋 觀 につ い て考 察 を 加え
、 小楠 の 經 世思 想 の特 色 を 明ら か にし た い
。
- 2 -
本 論文 が 用 いた 主 な底 本 は
、次 の とお り で ある
。 山崎
正 董 編『 橫 井小 楠 下卷 遺 稿篇
』
( 續日 本 史籍 協 會 叢書
『 橫井 小 楠 關係 史 料』 一
・ 二)
、 東大 出 版 會、 一 九 七七 年 覆刻 版
。 以下
、
『遺 稿 篇
』と 略 稱。 山崎 正 董
『橫 井 小楠 傳
』上 卷
・ 中卷
・ 下 卷、 日 新書 院
、一 九 四 二年
。 橫井 時 雄 編『 小 楠遺 稿
』、 民 友 社、 一 八 八九 年
。 元田 永 孚
『還 曆 之記
』
(元 田 彥竹
・ 海 後 宗臣 編
『元 田 永孚 文 書
』第 一 卷所 收
、 元田 文 書研 究 会
、一 九 六 九年
。
) 中根 雪 江
『昨 夢 紀事
』 第一
・ 第 二・ 第 三
・第 四
、日 本 史籍 協 會
、一 九 二〇
~ 一 九二 一 年。 中根 雪 江
『奉 答 紀事
』
、東 大 出 版会
、 一 九八
〇 年。
『橋 本 景 嶽全 集
』一
・二
・三
(續 日 本 史籍 協 會叢 書
)、 東 大 出版 會
、一 九七 七 年 覆刻 版
。以 下
、『 景 嶽 全 集』 と 略 稱。 な
お、 原 文 の引 用 に際 し て は、 片 かな や 變 體が な は、 平 が なに 改 め、 適 宜段 落 を 設け て
、 句讀 點
・濁 點
・ 括弧
・ ふり が な 等を 附 し、 原 文 割注 は
[
] で 示し た
。字 體 は
、舊 字 體を 用 い
、異 體 字の 類 は正 字 に 改 めた
。 また
、 底 本が 漢 文で あ る もの は
、讀 み 下 し文 の 後に 原 漢 文を 括 弧に 入 れ て附 載 した
。
- 3 -
第 一 章 熊 本 藩校 時 習館 の 敎育 理 念
―
「時 習館 學規
」の 考察─ 熊
本藩 校 時習 館 は
、寶 曆 五年
( 一 七五 五
)の 設 立 以來
、 長く 諸 藩 の模 範 とさ れ
、 他藩 か ら視 察 のた め 訪 れ る者 が 蹟を 絕 た なか っ た。 福 岡 藩の 儒 學者 龜 井 南冥
( 一七 四 三
~一 八 一四
) も その 一 人で あ る。 南 冥 は
、明 和 八年
( 一 七七 一
)と 安 永 四年
( 一七 七 五
)の 二 回、 熊 本 に遊 び
、熊 本 藩 中興 の 名君 と 仰が れ た 第 六代 藩 主細 川 重 賢( 一 七二
〇
~ 一七 八 五) の 藩 政刷 新 の善 政 に 深い 感 銘を 受 け
、熊 本 での 見 聞を も と に『 肥 後 物語
』
(天 明 元 年成 稿
)を 書 いた
( 注 一
)
。そ の 中 で南 冥 は
、寶 曆 の改 革 以後 の 熊 本藩 の 治政 を 讃 えて
「 學校 に て、 人 才 を仕 立 るこ と を 政の 基 とし た ま ひし こ と」
( 注 二
)
が改 革 の中 心 點 であ っ た と 述 べ てい る
。 も とも と 肥後 熊 本 は、
『 新人 國 記
』に も ある よ う に「 智 ある を 以 て、 分 別多 く
、 思ひ 思 ひな る ゆへ 一 和 せ ず、
( 中 略
)上 下共 に 才 の有 る 國に し て
、人 々 不義 を にく む 風 なり
」( 注 三
)と い う氣 風 を反 映 し て、 文 敎 界に お いて も
、 朱子 學
・徂 徠 學
・陽 明 學な ど 樣 々な 學 統・ 學 派 が亂 立 し、 互 い に門 戶 を張 る 傾向 が 強 か った と され る
( 注 四
)
。 本 章で は
、 この よ うな 風 土 の中 で
「人 才 を 仕立 る こと を 政 の基
」 とし て 設立 さ れ た藩 校 時 習館 の 根本 規 則 であ る
「時 習 館 學規
」 の檢 討 を 通し て
、時 習 館 の敎 育 理念 と 敎 育内 容 の特 色 を 明ら か にし た い。
- 4 -
第一 節 藩校 時習 館 の設 立 本
節で は
、時 習 館 設立 の 歷史 的 背 景と 時 習館 の 槪 要に つ いて 述 べ てお き たい
。
(一
)時 習館 設 立の 歷史 的背 景 熊
本藩 校 時習 館 は
、寶 曆 五 年( 一七 五 五
)一 月、 細 川 重 賢が
、熊 本 城内 二 の 丸に 設 立 した 藩 校で あ る。 校 名 の由 來 は、
『 論 語』 學 而篇 の
「 學而 時 習之
、 不 亦說 乎
」に よ る
。 延 享四 年
(一 七 四 七)
、 第五 代 藩 主宗 孝 が人 違 い によ り 江戶 城 内 で殺 害 され た た め、 弟 の重 賢 が後 を 繼 ぐ こと と なっ た
。當 時 の 熊 本藩 は
、藩 主 一 族の 浪 費 と打 ち 續く 凶 作 によ り 極度 の 財 政難 に 陷っ て い た。 重 賢 は、 堀 平太 左 衞 門勝 名
(一 七 一 六~ 一 七九 三
) を大 奉 行に 拔 擢 して
、 堀と の 二 人三 脚 で「 寶 曆の 改 革
」 とい わ れる 藩 政 改革 を 斷行 し た
。そ の 改革 は
、 財政 に 止ま ら ず
、司 法
・文 敎
・ 農業
・ 產業 な ど廣 範 圍 に わた っ たが
、 藩 政改 革 を擔 う 有 爲な 人 材の 養 成 を重 視 した 重 賢 の發 意 で藩 校 設 立の 取 り組 み が開 始 さ れ た。 重 賢は
、寶 曆二 年( 一 七 五 二)
、堀 勝名 と 藩 儒秋 山 玉山
( 名 は儀
、字 は 子 羽
、儀 右 衞門 と 稱 す。 玉 山 は號
。 一七
〇 二
~一 七 六三
) に 命じ て
、熊 本 城 内二 の 丸に 學 館 を建 設 する 準 備 にあ た らせ
、 寶曆 四 年
( 一七 五 四) 十 二 月に 校 舍が 落 成 した
。 藩主 一 門 の家 老 長岡 内 膳 忠英
( 一六 九 九
~一 七 七二
) が總 敎
( 學 長) と なっ て 學 政を 總 理し
、 玉 山が 初 代敎 授 に 就任 し て、 寶 曆 五年
( 一七 五 五
)正 月 十三 日
、藩 主 臨 席 のも と に開 校 式 が擧 行 され た
。
- 5 -
(二
)時 習館 の 槪要 につ いて 時
習館 の 槪要 に つ いて
、舊 幕 時代 の 敎 育資 料 を集 成 し た『 日 本敎 育 史資 料( 三
)』
( 文 部 省總 務 局編
、 一 八 九〇 年
。) 及 び
『新 熊 本市 史
( 史料 編
)』 第 三 卷近 世
Ⅰ( 新 熊 本市 史 編纂 委 員 會、 一 九九 四 年。 以 下
、『 新熊 本 市 史( 史 料 編)
』と 略 稱) を も とに
、施 設・ 敎 職 員・ 生徒 數・ 經 費 の 側 面か ら見 て お こう
。 1
學 校施 設 につ いて 熊 本城 二 の丸 内 に 建設 さ れた 時 習 館は
、 東西 二 十 五閒
( 約四 五 メ ート ル
)、 南 北 七十 五 閒( 約 百三 五 メ ー トル
)の 校 域 を有 し
、西 側 に家 老・ 總 敎 等の 役 人部 屋
、南 側 に 蒙養 齋・ 句 讀齋
・習 書 齋 等の 諸 敎 場、 及 び 寄宿 寮 とし て 菁 莪齋
( 北寮
・ 中 寮・ 南 寮) が 配 置さ れ
、東 西 二 箇所 に は文 庫 を 設け
、 正門 を 入っ た 所 に 向か い 合う か た ちで
、 東榭
・ 西 榭の 演 武場 を 構 えて い た。 但 し、 藩 校に と っ て必 須 の 施設 で ある 聖 堂 は、 講 堂 の西 側 に基 礎 は 据え 付 けて あ っ たが
、明 治四 年( 一 八 七 一) の 廢校 ま で 建設 さ れる こ と はな か った
。
(
『日 本 敎育 史 資 料( 三
)』
、 二 一四 頁
) 2
敎 職員 に つい て 時 習館 の 文武 敎 育 及び 管 理運 營 の ため
、 次の よ う な職 が 置か れ て いた
。 學 政を 總 理す る 總 敎( 學 長) 一 名
(家 老 の内 か ら 一名 が 兼務
) の ほか
、 敎授 一 名
(但 し 適任 者 不在 の と き は缺 員 とな る
)
、學 校 方奉 行 三 名、 助 敎二 名
、 訓導 六 名、 句 讀師 十 名、 習 書 師四 名
、 算術 師 七名
、
- 6 -
音 樂 師一 名
、古 實 師 一名 が 置か れ
、 さら に
、武 術 師 範と し て、 各 流 派か ら
、馬 術 五 家、 居 合十 一 家( 四 天 流 三家
、 伯耆 流 四 家、 眞 道流 一 家
、新 心 無手 勝 流 一家
、 關口 流 一家
、 揚心 流 一 家)
、 薙 刀三 家
(揚 心 流 二 家、 古 流一 家
)
、劍 術 十六 家
( 新陰 流 四家
、 柳 生流 一 家、 當 流神 陰 流一 家
、 四 天流 二 家、 寺 見流 一 家
、 二天 流 兵法 二 家
、二 天 一流 兵 法 三家
、 雲弘 流 一 家、 新 陰流 兵 法一 家
)、 槍 術 五家
( 寶 藏印 流 二家
、 加 來 流三 家
)、 射 術 六家
( 竹林 流 二 家、 日 置流 一 家
、吉 田 當流 一 家、 吉 田流 二 家
)、 炮 術 九家
( 三破 神 傳 流 一家
、 大田 流 一 家、 隆 安函 山 流 一家
、 渡邊 流 一 家、 宇 田長 門 流一 家
、御 家 御 一流 石 火 矢竝 び に稻 富 一 火 流炮 術 一家
、 公 儀御 流 儀一 家
、 種子 島 流一 家
、 西洋 法 高島 流 一家
)
、軍 學 五 家
(北 條 流兵 法 二家
、 山 鹿 流兵 法 一家
、 楠 木流 軍 學一 家
、 謙信 流 軍學 一 家
)、 柔 術七 家
( 四天 流 組討 二 家
、揚 心 流柔 術 一家
、 當 理 流小 具 足一 家
、天 下 無雙 流 捕 手一 家
、竹 内 流柔 術 一家
、扱 心 流 體術 一 家
)棒
・野 太刀 一 家( 眞 道流
)、 陣 具 太鼓 一 家、 犬 追 物一 家
、游 泳 二 家が 置 かれ た
。 また
、 職員 と し ては
、 學校 役 人 四名
、 學校 橫 目付 三 名
、 學校 付 物書 七 名
、學 校 定手 傳 五 名、 學 校小 細 工 二名
、 騎射 場 犬 放役 二 名、 門 衞 一名
( 晝夜 交 番) が い た
。( 同 上、 二 一 三頁
) 3
生 徒數 に つい て 時 習館 の 生徒 の 槪 數は
、 講堂 生 が 約三 百 七八 十 人
、菁 莪 齋の 居 寮 生は
、 設立 時 に は十 七 名( 内 塾長 一 名
)
、嘉 永
・安 政 期 には 二 十七 名 で あっ た
。句 讀 齋 生徒 は
、設 立 時 には 約 四百 七 八 十人
、 後年 は 約五 百 人
、 同じ く 習書 齋 生 徒も 約 四百 五 十 人、 後 年は 約 五 百人 で あっ た
。 以下
、 算術 師 七 家の 生 徒約 百 人、 音 樂 師 の門 生 約三 十 人
、古 實 師 の門 生 約五 十 人 であ っ た。 武 藝 につ い ては
、特 に、 隆 盛 な流 派 の門 下 生 は、
- 7 -
五 六 百人 以 上も い て
、少 な い場 合 も 百五 十 人は 下 ら なか っ たと さ れ る。
( 同上
、 二 一四 頁
) 4
學 校經 費 につ いて 寶 曆五 年
(一 七 五 五) の 時習 館 設 立の 際 は、 學 校 經費 と して 時 習 館に 三 十人 扶 持
(五 十 四石
) が支 給 さ れ
、寶 曆 十三 年
( 一七 六 三) か ら は、 三 十人 扶 持 のほ か に銀 百 枚 が支 給 され た
。
(『 新 熊本 市 史( 史 料 編
)』
、 九三 六 頁
) ま た、 文 化三 年
( 一八
〇 六) に は 藩内 の 飽田 郡 上 松尾 村 梅洞 海 邊 に「 學 料新 地
」 の名 目 で新 田 を開 發 し
、 そこ か らの 收 入 をも っ ぱら 學 校 經費 に 充て た
。 さら に
、天 保 年 閒に は 同郡 海 路 口村 に も同 樣 の新 田 を 開 いて い る。 こ れ らの 新 田開 發 に 要し た 費用 は
、 すべ て 藩の 學 校 方の 用 金や 藩 主 の側 用 金を も って 支 辨 さ れて い た。
( 同 上、 二
〇一 頁
) 第二 節 時習 館創 立 者の 敎育 觀 本
節で は
、時 習 館 の創 立 に 關わ っ た二 人 の 人物
、細 川 重 賢 と秋 山 玉山 の 敎 育觀 に つ いて 見 て おき た い。
(一
)細 川重 賢 の敎 育觀 時
習館 の 第三 代 敎 授高 本 紫溟
( 一 七三 八
~一 八 一 四) は
、細 川 重 賢の 治 績や 言 行 をま と めた
『 銀臺 遺
- 8 -
事
』 のな か で、 重 賢 が非 常 に學 問 を 愛好 し たこ と に つい て
、次 の よ うに 述 べて い る
。 若
く まし ま しけ る 程 より
、 學文 を 好み 給 ひ
、常 に 書籍 を 遠 ざけ 給 はず
、 狩に 出 で 給ふ に も
、必 ず も た ら しむ
。 日ご と に朝 御 膳 すみ て は
、か な らず 書 を 御覽 あ り、 又 月に 六 度 の會 業 あ りて
、 近侍 の 人 々 を 召つ ど へて よ み 給ふ
。
(中 略
)さ れ ば 御一 代 に、 會 讀あ り た る書 籍
、經
・ 史
・子
・ 集數 百 卷に お よ べり
( 注 五
)
。 ま
た、 前 揭『 銀 臺 遺事
』 には
、 重 賢が 荻 生徂 徠
( 一六 六 六~ 一 七 二八
) 門下 の 學 者と 盛 んに 交 流し て い た とす る 次の よ う な記 述 もあ る
。 御
年 若く ま しま し し とき
、 服部 元 喬
、高 野 蘭亭 な ど召 し て
、詩 會 度々 あ りき
。 此 の人 々 をば
、 先生 と て 尊み 給 ふさ ま
、も ろ こ しに い へ る、 布 衣の 交 り のた め しな ど に やと 覺 えき
。 殊に 元 喬 は、 詩 の み に はあ ら で、 萬 の 事を も とひ は か らせ 給 ひけ れ ば、
「 贈 肥後 侯
」と て
、心 を つ くし て
、書 き た る も の など も あり
( 注 六
)
。 重
賢が 師 事し た 服 部元 喬( 一 六八 三
~ 一七 五 九。 號 は、 南郭
)と 高 野 蘭亭
( 一七
〇 四
~一 七 五七
)は
、 共 に 古文 辭 學を 主 唱 した 荻 生徂 徠 の 門下 で ある
。古 文辭 學 派 は、 朱 子學 や 伊 藤仁 齋 の 古義 學 を排 斥 し て、 古 文 辭の 研 究に よ っ て「 先 王の 道
」 を究 明 する こ と を主 張 した
。 特 に、 南 郭と 蘭 亭 は、 徂 徠死 後 の古 文
- 9 -
辭 學 派の 中 にあ っ て
、詩 文 を重 ん じ る文 人 集團 を 代 表す る 學者 で あ った
。 重賢 は
、 彼等 と の交 流 から 學 問 的 影響 を 受け た も のと 考 えら れ る
。重 賢 の遺 事 を 集め た
『銀 臺 拾 遺』
( 一名
『 肥 後藩 落 穗集
』
)の 中 に
、 重賢 が 秋山 玉 山 に語 っ たと い う 次の よ うな 言 葉 が見 え る。 若
き 者共 を 導き く れ るに は
、一 所 に橋 を かけ ぬ よ うに し て 向こ う の河 岸 に渡 し く れよ
。 川上 の 者は 川 上 の橋 を 渡り
、 川下 の 者 は川 下 の 橋を 渡 り行 か ば
、其 の 者共
、 廻り 道 なし に 才 能を な す べし
。 と に も かく に も河 向 こ うの 孝 悌忠 信 の 道に さ へ、 橋 をか け て もら へ ば吾 が 用に は 立 つべ し
。其 の 橋の 掛 所 は汝 が 心に あ る べし
( 注 七
)
。 こ
の重 賢 の言 葉 か ら、 家 臣一 人 一 人の 個 性を 尊 重 し、 改 革に 役 立 つ有 能 な人 材 を 育て た いと す る重 賢 の 意 圖を う かが う こ とが で きる
。
(二
)秋 山玉 山 の敎 育觀 秋
山玉 山 は、 享 保 八年
( 一七 二 三
)、 學 才を 認 め られ て 細川 藩 第 四代 藩 主細 川 宣 紀( 一 六七 六
~一 七 三 二
)の 中 小姓 と な るが
、 翌年 江 戶 に上 り
、昌 平 黌 で林 鳳 岡( 一 六 四四
~ 一七 三 二
)に 師 事し た
。『 先 哲 叢 談』 に 據れ ば
、 昌平 黌 では
「
( 鳳岡
) 先生
、 其
(玉 山
)の 才 學 を奇 愛 し、 講 說 の日 に 方り
、 己れ 疾 病 あ れば
、 玉山 を し て代 ら しむ
」
( 注 八
)
ほど の 俊才 で あ った と さ れる
。 また
、 玉山 は
、 詩文 を 通じ て
、
- 10 -
蘐 園 一門
( 徂徠 學 派
)と も 深く 交 流 し、
「 林門 に 出 でて 交 道甚 だ 廣 く、 蘐 園の 徒 に 於て
、 南郭
、 仲英
、 蘭 亭
、鶴 臺 が輩 と 尤も 歡 を なす
」
( 注九
と)
さ れ てい る
。玉 山 の學 風 に つい て
、時 習 館 の助 敎 を勤 め た 安 野 南 嶽( 一 七六 一
~ 一八 二 九) は
、 次の よ うに 述 べ てい る
。 玉
山 先生 は 久し く 林 家へ 行 て居 ら れ 候。 學 は古 注 を 本と し て新 注 を 廢せ ず と云 ふ 學 なり
。
(中 略
) 林 家 の學 は 新注 と 雖 も、 此 の邊 の 學 とは 異 なり
、 先 づ最 初 は『 二 十一 史
』や 古 注 など を 見 て、 力 づ き て 後、 新 注を 見 候 ふ事 な り。 是 も理 あ る こと な り。 こ の 邊の 程 朱學 は
、 ただ
『 大全
』 ば かり を 讀 む な り。 夫 れに て は 大い に 進む こ と は成 り 難し
( 注 十
)
。 こ
れを 見 ると
、 玉 山の 學 問は
、 古 注を 基 調と し な がら
、 朱子 の 新 注も 排 除し な い
、自 由 で包 括 的な 學 風 に よっ て 子弟 の 敎 育に あ たっ て い たこ と が知 ら れ る。 以 上か ら
、 重賢 と 玉山 が 若 いこ ろ から 徂 徠 學派 の 文人 と 交 流を も ち、 個 性の 伸 張 を肯 定 し、 漢 詩 文の 制 作 を奬 勵 する 自 由 な學 風 に親 し ん でい た こと が 確 認で き た。 第三
節
「時 習館 學 規」 の特 色 本
節で は
、秋 山 玉山 が 藩 校時 習 館の 學 則 とし て 漢文 で 書 いた
「 時習 館 學規
」( 以 下
、「 學 規」 と 略称
) の 條 文を 檢 討し
、 そ の思 想 的特 色 を 明ら か にし た い
。
- 11 -
な お、 今 日 傳わ る「 學 規」 には 十 三條 と 十 七條 の 二種 が あ る( 注 十 一
)。 十 三 條 の版 本 と して は
、『 日 本 敎 育 史資 料
(三
)
』
(二
〇 二~ 二
〇 四頁
) に收 錄 の もの が あり
、 十 七條 の 版本 と し ては
、
『新 熊 本市 史
( 史 料編
)
』( 九 一 一~ 九 二〇 頁
) に收 錄 のも の が ある
。 本節 で は
、閱 覽 の便 宜 上
、十 七 條本 を 定本 と し て 用い る こと す る
。ま た
、玉 山 は
、「 學規
」の 注釋 書 と して
、和 文の
「 時 習館 學 規科 條 大 意」
( 以 下
、
「 科 條大 意
」と 略 稱
)を 著 して い る ので
、 これ に つ いて も
、必 要 に 應じ て 採り 上 げ るこ と した い
。「 科 條 大 意」 の 定本 は
、
『日 本 敎育 史 資 料( 三
)』 に 收 錄の も のを 用 い る。 以 下、
「 學規
」 の 中か ら
、( 一
) 學業 課 程の 大 綱
、( 二
)學 生 の 成績 評 價及 び 罰 則、
( 三) 成 績優 秀 者 の 表彰 と
「知 行 世 減の 法
」に つ い て、 特 色的 な 條 文を 取 り上 げ て 檢討 を 加え る こ とと し たい
。
(一
)學 業課 程 の大 綱を 定め た規 定 時
習館 の 學業 課 程 に據 れ ば、 熊 本 藩士 の 子弟 は
、 十歳 前 後よ り 句 讀齋 に 入り
、 十 五六 歳 頃ま で 素讀 を 習 い
、倂 せ て習 書 齋 にお い て習 字 を 習う
。 素讀 が 修 了し た 者は 養 蒙 齋に 入 り、 さ ら に、 學 力が 進 むと 年 齡 に 關係 な く講 堂 へ 昇級 し た。 優 秀 な學 生 は、 二 十 歳前 後 で菁 莪 齋 に入 寮 を認 め ら れ、 そ の後 は 各自 の 能 力 と好 む とこ ろ に 從い
、 勉學 す る こと が でき た
。
(前 掲
『日 本 敎 育史 資 料( 三
)
』、 二 一〇
~ 二一 二 頁
) こ こで は
、學 業 課 程の 大 綱に つ い て、 前 文( 藩 校 設立 の 目的
)
、 第一 條
(句 讀 敎 授法
)
、第 二 條( 漢 文 敎 授法
)、 第 三 條( 經 書 講 義法
)、 第 四 條( 習 書 敎 授法
)、 第 五 條( 童 幼 指 導法
)、 第 六 條(
『 孝經
』
- 12 -
の 尊 重)
、 第七 條
( 學業 課 程)
、 第 九條
( 諷刺 論 文 の會
) の各 條 文 を取 り 上げ て 檢 討す る
。 1
前 文( 藩 校設 立の 目的
) 前 文の 冒 頭に は
、 藩校 設 立の 目 的 が次 の よう に 規 定さ れ てい る
。 維
れ 寶曆 五 年乙 亥 の 春、 我 が公
、 新に 學 館 を興 し
、扁 に
「 時習
」 と曰 ふ
。國 の 子 弟を し て 業を 其 の 中 に 肄は し む。
( 中略
) 尊 經堂 を 設け
、 敎授 及 び 訓道 官 を 置き
、 後生 を 誘掖 せ し む。 典 籍藏 す る 有 り
。 廩饌 給 する 有 り
。群 居 して 古 へ を稽 へ
、相 觀 て 善く す
「藏ぞう
し
、修おさ
め
、 息いこ ひ
、 游あそ び
」
(『 禮 記
』 學 記
)、
「 豫あらか
じ
め し、 時とき
し
、孫ゆずり
し
、摩みが き」
( 同上
)、 斯 に 絃 誦
げ ん し よ う
し
、斯 に揖 讓
ゆ う じ よ う
し
、又 從つ て 斯に 涵 泳
か ん え い
し、 其 の 耳目 を して
、 異物 に 觸 るる も 遷 らざ し むる は
、人 倫 を 敦く し 英才 を 育 て、 國 の用 に 供 する 所 以 な り
。( 維 寶曆 五 年 乙亥 春
、我 公
、新 興 學 館、 扁 曰「 時 習
」。 令 國之 子 弟 肄業 於 其 中。
( 中略
) 設 尊 經 堂、 置 敎授 及 訓 道官
、 誘掖 後 生
。典 籍 有藏
。 廩 饌有 給
。群 居 稽 古、 相 觀而 善
。
「藏
、 修、 息
、 游
」、
「 豫
、時
、 孫、 摩
」、 絃 誦 於斯
、 揖讓 於 斯
、又 從 而涵 泳 於 斯、 使 其耳 目 不觸 異 物 而遷 焉
、所 以 敦 人倫
、 育英 才
、 而供 國 之用 也
。
) 前
文に は「 人 倫 を 敦く し 英 才を 育 て、 而 し て國 の 用 に供 す る所 以 な り」 と あ り、 時 習 館の 設 立 目的 が、 藩 に 役立 つ 人材 の 育 成に あ った こ と が明 言 され て い る。 玉 山は
、 開 校に 先 立つ 寶 曆 四年
( 一七 五 五) 十 二 月 に「
( 學 校は
)人 材鎔 鑄
よ う ち ゆ う
の所 に て 候へ ば
、生 徒 の 才に 隨 ひ 敎育 勿 論 に候
」(
『新 熊 本市 史( 史料 編
)』
、
- 13 -
九 三
〇頁
) と述 べ て いる
。 江 戶時 代 の 身分 制 度の も と では
、 幕府 や 藩 に必 要 な人 材 は
、各 身 分階 層 から 身 分 に應 じ て 供給 さ れた か ら
、新 た な人 材 を 育成 し なけ れ ば なら な いと い う 觀念 は 乏し か っ た。 從 來の 藩 校 は、 金 澤藩 の 藩校 明 倫 堂 が「 四 民敎 導
」 を揭 げ てい た よ うに
、 武士 や 町 人・ 百 姓の 風 俗 敎化 を 目的 と し てい た
。こ れ に反 し て
、 時 習 館は
、 明 確 に 藩 に 役 立 つ人 材 を 養 成 す る こ と を目 的 と し て 作 ら れた こ と に 特 色 が あ った
(
注 十 二
)
さ 。 らに
、 前 文は
、 時習 館 に おけ る 敎學 の 大 綱を 次 のよ う に 定め て いる
。 其
の 敎へ は
、則 ち
「 文・ 行
・忠
・ 信」
、 其 の書 は
、則 ち
『 詩』
『 書』
『 易
』『 春 秋』
『 三 禮』
、 其 の 事 は、 則ち 禮
・樂
・射
・ 禦・ 書・ 數 なり
。( 其敎
、則
「文
・行
・忠
・信
」、 其書
、則
『詩
』『 書』
『 易
』『 春 秋』
『 三 禮』
、 其事
、 則 禮・ 樂
・射
・ 禦
・書
・ 數。
)
「 文・ 行
・忠
・ 信
」は
、
『論 語
』 述而 篇 の「 子 は 四つ を 以て 敎 ふ
。文
・ 行・ 忠
・ 信」
( 子以 四 敎、 文
・ 行
・忠
・ 信) を 引 く。 朱 子の
『 論 語集 注
』に は
、
「人 を 敎う る に 文を 學 び、 行 を 脩め て
、忠 信 を存 す る を 以て す るな り
。 忠信 は 本な り
」
(敎 人 以學 文
、 脩行
、 而存 忠 信 也。 忠 信、 本 也
)と あ る。
「 文」 は 古 典 の學 習
、「 行
」 は德 の 實踐
、
「 忠」 は 誠實 な 行 い、
「 信」 は 人 を欺 か ない 信 義 を指 す
。こ れ らの 徳 目 を 時習 館 の敎 え の 基本 に 据え
、 學 生が 學 ぶべ き 書 とし て
、『 詩
』
『書
』
『易
』
『 春秋
』
『三 禮
』の 五 經 を 揭げ て いる
。 さ らに
、 修め る べ き學 科 とし て
、 禮・ 樂
・射
・ 禦
・書
・ 數の 六 藝 を擧 げ
、四 書
(『 大
- 14 -
學
』
『中 庸
』『 論 語
』『 孟 子』
) を 擧げ て いな い こ とは
、 四書 よ り も五 經 を重 視 す る徂 徠 學派 の 影響 が う か がわ れ る。 2
第 一條
( 句讀 敎授 法) 本 條は
、 句讀 の 敎 授法 に つい て
、 次の よ うに 定 め てい る
。 先
づ『 孝 經
』『 論 語
』を 授 け
、次 に『 五 經』 諸 書に 及 ぶ
。皆 須 く 謹愼 聽 受す べ し
。進 退 安 詳に し て、 劇 談 大笑
、旁 聽に 聒かまび
す
し く 有る こ と母 か れ
。讀 書 の 法は
、眼 到 るを 要 し、 口到 る を要 し
、心 到 る を 要 す
。亦 た 必 ず遂 句 遂讀
す い く す い と う
、語 音朗 然 とし て
、平 上 去 入
ひ よ う じ よ う き よ に ゆ う
、四 聲 差は ず
、「 焉えん
・哉さい
・乎こ
・也や
」(
『千 字 文
』)
( 注 十 三
)
の 一 字 も漏 ら さ ず、 務 め て 背誦 に 躓 かざ る に 至 れば
、 則 ち 名づ け て
「三 到
」 と 爲す
。
( 中 略
)若 し 唔 吚含 糊
ご い が ん こ
、缺 伸 厭 倦
け ん し ん え ん け ん
、 席 を起 ち 堂を 下 り
、擧 止 草率
き よ し そ う り つ
、 履 舃
り せ き
亂 錯
ら ん さ く
する 者 に は罰 有 り
。其 の こ れ が 師爲 る 者も
、 亦た 須 ら く威 儀 を 整飾 し て、 後 進 を表 率 せん こ と を要 す べし
。 尸位 素 餐
し い そ さ ん
し て
、 因 り て 怠惰 を 生ず べ か らず
。( 先 授『 孝 經
』『 論語
』、 次 及『 五 經
』諸 書
。皆 須 謹愼 聽 受。 進 退 安 詳、 母 有 劇談 大 笑、 聒 於 旁聽
。 讀書 之 法、 要 眼 到、 要 口到
、 要心 到
。 亦必 遂 句遂 讀
、語 音 朗 然、 平 上去 入
、 四聲 不 差、
「 焉・ 哉
・ 乎・ 也
」、 一 字 不漏
、 務 至於 背 誦不 躓
、 則名 爲
「三 到
」矣
。
(中 略
)若 或 唔 吚含 糊
、缺 伸 厭 倦、 起 席下 堂
、 擧止 草 率、 履 舃 亂錯 者
、有 罰
。 其爲 之 師者
、 亦 須要 整 飾威 儀
、 表 率 後進
。 不可 尸 位 素餐
、 因生 怠 惰
。)
- 15 -
句 讀の 授 業は
、 は じめ
『 孝經
』
『 論語
』 から 始 め られ た
。「 科 條 大意
」 には
「 十 歳前 後 より 十 五六 歳 に 至 るま で の子 弟 を 訓ず
。『 孝經
』『 論
』『 孟
』『 學
』『 庸
』『 五 經
』及 び『 唐 詩類
』『 文 選
』に 限 る」
( 前 掲『 日 本敎 育 史 資料
( 三)
』
、 二〇 五 頁) と あ る。 句 讀を 授 ける 要 領 につ い て、
「 眼 到る を 要し
、 口 到る を 要し
、 心 到る を 要す
」 を 擧げ
、
「『 三 到』 と な す
」と し てい る
。 これ は
、漢 文 を 正確 に 背誦
( 暗 誦) す るこ と の 有用 性 を說 い た もの で ある が
、朱 子 が『 童蒙 須 知
』で 述 べ てい る「 讀書 に 三 到有 り
。心 到
、眼 到、 口 到 を謂 ふ( 讀書 有 三到
。謂 心到
、眼 到、 口 到
)」 を ふま え た 規定 で ある と 考 えら れ る。 ま た、 本 條は
、 句 讀生 に 對し て
、 唔吚 含 糊
ご い が ん こ
( 不 明 瞭な 發 聲)
・ 缺 伸厭 倦
け ん し ん え ん け ん
(缺 伸 な どの 倦 怠的 な 態度
)
・ 起 席下 堂
(勝 手 に 席を 起 ち、 敎 室 を出 る こと
)
・擧 止 草 率
き よ し そ う り つ
( 粗 雜 な振 る 舞い
)
・履 舃
り せ き
亂 錯
ら ん さ く
( 履 物 を亂 雜 に 脫ぎ 捨 てる
) 等 の行 爲 を禁 じ
、 反す る 者は 罰 す ると 定 めて い た
。 さ らに
、句 讀 師に 對 し ても
、威 儀 を正 し て
、後 進 の 模 範と な るべ き で あり
、尸 位 素餐
し い そ さ ん
( 祿 を食 み な が ら 職 務を 果 たさ な い こと
)( 注 十 四
)を 戒め て いた
。な お
、中 國 明代 の 法律 を 集成 し た『 明 會典
』(
『 四庫 全 書
』本
)( 注 十 五
)の 卷 一七 三「 國 子 監・ 監 規」 に「 尸 位 素餐
、因 り て 怠惰 す る べか ら ず
」( 不可 尸 位素 餐
、 因而 怠 惰) と い う條 文 が見 え る
。「 國 子監
・ 監 規」 は
、明 代 に おけ る 大學 の 就 學規 則 であ る が、 本 條 は
、こ れ に倣 っ た 規定 で ある
。 3
第 二條
( 漢文 敎授 法) 本 條は
、 漢文 の 敎 授法 に つい て
、 次の よ うに 定 め てい る
。
- 16 -
書 は 背誦 を 須もち ひ
、 誦は 華 音 を須もち
ふ
。否 ら ざ れば
、 則ち 四 聲明 ら か なら ず
、同 訓 相 混じ
、 字位 或 いは 易 は り、 助 語或 い は脫 し
、 以て 文 辭の 用 に 供す る に 足ら ざ るは
、 和讀 の 陋 なり
。 故に 書 は 背誦 を 必 し
、誦 は華 音 を 必す
。而 る 後、 齊
・楚 こ こ に化 し
、彼 此一 な り。
「 是れ 之 を 莊嶽 の 閒 に處 く
」( 注 十 六
の)
術 なり
。( 書 須背 誦
、誦 須 華 音。 否
、則 四 聲 不 明、 同 訓 相混
、字 位或 易
、助 語 或 脫
、不 足 以 供 文 辭 之用
、 和讀 之 陋 也。 故 書必 背 誦
、誦 必 華音
。 而 後、 齊 楚化 焉
。 彼此 一 焉、
「 是 處之 莊 嶽之 閒
」 之 術 也。
) 本
條は
、漢 語 で 書か れ た經 書 や 史書 を 讀む に は、 訓 讀( 日本 語 で 讀み 下 す) で はな く
、華 音( 中 國 語) に よ る暗 誦 を必 要 を 說い て いる
。 ち なみ に
、荻 生 徂 徠は
、 漢文 を 和 訓す る 弊害 に つ いて
、 次の よ うに 述 べ て いる
。 此
方 の學 者
、方 言 を 以て 書 を讀 み
、 號し て
「和 訓
」と 曰 ふ
。諸 を 訓詁 の 議 に取 れ り。
( 中 略) 但 だ 此 方 には 自 ら此 方 の 言語 あ り、 中 華に は 自 ら中 華 の 言語 有 り。 體 質本 よ り 殊な り
、何 に 由 りて 脗合
ふ ん ご う
せ ん
。是 を以 て 和訓 廻 環 の 讀み
、通 ず べき が 若 しと 雖 も
、實 は 牽 強 たり
。( 此方 學 者
、以 方言 讀 書
、 號 曰
、「 和 訓」
。 取諸 訓 詁 之議
。
(中 略
)但 此 方 自有 此 方 言語
、 中華 自 有中 華 言語
。 體 質本 殊
、由 何 脗 合。 是 以和 訓 廻 環讀
、 雖若 可 通
、實 那 爲牽 強
。
)( 注 十 七
)
徂 徠が 華 音主 義 を 主唱 し た理 由 は
、彼 が
「中 國 語
」と
「 日本 語
」 の違 い を本 質 的 なも の とみ て
、和 訓
- 17 -
に よ る漢 文 讀解 法 で は、 一 見意 味 が 通じ て いる よ う に思 え ても
、 原 典の 意 味内 容 を 無理 に こじ つ け、 歪 め る こと と なる と 解 した か らで あ る
。本 條 の起 草 者 玉山 も 徂徠 と 同 樣の 見 解で あ っ たと 考 えら れ
、こ こ で も
、玉 山 の學 風 が 古文 辭 學派 の 影 響を 強 く受 け て いた こ とを う か がう こ とが で き る。 さ らに
、 玉 山は
、 華音 の 導 入に 關 して
、
「 科條 大 意」 で 次 のよ う に說 明 して い る
。 我
が 藩、 幸 ひ に崎 陽 に 近し
。此 の師 を 置く こ と 難か ら ず
。『 延 喜 式
』大 學 寮 に漢 語 師 あり
( 注 十 八
)。 故 に 今こ の 師を 立 つ
。未 だ 其の 人 を 得ざ る がゆ え に
、ま づ 姑く 和 音に て 從 頭直 下 背 誦せ し む。 庶 は く は これ を 文辭 を 措 くに 脫 誤顚 倒 な から ん こと を
。 它日 か なら ず 譯 學を 置 くべ し
。 熊
本藩 は
、西 國 諸 藩と と もに 崎 陽
(長 崎
)に 常 駐 の役 所 を設 置 し てい た
。そ こ か ら玉 山 は、 長 崎の 唐 通 詞 の指 導 を得 て
、 漢語 師
(中 國 語 敎師
) を置 く こ とを 企 圖し た も のと 考 えら れ る
。し か し、 そ れが 實 行 に 移さ れ たか ど う かの 記 錄は 未 詳 であ り
、單 な る 提言 に 止ま っ た ので は ない か と 思わ れ る。 4
第 三條
( 經書 講義 法) 本 條は
、 講堂 に お ける 經 書の 講 義 につ い て、 次 の よう に 定め て い る。 經
義 に疎 通 せる 者 を 擇ん で
、每 月 三と 八 の 日を 以 て
、尊 經 堂に 於 いて 講 說 す。 必 ず襟 を 斂 めて 正 座 し
、從 容 と して 敎 諭 し、 主 に「 孝・ 弟
・忠
・信
」、
「 師 を隆 び
、友 に 親 しむ
」( 注 十 九
)の 說 を以 て す
- 18 -
べ し
。務 め は
、紀 綱秩 然 と して
、矜 式と 爲 す に足 る に在 り
。而 して 其 の堂 に 赴 き、 班 に 坐す る 者 は、 少 長 必ず 順 ひ
、尊 卑必 ず 序 す。 亦 須ら く 誠 心聽 受 す べし
。 傲慢 喧 聒
ご う ま ん け ん か つ
に し て
、禮 法 に乖 く こと 有 る を 得 ず
。違 ふ 者に は 罰 有り
。
(擇 經 義疎 通 者
、每 月 以三 八 日、 講 說 於尊 經 堂。 必 須 斂襟 正 座、 從 容 敎 諭
、主 以「 孝・ 弟
・忠
・信
」、
「 隆 師
、親 友」 之 說
。務
、在 紀 綱 秩 然、 足爲 矜 式。 而 其 赴 堂坐 班 者、 少 長 必順
、 尊卑 必 序
。亦 須 誠心 聽 受
。毋 得 傲慢 喧 聒
、有 乖 禮法
。 違 者有 罰
。) 時
習館 で は、 初 級 課程 の 句讀 齋
・ 習書 齋 から 蒙 養 齋を 經 て、 さ ら に、 學 力が 進 む と年 齡 に關 係 なく 講 堂 へ 昇級 で きた が
、 それ に 必要 な 學 力と し ては
、
『 孝經
』
『大 學
』
『中 庸
』『 論 語
』『 孟 子』 及 び『 五 經
』 の素 讀 を修 得 し
、『 左 傳』 を 獨 りで 讀 みこ な せ るよ う にな り
、 さら に
、經 文 の 意味 内 容を 多 少は 理 解 で きる よ うに な っ た段 階 とさ れ て いた
。
(前 掲
『 日本 敎 育史 資 料
(三
)
』、 二
〇 二頁
) また
、 講堂 に お け る講 義 内容 に つ いて
「 科條 大 意
」は
、 次の よ う に述 べ てい る
。 朝
五 つ 時よ り 始 む。 尊 經 堂 に於 い て す
。卽 ち 彝 倫堂
( 注 二 十
)
な り
。 敎授 こ れ を主 る
。 事 故あ れ ば
、 訓 導 官こ れ に代 る
。『 孝 經
』『 論
』『 孟
』、
『 詩
』『 書』 二經 を 循 環し て 講說 す べ し。 朱子
『 小 學』
『 白 鹿堂 學 規』 の 類 も時 あ つて 有 る べし
。 它の 經 お よび
『 學』
『 庸』 二 書の 如 き は、 汎 く聽 衆 に 施 し が たし
。 皆會 讀 正 業た る べし
。 時
習館 で は、 上 記 の講 義 が行 わ れ る講 堂 を「 尊 經 堂」 と 稱し て い たが
、 玉山 が そ れを
「 卽ち 彝 倫堂 な
- 19 -
り
」 とし た のは
、 中 國で 經 書の 講 義 をす る 場所 を
「 彝倫 堂
」と 稱 し たこ と をふ ま え ての こ とと 考 えら れ る
。『 明 會典
』卷 一 七 三「 國 子 監・ 監規
」に も「 彝 倫堂 に て 日に 直 し
、禮 儀 を 整 點し
、班 次 を序 立 す( 於 彝 倫 堂直 日
、整 點 禮 儀、 序 立班 次
)
」と の 條文 が 見 える
。 5
第 四條
( 習書 敎授 法) 本條 は
、 習書 の 敎授 法 に つい て
、次 の よ うに 定 めて い る
。 筆
論 に精 熟 せる 者 を 擇ん で
、蒙 穉
も う ち
に 誨ふ る に把 筆 法 及び
『 千文
』
『急 就 章』 等 の 書を 以 て す。 稍 長 ず れ ば、 古へ の 名法 帖 に 依 るを 要 す。 歐・ 虞・ 顏・
柳( 注 二 一
)、 唯だ 其 の好 む 所 なり
。( 擇 筆論 精 熟 者
、誨 蒙穉 以 把 筆法 及『 千文
』『 急 就 章』 等 書
。稍 長要 依 古名 法 帖
。歐
・虞
・顏
・柳
、唯 其 所 好。
) 習
書齋 の 生 徒は
、 句讀 齋 と 同じ く 十歳 前 後 の幼 少 年を 對 象 とし
、 授業 を 受け る 際 の態 度 に つい て
、次 の よ うな 定 めを 置 い てい た
。 務
め て机 案 の整 齊
、 筆硯 の 潔淨 を 要 す。
( 中略
) 若し 衣 裾 淋漓
い き よ り ん り
と して
、 窓壁 塗 汚 し、 狼 藉を 致 す 者 有 ら ば究 治 す。
( 務 要机 案 整 齊、 筆 硯 潔淨
。( 中略
)若 或 衣 裾 淋漓
、窓 壁塗 汚
、有 致 狼 藉者 究 治。
) 右
は、 惡 ふざ け を して
、 墨で 衣 服 を汚 し
、窓 や 壁 を汚 す 者は
、 罰 する と する 規 定 であ る が、 一 方で
、