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― 延 慶 本 平 家 物 語 の 古 態 性 の 検 証 ―

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(1)

﹁大塔健立﹂と﹁頼豪﹂ 

︱延慶本平家物語の古態性の検証︱

井 正 之 助

 標題の章段名は覚一本のものであるが便宜上これを用いる︒右

二章段は平家物語巻筆において︑中宮徳子の﹁御産﹂の付属説話

として︑今度の皇子誕生が清盛の信仰する厳島大明神の利生によ

ること︵大塔建立︶及び︑過去の皇子誕生にまつわる怨霊の恐ろ しさの事例︵頼豪︶を語るものである︒ところが︑諸本の中にあ

って延慶本・盛衰記の二本のみ︑ ﹁大塔建立﹂を巻四︵覚一本の

巻数で表示︒以下同様︶の﹁厳島御幸﹂に関連して述べている︒

小稿は︑中でも延慶本のこの構成が何を意図し︑諸本の本文流動       ユ  の中でいかなる位置を占めるのかを明めようとするものである︒

類は後出本と思われる︵後述︶ので︑まずω②㈹の三本を比較す

る︒  延慶本の本文は次のようである︒

  三月十七日新院安芸の﹈宮⁝厳島社へ御幸なるへきにて有ける   ㌔東大寺興奪山門三井の大衆京へ可打入之編て・京中

  騒げれは︑御幸俄に思召止らせ給にけり︒ ﹃帝王位をさらせ

  をはしまして後︑諸社の御幸初には八幡賀茂春日平野なとへ

  御幸有てこそ何の社へも御幸あれ︑いかにして西のはての島

  国にわたらせ右書へ御幸なるやらむ﹄と人あやしみ説けれ    @   は︑二人申けるは﹃白河院は位をさらせ給て後先熊野へ御幸       ノ  に  ぬ    に  と   有き︑法皇は日吉へ参らせ給︑先例如レ此既知叡慮在     を   云事其上御心申に深き御願あり︑又夢想の告も有なむとそ

  仰有ける︑此厳島社をは入道相国頻に崇め奉られけり︑彼社

  に内侍とて有ける巫女まてももてなし愛せられけり︑

 巻四の厳島御幸の記事︵﹁還御﹂を含む︶は︑ω延慶本︑②長

門本︑團四部本︑㈲盛衰記︑㈲平松家本・鎌倉本・竹柏園本︑㈲

覚一本・百二十句本の以上六類に分けられる︒屋代本は欠巻︒㈲

㈲は厳島御幸の帰路を叙する部分に異同があるが︑小稿で扱う範

囲では殆んど同文であり︑覚一本に代表させる︒この中︑ω⑤㈲

﹁大塔建立﹂と﹁頼豪﹂︵今井︶ 入道殊に厳島を崇給ける由来は⁝          ︵大塔建立︶

:朝恩に飽き満廷へり︑

か\りけれは上には御害心の由にて下には明神の鴻儒にて入

二九

(2)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二九号

  道謀叛の心も和さやすると思召て御祈請の為に八幡賀茂より

  も先に厳島へ更せ給﹄とも云へり︑是は法皇のいっとなく打        ㊦   籠られて渡せ給御事を歎思召ける余にや︑猿程に山門南都の

  大衆も静りけれは厳島御幸遂させをはしますへしと聞けり

  ︵﹃ ﹄﹄H一傍線は今井︶

長門本も延慶本とほぼ同文であるが︑一Hで囲った﹁大塔建立﹂

を巻舌に置いており︑ ﹁⁝もてなし愛せられけり︑か\りければ

⁝﹂と文章が続くわけである︒その他︑目立つ異同は︑傍線④を

﹁東大寺興福寺園城寺﹂︑◎を﹁南都三井寺﹂とすること︑◎を

欠くこと︑の二点である︒◎の欠文は意味に差異を及ぼさない

が︑前者︵④で山門を省き︑⑤で山門を三井寺にすりかえている ごと︶には特定の意図が働いていると思われる︒厳島御幸の噂を

前に︑山門の大衆のみが静観していたとは考え難く︑ここは長門          ︵2︶ 本の改変の結果とみる︒

 前掲のように︑延慶本の構成はやある人の︿なぜ先例を破って

までして高倉院は厳島へ参詣せんとするのか﹀との疑問に答え

て︑別人が︿洛外への参詣も全く先例のないことではない︒しか

も今回の厳島御幸は︑清盛の心を和らげるという格別のお考えが

あってのことなのだ﹀と述べた︑というものである︒これに対 し︑四部本は         ︵ママ︶   三月十七日には同院安芸の国一の宮厳島の社へ御幸有るべき

  にてありけるが︑ ﹃心墨の後は先づ八幡賀茂へこそ御幸なる

  に︑厳島への御幸は存外なり︑打ち留め奉るべき﹄由を︑東

  大寺・興福寺・山︵門︶・園城寺の大衆一同に憤り申しけれ        ︵3︶   ぱ︑俄に留らせたまひぬ︒

とあり︑延慶本のある人の疑問に相当する部分が︑大衆の反発の 三〇

言葉としで示されている︒これを実質的に受ける形で

  此事を人如しみ︵申しければ︑又人申しけるは︶ ﹃白河の院

  先づ熊野へ御幸成る︒後白︵河の院は日吉へ︶御幸成る︒先    かく   例是のみ有れば︑思食し准へたまふにや﹄とそ申しける︒

という回答が続く︒ ﹁俄に留らせたまひぬ﹂という文章に続けて ﹁些事﹂とするのも誤解を招きやすく︑適切な形とはいえない

が︑四部本では︑先例を無視したこと・月体を問題とし︑これに

く必ずしも先例に準じないことではないVという回答がなされて

いるのである︒しかし︑局外者である﹁人﹂にとって︑先例の如

何よりも︑なぜ特に厳島が選ばれたのかという事こそ興味の的で

ある筈だ︒事実︑四部本もこの後︑その疑問への答とみなすべき

発言を持つQ

  ﹃此の社を太政の入道の頻に崇め奉る上︑彼の社に在る巫女    もてな   を賞し愛せられければ︑神明の御計ひにて︑謀叛の心も和ぎ    す   や為るとて︑御祈請の為に︑八幡賀茂より先に参らせたま

  ふ﹄と云ふ︒

ところが︑ ﹁隠亡﹂の解説の一部としてこの旨を示す延慶本と異

なり︑既に問答の完結している四部本にあってはこれは些か唐突

である︒しかも四部本はこの間︵﹁⁝とそ申しける﹂と﹁此の社

を⁝﹂の間︶に

  都を︵立ち離れ︶︑八重の塩路を︵凌ぎつ\︶︑遥々と在る

  安芸の国へ思食し立たせたまふ御薦の︵深さ︑神︶明も何ど

  か哀れと三食さざるべき︒御願成就疑ひ非じとそ覚えし︒

との話者の感懐を挿んでおり︑弥々会話の体をなしていない︒右

の文章を延慶本は︑高倉院が厳島へ赴く途中︑鳥羽幽閉中の後白

河法皇と会った後︑船出する部分におく︒

(3)

  上皇は法皇の離宮の故亭幽閑の寂莫たる御すまみを御心苦く

  見置きまいらせ給へは︑法皇は又上皇の旅泊の行宮船の中浪

  の上の御有様を労しく︹思ひやり参らせおはします︑互の御

  心中いつれもくあはれにかたじけなし︒一脱文︑長門本ニ

  ヨリ補ウ︺誠に宗廟の八幡加茂を奉レ三都を立離れ八重の塩

  路を凌つ\遥々と安芸国まて思食立けむ寸志の深さをは争か

  神明の御納受も無らむ︑御願成就無疑とそ覚えし︑

上皇・法皇の心中を述べきたり︑それをひきとって話者が感懐を

もらすという延慶本の展開は極めて自然である︒又︑四部本の位

置では︑まだ高倉院の志が述べられていない故︑ ﹁御願成就疑ひ       ︵4︶ 非じ﹂とある内容が不分明であるという点でも問題が残る︒更

に︑以下の部分︑特に◎と⑤の文体の不統一はどうか︒

  是も法皇何つと葺く打緩められ御在す御事を思食し歎かせた       ④      @1   まふ余りにやと︑哀れに掻くそ覚えし︒又御夢想の告有りと        また       ㊦   仰せらる︒復入道の崇め奉りたまへば御同心の由と云ふ︒此        ㊥   の理を以て大衆を菟角誘へ仰せられ︑尚十九日に御願を果さ

  剤︒

﹁又御夢想の告有りと仰せらる﹂は延慶本で﹁又人﹂の発言中に

﹁又夢想の告も有なむとそ仰有ける﹂とあるもので︑前後の文体

と比して問題はない︒ ﹁復入道の⁝御同心の由と云ふ﹂も延慶本

では同じ発言中に﹁か\りけれは上には御同心の由にて下には明

神の御計にて⁝﹂とあり︑四部本のぎこちなさは︑延慶本のよう

な筋の通った文章からの寄せ集めの結果という感が強い︒

 以上︑本文批判的にみて︑四部本に問題が多いのであるが︑な

ぜこうした文章構成が生じたかについては︑次のような延慶本の

﹁大塔建立﹂と﹁頼豪﹂ ︵今.井︶ あり方を前提にすると説明が容易である︒   ﹃  ﹄と人あやしみ申けれは   又入急けるは﹃

︵大塔建立︶

﹄とも云へり︒

つまり延慶本では﹁又人違けるは﹂の結びが﹁とも云へり﹂なの

であるが︑一日ぞ囲った﹁大塔建立﹂は活字本で三十四行にも及

ぶため︑四部本はこの呼亦を見逃がし︑一目あ前で﹁又人﹂の発

言を閉じてしまった︑と考えられるのである︒或は︑四部本の意

図を積極的に推測すれば︑︿なぜ先例に従わないか﹀という世人

の発言を︑御幸中止を叫ぶ大衆のものに改変した︵それは一応意

味のないことではない︶結果︑回答もそれに対応する部分で区切 られることになったものだろう︒後者の場合︑長門本から四部本

へという展開もありえぬことではないが︑四部本の詞章が延慶本

により近いことを併せ考えれば︑四部本の先行本文として延慶本

の形を想定するのが妥当と思われる︒

    ※

 さて︑盛衰記も延慶本と同じく巻四の﹁厳島御幸﹂に関連して ﹁大塔建立﹂を述べるが︑位置を異にし︑厳島から還御なった後

にまとめている︒後述のように詞章のあり方はむじろ四部本に近

いので︑これと対比して示す︒

   四部本

①新院厳島御幸を企つ

②霊寺の大衆く先例にない八幡    盛衰記

②④山門の衆徒く八幡賀茂なら

ノ   ノ

=二

(4)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二九号

賀茂以外への御幸を打留めん﹀

とす︒ ③御幸中止

④慰事を惟しむにく熊野日吉へ の御幸の例もあれば︑これに準 ずるか﹀との世評あり︒

⑤﹁都を︵立ち離れ︶︑八重の 塩路を︵凌ぎつつ︶遥々と在る 安芸の国へ思食し立たせたまふ 御志の︵深さ︑神︶明も何どか 哀れと給食さざるべき︒御願成 就疑ひ非じとそ覚えし︒﹂ ⑥︿厳島は清盛の崇敬篤けれ ば︑神明の計により︑清盛謀叛 の心和らぐかとて御幸あり﹀と

の見解あり︒

⑦是は法皇の幽閉をお歎きの故

と思われる︒

⑧﹁又御夢想の告有りと仰せら

る︒﹂ ⑨﹁復入道の崇め奉りたまへば 御同心の由と云ふ︒﹂ ⑩新院︑大衆を誘へ御幸を果

す︒ ⑪新院︑幽閉中の法皇と対 面︒三月十九日半ら四月九日 に及ぶ厳島御幸︒

⑫辻風 ⑬安徳天皇即位

⑪ ずは︑熊野日吉に御幸あるべ きに︑これを無視しての御幸 を中止させんVと蜂起す︒

⑤﹁新院都を立離れ︑八重の塩  路を遥々と思し召し立つ御  志︑神明も争か御納受なかる  べき︒御願成就︑疑あらじと

 そ覚えし︒﹂

ノ   ノ

⑦⑥︿法皇の幽閉を歎き︑此等  明神に祈れば︑清盛謀叛の心  も和らぐかとて御幸あり﹀と  申す人もあり︒

⑨⑧﹁又入道の崇め給へば御同  心なる御色をあらはし御座す  にこそと申す人も有りげれど  も︑世間には御夢想のつげ故  とそ披露しける︒﹂

︵α︶﹁大塔建立﹂

︵β︶﹁厳島縁起﹂

三二

上表の②④は延慶本・長門本ではいずれも世人の問答となってい

たものであること︑⑤が延長両本では﹁誠に宗廟の八幡加茂を奉レ

閣都を立離れ⁝﹂とあることなどに明らかなように︑盛衰記は四

部本と密接なつながりをもつ︒しかし⑤﹁遥々と思し召し立つ御

志﹂︑⑦﹁此大明神に祈り申したらば﹂という表現は還御後のも

のとしては不適当である︒盛衰記の意図としては︑穏密に御幸を

決行し︑後︑披露したということなのであろうが︑⑪の法皇と

の対面に既に﹁法皇は︑此の身のかく打覚められたることを痛く

歎かせ給ふなるに合せて︑祈誓せさせ給はん為にこそと御心得有       ノ   ノ りけるに﹂とあってみれば︑盛衰記の⑦⑥は間が抜けていると評

さねばなるまい︒従って盛衰記の本文が四部本より後出と判断す

る︒  更に︑︵β︶﹁厳島縁起﹂は長門本にのみ見られるものであるこ

︵5︶ 一 と︑︵α︶﹁大塔建立﹂の清盛の従者の名前は︑家貞︵延慶本︶︑

富祐︵長門本︶︑日勤︵四部本︶と異なる申で︑長門本に同じで

あるなど長門本との関連も窺える︒これをもって全体を推すは慎

重を要するが︑盛衰記は延慶本・長門本・四部本の集大成本的性         格が濃いように思う︒

    ※

 覚一本の構成は次のようである︒

①上皇厳島御幸の噂あり︒

②世人く先例にない安芸国までの御幸はいかにVといぶかる︒

③或人の申すにはく熊野日吉への先例もある︒平家の崇敬篤い厳  島に詣で︑表面は平家に同心︑内心は清盛謀叛の心を和らげん

 との祈念のためVとのこと︒

④山門大衆いきどおり︑ ﹁石清水・賀茂・春日へならずは︑我山

(5)

 の山王へこそ御幸はなるぺけれ︒安芸国への御幸はいつの習ぞ

 や︒其儀ならば︑神輿をふりくだし奉て︑御幸をとゴめたてま

 つれ﹂と愈議す︒これによってしばらく御幸延引︒

右①②③の構成は延長両本に近い︒但し︑④の大衆反発がこの位

置にあったのでは︑③の漁人の説明の甲斐がないことになり︑延

長系本文より後出であろう︒③に﹁御心中にふかき御立願あり︒

其上此厳島をば⁝﹂とある﹁其上﹂は︑延慶本・長門本は﹁其上

御心中に⁝﹂と置くものである︒ ﹁御立願﹂と﹁此厳島⁝﹂以下

に記される﹁御祈念﹂とは同内容の筈であり︑延長両本に無理が

ない︒一方︑④は四部本・盛衰記︑特に後者に近い︒盛衰記につ

いては逆に覚一本系本文の影響ということも考えられるが︑右の

範囲では︑延長︑前盛両系統の編集本文であることを思わせる︒

    ※

 以上︑文章構成を中心として延慶本の古態性を浮かび上らせて

きたのであるが︑延慶本に全く問題がないわけではない︒

 ﹁大塔建立﹂に清盛の郎従として﹁平左衛門京家貞﹂なる人物

が登場するが︑前にも触れたように長門本は﹁肥後守貞能﹂︑四        部本は﹁盛国﹂と異なる︒高野大塔完成は史実では久寿三15年の       4       ︵7︶ − こと︒応徳元08年に生まれた家立は当時七十三歳半老齢︒あり得       ユ ぬことではないがこっそり跡をつけるなどの行動からは貞能        ︵8︶ もしくは盛国がふさわしい︒又︑官職を﹁左衛門尉﹂とするが︑        家貞は巻一﹁殿上闇討﹂で忠盛の家人﹁左兵衛尉﹂として登場︑

以後も左衛門尉と呼ばれた痕跡はない︒他方︑盛国は左衛門尉に

任じており︑これと関連があるか︒しかも︑盛国は厳島とのつな

がりの深かったことが知られており︑本説話にふさわしい登場人    ︵9︶ 物といえる︒長門本の貞能も表面上は問題ない︒

﹁大塔建立﹂と﹁頼豪﹂ ︵今井︶            もう一件は︑﹁黒影たらをは法皇の召仕はせ給ける三尊是を奉レ     書︑西万たらをは清盛自筆に奉レ書とて八葉の九尊をは我脳の血 を出して奉レ書﹂とあること︒ ﹁八葉の九尊﹂ ︵長門本﹁八葉九 尊宝冠﹂︑四部本﹁八葉の九尊を書かれけるが︑中尊の宝冠を ば﹂とある︒脳の血で彩色可能な量を考えれば︑四部本の形︑も しくは屋代本のように﹁八葉の中尊の宝冠﹂とあるのが適切︶を        ・         ︵10︶ 描くのは︑胎蔵界曼奈羅即ち東下奈羅であり︑斯様の誤りを犯し ているのは︑今回対象とした諸本中︑延慶本のみである︒       け   猶︑白石一美氏に以下の論がある︒ ﹁安芸の厳島︑越前の気比 の宮は︑両界の垂迩で候が︑気比の宮はさかえたれ共︑厳島はな きが如に荒はてて候﹂ ︵覚一本︶という記述を﹁後出本である中 院・文禄︑長門・延慶等の諸本﹂は気比を金剛界に︑厳島を胎蔵 界にと割振.ているが︑本来これは﹁両社何れも外宮齢内晶の 二元構成﹂の意に解すべきものである︑との事︒しかし︑ ﹁越前 のけひの社はこんがうかい︑安芸のいつく島はたいざうかいなり ﹂ ︵保暦三富︶という記述があるし︑ ﹁後出本﹂以外の平家物語 においても︑ ﹁此︵厳島ーム.井注︶大明神ト申ハ︑娑端羅竜王第 三姫宮・胎蔵界ノ楽書ニテ御坐ス﹂ ︵屋代本巻二︶︑ ﹁申二彼ノ明  ト 神一者娑端羅竜王第三姫宮本地ハ大日如来也﹂ ︵闘諦録第一下︶と いう表現がみられる︒気比厳島両社が外宮内宮の二元構成をとる ことは氏の御指摘通りと思うが︑ここは︑高野を中心とする両界 の垂迩が各々気比︑厳島であればこそ︑その一方でも衰退してい         ては困る︑と言っていると読みとるべきではないか︒ ﹁日本国之 大日如来ハ伊勢大神宮ト安芸之厳島也﹂ ︵古事談五︶という叙述 も同様であり︑伊勢︑厳島が各々内外二元構成をとっていること を指すとしたのでは却って不自然であろう︒立場により︑気比1

三三

(6)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二九号

厳島︑伊勢一厳島という金胎の割振りがあったものではないか︒ いずれにせよ︑この点は︑いま論じている延慶本本文の疑点には

数えない︒

 また︑延慶本﹁大塔建立﹂の独自記事に以下のものがある︒厳

島の造進を終えた清盛が﹁朝の御守と成者﹂の持つべき﹁節度と

云剣﹂を与えようとの託宣を得︑その夜の夢に明神から﹁銀の蛭

巻したる小長刀﹂を賜わるとみて覚めると︑現実に枕の壁にたて

かけてあったというのである︒これは四部本︑屋代本等にはみら

れない︵長門本は﹁今夜夢に財をさずけんずるぞ﹂と託宣を受け

﹁白がねのひる巻したる小長刀﹂を賜わる︶︒この説話は周知の

ように次の二箇所にも関連する︒巻数順に﹁大塔建立﹂の説話を

◎︑他を④⑤と示す︒

④﹁そのかみ安芸守にて神拝せられける時︑厳島社より霊夢を蒙

 て儲られたりける白金の蛭巻したる秘蔵の手鉾の常に枕を放た

 さりける脇に由みて中門の廊につと出て被レ立たり﹂︵第一末︑

 覚一.本巻二﹁教訓状﹂相当箇所︶ ︹長門本ほぼ同文︒四部本田

 巻︒屋代本傍線部﹁秘蔵ノ手鉾銀ノ蛭巻シテ﹂︺

◎㈲﹁末座に御坐ける人 ︵厳島大明神一A︐井注︶を呼奉て︑ 一座

 に御坐ける人のゆ\しく気高けなるか宣けるは︑日来清盛入道

 の預りたりつる御剣をは被召返するにや速可レ被二召返一︑彼の

 剣は鎌倉の右兵衛佐頼朝に可レ被レ預也と被レ仰︵中略︶﹂

 ㈲﹁太政入道日来は大将軍として朝敵を退けしかとも今は勅定

 を背によって節刀を被召着けるにや﹂ ︵第二中・覚一本巻五

 ﹁物怪之沙汰﹂相当箇所︶ ︹長門本⑤㈱傍線部﹁このほど清盛

 入道に預け給ふ所の剣﹂︑㈲ナシ︒四部本﹁日来太政入道に預

 け五つる剣﹂︑働ナシ︒屋代本﹁面立来平家二預ラレタリツル 三四

 節刀﹂︑㈲アリ︺

右の④◎◎三箇所のつながりについては︑質倉徳次郎氏︑佐々木         ︵12︶ 八郎氏に論があるが︑中でも佐々木氏は︑延慶本が④において

﹁手鉾﹂としながら◎に﹁小長刀﹂と相違する点を問題として︑

延慶本@の説話は﹁清盛が厳島大明神の霊夢を蒙って神刀を賜わ ったというような説話が先に挿入され︑後日になってこれにもと

づいて追補されたものであるようにも推測されるのではあるまい

か﹂としている︒しかし︑清盛が神刀を賜ったことをいう記述の

中︑ ﹁説話﹂と呼ぶべきは延慶本の◎のみであり︑この存在を前

捉として④◎の記述があるとみなすのがより適切ではないか︒し

かも﹁節度と云剣﹂ ﹁銀の蛭巻したる小長刀﹂ ﹁白金の蛭巻した

る手鉾﹂の三者は︑実は同一の・ものと考えてさしつかえないよ

うに思われる︒手鉾は﹁片手で持てる位の短い鉾︒小さな薙刀

(励

o) フ類﹂︵岩波古語辞典︒日本国語大辞典は日葡辞書の目Φげooo

チイサイナギナタを示している︒︶とあり︑問題の﹁小長刀﹂即

ち﹁手鉾﹂と考えてよさそうである︒また︑ ﹁節度と云剣﹂を与

えるという託宣を得て﹁銀の蛭巻したる小長刀﹂を賜わったので

あるから﹁節度と云剣﹂ ︵節刀︶と﹁小長刀﹂を同一物.とみてい

ることがわかる︒ ﹁節刀﹂と﹁小長刀﹂の結びつきは︑右の﹁小

        長刀﹂即﹁手鉾﹂という考えと︐左の︑かって﹁矛﹂を﹁節﹂と

したという記事とを併せると成りたつように思う︒ ﹃標注令義解

校本﹄ ︵増訂故実叢書︶に﹁謂七節者︒辱無二施牛尾一項之︒使者ノ        ナリト 所レ擁スル也︒今以二刀剣一代.之︒故二日二節刀↓︒点描名実相異一︒

其所.レ用ル者一也︒﹂を注して

  さて此施牛尾を節にせし事︑皇国には太古より所見なし︒

 ・︵中略Y皇国にては沸唐虞の外︑別物を給へる事はあらずp

(7)

  その内太古は皆矛也6古事記倭武命東征の件に︑給二比比羅

  木之八尋矛一とある︒まさしく将軍擁節の始也︒こを書紀に

  は斧鍼とか\れたれど︑こは文を飾たるなれば︑猶この二字

  をも︑伝の説に従て保古と訓べし︒後に其矛を剣にかへられ

  たり︒

とあ︐る︒つまり︑かって﹁節﹂が﹁矛﹂であった記憶が︑平家物

主㎎の伝承にも反映しているのではないか︒とすれば︑ここに﹁小

長刀﹂即﹁手鉾﹂即﹁節刀﹂という連環が成立し︑ ﹁大塔建立﹂

の小長刀説話も延慶本の増補ではなく︑むしろ四部本︑屋代本の

省略とみなすべきものと考えられる︒

    ※

 述べてきたように延慶本にも問題はある︒しかし︑これを前述

の文章構成からする延慶本の古態性の論と同じ比重をもって扱お

うとは思わない︒延慶本の古態性の他本に優る点は︑小稿でもそ

の一端を確認してきたように︑大幅な略述︑改変などを経ていな い本文の素性の良さにあり︑現存諸本を素材として原態に遡及し

ようとするとき︑主軸に据えるべきは︑いくつかの問題点を孕み       ︵13︶ ながらもなお延慶本をおいて露ないと思われるからだ︒

    ※

 延慶本が他と異なって︑ ﹁大塔建立﹂を高倉院の厳島詣に関連

づけて述べている意図を確認しておく︒平家物語において平氏の

圧政下︑厳島に詣でたいま一人の人物が周知のように徳大寺実定

である︒実定の目論は︑清盛の崇敬篤い厳島に感ずれば︑感激し

た清盛によって﹁我愚奉所の厳島の大明神に参給たりけるこさむ

なれ︑争か神の御威光をは失進へき︑大将に進ぜよ﹂と事が運ば

れるであろうという所にあり︑予想通り実現をみる︒ここでは参

﹁大塔建立﹂と︐﹁頼豪﹂ ︵今井︶ 詣は︵神明の利生をではなく︶清盛その人への効果を狙ってい た︒これに対し︑高倉院の厳島詣は   上には御同心の由にて下には明神の御払にて入道謀叛の心も   和さやする とあるように︑上︵表面︶の︑厳島を同じく崇敬することにより 清盛の心を動かすよりも︑下︵内心︶の︑明神の力により直接清 盛の悪心を鎮めてもらうことをこそ期待したものである︒従っ       ︵14︶ て︑この巻斗において︑ ﹁清盛の運命を支配する﹂神としての厳 島と清盛のつながりを是非とも語っておく必要があったのであ る︒延慶本の﹁大塔建立﹂が再三﹁そも︵清盛の繁栄もーム.井庄︶

一期そよ﹂と強調するのもそのためであると考えられる︒

 巻三に目を転じる︒水原一氏﹃平家物語上﹄ ︵新潮日本古典集     成︶2頁補説に以下の見解が示されている︒       皇子誕生は清盛の切願であった︒清盛はこのことを厳島に祈

  願した︒厳島は清盛が修復し信仰した神である︒なぜそうし

  たかという文脈で紹介される高野山大塔建立︑弘法大師化現

  の話は︑理屈は分るが︑御産記事の付属談としては余剰に過

  ぎる︒諸本みな同様だが︑延慶本のみは︑巻四の初めに︑高

  倉院が譲位後異例の厳島参詣をする記事に付属させている︒

  それが納得ゆく古態であったろう︒

古態の結論としては同意するが︑ ﹁余剰に過ぎる﹂かどうか︒

﹁大塔建立﹂を厳島利生輝としてとらえる限り︑多くの諸本のよ

三五

(8)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二九号

うに︑清盛の厳島祈請の結果皇子誕生があったとする記事に続け

るのが自然であろう︒

 又︑皇子誕生の類話として収録されているかにみえる﹁頼豪﹂

を︑延慶本・長門本・盛衰記の三本は﹁頼豪よしなき妄執に馨れ

て多年の行業を捨て畜趣の報を感じけるこそ悲けれ︑よく慎むへ しく﹂と頼豪そのものに関心を寄せて︑結んでいる︒日本古典

文学大系﹃平家物語上﹄巻三校異補記13の言うように︑延慶本等

のあり方は﹁説話集ノ体裁二堕﹂ちているとも評しうる︒

 従って︑本項では︑前項で欠巻のため扱えなかったこともあ

り︑右の観点からみたとき最も問題の少ないかに思われる屋代本

のあり方をまず検討する︒

 屋代本は﹁頼豪﹂を﹁中島モ后腹ノ王子ハアラマホシキ御事也

・間近クハ白河院御在位ノ時⁝﹂と始め︑ ﹁承暦三年七月九日・

御産平安王子御誕生有・掛恭ク堀河天皇御事也﹂と語りおさめ

る︒この説話め外枠のみをみると︑屋代本の﹁頼豪﹂は后腹の皇

子誕生の佳例を語って問題がないかのようであるが︑該説話につ

いて﹁単なる類例説話の域をこえて︑問題の新生の皇子の将来を       ︵15︶ 予見するように不吉である﹂との指摘があるように︑説話固有の

モチーフが頼豪の怨霊謹にあることは否あず︑結果︑奇妙な異和

感を覚えさせるのである︒覚一本︵鎌倉本・竹柏園本・百二十句

本も同然︶が

  承暦三年七月九日︑御産平安︑皇子御誕生急けり︒堀河天皇

是也︒怨霊は昔もおそろしき事也︒今度さしも目出たき御産

に︑大赦はをこなはれたりといへ共︑俊寛僧都一人︑赦免な

  かりけるこそうたてけれ︒

という結びを付加したのも︑自然の勢であっただろう︒ しかし︑ 三六

注意しておきたいのは︑覚一本のこの結文が単に傍系潭から本筋          ︵16︶ の話へ戻すための工夫というにとどまらぬことである︒覚一本等

は右の付加と同時に︑他方では﹁中皿モ后腹ノ王子ハアラマホシ

キ御事也︑間近クハ﹂という屋代本にある導入文を省いており︑

これにより︑かつて怨霊の扱いを誤ったために不幸︵素量親王の

死︶があった︑にもかかわらず今回平氏が俊寛一人をゆるさなか ったのはうたてき事だ︵恐らくは︑よからぬ事が起こるに違

いない︶︑という文脈をもたらしているのである︒即ち︑屋代本

はアラマホシキ類話︑覚一本はうたてき逸話と︑説話の

意味づけを全く異にしている︒屋代本に即していえば︑ ﹁頼豪﹂

を アラマホシキ類話として提示する以上︑覚一本のような

﹁怨霊は昔もおそろしき事也﹂という不吉な結文を施すわけにい

かなかったのであり︑偶々欠いているという筋合のものではな

い︒ところが︑屋代本・覚一本は既に

  今度ノ御産二不思議アマタ有ケリ⁝カ・ル不思議共ノ有ケル

  事其時脳弓共思バサリシカ共・後ニコン思合ル事共多カリケ

  レ⁝ロバ平丘ハ不覚       り  と﹁皇子の将来を不吉に予言する︑平氏滅亡への伏線﹂を設定し

ていたし︑ ﹁大塔建立﹂の未済︑即ち﹁頼豪﹂の直前にも﹁但シ

悪行アラバ子孫マテハ叶マシキソヨ﹂という明神の託宣を記して

いるのである︒しかもこれらは語り系本のみに見られる表現であ

る︒とすれば︑そうした統一を破る﹁后腹ノ王子ハアラマホシキ

御事也﹂という説話把握は︑屋代本内部に根ざしたものというよ

り︑先行本文の規制力に由来する可能性が強いであろう︒

 屋代本はこの前後の部分にも本文批判上の問題点が多い︒

 ○中宮御産の折の重盛・邦綱の神馬献上を屋代本は記事の集約

(9)

      ︵18︶ 化により︑単なる進物と化す誤りを生ぜしめている︒

 ○御産平安による︑諸僧への勧賞の部分︒       ④   御修法ノ結願二勧賞トモ並行・仁和寺宮ハ東大寺修造セラル

  ヘシ・井後七日ノ御修法大元ノ法ノ灌頂興行セラルヘシトソ      @      ︵ママ︶   聞ヘシ・御弟子覚清僧都法印二挙ラル・座王宮ハ部品弁牛車

  ノ宣ヲ申サセ給フ・仁和寺宮ノ六尺サセ給ニヨテ・御弟子法

  眼円良ヲ法印ニナサル

傍線部④︑長門本も﹁東大寺﹂とするが︑正しくは﹁東寺﹂︒傍線

部◎︑諸注釈に︑史実に徴すれば﹁御弟子豪球法印︑権大僧都に

上せらる﹂とあるべきとする︒延長盛四の国本の記述は史実に適

う︒白石一美氏は︑覚一本・屋代本等の叙述は﹁文芸的虚構﹂で

あり︑.﹁虚構の知的冷却﹂が四部本等の史実に合致する記述かと

するが︑何を意図した﹁虚構﹂なのか判然としない︒これはむし

ろ︑氏は退けているが︑円良の法印叙任に﹁形式合致の韻律整備

上の改窟﹂とみるか︑あるいは法印から権大僧都へ︑という例の

少ない叙任を疑問とした後人が︑僧都から法印へという一般的な       ︵19︶ 叙任の形に改めたと考える方が妥当であろう︒

 猶︑座主宮が仁和寺宮の横槍にあい︑希望を達成できなかった

との記述をめぐって︑白石氏は

  史実はともかく人間の道理として宮は無念であったに相違な

  い︒円良には辛うじての法印叙位との感を我々は懐く︒ ︵中

  略︶作者の感情を分析するに彼は円良叙位を慶ばぬ︒心中に   法印昇進への妬視があるか︒天台宗の宮・急送を財めて秘か   に感情の満足を味わいつつ己が推挙への希望を語る真言関係   者の存在も考えられよう︒

﹁大塔建立﹂と﹁頼豪﹂︵今井︶   ︵20︶ とする︒円良に焦点をあてて前掲の文章を読めば︑円良の叙任は 偶然の幸いしたものだとして︑氏のような解釈も可能かと思う が︑ここはやはり両宮の確執を要点とすべきで︑見方によっては 座主宮に同情的ともいえる︒しかも円良に焦点をあてた場合で も︑この件を天台・真言の対立という図式の中においてとらえる のが必ずしも穏当とはいえない︒座主宮は︑先に﹁御輿振﹂の責 任を間われ辞任を余儀なくされた明雲座主の跡を襲った人物であ り︑山門内部でも宮への感情には複維なものがあった筈だからで ある︒氏は以下﹁大塔建立﹂ ﹁頼豪﹂と続く一連の記事を︑天台

.真言の抗争の中において読み解くのであるが︑その前提の一

つ︑気比厳島金胎両部説への私見は先に述べた︒また︑ ﹁頼豪﹂

は同じ天台宗とはいえ︑山門寄りの立場からする寺門との対立を

描くものであり︑これを一律に天台宗批判と扱ってよいか疑問で

ある︒同氏の天台・真言の抗争輝という読みとりは︑延慶本の構

成にはあてはまらないし︑屋代本のような構成をとる場合におい

ても︑該説話が天台・真言の抗争を背景に﹁勧進用﹂に利用され

た可能性がある︑というにとどめるべきではなかろうか︒

 ○皇子誕生の祈請

  太政入道・此御娘后二立給シカバ・如何ニモシテ王子ヲ計量

  奉・位二付奉リ・入道外祖ト仰ヲカレムトテ・先山王二様々

  ノ大願ヲ立・嘗祈申サレケレトモシルシナシ鼠壁奉神二

  町回サントテ・厳島二月詣ヲ始テ・祈申サレケレハ・中宮聴

  御懐妊アテ・

この部分︑四部本は次のようである︒

  建礼門院内へ参りたまひし時︑后に立たせ御在しければ︑入

  道思はれけるは︑何かにも為て皇子御誕生有て位に即け奉

三七

(10)

長崎大学教育学部入文科学研究報告 第二九号

       ④i り︑外祖走て孫の世まで手に把らむと思ふ心御しけれは︑二

位殿日吉へ種々の御願を立てて︑百日祈り申されけれども︑       など 御示現無ければ︑入道言ひけるは︑我が祈り申さんに何か叶

はざちむとて︑愚み奉られたる安芸の厳島へ日詣を始めて参      ◎   られけるが︑六十日の内に王子御誕生有りけり︒

四部本の傍線◎は︑例えば延慶本のように︑ ﹁三ケ月か内に中宮

た\ならす成らせ給て﹂と懐妊をいうのが正しいと思われるが︑

今問題にしたいのは④の方である︒ ﹁入道﹂が外祖にならんと思 ったのに︑なぜ入道に先んじて﹁二位殿﹂が祈請したのかという

疑問が生.じよう︒この点︑延慶本は﹁入道・二位殿﹂夫妻で祈請

している︒他方︑先に示した屋代本では山王に祈請したのは清盛

自身ということになる︒屋代本が﹁子羊神﹂として﹁我﹂を補訂

しているのは︑単なる脱落であったというよりは︑すべて清盛の

行動であれば特に﹁我﹂とことわる必要はないと判断していたた

めかもしれない︒ところが︑屋代本の形では新たな疑問が生じ .る︒清盛はなぜ最初から﹁濡諸神﹂に祈らなかったのか︒覚一本

の段階に至り︑山王祈請のことを全く記さなくなるのは︑こうし

た疑点の解消をはかったもののように思われる︒従って︑ここで

も延慶本の本文が筋の通ったものとして浮かび上ってくる︒

 ○﹁頼豪﹂の直後の記事﹁十二月廿八日王子春宮二立セ給フ︒

伝ニハ小松内大臣重盛公トソ聞給ケル﹂の史実からの乖離も一種

の集約化に基づくものである︒因に延慶本は﹁十二月八日皇子親

王の宣旨を下さる︑・十五日王子皇太子に立せ給ふ︑十四日親書に

は小松内大臣︑大夫には右大将宗盛卿︑権大夫には時忠卿そなら

れける︑いみしかりし事功也﹂とある︒ 三八

 以上︑屋代本の形が三態ではあり得ない︒

    ※

 又︑長門本の形態にも問題がある︒長門本は﹁大塔建立﹂の前

後に長大な独自記事をもつが︑中でも後者の︑ ﹁厳島大明神と申

は︑旅の神にまします﹂に始まる厳島縁起については︑これが   後の増補であろうことは長門本・盛衰記以外の諸本にその類

  話をみないという理由のみならず︑例えば両本が厳島社の廻

  廊を大塔建立条で百廿間︵延慶本も掛戸間︶とし︑厳島縁起

  の条では百八十間とすることにもその理由を求められよう︒

  両本には異種の伝承が混在しているのである︒       ︵12︶ という︑白石氏の指摘がある︒また同縁起の末尾に﹁かくのごと

くれいげん厳重の神にまします間︑院も御信敬ましますにや﹂と

あるのが注目される︒白石氏は﹁院﹂を︑鳥羽院もしくは白河院

との関連でとらえるが︑実際に厳島に詣でたという点で後白河院

・高倉院をこそ想定すべきだろう︒殊に平家物語に︑巻四・五の

二度にわたって描かれている高倉院をさす蓋然性が高い︒この事

は先後出に直接論拠を与えぬが︑長門本の厳島縁起︑ひいては

﹁大塔建立﹂が巻四の﹁厳島御幸﹂に深いつながりをもっという

点で注意したい︒

 厳島縁起に続くのが﹁頼豪﹂である︒長門本の﹁頼豪﹂も前述

の屋代本と同じく﹁后腹の皇子はもっともあらまほしき事なり﹂

という一文で始まるが︑その結びは﹁頼豪ゆゑなきもうしうにひ

かれて︑多年の行こうをすて︑畜趣の報をぞ感じける︑かなしか

りける鯨骨︑つ\しむべしく﹂とあり︑首尾一貫しない︒この

点延慶本も同断といえそうだが︵前記大系本校異補記のいう説話

集への逸脱は︑この点をとらえたもの︶︑延慶本は長門本と異な

(11)

り︑清盛厳島祈請と﹁頼豪﹂との間に﹁大塔建立﹂を挿入してい

ない︒延慶本にあっては﹁后腹の⁝﹂の一文は何よりも先︑ ﹁誠

に代々の后宮詣渡せおわしましけれども︑皇子誕生の例希なる事

也﹂という前文に直接続くのであり︑幽遠徳次郎氏の指摘するよ

 ︵22︶ うに︑清盛祈請を描く章の結びの句としての機能が本来のもので

あって長門本はこれを改作したものであると考えられる︒

    ※       ④  四部本は﹁頼豪﹂を﹁抑︑后腹の王子を祈り出だし奉る事度々        ◎ を得たり︑白河院の御時⁝﹂と始め︑ ﹁同二年十月九日に皇子御        誕生有りけり︒即ち堀河三三なり﹂と終える︒傍線◎は﹁同三年

七月九日﹂の誤り︒閥題は④である︒白河から安徳に及ぶ十代の 天皇の中︑降誕時︑生母が中宮・皇后だったのは︑堀河・崇徳・

後白河・安徳の旧名︑ ﹁稀﹂というべきか︑ ﹁度々﹂というべき

か︒いずれにせよ四部本は后腹の皇子誕生の例が﹁度々﹂という

ところに焦点を絞るのだが︑はたして﹁頼豪﹂がその例話として

ふさわしいものかは甚だ疑問である︒前項﹁厳島御幸﹂及び注4

に記した﹁大塔建立﹂中の挿入旬のあり方を併せ判断するに︑四       タ 部本の問題の文章は﹁誠に代々の后宮余渡せおわしましけれど

も︑皇子誕生の例稀なる事也﹂という延慶本のような先行本文

︵長門本・盛衰記には無し︶を改変したものと考えられる︒その

場合︑ ﹁度々﹂というのは前記四人の天皇等を念頭においたもの

というより︑ ﹁頼豪﹂において賢子が記文・堀河の両皇子を出産

したとある事に基づくのであろう︒

   ※ 本項の始めにも述べたように︑

﹁大塔建立﹂と﹁頼豪﹂ ︵今井︶ 延慶本のあり方にもなお問題が 残らぬわけではない︒ ﹁后腹の皇子は尤もあらまほしき御事なる

へし﹂が前章段.の結びを意図していたとしても︑これに続いて

﹁頼豪﹂−が存在することに変りないからだ︒延慶本の﹁頼豪﹂も

また原態そのものではないのかもしれない︒しかし︑当面︑ ﹁頼

豪﹂潭そのものとしては本来の首尾をととのえている︑とは言え

そうだ︒ ﹃愚管抄﹄巻四にも溶岩諌を載せ︑ ﹁⁝堀河ハイデキサ

セオハシマシテ御位ニハツカセ給テ︑ヤガテ鳥羽院又出キオハシ

マシテ継体一日ズヲハシマスナリ︒コノ事ハスコシモカザラヌマ

コトドモナレバ︑山法師ハ一定ヲモフトコロフカ・ランカシ﹂と

締括っている︒一見︑屋代本・四部本の結びに近いかのようであ

るが︑ ﹃愚管抄﹄はまた︑

  白川院御ムスメニ郁芳門院ト申女院ヲハシマシケルが云フバ

  カリナクカナシフヲモイマイラセラレケルニ︑猶三井ノ頼豪

  ガ霊ノツキテ︑御モノ・気ノヲコリケルヲ︑三井ノ増誉︑隆

  明ナドイノリ申ケレドカナハザリケレバ︑山ノ良真ヲメシ

  テ︑中堂ノ久住者二十人グシテ参りテ︑イミジク祈ヤメマイ

  ラセテ︑ヨロコビヲボシメシケル程二︑ニバカニウセ給ニケ

  リ○ と︑頼豪の怨霊がζの後も回ったことを記しとどめているのであ

︵23︶

る︒

 加えて︑堀河院誕生で筆をとめる四部本・屋代本等と異なり︑ 延慶本は一図・即位を経﹁されともをそろしき事共有て御在位廿

六年嘉承二年七月十九日御歳三九にて法皇に先立まひらせて崩御

なりにぎ︑是も頼豪が怨霊の至す所とそ聞へし﹂と︑その死去に

まで語り及ぶのであるが︑水原一氏﹃平家物語上﹄謝頁補説に︑

堀河院の死と鉛管の怨霊とのかかわりへの言及が︑その死の床に

三九

(12)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二九号

奉仕した典侍長子の﹃讃岐典侍日記﹄にも見られる︑との指摘が

ある︒  ﹁頼手﹂はこうした基盤の上に︑まさに頼豪の怨霊の話として

伝承されていたものと思われ︑延慶本はその本来の形を損なわな

いで採録しているのである︒先述の延慶本の構成の感ぜしめる難

点は︑延慶本が該説話を摂り入れた最初の形である︵従って原態

には﹁頼豪﹂がなかった可能性もある︶と考えることにより解消

するものと思う︒

 延慶本が﹁頼豪﹂をとり入れた意図は︑清盛夫妻が皇子誕生を

日吉に祈って叶えられず︑厳島祈請によって果たされた︑とある

直前の記事の合理化であったと推察する︒即ち︑敦文の例のよう

に山王以外に祈請して得た皇子は不吉であり︑堀河院とて最初に

犯した誤︵頼豪︶が結局は災いした︒翻って︑清盛夫妻が山王に

祈って皇子が得られなかったのは︑山王に皇子をもたらす力がな

かったのではなく︑新生の皇子︑ひいては平氏の将来の危ういこ       ︵斜︶ とをあらかじめ暗示するためであった︑となろう︒

    ※  ﹁頼豪﹂の本文展開を簡単にまとめれば︑延慶本の形を受け︑

四部本・屋代本以下それぞれの方途で前後の記事との整合をはか

り︑覚一本の形態に至って︑結果的に︑該説話導入時の︵延慶本

の︶意図を復元した︑という事になる︒

以上︑ ﹁大塔建立﹂ ﹁頼豪﹂の二章段を中心として諸本のあり 四〇

方を検討し︑延慶本の古態性を確認してきた︒一方︑四部本の本

文形態についての諸家の評価は未だ完全な結着をみていないが︑

小稿の限りにおいても︑水原一回が一貫して主張してきたように       ︵25︶ 延慶本のような先行本文を想定せざるを得ない︑といえる︒但 し︑四部本のもう一つの大きな特質である﹁史実性﹂については       ︵26︶ ﹁罵る程度の決着はついた﹂との判断もあるが︑猶検討の余地が

あるように思う︒いま見通しのみを述べておくならば︑四部本は

果たして史実に正確であることを一義的にめざしたものか︑ ﹁史

実性﹂なるものを改めて四部本自体の構想に即してとらえ直す必

要がある︑ということである︒

︵1︶使用テキストは以下の通り︒延慶本︵白帝社刊活字本︶︑長門木

  ︵名著刊行会刊活字本︶︑四部本︵汲古書院刊影印本︑巻四は文学

 34の11所収の翻刻︒但し︑小稿での引用は服部幸造氏の釈文i軍記

 研究ノートに連載中1に従った︒︶闘乱録︵未刊国文資料︶︑盛衰

 記︵博文館刊活字本︶︑屋代本︵桜町社刊活字本︶︑平松家本︵清

 文堂刊活字本︶︑鎌倉本︵汲古書院刊影印本︶︑竹柏園本︵八木書

 旧刊影印本︶︑覚一本︵日本古典文学大系32︶︑百二十今回︵新潮

  日本古典集成︶︒

︵2︶ 白石一美氏﹁平家物語大塔建立小考−天台・真言の抗争1﹂

  ︵宮崎大学教育学部紀要3839合 昭51・3︶に﹁胎金両部﹂という

  用語をとらえて︑ ﹁金胎︵果←因︶ならぬ胎金︵因←果︶とまた巻

  五鍬蝿にも記し︑外宮ならぬ客人宮を金剛界と記す点に長門本加筆

 者の立場が窺われ天台的である︒熊野或いは時衆の如きか︒﹂との

(13)

  指摘がある︒確かに胎金は台密の用語であるのだが︑同論文の﹁さ

  て寺門すなわち三井寺は熊野に関係深く︑これより前︑寺門の祖た

  る円珍は熊野に籠り︑権大僧都増誉以降の代々の三井派修験相承者

  の熊野支配は周知のところである︒﹂との記述と併せみると︑氏の

  言う﹁天台的﹂とは寺門派をさすように受けとれる︒いま︑④で山

  門を省き︑◎で山門を三井寺にすりかえている長門本の立場は︑事

  が騒動の企てだけにむしろ山門擁護と思われるがいかがであろう

  か︒︵但し︑この騒動が︑実は三井寺を中心とする寺院連合勢力の白

  河・高倉両院奪回計画によるものであり︑山門はこれに全大衆の総

  意を得るには致していなかった一村井康彦氏﹃改訂平家物語の世界

  ﹄徳間書房昭52・5 脇頁1ことを考えれば︑単純な山門椀護とは

  できない︒︶密教の事情に疎いのであるいは感違いをしているかも

  知れない︒御示教を請う︒

︵3︶ 服部氏の釈文の注記に﹁底本ノ不明箇所ハ︿ ﹀ヲ付シ︑判明ス

  ル限り延慶本・長門本・盛衰記デ補ツタガ︑ 一々コレラ注シナイ﹂

  とある︒今都合で︿ ﹀を︵ ︶で示した︒

︵4︶ 同様に四部本が余所の表現を利用したと思われる箇所が︑巻三

  ﹁入道厳島を崇め奉る由来の事﹂ ︵大塔建立︶にある︒ ﹁彼の社の

  体たらく︑昼は干潟にて⁝海畔の鱗に縁を結び給ふらんと思ふも哀

  れなり﹂とある部分だが︑類似文を闘静録・延慶本・長門本等︑い

  ずれも吐下卒都婆流しの中にもつ︒渥美かをる氏﹃平家物語の基礎

  的研究﹄螂頁は︑ ﹁これはすぐあとに続く厳島託宣を美しく崇高に

  描こうとした︹四︺の創作であろう︒︹屋︺以下諸本がこれをく卒都婆

  流V︵巻二︶に借用したのではなかろうか﹂とするが︑逆であろ

  う︒﹁思ふ﹂主体︑四部本では不明で話者の地の文ということにな

  るが︑前後には斯様の感懐を述べる文章はなく異質だからである︒

  巻二にある延慶本等ではこれは康頼ゆかりの僧の感懐として問題は

  ない︒

﹁大塔建立﹂と﹁頼豪﹂ ︵今井︶ ︵5︶ 白石一美氏﹁盛衰記・長門本の厳島縁起﹂ ︵時衆研究55 昭48・   3︶は﹁盛衰記巻13所収の厳島縁起と長門本のそれとは互に直接の   関連があるわけではなく︑両者は中世小説﹃厳島之御本地﹄どもの   末尾︵垂迩部分︶のある時期における説話発達の一段階を夫々示し   ている﹂とする︒これに異論あるのではないが︑ ﹁大塔建立﹂に続   けて厳島縁起を語るというあり方には何らかの影響関係を想定する   必要があると思う︒

︵6︶ 武久堅雪﹁平家物語読み本系諸本の成立過程−延慶本・長門本か

  ら源平盛衰記へ一﹂ ︵国語と国文学55の1 昭53・1︶は︑﹁侍り﹂

  という用語の分布の分析を方法として︑結論的に﹁盛衰記は延慶本

  ・長門本が現存形態を整えた後に︑これらをも参照して集大成され

  た﹂ことを確認するとともに﹁盛衰記に流れ込むもう一つの河︑四

  部合戦状本・源平闘浄録の問題については︑それが一筋の河と呼び

  得るか否かの課題をも含めて︑問題を処理するに耐える方法の模索

  を今少し続けねばならない﹂としている︒

︵7︶ 武久堅氏﹁平家貞・貞能父子﹂別冊歴史読本4の2 昭54・4

︵8︶ 両名は清盛腹心の部下としてしばしば登場している︒中︑盛国の

  経歴の問題点を青木三郎氏﹁平家の郎等平盛国について﹂ ︵解釈21

  の6 昭50・6︶が論じている︒ ﹁平盛国という人物は二人存在し

  たということになる︒そして︑吾妻鏡の編者は一時期共存した二人

  を一人と島人したが故に後世の者を誤まらせることとなった﹂とい

  うのが氏の論点であるが︑平家物語に登場する盛国が文治二年当時

  七十四歳であったという点︵吾妻鏡︶には従っている︒これによれ

  ば久寿三年当時盛国四十四歳であった︒

   猶︑家倉は四部本及び語り系諸本では﹁殿上闇討﹂に登場後︑巻

  二に御輿振の処分者交名に﹁同家僅僅簸畑鰯輔蘇世語麟﹂とあるのみであ        や   る︒傍線部延慶本﹁故筑前入道家貞﹂︑長門本﹁筑前入道家貞﹂︑           盛衰記﹁故筑後入道家貞﹂と多く︑死亡を確認しているにもかかわ

四一

(14)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二九号

  らず︑巻七・九などに登場し︑一谷合戦討死の交名に名を留めると

  いう奇妙な現象をもつ︒延慶本﹁大塔建立﹂への登場も右のことと

  の関連で検討を要する︒

︵9︶ 白石氏注2の論文に︑ ﹁外孫の皇子︵後の安徳天皇︶誕生という

  清盛の嘉例に盛国を添たか︒西国息男と厳島内侍結婚し︑長寛二年

  孫娘誕生︒ 平家納経加粉融には歯質の署名が︑承安三年八月日調

  

iの二醤鑛にもその名が夫々あ倹ことは信仰に属ゑ清鯖運

  由来讃として︑当該説話を現世利益的に把握していると私は思う︒﹂

  と指摘がある︒但し︑傍線部は先行論文︑谷信一氏﹁平家と美術﹂

  ︵古典の窓6 昭39・3︶の誤読︵長寛二年生誕の御子姫君とは︑

  後に巻六﹁廻文﹂に登場する清盛の娘をさす一﹃全注釈﹄中巻珊頁

  参照︶ではなかろうか︒         ︵10︶ 御者呪言氏﹃平家物語略解﹄3頁︒       3 ︵11︶ ﹁平家物語大塔建立小考﹂

︵12︶ 冨倉氏﹃平家物語全注釈上巻﹄帝号頁︒佐々木氏﹁﹃大塔建立﹄

  について﹂ ﹃平家物語の達成﹄ ︵明治書院 昭49・4︶所収︒

︵13︶ その意味で武久補導﹁食盛粉河詣の成立一延慶本﹃平家物語﹄第

  三次加筆の徴証1﹂ ︵日本文芸研究28の1 昭51・3︶の﹁書写年

  代の不明な諸本のいくつかを︑直接の資料として︑平家物語の十三

  世紀を︑史的に跡づける方法は︑諸本の成立年代についての見解の

  揺れを︑そのまま成果にだき込むことになりやすい︒むしろ︑謎の

  百年間を︑確かにだき込んでいるはずの︑延慶本の︑なるだけ客観

  的な本文分析を通して︑生成︑成立︑展開の︑仮説的三段階を︑跡

  づけて捉え︑これに︑成立年代不明の諸本のいくつかを︑その特徴

  に従って︑史的に位置づけてゆく方法が︑今後は試みられることに

  なろう︒﹂という提言が注目される︒

︵14︶ 金子金治郎氏﹁平家物語と厳島﹂古典の窓6 昭39・3︒

︵15︶︵17︶ 山下宏明氏﹁足摺日︵平家物語評釈二十六︶﹂解釈と鑑賞35 四二

  の5 昭45・5︒

︵16︶ 渥美かをる氏﹃平家物語の基礎的研究﹄㎜頁には以下の説明があ

  る︒    清盛の厳島祈願による男子出生潭の密話として﹁頼豪﹂が挿入さ

   れ︑これが終るに当り︑本筋の話へ戻そうとした増補文である︒

   ︹屋・平︺に欠け︑ ︹鎌・竹・覚︺にはある︒︹屋・平︺は多く

   の場合︑付随説話を述べたあと︑必ず表記の様なつなぎの文を忘

   れず︑本筋に話を戻すのだが︑此処は強しく欠けているのであ

   る︒        ︵18︶ 山下宏明氏﹃平家物語研究序説﹄14頁︒

︵19︶ ﹃仁和寺諸司家記﹄ ︵群書類従零墨五十九︶により︑囚︵権︶大

  僧都から法印に︑圖法印から権大僧都に︑という二つの事例を調査

  すると以下の様である︒猶︑次の二点を条件とした︒①︑囚︵権︶

  としたのは︑権大僧都←法印←大僧都という叙任の例が見当らぬこ

  とから︑権大僧都もしくは大僧都から法印に叙任した事例という意

  味である︒権大僧都から法印となった後は︑権僧正に転ずるのが普

  通のようである︒②︑事例は︑ ︵権︶大僧都と法印の叙任がともに

  確認できるものに限る︒従って︑覚恵のように︑少僧都←法印←権

  僧正という例は除外した︒

  囚禅助・成助・能助・益益・了運・信遍・実定・宏信・印性・房円

   ・街助・頼助・頼恵・興言・寛助・実鍮・守恵・信謹・温覚・道

   融・練融・守助・言忌・寛遍・実義・三遍・勝恵・長信・仁謹・

  想望・真恵・禎喜・経範 以上三十三名︒

  国仁恵・守喩・良円・書成・定豪 以上雷名︒

  問題の言成も国の例外的ともいえる事例に属するわけである︒       眼駿   又︑延慶本に﹁御弟子覚成法印︑権大僧都に挙せらる﹂という傍書

  があるのも︑後人がこの叙任の形に疑問をいだいた一つの例とみな

  しうるであろう︒屋代本はこれを実際に改めてしまったものと考え

(15)

  られる︒

︵20︶ ﹁平家物語大塔建立小考﹂

︵21︶ ﹁盛衰記︒長門本の厳島縁起﹂

︵22︶ ﹃邸麟同席平家物語﹄ ︵昭10・2初版 昭48・1白帝社再発行︶解

       題04頁︒    1

︵23︶ 平家物語﹁頼豪﹂に︑延長盛四の各本にあって︑屋代本以下の語

  り系本には見られぬ次の記事がある︒

    さしもやはと思はれける程に皇子︵敦文一今井注︶常は悩せ給け

    れは︑一乗寺御室︵戸︶なむと云智謹の門入貴き僧共を召て加

    持ありけれとも叶はす

  右は﹃愚管抄﹄にもない︒この一乗寺・御室戸というのは﹁三井ノ

  増誉・隆明﹂のことである︒ ﹃愚管抄﹄と﹃平家物語﹄ ︵特に延慶

  本︶との先後関係はまだ確定していないが︑ここは延慶本等が﹃愚

  管抄﹄郁芳門院死去の折の記事を敦文死去の中にとり込んだとも考

  えうる︒

︵42︶ 天台座主慈円の手になる﹃愚管抄﹄が平家物語と同じく二位殿の

  日吉祈請を述べる一方で︑ ﹁海ニシヅマセ給ヌルコトハ︑コノ王ヲ

  平相国イノリ出シマイラスル事ハ︑安芸ノイツクシマノ明神ノ利生

  ナリ︑コノイツクシマト云フハ龍王ノムスメナリト申ツタヘタリ︑

  コノ御神ノ︑心ザシフカキニコタヘテ︑我身ノコノ王ト成テムマレ

  タリケルナリ︑サテハテニハ海ヘカヘリヌル也トゾ︑コノ子細シリ

  タル人ハ申ケル︒コノ事ハ誠ナラントヲボユ︒﹂と︑安徳天皇の入

  水という結末が厳島祈請の必然的な帰結であったことを確認してい

  る事と︑或意味で重なる見方といえる︒

︵25︶ ﹁﹃四部合戦状本平家物語﹄批判一延慶本との対比をめぐって

  一﹂ ﹃平家物語の形成﹄ ︵加藤中道館 昭46・5︶︒ ﹃延慶本平家

  物語論考﹄ ︵加藤中道館 昭54・6︶に加筆再録︒

﹁大塔建立﹂と﹁頼豪﹂ ︵今井︶    猶︑武久堅氏﹁読み本系諸本の成立と展開﹂ ︵講座日本文学平家   物語上 昭53・3︶は︑四部本独自の﹁云々﹂を分析して︑台本の   抄出本文としての性格を論じている︒

︵26︶ 麻原美子氏﹁﹃平家物語﹄諸本研究の展望﹂講座日本文学平家物

  語上 昭53・3︒

      ︵昭和五十四年十月三十一日受理︶

四三

参照

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